ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

映画『フレンチ・ディスパッチ』感想

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映画『FRENCH DISPATCH(フレンチ・ディスパッチ)』
監督/ウェス・アンダーソン

数年前に見た『グランド・ブダペスト・ホテル』がとにかく良かった。
あのピンクの広告からは想像できないような波瀾万丈な人生がたくさん描かれていて、コンシェルジェ協会のレンジャーカラーにはお腹を抱えて笑ったし、黒人の坊やが生き残ったエピソードはハンカチを握りしめて泣いた。
現代との接点を持つために、いくつもの入れ子構造になっているのも興味深かった。
絶妙な愉快さとスパイス見たいなシリアスさのバランスがたまらない作品で、1回しか見ていないのに、とてもよく覚えている。
スーパーマンみたいな人は出てこない。なんなら、みんなちょっとどこか残念な人たち。でもそういう人たちを愛おしく描く監督だな、と思った。

人間の愚かさを愛しく描くためには、人間愛みたいなものが必要でしょう。
今回もその人間愛が溢れていました。
自転車に乗りながら街を紹介するレポーターのエルブサン、美術作品の名作について、ページを超過して熱く語るベレンセン、学生運動を間近で見た人間として中立の立場で報告しようとするルシンダ、そして天才シェフを描く祖国を追われたローバック、それぞれのストーリーが雑誌『FRENCH DISPATCH』の記事になっている。映画の構成が雑誌の体裁をとっているのだ。実にユニークなアイデアで、映画の中でもページ数が示されるのはおもしろかった。
その分、登場人物は多い。なんせ4つの話をまとめているのだから。
さて、そのまとめ役、一筋縄ではいかない編集者たちを束ねる編集長・アーサーもまた風変わりで、「泣かない」をモットーとし、編集がうまくいかなくても「奥付を小さく、広告は最小限期に」と経営者としてのアドバイスを的確にする。
クビを切らない。パンフレットの「人情家」が説得力を持つ。

パンフレットの表紙もおもしろい。
多すぎる登場人物たちをコンパクトに紹介している。上記の5人に加えて、天才画家のモーゼス、モーゼスの絵で一儲けしようと考えているジュリアン、モーゼスのミューズシモーヌ学生運動のリーダーのゼフィレッリ、常にコンパクトを手にし、ゼフィルッリに恋するけれどもあたりの強いジュリエット。美食家で一人息子を愛するアンニュイ警察署長、警察署長お抱えのシェフであるネスカフィエ。
老若男女問わず、時間帯、職種も幅広く取材するエルブサンが自分で壊れた自転車を直しているのも自転車への愛を感じるし、絵が描けなくなって自身のミューズに電気ショックを与えられるモーゼスは滑稽だし、最後にシモーヌよ、よくやった!と思うし、学生運動の坊やはイケメンだけど、最後は電波塔から自分で飛び降りたのか、それとも事故だったのか謎は深まるけれども、とにかく私は「警察署長の食事室」がたまらなく印象に残っている。もはや、ここまでは全て前置きです(長い)。

警察署長お抱えのシェフに取材するためにローバックは晩餐に招かれる。
問題はそのシェフの風貌だ。眉上で綺麗に切り揃えられた前髪に丸眼鏡、見る人が見ればすぐにわかる。これは藤田嗣治のパロディだと。
シェフが提供する食前酒の色は「乳白色」。
キッチンには5つの肉がぶら下がっている。おそらく『五人の裸婦』をイメージしているのだろう。
「完全に藤田やんけ!」と心の中で何度ツッコミを入れたかわからないほど。
話そのものは署長の息子が誘拐されるところから始まるのだが(そしてそのせいでローバックはシェフに予定通りの取材はできなくなる)もうここまでで大興奮。
私は、恩師が藤田嗣治についての論文を書いていることと私自身が同時代を生きたパブロ・ピカソの顔が好きであること、華やかなりし「エコール・ド・パリ」の雰囲気が好きなこともあって、フジタには敏感なのです。フジタや彼の絵が好きかどうかというよりも、もはや思い入れが強すぎて気にしないでは生きていけないって感じ。
それこそオダギリジョーが演じた映画『FOUJITA』も公開初日に観に行くほどには。
帰国後は誰よりもうまく戦争画を描いてしまったがゆえに、唯一画家として戦争責任を問われ(当時の戦争画を並べればすぐにわかりますが、技術のレベルが一人だけ明らかに違う)、国外追放、フランスで「エコール・ド・パリ」の亡霊と罵られながら、「レオナール・フジタ」と洗礼を受け、晩年は教会でフレスコ画を描きながら、スイスで亡くなる。
考えてみればフレスコ画ベレンセンが書いた記事「確固たる名作」にも通じるところがある。

