ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

星組『ベアタ・ベアトリクス』感想

星組公演

ミュージカル『ベアタ・ベアトリクス
作・演出/熊倉飛鳥

ラファエロ前派といえば、ジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』とウォーターハウスの『人魚』といったところ。つまり両方とも水に浮かぶ女たちである。ミレイの『オフィーリア』に感化され、ウォーターハウスもオフィーリアを題材に3点ほど作品を描いている、はず。川で遊ぶことなどもうないだろう年齢になったが、万が一そんな機会が訪れたら、積極的にオフィーリアごっこをしたいと思うので、たくさんの花を用意しなければならない。

今回はそんなエヴァレットを二番手としてかのんくん(天飛華音)が演じ、そして主演のロセッティをきわみ(極美慎)が華々しく飾った。
きわみの出てきたときのスターオーラがもう半端ない。それはもちろん照明や音楽による演出もあるのですが、それだけではない。真ん中に立つべき人だということが一目で分かるあの圧倒的な華やかさは、他人がどれだけ真似しようと思ってもなかなかできるものではない。生まれついてのものだろう。きわみは生まれながらにしてタカラジェンヌ。すいません、もう自分でも何を言っているのかよくわからないのですが、それだけすごく格好良かったということです。
無造作ヘアかと思いきや、くるりと回れば後ろでちょいと結んでいる様子がうかがえる。なんですか、あの短い尻尾、けしからんですな、かわいいですな。ひっぱりたい。
先行画像もポスターも同じ衣装で、似たり寄ったりの構成で、まあ、とにかくきわみの顔が良いことを前面に押し出した感じ。その前に発表されて衝撃的だった『カルト・ワイン』にくらべるといかにも王道で典型的、まあ正直に言えば少しつまらないような気もしたけれども、作品を見ればあれが大正解だということがわかるし、熊倉先生も演出家としてデビュー、きわみも初主演ということもあるし、とにかく今はあれ以外考えられなかったなと思う始末。ずいぶん都合がいいな!
本人のスターオーラもさることながら、作中ですばらしいのは、なんといっても娘役を見つめるあの目。どんな娘役でもあれには酔ってしまいそうになるだろう。きわみに見つめられれば誰もがヒロイン。娘役をたらしこむあの瞳はすばらしい。「俺は君を描くために生まれてきたんだ」ってすごいくどき文句だ。これ、きわみの顔で言われて落ちない人、いるのか?いないでしょ?
そしてただ格好良いだけでなく、ちょっと情けない感じも残っているのが何よりイイ。
娘役ちゃんたちが、ヒロインであり、また理想のベアトリーチェであるリジーファム・ファタルのジェインだけでなく、娼婦までもが虜になる。マーガレットは言葉こそきついものの、ロセッティを心配しているのは顔を見ればわかる。「絵が売れてなくてね」というロセッティに、「どうせ描いてもないんでしょ」と間髪入れず返すマーガレットがロセッティの心配をしていないで、誰がしているっていうんだ。この言葉のやりとり、大好きだよ。
つまり、みんなロセッティが大好き。主人公にありがちな設定だけど、それが説得力をもっちゃうんだからすごい。
兄弟団のみんなだってもちろんロセッティが好きだけど、娘役ちゃんたちはまた違うニュアンスがある。きわみに見つめられたときに出てくるあの芳醇な色気よ、スタオベするところだったよ。見つめられたら私なら死ぬな。娘役ちゃんたち、すごい。

約10分弱のオープニングは少しばかり長いようで、しかし物語の、エヴァレット以外の要素が全て詰め込まれているといっても過言ではない。
とんだいたずら小僧のロセッティ、ロセッティに振り回されるウィル、少しどんくさいけど仕事に一生懸命なリジー、教授に怒られるのが日常茶飯事であろう兄弟団、ロンドンで仕事を探す労働者たち、色を売る女たち、すれ違うロセッティとリジーの出会い、そして最後にリジーの帽子を拾うロセテッィ、すでにここに物語がある。観客を素早く世界観に浸らせる、すばらしい演出だった。無駄がない。
ここに出てきたおぼこいリジーが(『メランコリック・ジゴロ』のフェリシアのような)、ロセッティに見いだされ、少しずつ自分を開花させていく明るい美しさ、エヴァレットに頼まれてモデルを務めることへの不安からくる影を伴った美しさ、リジーの病と引き換えにエヴァレットは名声を手に入れ、ロセッティたちと袂を分かつ。
ジーの病が偶然的でないのもいい。物語から都合が悪くなった女を排除するために病というのはよく使われがちで(事故よりも圧倒的に病気になる方が多い印象・男は事故の方が多い)、病気姿の女をわざわざ描写する作品も芝居に限らず少なくない(宙組のヅカローはまさに病に苦しむ女だったな)。私はそれに対して抵抗があったのだけれど、リジーの場合は水風呂に長く浸かっていたことが原因であろうことがわかる。そしてそれが好評を博すから、ロセッティともうまくいかなくなり、精神的にも弱っていく。リジーの描き方としては、よかった。もちろん現実には病気に因果関係がないのはわかっているけど、創作物では病でなくなる女がやたらと多すぎるんだよ。

