ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

外部『MA』感想

外部公演

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『MA』
脚本・歌詞/ミヒャエル・クンツェ
音楽・編曲/シルヴェスター・リーヴァイ
演出/ロバート・ヨハンソン 遠藤周作原作「王妃マリー・アントワネット」より

前回観劇したときは、カーテンコールでマリーとマルグリットが同時に出てくるわりに、タイトルは無理に「マリーアントワネット」と読ませているし(そもそもマリーのイニシャルってMAではなかろうに)、作品内でマリーとマルグリットが対等な立場かつ交換可能な存在として描かれていないではないか、と思ったのですが、そのあたりは解消されていますかね、と期待して見ていましたが、解消されてしませんでした。残念。
観劇後のお客さんの中には「異母姉妹設定いる?」と言っている方もいらっしゃいましたが、その設定がなければタイトルが「MA」である必要はないし、もっと言えば架空のキャラクターであるマルグリット・アルノーの存在意義がなくなってしまうので、この作品をこの作品たらしめるためには、やっぱり必要な設定なのではないかなと思っております。
それなのに、そのあたりの脚本、演出がほとんど改良されていなかったのはどういうことだろうとも思いますが。
変えないなら再演する意味、あったか?(こら)
そんなふうに言いつつ足を運んだのは、この作品、音楽がいいんですよねー。
それくらい演出には大きな変化がなくて、思わず口をへの字に曲げてしまう……。
マルグリットがオルレアンとエベールを告発する場面は痺れるし、躓いたマリーにマルグリットが手を差し伸べる場面も素敵なのですが、いまひとつ物足りない。

マチネが花總マリー、ソニンマルグリット、田代フェルセン、小野田オルレアン、上山エベール。
ソワレが笹本マリー、昆マルグリット、甲斐フェルセン、上原オルレアン、川口エベール。
ダブルキャストはとりあえず全部観られましたが(子役のトリプルキャストはさすがに無理だった……)、外部『1789』ファンとしてはソニンマルグリットと上原オルレアンの組み合わせで見たかった気もします。
私はマルグリットが大好きで、ソニンが好きだから当然ソニンマルグリットは好きですが、昆ちゃんもメジャーデビュー作である『ロミジュリ』を観劇してから、ずっと追いかけているので、昆マルグリットにも好感がもてました。
メインヒロインはマリーのようですが、むしろこの作品はもっとマルグリットに焦点を当てても良いのではという気さえする。

前回、吉原オルレアンが大正解で、なんなら田代フェルセンは食われていた気さえする。
坂元エベールも私は大好きで、もはやこれは好みの問題かと思われる。
彩吹ベルタン、駒田レオナールは続投。このコンビ、本当に好き。
ベルタンのピンクの髪、豹柄のドレスを考えた人は天才。
外部『ロミジュリ』初演もキャピュレット夫人を演じた涼風が赤×ヒョウ柄のドレスを着ていて、もうそりゃ格好良かったですよ。
私自身はヒョウ柄なんて全く着ないのですが、舞台の上で個性的で奇抜な女性がお召しになっているのを見るのは好きなんですよね。

ダブルキャストはフェルセンが一番おもしろかったかな。
田代フェルセンは硬質な軍人像、甲斐フェルセンは懐の深い人間像がそれぞれ基盤にある。
だから、田代フェルセンは生まれ変わって平民だったとしても高貴なマリーに恋しそうだけど、甲斐フェルセンは平民に生まれ変わったら、もしかしたらマリーではなくてマルグリットに恋をするかもしれない、とさえ思う。
甲斐の軍人要素が全面に出ていないからでしょう。深い。

川口エベールは、そりゃもう当然うまいのだけれども、ちょっと役不足ではなかろうか、とさえ思ってしまった。
それこそオルレアン公もやれるのではないかしらん。
もっとも、渋いおじさんとしてのエベールという解釈は私の中ではとても新鮮でした。
大道具の階段を降りるときに木が剥がれたようですが、大丈夫だったでしょうか。
上山はいまいち押しが足りないような気がしました。

子守唄に気がつく場面におけるマルグリットの違いも興味深かった。
ソニンマルグリットは「何であんたが知ってるの?!」と高速で振り返りますが、昆マルグリットは「父親の、歌……?」みたいな感じで母親との思い出を思い出しながらゆっくり振り返る、という違いがあったように思います。
どちらも素敵。ソニンは本当にどちらも良い。好みからすると僅差でソニンかなという気もしますが、昆もとても宵。

オルレアンについては贔屓目もあり、上原氏のあの変態的な権力への執着がもうたまらなくて、堂々と歌う姿は俺の勝ち!を信じて疑わない雄々しい姿でございました。
高音も清々しいくらいに響いていたな。
久しぶりのミュージカルだからな、歌えて嬉しいのでしょう。これはみんな同じでしょうけれども。

そして、肝心のマリーですが、私は宝塚時代の花總(マリー、シシィ、スカーレット、クリスティーヌ)を散々っぱら見て育った人間なので、花總マリーは息をするように自然に見えることもあり、笹本マリーはやはり最初の登場は違和感があるのですが、マルグリットとの近さ、差異の僅かさ、運命がちょっと違ったら……というのは花總よりも表れていたと思います。
花總がお姫様すぎるのでしょう。いい意味でも、悪い意味でも。
実在した王妃や皇后の役を多く演じており、たぶんその人たちの歌だけで自分のディナーショーを開けるくらいにあるだろうから、なかなか平民育ちのマルグリットとの交換可能を示すのは難しいかもしれないし、そもそも脚本がそうなっていないのが何よりも悪い。

さて、音楽について。とにかく音楽がいいんですよね。
まさかの「100万のキャンドル」で泣いてしまった。
しかもソニンマルグリットだけでなく、昆マルグリットのときにも。マチネでもソワレでも両方泣いてしまった。
この歌、いいよね……。
ソニンマルグリットが舞踏会からくすねて来たケーキ、最初にすれ違う街人には、「ケーキを渡すかどうか」悩むのですが、完全にすれ違った後、やはり見逃せなくて振り返ってケーキを渡す。
次に渡すのは子供。その子供は、母親によかったね、と言われるのですが、その後、マルグリットは頼まれていないのに母親にも渡す。
そんなマルグリットが好き。
この場面は『レ・ミゼラブル』の大司教様の場面を思い出す。
銀の燭台を盗んだバルジャンを村人は責め立てるけれども、盗まれた当の本人は「銀の燭台を使って正しい人になりなさい」とバルジャンに語りかける。
私、あの場面大好きで、泣いてしまう。そういう思いやりがマルグリットにも感じられる。
マルグリットの貴族に対する怒りは、同時に悲しさも感じる。「どうしてこの人たちを見てくれないの、同じ人間なのに」と。
そしてマルグリットは知っている。「パンがないならケーキを食べればいい」と言ったのはマリーではないことを。
このあたりは大きいと思いますし、素敵な演出だと思います。

歌といえば1幕終わり付近の「ヘビを殺して」「もう許さない」あたりも好き。
舞台でしか曲を聞いていないのにすぐに思い出せる。
作品の中では「憎しみの瞳」が大切な曲ですが、こちらはなぜかプログラムに歌詞が掲載されていない。
とても残念。花總、笹本、ソニン、昆の女子会のタイトルにもなっている。
「憎しみの瞳会」「女子会ならぬ女優会」美しい4人。

前回、マルグリットはアントワネットの悪口ソング(「オーストリア生まれ~♪あばずれとは誰~♪」)を歌うときは、客席から民衆が出て来たのになあ、と前回の客席降りが恋しくてたまらない。
なぜならこの日はマチネもソワレもは通路席だったから(笑)。
早くそういうこともできるようになるといいですな。生オケなのはやはり嬉しい。
宝塚も早くオーケストラが復活するといいのですが。

さて、マリーとマルグリットの交換可能性について。
マリーと父親が同じマルグリットはもしかしたら自分が王妃になったかもしれない、マルグリットと父親が同じマリーは自分がストラスブールで便所掃除をしていたかもしれない。
観客だけではなくて、作品の中に彼女たち自身がそういう可能性に気がついてくれるといいのだけれども、そうではないのかな。
マルグリットは「なぜ、彼女 私じゃない~♪」と歌うので(昆が歌うとエポニーヌのようでもあります)、まったく気が付いていないというわけではないのでしょうけれども。
夏の舞踏会では、マルグリットがマリーのふりをする場面もありますので、やはりマルグリットは可能性には気が付いているのかもしれませんが。
マリーはあんまりかな……牢獄でひどい扱いを受けるところはあるけれども、窮屈ながらも穏やかな感じもあって、どうかなあ。

プログラムでは上原氏が「自分の罪はプライドと無知、というのは今のこの混乱した時代にも通じる」とのたもうておって、そうだよなあ、などと思うなどしました。
調べればすぐに出てくる時代だけど、何が真実かは自分で見極めなければならない。
自分で見極める力はどこで養うのか。
それはインターネットの中ではないと個人的には思う。
有り体に言えば、文学やもっとひろく文藝の中にこそあるのではないだろうか。
すぐに役に立たないとか言われますけどね。

そういえば、ベルタンのお店でドアマン?がカタコト口調だったけれども、前回もそうだったかな。
あんまり印象に残っていないのですが、あれはちょっといかがなものかと思ってしまった。どういう意図があるつもりだろうか……。
黒塗りと同様、ああいうのは差別につながりかねないから危うい表現かなとも思いました。
こういうことを書くから「教養のない人を馬鹿にしている」とか言われるのでしょうね、私。

マチネはカメラが入っていましたが、円盤化するのかなーどうかなー。
最近『1789』や『エリザベート』、『ロミオ&ジュリエット』も円盤化していますし、ありえるかも。
私は怖いもの見たさで初演を見てみたいような気はしているのだよ。
CDは出ていますが、どうなんでしょう。涼風、山口が出ていれば歌は当たりのような気もしますが。再演版もせめてCD出してくれればいいのに。

そういえば、ベルタンとレオナールは「ドイツ」に逃げると歌う一方で、マリーは手紙に「プロシア」と書く。
そういうものなのかな。不勉強でいかんな。

ソワレ公演はなんだか途中で勝手に扉が開いてしまう事件が2回あって、おやおや?と。
1回目は2幕国民議会でマルグリットが出てきて、扉が閉まった後。「女に任せられるか?」とみんなが騒いでいるときに、ふわっと扉が開いてナニゴトー?!と思ったけれどもエベールが何事もなかったかのようにそっと閉めておりました。さすが。
2回目はフェルセンとマルグリットが下手で話しているとき。「あの人と何が違うの?」と扉の向こうにいるはずのマリーを指さしたときに、これまたふわっと開きまして。
こちらはそういう演出なのか?と思うくらいでしたが、たぶん違うよね?あちこち空気の入れ替えをしていることも関係しているかも。
しかしこの場面の直前のマリーの黄緑の衣装は何か変ではないでしょうか。
太って見えるというかなんというか。
最初のドレスや水色のドレス、深緑のドレスなんかは最高なんですけどね。
またドレスを着て写真を撮るイベントにも参加したいな。

何はともあれ、無事に千穐楽を迎えられることをお祈り申し上げます。

月組『ダル・レークの恋』感想

月組公演

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グランド・ミュージカル 『ダル・レークの恋』
作/菊田一夫
監修/酒井澄夫
潤色・演出/谷貴矢

とても良かった。本当に、これぞ宝塚!という作品を見たという気分でいっぱいだった。
作品の内容そのものは「あんまりだ! あんまりだわ!」とライブ配信のときは叫びながら見ていたのですが、それにしたってラッチマンを本物の男性に演じられた日には、叫ぶだけでなく枕を投げつけたくなる。
これは本物の男性が演じないからいいんだ……美しくみえるんだ……そしてれいこ(月城かなと)のその演技力と美貌と破壊力がとにかくすばらしかった。

ラッチマンは思うに、水の象徴のような人間ですね。
「水は低きに就くがごとし」と孟子が言うように、ラッチマンはインドの王族という頂点にありながら、パリでは無頼漢へ、インドに戻ったときも庶民へと人間のピラミッド階層の下へ流れていく。
だからこそこの作品の水の精は美しい。

