ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

花組『巡礼の年』考察

マリーとオーロール――『巡礼の年』に見るシスターフッド

1 はじめに
 宝塚歌劇団花組『巡礼の年~リスト・フィレンツ、魂の彷徨~』(作・演出/生田大和)は、19世紀初めにピアノの魔術師として活躍したフランツ・リストを主人公にした宝塚のオリジナルミュージカルである。トップスターである柚香光がリストを、トップ娘役である星風まどかがリストと駆け落ちするマリー・ダグー伯爵夫人を、水美舞斗が天才音楽家フレデリック・ショパンを、永久輝せあが男装の麗人の小説家であるジョルジュ・サンドをそれぞれ演じ、絶妙なバランスで『風と共に去りぬ』とはまた異なる四角関係を見事に表現した。
 主人公であるリストに対して、ショパンは対になる存在として始終描かれている。『歌劇』の「座談会」の中でも「リストが憧れた友人のピアニスト、フレデリック・ショパン」「リストとは対照的に描かれている」「ショパンにすれば、体力があって、華やかな生き方ができるリストに羨ましさがあったはず」と、リストとショパンがお互いに自分にないものを求めている、対照的な存在であることが繰り返されている。講演が始まってからの「楽屋取材」でも「ショパンはリストにとって、地べたを這っている時に軽やかに天を飛んでいるように見える…やはり憧れだったんだろうな」「リストは自分とは対極の、一番分かり合えない人。でも誰よりも認め、尊敬し、ある意味敬愛している」と柚香と水美はそれぞれ語っている。作品の中で、四角関係にある男たちが対立関係にあることは疑いなく、多くの観客もその構造を受け取ったことであろう。
 一方で、四角関係の女性たち、マリーとサンドはどうだろうか。こちらも、リストを間に挟んだ対立関係かと思えば、そう簡単には解釈できないだろう、ということが見えてくる。貴族を見返してやろうと熱く大きな野心を燃やすリストとサンド、大きな愛でリストを包み込もうとするマリーとショパン、孤独な魂の持ち主として出会った瞬間、精神的な共鳴を感じるリストとマリー、と四人の人間関係には多くの共通点が存在する。その中で、マリーとサンドは一見すると恋敵とも考えられるが、実は多くの共通点を持っている。そして、その共通点こそが物語を動かしているのではないだろうか。
 今回は、マリーとオーロール(ジョルジュ・サンドの本名。マリーが本名のため、並立に際して合わせた)の二人の共通点を確認した上で、二人の関係を改めて分析し、彼女たちのシスターフッド(女性同士の連帯)について考えてみたい。なお、サンドを演じている永久輝は元来男役であるが、「男装の麗人」という設定のため、ひとまずここではサンドは女性と定義する。新人公演(演出/中村真央)でサンドを演じた太凰旬は声も高く、ほぼ娘役として役作りをしてきた。

2 二人の共通点
(A)ロマンチスト
 マリーとサンドの共通点の一つとしてロマンチストであることが挙げられる。リストとパリから逃避行した先のジュネーブの森で二人は白い衣装で「姫」「じいや」と呼び合い、鬼ごっこのような追いかけっこを始める。

マリー「あははは」
リスト「姫!お待ちください!姫!」
マリー「じいや、こっちよ!早く!」
リスト「ミラベラ姫…」
マリー「なによ、もう疲れてしまったの?情けない人!」
リスト「なんだと」
マリー「(笑)あら、怒った?怒る元気があるのなら、私を捕まえてご覧なさい!」
リスト「このー」

 ここで二人は「ただのリスト」と「ただのマリー」になり、「本当の自分」で互いと接し合い、本音を語り合う。マリーのロマンチストぶりを示すには十分だろう。『歌劇』の「座談会」でも生田は「前半は若干ラブコメだと思った方がいいかもしれない」「ある意味能天気なただのフランツとマリーになれた」と言う。
 一方のサンドは、屋根裏部屋に初めてロッシーニの結婚相手であるオランプがやってきたときに楽曲「いつか世界は夢を見る」の中で「人とは違う何かがあるって本気で信じたロマンティスト」と歌う。これは同じ部屋にいるパリの芸術家たちを総称したものであるが、もちろんこの中にはサンドも入っている。物語の後半、ショパンとのやり取りの中でもサンドがロマンチストであることがうかがえる。このときのサンドは、ショパンの大きな愛情に気づいて、彼に寄り添うようになっている。

