ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

雪組『ほんものの魔法使』感想

雪組公演

kageki.hankyu.co.jp


ロマンス『ほんものの魔法使』
原作/ポール・ギャリコ
脚本・演出/木村 信司

開演アナウンスのあーさ(朝美絢)の声が意外と高くて明るくて、おお!?と思ったのですが、そういえば青年ゲルハルトの声が低すぎただけですね、きっと。
少年ゲルハルトの声でした。
そしてアダムは高くて明るい声で正解なのでしょう。

そして、ひまりちゃん(野々花ひまり)のバウヒロインということで!本当におめでとうございます!
思えば前のバウホール公演『義経妖狐夢幻桜』のときのマサコもとてもよかったのよね〜!
そして出てきたひまりちゃんが可愛い!
もうこれまたはちゃめちゃに可愛い!
1幕は作中でハンプティ・ダンプティの曲を歌うためか、『不思議の国のアリス』のアリスのような白い襟付きブラウス、ブルーのジャンスカ、ジャンスカとお揃いのシュシュでポニーテールとかわいさをぎゅっと詰め込んだ出立ちで、鼻血が出るかと思いました(汚い)。
THE正統派ヒロイン!という感じで、とてもとてもよかったです!
舞台に1人、うたう場面もありましたが、しっかりと劇場の空気を持って行きました。埋め尽くしていました。
すごい。ちょっと劇団さん、大切にしてあげねよ! 本当に頼むよ!
そしてラストの場面ではスキニーパンツを履いているのですが、足細い!細すぎて心配になるレベル。
大丈夫? ちゃんと食べてる?
しかもその細い足を、これまた細いピンヒールで支えている。
赤エナメルのピンヒールは超絶可愛くて似合っていたのですが、それで支えられるの?!と驚き。
さらにそのピンヒールで崩れ落ちるという演技まであったから、膝とかあおあざになっていないかな、大丈夫かな、と余計な心配をしてしまう。
ジェンヌはみんな細いけれども、しっかり栄養を取らないと、ダイナミックな演技ができなくなっちゃうよ〜!

件のハンプティ・ダンプティの場面では、まさかの卵役が登場しました。
上手から黄色いスーツを着て、大きな卵に扮した卵が宙吊りになって登場したときは、あんまりビックリしすぎて、声を出して笑うのを抑えるのに苦労しました。
しかし周りの観客は意外と冷静で、これはこれでビックリしてしまいました。
いや、だってジェンヌに卵の役とかさせる?!
卵役は霧乃あさとさんでした。
名演技でしたね。そしてまさかの演出。上手上から下手に落ちてくる形でした。
下手には王様とトランプの騎士も登場。
真ん中で「ハンプティ・ダンプティ壁の上 ハンプティ・ダンプティ落ちたら 王様が来たってもとには戻せない♪」と愛らしく歌うジェイン。
周りには他の魔術師たちもいて、画面も豪華、歌もあり、たいへん楽しく賑やかな場面でした。
星加梨杏のメフィストは、そのまんま『エリザベート』の堕天使にもなりそうだし、日和春磨のダンテは『1789』でアルトワ伯が着ていたような黄色と黒のストライプだし、すわん(麻花すわん)の助手はひたすらに可愛い。

娘役ちゃんたちも華やかでした。
ひまりちゃんは言わずもがな、みちるちゃん(彩みちる)のチャイナ服はめちゃくちゃ可愛いし(赤のチャイナ服に緑のタイツで違和感なのがすごい)、あいみ(愛すみれ)も持ち味とは少し違う気もするお衣装を、けれどもやはりキュートに着こなしていたし、はおりんは(羽織夕夏)クレオパトラみたいだし、目が足りない〜!
女の子は魔術師になれない世界観ですので、彼女たちは皆魔術師の娘、孫、助手なわけですが、この女子会に呼んで欲しい。
リーダーはもちろんあいみちゃんです。あいみちゃんから招集がかかると、みんな集まるそうです。
私にも招集かからないかな(かかりません)。

女子会にはいませんが、もちろん副組長千風カレンさんも大活躍。出てくるだけだ笑いが取れそうないきおい。
同じく笑いがとれそうなのは、まさかの犬役モプシーを熱演したあがち(縣千)。
本当、神奈川で公演する頃には、もはや出てきただけで客席から笑いが起こるのではないかと思います。
そして圧倒的な跳躍力。犬というにふさわしいのかどうかはわかりませんが、人間という枠組みを超えた役割で踊ることが、彼女にとってとても楽しいのだなと思わせました。
個人的に『ロミジュリ』の再演は望まない派ですが、あがちのマーキューシオは見てみたいかもしれません。ロミオの飼い犬(笑)。
そのときはぜひベンヴォーリオはあやな(綾凰華)でお願いします。

蜂や蝶の場面は宝塚らしく明るく華やかに楽しく豪勢に!という力技が感じられましたし、これはなかなか他の劇団ではお金の関係で難しいかもしれません。
お金に物を言わせている感じはある(笑)。
ミュージカルだから、そういう楽しみ方もあるのでしょう。
ただ、後述しますが、ここが一番印象に残るようでは作品としてはいかがなものか、と。バランスが難しいといえばそうなのですが。