ラッチマンが水ならば、クリスナは太陽のような存在でしょうか。
「貴族の女は、いや貴族は」とカマラに貴族の生き方を諭す彼も過去に何かあったのかもしれませんが、王族としての在り方がぶれない。彼は恐ろしいくらいに貴族である。義務であるかのように。
上記はカマラが助けを求めたときの台詞ですが、ここのクリスナはカマラに異様に冷たい。
人質として、生贄になることを後押ししているような感じさえする。デュエットソングがありますが、突き放しソングだと思いました。
ラッチマンがラジェンドラであると明かされたとき、インディラも態度はぶれないのですが、王族の内輪話のときは主軸になって話を回すのに対して、兵士たちが来たときはどこか一歩下がっていて、矢面に立って話をするのはクリスナである。
本物のラジェンドラが表れたときも「奴こそがラジェンドラだ、捕まえろー!」と驚くほど手のひらを返すのが早かった。
お前が言うか?とも思ったけれども、そういう変わり身の早さ、カラっとした感じがラッチマンとは対照的だなと思った。

ラッチマンをラジェンドラだと思っているクマール一族の対応を憲兵隊は訝しむけれども、残念ながら観客のほとんどは王家の人間の考えていることはわからないだろうし、憲兵隊の方がまっとうなこと言っているだろ!?となる。
インディラも「私たちは王族です。憲兵隊の力は借りません」みたいなこと言うし。
王族というのはやはりどこか歪んでいる。身分制度というのはそういう歪みを産んでしまう。
今は身分による差別はないものとされているけれども、こういう歪みは誰もが持ち得ているものだろうなあ。

それにしてもラッチマンはカマラとの関係をどうするつもりでいたのだろう。
カシミールでの一夏の恋で終わらせるつもりはなかっただろうことはわかるのですが、自分もインド生まれなのだから、身分がどれほど強固に人々を縛るかはわかっていたのではないだろうか。
「世間はアルマのような人ばかり」というのはラッチマンこそ身に染みてわかっていて、それが嫌でパリに行ったのではなかったのか。
カマラがデリーのゴヤール王家の女官長になることもわかっていたはずです。
だからこそ、ラッチマンはどうするつもりだったのだろうというのが気がかりで仕方がない。
まさかカマラが女官長の座を捨てて、自分と一緒にいることを選ぶと思ったのだろうか。
それではあまりにも夢を見すぎではないか。
カマラ自身がそうしたいと思ったとしても、当然クマール一族は反対するに決まっている。
それがわからないラッチマンだとは思わないのですが。

カマラは「ハイラダバードに行けばマハラジアである自分の祖父もいる」と言ったときに、ラッチマンは「私は貴女のおじいさまとも面識がある」というようなことを言おうとしていた。
つまり、ハイラダバードに行ってチャンドラに会えば、ラッチマンの素性はおのずと明らかになる。
ラッチマンはチャンドラの口添えで自らの経歴を明かすことによって、カマラとの結婚を許してもらおうとしたのだろうか。
「氏素性も知れぬ」と言いふらしているラッチマンがいきなり「実は王族の身分で」と言ったところで誰からも信じられない。
だからチャンドラを頼みの綱としたのだろうか。
それはわからないでもないのですが、ちょっと他力本願なところがあるかなという気もしなくはない。
もちろんあのチャンドラはラッチマンとカマラの結婚を喜んで祝福したと思うのですが。

一方でカマラ自身はどう考えていたのだろう。
自分は王族の一人として、ゴヤール王家の女官になるために育てられてきたという自覚があるだろうし、女官長になるときももうすぐに近づいてきている。
けれどもここが結構謎で、「女官長になる」ということはインディラやチャンドラ、アルマなど周りの人間が囃し立てているだけで、本人がそれを望んでいるのかどうかはいまいちよくわからない。
もしかしたら本人でさえも「本当に自分が女官長になりたいと思っているかどうか」はわからないのかもしれないですが。
いかんせん、そういう教育を受けてきてしまったことが、カマラの意志を封じてしまっている。

そんなカマラがラストの場面でターバンはしているもののサリーを脱ぎ、パリジェンヌのような装いで冬のパリの街を歩き回るシーンは秀逸だった。
ラッチマンを探しているこのときの彼女はすでにインドのヒエラルキーや価値観から完全に自由でなくても疑問を持って、近代人たろうとしている。もしかしたらもう女官長になっているかもしれない頃合いだが、階級社会への疑問をカマラはしっかりとその胸に刻んでいるし、近代人としての自覚が芽生えている。
冬だから当然だろ?サリーは寒いだろ?と思うかもしれないけれども、カマラの付き人の女性はサリーを着用していた。
あれはカマラの決意の表れなのである。

だから主題歌の「君の心を教えて欲しい」というのは、ラッチマンもカマラも自分の心を打ち明けてお互いがお互いを愛していることを告げているのだから、二人の将来についてもっと考えなければならなかったということなのだろうか、と。
私も教えて欲しい。彼らがどうするつもりだったのか。
「ボタンのかけ違い」と言われるように、これは本当に些細なすれ違いによって起こったどうしようもない悲劇と言わざるを得ません。
愛していた人、愛し合っていた者同士が、憎しみの炎の中で抱き合う。
いつかはこういう日が来るかもしれないと思っていた。けれどもそれは憎しみの中ではなく愛情の炎に身を焼かれながら、のはずだった。
その憎しみが偽りから生まれたものだったとしても、そしてまだ愛情が残っていたとしても、憎しみを抱く前には戻れない。戻れるはずがない。

風と共に去りぬ』の中でバトラーは「スカーレット、そういう風に君は子供なんだよ。君は『すいません』と謝りさえすれば、長い間の悩みや苦しみがたちどころに人の心から消え去り、心の傷が治ると思っている。僕はね、スカーレット、壊れた欠片を辛抱強く拾い集め、それをのりで繋ぎ合わせ、繋ぎ合わせさえすれば、新しいものと同じだと思うような人間ではないんだよ。壊れたものは壊れたものさ。僕はそれを繋ぎ合わせるよりも、むしろ新しかったときのことを追憶していたいんだ。そして一生、その壊れたところを眺めていたいんだ」といいます。
ラッチマンは「一生壊れたところを眺めていたい」かどうかまではわかりませんが(そこまで自分を苦しめなくてもいいと思う反面、でもカマラのことは一生忘れないんだろうな、とも思う)、「壊れた欠片を辛抱強く拾い集めてのりで繋ぎ合わせさえすれば新しいものと同じ」とはとても思えない人間なのでしょう。
弟に王位を譲ることを決心したラッチマンはパリに流れついたのでしょう。
そしてまたミシェルの店に出入りしているのでしょう。
ミシェルにも、カシミールで出会った女性のこと、そしてひどく振られたこと、自分が身分を隠し続けていたことなどを酒の勢いもあって洗いざらい話してしまうのでしょう、何度も。
ミシェルはそれを聞いて、励ましはするだろうけれども、カマラと思しき人間がパリまでラッチマンを探しにやってきたことは伝えるだろうか、伝えないだろうなあ、そこはほら、女だから(笑)。
舞踏会の最初の場面、お互いに好意をもつ男女のペアで舞踏会を楽しみましょう、とカマラにたくさんの男が寄って来る中、「まさか他の男を選びはしませんね」とドドン!と出てくるところは、さながら「金貨で150ドル」(ツイッターでご指摘いただき、訂正しました)と言ってスカーレットを買うバトラーのようでもありました。

「ダルの湖 夜長けて」「昼はひねもす 夜はよもすがら」という歌詞は本当に美しいし、当然ですが、菊田先生は受けてきた教育が違うなということをまざまざと思い知らされる。
この歌詞は文語教育を受けてきた人の心から出てきた言葉だなという気がしてならない。
台詞も美しい「恋をしている人はただの男と女です」とな。あっぱれである。
どうしたらこんな美しい台詞とこんなにあんまりな展開を同じ頭で考えられるのだろう。脳みそどうなっているの。
でもこの言葉遣い、好きですよ。この展開、悪くないですよ。好きですよ><
しかし「来るんですか、来ないんですか」のあとに連れていかれるのが船の上というのも怖い。
いくら数時間前まで本気で愛していた男だったとしても、そんな逃げ場のないところに、今や敵になった相手と二人きりにどうして簡単になれようか。
その中でカマラは後姿のラッチマンに走り寄って抱き着くのだから、もうそれで許してあげてよ、ラッチマン。
それ以上はやりすぎだよ、ラッチマン……と思いながら見ていました。つらい。

女の方が身分が高いこと、情事の後のお祭り、妹の悲恋、身分の低い者同士の恋人の様子、他人によって明かされる女性の本当の身分……など、私が大好きな『霧深きエルベのほとり』との共通点も多くありましたが、これまた私が大好きな『金色の砂漠』のような雰囲気もあり、紫の女官の衣装はまさに『金色』にも出てきたものでしょう、とにかく好みでした。

ここからはキャストの感想。
主演のれいこちゃんはそりゃもう麗しいですよ。男前とか美しいとかいうよりは断然麗しいですよ。
宝塚でなくても十二分に通用する麗しさですよ。整い方がすごい。
そのうえでラッチマンを色気たっぷりに演じてくれるのだから、こっちは思わず身をよじってしまうのですが、本当に器しいですよね……。
ちなみにターバンの色には何か意味があるのでしょうか。私にはよくわからなかったのですが……。

くらげちゃん(海乃美月)も大変に美しかったです。れいこちゃんとの並び、本当に性癖に刺さる……好き……。
アクセサリーがまた独特で、指輪と腕輪が合体しているような銀色のアクセサリーは何というのでしょうか。
考えた人は天才だなと思いますが、あれは誰にでも似合うものではなかろう。
劇団の扱いがひどくてプログラムのプロフィールにくらげちゃんは掲載されていないのに、すぐあとのページのメッセージには顔を出している。
どうしてこういう扱いに差をつけるのだろう。ヒロインやで? プロフも載せたれや!と思うのは何も私だけではあるまい。
娘役を、ヒロインを大事にしてください。頼む。頼むで。

ありちゃん(暁千星)はペペル役として芝居全体を軽妙に引き締めてくれました。
メリハリがすばらしかった。梅田でいないのが残念すぎる。
歌もよくのびるようになりましたね。白いスーツがよくお似合いでした。あれはいい。

からんちゃん(千海華蘭)、れんこん(蓮つかさ)、るねぴ(夢奈瑠音)、やす(佳城葵)も、さすがでした。
もうどこにいても何していてもわかる。
からんチャンドラはかわいいし、れんこんは村人としてもラッチマンパパとしても活躍だし、るねぴはよく踊るし、やすなんか喋っただけで場をまとめる安定感は抜群だし。
やす、ああいうまとめ役、本当にすばらしくよく似合うよね。拍手だよ。
月組は安泰だと思わせてくれる。
ゆの(風間柚乃)は噂に違わぬ研30ぶりを発揮。
あの男前ぶりは一体どういうことでしょうか。すごいな。
梅田では役が変わりますが、またこちらも楽しみですね。
どんなペペルになるのでしょう。

こありちゃん(菜々野あり)の水の精の優雅さ、可憐さ、恋のはかなさ、すばらしかったです。
そらちゃん(美海そら)もどこにいてもわかりました。祭りの女もフィナーレも。
別箱ライブ配信は下級生までちゃんと映り込んでいて、大変よろしいです。
らんくん(蘭尚樹)の恋人を演じたちづるちゃん(詩ちづる)も良かったです。
ラッチマンにカマラが連れまれた後、このラジオンとビーナのカップルが挟まるのが、とても良くて、とてもつらい。
この場面が終わったら衝撃のすみれコードギリギリの場面だし……真ん中にあるのが幸せほわほわカップルなのが微笑ましくもあり、ラッチマンとカマラとの対比が辛くもある。つらい。

でもその日の翌朝、船場の階段から降りるカマラにラッチマンは「さあ、降りてきたまえ」手を差し伸べるし、カマラもその手を取る。
やっぱり好きなんだよなあ、それがわかっただけでいいじゃないって思ってしまうのは私が女だからかなあ。
ターバンを何重に巻いているの?という疑問から、しどけない姿で出てくるラッチマンとカマラがまたいい。
全然だらしない感じがしない。いやらしい感じももちろんしない。
そして漁村の祭りにまざって庶民として楽しむの、最高にいいよね。
カマラもここでなら幸せになれるかもって一瞬思ったよね。だから自分は庶民だというのだから。
しかしそうはならぬ。菊田先生は悪魔か?