ただ、もう一歩踏み込むとしたら、指の絵の具が取り切れないほどロセッティよりも絵を描いていたリジーが描いた絵はどんなものだったのか、「モデルだけでなく、絵の勉強もできる」と誘っておきながら、実際のリジーの絵はどうだったのか、モデルとしてのリジーにばかり目が向けられていたのが惜しかった。もっと、主体性をもった女性として描くこともできたであろう。ひたすらにそれが残念であった。熊倉先生、次、頼みますね!
次第に垢抜けていき、ロセッティと出会ったときは天使であったリジーが、だんだん女神になっていく美しい様をほのか(小桜ほのか)は見事に演じきった。いやはや、すばらしい。衣装もか可愛かった。台詞のない紫のドレスなんかもすごいよかった。あれは台詞がないのに、すごいインパクトを残すほのかの演技力もすごい。カメラさん、正しいカメラワーク、ありがとうございます。
ロセッティの過去を知り、リジーは彼の詩集を読む。ここの「ちょっと、いつの間に……」というきわみが、これまた情けない感じなのがたまらんのだが(そして「きみのことを読んだんだ」と正直に言っちゃうあたりとか……っ! もう! 本当に女たらしなんだから!)、ここから「あなたのこと、ダンテって呼んでもいい?」というリジーのお願いを聞き入れるロセッティが、これまたたまらん。この一連の流れ、本当にたまらん。
ずっと嫌いだった自分の名前を呼ぶことを許すって、なんだよ、それ。おいしい展開だな。その前の場面ではウィルに「ダンテ」と呼ばれて「その名前で呼ぶな」とはっきり断っているのに。そしてそのすぐあとにラスキンに名前を聞かれて「ガブリエル・ロセッティ」と「ダンテ」は言わない。それくらい自分が「ダンテ」であることが悩みで、苦しいのに、リジーには許す。最高だな。鼻血ものの展開ですわ。
幻想のベアトリーチェの娘役さんは星咲希ちゃん。すごい豊かな表現力でした。お見事。出てきたときから「おっ!?」と思ったけど、出てくるたびに、最後まで、すばらしかった。

初めてモデルを務めるリジーに、ロセッティはこの上もなく優しい。「ポーズがつらくなったら、すぐに言って」と言う。
おい、『夢千鳥』の夢二とは大違いだな!と思ったのは私だけではないはず。でも、ロセッティが優しくて嬉しいし、きわみの娘役たらし感も出ていて大変によい。きわみの正しい使い方だよ。
それに対してエヴァレットはオフィーリアを描くとき「風呂の水は冷たいかもしれないけれど、ろうそくの火が君をあたためるから」と言う。
優しいようで、全然優しくない。きっとエヴァレットはエフィにはこういう対応をしなかっただろうな、ということも思わせる。
このときの物理的な風呂を演出したり、精神的な不安を演出したりするコロスの使い方も上手い。
コロスはオフィーリアの幻想だというのもよい。
これ以降、ロセッティはリジーを描くことができなくなる。エヴァレットと真っ向から絵で勝負することができないから。
けれどもリジーがいなくなってからは筆を握ることさえできなくなってしまう。この一連の流れもうまい。

文学を捨てたお前、と度々ロセッティを苦しめるメタファーの中心として出てくるダンテの父。このあたりは『M!』なんかもそうですが、文学から絵画に表現の場を移したのは、ロセッティにとっては良かったのだろうと思える演出もいい。ダンテのパパは朝水りょうが好演。最近パパの役が多いけれども、ひげが似合うダンディな男役になりましたな。すてき。ショーでぎらついているのも好き。
あのまま詩を書き続けていたらロセッティは父親の言いなりで、父親の世界観の中でしか成功も失敗もできなかっただろう。
絵画という別の表現方法を身につけて、それでも詩を書き続けるのと、詩だけをひたすら書き続けるのは違うでしょうね。そういえば竹久夢二も言葉での表現がうまくいかないから絵を描いてみた、とか言っていましたね。二人とも当時の主流に喧嘩を売るタイプの芸術家ですね。自分が亜流だという自覚があるからでしょう。
2幕でロセッティはリジーの墓にリジー宛ての詩をびっしり書いた本と出会いのきっかけとなった帽子を埋葬する。つらい。後にその詩を掘り起こし、詩集を出そうとする。芝居の中では明確に描かれていないけれども、ロセッティは実際に掘り起こした詩集を世に発表した。事実は小説よりも奇なり。
しかし、そのノートがあるから淋しくなかったという女神ほのか。もうひと頑張りしようと励ます。それは美しい幻想だ。ロセッティはそれでようやく描く気力を取り戻す。なんだよ、やっぱりリジーがいなければダメなんじゃんかよ!と思わせる。ありがたい。
幻想に悩まされるロセッティは、芝居としてはありがちだけど、流れとしては自然だったし、まあ、そうならざるを得ないよね、っていうか狂気じみているきわみも素敵だね、とかそんなことを考えていました。狂っていても、酔っていても、真ん中に立つべき人なんだな。

