ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

「芸能の在る処~伝統芸能入門講座~宝塚歌劇編」メモ1

芸能の在る処~伝統芸能入門講座~宝塚歌劇
ゲスト:上田久美子、松本俊樹
案内人:木ノ下裕一
主催:ロームシアター京都

○木ノ下さん
みなさん、こんばんわ~。
私は普段歌舞伎の演劇を現代演劇にするという「木ノ下歌舞伎」をやっております。
今回は「芸能のあるところ 入門編」ということで、まあ「入門編」というわりにはマニアックすぎるという声もあるのですが、若干それくらいの方がおもしろいということもありましょう。
このシリーズは、二つの観点から演劇について考えるという講座になっています。一つ目は「劇場」です。関西には劇場がたくさんあり、いわゆる劇場文化が根付いています。その劇場を見つめ直そうという主旨です。劇場でどういう体験をするのか、あるいは劇場文化が関西にどのように影響を与えてきたか、ということを考えていきたい。
二つ目は「レパートリー」。同じものを違い時代に上演することの意味を考えることで、関西の演劇文化を考え直そうと思っています。劇場は、レパートリーを創造する場所でもあります。劇場という外側だけあってもしかたがない。過去のアーカイブをどのように活用していくか、ということを通して演劇史を考え直していきたい。
つまり、「劇場」という外側と「レパートリー」という中身をセットで考えていくというのが、この講座の視点となっています。

では、ゲストの方に登場してもらいましょう~!(上田先生、松本先生、登場・熱い拍手)
我々三人は、実は今日が初対面ということで……オンラインではやりとりしましたが。
私は全然宝塚に詳しくないけれども、うえくみ先生の作品のファンだったので、もう宝塚を講座で扱うなら、絶対うえくみ先生に来て欲しい!と思っていたんですね。

○上田先生
ありがとうございます。私も木ノ下歌舞伎のファンなので、とても嬉しく思っています。

○木ノ下さん
嬉しいのが、2017年にうえくみ先生が「今年観劇した作品ベスト5」に木ノ下歌舞伎の『心中天網島』を入れてくれていたことなんですよ~!
松本先生は、宝塚について、どのように演出するか、娯楽性と表象性とをあわせて研究していらっしゃる方です。

○松本先生
ありがとうございます。よろしくお願いします。

○木ノ下さん
そんなわけで、今日は三部構成でお送りします。
第一部は「劇場とレパートリー」という視点で松本先生から45分くらい、第二部は上田先生と私との対談、第三部は三人でクロストーク。休憩なしの2時間です!
ところで、上田先生が宝塚の演出家になったきっかけは?

○上田先生
劇場で働きたいという気持ちがなんとはなしに漠然と大学生時代の頃からあって。でも演劇をやったことはないから、事務を考えていた。なんとかナビ登録して、演劇・劇場関連の職種に片っ端から応募したけれども、宝塚しか受からなくて。しかもそれは事務ではなくて、演出助手ひいては演出家になるコースで、これはやばいなと。
ただ、やっぱり一般企業になじめなさすぎて。

○木ノ下さん
なるほど。では、松本先生が宝塚を研究テーマに選んだ理由は?

○松本先生
もともと趣味だったというのもありますが、もともと百貨店とか電鉄とか大衆消費社会に興味があって。
趣味と兼ね合わせれば長続きするかな、という非常に不純な理由でして……。

○木ノ下さん
つまり、我々三人は、宝塚のど真ん中というよりも、周縁部から宝塚に近づいていったということが共通しているということですね。

【第一部】松本先生のお話

タイトル:宝塚は「唯一無二か」――同様の芸能の中の宝塚の位置付け――

1 はじめに
僕は、もともとは堀正旗という人について研究しています。
この人は、もともと少女歌劇の男子専科に入団し、その解散後、宝塚歌劇団の演出家になった人です。ドイツ留学もしています。
この人の研究をしてくると「宝塚のあり得たかも知れない世界線」なんかが見えてきて非常に興味深いところです。

さて、タイトルのように、宝塚は本当に「唯一無二」なのでしょうか。外部の人間はもちろん、生徒を含めて、宝塚を「唯一無二」と評しがちだが、それは本当なのだろうか。
今回はこの問題を「劇場」「レパートリー」という観点から考えていきたい。
周縁から見る宝塚の「オリジナリティ」とは何なのだろうか。

2 宝塚とは?
宝塚唱歌隊と1913年に小林一三が結成、翌1914年に宝塚少女歌劇として公演をするようになる。
文字通り、少女のみによる歌劇団であり、子供による「無邪気さ」が売りであり、「家族本位」の娯楽という立ち位置であった。
ただし、当時は百貨店など、同種の団体が流行しており、格別に珍しいものではなかった。