サンド「まだパリに残っていたのね」
ショパン「もうすぐ演奏会があるんだ」
サンド「世界がひっくり返ろうって時に、誰が聴くの」
ショパン「君がいる」
サンド「私が」
ショパン「観客が一人でもいる限り、必ずやる」
サンド「革命渦巻くパリで、私の為だけの演奏会…」
ショパン「パリから芸術が消えていく!誰かがその日を護らなければ…」
サンド「あなたの命の炎が消えるのと、どっちが先なのかしら」
ショパン「気づいていたのか」
サンド「気づかないわけないでしょ」
ショパン「もう時間が無いんだ」
サンド「死なせはしないわ!あなたも。あなたの音楽も!逃げましょう、私と」
ショパン「パリを捨てろっていうのか!?」
サンド「会場変更よ!私の為の演奏会。だったら私の言うことを聞いて」
ショパン「どこへ行く」
サンド「ノアンに屋敷があるの」

 ここで、世界の危機が迫る中、サンドは自分のためだけに演奏会を開くというショパンにときめきを隠せないでいる。だからこそ、そのあとすぐにショパンの体調を気遣い、ノアンの屋敷へと案内する。リストがマリーと駆け落ちするために手を差し伸べたように、サンドは体調のすぐれないショパンの肩を抱いて袖にはける。花道で行われる互いを思いやる二人のこのやりとりは、舞台でジラルダンが率いるシトワイヤンたちの行進のものものしさとは対照的である。
 さらにノアンの城でショパンと暮らすサンドは、それまでの男装の深紅のパンツ姿とは異なり、黒いドレス姿であり、髪には赤い花をつけている。色が黒いのは来るべきショパンの喪の象徴だろうが、ドレスを身にまといショパンと過ごすサンドは、「ジョルジュ・サンド」の鎧を脱ぎ捨て、リストとマリーが求めような「本当の自分」すなわち「オーロール」になっていたのだろう。
 以上により、リストといるときのマリーとショパンといるときのサンドはロマンチストというにふさわしい人物として描かれていることがわかる。

