ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

月組『グレート・ギャツビー』感想

月組公演

三井住友VISAカード ミュージカル『グレート・ギャツビー
-F・スコット・フィッツジェラルド作“The Great Gatsby”より-
脚本・演出/小池修一郎

世界的な名作を宝塚で上演するのはやぶさかではないのですが(むしろ海外文学入門としての敷居が低くなるので大歓迎)、物語の根幹に関わるところを改変することには両手を挙げて賛成することができないのが難しいところです。
宝塚で上演するのなら、トップスターと娘役トップスターが結ばれなければいけない、というのはある意味真理かもしれません。けれどもそれは、個人的な見解を言えば、オリジナル当て書き脚本に限ったことだと思います。そもそも宝塚には座付き演出家がいて、オリジナル当て書き脚本で上演するのが前提で、それが可能な、世界的に見ても珍しい劇団だからです。宝塚の特色を「役者が未婚の女性だけで構成されている」とするのはもちろんですが、これを全面に持ってくるようでは、宝塚の存続が危ういことを『刀剣乱舞』の舞台のキャスト発表で知らされた身としては、やはり「オリジナル当て書き脚本をその都度作成することができる」という特色をもっとクローズアップした方がいいのではないでしょうか。
海外文学作品、海外ミュージカル作品の入り口としての役割はわかる。でも、一方でそれだけでは生き残れないと痛感しています。
そして原作付きの作品を上演するときに、「宝塚的な演出変更」が場合によっては必要になってくるのはわかるけれども、それが物語の根幹に関わったり、ラストシーンだったりすると、なんだかもうこれでいいのかなと思ってしまうのです。
例えば、今回と同じフィッツジェラルド作の『リッツ・ホテルくらいに大きなダイヤモンド』も、ラストにあるはずのキスミンのキャラクターを示す大切な場面がカットされているし、それゆえに原作のラストの冷たさはなく、宝塚版では「二人はいつまでも仲良く暮らしました」みたいな御伽噺になってしまっている。それはもう別の作品なのではないかと私は思ってしまう。
今上演されている星組の『モンテ・クリスト伯』もね、その意味でなぜエドモンとメルセデスと元サヤになるのか、さっぱりわからん……どうしても宝塚でやるならエデを娘1にしたらいいのではないか……もしくはバウホールの若手育成の場にして、ダブルヒロインの形をとるとか、やりようはいくらでもあると思うんですけど、なぜトップコンビで上演するの……(ちなみに巌窟王については、劇団☆新感線の『蛮幽鬼』の改変はすばらしかった)。

前置きが長くなりましたが、つまり『ギャツビー』でもなぜデイジーがギャツビーの墓参りをしなければならないのか、ということが昔から疑問で不満で不審で、フィッツジェラルドに謝って?!と思っているところなのです。だからイケコ以外の演出で見たかったんだよ……とほほ、と思ってします。
これはもしかしたら、イケコが初めて『ギャツビー』を宝塚で上演しようとしたとき、「ヒロインが宝塚っぽくない」と言われて却下されたことが関係しているのかもしれません。
だからこれは「ヒロイン(デイジー)を宝塚っぽく」するための処置だったのかもしれないけれど、当然世界には宝塚の枠には収まらない名作がたくさんあるわけでして。ラストの墓参りはデイジーのキャラクターの根幹に関わるところでしょう。そこは変えてはいけないのでは……。だったら無理に大劇場作品にしなくてもいいのに、と思ってしまう(私は大劇場公演に限ってはトップコンビのラブが欲しいのです)。
デイジーは周囲の考えを受け入れ、内面化することで子供から脱皮して大人になる、一方でギャツビーは子供の頃の夢や愛をかなえるために生きている、大人になっても子供を捨てられない、子供の延長として大人になる、その見事な対比が鮮やかなのが原作の印象だったがゆえに、ギャツビーの墓参りに来るデイジーって何、と呆然としてしまう。
デイジーはギャツビーを捨てたのだ。ギャツビーの死を本気で悼んでいるニックをジョーダンがばっさりと捨てるように。だからデイジーが車でマートルを轢いたあと、銀橋でギャツビーに「信じてもらえないかも知れないけれど、あなたを愛している」というのは、とてもずるい女に見えてしまって、なんだかなとモヤる。ずるい女というキャラクター設定だったか? 墓参りはもっとモヤる(しつこい)。

