ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

宙組『夢千鳥』感想

宙組公演

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大正浪漫抒情劇『夢千鳥』
作・演出/栗田優香

たんご【タンゴ】
①ビリヤード。
②折檻。SM。DV。
宙組国語大辞典』

『ホテルスヴィッツラハウス』といい『夢千鳥』といい、宙組のタンゴの使い方、独特すぎるでしょう。
もう次のショーはタンゴに決まりだね!と思うくらいでしたよ。
『ホテルスヴィッツラハウス』のビリヤードの場面で悲鳴をあげたわたくしは、『夢千鳥』で夢二が他万喜を折檻する場面でも悲鳴をあげてしまいました。
真ん中の2人は和服なのに、SMの化身のような周りのダンサーは通常のショーに出てきても違和感のないようなタキシードとドレス。
ドレスの裾も斜めカットで、非常に攻めている印象がありましたが、そこに夢二の「それから他万喜は何人もの男の気を引くようになった。他万喜がその気になれば、それは簡単なことだった!」という台詞、続いて東郷の「その度に先生は他万喜さんと結婚し、折檻したその夜に描かれは美人画はそれはもうすばらしいものでした!」という台詞、とても攻めている。大変に良い。
そらくん(和希そら)とじゅっちゃん(天彩峰里)もしかしたらDVの被害者が見たらトラウマを思い起こさせるのではないかと思うほどの迫力で芝居をするのだけれども、周りのダンサーがお芝居であることを教えてくれるのが救いなのかもしれません。
たとえ周りのダンサーが折檻の象徴であったとしても、2人とは異なる完全に洋の衣装にすることで、異質な空間をうまく演出しているというか、なんというか。
とにかくあの場面が好きすぎてたまらない。
何度でも見たい場面です。
スミレコードおおお!と思わないではありませんが、演技力の賜物でしょう。すばらしい。
狂気的で圧巻のタンゴでした。

「青い鳥は見つけるのではなく、青い鳥の卵を見つけて、あたためて、孵化させて、育てるものなんだよ」というメッセージは、かなりキテる。
一生の恋人なんて、出会ってすぐにビビビとわかるわけではなく、2人でそういう関係を、言ってみるならば努力して作っていくものなのだ、と。
本当に「それな!」としか言いようがない。
その通りなんですよ。
出会ってビビビと一瞬でわかる相手なんて、現実世界ではいないんですよ。
首がもげるほど頷いた言葉です。
それを、白澤が赤羽なしで気がついたことに、やや不満のある方もいらっしゃるようですが、でもあの言葉は彦乃の父親が言うからこそ、説得力があったようにも思えます。
もちろん、宝塚だからこそ、主人公の変化にヒロインをもっと絡めて欲しかった、という気持ちもわからないではないのですが、個人的には今回はこの形でいいような気もします。
最後に鳥籠のセットが開いたのも「おお!」と思いましたが、鳥たちが自由になっても、赤羽は白澤のもとを離れず、だから白澤は赤羽をあたためた。
もうそれで十分ではないでしょうか。

私が上記のテーマと同じくらい感動したのは、名前についている色についてです。
赤羽礼奈/他万喜が「赤」であることは一目瞭然で、タカナシユキは出てきていないけれども(そしてきっと字としては小鳥雪なのでしょう)彦乃と同じイメージで、彦乃の父が白い花を彦乃にたとえたように、彼女たちは「白」のイメージカラーでしょう。
お葉は、何色だろうか、紫の着物を着て出てきていますが、フィナーレの「赤→白→黒」の衣装の移り変わりを見ると「黒」かなとも思いました。
しかし、ツイッターで指摘されて、『夢千鳥』のちらしをよくよく確認してみると、羽は4枚あって、赤、青、黄、白なんですよね。
そうすると『黒船屋』の女性が来ていた着物の色として、お葉は「黄」の象徴なのかもしれません。
芝居の中でも、黄色の着物に着替えるように夢二に促されている場面もありましたね。
それぞれヒロインたちがイメージカラーを背負っていて、主人公は白澤、つまり白だから、ひょっとかすると同じ色である白同士がくっつくかもしれない、白澤はタカナシユキとハッピーエンドになるかもしれないとなんとなく危惧していたのですが、最後は赤羽をあたためる。
これがよい。
自分とは異なるものを愛する。
愛の基本だと思うんですよ。そもそも全く同じ人間なんていないわけで、自分と違うからこそ愛する、自分と違っても愛せるというのが、愛なのではないでしょうか。
私は夫と全然好みが違っていて、音楽ならクラッシックが好きな私とジャズが好きな夫と、絵画ならルノワールが好きな私とロスコが好きな夫と。
フランスに新婚旅行に行ったときは、ヴェルサイユ宮殿でテンション上がりまくりの私と、ポンピドゥセンターやサヴォア邸でテンション上がりまくりの夫と。
同じ日本近代文学を専攻していたけれども、日本の古典とのつながりを重視する私と、同時代の世界文学のつながりを重視する夫と。
書き出してみるとキリがないくらい私たちは違う。
でも、そういう違いをひっくるめて愛すことができる。
深いよなあ。愛だよなあ。
だから白澤と赤羽という違う色同士が最後に仲良くなって終わるというのは、とてもよかった。
こちらもまた現実的だった。だけどちゃんと宝塚の舞台だった。
同じ色同士をくっつけた方がわかりやすい。
レヴューの衣装では大抵同じ色同士がカップルを組んで踊る。こちらは視覚効果もあるのでしょうけれども、作中にあった言葉を使うとするならば、その方が「大衆的」であり、宝塚歌劇団の根本は大衆演劇なんですよね。
だからこの演出はとても文学的だと感じました。
こういう言い方するとアレかもしれませんが、テーマといい、違う色をあえてくっつけるという発想といい、思考がアップデートされた女性作家の視点だなと思わずにはいられないのです。
『龍の宮物語』の指田先生としい、宝塚の未来は明るいなあ。

場面転換も大変にこなれている感じで、素晴らしかったです。
決して場面が少ないとは思わなかったのですが、スムーズな場転で、全くストレスを感じなかった。
美しい歌声による転換、蓄音器を挟んでの場所の転換、飛行機の音による転換、2幕はバーでの役者の台詞による転換が見事でした。このあたりから昭和/大正の境が曖昧になっていたように思います。
だから2幕の夢二は和服ではなく、白澤と同じ洋服を着ているし、夢二とお葉の場面は洋館なんですよね。
衣装や小道具期まで、よく目が行き届いている。
客席で見ていたら、きっともっとのめりこめただろうなあ。
いわゆる小劇場の使い方が上手いなと感じたので、大劇場で作品をつくるのが楽しみな演出家さんです。

作中の映画『夢千鳥』のヒロインは他万喜ではなく、彦乃なのかもしれません。
彦乃と出会ってから、彦乃と別れ、亡くなるまでが描かれていますし、彦乃との場面だけ、場所が固定されていないのも一つの理由です。
他万喜とは港屋とその奥にある和室でのやりとりが多く、お葉とは洋館でのやりとりが多い。
その中で彦乃とは、公園のベンチと思しき場所、電車、京都、長崎と場所を移動する。
それはもう、鳥のように解き放たれて(それ、別の作品です)。
けれども、舞台『夢千鳥』としては、やはり赤羽がヒロインですし、この話は、白澤が夢二の映画を撮ることで、自分の愛に気がつくという話なのでしょう。
冒頭の「こんな注目のされ方でいいのか!」「あなたがそれを言う?」というやりとりに凍えた身としては、「素直じゃない女は得意だから」「あたためているんだよ」のラストのくだり、最高でしたね。この温度差よ。
すばらしい。栗田先生、宝塚を選んでくれて、本当にありがとう。

ここからは役者別の感想。
主演の和希そら、よかったですね〜。
開演アナウンスを聞いて、「こんな低くて優しい声、出るんやな」と思いました。ファンにはたまらなかったことでしょう。
あとはうねうねっとしている前髪。
アンニュイな感じがよく出ていました。
どうやって作るのだろう、あの前髪。

じゅっちゃんも二役を全うした!という感じで素晴らしかったです。
ついこの間まで愛らしいアナスタシアの少女時代を演じていたとはつゆほども思えない狂気でした。
ランプが曇っていることは、夜に絵が描けない理由にはなっても、色待ちに行く理由にはならないだろうよ。もっと言ってやってもいいんだよ、他万喜。
「嫉妬に狂う目 その目をもっと もっともっともっと見せて もっと〜♪」の場面は最高でした。
夢二に座布団切りつけられて、赤い羽がバサッと出てくるのも良かったよなあ。
彦乃の両親に「2人は愛し合っています」「お嬢さんはもう女です」と伝えるところなんかも、スミレコードとは?となりましたが、圧倒的な演技力によるものでしょう。
2幕はあまり出番がありませんでしたが、他万喜にとって「自分を愛してあげなさい」という言葉はどれほどささったことだろう。
他万喜に向けられた言葉で、こんなにも優しく包み込むような台詞は他になかったのではないでしょうか、と感じるほど。
自分を傷つけてまで、夢二の、夢二なんかの気を引かなくてもいいのですよ。
時折入る讃美歌は作品の中の救いのような印象でしたが、他万喜にはまず自分のために讃美歌を歌ってほしいところです。

2番手はフィナーレを見るまで気がつきませんでしたが、マキセルイ(留依蒔世)。
2幕の冒頭の歌、良かったですよね〜。
バーテンの格好のままでしたけれども、上手に観客を大正パートに誘導していましたし、りんきら(凛城きら)との相性もバッチリでしたね。
いいマスターだった。
マスターについては、1幕の「甘えてるんだね」「もっと可愛く甘えてくれよ」「いや、じろちゃんが礼奈さんに」というやり取りがたまらなかったですね。
そのあと、じろちゃんは苦い顔するし、マスターはにんまりだし。最高だな。

夢二を翻弄する2人目の女性、彦乃はひばりちゃん(山吹ひばり)。良かったなあ。
『サパ』のときに可愛い子やな〜と思っていたし、『サパ』の終わり頃には滑舌がうんとよくなっていて、伸びるだろうなあと思っていたけれども、すばらしかった。
他万喜と比べると健全に見えるかもしれませんが、違うベクトルでやばさを感じるキャラクターでしたね。
明るくて元気で、のその下には、やはり芸術家だからでしょうか、狂気が見え隠れする。
夢二を自分のものにできると思っている。
東郷青児役の亜音有星くんとのやりとりがとても狂気的だった。
日本画の技法を教えたのは他万喜さんなんだよ?他万喜さんがいなけれざ夢二式美人は生まれ得なかった。他万喜さんは先生の師でもあるんだ」と言葉を尽くして他万喜は夢二のミューズであるべきと説得しようとする東郷に対して、「先生の新しい絵、見た?」のたった一言で対抗する彦乃、怖すぎるでしょう。

SMタンゴにナレーションを入れるのが東郷ですが、いったいどんな気持ちで台詞を言ったのでしょうか。聞いてみたいものです。
そして私はてっきり亜音くんが二番手かと思っていましたよ。うっかり。
こちらも二役で、昭和パートでは西条湊として赤羽を口説く役なのですが、大正パートでは他万喜を好いていながらも、それでも先生と他万喜さんの結びつきを否定しようとしない東郷に対して、西条はわりと赤羽に対してガッツリ自分のものにようとしている姿勢を見せますね。
それこそ彦乃のように。
その違いもまた面白くみました。