(B)リアリスト
 もう一つの共通点はリアリストであるという点である。二人が文筆家であることが何よりの証拠だ。マリーは伯爵家から物理的に逃げられなくてもせめて精神だけは自由でありたい、とダニエル・ステルンとして筆をとる。そこにはジョルジュ・サンドの影響も大きかった。サンドを初めて紹介されたマリーは「勿論、存じておりますわ。私、あなたに憧れて」と言い、ジラルダンが「それで、彼女、うちの新聞で執筆を」と続ける。これより前の場面で、ダグー伯爵に男性の筆名で新聞記事を執筆していることを詰られたときも「あら、今流行りのジョルジュ・サンドだって、女流作家ですのよ」と言葉を返す。ダグー伯爵がマリーの記事を掲載しないよう抗議したことを知ると、マリーは「私の居場所を奪うのね」と言う。マリーにとって執筆は自らの居場所そのものであったのだ。
 肝心の執筆内容、特にリストの批評について、マリー本人は「あなたの中に、自分を偽って生きる、私の魂の写し絵を見た」「きっと私自身の苦しみを、勝手にあなたに重ねてしまったのね」とそれほど客観性のある記事であったという評価をしない。しかし、実際にリストは「僕自身も気づかずにいた魂の苦しみが、どうしてあなたには見えたのですか」とマリーの批評が的を射ていることを述べる。さらにはショパンも、マリーの記事をリストに渡すときに「逃げずに向き合うべきだ。君が戦うべき本質が書かれている」と鋭い指摘であるとマリーの批評を高く評価している。ここからノン・フィクションを描くジャーナリストとしてのマリーの能力は、自身が思っているほどは低くはないだろうことが予想される。
 作品の中でマリーの書いた記事について言及されるのが、リストの批評だけであるため、実際に他の記事の出来がどうであったかは詳しいことはわからないが、のちに再び筆をとるときにサンドは「あれだけ書ければ、ジャーナリストとして十分!一人で生きていけるわよっ!」と言い、サント=ヴーヴも「ダニエル・ステルン復活だな!」と力強く言う。そのため、マリーの筆力は少なくともただの手遊び程度のものではなく、一定水準の客観性の担保された確かな批評眼に裏付けされた記事であったことが推測される。これはマリーが地に足の着いたリアリストであることを示しているだろう。
 サンドも同じように筆を執る女性だが、こちらは小説家としてフィクションの世界を描いている。作品の冒頭では「ようやく書き上げた私の新作」として「真実の愛を探して、彷徨う魂の物語」「まるで奴隷のような結婚生活に絶望したアンディアナは、愛を探して夫の元を逃れる」「インドが舞台の話」と説明する。ここから推測すると、史実でジョルジュ・サンドが書いた小説『アンディアナ』を指していることがうかがえる。これはリストが「君の話だ」と指摘するように、私小説的な部分を多く含んでいると考えられるが、舞台がパリからインドに変わったことやこの小説を気にサンドが文壇で注目を集め始めた事実を考えると、自身のことをある程度客観視できた作品であったことだろう。現在、フランスで『アンディアナア』がどのように評価されているかはわからないのがもどかしいが、少なくとも作中でサンドは、ロマン主義作家として、リストほどではなくても、一角の成功を収めている人物として描かれている。そして、夫から逃れてきたサンドにとってもまた、書くことは自分の居場所を確保することであったのだ。
 さらにマリーが再びダニエル・ステルンとして筆を執ることになったジャーナリズムの仕事は、もともとサンドが依頼を受けた仕事であった。つまり、サンドはフィクションの書き手としてだけでなく、ノン・フィクションの書き手としても信頼されていたことがわかる。
 マリーとサンドは、物事を相対化し、観察して筆を執る、リアリストな一面をもつ女性として描かれているのだ。
 以上のように、マリーとサンドの二人は、リストを取り合う対立関係であるばかりでなく、それよりもむしろロマンチストとリアリストの両方の側面を絶妙なバランスで保つ人物として描かれているという共通点をもった女性たちなのだ。

3 台詞のすれ違いから歌
 本作品で非常に優れている点として、台詞のすれ違いを用いて心のすれ違いを描き、その後女性が心情の吐露をしながら歌い、リストと別れを示しているところである。初めに、マリーと逃避行したリストとジュネーブまで会いに来たサンドの台詞を挙げる。

ジラルダン「そうだ、ずっと会いたがっていた僕らの仲間を紹介しよう」
マリー「誰かしら」
ジラルダン「ジョルジュ・サンドさ」
  ジラルダンが示したところに、サンドが立っている。
サンド「紹介してくれないの?あなたの恋人でしょ?」
マリー「え」
リスト「ああ、紹介するよ。マリー、彼女はジョルジュ・サンド。作家だ」
サンド「はじめまして」
マリー「勿論、存じていますわ。私、あなたに憧れて」
ジラルダン「それで、彼女、うちの新聞で執筆を」
サンド「まあ、嬉しいわ」