それが1918年頃から少しずつ性質が変わっていく様子が見られます。この頃に『歌劇』なども発刊されます。
宝塚新温泉の集客を目的とし、小林一三の「国民劇」を実現する集団になっていく。国民劇とは、歌舞伎に西洋音楽を組み合わせたものをさす。西洋音楽ではないのは、和楽器は色町を彷彿させて教育に悪いという考えに基づいている。
さらに、大劇場建設による観劇料の低廉化の実現にも成功する。大劇場会場(1924)による公演内容も変容していく。一種の流行ではあったが、レビューを新たに上演していく。岸田辰彌の『モン・パリ』(1927)や白井鐵造の『パリゼット』(1930)などが挙げられる。
ただ、外国のレビューをそのまま上演するわけにはいかない。あまりにも露出が多く「家族本位」でなくあんってしまうから。特に白井はこのことについていろいろな工夫をしている。
当時はお茶屋さんで高いチケットを買い、女遊びをしてからそのまま劇場に行くという文化もまだ根強かったところで、上記の改革は革新的であった。

また、「歌舞伎レビュー」「オペラレビュー」といった名前が散見され、「芝居」と「レビュー」の垣根が低かったこともわかる。
今でも宝塚の芝居では話の真ん中あたりに祭りの場面があって、総踊りをする様子が見られるが、それはこの頃の芝居とショーが未分化であった時代の影響ではなかろうか。

レビューがレパートリーに加わったことで、男役と娘役が文化した。
しかし男役の断髪は、松竹楽劇部の水の江瀧子が1930年に先行している。宝塚はその2年後に門田芦子が断髪をした。それまでの男役は長い髪をお団子にまとめて帽子の中に隠すというスタイルが主流であった。
男役の断髪により、客層が家族や男子学生から女学生を中心とする女性へと変化していくことになる。
戦後はレビューを中心的なレパートリーとしながらも、徐々にミュージカルの比重が増していく。それが、現在の芝居100分、レビュー50分という形式につながっていく。

3 宝塚の劇場
宝塚は、珍しく自前の劇場(宝塚大劇場バウホール東京宝塚劇場の3つ)を所有する劇団である(所有者は阪急電鉄東宝)。
他に専用劇場を持っているのは、日本では劇団四季くらいかな。専用劇場をもつ、ということはつまり、特有の演出が可能である、ということである。
裏を返せば、そのほかの劇場で上演する場合、例えば全国ツアーなどでは、かなり演出が制約されてしまう。

では、宝塚の公演に適した劇場とはどのようなものだろうか。
舞台の外観の、一番高くなっているところをフライタワーといい、そこに吊り物などの装置が収容されているのだが、宝塚大劇場のフライタワーは横幅が広く、奥行きがないという特徴をもっている。
例えば同じ近代的な劇場としてパリのオペラ座の外観に注目して見ると、フライタワーの幅がかなりあることがわかる。
ヅカオタお馴染みの博多座(日本で唯一帝国劇場と同じことができる劇場)のフライタワーは、高く、幅が広く、奥行きもある。
間口が広く、奥行きが狭い。つまり、宝塚大劇場は演者と客との距離が非常に近い劇場であるといえる。

数値で確認してみましょう。
大劇場:プロセニアムの間口 23.5m、高さ7.4m、奥行き17.65m
(旧大劇場では、間口が26mあった)
梅田芸術劇場:間口21m、高さ11m、奥行き19m
博多座:間口20m、高さ10m、奥行き22m

間口が広くて奥行きがない舞台、これは歌舞伎の舞台も同様である。小林一三が国民劇ののありようを、歌舞伎をベースに考えていたことが影響しているだろう。
これはスターが踊り歌う姿を、客席から見えやすくするための工夫だといえる。つまり宝塚大劇場はレビューやショーに適した構造をしているといえる。
ただし、SKDの浅草国際劇場はさらに間口が広い構造をしており、レビュー全盛期においては珍しくない劇場である。他が変わっていく中で、宝塚だけが変わらず、ある種のガラパゴスになり、現在の特異となっている。

次に、宝塚の舞台の特徴といわれる「銀橋」を考えていきましょう。
銀橋とは、プロセニアムの前でオーケストラピットを囲むエプロンステージのことです。1931年の白井の『ローズ・パリ』を上演する際に設置されました。客席とスターを繋ぐ橋ですね。
かつては金橋というのもあった。旧大劇場は3階席まであったので、そこからも見えるように、という工夫でしょう。
ただし、銀橋のようなエプロンステージは、少女歌劇団全盛期においては、やはりそれほど珍しくはないということが指摘できる。SDK浅草国際劇場やOSKの大阪劇場にも存在するためである。
例えばドイツの無声映画『伯林大都会交響曲』には、レビューの場面が56分くらいからあるが、エプロンステージが使用されているのがわかる。
ハンガリーのブタペストオペレッタ劇場には今も現存されているが(写真を見る限りでは、月組『ピガール狂騒曲』のようにオケピの上を通れる橋もあり)、改修工事で銀橋がなくなったところも多くある。