そうして東京公演の余韻に浸っている間に今週末には梅田公演が始まります。
ありがたいことに梅田公演、見られることになりましたので、役替わりの感想はまたそちらで。
1回しか観劇できないのでしっかり目に焼き付けてきます。

外部『パレード』感想

外部公演

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『パレード』

作:アルフレッド・ウーリー
作詞・作曲:ジェイソン・ロバート・ブラウン
共同構想及びブロードウェイ版演出:ハロルド・プリンス
演出:森新太郎
主演:石丸幹二堀内敬子

本日、富山で大千秋楽ですね。おめでとうございます。
東京公演が好評で慌てて地元のチケットを買いました。4階席というだいぶ後ろの方でしたが、ほぼセンターだったので、オペラグラスなしで観劇。
好評だった役者はもちろんすばらしかったけれども、個人的に気になっていたのは誰も彼もが紙吹雪に言及しているところ。
なぜ最後に舞う紙吹雪がそれほどまでに印象に残るのだろうと思っていた自分の頬をぶってやりたい。
なんせ初演を見ていないですし、紙吹雪といったら片付けが面倒だから降ってくるにしても最後だと思うじゃないですか。
なんなら最後の最後ですよ。
それなのに、まさか、最初から、山盛りのふりかけみたいに降ってくるんですよ、カラフルな紙吹雪が。
しかもその中、杖をついている人までいる。
滑るのではないかと見ているこっちの方がひやひやするくらい。

かけすぎたふりかけみたいになっている紙吹雪の中、ずっと芝居が進む。
あの紙吹雪が使い回しではないらしいことも公式ツイッターで知りました。気合いが違う。
スカートにまとわりつくし、足は埋もれるし、もうバミリも何もあったものじゃないなと思っていたら、プログラムにも似たようなことが書いてありました。
そりゃそうだよね……舞台装置に挟まることはないのかしら。
盆もくるくる回っていたし、上手からは出たり引っ込んだりの道具はあるし。

史実通りに話が進みますから、ハッピーエンドではないし、もやもやするし、最後はあんまりすぎて泣くかなとも思ったのですが、むしろ泣きたのはルシールがピクニックのために面会に来たときで。
結果として最後の面会となったわけですが、あの唯一にして最高の幸福の場面で泣いてしまった。
あんなに幸せな場面ある?
卑怯だよね?
最初に「子作り」と言い淀んでいたことが、まさかこんな幸せな場面に繋がるなんて、誰が予想しただろう。

連れ去られたレオがラスト、木にぶら下がっている紐を見てもあまり動揺していなかったことも印象深い。
車に乗せられた時点でレオ自身がどうなるのかわかっていて、さらにそれを受け入れていた。
「無駄な抵抗はやめろ」みたいな言葉がよくあるけれども、レオはそういう感じで抵抗はしなくて、それでも最後まで「自分はやっていない」と主張を貫き通した。
静謐な抵抗の場面のように感じられた。

でもこの話、本当に他人事でなくて、今でも人種差別は根強く残っているし、日本ではあんまり人種差別はピンとこない人も多いだろうけれども、最近もニュースにある通り、女性差別をなかなか絶やすことができないのが現状。
人類は変わらず国籍、人種、性別、宗教の違いを乗り越えられない。
そう考えると『サパ』においてブコビッチが「違いをなくして一つになる」という理想を目指した理由も痛いほどよくわかるような気がして辛かった。
もちろんそれではダメなんだけど、こんなつらい現実を目の当たりにしたら、そう考える人が出てきてもおかしくないのではないでしょうか。

役者は安定安心の人材ばかりで、特に男性キャストはそのほとんどが『レ・ミゼラブル』(坂本健児、今井清隆、福井貴一)あるいは『エリザベート』(石丸幹二石川禅)に出演した経験のある人で、芝居、歌ともに水準を超えていたと感じます。
ルーシルを演じた堀内敬子さんは舞台では初見だったと思いますが、彼らと対等に渡り合っていたと思います。
そのルーシルが2幕で言った「そうでなければあなたはバカか臆病者よ」というセリフはこれから積極的に使っていきたいです。
それに対してサリーが「間抜けのファーストレディよりも臆病だけど正直者の元州知事夫人でいたいわ」と言うのも素敵。
出番が多いわけではないけれども、秋園美緒さん、良かったです。

反対に後味悪いという意味で印象に残っているのが「あんなくろんぼ一人逮捕されたところで、民衆の感情は収まらん」という検事(確か)の台詞です。
うわあああ、今でもありそう、こういうこと!と思ったら、わりとリアルに吐き気がしましたね。
正義や真実はどうでもええんかい!ってね。
伊藤詩織さんの話を思い出しました。
あれも胸糞悪い事件です。

ブラックフェイスにしなかったのも良かったと思います。

『パレード』を観劇したその夜に大規模な地震があって、ツイッターにおいて「◯◯人が井戸に毒もった」みたいなクソくだらない呟きを見てしまったときも大変胸糞悪かった。

資本主義の地獄を魅せるミュージカルが『貴婦人の訪問』であるならば、こちらは差別の地獄を魅せるミュージカルだな、と感じました。
だからこそ双方とも再演する価値がある。
我々はまだそれを乗り越えることができていないから。
見るのはつらい。辛いけれども、見なければならない。
そう感じさせるミュージカルでした。

雪組『fff』『シルクロード』感想2

雪組公演

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ミュージカル・シンフォニア『f f f -フォルティッシッシモ-』~歓喜に歌え!~
作・演出/上田 久美子
レビュー・アラベスクシルクロード~盗賊と宝石~』
作・演出/生田 大和

宝塚大劇場公演、後半戦の感想です。
前半戦の感想はこちら。

yukiko221b.hatenablog.com

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冒頭でナポレオン(彩風咲奈)は「余が求めるのは人間の勝利」と言い、ルイ(望海風斗)は「俺が求めるのは人間の勝利」と言い、「人間の時代」、つまり神の時代から解放された近代人らしく「人間の勝利」を目標に掲げる。
そこでゲーテ(彩凪翔)は問う。「だが何に?」と。
この答えが雪原で提示される。
ナポレオンは「苦しむために人間は生きている」と言うし、ルイも自分は「普通の結婚ができない」不幸や人生だったと思っている。
それぞれの「苦しみ」「不幸」は、しかし彼らだけのものではなくて、人間が生きていれば誰でも、大なり小なり背負わなければならないものである。
彼らが勝利を目指したのは、この人間の苦しみや不幸である。
雪原という絶望的な状況の中で、それでも生きる希望を見出した2人は「勝利のシンフォニー」を奏でる。
あの隊列は壮大で見事である。美しい。

ルイとナポレオンは苦しみや不幸からの勝利を目指す点や自身を「天才」と言うところがよく似ているけれども、苦しみや不幸に勝利するためには「勉強」が必要であり、自分はその勉強をし続けているから、自分で自分のことを「天才」と言えるのだろう。
ナポレオンはルイに対して「勉強は好きか」と聞く。これはそのまま上田先生から観客への質問ととれる。
不幸や苦しみを乗り越えるためには結局勉強するしかないのだ。これは普遍的なテーマだろう。
ルイが好きな本は「カント」だと言う。時代を考慮すれば出てきて当然の人、むしろ近代哲学の始祖であり、これだけ「人間の時代」を強調するならば、出てこない方が不自然な人物である。
ただ作品の中にカントが出てきた覚えがないことを考えると、なかなか上田先生も意地が悪いなと。

ナポレオンはゲーテのことを「人間の中の人間」と言い、その理由を「よく耕された精神の持ち主」であるから、と語る。
ラテン語の耕作・育成という意味を表す言葉が教養・文化(culture)の語源になっていることを合わせて考えると、これはものすごく意味深い。
最後にナポレオンが流刑の地であるセントへレナ島で一本の畝を作った話が語られるが、物理的な耕作と精神的な耕作のダブルミーニングがよく響き合っている表現である。
しかもその話をルイの人生で唯一幸せだった時期を共に過ごしたゲルハルト(朝美絢)とロールヘン(朝月希和)が明かすという演出がとても良い。
いつだって彼らはルイの希望の光だった。

ゲーテはナポレオンに忠告するときに「皆はあなたの速さで走れない」と言う。このアドバイスの仕方が絶妙だなと。
ナポレオンは普通の速さで走っているつもりでも、客観的に見ると人よりもうんと早く走っていると言う事実は、それが普通のナポレオンにとってはなかなか理解できないだろうし、まして「人よりも早い速度でしか走れない人」に「遅くの人に合わせて走ること」がどれだけ難しいことか。
思いやりがあるないとか関係なく、本当にそれは無理なことなんだよ。
だってナポレオンは早い速度でしか走れないし、早い速度で走ることができるのに、わざわざ遅くする意味もわからないだろうから。
そしてナポレオンは勉強し続けて、早く走る努力もしている人なのだ。
いるいる、現実世界にもこういう人。

実にわかりやすい比喩で優しく諭してくれたゲーテの助言を無視してナポレオンはロシア遠征をし、失敗してしまう。
ゲーテはルイにも「もっと政治から解き放たれた音楽を書きなさい」と言う。
けれども最終的には「あなたには失望しました」とか言われてしまう。
ナポレオンとルイ、2人の天才を俯瞰した立場からアドバイスをするのに、どちらも受け入れてもらえない。
本当に踏んだり蹴ったりだな……あれでやさぐれないのだから、人間としての器の大きさがもはや違うのだと感じ入る。
ゲーテは文豪として扱われることが多いですが、政治家としての彼の一面に光を当てたところがこの作品の新しいところとも言えるかもしれません。
それからアーティストが政治的発言をするとすぐに炎上するこの国において、主人公であるルイが積極的に自由主義に基づく音楽を矢継ぎ早に世に送り出し、尊敬する人に「政治的すぎるよ」と言われても自分の信念を曲げず、そのためにありとあらゆる不幸に見舞われるけれども、最後は喜びにたどり着いたという一連の流れはムネアツ以外の何者でもない。

すでに発売されている『ル・サンク』の中で扉の音が4回であることは明記されていましたが、よく考えると音楽家モーツァルト(彩みちる)、ヘンデル(縣千)、テレマン(真那春人)とそれからバッハを加えて4人ですし、皇帝一家も、皇帝(透真かずき)、皇后(千風カレン)、カール(桜路薫)、ルドルフ(綾凰華)と4人。
ゲーテの最初の紹介でも「ナポレオン」「ベートーヴェン」「私はゲーテ」「そして……この声は誰だ?」と紹介されるのは4人(ちなみに『ル・サンク』で新しい名前を与えられた謎の女ちゃんが「運命」ではなく「運命の恋人」と表記されるの、最高じゃないですか?)。
天界のメンバーも歌うま天使3人(希良々うみ、羽織夕夏、有栖妃華)と智天使(一樹千尋)で4人。
ルイの幼少期もルイ(野々花ひまり)、父親(奏乃はると)、母親(笙乃茅桜)、謎の女(真彩希帆)の4人で場面は構成されている。
ボンでの生活もロールヘン(星南のぞみ)、ゲルハルト(朝美絢)、ロールヘン母(愛すみれ)、ロールヘン妹(琴羽りり)の4人によって支えられている。
ものすごく4という数字にこだわっていることがわかると、雪原での隊列の感動もまた一層深まります。
よく見ると楽隊メンバーや兵士たちも4人1組で動いていることがよくあります。
ナポレオンの戴冠式に出席していた男性貴族も4人、女性貴族も4人。
謎の女ちゃんの自己紹介ソングも「兵士」「母親」「子供」「女」と代表選手を4人挙げている。
これが今まで望海さんがやってきた役と考えることもできるでしょうが(貫一郎、?、エリック、桃娘)、作品の中の主要人物(ナポレオン、ロールヘン、幼少期のルイ、ジュリエッタ)とも考えられるかもしれせんが、どれも完全一致はしませんので、あくまで妄想の範疇です。
民衆の数は実は微妙なのですが、上田先生は『サパ』でも素数という数字に拘って作品を作っていましたから、今回も同じことが言えるでしょう。