 ここでサンドが言う「あなたの恋人でしょ」は「(そちらの方は)あなたの恋人でしょ」ではなく「(私は)あなたの恋人でしょ」の意味であり、マリーもそう受け取る。だから「え」と戸惑う反応を見せ、不安そうな視線をリストに向けるのだ。リストはそれに気が付いて、サンドのことを「作家」と紹介し、マリーの不安を和らげようとする。肝心のマリーはサンドに憧れて執筆を始めたこともあり、その後は笑顔でサンドに対応する。
 ここでは、冒頭に濃厚なラブシーンを見せたリストとサンドとの結びつきが、いよいよ本格的に切れてしまったことを暗示させるすれ違いになっている。このすれ違いは見事だ。この後、パリに戻ってきてほしいと楽曲「パリの屋根の下、野心は目覚めるRep.」を歌い、サンドがリストにキスをしようとするが「やめてくれ」と阻まれてしまう。サンドはリストが離れてしまったことをここで認めざるを得ない展開となっている。
 そしてマリーもリストとすれ違うことが、台詞を用いて上手に表現されている。次の場面はリストとタールベルクの象牙の戦いの直後のやり取りである。

マリー「フランツ…」
リスト「マリー!聞いていたかい、マリー!」
マリー「ええ、聴いていたわ!本当に、素晴らしい演奏だったわ」
リスト「あの喝采だよ!聞いたかい」
マリー「ええ…」

 リストの言う「聞いていたかい」を、マリーは「(僕の演奏を)聞いていたかい」と受け取り、「ええ、聴いていたわ」と答えるが、リストは「あの喝采だよ!」と続ける。見事なまでのすれ違いである。ここですれ違うのは台詞だけではなく、ジュネーブのときに固く結びついたと思われるリストとマリーの人間関係にもひびが入ることがわかるようになっているのだ。
 また、芝居を見ているときにはなかなかわかりにくいが、脚本では「聞く」と「聴く」が巧妙に使い分けられているとも感じる。マリーは本当にリストとの愛の逃避行の地で新しく生まれた曲に「聴き入っていた」のだろう。しかしマリーの傾聴の姿勢とは打って変わって、リストは観衆の拍手に呑まれ、溺れていく。この後マリーは楽曲「喝采を浴びて」で「なにが嬉しいの」と心情を歌に乗せ、続く楽曲「どうして、手を離したの」で、リストとマリーの心が完全にすれ違ったことが表現される。
 つまり、マリーとサンドは、リストとの決別が台詞のすれ違い、その後の楽曲によって表現されるという演出の面でも共通点を持っているのだ。そして前者の決別がリストをタールベルクとの対決に向かわせ、後者の決別がリストを地位や名誉へと結び付けていく。これらの別れの場面がそれぞれ物語を動かしていくのである。もちろん、これは星風や永久輝が歌唱力に定評があることも手伝っていよう。
 さらに『歌劇』の「座談会」では「どちらも真実だと思うんです。野心も、マリーと共に本当の自分の自分として生きたいという思いも」とある。タールベルクとの対決が終わったあと「一緒に帰りましょう。ジュネーブへ」というマリーは現在のリストとの幸福を訴えるが、リストは「これが成功すれば、金が入る。名誉にだって手が届くかもしれない」とマリーが望んでいない野心への期待を興奮気味に語る。今のままで幸せだというマリーに対して、野心をくすぐられたリストは、相反する道を選ぶより他に仕方あるまい。
 これが、サンドが相手だったらリストの葛藤はなかっただろう。なぜならリストとサンドは熱く大きな野心で結びついていたからだ。サンドはリストが赴くウィーンへ、なんの衒いもなくついていくことを選ぶことができた。あえていえば野心の有無がマリーとサンドの性質を決定的に分かつものであり、それは『歌劇』の「公演評」で「リストから離れて彼の愛人となるサンドが”炎”なら、まさに”水”のように静かな天才ショパン」と言われるように、マリーもまた「水」の性質の持ち主なのだろう。冒頭で指摘した通り、確かにショパンとマリーは愛する人を大きな愛情と広い心で包み込む母性のようなものが共通しているといえる。