まとめると、現在の宝塚の特長と言われているものは、草創期においてはどれもそれほど珍しいものではなかった。レビューと並んで、流行の文化だったということが指摘できる。
1920~30代、宝塚の草創期においては世界的にみても同時代性がある劇場であり、それが今に至るまでに受け継がれているというところに大きな特徴があるといえる。

4 レパートリー
ショーとレビューを上演していることは、大きな上演内容の特徴といえる。現在は大規模なレビューを劇場で上演できるのは宝塚とOSKのみであるからだ。
宝塚のように自前の劇場を侑する劇団では、ロングランかレパートリーシアターの形式をとることがほとんどである。

ロングランとは、その名の通り、同じ作品の興行を長く続けること。最初に千秋楽を決めずに、客の入りが悪くなり始めると打ち切るというシステム。ブロードウェイやウェストエンドのミュージカルはこの形式をとっている。
レパートリーシアターとは、一年を一つのシーズンと捉え、その期間に複数の作品を同時並行で上演すること。日によって(毎日)上演する作品が変わる。例えば、ウィーン・フォルクス・オーパーがこの形式を採用している。
宝塚は自前の劇場を持つにもかかわらず、常に公演期間が決まっている。しかも新作主義で、基本的にはオリジナル作品を上演している。今年の来ナップを見てみても、再演は2作品のみ。再演することはレパートリーのストックにつながるという側面があるが、とにかく原作付きであってもオリジナル作品の上演が多いことがわかる。
ロングランなら少しずつチケットが売れていくことを期待して公演を続行できるが、宝塚では初日から満員御礼でないと興行的には厳しい。

原作付きの場合、既存のコンテンツとして人気のある作品、人気のあるジャンルを作品として選択する傾向がある。上演期間が最初から決まっている、ロングランの興業のように少しずつ人気を博し、チケットがさばけていくという売れ方を期待することがでいないからだろう。
しかし、この傾向は現在の宝塚特有のものではない。梅蘭芳(京劇俳優)が1924年に来日しし、公演した数ヶ月後に『貴妃酔酒』(京劇の演目)を上演したり、『メリー・ウィドウ』をもとにした『美しき千萬長者』(白井、1935)を上演したりしている。後者は1934年のアメリカ映画を参考にしていることが登場人物の名前からもわかる。

流行に敏感なのはどの劇団もいつの時代も同じである。
そしてそれは、戦時下でも同じことがいえる。
宝塚は海軍軍事の松島松慶三との関係があり(娘はタカラジェンヌ)、また1930年代末の海外公演についても、対外プロパガンダに協力することも実現している。宝塚の国策協力は一概に押しつけられたものとは言いがたい面がある。
積極的な国策協力は宝塚に限らず、松竹も同じ。また日本醜女歌劇座(巡業中心の少女劇団/満州での公演記録あり)はより熱心な傾向を示すなど、少女歌劇に共通している。
だるま屋百貨店(現在の西武百貨店)のだるま屋少女歌劇にも『時局小劇爆弾少女』(1932)という演目が上演されていたという記録がある。

少女歌劇、レビューの文化は、宝塚草創期の当時では、最先端の流行であった。だから流行に敏感であることが求められ、宝塚は現在でもこの傾向を継承しているといえる。

5 おわりに
宝塚は唯一無二か、宝塚の独自性はどこにあるか、という観点から話をしてきましたが、あえて独自性というのなら、それは宝塚が草創期のものを「続けてきたこと」「残してきたこと」によるものが大きい。
1920、30年代の少女歌劇、そしてレビューの上演スタイルやシステムを部分的にアップデートしながら、守り伝えてきたことで、他の少女歌劇の劇団が消え去っていく中で、現在言われるような「独自性」に辿り着いたといえる。
一方で、だからこそ、宝塚(あるいはOSKも)のような少女歌劇は「伝統芸能」になり得る。「伝統芸能」ということは、このイベントでとりあげるのにふさわしいものである。とりわけ規模の大きい宝塚は自前の大型劇場を維持し続けたことで、舞台構造を含めたレビュー全盛期のものをそのまま継承できたことに大きな特徴(OSKはこれができなかった)、唯一無二性がある。

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松本先生のお話は、こちらの本を読むと、より理解できると思われます。

www.shinchosha.co.jp