ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

雪組『海辺のストルーエンセ』感想

雪組公演

ミュージカル・フォレルスケット『海辺のストルーエンセ』
作・演出/指田珠子

「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」
これは私が大好きなアニメの一つ『輪るピングドラム』(監督:幾原邦彦)のヒロイン高倉陽毬の別人格プリンセス・オブ・ザ・クリスタルが高慢に言い放つ台詞である。この台詞の他に「生存戦略、しましょうか」という決め台詞もある。
『海辺のストルーエンセ』を見て、ものすごくこのアニメのことを思い出した。めちゃめちゃリンクする。見たことがない人にはぜひ見ていただきたい。去年前後編で映画化もしました。イクニチャウダーが好きな人は『海辺』も見てください。

ヨハン(朝美絢)もマチルデ(音彩唯)もクリスチャン(縣千)も、みんな自分が望む「何者か」になりたかった。結果として、みんなその「何者か」にはなれなかったような気がするけれども、では三人とも不幸だったかと聞かれれば、それは違うだろう。それぞれが、それぞれなりの「生存戦略」を遂行したと考えるからだ。
ヨハンは、古い因習に囚われた世界に「科学」「自由」「平等」を実現させたかった。それを実現するためには為政者になるしかなかった。念願叶って力を得るも、急すぎる改革にはかつての権力者だけでなく、国民さえもついていけず、スキャンダルが決定的となり、人々はヨハンから離れていく。それでもヨハンは死に場所を選ぶことができた。マチルデとの思い出の詰まった「海辺」で、他でもないクリスチャンという「王」に罰されることを望み、事実そうなった。
王妃ユリアーネ(愛すみれ)が言うように、王が直接手を下したとなれば国民に対して角も立つだろう、ということで、似た者を死刑囚から探し出し、ブラント(諏訪さき)と共に公開処刑するよう指示する。そう、これが史実だ。史実通りにしなかったことで、朝美ヨハンは「救われた」のだと思った。少なくとも彼の願いは、最期の願いは叶ったのである。他の媒体のヨハンとはここが決定的に異なる。これが朝美ヨハンの生存戦略なのだ。言っていることと思っていることの違う最期のヨハン、思わず泣いてしまったよ……。ヨシツネ役をやっても死ななかった人が、とうとうここで想定外の死に方をしたんですよね。
ドイツ生まれで海を知らないはずのヨハンに、「海辺の」という枕詞がつくタイトルなのも、このあたりが効いている。海辺で愛を知り、友情を育み、最後は海に姿を消す、お見事。
この話でヨハンとマチルデにとっての「海辺」は、『神々の土地』でいうところのドミトリーとイリナにとっての「ロシアという大地(土地)」なのでしょう。

マチルデも、ヨハン同様古いしきたりや伝統に息苦しさを感じている。だから、啓蒙思想に傾倒している。一方で理想の王妃像も明確であり、ルイーセ王妃(美影くらら)のようになりたいと歌う。それ自体も人として素晴らしいことであるし、まして王族でありながら啓蒙の大切さをわかっているところは極めて進んだ人間である。
けれども、彼女もまたスキャンダルによって生涯幽閉されることになる。自分が一番なりたくなかった曽祖母ゾフィア(白峰ゆり)のようになってしまう。それでマチルデが不幸になったかと言えば、それも違うだろう。ヨハンと過ごした日々、あるいはそれだけでなく、クリスチャンと心を通わせたときの喜びは、一生彼女の胸の中に鮮やかに残るだろう。王妃としての勤めは全うできなかったかもしれないけれど、一人の人間として、一人の女性として、一生分の喜びを輝を経験したのでしょう。だから彼女は決して不幸なだけではなかったはずだ。これが彼女の生存政略。