4以外にも気になるのは倍数という考え方。
グッドデザイン賞間違いなしのトランペット砲弾(これは上田先生のアイデアなのでしょうか)は2つセットで出てきて、左右対称に配置されることが多い(オープニングはルイ、ナポレオン、ゲーテの暗示のため3つですが、左右対称)。
これは4の二分の一の倍数であるともいえそうです。
謎の女ちゃんについてくる黒い炎も2つありますね。
これは「不幸」(自称)と「運命」(他称)のそれぞれの象徴でしょう。流石に、4人いたら多すぎという感じがあるけれども、2人ならなるほどと思わされます。
こちらもまた4の二分の一の倍数ととれます。
選帝宮殿での貴族の見世物にされる場面でも男の貴族が2人、女の貴族が2人、従者が4人。
ここでも2や4が並ぶ。作品の中で2や4を探すのが楽しくなりすぎると、『シルクロード』でも探す羽目になるw
それからロールヘンからかけてもらったコートが、ナポレオンによって1枚また1枚と増えていく場面も倍数を感じます。
数字で世界を解釈しようというのは近代あるあるな姿勢です。
だから科学や医療が発達したわけですから。
このあたりのこともきっと意識されているのでしょう。
雪原の場面が美しいのはこの作品のあらゆるテーマが全てそこに集結しているからです。

雪原の場面ではそれまであった大道具が一切なくなり、いってみればだだっ広いだけの舞台になる。
ロールヘンが亡くなり、小さな炎が消え、絶望した最後の最後でルイが幻想の中で逢いたいと願ったのがナポレオンという発想もすごい。
よく考えてみるとここまでこの2人ってオープニングで一緒に歌って以来、一緒に何かをしていないのよね。
オープニングだってお互いを認識しているわけではないし、戴冠式も互いの視線はかち合わない。
まともに喋るのはこの場面だけ。
それなのに2人がずっと離れていたという印象を与えない演出もすごいな。
戦術は芸術で、音楽も芸術だから、四つ星から隊列と音符をそれぞれ連想させ、倍にしていく共通の発想をルイとナポレオンに認める上田先生ってすごいなあ。
普通はこの2人に共通点を見出そうなんて思わないし、どちらかといえばナポレオンとゲーテの方が共通点がありそうなのに。

もっともルイは史実ではボンに帰ってはいないから、帰ってからの一連の流れは全て創作である。
ロールヘンが亡くなったことさえも創作であり、実際の彼女はむしろルイより長生きをしている。
その中で、少年時代にも青年時代にもひたすらルイに慈愛を注いでいたはずのゲルハルトが、ロールヘンの死により、ルイを「どうしてもっと早くに帰ってこなかった!」と詰る立場になるのは、本当に胸が痛い。
ゲルハルトをロールヘンの妹ちゃんがなだめるのも胸打たれる。
それだけゲルハルトの中でロールヘンの死は重かったということだろう。
ロールヘンにも見放され、ゲルハルトからも優しい言葉をかけられなくなってしまったルイが生きる希望を失うのもわかる。
ロールヘンは「あなたがすばらしい音楽を作らなくても私たちはあなたが好きよ」と手紙で語りかける。
これは『サパ』において、サーシャ達がブコビッチに「研究者である前に1人の友人だと思っているよ」と言ったのと似ている。
友情は「何を為したか」で決まるのではなく「何であるか」で決まるということか。
あの台詞、私はとても好きです。

ツイッターでは「なぜ概念であるはずの謎の女が家事できるのだ?」という疑問をいくつか目にしましたが、私はあの場面を上田先生が時折やる「スーパー宝塚タイム」だと思っていて。
理屈なんか関係ない!トップの2人がいちゃいちゃしているところ見たいでしょ!
宝塚最後のだいきほコンビのコメディが見たいでしょ!
ほらいっちょ、やったるわい!どうぞ!という場面ではないかと思っています。
宝塚中華思想の持ち主なので(笑)、スターシステムによって細かい理屈を蹴散らすことがたまにあるなと思っています。
それはそれで好きです。
だからこそ、そのルイに「好きな本はカント」と言わせる振れ幅はすごいと思わずにはいられない。

最初に出てくるルイの部屋はダンスからはくまなく服が飛び出しているし、床には紙が散らばっているし、商売道具として大切に扱わなければならないだろうピアノの上さえ散らかっていて、しかもコーヒーが置いてあるという非常に乱雑な状態ですが、謎の女ちゃんに家事を任せて2回目に出てきたときのルイの部屋は大変に片付いていて、同じ部屋だとは思えないほどでした。
だからこそゴミが3つばかり落ちてくるのが目立つし、それを言われなくても片付けようととする謎の女ちゃんですが、なかなかちりとりと箒がいうことを聞かず、おもしろい場面に仕上がりましたね。

謎の女ちゃん関連でいうと、「聞こえないのね」と言って出てくる場面。
照明がぐにゃりと歪んで見えますが、あれはダリの「記憶の固執」のイメージでしょうか。
時計の溶ける感じを連想しました。
だからこそ、ルイが孤独になる場面は、謎の女ちゃんもいなくなって、本当のいいで一人になって、照明も万遍なく暗い。
ルイは「静かだな」とつぶやくけれども、あの静寂がこれだけ際立つのは、聴覚だけでなく視覚も静かだからでしょう。
歌うときもあたかもルイの他にも人がいるようにスポットがあたる部分がありますが、これがより寂しさを際立たせる。
怖い演出です。

それからナポレオンが死んだ後、銀橋でルイは振り返らずに謎の女ちゃんがそばにいることを認知する。
これがすごい。
ナポレオンとともに勝利のシンフォニーを綴ったルイですが、苦しみや不幸に勝利し、生き残ったところでまた別の不幸がやってくるのは人生の中では当たり前のことで。
生きる活力を見出したがために再び彼女と相対することになるともいえそうですが、生きることは不幸がつきまとうというメッセージはある種不吉ではある。
けれども、観客から見れば必然の謎の女ちゃんの再登場を雰囲気だけで、背中で察知するルイとの関係ってとても特別だなと思います。
言葉を選ばずに言えば、馬鹿には不幸が近づいてきてもわからないのではないでしょうか。
名前が分からなくても、天才を自称するだけあってルイにはわかるのですね、彼女が近づいてきたことが。
「名前のわからないものは呼び出せない」「名前を変えることによって概念そのものも変わる」という考え方はメルロ・ポンティー卒業論文に選んだという上田先生らしいです。

『ル・サンク』にありました通り、音楽家の三人はそれぞれデフォルメされて描かれていますが、こういう手法を竹田先生はもっと取り入れると、ぐっといい作品になるのではないかと思います。
まあ、とにかくみちるモーツァルトが可愛くて仕方がないんですけどね、私。
髪の毛先なんかほのかにピンクで、とってもキュート。
愛らしい。ひたすらにかわいい。ヘンデルテレマンと一緒になって肖像画になったり彫刻になったりする演出は大変おもしろい。
さすが上田先生~!という感じ。

新人公演はないとはわかっているけれども、もしできたらどんな配役だっただろう。
どんな配役が診たかっただろうと考えた結果、「ルイ→彩海せら」「謎の女→有栖妃華」「ナポレオン→縣千」「ゲルハルト→眞ノ宮るい」「ロールヘン→希良々うみ」のあたりでしょうか。
ゲーテは誰がいいかなあ。
ナポレオンのあがち、最高だと思うんだけどな。

ゲーテの芝居「若きウェルテルの悩み」では、「旅行に出かけようと思います」という『うたかたの恋』の「マリー、来週の月曜日、旅に出よう」という台詞を連想させたあと、ウェルテルは、右回りの盆の上にいるロッテから銃を受け取り、オケピの階段を下手側に降りていく。
そのあとルイは左回りの盆の上にいるロッテから同じ銃を受け取り、オケピの階段を上手側に下っていく。
この違いがあるからこそ、ルイはウェルテルに重ねられながらも、とりあえずこの場面では自殺しなくて済む。

最後に!
花道にまで映像が映し出されますが(最近はやりのプロジェクションマッピングというものかしら?)、例えば何かの不幸があったとして(大劇場郷演は幸いにありませんでしたが)、そこに役者が経てなかったとしても、「ここまでが舞台だぞ!舞台なんだからな!」という意気込みを感じずにはいられません。
そうだよね、花道も銀橋も舞台だよね。知っているよ。


さて、お次は『シルクロード』。
プロローグの銀橋渡りで咲ちゃんの背中にそっと寄り添う仕草がたよやかで娘役のお手本のようなきわちゃんですが、最後に咲ちゃんの顔に向ける目つきが鋭い女豹のようで、ドキリとしました。
なんとその場面は『ル・サンク』にありますので、皆さん、ぜひご確認を!
ライブ配信ではうまく映りませんでした。
一足早い『ル・ポァゾン』かと思いました。とても素敵。

素敵といえば、中国の場面では咲ちゃんがネックレスをきわちゃんの首にかけてあげますが、その直後に三つ編みの髪を肩よりも前に出してあげるしぐさが可愛く可愛くて、もうたまらない!
しかもそのあと、きわちゃんはその三つ編みをずっと肩の後ろにやってしまうことなく踊り続けます。
あれだけ跳ねているのに、なぜ……すごい。娘役芸だわ。
きわちゃんがダンスにおいて咲ちゃんんい先に仕掛ける場面がたまらなく好きです。
なんていうかはいからさんみたいな感じというのでしょうか。
そもそも娘役が先に仕掛けるのが好きなんですね。

きわちゃんといえば、髪形やアクセサリーはわりとクラシカルにまとめてきます。ザ正統派みたいな感じ。
それに対してみちるちゃんはキュートで個性的な髪形やアクセサリーが多く、いってしまえば、それみちるちゃん以外にどうやってに合わせるの!?みたいなものが多い。
こういう対もおもしろいなあ。二人とも大好きです。
だからこそみちるちゃんの出番の少なさが気になる。あとひまりちゃんも。

千夜一夜の場面では、日増しに色気が垂れ流しになっていくシャフリヤール王ですが、ああこれはもう男も女も抱いているなという感じでしたね、はい。ごちそうさまです。
なんで色気が増すのだろう、この短期間で。正月もなかなかだったと思うのですが、私だけじゃないですよね?
しかも望海さんと翔くんのアドリブのあとで、客席が十分に温まっているのに、なんてことしてくれるのよ。
もっとも王様本人も笑っているときがございますがw
この後の「すべてこの世は物語~♪」というフレーズが好きすぎるのですが。
真彩シェヘラザードは王のそばにいて、王のために物語を紡ぐのに、歌は遠くの銀橋を渡っている黄金の奴隷とのデュエットで、目の前にいる王様とのデュエットじゃないんかーい!ってなります。
しかしそれだけあの盗賊と宝石の絆が強いということでしょう。
望海さんと真彩さんの絆が強いように。

争いのコロスの場面。
二羽の白い鳩と大きな木。これはプログラムで生田先生も触れていましたが、「平和と生命」の象徴。
例えばこれを比翼の鳥、連理の榊と読み替えれば、だいきほ、そしてそれにつづくさききわの前世からの因縁なるものを感じずにはいられません。
二つで一つという中国の決まり文句ですね。
ところでこの場面、倒れたコロスたちを載せた盆が回るのですが、コロスたちは一周半させられるんですよね。
酔ったりしないのかな……と回る盆の上に当然乗ったことのない私はいらぬ心配をしています。

真彩さんはずっとダンスが苦手だと言っていたけれども、今回のショーを見たら、そんなこと、本当に過去の話で、乗り越えてここまでやってきたんだなと思わずにはいられない。
特にデュエットダンスでは、背中で喜びを語っている。発光している背中で思い切り歓喜を歌っている。
男役は背中で語るというけれども、娘役だって背中で語れるんです!という感じ。

プロローグでは、望海さん扮する盗賊を取り囲む砂の女はきわちゃん、みちるちゃん、夢白の三人ですが、望海さんと今まであまり関わっていない夢白ちゃんよりも、ひまりちゃんやりさの方が良かったのではないかという感じです。
これはもう劇団が指定したのかな。難しい問題です。でも退団公演でいきなり知らない女性に取り囲まれてもなあ……。

希良々うみちゃんは、おかげさまでもうどこにいてもすぐに見つかりますね。
プロローグ、宝石、中詰、青原の淑女、どこでも素敵です。
なんとなくゆきちゃん(仙名彩世)に似ているような気がします。
格好良い系の娘役として大変貴重なので、劇団さんには大切にしてほしい。
これからも超超頑張ってほしい娘役の一人です。
他にもはおりん(羽織夕夏)が可愛いですね。私の好みは丸顔なのでドストライクです。
愛羽あまねちゃんも可愛い!ってなります。朝美さんの『ブリドリ』に出ていましたね。
音彩唯ちゃんもすぐにわかります。あの小さい顔にギュッとつまった目と鼻と口。すごい。彫刻か?