とはいえ、与えられた枠の中でタカラジェンヌたちはいつもながらよくやっていて、持ち前の演技力を発揮していたわけです。
れいこちゃん(月城かなと)のギャツビーなんてさ、もう見る前から大正解だってわかってんじゃん? 白いスーツで「朝日が昇る前に」を歌いながら背中を向けるれいこちゃんなんて大優勝に決まっているじゃん? 
見たら、もうあのギャツビーしかいないじゃん?ってなる。徹頭徹尾正統派耽美系男役。
ギャツビーの宝塚的改変はわりとうまくいっていると思っている。
デイジーがゴルフコンペで自分を選ばなくても、挙げ句自分の車で事故を起こし、死人まで出したデイジーを愛し続けるギャツビーって、ものすごく理想で宝塚的。言ってしまえば乙女の都合のいい永遠の夢。
原作では、自分を選ばなかったデイジーに絶望している、これから先生きていても意味がないと思うから、ウィルソンの銃口にも恐れることなく向かう。
宝塚のギャツビーもウィルソンの銃口を向けられて、死を覚悟はしているけれども、最後までデイジーを愛している。デイジーに幻滅しない。なんなら自分が死ぬことがデイジーへの最後の、そして最大の愛の証だとさえ思っている節がある。怖いくらいに。宝塚のギャツビーはデイジーをそうやって最後まで愛し抜いた。
マートルを轢いたことで動揺しているデイジーに「君はパメラの母として生きる」と言える男ですよ、すごいでしょ。いや、そうはならんでしょ、やさしくしなくていいでしょって思うよ、普通は。でもギャツビーは最後までデイジーの「王子様」であろうとしたんだよ。きれい事だよな、本当。
そして、これがれいこちゃんとうみちゃん(海乃美月)のコンビなんだから、もうファンはたまらない。うみちゃんを最後の最期まで愛するれいこちゃんって……! 私たち、これ知っている! 何度も見てきた! 進研ゼミでやった!となるやつです。
れいこちゃんの、まゆぽん(輝月ゆうま)ウルフシェイムとのやりとりもよかったんだよな、しっとり大人。危ない橋を渡りまくっている大人の雰囲気が漏れ出でて最高だった。

デイジーを演じたうみちゃんも、よくわからない演出の枠組みの中でよくやっていて、墓参りのシーンのあの冷たい無表情の美しさといったら、なんなのもう!って感じ。うみちゃんの美しさの使い方、間違っているだろ!?とイケコに対しては思うけれども、うみちゃんはひたすらに彫刻のように美しくて思わず跪く。
デイジーの墓参りを無理矢理納得させる方法がもしあるのだとすれば、それはやはりパメラの存在でしょう。デイジーは、銀橋でずるい女になって言うようにギャツビーを愛しているかもしれないけれども、パメラの父としてはギャツビーではダメで(社会的地位が虚構な上に裏社会の人間だったから)、マートルを轢いたことを警察に自首しようとするデイジーを引き留めるトムの言葉にも「俺たちにはパメラがいる」とある。
女を子供で縛り付けようとする姿勢には正直うんざりするのだが、周囲の価値観を受け入れることで大人になったデイジーには、子供を捨てることができない。
ゴルフコンペのときにパメラとギャツビーを引き合わせようとして、ヒルダにものすごい勢いで避けられてしまう、あのときにデイジーの中では何かが崩れ始めた。パメラの父親としてギャツビーはふさわしいのか、その疑問をもった上でトムの「ギャツビーは輝かしい過去をすべて金で買った悪党だ」と知らされてしまえば、デイジーは当然ギャツビーのもとにはいけない。あそこの痛烈な叫びも演出としてはどうかと思うんだけど(まあ、なんせ『ポーの一族』をあんなに大袈裟にしてしまうイケコだからな)、じゃあパメラがいなかったらどうなんだ、と思ってみると、少なくとも原作のデイジーはトムを選ぶと思うんですよね。というか、原作のデイジーはギャツビーと結婚したあと、ギャツビーの本当の過去を知っても別れそうなキャラクターだからな。
「子はかすがい」とは言いますが、仲の悪い両親を目の前に毎日生活しなければならないパメラの気持ちを考えたら悲惨なものです。乳母のヒルダだってあの価値観の人間ですからね。パメラが可愛そう。
またヒルダがね、厄介なのよね。今回で退団のなつこさん(夏月都)ですが、デイジーが家出をしたときも母親に告げ口をするのは彼女だし、彼女はデイジーの乳母でもあるのに、デイジー個人を見ていなくて、デイジーの幸せを身分でしか測らない。怖い。
フィナーレの二人のデュエットダンスがまさかの赤いお衣装で美しさに眩暈がした。ギャツビーがデイジーに見合う立場の人間だったら、あるいはデイジーが既存の価値観を振り払うことができたら、こんなに幸せなことはなかっただろうに。