クリスチャンの生存戦略は、一番分かりやすいようで、実は一番苦しいかもしれない。
フリードリヒ2世(一禾あお)のようになりたいと思っていた彼もやはり啓蒙の必要性を理解する人間であり、しかも王であるのだからその実現がもっとも容易いように見えて、その実、決定的な権力を握っているのは王太后と枢密院の貴族たちである。肩書は立派なのに、自分では何も決められない。上手に名前を書くことだけが求められている。誰も自分を、クリスチャンという人間を必要としない、愛のない環境で育ったクリスチャンが鬱病になるのは、いたしかたがない。
「寝た子を起こすな」という言葉があるが、反対に「起きた子は寝ない」とも言う。ヨハンやマチルデとともに自由と平等の夢を見て、一時はそれを叶えて、旧勢力を政治から追い出すことに成功したクリスチャンにとって、再び傀儡の、形だけの王になることが、どれだけしんどいことだろう。生命は長らえたが、魂はどうだろう。ユリアーネの子供フレゼリク(風立にき)ではなく、マチルデとの子供フレゼリク(星沢ありさ)を皇太子とし、自身の後継者としたことが、ヨハンやマチルデをなくした彼にできる精一杯の抵抗だったのかもしれません。
ちなみに史実ではヨハン亡き後、ものすごい勢いで時代が中世に戻っていくのに対して、クリスチャンの息子であるフレゼリクが王になると、ヨハンが唱え、一時は実現した農奴制廃止、検閲の廃止、拷問の禁止などいわゆる近代的な政策が再び実現したそうな。それを匂わせる演出もメガネ(笑)のアンドレアス(紀城ゆりや)の台詞にありましたね。いや、メガネ、良かったよ。
その意味でフレゼリクと庭師の見習いのハンス(月瀬陽)とビューロー男爵夫人の娘のテレーサ(瑞季せれな)の三人の子供が仲良くしてくれるのも希望です。

みんな「何者か」になりたくて、でも届かなくて。それでも不幸なだけの人生ではなかった、という極めてしょっぱい物語。それをリアルというのかどうか、今の私にはわからないけれど、でも人間愛に満ちた作品であったことは間違いない。彼らにとっての「ピングドラム」は「フォレルスケット」、デンマーク語で「恋に落ちた瞬間に感じる喜び」だったのでしょう。
ツイッターか何かで「うえくみ先生と指田先生は人間が嫌いに見えるけれど、栗田先生は人間を愛しているように見える」という言葉を見かけたけれども、そもそも人類愛に満ちていなければ良い作品、多くの人の心を打つ作品をつくることはできないでしょう。愛のベクトルが三者三様であるだけで、私はお三方とも人間を愛していると思うし、それが作品から伝わってくるから先生たちの作品が私は好きです。人間は愚かでどうしようもない、そのダメさ加減を愛さないと、創作はやっていられないと思います。多少心に屈折のある人の作品の方がおもしろい。
指田先生、すばらしい当て書きオリジナル脚本、本当にありがとうございます。これは間違いなくあーさの代表作となるでしょう。

ヨハンの死に方ともう一つ、大きく史実と異なったのはヨハンとマチルデの間に娘ができなかったこと。だから二人は精神的な繋がりが強調されて見えました。
そもそも『歌劇』の「座談会」によると指田先生はキスシーンを書くのも初めてとかで。そのわりにはよくキスしてましたけどね、二人(笑)。勝手にキスシーンを増やしてませんか? 朝美さん。
ベッドが出てきたときは、いよいよあーさの濃厚ラブシーン!と期待した人も多かった中、ベッドに潜り込んでくるのはまさかのクリスチャンで笑ってしまう。いや、そこからは全く笑えないシーンになるのですが。
あくまでもプラトニック・ラブであったことが、生臭い現実の苦しみを背負う娘の不在につながり、彼ら三人の「生存戦略」は完結する。娘がいたら、ヨハンはあれほど潔く死ねないだろうし、マチルデもきっぱり王宮を去れないし、クリスチャンもヨハンに気持ちを寄せられないからね。
そんなわけで映画『ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮』(監督:ニコライ・アーセル/主演:マッツ・ミケルセン)で予習はしていきましたが、なくても楽しめます。

印象的なのは、愛の象徴としてプロローグやエピローグで、海辺で逢引を重ねる名もなき恋人たち。プログラムには「召使いの女」(白綺華)と「男爵」(苑利香輝)とあるのみ。
王宮の場面にもよく出てきますが、秘密の恋人なのでしょう。不倫でありながらオープンなブラントとソフィー(妃華ゆきの)と違って(笑)。
しかもそれぞれベルンストッフ(奏乃はると)とランツァウ伯爵(真那春人)にお仕えしているようで、主同士は同じ派閥ではない。だからこその内緒の恋人、でも逢引のときは後ろ姿でもわかるくらい穏やかでささやかな幸せが満ち溢れていました。
ヨハンとマチルデのあったかもしれない世界線の二人のお話に見えました。