4 マリーとオーロール
 マリーとサンドの共通点を確認したところで、マリーとサンドの関係を改めて確認したい。マリーがサンドに憧れていたことは前述した通りであり、リストと別れた後もサンドがマリーに仕事を譲ったことを考えると、マリーは作品の中で一貫してサンドを尊敬し、同じ女性としてのつながりを意識しているように見える。書き続ける中で、マリーはサンドとの連帯を感じていたはずだ。
 一方でサンドはそうではない。途中でリストが自分のもとを離れ、「駆け落ちするほどの想いがどんなものなのか、見せてもらおうじゃない」と敵意をむき出しにする。ジュネーブでリストと二人きりになったときも「マリー・ダグー『伯爵夫人』」とマリーの地位を必要以上に強調し、まるでマリーにパトロンとしての価値しかないようなものの言い方をする。サンドはリストの「本気の恋」を認めようとせず、認めてからは「最後は私のところに帰って来ると思えばこそ、今まで耐えてきたのよ」とリストをなじる。ここでのサンドにとってマリー、リストを本当の意味で自分から奪った憎い女という印象である。
 けれども、リストがマリーを置いてパリから去った後、前述した通り、サンドはマリーに仕事を譲る。少し長くなるが、引用する。

ショパン「それで、あなたを残して行ったのか」
マリー「ええ、けれど、パリには身寄りが無くて」
サンド「夫がいるでしょ」
マリー「別れた夫を頼るなんて!」
サンド「そこは、うまく転がしてやるのよ!」
ベルリオーズ「誰もがジョルジュみたいにうまくできるわけじゃないって」
ショパン「どうするつもりなんです」
マリー「仕事を探そうかと。皆さんみたいに何かできるわけじゃないし、私には何も無いけど」
サンド「自分には何もない?」
  ジラルダンやサント=ヴーヴら文芸絡みの仲間たちが入って来る。
ジラルダン「ジョルジュ!原稿を取りにきた!」
サンド「いいところに来たわね、エミール。その仕事、悪いけど辞退させてもらうわ」
ジラルダン「え!?今更断るのか?」
  サンド、マリーを押し出す。
サンド「ルポルタージュには彼女の方が適任じゃないの?」
ショパン「そうか…リストの批評だ!」
サンド「あれだけ書ければ、ジャーナリストとして十分!一人で生きていけるわよっ!」
ショパン「ジョルジュ…」
サンド=ヴーヴ「ダニエル・ステルン復活だな!」

 リストに置いていかれたマリーに対して、サンドは口調こそ厳しいものの、「夫を頼ればいい」と言ったり、「ルポルタージュは彼女の方が適任」とマリーをジラルダンの方に押し出したり、マリーが自活できるように助け舟を出している。マリーが自分に憧れて執筆を始めたという事情も手伝っているのかもしれない。このときのサンドにとってマリーはもはや「リストを自分から奪った女」ではなく、「自分と同じように筆で生活をしていく女」である。当時のフランスの時代背景を考えれば、一人の女性として生きていくパワーや勇気はすさまじかっただろう。「女性作家」ではなく「女流作家」と言われた時代である。女性は男性の筆名でなければ、書いたものを正当に評価されなかった。サンドはマリーを「ものを書く女性」の後輩として、連帯を意識せざるを得なかったともいえるかもしれない。間違いないのは、このときサンドはマリーを嫉妬心抜きに対等な存在として認めたということである。この場面は確かにマリーとサンドの間に女性同士の絆――シスターフッドが生まれた瞬間であった。それだけに、二人の大きなナンバーがないのが悔やまれる。
 この直後、革命に向かうジラルダンたちと貴族をパトロンとする芸術家たちは袂を分かつことになり、マリーとサンドは作中では顔を合わせない。けれども、一概に彼女たちの物理的なつながりを革命が引き裂いたとはいえないのは、彼女たちの生きる原動力が愛する人への一途な愛であるからだ。
 マリーは「魂の彷徨」の場面において「私は、あなたと一緒にいたくて、あなたを取り戻したくて始めたことなのよ」「フランツ!わたしは、もう一度あなたと…」とリストに語りかける。「楽屋取材」でも「彼への愛がずっと原動力」と言い、革命を起こしたこととリストを愛していることがマリーの中で矛盾なく存在しているどころか、リストを愛しているからこそ革命に身を投じたという態度を示す。そして実際「魂の彷徨」の革命の中でリストと念願の再会をようやく果たすのだ。
 サンドは革命から逃げるが、それはショパンの体調を気遣ってことである。それはサンドがロマンチストであることを述べるときにも引用した通りだ。いつの間にか自分を大きな愛で包み込み、寄り添ってくれる存在に、サンド自身も何度も支えられた経験を自覚しているようなことがにじみ出る演技であった。仮に革命がなかったとしても、ショパンの病状を考えて療養を勧めていただろう。
 マリーとサンドは、それぞれ自分の愛を選んだことにより、違う道を歩むことになる。しかしこれは決別ではない。彼女たちは「男性の筆名で執筆を続けること」「自分が愛する人と共にいること」を選んだ点において共通している。その選択は、最高の形の幸せとまではいかなくても、それぞれその選択に納得している。だからサンドはショパンの死に気づいて「さよなら、私の王子様」とつぶやき、マリーは革命から18年後、リストに会いに行くのだろう。