男役ではあみちゃん(彩海せら)がやはり気になるのですが(わかりやすい)、かなり男前になっている群舞にハートを完全にもっていかれたような感じです。
どんどん素敵なスターさんになっていきますね。階段降りもありますし。
いや、青年ルイとゲルハルトの舞台写真、東京では絶対に出してくださいよ……。

上田先生の考える「神」の考え方がおもしろいなと思いました。
『サパ』において、ブコビッチは「神などいない」という。
『fff』において、ルイとナポレオンは神の支配から解放された「人間の時代」を訴える。
『神々の土地』ではロシアの神々がキリスト教一神教と二項対立で描かれている。
『月雲の皇子』は言葉を操るのは勝者、正しい言葉として受け継がれるのはすなわち神の言葉であると考える。
これはいろいろおもしろいことになりそうだ。

サヨナラショーの『ドン・ジュアン』のエメで大階段に『シルクロード』の大木が出てきたとき、「ああ、ドン・ジュアンは赤薔薇だったけれども今回は青薔薇でドン・ジュアンが人生をやり直して盗賊になったんだな」と思ったのですが、同じやり直しなら『ひかりふる路』の転生と考えるのもおもしろいかもしれません。
当時のお衣装をふんだんに使ったサヨナラショー、ありがとうございました。
悪の華」からずっと泣いていました。あと「アンダルシア」はやばかった。
「第三倉庫に八時半」時計を見るしぐさをされましたが、もちろん時計はしていません。好き。
サヨナラショーの最後のお衣装、最高でしたね。緑と雪の衣装……本当に最高でしたよ……いや、真彩さんの髪形ももソーキュートだったよ。すごい。
望海さんの最後の挨拶で「いつも隣を一緒に走ってくれた真彩」というのが嬉しくて、私まで泣いた。よかったね。
真彩さんも「世界一幸せな娘役」と言っていて、本当に涙出るわ……。
ひとまずは大劇場公演、お疲れ様でした!
幸せをありがとう!

花組『NICE WORK IF YOU CAN GET IT』感想

花組公演

kageki.hankyu.co.jp

ブロードウェイ・ミュージカル『NICE WORK IF YOU CAN GET IT』
Music and Lyrics by George and Ira Gershwin
Book by Joe DiPietro
Inspired by Material by Guy Bolton and P. G. Wodehouse
潤色・演出/原田諒

最高におもしろかった!
オリジナル版を見ていないので、どこが宝塚の工夫なのかはよくわかりませんでしたが(ジミーの結婚はブロードウェイ版だと4度目ではなく3度目だとか?)とにかくおもしろかった。
だいたいね、開演前からあのピアノ鍵盤の円が期待させるのよ。最高なわけですよ。
舞台装置もすごくおもしろかった。
2つ波のある板が左右にそれぞれ3つずつ、模様はストライプで、曲線と直線のハーモーニーが計算されている。
屋敷の中も曲線の階段、左右非対称のソファ、そこら中が曲線だらけなのに、寝室は緑と白のストライプでベッドも直線。
見事なコントラストだった。
高いかな?と思われるベッドは圧倒的な存在感を放っている。
左右と前に謎の段差がついているし(でもあれがないとベッドの上に登るの大変そう)、クッションがしっかりしているわりには布団は薄そうだし、そもそもベッドは硬そうだし、高いベッドの上でれいはなは仲良くどったんばったんしているし、もうヒヤヒヤものなのですが、とても楽しそうでした。
ブロードウェイミュージカルだと、このどったんばったん歌を歌いながら暴れるシーンで、ジミーはライフルに弾をこめ直しているそうですが、このあとライフルは出てきませんでしたよね?
ブロードウェイではまた出てくるのでしょうか。
とにかくれいはなが楽しく暴れているのを見るのが楽しかったです。
もうそれだけで幸せ。
次でコンビ解消とか本当に信じたくない。
あれだけ言われていた歌に難ありという評価ですが、今のれいはなを聞いてごらん?
その上で同じこと言える?
黒いカラスは白い鳩にはなれないかもしれないけれども、でもなりたい姿に向かって成長するんだよ、だってタカラジェンヌだもの。

舞台装置の良さ、れいはなコンビのすばらしさに加えて良かったのは、あらゆる種類の女性が登場することです。
法律を犯しているけれども自分の仕事に誇りを持っているビリー、自らの美貌とダンスの才能で自分が好きな男と結婚を決意するアイリーン、リッチでハンサムな男を狙うダンサーのジェニー、夫が亡くなってから社会奉仕に自らを捧げる公爵夫人、ブラウン・ベアードが女性なのも良かった。
誰もが自分の仕事を持ち、自己肯定感も高く、1人の人間として自分にプライドを持って生きているのが、本当にとても良かった。
「大切なのは自尊心だよ!」って『雨に唄えば』でも言っていた。

お衣装はところどころ「んん???」となるところがありましたが、みなさんはいかがでしょうか(笑)。
男役さんはスーツにベストに、そりゃ旦那にまでベストを着せる私にとっては眼福だったのですが、娘役の謎のワンピースはいくら下に衣装を着ているからとはいえ、ちょっとあんまりではなかったでしょうか。
太って見えるの、可愛くないの。
あとビリーのベスト姿も謎だった。
そのベスト、前を開けて着るの?
ブルーの模様は何?
ネクタイとベルトは本当にそれでいいの?
まあツッコミどころが満載。
あと個人的にはメイド服もなんか変だったなあという気がする。
チラシのれいちゃんのパジャマ、華ちゃんのピンクドレスはどちらも素敵だったのにー!

プログラムであきらが着ていたお衣装は『20世紀号に乗って』で翔くんが着ていたものでしたね。
ひとこがフィナーレパートで来ていた黒いドレスも『20世紀号に乗って』できぃちゃんが着ていたものとよく似ているような気がします。
同じブロードウェイミュージカルがオリジナルだと使い回しされるものなのでしょうか。
『ME AND MY GIRL』のサリーの髪型とビリーの髪型は確かに似ている、かも?
色は違えど帽子は2人とも被っていますね。
宝塚でいうところのこの2作品を思い出した人は多かったかと。
華ちゃんのサリー、とても見たい。せめてミュージックサロンで歌ってくれないかな、「顎で受け止めて♪」って。

幕開きのジェニーくりすちゃん(音くり寿)。
私はいきなりびっくりしたのよ。
如月みたいな眉なんだもの(笑)。
でもああいうお化粧が流行した時代だったのでしょうか。
『ル・サンク』を見ると、東京では割と普通の眉だったようにも思えます。
公演中も進化するのがすばらしいですね。
ショーガールにはここちゃん(都姫ここ)、みさこちゃん(美里玲菜)がやっぱり私は好みの顔で可愛いなあとつい目で追ってしまいました。
もえかちゃん(若草萌香)なつきちゃん(鈴美梛なつ紀)も最近グッと垢抜けてきたなという印象があります。
バウ公演を見ても思いましたが、下級生がどんどん頼もしくなっていきますね。
これからも花組が楽しみです。

そして酒場の裏で華ちゃんビリー(華優希)登場。
そういう格好なんだwと思いましたが、そんなことよりも喋り出したら、まあその口調!と、これまた宝塚の娘役トップとしては珍しいべらんめぇ調で大変おもしろかったです。
メイド服のときもガニ股でしたが、可愛かったです。
華ちゃん、そういう役をやっても決してタカラジェンヌとしての美しさを失わないの、本当に素晴らしい。
ビリーとれいちゃんジミー(柚香光)が出会うこの場面、酔っ払ってはいるけれども、もうすでにジミーがビリーにメロメロなのがもろわかりで、とても幸せ。
酒に酔っているのではなく、ビリーに酔っているんでしょ!ってツッコミを入れたくなる。
「もしかして僕に一目惚れしちゃった?」とジミーは聞きますが、そりゃあんたのことだ!と思いましたね。
ジミーの視線が熱いのなんのって。
そりゃビリーはジミーの周りにはなかなかいなかったであろうタイプの女性なので、おや?なんか今までの女の子と違うぞ?と興味を持つのはわかる。
それが本気の恋になるのは、現実では難しいだろうけれども、まあミュージカルですからね!

公爵夫人(鞠花ゆめ)も登場から素晴らしいインパクトを残しましたね。
『はいからさん』の如月はあまり歌がありませんでしたが、今回はもう歌うのなんのって、歌っている時間の方が長いのではないかというくらいには歌っていますね。
自由の女神に扮したときは、もうお腹が捩れるかも思ったのですが、男役さん2人に持ち上げられて、そのまま上手に捌けるものだから、さらにびっくり。
そのままはけるの?!男役さんたちもこりゃ大変だわ。

ところ変わってロングアイランド
すでに執事の格好をしたクッキーあきら(瀬戸かずや)がそりゃもう格好いいわけですが(最初に出てきたときは『ワンス』のメインメンバーの幼少期のようでしたものね)、なぜ中のベストは赤白のボーダーなのか。
すごい目立つ。いや、似合っているよ?!むしろそれが似合っているの、すげーよ!!って話なんですけれども。
絶対に使わないはずの別荘に持ち主ジミーとその婚約者アイリーン(永久輝とあ)登場。
アイリーンはブロードウェイによくある「頭は空っぽだけど超絶金髪美女」なのですが(『プロデューサーズ』のウーラのような)これまた憎めないのはひとこの演技力の賜物でしょう。
ひとこって金髪の娘役をやると、なんとなくうらら(伶美うらら)のようにも見えます。
しかしひとこの細さと言ったらありませんね。
普段はしっかり男役だと衣装に覆われていて気がつかないのですが、長い手足の剥き出しになるワンピース を着ると、まあ細いのなんのって。
すごいよね?よくその細さで娘役さんを持ち上げることができるよね?ビックリする細さだった。
ジミーとクッキーが喋っている後ろでは広すぎる舞台を自由に使って動き回って、しかし側転はできないとか本当に愛らしくてすばらしかった。
ひとたび喋ると頭がゆるふわ系であることは間違いないのですが、しかしそんなアイリーンよりもジミーは馬鹿だからな……どうしようもないよ、ジミー。
ロングアイランドの蚊に刺されてもマラリアにはならないよ。

アイリーンが風呂場へ消えたあと、ジミーとビリーが再開しますが、ジミーは全く覚えていないという最低野郎。
基本的にジミーはれいちゃんの顔でなかったら全ての言動が許されないのですが(笑)、「キスしたことない」というビリーに教育目的でキスするのとか、もう本当にどうよ?!
それにしてもビリーは一体いくつくらいの設定なのだろう。
何年くらい前から酒の密売人として働いているのだろう。そんなことも気になりました。

シャワーのシーンは、いかにもブロードウェイミュージカル!という感じでしたね。
あの人海戦術ぶりとふざけた衣装、それなのに上手い歌。
バブルワンピースから真紅の布を巻きつけるあたりは生着替えなのでしょうか。
白い羽がないと危なっかしいったらありゃしない!と思いながら見てきました。
でも最高に愛らしいし、楽しいし、素敵な場面ですね。

