ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

月組『桜嵐記』コラム

 日本人には、桜を見ると思い出す作品が、一つや二つあるだろう。『古今和歌集』の「世の中にたへて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(在原業平)といった和歌に始まり、そのほか、物語を連想する人もいるだろう。
 その中に宝塚歌劇団月組の『桜嵐記』がある。公演が終わった一年半経った今でも思い出深い作品として脳裏に刻まれている。トップスターコンビの珠城りょう、美園さくらの退団公演に加え、結果として作・演出を手がけた上田久美子の、最後の宝塚作品となった。盛りだくさんの「最後」がつまったこの作品の、物語の「最後」はどうなっているだろうか。今回は物語のラストの後村上天皇の言葉について考えたい。
 主人公楠木正行四条畷の戦いで命を落とす。けれども、物語のラストは時を遡り、北朝と戦うために四条畷の合戦に赴く正行たちを南朝の公家たちが見送る出陣式の場面だ。貴族たちの着物が色鮮やかな上に、華々しく咲き誇る吉野の桜が舞台の上で存在を主張する。日本人の感性にとって「武士と桜」、これ以上の組み合わせはない。その中で、後村上天皇は「戻れよ」と言う。それは退団する珠城に向けられた言葉でもあっただろう。けれども、この言葉を、南朝が勝つことに躍起になっているはすの阿野廉子は、北畠親房はどのように受け取ったのだろう。
 普通「武士と桜」というとき、私たちは「死に急ぐ武士」と「早くに散ってしまう桜」を重ね合わせる。ここでの桜は、儚く散る姿が印象的なソメイヨシノのような桜である。ソメイヨシノは江戸時代後期に開発された桜だ。しかし、吉野の桜はいわゆる「山桜」であり、抜群の生命力を誇る。群れとなって咲き誇る存在感も圧倒的、ソメイヨシノとは同じ桜でも全く違うものである。
 そもそも私たちが思い描く「武士道とは死ぬことと見つけたり」というような『葉隠』に描かれた典型的な「武士」像もまたソメイヨシノと同様に「作られたもの」であることを理解する必要があろう。江戸時代に戦うことのなくなった武士たちの哀愁を、明治政府は、国を一つにするための象徴として大手を振って利用した。ソメイヨシノと結び付けられて考えるようになったのもこの頃からだ。
 「武士道」という言葉が初めて使われたのは、江戸時代初期であり、武士が台頭したのが平安時代末期であることを考慮すると随分遅い。武田家家臣が残したその言葉は、「武名を高めることにより、一族の発展を有利にすること」であり、「戦の中での生存術」であった。ソメイヨシノに象徴されるような「潔く散ること」すなわち「潔く死ぬこと」とは全く別のものである。つまり、南北朝時代の武士である楠木正行はそもそも生きて帰って来る必要があったのだ。後村上天皇が「戻れよ」と他の貴族たちの前でも堂々と言えるのは、もっといえば、言っても周りの貴族に叱責されないのは、「武士は生きて帰って来ることが当然」という考え方が根底にあったからだ。
 では、なぜそんな当たり前のことを後村上天皇はわざわざ言葉にするのか。後村上天皇は正行がもう戻らないことを予感している。けれども、彼は「戻れよ」と、そう言わずにはいられない。それは南朝のためというよりも「幼友達」としての本心が極まり、思わず滲み出でしまった言葉だ。観客は後村上天皇の感情を無条件で受け取る。だから、胸が熱くなり、視界がにじむ。そして、阿野廉子北畠親房はこのメッセージを受け取らない。この断絶は一見すると見逃しがちである。しかし、これこそが、暗く深い南朝の闇となり、正行の弟・正儀が「南朝を滅ぼす」と言うように、最終的に南北朝を合一する未来へと続くのである。
 同じ言葉でも受け取る人によって意味が変わる。これは言葉だけでなく、行動でも同じだろう。北朝と戦いに行く正行の行動は、阿野廉子北畠親房にとっては「南朝を滅ぼすため」であるが、正行にとっては「民のため」である。彼には大きな流れを作る人間の、具体的な顔が思い浮かぶのだ。同じ行動でも同期が異なる正行の行動は、決して忠義などという言葉ではくくれないのだ。その意味で観客は、新しい正行像が完成する歴史的瞬間に立ち会ったと言えるだろう。

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