2幕で登場するお葉役はしほちゃん(水音志保)。
良いですね〜!出てきたときから、魔性の女っぽいですね〜すごいですわ。
ひばりちゃんと並ぶとやはりしほちゃんの方が一歩先を行っている感じがしますが、2人とも劇団さんに大切にしてもらいたい娘役です。
お葉が夢二に「なにさ!自分のことは棚に上げて!そりゃ私は学はないけれども、でもお人形じゃないのよ!」と感情をぶつけるところはすばらしかった。
そうだよね、夢二はお葉のこと、内心馬鹿にしている風があったもの。
桜の見える窓ではなく、隣の窓を見つめるのは、彦乃が入院している病院があるから。
こんななめくさったこと、よくできるよね。
夢二はお葉ならきっと気がつかないという考えがあるのだろうし、実際にお葉も美術学校の学生に指摘されるまで気がつかなかった。
これ、完全に相手をないがしろにしている態度だと思いますよ。
だからお葉の気持ちはもっともで、そしてお葉は許されたいわけでもなかったというのも良かった。
藤島武二はともかく伊藤晴雨なんかのモデルを務めていたら、歳のわりに知らなくてもいいことを知っている風にはなってしまうでしょう。谷崎潤一郎と並んで性癖おかしい人ですからね。
ごく普通に愛されたいという気持ちは自然に芽生えてくるかと。
彼女の悲劇ですわ。どうして画家はモデルを恋人や愛人にしたがるのだろう。ピカソもそうですが。
ちなみに藤島武二なら東京藝術大学に収められている『池畔納涼』 がすばらしいです。

夢二を翻弄する女性は他万喜、彦乃、お葉ですが、他にも有愛きい演じる姉の松香、花宮沙羅演じる芸者の菊子もなかなかに良かったですね。
夢二が歌うスプレンディの「清らかな川」「懐かしい山」は、あとから彦乃と使われる暗号への布石でもあるのでしょうが(全く暗号の役割を果たしていませんでしたが・笑)、自らの故郷、田舎、それから姉と連想させるものがあります。
冒頭にしか出てきませんが、松香の存在が夢二に大きな影響を与えていることをよく示している演出でした。
菊子ちゃんはお歌がお上手なのはもちろんなんだけど、夢二との話に別の人が割り込んできたときもちょっと嫌そうな顔したり、夢二と2人きりになって「生意気になったのね」としたり顔したり、かわいいやーん!
「カチューシャの唄」も大変よかったです。

西条のヘアメイクさんやマネージャーのお衣装もすごかったなあ。あの昭和なお衣装。
里咲しぐれが演じるヘアメイクさんなんか超サイケ。カラフルなワンピースにスパッツ。
マネージャーさんもその緑、どこで見つけてきたのー?!って感じ。時代の匂いを感じさせるの、うまい。
とにかく下級生もばんばん着替えてたくさん出てくるし、台詞があるし、よく目の行き届いた演出でした。
フィナーレも豪勢で、ロケットまであって贅沢でした(その分フィナーレを削って昭和パートももう少し増やしてもいいかもしれませんが)。ぜひ東上してほしいし、私も生で見たい。これがたった4日だったなんて、もったいなさすぎる。

夢二は「女子供にウケても仕方がない」と言う。
干からびそうなおじいちゃんたちに認められなければ、という強迫観念のようなものにずっと追われていた。
これは実際によく言われる話で。
でも、それって生きにくいだろうなあ、と弥生美術館なんか行くといつも思っていて、「女子供」の力って馬鹿にされていたんだな、というか、今でもされているのだな、と思ってしまう。
正式な絵の勉強をしていないことが強烈なコンプレックスになっていることはわからないでもないけれど、絵葉書を書けば飛ぶように売れ、半襟だってすぐに売り切れて、個展を開けば肉筆画も即完売、それで何が不安だったのだろう。
実際に100年後の今は夢二の名前を冠する美術館だってある。
夢二の夢は叶ったのでしょうか。
女子供をなめんなよ???

それから他万喜と夢二の子供である不二彦は、意外と父親のことを嫌っていなくて、目の前にあるものを一生懸命に愛し、誠実に守ろうとする人だったと評価していますが、それは不二彦が男だからそう思うのであって、女だったら絶対に別の評価になっていただろうなと思わずにはいられません。
そんな風に捻くれた感想をもつのは私が女だからかもしれませんが。

ちなみに同時代の画家なら私は断然高畠華宵の方が好きです。
夢二の美人画に対して、華宵は美少年画と言いましょうか、時代は夢二よりほんの少し早いですが、華宵の絵が好きです。
美少年画なら『さらば故郷』、女性を描いた絵なら『サロメ』『情炎』『人魚』あたりも好き。
有名なのは『(仮)百合』『ダンス』あたりでしょうか。布教したい。

宙組『Hotel Svizra House ホテル スヴィッツラ ハウス』感想

宙組公演

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Musical『Hotel Svizra House ホテル スヴィッツラ ハウス』
作・演出/植田景子

アー! もう! どうして! 誰も教えてくれなかったのですか! ビリヤードの場面!!!
私はあの場面が一番萌えましたね、最高でしたね。
1幕S4「The first night-はじまりの夜ー(Dining Bar)」ですってよ、奥さん!
はちゃめちゃにすごかった。あれだけで1時間見ていられる。最高だ。格好良かった。
一緒に見ていた夫は「ビリヤード台はないんだね?」と言っていたけれども、キューだけで十分!
ビリヤードやっているのわかるんだから大丈夫!
あのキューの使い方も神がかっていた。振付を考えた人は天才だな!
大石裕香先生、天才だよ!
みんなベスト姿で、ビリヤード特有の音もあって、サイコーだった。すばらしいタンゴだった。
ライブ配信だったから、「格好良くない?」「格好良い!」「すんばらC~!」と三段活用を声に出してしまいました。
もちろんクレッシェンドです。
『ダル・レークの恋』の2幕のサイコロを使った賭けを思い出しました。あれも好きだったが、今回の方が好き。
私自身は全くビリヤードなんかできないだろうが(そもそもやったことがない)、あの格好良さはわかるぞ。
ロベルトとヘルマンがビリヤードに強いことくらいはわかるぞ。
もう本当に頭抱えるほどみんな格好良かった。本当に、好き……ああいうの……たまらん……。
あの高身長の人たちがベスト姿でキューもってダンスするってそれだけで優勝だろうに。
まあ、どちらが勝ったのかはよくわからなかったんですけどね!
いいんです、格好良ければ。

まかぜさん(真風涼帆)は本当にスーツのよくお似合いになる方で……なんといったらいいのかわからないくらい似合っている。
前世はスーツを最初に発明した人なんじゃないかくらいいには思っている。
自分に似合う服を探究していたんでしょ? そうでしょ?って詰め寄りたい(迷惑)。
オーシャンズ11』のときはジャケットの中がてろんとしていましたが、今回はYシャツにネクタイとカチッとしているのも個人的にはポイントが高い。すごい。スーツ似合う。足長い。
好みだけでいうなら、濃いブルーというか明るいネービーに白のストライプの三つ揃えが一番好きだったよ、好き好き大好き。
ききちゃん(芹香斗亜)のベージュもよく似合っていた。
そうか、こういう色味もあるのかとはっ!とさせられたくらいです。
民間人が二重スパイをやるというのもすごい話ですが、彼ならやってくれるでしょう。
出てきたときからそういう説得力もありました。

ららちゃん(遥羽らら)のアルマはさすがでしたね~!
昔の想い人であるラディックの話をするときだけ、まるで別人のようであったけれども、むしろアルマにとってはこちらが本当の気持ちなんですよね、わかるよ、わかる。
アルマもある意味「人生という舞台を生きている人」という感じがしましたね。
本当のアルマは、大学でヴァイオリンを弾いて、ラディックと共にあった時代で時が止まっているのかもしれません。
ヘルマンもそれをよくわかっている。だから深追いしない。
二人には幸せになってほしいと思う。
思うけれども「芸術を愛する同士」になってしまった以上、この先ロマンはない、と夫は言う。
なんて夢のない話。でも、どこかでアルマの時間が動き出して、固い氷が解けて、ヘルマンと手を取り合ってもいいんじゃないかなと思いました。
あとアルマの素敵だったところは、娘役には珍しいパンツスタイルを美しくはきこなしていたところですね!
オープニングではヘルマンと一緒に歌も歌いましたし(潤花ちゃんはなかったね……)、重要な役どころをすばらしく演じてくれました。ありがとう。貴重な娘役です。劇団さん、頼むよ!

ラディックといえば、しどりゅー(紫藤りゅう)。
出てきたのは2幕で、1幕では仕事の上でロベルトを導いてくれたネイサン・ヒューズとして登場。
顔が美しいあまり、おひげがなんとなく悩ましかったですが、ラディックとしての登場は、亡命者ということもあり、もっとおひげがすごかった。
いっそあれくらいやると、別物になるのでしょう。
ヘルマンとアルマの回想シーンのラディックは大学時代のお姿で、これが一番美しさを余すところなく発揮している場面でした。素敵。

ロベルトは、アムスベルク伯爵と愛人バレエダンサーとの間の子供で、7歳で母が亡くなるまでは母親のもとで生活していた様子でした。
出産後、ダンサーには戻れなかった母親はそれでもダンスに関わる仕事がしたいと思い、バレエの舞台裏の仕事をする。
だからロベルトの遊び場はそのバレエの舞台裏だったと、ニーナに語る。
7歳までの生活費を伯爵は母親に送金していたのでしょうか。
こういうのって、ありがちな話だと、父親はまともに養育費を払っていないですよね。
でも母親が死んですぐに伯爵のもとに引き取られたから、この父親は少しは送金していたのでしょうか。
生活のあまりの違いに、ロベルトは父親に反感をもたなかったのでしょうか。
7歳って難しいよな……まだ子供だからわからないというほどではないし、明確に「母を愛人にした人」と憎むには大人ではないだろうし。
でも伯爵はよく面倒みてくれたらしく(おそらく正妻に男の子が生まれなかったからだろうと想像されますが)、避暑地としてホテルスヴィッツラハウスには来ていたようで。
ペーターと父の話をするときもそれほど嫌ではなさそうなのがちょっと気になりました。
もっとも大学に行く頃には、すでに家のことを気にしている場合ではなく、戦争の影が色濃くなっていたでしょうから、そんなことを気に掛ける暇もなかったのかもしれません。
ひょっとすると祖国がなくなるかもしれない、というところまで来ていたはずですし、実際舞台上での時間軸ではオランダはドイツに占領されていた。
イギリスのオランダ大使館に勤めているということですが、言ってみれば存在しない国の大使館ですからね。
これはなかなかキツイ。父親が嫌だと言っていられる状態ではないことは、頭のいいロベルトならわかったことでしょう。

というか、ペーターのまっぷぅさん(松風輝)、良かったですよね。
前回の梅田公演『サパ』に引き続き、安心安定でした。
その場で何かが起こっても、まっぷぅさんがいれば、とりあえずなんとかしてくれそう!という気持ちになります。
月組ではやす(佳城葵)がそのタイプですね。
各組に一人はそういう人がいてくださると、見ているこちらも安心します。
シーソーもびっくりの抜群の安定感。バランス感覚が優れている。
配役の妙ですね。

登場した瞬間から相変わらずスタイルお化け!と思わせるもえこ(瑠風輝)はロベルトの助手のエーリク役。
以前にもロベルトと一緒に仕事をしたことがあるようで、ロベルトを尊敬している。
そのあたりの話、もうちょっとお姉さんに聞かせて欲しい、番外編が欲しいとも思わせるほど魅力的。
チューリヒに向かったことをロベルトがリチャードに話したときは「消されるのでは?」と思いましたが、無事に戻ってきてくれましたね、ありがとうございます。
エーリクにはぜひ仕事もなにもかも投げ出したくなるような恋をしてもらおうではないですか!
こちらもまた続きが気になる人です。
余白のある人といえば出てきませんが、エヴァの恋人もいい人ですよね。
「子供のおじいちゃんを犯罪者にしてはいけない」ってなかなか言えるものではないですよ。
出てこなかったのが惜しいくらいすばらしい人物だと思いました。