ショーガールたちがロングアイランドにまで押しかけてきて、ブロードウェイミュージカルらしい大勢でのタップダンス。
いかにも!って感じでしたね。
れいちゃんのタップダンスは「一生懸命やっている感」がないにもかかわらず、しっかり音が鳴っていて、やはりダンスの人だなあ、と。
ポケットに手を突っ込んで余裕の表情でもピタッと足が床に決まる。すばらしい。

ひとこアイリーンは、ジンジャーとの離婚が成立していなかったことがわかってジミーをなじりますが、「悪魔」「辱め」の単語は取るに足らないビスケットに教えてもらっているにもかかわらず、「屈辱」という言葉は出てくるw
これはジミーとは異なり、マラリアのことを知っていることへの伏線でしょうか?
あと常に膝が曲がっているのも気になります。
そういう演出なのでしょうか。

よく考えなくてもこの取るに足らないビスケットことクッキーがジミーとビリー、デューク(飛龍つかさ)とジェニーについてはかなりの責任があると思うのですが、その責任を被るかのように自分も最終的にはでたらめな恋に落ちるのだから、本当に何がどうなるのか分からないのが人生だな、と。
因果応報ってやつですよ。
しかさ2幕で「ここは失恋クラブじゃない!」っていうけれども、いったい誰のせいでwwwと思いましたよね。
愉快犯ですな、クッキー。そりゃ、あんたは人生楽しかろうよ。

くまのぬいぐるみ、可愛かったですね。
あれ、販売してくれませんかね。買うんですけど。
ジミーのお気に入りのぬいぐるみなのでしょうか。
プロデューサーズ』でいうところの、マックスのブランケットような。
乱闘騒ぎで所長(汝鳥伶)が入ってくるとき、ビリーはクッションで顔を隠しますが、あるときは緑のクッション、またあるときは白いクッション、ときにはこのぬいぐるみで自分を隠します。
舞台写真になっていたのは緑のクッションのバージョンでしたね。
ライブ中継ではジミーと所長の話を聞きながら、クッションにグーパンしていたのが忘れられません。
クッションにグーパンする娘1なんて滅多に見られるものではない。しっかり拝みました。

翌朝のジミーとビリーの曲は『BEAUTIFUL GARDEN』のゆきちゃん(仙名彩世)を思い出しますね。あれ、格好良かったからなあ。
ここのタップダンスはビリーがちょっと一生懸命踊っている感じがあるのですが、ダンスとは別に、演出としてそれは正解でしょう。
ちょっとビリーの方が慣れない感があった方がいいなと思います。
そしてこの曲の終わりに2人はソファでいちゃつくわけですが、よく考えると『DANCE OLYMPIA』でもブルーのワンピースの華ちゃんの手を白いダボダボ衣装のれいちゃんがとったのもベンチでしたし、『はいからさんが通る』は言うまでもなく、華ちゃんの銀橋ソロ前の場面はソファでしたし、このコンビにはソファやベンチ、椅子の類がよく似合う。

別荘に所長やら公爵夫人やらが登場。
公爵夫人は犬のように鼻を動かして、アルコールの匂いを察知する。
クッキーとの「旦那はもう死にました」「そりゃ旦那さんは幸せだ!」みたいなやり取りは出会い頭で衝突したかのようでしたが、その後も「わたくし死んでしまうわ!」「ぜひお手伝いさせてください!」なんていうのもあって、大変に愉快でした。
2幕の「3拍子!」「4拍子!」の掛け合いソングも大変にすばらしかったです。
力量もさることながら、息ぴったりでとても楽しかったです。

1幕終わりの曲はジミーとクッキーが2人でセンターに立っている場面があるのですが、そこでもう感動。
感極まって泣いてしまった。
2番手があきらであることに物申したい人はたくさんいると思うのだけれども、でも素敵なコンビでしょ?素敵なコンビだよね!って思い知らされた。
あの場面がとても好きです。

素敵なレモネードを飲んだ後の公爵夫人の豹変ぶりといったらないのですが、ここでの寝息が豪快なのもおもしろくて。
というのも、冒頭でジミーが立てる寝息は「クーン、クーン」みたいな子犬が泣くような可愛らしいものなのに、公爵夫人という地位のある女性が立てる寝息が「ガーガー」と豪快なのが非常に対照的で、逆だったらなんか違うなと思うこと間違いなしじゃないですか。
演出の妙を感じました。好き。

ジミーはクッキーのことを「僕が知る限り史上最高の執事」と言います。
どこを見てこんなことを思ったのか心底尋ねたい気もしますが、そのあとの作戦の一環として出てきた覆面調査官の2人はもはや『マスカレードホテル』ですな。
ここでもジミーは頭弱い振りを発揮して「ブラウン・ベアード」というべきところを「レッド・ベアード」といい、周囲をぽかんとさせます。
アイリーンよりも頭激弱ぶりを発揮します。
むしろ後半になるとアイリーンは意外と普通の頭の持ち主で、ただちょっとテンションが人と違うだけなんですよね。
ウェディングドレスも素敵だった。
どんだけ長いベールを使っているの?!というツッコミを皆さんはしましたか?わたしはしました。
しかし本当に細いな、ひとこ。

捕まるか捕まらないかの瀬戸際で、照明が落ち、カップルがそれぞれ歌う場面では上でミラーボールまでもが回っており、コメディへの意気込みを感じます。
ライブ中継ではその間ではわからなかったかもしれませんが、回っているんですよ、ミラーボール。
私はミラーボール大好き人間なのだ〜!
所長とアイリーンの場面でも回っていました。
ガーシュインの名曲がここで使われるとはw

で、コメディも佳境に入ったところで、ようやく登場ジミーママ。
ジミーママのまゆみさん(五峰亜季)は最後の最後にしか出てこないけれども、圧倒的な存在感。
さすが72期。貫禄が違う。
で、そのジミーママとマックスが良い仲になって終わるのですが、しーちゃん(和海しょう)の包容力といったら!
すごい頑張っていた。
フィナーレも、芝居の最後まで出ていたからちょっぱやで着替えてセンター3人としてキメてから、また着替えてジミーママと腕を組んで出てくる。
すごい、すばらしい。よくやった!
個人的には神父様の姿がベストでした!

ボートの場面。
ジミーは「大きな家も立派な車もビリーの魅力には敵わない」から「使用人のいない、自分たちのことは自分たちでやる生活」を提案しておきながら、ママから「相続権を取り上げない」と言われた瞬間「正直僕にはそういう生活は無理だと思っていた」と言い、ズッコケましたね。
そしてビリーはジミーの愛の告白を最初は断る。
おそらく住む世界が違うと思ったのでしょう。
けれどもジミーママの正体が分かり、「跡を継いで欲しい」と言われたビリーは、後継者になる決意をする。
ジミーが「僕は大統領にならないと君と釣り合いがとらないね。君は僕を選ぶことで終わりにするんだ」と改めてビリーに告白する。
これがいい。ジミーママの後継者になることとジミーと結婚することは別のことであり、それぞれにビリーに選択肢が委ねられている。
このことがすばらしい。ありがとう。

『ピガール狂騒曲』も概ね好評だったし、賞ももらったので、原田先生の今後の作品も楽しみにしております。
しかしこの作品、わりと出来がいいだけに、本来ならばライブ配信も円盤化も難しかったのではなかろうか。事実『20世紀号に乗って』はどちらもなかったわけですし。
今回版権が取れたということは喜びである反面、やはりブロードウェイもこのコロナによって相当経営難になっているのだなと感じずにはいられません。
これを機に劇団はだいきは退団公演スペシャルとか銘打って『20世紀号に乗って』の版権も改めて交渉してみたらいかがでしょうか。円盤出たら買いますよ?

花組『PRINCE OF ROSESー王冠に導かれし男ー』感想

花組公演

kageki.hankyu.co.jp


バウ・ミュージカル『PRINCE OF ROSESー王冠に導かれし男ー』
作・演出/竹田悠一郎

1幕が終わったときには「スゴワルリチャード3世が描きたいのか」と思ったけれども、2幕まで見終わると「いや、これはヘンリー7世とイザベルのラブが描きたかったのでは?」と思うようになり、そうならそうでものすごく宝塚向きだし、1幕からもっとヘンリー7世とイザベルをいちゃらぶ(死語)させたらよかったのでは???とも思いました。
個人的にはヘンリー7世って物語のない人だなあと思っていて(なんせツイッターではヘンリー7世をヘンリー8世と間違えていたくらいだわ)(ヘンリー8世は離婚しまくりのメアリーやエリザベスの父親ですな)、そりゃヘンリー6世やリチャード3世が濃すぎるからだろう(そもそもシェイクスピアが描いているというのも大きい)って話ももちろんあるのですけれども、あれよあれよとみんなに持ち上げられて、結局敵から妻をもらうというウィーンハプスブルクに非常によくある手段で、薔薇戦争を終わらせた人というくらいのイメージしかなかったのです。
けれども、いやそんなことない!この薔薇戦争を終わらせた人間は、政治的な器が大きいだけでなく、個人としての自由恋愛もちゃんと楽しんだ人なんだ!という妄想は、とても宝塚らしくて面白いと思うのです。
だからこそ、もっと作品を温めてから世に送り出しても良かったかなあ、とは思いました。
でもきっと竹田先生は自分のデビュー作品として、どうしてもこの題材を扱いたかったのよね。
その意気込みだけはとても感じられました。
デビュー作品の題材としてはちとばかり重かった、難しかったことが災いして、脚本としてまとめきれなかったというところがネックですが、描きたい方向としてはとても宝塚向きだと思ったので、次の作品も楽しみです。
公演プログラムには自分で家系図を書いたというくらいだから、この作品への意気込みは並のものではないと思うのですが、いやだからこそ、その家系図をプログラムに掲載してくれよ、と。
あの若干読みにくい公演挨拶の文章(失礼)をカットするなり、レイアウトを工夫するなりして、その家系図を載せる場所を作りましょうよ。
劇団側もかなり脚本のブラッシュアップに協力したようだから、そこも抑えてくださいよ〜!と叫びだすところでした。

薔薇戦争を宝塚で扱うということで、イメージとしては、赤バラモチーフの衣装を着た軍団と白薔薇モチーフの衣装を着た軍団が踊りまくって戦いに明け暮れるというような、非常にベタな、いってみれば『ロミジュリ』のような場面を期待したのですが(そして他にもそれを期待していた人もいたよう)、それはありませんでした。
ショルダータイトルは「バウ・ミュージカル」でしたが、ミュージカルというわりには歌の入る位置が???というところもあり、脚本としては芝居に重きを置いたのでしょう。
ただ、プロローグやフィナーレを見ていると、むしろ竹田先生はショーを作ってみたらいかがかしらん?と思いました。
それくらいプロローグ、フィナーレは最高でした。
特にフィナーレはみんな水を得た魚のようでした。
衣装も良かった。赤バラボタンの燕尾服に赤バラドレス、最高だよ。

公演前、プログラムを見て「らいとくんの赤髪はキルヒアイスなのでは?」「あわちゃんのお化粧が進化している!」「稽古写真ではなく、あすかヘンリー7世の写真集なのでは?」「プログラムの裏表紙、最高だな!」などと興奮しながら望んだ5列。
バウ自体、全然当たらないというのに、こんな良席どうしたらいいんだと困惑してしまう。
生徒さん経由だったので、本当にもう感謝しかない。ありがとうございました。

1幕はゴリゴリの悪役であったリチャード3世は、そりゃもう悪い顔で悪いお衣装で悪い歌を歌うのですが、1幕で彼が主人公のように見えてしまうのは、やはりヘンリー7世のドラマが足りないなと感じました。
らいとヘンリーに出会ったときに「君は何がしたい?」と聞きますが、私としては、お前さんは何がしたいのだ?と思いました。
ヘンリー7世は王冠を望んでいるようにも見えますが、それはあくまで母であるうららマーガレットの願いかなとも。
ヘンリー6世との謁見の場面でも、彼が王冠を何がなんでも望んでいるようには見えなくて、もしかしたらむしろそういうところに周りは「こいつは王冠を抱く男だ!」と思ったのかもしれませんが(あすかの美貌でそう思ったのでしょうかw)、本人の意思があんまりよくわからないなあと。
この場面、あんまりあすか、喋らないし……。

