ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

花組『殉情』コラム

谷崎潤一郎春琴抄」の語り手の描かれ方――『殉情』を中心に

1 はじめに
 宝塚歌劇専用チャンネル「タカラヅカ・スカイ・ステージ」でこの4月、谷崎潤一郎春琴抄」が原作の『殉情』が放映される。それを記念して、放映される2022年10月13日から11月7日まで上演された花組の『殉情』(主演:13日から21日までは帆純まひろ、30日から7日までは一之瀬航季)での新しくなった語り手の描き方について考えていきたい。
 なぜ、語り手に注目するのか。ヒントは原作にある。谷崎は、「春琴抄を書く時、いかなる形式をとつたらばほんたうらしい感じを与へることが出来るのか一事が、何よりも頭の中にあつた。」と言う(「春琴抄後語」『改造』昭和9年6月)。そこで佐助が残したとする偽書「鵙屋春琴伝」を編み出し、それをもとに、語り手の「私」が新たな春琴像を作っていく構成となっている。作品構成は難解だ。
 文体も一筋縄ではいかない。一文がおそろしく長く、句読点や改行が極端に少なく、ひらがなを多用する本文は決して読みやすいとはいえないし。しかし、谷崎はそれによって、盲人の世界を表現しようとしていた。谷崎は他にも同様の文体で「盲目物語」という作品を描いている。つまり、文体は春琴の世界を表現しようとしているにもかかわらず、当の春琴自身には構成上、徹頭徹尾言論の自由が与えられていない。描かれるのはひたすら佐助ないしは語り手が春琴を「どう見たか」という話であり、佐助と春琴、あるいは語り手と春琴はどこまでいっても見る/見られるの非対称の関係である。そこに春琴の主体性は微塵も感じられないし、そもそも求められていないのだ。谷崎と同じく『源氏物語』を訳した小説家の円地文子は「谷崎文学中で屈指の名作」とした上で、「ほんとうの意味では、内面を無視されて描かれた女性」は「シテにはなり得ない」と述べ、本作を「男の女を相手にして悪戦苦闘の末についに法悦の境にまで達する顛末を完全に描いた作品」と指摘している。円地は谷崎が死ぬまでは『源氏物語』は訳さないと言っていたほど、谷崎をリスペクトしており、自身の小説『なまみこ物語』では「春琴抄」の手法を真似するほどであったが、この言葉は痛烈なものだろう。なお、谷崎には見る/見られるの関係を意識した作品として他にも短編の「秘密」などが挙げられ、初期の谷崎のモチーフであったことは確認しておきたい。
 宝塚歌劇団(以下、宝塚)においては、理想の男女の関係を描くことに一つの大きな価値を置いている。だからこそ「トップスター」「トップ娘役」という役目が与えられているのだろう。けれども、上記のような作品はどのように料理したところで、理想の男女の関係には行き着かない。だからこそ、今までの4度にわたる上演も、常に本公演(宝塚大劇場東京宝塚劇場での公演)ではないのだろう。とはいえ、一方で異色の男女の関係を描いた作品であり、人気がなければ再演もされないのは言うまでもない。
 今回の再演に際しては、それまで作・演出を担当していた石田昌也が監修・脚本に回り、新たに竹田悠一郞が潤色・演出を担うことで、大きく語り手の描かれた方が変わった。ここでは、近年の他の「春琴抄」を下敷きにした物語なども合わせて、竹田版『殉情』の新しさについて述べる。