瀬戸花まりもさすがのジャズシンガーでしたね。プロローグでは戦争説明のアナウンスもやっていました。
なんとなく『サパ』を思い出したのは私だけでしょうか。
スウェーデン大使夫人として出てくるときはかつらを変えても良かったのでは?と思いましたが、時間がなかったのでしょうか。
また歌声にほれぼれさせてくれるのかと思ってしまいました。
でもああいうちょっとした客の役でも魅せられるのはうまいよなあ、と。雪組あいみちゃんもそうですが。

ユーリ―が最初にジョルジュに電話している場面は、舞台の一体どこで行われているのかが、気になってしまい(カメラがアップになっていて、そのあとすぐに舞台がホテルのフロントだったような)内容がいまいち頭に入ってこなかったのですが、ジョルジュを助け出したかったんだな、と2幕でようやく気が付きました。
このユーリ―とジョルジュの描き方が秀逸でしたね。
ツイッターでもポロっとつぶやいたらお二方からリプライをいただき、やはりすばらしかったのだな、と再確認しました。
バレエダンサーというよりも芸術家には比較的に同性愛者は多いのでしょう。
その二人がラブラブで、いちゃついていたとしても、周りが冷やかすことなかったのが印象的でした。
ユーリ―に相手にされなくてふくれている女性ダンサーはいましたが(笑)、これは男女のカップルでもよくあることでしょう。
描き過ぎていないし、茶化してもいない。すばらしい演出だったと思います。

その一方で、やはり景子先生、説明的だなと思うところがいくつか……。
個人的には、父親の話をするエヴァの台詞(国家権力の前に個人の抵抗が虚しいのはわかった)、捕まった後のリチャードの台詞(権力を失うのが怖かったのはわかった)、バレエ団にお礼を言うマダム・マーサの台詞(息子が死んだ世界で生きている意味が見つけられないのはわかった)なんかが説明的だったな、と。
演者の芝居で十分わかっているよ! 大丈夫だよ! 演者と観客をもっと信頼してあげて!
あと西暦の年号がたくさん出てきたのもちょっと違和感でした。
日常会話であんまり西暦で「2020年」とか言わないですからね。
イリアム・テルが誰あるか、ということも、話の肝かもしれませんが、スターシステムを取っている以上、誰であるかということは明白では?と思ってしまったので、そこもちょっとカットしてもいいのではないかと思いますが、スターシステムを取っているからこそ、見せ場として必要だという意見もあるだろうなと。
このあたりはバランスが難しいですね。
ただやはり全体的にはやや台詞が多いように感じられ、もうちょっと余韻に浸りたいな、と。
あと、このメンバーだから、もうちょっと豪華なフィナーレが見たいな!!と強く思ったわけですよ。
これまた『ダル・レークの恋』のときにはたくさんフィナーレを頂戴して、うれしかった身なもので。
もっとも『ダル・レークの恋』はもともと1幕だったものを2幕ものにした、ということで時間に余裕があるというのはわかるのですけれども。
踊るとよくわかるあの高身長とあの長い足を堪能したいじゃないですか(真顔)。
抜けがないあたりはプロットがしっかりしているんだな、さすがだなと思わせますし、『アナスタシア』や『PRINCE OF ROSES』のように台詞が足りない!と感じるよりはいくらかマシなのですが、いい塩梅というのは難しいのでしょう。
今のコロナパンデミックの時代だからこそ、あらゆる台詞が刺さった!という人がいるのもわかります。
だから好みの問題もあるのでしょう。

その他に気になったのは、海外ミュージカルではないわりに英語が多いなあ、と。
プログラムのシーン別タイトルは世界観の統一もあるからわかるのですが、主題歌はサビに入ると逐一英語が出てきましたよね。
そういう点で『神々の土地』なんかは全部日本語で、でもちゃんとロシアということがわかって、すごいなあと。
個人的に英語が苦手ということもあるのかもしれませんが、プログラムに書いてある曲のタイトルも前部英語で、歌詞のサビが全部英語っていうのはなあ……なんだかもやりました。
それから「Chase the Truth(真実を追え)」は戦隊モノのようなメロディーでしたね。
「All for One」というフレーズも出てきたので、つい月組を思い出しました。

下級生では、シルヴィ役の春乃さくらちゃん、ジョルジュ役の泉堂成さん、客の女の愛未サラちゃんあたりが検討していましたね。
シルヴィは、それもニーナが歌ったわりとすぐあとにシルヴィの歌があるから、ニーナよりも歌がうまいのが目立ってしまったような気もしますが、こちらは潤花ちゃんの課題、のびしろということになりそうですね。
さくらちゃんの歌唱力、宙組のコーラス隊の力になって欲しいものです。
ジョルジュはもう一回跳んだだけで、なにその跳躍力!? え!?と目を丸くしてしまいましたよね。
期待のダンス力です。すごかったわ~。
サラちゃんは客の女という名前のないお役でしたが、台詞はちゃんとありましたね。
ユーリ―にサインを求めるときなんか、それほど高いヒールではなかったのに、並んだずんちゃん(桜木みなと)とほぼ同じくらいで、身長高いなあと感心しました。
あと画面のどこにいてもわかるあの美しいお顔。すばらしい。
これからの成長が楽しみな3人です。

何はともあれ、ビリヤードが素敵でした。思い返すのはその場面ばかり。

花組『アウグストゥス-尊厳ある者-』『Cool Beast!!』感想

花組公演

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ドラマ・ヒストリ『アウグストゥス-尊厳ある者-』
作・演出/田渕大輔

パッショネイト・ファンタジー『Cool Beast!!』
作・演出/藤井大介

公演プログラムの都姫ここちゃん、美羽愛ちゃん、美里玲菜ちゃんのお写真が新しくなっていてホクホクしました。
ここちゃんは愛らしい娘役、あわちゃんは明るく元気な娘役、れいなちゃんは可憐な娘役って感じです。
あー可愛い。花娘たちが本当に可愛い。
ついでに公演プログラムといえば、生徒さんたちの文章は一体どなたが編集しているのでしょうか。
今回はとくに読点の位置が気になってしまった……推敲ならするよ、500円でするよ。

そんなわけで華優希のサヨナラ公演。
未だに夢だと思っている節がある上に、なぜか東京では開催されず、ライブ配信の日程さえまで発表されていない華ちゃんのミュージックサロンのチケットがとれなかったことに闇を抱えている人間としては、しんどいことこの上ないのですが、見てまいりました。
ああ、どうして辞めちゃうの。今から取り消してくれてもいいのよ。

ポンペイアというお役が、作品の中でもちゃんと意味のあるポジションにあったことにまずは安堵しました。
そんなことから心配される方がどうかしていると思いたいんだけどね。だって、ほら、たぶち先生だから。
復讐の塊であったポンペイアが、柚香光演じるオクタヴィウスとの出会いを通して、「人間として生きることの大切さ」を知る一連の流れは、繊細な芝居が求められますから、いわゆる宝塚の大袈裟な動きをすると、やりすぎて嘘っぽくなってしまう。
そこをいい塩梅で宝塚の芝居として確立させつつも、観客の心にしみわたる演技だったと思います。

私は特に「アクティウムの海戦」で女神のように現れ、風向きを変え、オクタヴィウスを勝利に導いたポンペイアが、マジ勝利の女神だな!という感じで大好きで、たぶんここを印象的な場面に挙げる人は多いと思うのですが、それと同じくらい好きな場面が、ウェスタ神殿でオクタヴィウスがレオノラから既にポンペイアが亡くなっていることを知らされた後、出てきたポンペイアがオクタヴィウスに「自分を大切に思ってくれる人の存在に気が付けなかった」と後悔している場面も大好きです。
ポンペイアは「自分を愛してくれたのは父親だけだった」と言います。けれども、自分が死んだあと、レオノラがどれだけ自分の死を悲しんだか、怒ったか、それを見て、生きているときには気が付かなかったけれども、自分は彼女にも間違いなく愛されていたんだということに気が付いたのでしょう。
レオノラは出番は2回しかないのですが、ポンペイアにとってとても重要な役で、オクタヴィウスももちろんポンペイアにとって大事な役なんだろうけれども、2回しか出てきていないレオノラが、その2回ともちゃんと意味があって、その2回がちゃんとつながるという意味では、レオノラの方が大きいような気さえする。
この2人の物語がどんどん膨らんでいく。

物語に描かれていない空白の物語を観客が想像して楽しむことができる芝居は、一般的にはいい芝居なのでしょうけれども、描くべきものが描かれていないから想像するしかない芝居との区別は難しいかもしれません。
今回もポンペイアとレオノラのやりとりはとても意味深く、それこそ神聖なものであるかもしれませんが、本来であるならば、主人公であるオクタヴィウスとポンペイアの関係がそうであるべきであって……なんというかそこは足りないのではないかと思ったのが今回の芝居でした。
主人公の描き方が足りない。言葉が足りない。
同じようなことを『アナスタシア』や『PRINCE OF ROSES』でも感じたのですが、物語を作るときのプロットというのは当然主人公を中心に考えていきますから、主人公について描き足りない、なんてことが本当に起こりうるのでしょうか、という疑問もあります。
突き詰めて言えば、プロットから甘かったのではないか、と。

オクタヴィウスがそれまでのカエサルアントニウス、ブルータスらとどう違うのか。
彼らとは一線を隠す存在だったからこそ、彼は「ローマ皇帝」となり「アウグストゥス」の称号をもらえたんですよね。
でも、それが全然伝わってこない。
彼らとどう違ったのか、例えば戦を好まない、ということはわかったけれども、それだけで民衆の支持が得られたとは思えない。
本当はそうであってほしいけれども、現実を見るとそうではないことはわかりきっているし、「パンとサーカス」で騙されていたあの民衆たちが「戦を好まない」という理由だけでオクタヴィウスを選ぶとは考えにくい。
そもそも尊厳者たる称号も一体誰から「与えられた」のかが不明瞭。
これは私の勉強不足もあるかもしれませんが、プログラムやチラシに「与えられた」と書いているにもかかわらず、「誰から」というのは書いていない。
これ、例えば、国語のテストの記述だったら×になるんでしょね。
きちんとその文章だけで完結させて、わかるように書かないといけない。

その一方で、レオノラと同じく出番がたくさんあるわけではないけれども鮮烈な印象を残したのは主人公のオクタヴィウスの姉オクタヴィア(音くり寿)でしょう。
もちろん彼女の演技力もあるのですが、プロットとして、最初は母の言いなりだったけれども、愛する婚約者に愛されない苦悩、遠い地での婚約者の死を経て、母に反抗し、自分のことは自分で決めるという、いわゆる近代的自我を獲得していく一連の流れは美しかった。
本当にすばらしかった。
ポンペイアとレオノラとオクタヴィアがすばらしい作品だったと思っている。
そしてポンペイアに続きはないけれども、オクタヴィアは生きているから続きがあって、アグリッパ(水美舞斗)と幸せになってくれ~!と思わせる。
ああ、まいてぃのアグリッパもとても良かったんだよ。
絶対にオクタヴィウスを裏切らない安定感が半端なかったよ。安心安定の逸材だよ。
「君がアティア様に逆らう日がくるなんて思わなかったよ」みたいなことをアグリッパが言って、そのあとオクタヴィウスの凱旋式に行くのですが、舞台からはけるときは一緒にはけたのに、凱旋式にはオクタヴィウスだけが最初に出てきてあとから遅れてアグリッパも出てくる。
これもよかった。一緒に出てきたら、ちょっと萎えていたかもしれないと思ったほど。
喪服を着ているオクタヴィウスの心をアグリッパが気遣っているのがよくわかる。
ああ、二人に幸あれ。