ヘンリー7世が変わったなと思ったのは、らいとヘンリーが亡くなってからでしょうか。
2幕の最初でリチャード3世によって処刑されてしまうので、おいおい早いな?もうらいとくんの出番はないのか?と思ってしまいましたが(無事にありました)あの事件を契機にようやくヘンリー7世自身が王冠にこだわるようになったのだなと思いながら見ていました。
だから2人は出会いの場面から描かれるわけですね。
ヘンリー7世が自分の意志で立ち上がるためにはらいとヘンリーが死ななければならない。
らいとヘンリーが死ぬのが早いか遅いかという問題は何を描きたかったかにもよるのでしょう。
リチャード3世との対立軸を明らかにすることがメインなら、もっと早くてもいいのかもしれません。

リチャード3世は会ったこともない間からずっと傍系であるヘンリー7世をマークしていて、そんなに驚異的な存在に見えないのだが……?と思ってしまう(失礼)。
イザベルとのラブを描きたいのなら、リチャード3世の場面がおそらく長いからでしょう。
化粧ドン!衣装ドン!音楽ドン!で迫力のあるリチャード3世で、とてもよかったのですが、1幕は彼がかっさらっていたとも思えてしまいます。
もっとも2幕ではむしろ滑稽で、戦いの場においてさえずっと王冠を被っているから、その執着ぶりは明らかで、ヘンリー7世の、言ってしまえば清く明るく淡白な(!)王冠への想いとの対照的でありました。
そのリチャード3世から王冠をゆっくり外すのが亡霊になったらいとヘンリーというのは、とてもいい演出でした。
1幕終わりで自分で自分につけた王冠を他人の手で奪われるという悔しさはいかほどのものでしょうか。

ヘンリー7世が逃亡生活に突然現れたイザベルと、そりゃ恋に落ちるのだろうことは宝塚を見慣れた人なら誰でもわかりますが、1回目は割とつっけんどんというか、何者かわならない不穏さみたいなのはありましたが、1幕の終わりあたりに出てきたときには、もちろんお互いに言えないこともあるのだろうけれども、なんだかもうすっかり仲良くなっているようで、おお?と置いていかれるところでした。
一緒に城下町歩いたり、庭を見て散歩をしたりしちゃいかんのかな……でもまあ逃亡の身だし仕方ないのかな……せめて2人きりでなんかもう少し見せてくれないと、なぜ2人が想いを寄せ合うのかがわからないなあ、と。
せっかく宝塚で上演するのだから、どうせ争いを止めるための手段として結婚した2人が実は政略結婚の前に出会っていて、しかも恋においていました!というのはとても宝塚らしい発想ですし、おもしろい設定だとも思うからこそ!だからこそ!もっとヘンリー7世とイザベルの恋愛を見たかったです。何度でも言う。

わからないといえば、イザベルはフランス国王の使いと言いますが、ヘンリー6世の妻である柚長マーガレットがフランス人だと考えれば、ヘンリー7世に近づくために「フランス」を持ち出すのはわかります。
でもこれってヘンリー7世が調べたらきっとすぐにわかることですよね?
劇中では「あの従者のフランス語はかなり怪しかった」と言って、あまり「フランス国王の使い」ということを信じている様子ではなかったですが。
すぐに見破られるような嘘をついてまで彼女がヘンリー7世に近づいた理由はなんだったのでしょう。
彼女にとって敵の敵であるフランスをもってきたことのリスクはなかったのでしょうか。
そして本当は誰の思惑で彼女は動いていたのでしょうか。
イザベルの母親であるりりかエリザベスは、自分の娘が不在のことをようやく2幕あたりでもらし、最後には抱き合っていますから、少なくとも母親の陰謀で彼女が単独でヘンリー7世に近づいていたわけではなさそう。
では、いったい誰の差金でイザベルはヘンリー7世の隠遁場所に現れたのだろうか。
イザベル自身が紅緒さん並のお転婆やじゃじゃ馬根性を発揮して、「敵の皇子とやらはどんな腑抜けやろうかしら?この目で見定めてやるわ!」みたいな感情から、誰からも命令も受けず、家で同然でヘンリー7世の元にやってきたというのなら、それはそれでおもしろい!と思うのですが、そうするとイザベルのもとに必死に手紙を書いてよこしていたのはどなた?という疑問も生まれる。
やはりここのあたりの書き込みをしないことには、イザベルというキャラクターになかなか観客はついていけないかなと思いました。

そういえば、1幕が終わってから「この王宮はどうなっているのだ?」と思いました。
と、いうのも囚われているはずの柚長マーガレットがわりと自由に出歩いている様子が見られたり、リチャード4世が倒れたことに気が動転しているりりかエリザベスにうららマーガレットが簡単に近づいたりしている様子があったりして、ランカスターとヨークの対立とは?とも思いましたが、でもよく見るとこのメンバーは全員女性で。
戦いやしがらみ、王位継承から完全に自由とは言えないかもしれないけれども、そういうところが男性よりも女性の方が自由であることを示しているのかもしれないと思いました。
たとえ敵であっても、愛する人が病に倒れたらどうしよう!と慌てるのは当然だよね、寄り添いますよ、というようなメッセージが込められているのかな。
『月雲の皇子』でも兄と弟の争いを止めようとしたのは母と妹でした。
今回もそれと似たようなことが起こっているのかもしれません。

あわちゃんのアン・ネヴィルとしてのお役は1幕終わりくらいまで待たなければならないのですが、すでに夫を殺された経験のある彼女の運命を悟り切った感がたまらなかったです。
というか、プロローグの魂のダンスもすばらしかったです。羽が生えているよう。
美咲ちゃんと対でしたが、贔屓目もありましょう、あわちゃんの方が伸びやかのように見えました。
かつての夫とは敵対しているリチャード3世と結婚することの葛藤はもちろんあったでしょうが(描かれていませんが、父親もリチャード3世に殺されたようなもの)、そこはすでに悟りを開いた女性という設定にすることで、バッサリカット。
見たかったような気もしますが(笑)、時間を考慮するならば致し方ないでしょう。

2幕の中盤のリチャード3世の夢でしょうか、幻でしょうか、現実世界ではキリッと冷たい表情ばかりしていたアンが彼に膝を貸して休ませる場面は、リチャード3世自身の願いが込められていたのかもしれません。
しかしその願いが現実世界で叶うことはなく、そのままアンは亡くなります。
この場面の演出は秀逸だった。すばらしかった。
唯一戦いの場において死なない人物がアンなのですが、処刑の残虐さを強調するのとは裏腹に優しく穏やかに流れるように死んでゆく。最初の魂のお役に繋がっていくようなイメージが感動的でした。
リチャード3世が目覚めると既にアンはこの世のものではない。
ゆったりと静かな演出でしたが、とても好きな場面です。

アンはいつの間にかできていた子供を、これまたいつの間にか亡くし、リチャード3世に「あなたが殺した人間の命と私たちの子供の命の重さは同じである」と訴えます。
もっともその言葉は、最後までリチャード3世には届かなかったように思います。
しかしその思いは出会いはしないものの、ヘンリー7世には届いていて、だからリチャード3世を戦の場においてむごたらしく殺そうとはしない。むしろ「彼もまた犠牲者だ」という。
最後の最後で命の重みというテーマもぶっこんできたか!という感じでした。
デビュー作品ですし、もう少し削っても良かったのでしょうけれども、野心は十分に感じられました。

さて、キャスト別の感想。
ヘンリー7世のあすか(聖乃あすか)は真ん中に立っていて安心感がありますね。
竹田先生が惚れ込んでいるのも脚本から伝わってきます。
自分で「プリンスオブロージーズ」って、あ、歌っちゃうんだ……とは思いましたが、きっとそれがやりたかったのでしょう。
実質2番手にあたるリチャード3世のゆーなみくん(優波慧)は、お化粧の迫力がすごかったです。
軽妙な役のイメージが強かったですが、こういう悪い側面も見ることができてよかったです。
らいとヘンリーは、本当に身長が高いですね。
宙組のスタイルお化け軍団に混じるといいのかもしれませんが、折角ですし花組で育って欲しいところです。
こういうときにタカスペが恋しくなるなあ。しどりゅう(紫藤りゅう)とかもえこ(瑠風輝)とかとの並びを見たい気もする。
はなこ(一之瀬航季)はなかなか食えない役に挑戦。
あすかヘンリーとのやりとりは同期ということもあって、にまにま。
新人公演の少尉、見たかったなあ。一生言う気がする。
今回は新人公演の紅緒も編集長も鬼島も出ているから余計に思うのかもしれません。

ヒロイン格のイザベルを演じたみさきちゃん(星空美咲)は、新人公演ヒロインなしのバウヒロインということで抜擢だったと思うのですが、芝居、歌、ダンスともにこじんまりとはしていますが、安定している印象を受けました。
プログラムのお化粧の様子を見ると、こちらも伸び代がありそうです。
ちゃぴ(愛希れいか)に似ているという話がありますが、私はあんまりそうは思わなかったかなあ。

2番手ヒロインはあわちゃん(美羽愛)。舞台化粧が進化していましたが、もっとよくなるぞー!とめっちゃ応援しています。
お衣装はプロローグの象徴的なグレーのドレス、1幕アンのブルーグリーンのようなドレス、2幕の王妃としてのダルメシアンみたいなファーがついた青いドレス、フィナーレの深紅のバラモチーフのドレス。
プログラムのお衣装は美咲ちゃんもあわちゃんも出てきませんでした。
フィナーレはダイナミックに踊る!最高!
8期上のゆーなみくんによくくらいついていたと思います。

りりか(華雅りりか)エリザベスは最初に出てきたオレンジ色(柿色?)のドレスをしっかりと着こなしていた。
あのドレスの色、似合う人、なかなかいないよ……。
このエリザベスもかなり物語がある人なので、こちらのお話もまた見てみたいなあ。

うらら(春妃うらら)マーガレットも、始終尼さんのような姿で、とてもよかった。
見るたびにべーちゃん(桜咲彩花)に似てくるような気がいたします。

リチャード3世の従者であるゲイツビーを演じたとわちゃん(峰果とわ)がすごいうまい。
『はいからさん』のときにも思ったけれども、すごいなあ。
リチャード3世が主役に見えるのも彼の果たした役割が大きく感じます。

千秋楽まで無事に幕が開くことをお祈りいたします。

外部『ポーの一族』感想

ミュージカル・ゴシック『ポーの一族

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原作/萩尾望都ポーの一族』(小学館「フラワーコミックス」刊)
脚本・演出/小池修一郎宝塚歌劇団
主演/明日海りお

宝塚版も見に行きましたが、今回は、まず幕が違うというところがおもしろいなと思いました。
開演前、席について驚いたのです。
舞台の幕というのは上下で開閉する布というイメージが強いですが、今回は左右に動くプラスチックの板?か何かでしょうか。
しかも切れ目がまっすぐではなくて、なんだかゴツゴツした感じの創りになっていて、上手に2枚、下手に2枚でなんとか舞台全体を隠している形でした。
斬新だなあ、新しいなあ、おしゃれだなあと思いながら見ていました。
開演前は薔薇の映像が映し出されていましたが、芝居中はいろいろな映像に変わっていました。
いかにも「ミュージカル・ゴシック」という感じでしたね。
せっかく外部でやるんだもの。やっぱり宝塚と違うものを見たい。
そういう期待に応えてくれる幕でした。

生オーケストラも久しぶりで良かったです。
開演前や幕間に練習しているのが聞こえて、そうそうこれが普通だったんだよ。
自由に練習している音をBGMにプログラムで予習するのが常だったんだよ、となんだか日常に戻った気分でした。
見に来ているのは「ミュージカル・ゴシック」なのにw
宝塚にも早くオーケストラが戻って来るといいのですけれども、今度の星組『ロミジュリ』も録音のようですね。

エドガーのみりお(明日海りお)は、宝塚版で『ポーの一族』を上演していた頃も、そりゃ痩せていましたが、今回はなんだかそれよりも痩せてしまっているように見えてしまい……大丈夫なのでしょうか。
みりおも外食、していないのかな。
もっとお肉食べて欲しいな。
もちろん相変わらずの歌唱力、演技力には全く問題がないし、文句もないのですが、頬が痩せこけているように見えるのが始終気になりました。

私がとにかくよかったと思うのはかなめさん(涼風真世)です。
なんといっても宝塚で初めてできたご贔屓ですからね!(まだほんの子供でしたがw)
還暦過ぎてもあの歌唱力って化け物だな。
宝塚でも四季でも歌唱力に定評がある人が、年齢とともに筋肉の衰えでしょうか、次第に元気がなくなっていく様子は今まで何人もみてきましたが、かなめさんは違う。
びっくりする。どこから声が出ているの?って感じ。
みんなで歌う曲も、一人だけ違う歌詞、メロディーで歌っていても、ちゃんとわかる。
これ、相当すごいことだと思います。
プロローグからひっくり返るかと思いました。

老ハンナ、とても素敵でした。
さおた組長(高翔みず希)の老ハンナも好きでしたが、かなめさんの老ハンナもまた違った風体であり、大変すばらしかったです。
声がだいぶ低いようでしたね。プログラムにもそういう指示があったらしいことが書いてありました。
とにかく圧巻だった。右に出る者はいない。役者だわ~。
キング・ポーの福井晶一さんもすばらしかったですが、これはやはり山口祐一郎で見たかったなという気がいたします。
『貴婦人の訪問』コンビの山口・涼風が好きすぎるんです、私!