シェフは署長の息子が誘拐された犯人たちがつどうアジトに乗り込み、3種類の食事を提供する。
もちろん、ボスは訝しみ、まずはシェフ自身に食べさせる。
シェフは3種類とも見事に食べてみせるが、そのうちの1つには毒(睡眠薬?)が入っていた。
署長の息子が嫌いな食べ物にそれは入れられた。息子さんが食べないように、と。
平然としていたシェフも、大方の人間が倒れた後、意識を失ったのでしょう。全ての騒動が終わった後、ベッドの中でローバックに語った言葉は重い。
あまりにも重すぎてローバックは一度は文字起こしをしたものの、記事にするつもりなかった。
編集長に「シェフの記事なのに、シェフの言葉がない」と指摘されて、ゴミ箱から出てきた文章は、自身も祖国を追われたローバックにはどれだけ響いただろうか。

シェフは薄暗い白いベッドの中、とつとつと語る。
「毒見をしたとき、今までに感じたことのない味覚を感じた」と。
骨の髄まで芸術家(美食家)なのだ。
毒を口にしているときにでさえ、味を堪能せずにはいられないシェフは、間違いなくどこに行っても筆を折ることのできなかったフジタと重なる。
味覚の鬼とでも言うのだろうか、味覚の飽くなき追求心は、うっかりするとこの人にとっては自分の命よりも重いのだ。
命懸けでシェフをやっているのがよくわかる。
なぜ、命懸けでシェフを?

毒を口にしているときに、なぜそんなことを感じるのか?
観客のもっともすぎる疑問をローバックは投げかける。シェフは「自分は異邦人だから」と答えた。
異邦人だから、職を失わないためには、人の信頼を得るためには、それくらいの覚悟が必要なのだ、と。これが日本を追放されてフランスで暮らすフジタでなくて一体誰だと言うのだろう。
裏を返せれば、異邦人でさえなければそれほどまでに味覚を研ぎ澄ませて毎日生活することはない。神経を張り詰めすぎなくても良い。
そのおかけで美味しい料理を作ることができて、警察署長のお抱えにまでなったけれども、それが彼の望むところだったかどうかはわからない。
シェフはただ生きていくだけでも、異邦人であるが故に想像を絶する覚悟を持っていた。フジタも、きっとそうだった。
祖国を追われ、牢にいるときに編集長と出会い、職を見つけたローバックには、あまりにも自身と重なるところが多すぎて、正式な記事にはできなかったのだろう。
編集長からダメ出しをもらい、一度くしゃくしゃにして捨てたはずの原稿を、ゴミ箱から取り上げる背中に漂う哀愁は、多くの異邦人が背負っている苦しい感情が凝り固まっているように見えた。
同じものをシェフも、フジタも持っていたのだろう。
そう思ったらひたすらに泣けてきた。
異邦人って生きるだけでも命懸けなのだ。

最近、コンビニでは多くの外国人の店員を見かけるし、もちろん彼らは白人ではない。そういう人たちに心無い言葉を平気でぶつける人もいる。
私はなるべく「ありがとう」ではなく「ありがとうございました」とできるだけ丁寧な言葉を使うように意識している。
彼らがいざというとき、使えるように。
つまらないことでイチャモンをつけられないように。
聞いたことのない言葉は使えない。だから、いつでも使えるように。
私でさえ若い女が「ありがとう」しか言えないのか、くらいのイチャモンをつけられるのだから、異邦人である彼らのストレスは計り知れない。
人類皆兄弟、「異邦人」なんて概念がなくなれば、この世はもう少し住みやすくなるかもしれない。

戦争がを多く描いたことで有名なフジタですが、私は猫の絵も好き。
人知れず、いかつい顔つきでガタイも大きいローバックは、もしかしたら裏路地で猫ちゃんと戯れているかもしれない。やりきれない思いで原稿をくしゃくしゃにしたあの大きな手で、穏やかに猫ちゃんを撫でているかもしれない。
世界はそういう幸せで満ちていて欲しい。