れいちゃんは演技ができる人だと思っているのですが、そのヴィジュアルから漫画原作ものが多く、ようやくつかんだオリジナル作品なのに、なんかうすぼんやりとしてた人物を与えられて、観客としてはなぜか申し訳ない気持ちにもなる……。
ショーの野獣に関しても同じなんですけれども、そういうのじゃなくて!と思っている観客もいるんですよ。
野性味がある、顔立ちがはっきりしている、それはそれですばらしいのですが、彼女の持ち味ってそれだけではないでしょう、と思ってしまうのです。なぜ劇団側が理解してくれないのか。

カエサル夏美よう)、クレオパトラ(凪七瑠海)、アントニウス(瀬戸かずや)、ブルータス(永久輝せあ)はそりゃもう抜群の安定感だったけれども、芝居の中でキャラクターの立ち位置は本当にそれでいいのだろうかと思うことがなきにしもあらず、という感じです。
特にあきらはこれで退団なのに、これでいいのか? ファンはどういう気持ちで見ているのだろう、と心配になりました。
だいたいにして二番手が、言ってみるならトップにならないのに退団する作品なのにトップスターに敗北するというのはどうなんでしょうね、と思ったところで『夢現無双』もそうだったなと思うなどして微妙な心境になったのですが……。
あのときは公演の客入りがいまいちだったにもかかわらず、みやちゃんのお茶会はものすごい数が集まって同じホテル内でライブ中継されたとかされなかったとかという話もあるくらいですからね。
今回はそのお茶会さえないのだから、ファンは公演に通うしかないんですよね。そういう意味ではなおつらいでしょう。

芝居に関して言えば「神々」というお役がよくわからず。
なんといっても私はあわちゃんが全日程出演な上に固有のお役までいただいたのだから狂喜乱舞してみていたのですが、公演開始前に発表された人物関係図では「神々(実は憎しみの化身)」という大きなネタバレが公式から発表されましたし、出てきたときはむしろ白い衣装の巫女さんたちが神々なのか?と思ったくらいで、あの黒い人たちは一体……。
最初から「憎しみ」というお役ではいけなかったのか。
「神」と崇められていたような人が「憎しみ」に支配されて、瞬く間に転身してしまう悲劇のさまを描きたいのなら、もっと描きようはあっただろうに、とか思ってしまう。
大好きなあわちゃんのお役だし、一生懸命あの強面のメイクを練習して、男役さんにまざって得意な踊りを披露していたのだから、なんとか!とは思うのですが、今のところ私の中ではなんともならないな……。

しかしショー『CoolBeast!!』ではあわちゃんの愛らしさがはじけ飛んでいたわけですが、もうしょっぱなから可愛いですね。
なに、あのミラーボールのようなマイクは。そもそもマイクなのかどうかも微妙ですが。もしかしてマラカスかな。
とにかくベリーキュート。あの髪形も最高。
空美咲ちゃんと一緒に出てくるけれども、やっぱりあわちゃんの方がかつらとか好みだなーと思うのです。
華ちゃんと一緒に舞台にいるときに、もうどっちを見たらいいかわからなくてオペラが迷子。とにかくかわいい。
オープニングで華ちゃんが銀橋センター、あわちゃんが舞台奥センター階段にいるときはどちらも見れて眼福。

美穂圭子さんとくりすちゃんのラヴェルの「水の戯れ」を歌い継ぐところや、中詰歌バトルは最高。こちらは耳福。
中詰のお衣装はもっとどうにかならんのかい、と思うけれども。
私、中詰との相性悪いのではないか?と思うほどなんだけど、ダイスケ先生の『EXCITER!!』の中詰は好きなんだよね。
同じ先生のはずなんだけどな。

ラヴェルの「水の戯れ」の場面の華ちゃん、超かわいい。ソーキュート。ほんとダメ。可愛すぎる。
あのラベンダーのベールもラベンダーのお衣装もかつらも好き。すべてがかわいい。
野獣や、食べてはいけませんよ。
そして人間さえ魅了するあの美しい華よ、われわれの華ちゃんよ。

結婚式の場面は、かわいいけれども、実は全体の流れの中ではポジションがよくわからないな、と思っているけれども、まあとりあえず可愛いからよし!
場面の切り替えやお衣装替えでそういう場面も必要なんだろうからよし!
あわちゃんがかわいいいいいいいいい。
ナイトライフも生死を駆けた食べ物の争いで、なぜその曲wとは思ったけれども、男役さんは格好良かったし、娘役さんは美猫だったからこれもよし!
ポルノグラフィティは世代なものですから、学生時代によく聞いていた。
フィナーレで使われていた「ジョバイロ」あたりまでなら全曲わかる。
そして本家よりも色気のあるジョバイロとは。
まあ、もともと本家は色気で売り出していないからな。あきらや娘役ちゃんたちの色気、やばかった。
あわちゃんの色気……あのドレスも素敵でしたね。

華ちゃんは、たぶん『BEAUTIFUL GARDEN』で仙名のゆきちゃんがデュエットダンスで着ていたドレスを着て銀橋を渡る場面がありましたが、華ちゃんのサヨナラ公演なんだから、もっと華ちゃんの出番があってもいいのではな?と思いながら見ていました。
ダイスケ先生は、なぜか男役に娘役の格好をさせたがりますが、一方でトップ娘役はきちんと起用してくれる先生だったと思っていただけに残念。
れい華のデュエットダンスはそりゃもう素敵だったけれども、もっといろいろな華ちゃんが見たかったよ。
デュエットダンスの後ろで歌っている圭子さんとかちゃさんも素敵でした。絶品。

花組は前楽日を観劇できることになっているのですが、月組はダメでした。
おそるべし、たまきち……たまきちのサヨナラショーも見たかったなあ。
どこからかチケットがわいて出てこないかなあ。

月組『ダル・レークの恋』感想2

月組公演

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グランド・ミュージカル 『ダル・レークの恋』
作/菊田一夫
監修/酒井澄夫
潤色・演出/谷貴矢

東京のライブ配信の感想はこちら。

yukiko221b.hatenablog.com

改めて自分の記事を読んでみても、とにかく絶賛の作品でございます。

今回は梅田の役替わりの感想が中心になります。
まずはペペル。
東京では暁千星、梅田では風間柚乃でした。
ありペペルは父がフランス人、母がインド人という混血であるが故に周囲からの目もあり、結果的にグレて飛行に走ったのに対して、ゆのペペルはなんかもう根っからの悪人で、自分から進んで楽しそう!という簡単な気持ちで悪の道に向かっていったという感じがします。
クリスナのときも感じたのですが、ゆのの演技の根っこがカラッと乾いていて、明るい感じがするからでしょう。
ゆのぺペルはパリで偶然リタに会い、復讐を思いつくけれども、ありぺペルは執念深くその後もからんマハ・ラジアのことを調べ続けて、念願の日が7年目に来た!という感じ。
なんせ、ゆのが本当にカラッと明るい太陽のような悪人のように見えるもので……笑。
ありぺペルは白いスーツが、ゆのぺペルは黒いスーツがお似合いでした。
舞台写真がないのがファンにとっては辛いですね……。

混血であることは今以上に差別の目を容赦なく投げかけられる時代、ぺペルはそもそも父親に認知されたのでしょうかね。
フランスにいたのだから、インド人の母と暮らすためのお金はもらっていたのでしょうけれども。
「王家の有り余る財産」をもっていない人間にもっている人間の気持ちなんて、まあわからないですよね。
だからこそ、もっている人間がもっていない人間を労る必要があるのかなあ。

役替わりとは関係ないですが、リタの肩に回したゆのぺペルの腕を、後ろからそーっとやす(佳城葵)ポトラジが離そうとするところ、おもしろかったなあ。
これってライブ配信の日にもやっていたのかしら。あんまり覚えがないのだけれども。
やすが出ていると場全体が安定して、見ているこちらも安心できる。貴重な人材。
一方で、こういうコミカルな芝居だって安心と信頼の人だから芸達者だよなあ。あっぱれである!

お次はクリスナ。
こちらは東京では風間柚乃、梅田では夢奈瑠音。
クリスナは「領民にそれほど重い税はかけない」一方で、「領民のためを思って政治をしている自覚がそれほどない」と僧侶に言われます。
ゆのクリスナが領民にそれほど重い税をかけないのは、打算があるからで、僧侶たちに領民のための政治をしているように見せないことも計算のうちでしょう。
その方が政治がやりやすいから。
一方でるねクリスナは優しい心根から領民に税をかけないように見えます。
だから天災やら何やらで困ったことがあれば、ゆのクリスナは税を増やすだろう。
けれどもるねクリスナはその手段をなるべく使わないように、他の手段でお金をかき集めようとするのではないかなあ。

座付きの演出家がいる宝塚では、当て書きオリジナル作品が求められるのは当然のことであって、その中で役替わりって難しいなと思うのですが、やっぱりキャストが変われば、物語の見え方が変わるものだから、どちらも後世に残したいという気持ちはある。
もっとも今回はありちゃんが美園さくらのディナーショーに出るから、という理由だったので仕方がないのかなとも思いますが、それにしたって9役も役替わりがあるのにBパターンは全編円盤化しない星組『ロミジュリ』にはやはり疑問しかない……人類の損失……。

ライブ中継で相当作品にとりつかれたので、まりこ(浅路さき)時代のプログラムやあさこ(瀬名じゅん)時代のプログラムを集め、あさこ版にいたってはDVDも購入したのですが、さすがにまりこ版のビデオは再生できるデッキがなく、春日野先生時代のプログラムは見つからず……。
まりこ版のプログラムは脚本付きですので、穴が開くほど読んでから梅田に参戦。
細かい変更はたくさんありますが、おおむね筋は変わらないですし、なんといっても「花の小舟」の曲が好きすぎて……。
本当に美しい日本語、ゆったりとしたメロディー、世界観がつまったこの曲がプロローグで流れたとき、まさかの泣いた。
まだ物語も始まっていないのに泣いた。
作品の中で出てくる場面も印象深い曲ですよね。
何よりラッチマンとカマラの二人が幸せそうに踊っているのがもう耐えられない。
作中で二人が幸せな時間ってそんなにないじゃないですか。だから余計に……。
しかしよく考えてみれば、2回目の『霧深きエルベのほとり』のときもプロローグから泣いていましたわ。
菊田先生はすごいなあ。
初演の座談会とか、どこかに残っていないかなあ。菊田先生自身の言葉を聞いてみたい。

カマラは自身も「クマール一族」という王族の一員でありながら、デリーの大公に宮仕えをする身であるのが、ずっと引っかかっていて。
お姫様だけれども、仕えられる側ではなくて、仕える側なんですよね。
クマール・チャンドラがインドの王族の中でどれくらいのランクにあるのかはよくわからないのですが、実はランク云々の問題の他にもカマラには父親がいないことも関係しているのかもしれません。
平安時代後宮でいうと身分は高いお姫様なんだけど、後見人である父親がいない、みたいな。桐壺更衣だな。
母親については言及されていませんが、だからこそ余計にカマラは自立することが求められているように見えました。
近いうちに女官長になる、ということは現在のところ女官の一人であり、王族の人間でありながら、王族とは違うやり方で自立する方法として宮仕えがあるのかもしれません。