トムのちなつ(鳳月杏)はさすがの足の長さと存在感。二番手がトムということで、こりゃメロドラマの色が濃くなるのかな、と思ったけれども、追加された曲は「アメリカの貴族」という愉快なナンバーでした。
なんていうかね、「アメリカ」の「貴族」っていうのがね、もう滑稽で笑う。貴族は血統に存在するものであって、トムはただの金持ちにすぎない。
マートルやヴィッキーと他の女に平気で目を向け、手を出すというのに、トムはデイジーを手放さない。何にも執着しないトムが、おそろしいくらいデイジーに執着している。自分の「格」に釣り合うのはデイジーだけだと思っているから。それが愛だと思っているから。「釣り合う」って考え方がもう傲慢で耐えられない。
マートルのこともヴィッキーのことも「何をしてもいいもの」と考えている、自分と対等な個人だとは少しも考えていない。だから簡単に拾うし、簡単に捨てる。子供がおもちゃをそうするように。
でも、いるよね、こういうやつ。そう思ったらものすごく腹立たしくなってしまって。自分が恵まれているのは自分が努力したからだと勘違いし、貧乏人には自己責任を振りかざし、お金で何でも解決できると思っているヤツ。「ノブレス・オブリージュ」って知っているかい?と胸ぐらを掴んで聞いてやりたい。
だからちなつの役作りは間違っていないのだろうけれども、今この国で、この時期に、こういうキャラクターがひどい目に遭わないのはモヤるんですよね。別に勧善懲悪な話がすごい好きというわけではないのだけれども、美形のちなつの後ろに汚い政治家達の影を見てしまって本当につらい。なんだよ「神様だって時には見逃してくれる」って。金でもみ消すだけだろうと思ってしまう。
フィナーレのちなつのお衣装、素敵でしたね。ゆったり銀橋を渡りながらしっとり曲を聴かせてからのロケット、すばらしかったです。次の主演公演が楽しみだなあ。

ニックはおだちん(風間柚乃)。ニックはとても大切な役で著者であるフィッツジェラルドの半身である(ちなみにもう半分はギャツビーかな)。
レオナルド・デカプリオ主演の『華麗なるギャツビー』はまさにニックがキーパーソンになっていて、冒頭、彼が精神病院で治療を受けているところから始まる。彼が精神を病んだのは戦争のためだけではない。ギャツビーの一連の出来事を通して「アメリカン・ドリームなんてまやかしである」と痛感してしまったためだ。
ニックの月給は、ジョーダンに「週に?」と週給と勘違いされるほど、トム・デイジー・ジョーダンの3人にしてみたら安い。安くて笑いがこみあげてくるほどには。
そんなニックと3人がうまくいくはずがなく、しかも真面目に働いているニックに対して、ジョーダンはいかさまゴルフで稼いでいる賞金女王だ。うまくいくはずがない。
みちるちゃん(彩みちる)のジョーダンとのやりとりは軽快で楽しく、恋をゴルフに見立てるニックは可愛らしいが、所詮そこまでである。生涯を共にするにはあまりにも価値観が違いすぎる。
おだちんは研9でありながら、もうタカラジェンヌ人生3回目!と巷で騒がれるほどの演技力の持ち主ですが、良い具合に初々しさ、若々しさをまとっていました。ニックが主演の『ギャツビー』もおもしろいでしょう。宝塚でやるなら別箱でしょうが。