5 おわりに
 リストを取り巻くヒロインはもう一人いる。圧倒的な歌唱力を誇る音くり寿が演じるリストをパリの社交界に連れてきたラプリュナレド伯爵夫人である。彼女とリストを隔てたのはまさに身分である。ラプリュナレド伯爵夫人は単なるパトロン以上にリストを愛していた様子がうかがえるが、マリーのように貴族という身分を捨てることはなく、その選択肢さえも最初からなかった。あくまでパトロンという立場にこだわり、後見人としてしかリストをつなぎとめる方法を知らない彼女に、パリで大成功を収めたリストが「本当の自分」をあらわにできるはずもなく、いつの間にかラプリュナレド伯爵夫人の存在を重荷に感じていく。リストとマリー、リストとサンドの関係と違うのは、二人が対等な立場で本音を話すことができなかったことに尽きるだろう。だからこそ、彼らの台詞はすれ違うことがない。もともと心が通っていないからだ。しかしミュージカルらしく、二人の決定的な決別を示す楽曲「二度とパリには」では貴族たちを率いて高らかに歌い上げる。
 本作は、リストとマリーの決別までの前半の盛り上がりは間違いなくおもしろい。そのため、今回もそれまでの中心に論じてきた。一方で、後半は、すでに多くの人が指摘するように、リストの戴冠式が『エリザベート』(脚本・作詞/ミヒャエル・クンツェ)を、革命時におけるジラルダンのラップが『1789ーバスティーユの恋人たちー』(脚本/ダヴ・アチア)を、魂の彷徨の場面が『fffーフォルテシッシモー』(作・演出/上田久美子)を、可視化された才能が自身の幼少期であることが『モーツァルト!』(脚本・作詞/ミヒャエル・クンツェ)を、といったように他のミュージカル作品を連想させてしまう演出になっている。それ以外にも、ロマン主義の芸術家たちの自己紹介ソングがなかったり、ラストが唐突に18年後になったこと、リストが神父になった理由が少々わかりにくかったりするが、本作は宝塚のオリジナルミュージカルとして、トップスターの柚香光の代表作になるに違いない。
 生田作品には他にも『ひかりふる路』がフランス革命を題材とし、トップスターがロベスピエールを演じている。本作とは「一度心を通わせたと思った女性(娘役トップスター)に男性(トップスター)がひどく傷つけられるが、最後はある種の安らぎを得る」という筋が共通している。ジョルジュ・サンドの人物像にはロベスピエールの片腕であるサン=ジュストからの影響もうかがえる。『ひかりふる路』でも、マリーアンヌとオランプのシスターフッドが描かれており、娘役の描き方の評価は高い。生田作品は、主たる観客である女性を不快にさせる演出がほとんどないのが特徴だ。今後のオリジナルの生田作品にも大いに期待したい。

●出典
『歌劇』「座談会」(通巻1161巻、2022年6月)
『歌劇』「楽屋取材」(通巻1163巻、2022年8月)
『Le・CINQ vol.224』(通巻385号、2022年6月)