こうなってくるとアルマは父母が健在で、両親の言われたとおりクリスナと結婚したのだろうな、と思わずにはいられません。
階級制度にもあんまり疑問なく生きてきた感じがします。
アルマの演じ方って本当に難しいと思うのです。
一歩間違えるとかなり嫌味なキャラクターになってしまい、作品の中でぺぺルとは違う意味で悪を引き受けることになってしまうけれども、そうなっていない。
あー今でもいるいる、こういう人。どうしようもないほどのおしゃべりで、救いようのないほどのミーハーな女の人って。
それを愛嬌をもって演じているなっこちゃん(夏月都)はすごいな。
『ピガール狂騒曲』ではコミカルな演技を、今回はリアルな女性を、それぞれ演じ分けられるのだから。芸達者。

アルマに比べると、インディラ大后の方が影があるかなと思わせます。
もしかしたらインディラ大后には階級制度に対する疑問があるのかもしれない、と。
あるいはそれは単なる経験によって影があるように見えるだけなのかもしれないですが。
1幕でインディラ大后は「若い男と女は鉄と磁石のようなもの。鉄と磁石が惹かれ合うことのどこに自分の責任があるのか」とアルマに言います。
けれども2幕ではカマラに「王族の誇りを忘れてはいけない。あなたはお姫様なんだから偉いんだと教え続けたのはこの私です。ラッチマンがあなたのもとから去るようなことがあれば、それは私にも責任があるかもしれない」というようなことを言います。
たとえ自分に身分違いの恋の経験がなかったとしても、経験が彼女にそう言わせるのでしょう。
ノーブレスオブルージュをインディラ大后はわかっている。
アルマからは天地がひっくり返っても聞かれない言葉でしょう。
インディラ大后の方がカマラのことをわかっている。

水の青年という配役は今までもあったのですが、こありちゃん(菜々野あり)が演じた水の少女は、今回からのオリジナルキャラクターで、谷先生の愛情が感じられる。
水の青年にラッチマンを、水の少女にカマラを重ね合わせることで、二人のつながりが強まる。
パリでのカマラに希望がもてる。
もしかしたらカマラはラッチマンにもう一度会えるかもしれないと、観客にとっては嬉しい。
あさこ版との変更点を確認すると、谷先生が今回ラッチマンとカマラの愛憎に焦点をしぼっているように見えます。
いつか論じてみたいものです。

最後のパリは一体何年ぐらい後の設定なのでしょうか。
まりこ版もあさこ版も「何年かあと」という設定が明示されていますが、今回はあの夏のすぐ後の冬なのか、それとも女官長としての地位を不動のものにした数年後なのか。
わざわざ明示しなかったのは、前者の解釈をアリにしたいからなのかもしれません。
そうするとあさこラッチマンの別れ際のセリフ「愛するあなたが人間にとって何が一番大切であるか、わかってくださったなら(それでいい)」がなくなった理由も説明がつくかもしれません。
れいこラッチマンはそれほど大人ではないようにも見えます。

前回のブログで、ラッチマンは「水の女」の属性だなと思ったのですが、そのパリで、カマラは侍女に「ラッチマン・カプールという人間はいなかったのかもしれません」と言われるあたり、なるほどやはり「水の女」だな、と。
菊田先生は『エルベ』を書いて、ドイツにも造形が深そうなので、セイレーンに由来する「水の女」の系譜になんとなく気がついていたのかもしれません。
ラッチマンに出会うことで、カマラは自我に目覚める。目覚めたカマラは前と同じようには生きられない。
寝た子が起きたら、もう二度と寝られない。
2幕の「小雨のパリ」も谷先生のオリジナルですが、「雨」というのがまた「水の女」なんですよね。この変更、私はとても好きで。
あさこ版では白いお衣装のみりお(明日海りお)やゆりちゃん(紫門ゆりや)のレビューが見られるので、それはそれで貴重なのですが、物語の全体としては「小雨のパリ」とても良かった。
谷先生も「水の女」を意識せずとも、水の少女を作っているし、少なくとも「水」は意識しているな、という感じが強くあります。

古き良き宝塚のオリジナル作品を再演するときも、そのときのメンバーに合わせて、新しい演出家の先生の解釈に合わせて、新しい作品が生まれる。
おもしろいシステムですよね、本当に。
また、素敵な作品に会えますように。
そして、本作品は本日が千秋楽。梅田版はスカイ・ステージでは放映してくださるでしょうか。
生憎の雨ですが、終演後はあがっているといいですね。

星組『ロミオとジュリエット』感想

星組公演

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三井住友VISAカード ミュージカル『ロミオとジュリエット
Roméo & Juliette
Le spectacle musical de GÉRARD PRESGURVIC
D’après l’œuvre de WILLIAM SHAKESPEARE
原作/ウィリアム・シェイクスピア
作/ジェラール・プレスギュルヴィック
潤色・演出/小池修一郎
演出/稲葉太地

ライブ中継でB日程、劇場でA日程を2回、それぞれ拝見しました。
B日程も観劇の予定がありますが、これ、A日程とB日程でかなり作品解釈が変わるので、ぜひ劇団さんにはどちらの日程も円盤化して欲しい。
Blu-rayもDVDも両方出せなんて我儘言わないから、Blu-rayだけでいいから、頼む。
博多座花組『あかねさす紫の花』は役替わりが3人だったのに、AもBもBlu-rayのみ円盤化されたではありませんか。
確かにあれはトップスターであるみりお(明日海りお)が役替わりをしていたからかもしれませんが(そしてもはや別作品であるというくらい解釈が明確に変わった)、今回の『ロミジュリ』は主役の2人以外の主役級の役が9つも入れ替わるのだから、こちらも同じくらい解釈が変わりますよね?
頼むよ、劇団さん。ダイジェストなんて、どこを切り取るの?って感じですよ。
バルコニーと墓場の、ロミオとジュリエットの2人の場面以外入れるくらいなら全編入れて欲しい。
雪組だいきほ(望海風斗、真彩希帆)お披露目の『ひかりふる路』のCDも最初は「音楽のみ」だったのが、どこ切り取るねん!?って話になって、結局前編になったではありませんか。
全編いるよ、間違いなく。だって全然違う作品に仕上がっているのだもの。
……と、過去の例を引き合いに出して、ただをこねてみる。
これは劇団さんの判断を待つより他に仕方がありませんね。

さて、噂に違わぬ衣装の破壊力たるや……開いた口が塞がらないとはまさにこのことか、と思うほど。
ロミオのフードも気になりますが、ジュリエットのバルコニーでのへんてこな配色のリボンは一体どういうことでしょうか。
謎の赤い革ベルトも個人的には気になります。
舞踏会でのブーツも底だけ黒いから、舞台と同化して足が短く見えてしまう……せっかくのタカラジェンヌのスタイルをどうしてくれるんだ、と。
プログラムのイケコの挨拶には、今回の衣装についての言及もありましたが、意地の悪い私は「この衣装、俺のせいじゃないからね?」と行間を読んでしまい、方々に申し訳ない気持ちになってしまった。
そんなつもりがなかったらごめんね、イケコ。

「今行くわ」のくだりも聞いていた通り、今までの「ちょっと待ってよ〜汗」のニュアンスから「ちょっと待ってよね!怒」のニュアンスに変わっていましたが、ここは賛否が分かれている模様。
ジュリエットの気の強さ、芯の強さを示すための演出だと思われるのですが、笑いが起きてしまっているせいか、いい場面なのにちょっとコミカルすぎやしないか?という人もいるでしょう。
なんと言っても世界三大バルコニー場面の一つですから、ロマンティックに演じて欲しいという気持ちもわからなくはないです。
私としては怒のニュアンスがありながらも、観客側が笑いとして捉えないというのが1番いいのかなと思いますが、それも難しいのかもしれません。
東京で進化するといいのですが。

ひっとん(舞空瞳)のジュリエット、超キュートだからもっとよく魅せたい。演出家の皆さん、頼みます。
それから、赤薔薇のブレスレットが足首にもあるの、可愛い。
結婚式の場面はほとんど足、見えないですけれども、プログラムで確認するとタイツもすごいキュート。
スゴツヨ女な感じは若干あるけれども、でも今回はそういう役作りだし、ひっとんジュリエットには合っていたと思う。

そんな気の強いジュリエットですから、銀橋で「生まれたその日から16年間親には一度も逆らったことない〜♪」という歌も、いやいやいや、あなたはそう思っているかもしれないけれども、実は周りは結構振り回されていると思っているのではないですかね?手のかかる子だと思われていますよ!と教えてあげたい気分でした。
あれは絶対にジュリエットの思い込み、勘違いですよね……それはそれでそういう演出なのは別の良いのです。
このあたりの思い込みの強さが最後に「ロミオは死んでしまった。私も死ぬしかない」という強烈で極端な行動に繋がるのかと納得したほど。

その分、今回はロミオが大変幼く、少年のような役作りになっているように見えました。
決してフードのせいではないのですが(笑)、精神年齢がジュリエットよりも圧倒的に低いな、と感じさせます。
思えば琴ちゃん(礼真琴)は『鈴蘭』でも『アルジェの男』でも『眩耀の谷』でもヒロインよりも精神的に幼い役をしたり、そういう役作りをしたりする役が多いなと感じましたが、これが彼女の個性なのでしょう。
ペンヴォーリオ、マーキューシオが日替わりとはいえ、今回のロミオはA日程もB日程も2人より幼く感じました。
だからこそ登場したのとき「女たちは僕のことを追いかけてくる何もしなくても遊びならば何人かと付き合ったけれど虚しいだけ〜♪」というのが、え?!そうなの??「遊びで何人か付き合ったの」?しかもそれが「虚しい」とかわかったの??とツッコミを入れたくなるような気もしました。
まあ追いかけては来るのでしょうけれどもね、お姉様たちが(笑)。
坊やを可愛がってくれたのでしょう。
純粋培養感溢れるけれども、そうか、遊んだことあるんだ……みたいな。
その経験があるからジュリエットとの初夜もうまくいったのかな(やめなさい)。

年上の女に追いかけられている様子が簡単に想像できますが、だからといってロミオが母親の愛情に飢えているようには見えないし、むしろ母親の愛情は重くて、父親の愛情が希薄だという描かれ方をしていると思います。
だからこそ年上の女性には抵抗があるのかもしれません。
年下だけどしっかりしているジュリエットはマザコンでありつつも、年上の女性を受け入れられないロミオにとっては、ぴったりだったと思います。
もっともジュリエットはパリス伯爵と結婚した方が幸せになると私は思っていますが(笑)。
いやあ、勢い余って人を殺してしまう幼いロミオよりも金持ちで愛してくれるパリス伯爵と一緒になった方が、そりゃ幸せでしょう。
ティボルトとは言わない。あれは危険すぎる。
パリス伯爵です。パリス伯爵がいい。
ばあやの言うように「たまには愛がついてくる」かもしれない。
くらっち(有沙瞳)のばあや、よかったですよね。
もったいな感じは否めないのですが。

キャピュレット夫人はビジュアルは最高なのですが、もうちと歌を頑張ってくれると嬉しいかな。
ばあやと一緒に歌う「甘い恋なんて夢の中だけ〜♪」はくらっちもいるし、周りのキャピュレットの女たちでだいぶ緩和されるのですが(ここの振り付け、超可愛くないですか?階段に連なるキャピュレットの女たちと平場で母、ジュリエット、ばあやで並んで歩くところ、死ぬほど可愛い)、モンタギュー夫人と歌う「憎しみ」はどうにもこうにも。
モンタギュー夫人が星組コーラス筆頭のなっちゃん(白妙なつ)ということもあるのでしょうけれども、
あんる(夢妃杏瑠)よ、頑張れ。
みっきーパパ(天寿光希)との並びも良いので、まだまだ今後に期待だなー。