2 宝塚の語り手
 6度にわたって映画化されている本作は、作品によっては語り手を配していないものもある。一方で、宝塚では石田版も竹田版も原作にならい、語り手を設定している。原作では語り手「私」が一人で語るのに対して、宝塚では大学生のカップル二人と郷土史の研究をしている石橋(石橋忍月が名前の由来になっていると考えられる)という老年の男性の三人になっている。石橋が大学生カップルに春琴と佐助について語る形式をとることで、観客の夢前案内人としての役割を果たしているのだ。
 ここで注目するのが、大学生カップルのマモルとユリコについてだ。バイト先が同じであるらしい二人は、作品の冒頭から恋人同士という設定である石田版に対して、竹田版では作品の冒頭で二人は友達以上恋人未満といった微妙な関係である。さらに、マモルは郷土史の研究をしているYouTuberなのだ。それにともない、石橋も、石田版は定年後の趣味として郷土史の研究をしている設定だが、竹田版では郷土史の研究をしている大学の先生という設定に変更されている。そして、マモルが春琴と佐助について調べ、ユリコの助けを得ながら発信する過程で晴れて二人は恋人同士になる。
 竹田は公演プログラムの中で初演「当時との大きな違いはSNSの存在」だと言い、マモルがYouTuberであるという設定はかなりこだわっている様子がうかがえる。翌年の『歌劇』1月号の「二〇二三年新春を言祝ぐ」と題された正月の挨拶でも竹田は「(マモルのYouTubeチャンネルの開設はまだ諦めていません)」と書くほどの執着ぶりである。SNSYouTubeである必然性はともかく、ここで重要なのはマモルが「発信者」言い換えれば「見る存在」であるという設定だ。
 見る/見られるの関係をこの上なく意識した原作の存在を考慮したとき、マモルが「見る存在」にいることは見逃せない。子まで成したにもかかわらず、決して相手の名前を言おうとしない春琴と決して子の父であると申し出ない佐助、結婚しないままあくまで師匠と弟子として暮らし続けた春琴と佐助のような歪んだ関係に比べたら、マモルとユリコとの関係は極めて健全だ。そもそも「見る存在」であるマモルに対して、ユリコはマモルにとっての「見られる存在」には属しておらず、もちろん盲人でもない。
 ユリコについては不明瞭なことも多いが(後述)、マモルの動画の編集をしているらしいことは、「私があれだけ言っても徹夜で編集してたら体調を崩すに決まってるじゃない」というユリコ自身の台詞や、石橋に対するマモルの「この前の動画、ちょっと編集で間違えてたところをコメント欄でこっぴどく指摘されて」「俺が間違えたんですけど、ユリコが責任感じちゃって。『私が全部任せっきりにしていたのが悪い』って」という台詞からうかがえる。これは、生徒会長/副会長にみられるような男女の主/副のイメージを再生産してしまっている節はあるが、ユリコが「見る存在」の「補佐」をしているからこそ、作品内部でユリコはマモルをぶたずに済んでいるのである。
 佐助と春琴を語るとき、原作では本来一人であった、そして性別は明かされていないが、男性であっただろう語り手を、語り手に若い男女の二人にわけるならば、それはそのまま佐助と春琴の投影であるという設定にした方が、構成としては穴がなく、端的に言えばわかりやすいだろう。けれども、佐助と春琴の関係が本当に「そのまま」投影されているだけなら、語り手を設定する意味がなくなってしまうのも事実である。その意味で竹田版は「春琴抄」の語り手の要素の中でもっとも大切な「見る存在」であるという役割をよみがえらせ、佐助と春琴とは異なる現代の男女の関係を描いたことは大いに評価すべきであろう。
 惜しいのはユリコの描かれ方だ。冒頭からマモルとユリコは旧知の仲、友達以上恋人未満の距離感が演出されているにもかかわらず、マモルが郷土史を専攻していることをユリコが知らないのは不自然である。そもそもユリコはマモルと同じ大学の学生なのか、大学は異なるが高校からの腐れ縁なのか、単なる家が近いだけの幼馴染みなのか、年の差はどれくらいあるかなどは気になるところだ。宝塚が目指す男女関係を『殉情』の中で描くとしたらこの二人になるからこそ、ユリコの設定や主体性がもう少し描かれて欲しいところだ。
 その点石田版のユリコは自立はしている。物語の最後でも、「少し愛され、それで充分に満足すべきじゃないかな」という石橋とそれに賛同するマモルに対して、ユリコははっきりと否を唱える。曰く「佐助は春琴を愛して愛して愛し抜いて、尽くして尽くし抜いて、ついには春琴を自分のものにしてしまったのよ」と力強く反論するのだ。このような姿勢は竹田版のユリコには見られなかった。どちらかといえば、竹田版のユリコはマモルに寄り添う姿勢を示す。先に記した「私があれだけ言っても徹夜で編集してたら体調を崩すに決まってるじゃない」と言ったときも「自分って無力だなあって思って」と自信をなくしかけているマモルに対して「そういう意味で言ったわけじゃ……」と一歩引いてしまうのだ。
 とはいえ、やはり宝塚の中で語り手の一人であるマモルが原作において重要な「見る存在」の要素を取り戻したことは、作品にとっても大きな一歩であったことは疑いようがない。