かなめさんのエドガーも見てみたいなあ。古い『歌劇』は母親のところにあるはずだけど、もう捨ててしまった可能性が高いですし。淋しい。
かなめエドガー、ゆりちゃん(天海祐希)のアラン、のんちゃん(久世星佳)のポーツネル男爵ってよくないですか? みつえちゃん(若央りさ)がクリフォードです!
この場合よしこ(麻乃佳世)はシーラというよりもメリーベルでしょうか。
シーラは紫ともも捨てがたいですが、羽根千里も見て見たいです。
ジェインは朝凪鈴、マーゴットは上のお二方のどちらか、という感じでしょうか。
私はもうなんだか見た気さえしてきました。

かなめさんのもう一つのお役であるマダム・ブラヴァツキーはもはや怪演の域。
最初に出てきたビジュアルにも驚かされましたが(お腹周りに何か入れているのかな?)、顔の輪郭をゆがめてるにもかかわらず、ちゃんと声が通るんだよー! すごーい!
乃木坂のジェインにはぜひ見習ってほしい(清楚で気弱な感じは出ていたのですが、あれは演技なのですかね……?)。

顔の輪郭が何か、こうとにかく歪んで見えたので、てっきり口の中に何かいれているのかと思ったんですけれども、声を聴いている限りはそうではない様子。
だからただ単純に顎をひいているだけなのかもしれないですけれども、見た目は老ハンナと同一人物には見えないなあと思いました。
そして1幕終わりには老ハンナに戻っていたので、着替え、化粧の速さも求められるからあんまり手の込んだことはできないのだろうけれども、それにしてもすごい変わりようだった。
ブラボー!

レイチェルせーこ(純矢ちとせ)もすばらしかったです。
1幕に1回しか出てこないのがもったいないくらいでした。
2幕はもう少し出番がありましたが、なんだかちょっともったいないような気もしたくらいです。
もっとせーこが見たかったよおおおお!
じゅりあ(花野じゅりあ)のレイチェルも素敵でしたが、せーこも最高でした。絶品!

あーちゃん(綺咲愛里)メリーベルは、すごい可愛い髪形で、左右それぞれに薔薇のモチーフでしょうか、三つ編みしたらしき髪をくるくると巻きつけているようですが、その上からさらにリボンだったりヘッドドレスだったりがくっつくので、かわいらしさてんこもりでもう大変!
かわいい丼みたいな感じだった。もうやめて! かわいいはお腹に入らないわよ!って感じ。
あの金髪がまた似合うのよね、彼女……すごい。
みりおエドガーとあーちゃんメリーベルの二人の場面は、そりゃもうまんま宝塚でしたよ。
まさかこんな耽美な場面に出合えるなんて……という感じ。
華ちゃんメリーベルと並んで、双子やってほしい。

話の流れはおおむね宝塚版を踏襲していましたが、メリーベルは曲が増えていましたね。
ユーシスが亡くなった場面の後にソロ曲がありました。
ユーシスが亡くなった悲しいという歌ではなく、エドガーが恋しいという歌詞で驚きました。それでいいんかい、それでいいのよね。現実にはいないタイプですものね。
オズワルドは、まあ現実にてもおかしくはないかな。

ユーシスは生身の男性が演じるには少し無理があるのかもしれないな、と思いました。
あのはかなげな少年、目がうつろで、でも美しくて、現実に足が付いているのかついていないのか、ちょっと危うい感じって、なかなかでないものね。
もしかしたら少年だったらできるのかもしれませんが、ユーシスは少年という年頃でもないですし、難しいところです。

アンサンブルはレダ役の七瀬りりこさんは本当にどこにいても歌声がわかる。
神から授かったものに違いない。
美麗たんもどこにいてもわかるあの身長の高さ! スタイルのよさ! 町娘でもすぐわかる。
オープニングのドレスも素敵でしたけれども、ホテルのドレスの仕立て屋のお衣装もすばらしかったです。
ブルーと紫で大人な感じですが、リボンもついていて愛らしかった。
今回は台詞もありましたね。

しかしドレスを着為れていないアンサンブルの方もいらっしゃるのでしょうか。
後ろの階段を上る際、ドレスをもちあげるのは良いのですが、せめて後ろを向いてからもちあげてくれ~!
客席をむいたままガッ!ともちあげている人がいて、きゃー!という感じでした。
マダムの役どころだったと思うのですが、品がなくてよ、マダム。

ねねちゃん(夢咲ねね)のシーラが個人的にはいまいちだったのですが、これはもうねねちゃんがどうこうというよりは、ゆきちゃん(仙名彩世)のシーラが完璧だったということでしょうね。
あれは本当にすばらしかった、最高だった。歌とか物腰とか台詞の言い方とか。
ゆきちゃんのシーラが始終恋しかった。
あの完成度は高かったもんなー本当に。
ねねちゃんも雰囲気は良かったです。

マーゴットもいまいちピンと来なかったのですが、これは宝塚のしろきみちゃん(城妃美怜)のマーゴットが好きというのもありますが、そもそも原作のマーゴットが好きすぎるという問題もあるかと(笑)。
妹と弟がいなくなったせいで、マーゴットをちゃかす存在がいなくなったのも大きいかもしれません。
なんせ、私、万が一自分が演じるなら絶対にマーゴットがいいからなあ……シーラやメリーベルではない。

ユーシスのところで生身の男性が演じるのは難しいと思ったのですが、そういえばセントウィンザーの制服も、生身の男性が着こなすのは難しいファッションなんですね、きっと。
宝塚版を見たときは何の違和感もなかったのですが、今回は「ん?」と思うことが多くて。
その中で、もちろんエドガーは着こなしているので、余計に違いが目立つなと思いました。
よく見ると、おそらくベルトの位置がエドガーと他の生徒では違うんですね。
エドガーの方がちょっと高い。
ベルトから下のボタンがエドガーは3つ見えるのに、他の生徒たちは2つしか見えない。
ただ生身の男性のベルトの位置を高くすると、またちょっと違う感じになってしまうんだろうなあということは容易に予想がつく。
難しいな……。

最後のドイツのギムナジウムの衣装は宝塚版では緑でしたが、今回は青になっていました。
緑よりも青の方が似合う人、多そうですものね。
バスケットボールのように見えるもので、サッカーのようなことをしていたと思いますが、下手奥の男の子はいつも蹴り損ねる。芸が細かいなあ。
男性アンサンブルの跳躍力にひたすら驚いてばかりでした。
ここのギムナジウムの生徒もそうですし、セントウィンザーの生徒およく跳ねていました。
学生たちが飛び跳ねるのはわかるのですが、ホテルマンやエドガーの影(白いブラウスが紫になっていましたね)までもがよく跳ねる。
しかしあれだけの跳躍力があれば、そりゃ跳ばせたい気持ちにもなる。
羽が生えているのかと思うほど。

千葉雄大が演じたアランは、初めてのミュージカルにもかかわらず、れいちゃん(柚香光)の物まねになっていないところはすごかった。
まだまだ今から進化していくでしょう。
個人的にもっとも足りなかったなーと思ったのは、ラストの場面です。
アランが人間でない場面はここしかないのですが、れいちゃんは「エドガー!」の一言だけで、あとは佇まいだけで「もうすでに人間ではないこと」を十分に表現できていたと思うのですが、ちばアランはそこがいまいちで、個人的にはもうちょっと頑張ってほしい場面でした。
御園座で進化した姿を見られることを祈っております。

アランといえば、エドガーと一緒に家を出ていく場面。
まずはお衣装が変わっていましたね。
宝塚版ではエドガーがシルバーのブラウスに黒リボン、アランがゴールドのブラウスに黒リボンだったのが、今回は、エドガーが白ブラウスにベロアの紫リボン、アランがグレーブラウス黒リボンでした。
役者が変わりますから、衣装が変わるのは納得です。
エドガーもベルベットの緑がボルドーに変わっていましたね。

ところでアランは、執事が「ハロルド様は生きていらっしゃいますー!」と聞いてから出て行ったのか、もしかしたら自分は人殺しかもしれないと思ったまま出て行ったのか。
ここ、結構大事なポイントだと思うのですが、今回は後者でした。
宝塚版は前者だったような気もしますが、どうだったでしょうか。
原作も確認してみる必要がありそうです。
伯父が生きていることに安心して、もう未練はないと考えて、ポーの一族に加わったという流れの方が私は好きだなと思いました。
このあとゴンドラに乗るのですが、上下するだけなので、ゴンドラ感はなかったかな……。

はしふぉーども(中村橋之助)はちょっとまだ固かったかな。
もうちょっと柔らかくなるといいのだけれども。
クリフォードのおおらかさみたいなのがもう少し個人的には欲しい。
ミュージカル発声ではないけれども、ちゃんと聞こえるからまあよしとします。

カテコのみりおさん。
「ありがとうございます。今日はライブ配信ということで……(きょろきょろ)あれの向こうの方、見えてらっしゃいますか〜?」
おそらく「画面」という言葉が出てこなかったのかと思われますが、「あれ」と言いました笑。
拍手のパン!パンパンパン!もやりました。
「みなさん息ぴったりですごい」鍛えられていますからー^^
その他、「じゅんばんこに退場してください」とな。
規制退場のアナウンス、もはやみりおが案内した方が良かったのでは?と思うくらいには自由退場でしたが、最近の宝塚よりはマシだったかな。
「ガラガラも忘れずに」と。ガラガラとうがいのことを言っていると思われますが、動作は手洗いのようにも見え、一度で「手洗い・うがい」の大切さを知らしめるこのすばらしさよ!(単なるボケとは言わない)
ライブ配信が23日もあるので「おかわり」してください、と2回目のことを「おかわり」と言ったり自由人でした。
しかし、そもそも花組ポーの一族』の千秋楽のときも「エドガーに会えなくて寂しくなるかもしれませんが、その気持ちは自分でどうにかしてください」(大意)とのたまっておりましたので、昔から自由人だったことを再認識しました。

ところで幕間客席。
マスクをしつつも周りにはっきり聞こえる声で公演について力説している客がいました。
スタッフに直接「お話は控えてください」と注意されたにもかかわらず、その直後にまた同じテンションで話し始めて、続けて注意されていました。
ようやくそれで黙ったけれども、マスクは鼻が隠れていないし、なんで見にきたのだろうって感じで、なんだかなあと……。
せめて一度目の注意で聞いてくれないかね。

今後もまだまだ気を引き締めていかなければならないと思いますが、感染症対策をしっかり行った上で観劇したいと思いました。