みっきーパパ、最高だよね。
全然枯れていない。現役バリバリ感ある。
家のメイドと仲良くしているのも、ねぇそれだけで終わってないでしょ?
『春の雪』のみね(晴音アキ)みたいになっている子、おるやろ?!と思わせる。
プログラムでははるこさん(音波みのり)との並びになっているので、はるこさんの愛人感が半端ない。
このはるこさんもすばらしいんだな。
思わずスチール買っちゃったよ。

スチールといえば、まめちゃん(桜庭舞)やかのんちゃん(天飛華音)はスチールがあるのに、全日程出演ではないのですね……。
なんか、それにもビックリしちゃって。
スチールあるなら全日程出演で良くないですかね?
ライブ配信では見つけられたかのんちゃんが舞台の上で探せなくてとても不安な気持ちになってしまったよ。

瀬央(瀬央ゆりあ)ティボルトは、もし環境が違えばジュリエットの王子様になれたかもしれないという可能性を残しているのに対して、愛月(愛月ひかる)ティボルトは、あんた生まれ変わってもジュリエットとは結婚できないよ、そんな狂気オーラ振り撒いていたら、という気持ちになります。
愛月ティボルトが自分から進んでナイフとお友達になりに行ったのに対して、瀬央ティボルトはよるべがなくてナイフというお友達に辿り着いてしまった悲劇感がある。
もっともどちらのティボルトも「ロミオを殺してジュリエットに告白しよう」と思っている時点で、ジュリエットに受け入れられるはずもないのですが。
ロミオを殺した後、両手に娘役を抱えて満足そうにしているし、趣味が悪いことは疑いようもない。
愛月ティボルトはジュリエットを強烈な光だと考えているのに対して、瀬央ティボルトは残された純白の光みたいに捉えているようにも見える。
愛月ティボルトの方が生きているの、面倒くさそう。
あのだるい感じなのに瞳は獣のようでもあり、色気がたまらない。
実の叔母と怪しいと言われても納得しかない。
これが本当の「女たちは僕のことを追いかけてくる何もしなくても遊びならば何人かと付き合ったけれど虚しいだけ」だよな、と思うなどした。
死の役ではないのに突き刺さるような視線に殺されれ。

マーキューシオは、そもそも役作りが難しいなと思っていて、どのバージョンを見ても死ぬ直前の「ジュリエットを愛し抜け」とロミオにいう場面が私はいまいちしっくりきておらず。
もちろんマーキューシオがロミオとジュリエットの結婚に腹を立てているのは「敵を愛しても幸せになれない〜♪」当たっている通りだと思いますし、自分の知らないところで奥手なお前が結婚なんかしやがってー!みたいな怒りもあると思うのですが、なんか死ぬ直前に随分都合の良いこと言うね?と芝居というか脚本を冷めて見ているタイプの人間なので、あんまりきわみしん(極美慎)マキュとぴーすけ(天華えま)マキュの違いについては言及できないかなあと思うのですが、マキュについて印象的なのはむしろ「座談会」でイケコと稲葉先生が話していた「『世界の王』を歌ってもマーキューシオとロミオ、ペンヴォーリオの間には埋められない溝がある」というところかな。

そういう意味ではペンヴォーリオとロミオの間にだって埋められない溝があるような気がする。
ペンヴォーリオは、ロミオ母に悪態ついたり、舞踏会に行くことをサクッと決めたり、結構人出なし感はあるのだけれども、2幕でロミオの「誰が誰を好きになっても良い〜♪」と歌うことで、心変わりをする。
「お友達の説教」を聞き入れてしまう(笑)。
ただ、そういう片鱗が1幕に脚本として見えないのがいつも不思議に思っているところ。
あの都合の良い唐突感はマーキューシオの死に際と似ている。今の私にはいまいち理解し難い。
「粗忽者」としては瀬央ペンに一票入れたいところですが、あかさん(綺城ひか理)も良かった。
ロミオと仲良し!という意味では、そりゃ同期なんだから瀬央が一歩進んでいるのは当然なのですが、そのぶんあかペンはマキュに近いところでロミオを見守ってくれるあたたかさがありました。
もっともペンヴォーリオの「粗忽者」という設定もかなり難しいよね……とは思っている。
「お友達の説教聞いて~♪」の曲も好きだし、ここで心変わりをした後のペンヴォーリオもわりと好きなんだけど、前半がいまいちつかめないキャラクターになってしまいっている。

こんなに個性がバラバラなのに、3人でいれば怖いものなんてないさ!と思えるの、すごいなあ。
そこから「世界の王」につながる。
ただ、私はロミオを追いかけてきたマーキューシオが倒れたときのロミオの演技はあんまり感心していない……ああいうものですかね。

そんなことよりもパリス伯爵です。
あーパリスなんてイケメン金持ちだ、という川柳ができるレベルですが、あかパリスは「気取り屋」できわみパリスは「間抜け」の感じがそれぞれ強い伯爵だったかな、と。
愛ちゃんティボルトときわみパリスの組み合わせだったら、きわみパリスは秒で首が吹っ飛んでいるレベル。
「間抜け」感を覚えないという意見もありましたが、
私はとことん間抜けで良かったな、と。
あかパリスは、ゆくゆくは大公になろうと考えているだけあって、間抜けは間抜けでも計算している感じがある。
汚職とかわかっていて手を染めて「え、ダメなの?」と言いそう。
そしてちゃんと抜け道もちゃっかり考えてあって、捕まらない。
きわみパリスは本当に間抜けで、汚職汚職と分からず「みんなやっているし、いいか〜!」みたいな感じで捕まる。
私はみっきーといいゆりちゃん(紫門ゆりや)といい、歴代パリスが好きすぎるのだ。
外部版ではパリスにときめいたことないのですが。

あとは死のお役ですかね。愛月の死はとにかくデカいし、怖い。
この作品のゲームメーカーって感じ。死が物語を回している。
全員殺してやる!ってオーラがバリバリ出ている。
背筋が凍りつくわ。本当に殺される。
しかもフィナーレでは娘役を大階段に侍らせて座っているのだから、観客はマジで別の意味で昇天する。
ぴーすけの死は、ロミオが死ぬまでが俺の仕事!
その過程でマキュにもティボにも死んでもらいまーす!って感じ。
狼のような髪型もイキっている死!という感じで個人的には新鮮でした。
トート閣下への道のりを一歩踏み出したのがぴーすけの死で、もうすぐトート閣下になれるのが愛ちゃんの死。
マーキューシオとティボルトが死んだとき、それぞれ死が彼らの魂といただいきますしているような振りがありますが、愛ちゃんは心臓を食べているのかもと思わせました。不気味。
萩尾望都の『バルバラ異界』に影響されすぎという感じもありますが、あの死は魂なんてもので満足してくれはしないような気さえする。やってやったぜ!感が強い。
宙組にいたときにはあまり思わなかったのですが、やはり大きいですし、ティボルト役でも高身長は生かされますが、死の役の方がずっと怖いなと思わせました。大きくて強い。
愛との身長差の関係もあるのでしょう。

外部版では、墓場でキャピュレットとモンタギューが仲直りソングを歌っているときに真ん中の十字架の上で死の役はもがき苦しんでいるのですが、今回は上手で苦しんでいる感じでしたので、ライブでは映り込みませんでした。残念。
ぴーすけが苦しんでいる姿はバッチリ見ました。
2つの家の仲直りに死が苦しんでいるの、最高の演出だと思っているのよ、私。
だからもっと真ん中でやってくれてもいいとさえ思っている。

そして、これも私には毎回わからないのですが、天国でロミオとジュリエットが幸せの愛情デュエットをしているとき、墓場のところで死がと愛が交差するのはどういう意図があるのでしょう。
むしろ私は愛によって死が消滅したくらいに思っていたので、あ、まだ死が生きている(この言い方も変ですが)と思ってしまうのよね。
向きが公演によって違うようにも思いますが、どういう意味があるのだろうと前々から疑問に思っている。
そして今のところ答えが出ない。

フィナーレは歌唱指導がティボルト役、銀橋で歌います。
そこからロケット、男役群舞となりますが、これまた男役群舞の途中から娘役が階段を降りてくるし、目が迷子。
どこ見たらええねん、と。
デュエットダンスも凄かった。
競技ダンスのようであるという話は聞いていたけれども、本当に競技ダンスのようだったし、オリンピックの試合かな?とか思ったり。
もっとも2人で金メダルを取りに行くというよりも金メダルを2人が争っているという感じでしたが。
銀橋で甘くラブラブに終わることが多いですが、今回は銀橋はまさかの通過点で、2人で超高速スピンで舞台に戻ってきた後、アイスショーのようなリフトをして完!
振付のスピードに目が追いつかないよ……とほほ。
けれども、フラメンコアレンジ、とてもよかったです!格好良かった!
こういうダンスもできる2人だからこそ、夢夢しいデュエットダンスもいつかやって欲しいなあ。

ただ、もうこの作品はしばらく宝塚でやらなくていいかなあ、とも思ってしまいました。
個人的に外部初演が好きだということもあるのでしょうけれども、やはり番手が明確にならないこと(そのためにダブルキャストになってしまうこと)、娘役の出番があまりにも少なすぎることの2つが理由として挙げられます。
今回もくらっちは上記で述べた通りにしても、はるこさんやほのちゃん(小桜ほのか)の扱いがあんまりではなかったでしょうか。
個人的にはおとねねえさん(紫月音寧)も好きなので残念です。
ダブルキャストという考え方も、当て書きオリジナルが可能な宝塚歌劇とはちょっと違うのではないかと思ってしまうのでます。

外部の方が良いなと思ってしまっている作品を、宝塚で見るのが意外としんどいこともわかりました。
音楽は好きなんですけどね。
外部も初演が好きすぎて、再演の廃墟のモノクロの街というのはイマイチピンときていないという事情もあるのかな。
次の星組には良質な当て書きオリジナル脚本が来ると良いなあ。

外部『MA』感想

外部公演

www.umegei.com

『MA』
脚本・歌詞/ミヒャエル・クンツェ
音楽・編曲/シルヴェスター・リーヴァイ
演出/ロバート・ヨハンソン 遠藤周作原作「王妃マリー・アントワネット」より

前回観劇したときは、カーテンコールでマリーとマルグリットが同時に出てくるわりに、タイトルは無理に「マリーアントワネット」と読ませているし(そもそもマリーのイニシャルってMAではなかろうに)、作品内でマリーとマルグリットが対等な立場かつ交換可能な存在として描かれていないではないか、と思ったのですが、そのあたりは解消されていますかね、と期待して見ていましたが、解消されてしませんでした。残念。
観劇後のお客さんの中には「異母姉妹設定いる?」と言っている方もいらっしゃいましたが、その設定がなければタイトルが「MA」である必要はないし、もっと言えば架空のキャラクターであるマルグリット・アルノーの存在意義がなくなってしまうので、この作品をこの作品たらしめるためには、やっぱり必要な設定なのではないかなと思っております。
それなのに、そのあたりの脚本、演出がほとんど改良されていなかったのはどういうことだろうとも思いますが。
変えないなら再演する意味、あったか?(こら)
そんなふうに言いつつ足を運んだのは、この作品、音楽がいいんですよねー。
それくらい演出には大きな変化がなくて、思わず口をへの字に曲げてしまう……。
マルグリットがオルレアンとエベールを告発する場面は痺れるし、躓いたマリーにマルグリットが手を差し伸べる場面も素敵なのですが、いまひとつ物足りない。