公演プログラムの中で指田先生はデンマークの「温かさと寒さを取り入れられたら」と書いています。そのせいでしょう、海辺の青い照明とそこで火を灯す薪の赤い照明がとても美しかったです。
同時に、ヨハンとマチルデも青いお衣装のときにはわりと理性的である一方で、赤いお衣装、ピンクのお衣装を着ているときには理性を失い、愛欲に溺れる。赤と青の対照が計算され尽くしされていて、「一人で話を考えている時が一番退屈です。スタッフの先生方が世界に色を与えて膨らませて下さり、出演者達が役に血を通わすことで、初めて物語が始まります。」と公演プログラムに書いている意味がよくわかりました。
象徴的な舞台装置も、この大きな物語にはよく似合っていた。具体的だったのは椅子やベッドくらいかな。よく動く装置だったので、怪我などありませんように。音楽も素敵だった。Twitterではかもっぱらフレンチロックと言われていますね。リプライズも効果的に使われています。

気の利いたオシャレな台詞や歌詞が多かったのも嬉しいです。こういうのがいいんだよ、本当!!!「政治軍事愛の情事」「酒を飲んだ酒に飲まれて皿割って騒いで」といった頭韻脚韻の連続、すばらしい。
デンマーク郊外の酒場でいかがわしいことをしているヨハンを取り巻く女性たちが「私きっと前世で恋人だった♪」と歌ったり、ソフィーに「買ったドレスは覚えていても、領収書は忘れてしまったわ」と言わせたりするのもよき。しかもそのあとに続く「でも王宮に初めて入ったときのあの景色は忘れられない!」という台詞が、ブラントを駆り立てて「海辺で一緒に見た景色が忘れられない」と最後にヨハンをかばうに至る。台詞もうまいし、そこからの展開もしびれる。たまらんな。
あとは、ほぼ全権を握ったヨハンに対してランツァウ伯爵が「王宮の病を取り除くのは、人間の病を取り除くのと同じ。慎重になさいませ」と医者であるヨハンに忠告するところとかもすごく好き。残念ながらヨハンにはその助言は届かないのですが。

二幕冒頭は「おや、違うミュージカルを見にきたかな?」と思うくらい『テニミュ』が研究されていましたが(笑)、客席に向かって球を打つ演出はテンションが上がりますね。パコーン、パコーンという音も暗いこの作品の中で清々しい気持ちになる。うっかり生田先生と熊倉先生が混ざってないかなって思っちゃったよ。
「なぜわたくしまで」とドレス姿のユリアーネが怒り(当然だ)、ヨハンに渡したラケットを返されて、そのままテニスをする様子は滑稽でもありましたが、楽しかったです。いやはや、あいみちゃん、どこを切り取ってもブラボーでしたわ。いや、本当に。カテコのときもあーさを、姉が母かのように見守っていてくれました。ありがたい。

カーテンコールの挨拶は、稽古期間の短さを思わせ、もしかしたら稽古確保のために初日が延期する可能性があったかもしれないと予感させた。
初日の舞台の日の夜に、各メディアが出すはずの写真付きの記事も今のところ見当たらない。ゲネプロに外部メディアを入れなかった可能性も見えてくる。
それでも、初日の幕が開いてよかったと心の底から思える舞台でした。
舞台関係のコロナ対策を全くしない国のために、劇団に派閥争い(経営優先VS生徒優先みたいな)があるのではないかと心配するほど、ファンを動揺させる記事がここのところ続いて出ておりますが、でも確かに「清く正しく美しく」の教えを守った生徒たちがいて、彼女たちが素晴らしい作品を上演した証を見せてもらいました。今回の舞台にご尽力いただいた方々全てにお礼を申し上げます。
どうか神奈川公演、梅田公演、無事に全て上演できますように。
以上、初日の大枠ざっくりの感想でした。キャスト感想など細かいことはまた後日。