3 女が見る「春琴抄
 語り手の中で「見る存在」という作品内容にもっとも深くかかわる要素に注目し、生まれ変わった宝塚の作品からさらに一歩踏み込んで、「見る存在の性別」を重視した作品紹介をしよう。一つ目は2008年に上映された映画『春琴抄』(主演:斎藤工長澤奈央)である。ここでは、佐助から春琴への視線が、里内てる(春琴と佐助が暮らす家の奉公人・原作では鴫沢てる)から佐助への視線、つまり女から男への視線に転換しているところが非常に興味深い。映画のパンフレットやDVDのパッケージでも、春琴役の長澤よりも先に佐助役の斉藤があることから、監督金田敬が佐助を「見られる存在」として描くという強い意識が読み取れる。
 例えば、春琴が琴の稽古をしている場面。宝塚では、一段高いところに上手から師である春松検校、琴を弾いている春琴、隣で控えている佐助、と並び、一段低い下手には稽古を待っている芸者たちがいる。一方で映画では、佐助は稽古をしている屋敷の外で春琴を微動だにせず待っている。画面はその佐助を映し出す。ただ映し出すだけではない。顔のアップ、全身、そして神の視点を思わせる上空からとあらゆる方向からなめまわすかのようにしつこく佐助を追いかける。執拗なまでのその視線の、なんと熱いことか。女性客の欲望を反映したかのようなこの視点は、作中で佐助と春琴の二人の世話をするてるが担っている。
 二つ目の作品は、山崎ナオコーラ著『ニキの屈辱』(河出書房新書、2011年)である。こちらは作品内部に語り手を配さないが、「見る存在の性別」として女性を据えており、主人公のニキは売れっ子カメラマンである。これ以上ないほど「見る」ことを意識した職業になっているのだ。男性が多い職種の中、ニキは「写真家という性」としてカメラのシャッターを切る。アシスタントの加賀美は、ニキからぞんざいな扱いをされても彼女のもとでカメラマンになるべく献身的に働く。ニキの「犬みたいな僕が欲しい」という言葉通り、加賀美はニキの「僕」のように振る舞う。やがて二人は世間並みの恋人同士になる。なるほどその姿は確かに春琴と佐助を思わせるだろう。
 二人の幸せは、加賀美が写真家としての才能が開花し始め、アシスタントからカメラマンとして成長していくことで影が差す。加賀美はニキの元を去って行くのだ。数年が、かつて撮影したニキの写真をニキ本人が見てしまうことで、決定的に見る/見られるの立場が反転する。ニキは否応なく自身が女であることを突きつけられてしまう。当然、ニキは「私は、もう写真を撮らない」と言う。加賀美は信じないが、ニキは「私、写真家、やめたい」と繰り返す。
 これらの作品は「春琴抄」を下敷きにした作品の中でもかなり「見る存在の性別」を意識しているといえよう。ジェンダーギャップ指数が146か国中116位の日本社会にフィクションが痛烈な批判を投げかけているようにも見える。

4 自在に変化する語り手
 最後に紹介するのが笹倉綾人著の漫画『ホーキーベカコン』(全三巻)(角川書店、2019年)である。ここでの語り手は一言で言えば変幻自在な存在として描かれている。物語は1847年(弘化4)の道修町から始まり、一見すると語り手は不在かと思われたが、第一景(第一話)の最後に1933年(昭和8)へと時代が移り、書生らしき格好をした男・順市(「ジュンイチロウ」が名前の由来だろう)が春琴の墓を訪れている。そこで彼が出会うのは皇族や華族の最上級の正装である大礼服の上着を着物の上から羽織った一人称が「女(アタシ)」である性別不明の奇怪な人物である。名前の与えられていない彼ないし彼女から順市は「鵙屋春琴伝」の存在を知らされる。さらに2人は喫茶店で、「鵙屋春琴伝」を佐助の元で編纂した鴫沢てると合流し、3人の語り手によって春琴と佐助の話は紡がれていく、かのように見えた。
 この順市なる人物はなかなかくせ者で、ご丁寧に谷崎が「春琴抄」を書く際に参考にしたというトマス・ハディ著「グリーヴ家のバーバラ」を翻訳している。さらに、それを読んだ婚約者は「好きやあらへん男はんと我慢して住むのはかなんわ」とエドモンドについて行く意志を示し、「それに人形やとしょうもないよって」と頬を赤らめながらうっとりと色気たっぷりに言う。順市はそれに「ぞくり」とし、二人の関係は春琴/佐助の関係と二重写しになる。ここまではそう難しくないだろう。
 物語の終盤、奇怪な人物が春琴の墓の前にやってくると、てるがすでに墓参りをしており、いつの間にか順市も合流している。語り手3人の2度目の集合だ。てるから春琴の最期、その後の佐助との暮らし、佐助の最期などを語り聞いた順市が「貴重なお話を聞けてよかった ありがとうございます」と感謝の意を伝えると、二人に見送られながらてるは帰っていく。入れ違いに順市の婚約者がやってくる。思えば彼女も名前がない。そして名前のない婚約者は、順市ではなく、同じく名前のない大礼服を羽織った奇怪な人物に向き合って言う。「順市はん でっしゃろ」と。
 何を言っているのかわらない、とそう思う人もいるだろう。つまり、3人だと思っていた語り手は全て順市であったのだ。順市と奇怪な人物がてると合流した喫茶店でも、読者には3人で話しているように見えた場面が、作中の給仕の少女からは「一人で来はってソーダ水を三つ頼まはったんです」「一人で三杯のソーダ水を飲んで行かはったんです」「ずっと一人で誰かと話してはるねん」と言われる。順市は人格が分裂しているのか、はたまた多重人格なのか、と聞かれても不思議はないだろう。
 男性である順市は春琴と佐助の物語を語る上で、なんとかして佐助へのシンクロを拒絶しようとした。そのために性別を越境したのキャラクターになったり、時にはかつて春琴と佐助に仕えた女性のてるになったり、あがき続ける。しかし、婚約者に看破されたとき、彼は彼女の前で両膝を折り、頭を下げる。順市が春琴と佐助の物語を書き、「もし幸いにもその書が後世まで残るものならばそれは貴女様というものを伝えるためでもあります 我が尊き人」という言葉とともに。これは春琴と佐助を語る際、語り手がなんとかして佐助の視線から自由になろう、逃れようとあらゆる語り手を自身の中で想定し、必死にもがいたけれども、最終的には婚約者の存在によって佐助に回収されてしまった男の物語であった。語り手がすんなり佐助とシンクロしないところに新しさがあるといえる。
 他にも本作は「春琴に熱湯をかけたのは誰か」という「お湯掛け論」の中でも佐助犯人説を上手に取り込んだり、原作では春琴が産んだ子が女の子であったのに対して、男の子を産んだことになっていたり、春琴が盲人となるきっかけの物語が描かれていたり、鶯の鳴き声をタイトルにし、作中でも効果的に示され、春琴亡きあと佐助の妄想の中で春琴が迦陵頻伽に扮するなど鳥のモチーフをふんだんに盛り込んだりしており、「春琴抄」をベースとした作品の中でもかなり意欲的な作品であるといえよう。