マチネが花總マリー、ソニンマルグリット、田代フェルセン、小野田オルレアン、上山エベール。
ソワレが笹本マリー、昆マルグリット、甲斐フェルセン、上原オルレアン、川口エベール。
ダブルキャストはとりあえず全部観られましたが(子役のトリプルキャストはさすがに無理だった……)、外部『1789』ファンとしてはソニンマルグリットと上原オルレアンの組み合わせで見たかった気もします。
私はマルグリットが大好きで、ソニンが好きだから当然ソニンマルグリットは好きですが、昆ちゃんもメジャーデビュー作である『ロミジュリ』を観劇してから、ずっと追いかけているので、昆マルグリットにも好感がもてました。
メインヒロインはマリーのようですが、むしろこの作品はもっとマルグリットに焦点を当てても良いのではという気さえする。

前回、吉原オルレアンが大正解で、なんなら田代フェルセンは食われていた気さえする。
坂元エベールも私は大好きで、もはやこれは好みの問題かと思われる。
彩吹ベルタン、駒田レオナールは続投。このコンビ、本当に好き。
ベルタンのピンクの髪、豹柄のドレスを考えた人は天才。
外部『ロミジュリ』初演もキャピュレット夫人を演じた涼風が赤×ヒョウ柄のドレスを着ていて、もうそりゃ格好良かったですよ。
私自身はヒョウ柄なんて全く着ないのですが、舞台の上で個性的で奇抜な女性がお召しになっているのを見るのは好きなんですよね。

ダブルキャストはフェルセンが一番おもしろかったかな。
田代フェルセンは硬質な軍人像、甲斐フェルセンは懐の深い人間像がそれぞれ基盤にある。
だから、田代フェルセンは生まれ変わって平民だったとしても高貴なマリーに恋しそうだけど、甲斐フェルセンは平民に生まれ変わったら、もしかしたらマリーではなくてマルグリットに恋をするかもしれない、とさえ思う。
甲斐の軍人要素が全面に出ていないからでしょう。深い。

川口エベールは、そりゃもう当然うまいのだけれども、ちょっと役不足ではなかろうか、とさえ思ってしまった。
それこそオルレアン公もやれるのではないかしらん。
もっとも、渋いおじさんとしてのエベールという解釈は私の中ではとても新鮮でした。
大道具の階段を降りるときに木が剥がれたようですが、大丈夫だったでしょうか。
上山はいまいち押しが足りないような気がしました。

子守唄に気がつく場面におけるマルグリットの違いも興味深かった。
ソニンマルグリットは「何であんたが知ってるの?!」と高速で振り返りますが、昆マルグリットは「父親の、歌……?」みたいな感じで母親との思い出を思い出しながらゆっくり振り返る、という違いがあったように思います。
どちらも素敵。ソニンは本当にどちらも良い。好みからすると僅差でソニンかなという気もしますが、昆もとても宵。

オルレアンについては贔屓目もあり、上原氏のあの変態的な権力への執着がもうたまらなくて、堂々と歌う姿は俺の勝ち!を信じて疑わない雄々しい姿でございました。
高音も清々しいくらいに響いていたな。
久しぶりのミュージカルだからな、歌えて嬉しいのでしょう。これはみんな同じでしょうけれども。

そして、肝心のマリーですが、私は宝塚時代の花總(マリー、シシィ、スカーレット、クリスティーヌ)を散々っぱら見て育った人間なので、花總マリーは息をするように自然に見えることもあり、笹本マリーはやはり最初の登場は違和感があるのですが、マルグリットとの近さ、差異の僅かさ、運命がちょっと違ったら……というのは花總よりも表れていたと思います。
花總がお姫様すぎるのでしょう。いい意味でも、悪い意味でも。
実在した王妃や皇后の役を多く演じており、たぶんその人たちの歌だけで自分のディナーショーを開けるくらいにあるだろうから、なかなか平民育ちのマルグリットとの交換可能を示すのは難しいかもしれないし、そもそも脚本がそうなっていないのが何よりも悪い。

さて、音楽について。とにかく音楽がいいんですよね。
まさかの「100万のキャンドル」で泣いてしまった。
しかもソニンマルグリットだけでなく、昆マルグリットのときにも。マチネでもソワレでも両方泣いてしまった。
この歌、いいよね……。
ソニンマルグリットが舞踏会からくすねて来たケーキ、最初にすれ違う街人には、「ケーキを渡すかどうか」悩むのですが、完全にすれ違った後、やはり見逃せなくて振り返ってケーキを渡す。
次に渡すのは子供。その子供は、母親によかったね、と言われるのですが、その後、マルグリットは頼まれていないのに母親にも渡す。
そんなマルグリットが好き。
この場面は『レ・ミゼラブル』の大司教様の場面を思い出す。
銀の燭台を盗んだバルジャンを村人は責め立てるけれども、盗まれた当の本人は「銀の燭台を使って正しい人になりなさい」とバルジャンに語りかける。
私、あの場面大好きで、泣いてしまう。そういう思いやりがマルグリットにも感じられる。
マルグリットの貴族に対する怒りは、同時に悲しさも感じる。「どうしてこの人たちを見てくれないの、同じ人間なのに」と。
そしてマルグリットは知っている。「パンがないならケーキを食べればいい」と言ったのはマリーではないことを。
このあたりは大きいと思いますし、素敵な演出だと思います。

歌といえば1幕終わり付近の「ヘビを殺して」「もう許さない」あたりも好き。
舞台でしか曲を聞いていないのにすぐに思い出せる。
作品の中では「憎しみの瞳」が大切な曲ですが、こちらはなぜかプログラムに歌詞が掲載されていない。
とても残念。花總、笹本、ソニン、昆の女子会のタイトルにもなっている。
「憎しみの瞳会」「女子会ならぬ女優会」美しい4人。

前回、マルグリットはアントワネットの悪口ソング(「オーストリア生まれ~♪あばずれとは誰~♪」)を歌うときは、客席から民衆が出て来たのになあ、と前回の客席降りが恋しくてたまらない。
なぜならこの日はマチネもソワレもは通路席だったから(笑)。
早くそういうこともできるようになるといいですな。生オケなのはやはり嬉しい。
宝塚も早くオーケストラが復活するといいのですが。

さて、マリーとマルグリットの交換可能性について。
マリーと父親が同じマルグリットはもしかしたら自分が王妃になったかもしれない、マルグリットと父親が同じマリーは自分がストラスブールで便所掃除をしていたかもしれない。
観客だけではなくて、作品の中に彼女たち自身がそういう可能性に気がついてくれるといいのだけれども、そうではないのかな。
マルグリットは「なぜ、彼女 私じゃない~♪」と歌うので(昆が歌うとエポニーヌのようでもあります)、まったく気が付いていないというわけではないのでしょうけれども。
夏の舞踏会では、マルグリットがマリーのふりをする場面もありますので、やはりマルグリットは可能性には気が付いているのかもしれませんが。
マリーはあんまりかな……牢獄でひどい扱いを受けるところはあるけれども、窮屈ながらも穏やかな感じもあって、どうかなあ。

プログラムでは上原氏が「自分の罪はプライドと無知、というのは今のこの混乱した時代にも通じる」とのたもうておって、そうだよなあ、などと思うなどしました。
調べればすぐに出てくる時代だけど、何が真実かは自分で見極めなければならない。
自分で見極める力はどこで養うのか。
それはインターネットの中ではないと個人的には思う。
有り体に言えば、文学やもっとひろく文藝の中にこそあるのではないだろうか。
すぐに役に立たないとか言われますけどね。

そういえば、ベルタンのお店でドアマン?がカタコト口調だったけれども、前回もそうだったかな。
あんまり印象に残っていないのですが、あれはちょっといかがなものかと思ってしまった。どういう意図があるつもりだろうか……。
黒塗りと同様、ああいうのは差別につながりかねないから危うい表現かなとも思いました。
こういうことを書くから「教養のない人を馬鹿にしている」とか言われるのでしょうね、私。

マチネはカメラが入っていましたが、円盤化するのかなーどうかなー。
最近『1789』や『エリザベート』、『ロミオ&ジュリエット』も円盤化していますし、ありえるかも。
私は怖いもの見たさで初演を見てみたいような気はしているのだよ。
CDは出ていますが、どうなんでしょう。涼風、山口が出ていれば歌は当たりのような気もしますが。再演版もせめてCD出してくれればいいのに。

そういえば、ベルタンとレオナールは「ドイツ」に逃げると歌う一方で、マリーは手紙に「プロシア」と書く。
そういうものなのかな。不勉強でいかんな。

ソワレ公演はなんだか途中で勝手に扉が開いてしまう事件が2回あって、おやおや?と。
1回目は2幕国民議会でマルグリットが出てきて、扉が閉まった後。「女に任せられるか?」とみんなが騒いでいるときに、ふわっと扉が開いてナニゴトー?!と思ったけれどもエベールが何事もなかったかのようにそっと閉めておりました。さすが。
2回目はフェルセンとマルグリットが下手で話しているとき。「あの人と何が違うの?」と扉の向こうにいるはずのマリーを指さしたときに、これまたふわっと開きまして。
こちらはそういう演出なのか?と思うくらいでしたが、たぶん違うよね?あちこち空気の入れ替えをしていることも関係しているかも。
しかしこの場面の直前のマリーの黄緑の衣装は何か変ではないでしょうか。
太って見えるというかなんというか。
最初のドレスや水色のドレス、深緑のドレスなんかは最高なんですけどね。
またドレスを着て写真を撮るイベントにも参加したいな。

何はともあれ、無事に千穐楽を迎えられることをお祈り申し上げます。

月組『ダル・レークの恋』感想

月組公演

kageki.hankyu.co.jp


グランド・ミュージカル 『ダル・レークの恋』
作/菊田一夫
監修/酒井澄夫
潤色・演出/谷貴矢

とても良かった。本当に、これぞ宝塚!という作品を見たという気分でいっぱいだった。
作品の内容そのものは「あんまりだ! あんまりだわ!」とライブ配信のときは叫びながら見ていたのですが、それにしたってラッチマンを本物の男性に演じられた日には、叫ぶだけでなく枕を投げつけたくなる。
これは本物の男性が演じないからいいんだ……美しくみえるんだ……そしてれいこ(月城かなと)のその演技力と美貌と破壊力がとにかくすばらしかった。

ラッチマンは思うに、水の象徴のような人間ですね。
「水は低きに就くがごとし」と孟子が言うように、ラッチマンはインドの王族という頂点にありながら、パリでは無頼漢へ、インドに戻ったときも庶民へと人間のピラミッド階層の下へ流れていく。
だからこそこの作品の水の精は美しい。

ラッチマンが水ならば、クリスナは太陽のような存在でしょうか。
「貴族の女は、いや貴族は」とカマラに貴族の生き方を諭す彼も過去に何かあったのかもしれませんが、王族としての在り方がぶれない。彼は恐ろしいくらいに貴族である。義務であるかのように。
上記はカマラが助けを求めたときの台詞ですが、ここのクリスナはカマラに異様に冷たい。
人質として、生贄になることを後押ししているような感じさえする。デュエットソングがありますが、突き放しソングだと思いました。
ラッチマンがラジェンドラであると明かされたとき、インディラも態度はぶれないのですが、王族の内輪話のときは主軸になって話を回すのに対して、兵士たちが来たときはどこか一歩下がっていて、矢面に立って話をするのはクリスナである。
本物のラジェンドラが表れたときも「奴こそがラジェンドラだ、捕まえろー!」と驚くほど手のひらを返すのが早かった。
お前が言うか?とも思ったけれども、そういう変わり身の早さ、カラっとした感じがラッチマンとは対照的だなと思った。