ロセッティのベアトリーチェであるリジーに対して、酒場の女優であったジェインは、ロセッティのベアトリーチェにはなれなかったけれども、ロセッティにお金を恵んだ。そしてそのお金でリジーと暮らすんだよな、つらい。
ジェインは水乃ゆりちゃん。非常に正しい彼女の使い方だったと思います。彼女の演技力を考慮すれば、悪役の方がやりやすいでしょう。歌がないのも正解でした。身長もあるので、悪女、ファム・ファタルというのはぴったりでした。ブラック・レディのような。今までで一番似合っている役だと思いました。手足が長いし、妖艶なこの路線でいくといいよ。ロセッティとの単語の迫力もすごかった。
ロセッティのモデルをして、その絵が好評で、その上でトプシーはジェインに結婚を申し込む。このあたり、ちょっとスピンオフで見てみたいですねえ。トプシーは大希颯くん。私の記憶の中では今回が始めましてです。ロセッティに懐いていた弟子時代とジェインの夫としてロセッティをなじる場面とロセッティの葬式の日と、3つを上手に演じ分けていたと思います。これから期待できる。

ジェインを見ていると「女は愛される方が幸せ」みたいなことを考えさせられるけど、ジェインはロセッティを炎のように愛し、それでいてトプシーのことも静かに、穏やかに愛していたと、ロセッティの葬式に行かずに「家に帰りましょう」と言う最後を見ると思えるのもいい。それはジェインらしくない愛し方だったかもしれないけれど、トプシーが相手だから、そういう愛になる。愛は一人では育めない。そういうことを考えさせられる。
2幕で、トプシーに「ジェインを描いてみろよ」と喧嘩を売るロセッティは、そのままその言葉が見事にブーメランになっていて、構成として恐ろしかった。それでもトプシーがロセッティのように悩み苦しむことがなかったのは彼がブルジョワだからでしょう。お金は心の余裕を生むって本当なんだな。病室でロセッティがエヴァレットに語るように「自分よりも上手にリジーを書ける人がいるのが怖かった」「画家なら、絵で勝負すべきだった」。似たような台詞は作品全体に散りばめられていますが、この集大成が見事だった。
ロセッティが自分のコンプレックスを乗り越えて、もう一度リジーを書こうとする、その流れが違和感なく見ることができた。なんで?とか、これはなに?とか思う場面がない。大きな齟齬なく感情を上手につないで脚本を書いているし、役者もそれに充分に応えている。すばらしかった。
ジェインからしたらたまらなく辛かったでしょう。夫婦の不貞は教会からも世間からも白い目で見られる、エヴァレットとエフィの件で当時の常識が語られる中、ジェインはそれでもロセッティのモデルになることを自分の意思で選んだ。旦那が用意したアトリエで、自分が愛している男のモデルを務めたのに、描かれたのは自分ではない。『夢千鳥』のお葉も「あの絵は私じゃない!彦乃さんでもない!」という。モデルをしているのに、自分が描かれていなかったときの絶望たるや……つらぁ……。
それでもジェインにも帰る場所がある。それが救いだった。観客にとっても。

ずっとロセッティの側にいて、「唯一の友人」と言われるウィルは常識者だけど、正直者でもあって、ロセッティの幸運やエヴァレットの才能に嫉妬していないわけではないのだろうけれども、堅実に絵を描き続けていて、そういうウィルを碧海さりおがこれまた上手に演じるんだから! もう! すごい!
今まであまり彼女を芝居ですごいと思ったことはなかったけれども、地に足のついた演技のできる人だということがしっかりわかりました。ヒゲもよく似合っていた。2幕で再び絵を描き始めたロセッティのことをラスキンに伝えるところも優しい。人情がにじみ出ていた。ただの狂言回しに徹しないのがよかった。熊倉先生、この役を彼女に与えてくれて、ありがとう。
ラスキンは安定のひろ香祐。こちらもダンディですばらしかったです。ある意味、彼も芸術に魂を売った人である。エヴァレットがリジーを描けばどういうことになるのか、この人だってわからないわけではなかろう。ロセッティとエヴァレットの二人を引き合わせたラスキン自身が二人の友情を裂く。お見事。そして途中、実はエヴァレットを見返すためにロセッティを利用しようと思っていたでしょ? そういうの、よくない。案の定、ロセッティにも見透かされる。ロセッティにわかるようじゃ、みんなにわかるよ。気をつけて、ラスキン
ラスキンは「私は失うものの方が多かった」というけれど、エフィさんだって相当今まで失ってきたし、これからの世間の評判を考えたらかなり失っていると思うけどなあ。勝手な人だ。