みちるちゃんのジョーダンは公演スチールを見て瞬間に「はい、最適解!」と思うほどの出来映えで、もう本当ありがてぇ!という感じでした。拝むわ。可愛い。
ジョーダンとデイジーがなぜ「親友」なのか、ついでにいえばギャツビーとウルフシェイムも「親友」という枠なのか?と思いますが、後者は単なるビジネスパートナーだし、前者はお金の価値観が合うというだけなのでしょう。付き合う上でそれも大切なのわかる。でもそれだけだから私たちが普通に考える「親友」と比較するといかんせんドライな関係に見えざるを得ない。
デイジーはゴルフの良さがわからないし、ジョーダンもバレエの良さがわからない。なんなたお互い「なんでそんなこと」くらいに思っている。それでも「親友」なのは金銭感覚が強く二人を結びつけるからでしょう。金銭感覚が結びつける友情といえば、なるほどたしかにギャツビーとウルフシェイムも同じで、そういう関係が跋扈する程度には、当時のアメリカではお金が第一だったということがよく伝わってくる。でもそれはとても淋しい。
トムがニックのことを「独身なんだ」とジョーダンに紹介したときの、「私もよ」というみちるジョーダン、最高に色っぽかったわ。あれは落ちる。トムはまだ純情だからさ。
そして、ゴルフコンペでのパンツ姿、とても愛らしかったわ! 素敵でした。好敵手であるマダム・セイヤーはスカートだったのに、ジョーダンはゆるーいパンツ、ちょうど今流行っているようなスカートにも見えるタイプのパンツというのか。

そして月組へようこそあみちゃん(彩海せら)。私は『ブエノスアイレス』を見られなかったので、これが本当の月組あみちゃんはじめっましてなんですけど、丸眼鏡のエディ、とても可愛い。ときめくに決まっているレベル。
しかもアイスキャッスルでは、クールなスーツガイとしてまゆぽんの後ろにいる。なんなの、あの悪い人。そしてこの振れ幅よ……っ!
2幕冒頭も天国かと思いましたね。センターやんか……。天使の歌声じゃんか……銀橋の先頭にも立つじゃんね……ねえ、これは夢なの幻なの、とってもいいわ、素敵だわ。歴史的瞬間でした。
しかもその隣では今回退団のアキちゃん(晴音アキ)が歌い、後ろではこありちゃん(菜々野あり)とそらちゃん(美海そら)のバレエ姿が拝める。マジで何なの、目が足りない。ありがてぇなあ!!!
ヴィッキーのかれんちゃん(結愛かれん)の可愛らしさもぐんぐん伸びてきて、彼女の時代が近いことも感じました。

今回の『ギャツビー』でもっとも共感してしまったのが組長(光月るう)が演じるウィルソンです。まさかすぎる。
自分にとってマートルは過ぎた女だということを充分に理解していながらも、一方でものすごくマートルのtこおを愛している。ウィルソンがそのとき、そのときでできうる限りの最大の愛情を示している。それは場面になかったところでも、きっとそうなのだろうということを思わせる。
何も大きなことは望んでいない。豪邸に住むとか、一生かかっても使い切れないお金を手にするとか、そういうことを夢見ているわけではない。ただ、マートル問いっしょに小さな幸せを積み重ねていければそれでいい、それでちゃんと満足できる人間。
それにもかかわらず、その幸せさえ、摘み取られてしまう。トムのようにお金を持っている人間にとって踏みにじられてしまう。あるいは有り余るお金がないと生きていけないデイジーによって。
でもさ、もう100年も前に書かれた小説の、一番ひどい目に逢う人に共感できちゃうなんてどういうことだよ。それでいいのかよ。
人間って本当に、絶望的なまでに進歩がない。

ギャツビーのパパはじゅんこさん(英真なおき)。『CH』で休演してから初めてかな、お元気そうで良かったです。
ニックをギャツビーの元に連れて行くタクシーの運転手とラストにギャツビーの墓で出会うギャツビーの父が同じ人なのはにくい演出。そう、こういうところはすばらしいんだよ、本当。

大劇場公演は何が何でも観るぞ!という気概の元、3枚チケットがありましたが、全て流れました。ああ、無情。
そんなわけでいそいそと配信を見ましたが、ここは芝居の月組、下級生に至るまで端っこでわちゃわちゃ芝居をするのが常ですから、そこが見られないのはとても残念。娘役ちゃんたちをもっと堪能したかった。
東京は1枚何とか確保したものの、立ち見席ですから、体調との相談もありますし、往復の新幹線代の方がかかるのは頭が痛い。そもそも無事に上演してくれるのだろうかという一抹の不安さえある。たとえ私個人が見に行けなかったとしても、公演だけはなんとか無事にできますように。
去年の夏、『桜嵐記』が無事に上演できたのがどれほど奇跡だったのか、思い知らされます。