5 おわりに
 以上、あらゆる形で「春琴抄」が受け継がれ、実に多様な語り手の設定が可能であることを示した。なぜ「春琴抄」が長く読み継がれているのか、それは春琴と佐助の物語が語り手の設定によっていかにようにも語ること、解釈し直すことができるからだろう。「春琴抄」の寿命が尽きるときとは、春琴と佐助の物語が語るに値する魅力をもたなくなったとき、あるいは新しい語り手の設定が不可能になったときのどちらかなのかもしれない。
 私が現在期待する「春琴抄」の物語は、春琴の暴露本である。原作では徹底的に言論が抑圧されていた彼女自身の胸中は一体どうだったのか、それを佐助というフィルターを通すことなく春琴の口から聞いてみたいといったところだ。佐助をいじめるのは最初こそ楽しかったものの、後からは結構面倒になった、それでもいじめ続けていたのは、もはや自分の世話ができるのは佐助だけだということを春琴自身もわかっていたから、かもしれない。
 物語の中の語り手は基本的には信頼できない。嘘をつくこともある。実際に原作の「私」は「鵙屋春琴伝」の記述に対して、明確に疑問をもっている箇所が見受けられる。さらには嘘をつかなくとも、所属するグループなどによって無意識に語り手の認識が歪んでいたり、意地の悪いことに、読解に必要な極めて重要な情報を故意に隠していたりすることもある。語り手は決して信頼できない。
 翻ってそれは、しかし現実の社会でも同じだろう。情報社会といわれるこの時代、公私の別なく発信される情報は多岐にわたり、我々は否応なくそれらの受信者とさせられてしまう。同時に誰でも発信者になり得る時代にもなった。何を信じて、何を疑うのか、よくよく考えて生きる必要がありそうだ。

※引用文献・参考資料
【書籍】五十音順
円地文子源氏物語』(全六巻)(新潮文庫
円地文子『なまみこ物語』
笹倉綾人『ホーキーベカコン』(全三巻)(角川書店、2019年)
谷崎潤一郎『刺青・秘密』(新潮文庫
谷崎潤一郎春琴抄』(新潮文庫
谷崎潤一郎吉野葛・盲人物語』(新潮文庫
トマス・ハーディ、井出弘之訳『ハーディ短編集』(岩波文庫
山崎ナオコーラ『ニキの屈辱』(2011年、河出書房新書)
『名著初版本複刻珠玉選 春琴抄』別冊「『春琴抄』解説」(日本近代文学館1984年)

宝塚歌劇】制作順
宝塚歌劇団雪組『殉情』(主演:絵麻緒ゆう)(2002年)
宝塚歌劇団宙組『殉情』(主演:早霧せいな)(2008年)
宝塚歌劇団花組『殉情』(主演:帆純まひろ、一之瀬航季)(2022年)

【映画】制作順
島津保次郎春琴抄 お琴と佐助』(1935年)
伊藤大輔『春琴物語』(1954年)
衣笠貞之助『お琴と佐助』(1961年)
新藤兼人『讃歌』(1972年)
西河克己春琴抄』(1976年)
金田敬春琴抄』(2008年)