ヒゲといえば、エヴァレットのかのんちゃんの2幕のヒゲ! そして渾身の演技!からの涙!
アカデミーの神童と言われながら、アカデミーの展示会に落選、やけ酒を飲んでいる姿はまるで坊ちゃん。でも最初からエヴァレットの方がちょっと大人かな。酒場から帰るときも「すまなかった」と言うのはエヴァレットの方だし、2幕でもイケオジになったエヴァレットが最初に謝る。エヴァレットの方がいつだって少しだけ大人。
そんな坊ちゃんがロセッティに悪さを教えられる、ロセッティは絵の技法を教えてもらう、いい相棒になれるはずだった。仲間だった。最初から「一緒にやろう」というスタンスのエヴァレットに対して、ロセッティは改めて「仲間になろう」と言う。だから初めからそう言っているやん!と思うけど、ロセッティはそこでエヴァレットを「アカデミーをぎゃふんと言わせたい仲間」として本当に認める。
けれどもラスキンエヴァレットに「君が描いたリジーを見たい」と言われ、嫌な予感がしつつ、それを了承する。
完成したオフィーリアはそれはもう傑作だったけれど、エヴァレットは代わりに大切なものをなくす。初めてできたかけがえのない友達を。
1幕の終わりに出てくる幻想のエヴァレットの顔がめちゃくちゃ怖い。これはロセッティから見たエヴァレットなんだ、乗り越えられない壁なんだってすごく感じる。でもエヴァレットだってロセッティに憧れていたところもあるのでしょう。
かのんちゃんは演技も歌も存在感もすばらしく、るりはなちゃん(瑠璃花夏)のエフィとのデュエットもすばらしかった。
エフィはエヴァレットを明らかに誘っておきながら、いざ誘われると「あなた、自分が何を言っているのか、わかってる?!」みたいなことを言う。でも世間の冷たい目にさらされながらも二人はあたたかい家庭を築く。エヴァレットがずっと欲しかったもの。
それに気がつくことができたのもロセッティたちがいたからこそ。病室の場面の美しさは唯一無二の芸術家の魂が現実世界でもういちど交錯したことによる。たまらない。
エヴァレットと新聞の世評を競うことになっても、その結果は芝居の中でわからない。これもいい。
大切なのはロセッティが勝つことでもエヴァレットが勝つことでもなく、ロセッティが「エヴァレットは悪くない」と自分の弱さを認め、自分を見つめ直し、リジーをもう一度描くということだから。この演出がすばらしい。

2幕で居酒屋で繰り広げられる幻想に兄弟団がいたり、冷たいまなざしでロセッティを見つめてくるリジーがいたりするのもよかった。とにかく作り方がうまい。
演出といえば、額縁構造になっているようで、実はそこから少しはみでている構成もいい。
冒頭は、ロセッティの葬式の日、最後にロセッティが絵を描いていたアトリエにジェインとトプシーがいて、そこから回想、長いオープニングとなるが、終わりは、アトリエから二人が去り、時間が戻り、ロセッティがリジーを描いていることがわかり、さらにオープニングの時間軸へと時間が遡る。エヴァレットがオフィーリアを書く前の時間軸である。
まっすぐにリジーを愛するロセッティと屈託のない笑顔で寄り添うリジー。最高だ。そう、この幸せな二人で終わるのがこの物語の大正解なのだ!と思わず目頭が熱くなる。二人で目指したんだもの、ほんもののベアトリーチェを。よくできた構造だった。
場面転換も全くストレスがなかった。
居酒屋の幻想で「学生時代に戻れるなら、戻りたい」と言って、本当にその学生時代で終わる。芝居ならでは。もちろん、あれは天国なんだけど、その天国で学生時代やってんだよな。
まあ、本当に強いて言うと、1幕と2幕の時間のバランスはよくなかったかな、というところ。90分、40分くらいの配分でしたかね。リジーが亡くなったところで1幕終わりでしたが、オフィーリアでエヴァレットが成功し、ロセッティと袂を分かつあたりで1幕を終えてもよかったかもしれません。
でも些末なことです。観客としては全く集中力を切らさずに見ることができました。
熊倉先生、もう次の作品が今から楽しみです! デビュー、おめでとうございました。

デビューといえば、初主演、きわみもお疲れ様でした。作品に恵まれて良かったね! これららも新しいきわみに会えるのを楽しみにしています。