ラッチマンをラジェンドラだと思っているクマール一族の対応を憲兵隊は訝しむけれども、残念ながら観客のほとんどは王家の人間の考えていることはわからないだろうし、憲兵隊の方がまっとうなこと言っているだろ!?となる。
インディラも「私たちは王族です。憲兵隊の力は借りません」みたいなこと言うし。
王族というのはやはりどこか歪んでいる。身分制度というのはそういう歪みを産んでしまう。
今は身分による差別はないものとされているけれども、こういう歪みは誰もが持ち得ているものだろうなあ。

それにしてもラッチマンはカマラとの関係をどうするつもりでいたのだろう。
カシミールでの一夏の恋で終わらせるつもりはなかっただろうことはわかるのですが、自分もインド生まれなのだから、身分がどれほど強固に人々を縛るかはわかっていたのではないだろうか。
「世間はアルマのような人ばかり」というのはラッチマンこそ身に染みてわかっていて、それが嫌でパリに行ったのではなかったのか。
カマラがデリーのゴヤール王家の女官長になることもわかっていたはずです。
だからこそ、ラッチマンはどうするつもりだったのだろうというのが気がかりで仕方がない。
まさかカマラが女官長の座を捨てて、自分と一緒にいることを選ぶと思ったのだろうか。
それではあまりにも夢を見すぎではないか。
カマラ自身がそうしたいと思ったとしても、当然クマール一族は反対するに決まっている。
それがわからないラッチマンだとは思わないのですが。

カマラは「ハイラダバードに行けばマハラジアである自分の祖父もいる」と言ったときに、ラッチマンは「私は貴女のおじいさまとも面識がある」というようなことを言おうとしていた。
つまり、ハイラダバードに行ってチャンドラに会えば、ラッチマンの素性はおのずと明らかになる。
ラッチマンはチャンドラの口添えで自らの経歴を明かすことによって、カマラとの結婚を許してもらおうとしたのだろうか。
「氏素性も知れぬ」と言いふらしているラッチマンがいきなり「実は王族の身分で」と言ったところで誰からも信じられない。
だからチャンドラを頼みの綱としたのだろうか。
それはわからないでもないのですが、ちょっと他力本願なところがあるかなという気もしなくはない。
もちろんあのチャンドラはラッチマンとカマラの結婚を喜んで祝福したと思うのですが。

一方でカマラ自身はどう考えていたのだろう。
自分は王族の一人として、ゴヤール王家の女官になるために育てられてきたという自覚があるだろうし、女官長になるときももうすぐに近づいてきている。
けれどもここが結構謎で、「女官長になる」ということはインディラやチャンドラ、アルマなど周りの人間が囃し立てているだけで、本人がそれを望んでいるのかどうかはいまいちよくわからない。
もしかしたら本人でさえも「本当に自分が女官長になりたいと思っているかどうか」はわからないのかもしれないですが。
いかんせん、そういう教育を受けてきてしまったことが、カマラの意志を封じてしまっている。

そんなカマラがラストの場面でターバンはしているもののサリーを脱ぎ、パリジェンヌのような装いで冬のパリの街を歩き回るシーンは秀逸だった。
ラッチマンを探しているこのときの彼女はすでにインドのヒエラルキーや価値観から完全に自由でなくても疑問を持って、近代人たろうとしている。もしかしたらもう女官長になっているかもしれない頃合いだが、階級社会への疑問をカマラはしっかりとその胸に刻んでいるし、近代人としての自覚が芽生えている。
冬だから当然だろ?サリーは寒いだろ?と思うかもしれないけれども、カマラの付き人の女性はサリーを着用していた。
あれはカマラの決意の表れなのである。

だから主題歌の「君の心を教えて欲しい」というのは、ラッチマンもカマラも自分の心を打ち明けてお互いがお互いを愛していることを告げているのだから、二人の将来についてもっと考えなければならなかったということなのだろうか、と。
私も教えて欲しい。彼らがどうするつもりだったのか。
「ボタンのかけ違い」と言われるように、これは本当に些細なすれ違いによって起こったどうしようもない悲劇と言わざるを得ません。
愛していた人、愛し合っていた者同士が、憎しみの炎の中で抱き合う。
いつかはこういう日が来るかもしれないと思っていた。けれどもそれは憎しみの中ではなく愛情の炎に身を焼かれながら、のはずだった。
その憎しみが偽りから生まれたものだったとしても、そしてまだ愛情が残っていたとしても、憎しみを抱く前には戻れない。戻れるはずがない。

風と共に去りぬ』の中でバトラーは「スカーレット、そういう風に君は子供なんだよ。君は『すいません』と謝りさえすれば、長い間の悩みや苦しみがたちどころに人の心から消え去り、心の傷が治ると思っている。僕はね、スカーレット、壊れた欠片を辛抱強く拾い集め、それをのりで繋ぎ合わせ、繋ぎ合わせさえすれば、新しいものと同じだと思うような人間ではないんだよ。壊れたものは壊れたものさ。僕はそれを繋ぎ合わせるよりも、むしろ新しかったときのことを追憶していたいんだ。そして一生、その壊れたところを眺めていたいんだ」といいます。
ラッチマンは「一生壊れたところを眺めていたい」かどうかまではわかりませんが(そこまで自分を苦しめなくてもいいと思う反面、でもカマラのことは一生忘れないんだろうな、とも思う)、「壊れた欠片を辛抱強く拾い集めてのりで繋ぎ合わせさえすれば新しいものと同じ」とはとても思えない人間なのでしょう。
弟に王位を譲ることを決心したラッチマンはパリに流れついたのでしょう。
そしてまたミシェルの店に出入りしているのでしょう。
ミシェルにも、カシミールで出会った女性のこと、そしてひどく振られたこと、自分が身分を隠し続けていたことなどを酒の勢いもあって洗いざらい話してしまうのでしょう、何度も。
ミシェルはそれを聞いて、励ましはするだろうけれども、カマラと思しき人間がパリまでラッチマンを探しにやってきたことは伝えるだろうか、伝えないだろうなあ、そこはほら、女だから(笑)。
舞踏会の最初の場面、お互いに好意をもつ男女のペアで舞踏会を楽しみましょう、とカマラにたくさんの男が寄って来る中、「まさか他の男を選びはしませんね」とドドン!と出てくるところは、さながら「金貨で150ドル」(ツイッターでご指摘いただき、訂正しました)と言ってスカーレットを買うバトラーのようでもありました。

「ダルの湖 夜長けて」「昼はひねもす 夜はよもすがら」という歌詞は本当に美しいし、当然ですが、菊田先生は受けてきた教育が違うなということをまざまざと思い知らされる。
この歌詞は文語教育を受けてきた人の心から出てきた言葉だなという気がしてならない。
台詞も美しい「恋をしている人はただの男と女です」とな。あっぱれである。
どうしたらこんな美しい台詞とこんなにあんまりな展開を同じ頭で考えられるのだろう。脳みそどうなっているの。
でもこの言葉遣い、好きですよ。この展開、悪くないですよ。好きですよ><
しかし「来るんですか、来ないんですか」のあとに連れていかれるのが船の上というのも怖い。
いくら数時間前まで本気で愛していた男だったとしても、そんな逃げ場のないところに、今や敵になった相手と二人きりにどうして簡単になれようか。
その中でカマラは後姿のラッチマンに走り寄って抱き着くのだから、もうそれで許してあげてよ、ラッチマン。
それ以上はやりすぎだよ、ラッチマン……と思いながら見ていました。つらい。

女の方が身分が高いこと、情事の後のお祭り、妹の悲恋、身分の低い者同士の恋人の様子、他人によって明かされる女性の本当の身分……など、私が大好きな『霧深きエルベのほとり』との共通点も多くありましたが、これまた私が大好きな『金色の砂漠』のような雰囲気もあり、紫の女官の衣装はまさに『金色』にも出てきたものでしょう、とにかく好みでした。

ここからはキャストの感想。
主演のれいこちゃんはそりゃもう麗しいですよ。男前とか美しいとかいうよりは断然麗しいですよ。
宝塚でなくても十二分に通用する麗しさですよ。整い方がすごい。
そのうえでラッチマンを色気たっぷりに演じてくれるのだから、こっちは思わず身をよじってしまうのですが、本当に器しいですよね……。
ちなみにターバンの色には何か意味があるのでしょうか。私にはよくわからなかったのですが……。

くらげちゃん(海乃美月)も大変に美しかったです。れいこちゃんとの並び、本当に性癖に刺さる……好き……。
アクセサリーがまた独特で、指輪と腕輪が合体しているような銀色のアクセサリーは何というのでしょうか。
考えた人は天才だなと思いますが、あれは誰にでも似合うものではなかろう。
劇団の扱いがひどくてプログラムのプロフィールにくらげちゃんは掲載されていないのに、すぐあとのページのメッセージには顔を出している。
どうしてこういう扱いに差をつけるのだろう。ヒロインやで? プロフも載せたれや!と思うのは何も私だけではあるまい。
娘役を、ヒロインを大事にしてください。頼む。頼むで。

ありちゃん(暁千星)はペペル役として芝居全体を軽妙に引き締めてくれました。
メリハリがすばらしかった。梅田でいないのが残念すぎる。
歌もよくのびるようになりましたね。白いスーツがよくお似合いでした。あれはいい。

からんちゃん(千海華蘭)、れんこん(蓮つかさ)、るねぴ(夢奈瑠音)、やす(佳城葵)も、さすがでした。
もうどこにいても何していてもわかる。
からんチャンドラはかわいいし、れんこんは村人としてもラッチマンパパとしても活躍だし、るねぴはよく踊るし、やすなんか喋っただけで場をまとめる安定感は抜群だし。
やす、ああいうまとめ役、本当にすばらしくよく似合うよね。拍手だよ。
月組は安泰だと思わせてくれる。
ゆの(風間柚乃)は噂に違わぬ研30ぶりを発揮。
あの男前ぶりは一体どういうことでしょうか。すごいな。
梅田では役が変わりますが、またこちらも楽しみですね。
どんなペペルになるのでしょう。

こありちゃん(菜々野あり)の水の精の優雅さ、可憐さ、恋のはかなさ、すばらしかったです。
そらちゃん(美海そら)もどこにいてもわかりました。祭りの女もフィナーレも。
別箱ライブ配信は下級生までちゃんと映り込んでいて、大変よろしいです。
らんくん(蘭尚樹)の恋人を演じたちづるちゃん(詩ちづる)も良かったです。
ラッチマンにカマラが連れまれた後、このラジオンとビーナのカップルが挟まるのが、とても良くて、とてもつらい。
この場面が終わったら衝撃のすみれコードギリギリの場面だし……真ん中にあるのが幸せほわほわカップルなのが微笑ましくもあり、ラッチマンとカマラとの対比が辛くもある。つらい。

でもその日の翌朝、船場の階段から降りるカマラにラッチマンは「さあ、降りてきたまえ」手を差し伸べるし、カマラもその手を取る。
やっぱり好きなんだよなあ、それがわかっただけでいいじゃないって思ってしまうのは私が女だからかなあ。
ターバンを何重に巻いているの?という疑問から、しどけない姿で出てくるラッチマンとカマラがまたいい。
全然だらしない感じがしない。いやらしい感じももちろんしない。
そして漁村の祭りにまざって庶民として楽しむの、最高にいいよね。
カマラもここでなら幸せになれるかもって一瞬思ったよね。だから自分は庶民だというのだから。
しかしそうはならぬ。菊田先生は悪魔か?

そうして東京公演の余韻に浸っている間に今週末には梅田公演が始まります。
ありがたいことに梅田公演、見られることになりましたので、役替わりの感想はまたそちらで。
1回しか観劇できないのでしっかり目に焼き付けてきます。