ニニアンのラストも、実はとても好きです。
アダムが消えてから、技に磨きをかけることが馬鹿馬鹿しくなった魔術師が少なくなかっただろう中で、血の滲むような努力をして、立派な魔術師になった。
そうしてお金が貯まったからアダムを探しに行く。
富も名声も得たけれども、ニニアンはアダムに謝らずにはいられない。
アダムに会って謝るまで、もう魔術は使わない。
これ『少女革命ウテナ』のラスト、周りがウテナを忘れていく中で、アンシーがウテナを探しに行くのとちょっと似ているなと思って、好きなんです。
ニニアンのカセキョー(華世京)もよかったです。抜擢納得。
ニニアンの設定を「子供相手ならうまく行く」と変えたのも功を奏したように思います。
「比類なき」のイントネーションは少し気になりましたが……。

フィナーレは、群舞に男役娘役のペアダンスに朝美ひまりのデュエットダンスとスタンダードな形で、もうちとあーさが娘役に囲まれて踊る場面があってもよかろうにとは思ったけれども、尺の関係で難しいだろうし、まあちょうどいいかな。
白のお衣装でのデュエットダンス、最高でした!
ここでひまりちゃんのおでこが大活躍!
私は前髪ありの方が基本的に好きなのですが、ひまりちゃんはでこだしが多いですよね。
ジェインはずっと前髪ありだったから、でこだしひまりちゃんが出てきたときはキター!と思いました。

あーさは演技力、歌唱力にさらに磨きがかかり、センターとして安定しておりますね。
雪組を二番手として支えるのが楽しみです。
ところでどうして雪組だけ二番手の付箋だけ発売されないんですかね……?
そして同期のれいこと比べると、センターの作品にいちいち恵まれないな思うわけですよ。
『A-EN』は『花より男子』の西洋パロディだし、『義経妖狐夢幻桜』はいまいちまとまりのない新感線パロディだし、今回もちょっとなあ、と思うところがありまして。
れいこは『銀二貫』『ラストパーティー』『ダル・レークの恋』ですからね。

さて、ここからはちと小うるさいことを言うようですが、言わせてください。
2幕やフィナーレでは「わからないことは怖いことではないすごいことすてきなことすばらしいこと」と歌われます。
いやだったら勉強しろよって個人的には思って。
わからないならわかる努力しろって。
「恐怖の九割は知らないことによる」みたいな言葉が以前ツイッターで流れてきたような気がするのですが、だからこそ勉強する必要がある。LGBTQの問題も自分たちとは違うものを排除したい気持ちから生まれるけれども、違うものを否定するのはやめようよ、受け入れることはできなくても存在は認めようよ。そういうことではないでしょうか。
そう考える私には歌詞のメッセージは刺さらない。頭でっかちですいません。
アダムが最後に魔術師たちに「学」ではなく「金貨」を授けたことは痛烈な批判に感じられる。
金貨は他人に奪われることがあるかもしれない、けれども学は他人には奪われない。
そしてその金貨があったところで、幸せにはならなかった。
原作のラストもはっきりしたこれ!というメッセージがあったわけではない。でもだから考える。その余白が蜂や蝶の場面のインパクトに奪われてしまったら作品としてはどうなのか。
好きな役者が楽しそうに舞台に出ていればそれでよいと思えなくてすいません。

開演直前に読み終えた原作のラストは、実に皮肉だなと思ったのです。
別に自分は必要としていないけれども、みんなは自分がいることで仕事がなくなり、お金がなくなることを心配している。
だったら自分は一切必要としていないけれども、そのお金、金貨を授けて、静かに去る。
所詮自分とは分かり合えなかった者たちへのせめてもの報酬。お情けといってもいいかもしれない。

一方で魔術師たちは、金貨が降ってきて喜ぶ。
必死になって拾い集めた。
その結果、働く必要がなくなる。
それでもなんとなく働いている人がいたり、中には技に磨きをかけることをやめてしまった人もいたりする。
つまりは全然幸せにはならなかった。
どこか寂しさが残って、虚しさが漂って、彼らがアダムを攻め立てた理由を補っても、彼らは決して幸せにはなれなかった。
幸せとはなんだろう。
幸せとは、お金の有無ではなく、もっと日常の中にありふれた一場面の中に潜んでいるものではないのか。
自然の一部として人間の存在を捉えること、これはそのまま近代の弊害、課題ともなってきたわけですが、人間と自然を切り離して考えるのではなく、大きな流れやうねりの中に自然と一体化している人間の存在を感じることの大切さを述べているものではないか、と思うのです。
そして無邪気に魔法が使えてしまうアダムはそれをわかっている。
無垢で悪意を知らない青年は、モプシーと一緒でなければ騙されるのではないかとさえ疑うほど純粋だ。
そんなアダムが金貨を降らせる皮肉を読者は考える。その余白が、舞台ではあんまり感じられなかったのが残念。

あとこれはタイミングが悪かったというか、キムシン先生が悪いわけではないのですが、政府が間抜けなせいで、「お金があっても幸せになれなかった」という作中の大勢の人間の考えが今、全く響かないのですよ。
お金があれば回避できた不幸が、今、この国に溢れすぎていて。むしろ経済成長している時代の方が響いたかもしれません。
もうこれは本当に情けない政府のせいとしか言いようがないのですが。

それから、アダムのキャラクターが少しぶれているように思いました。
女は魔術師になれない世界で、魔術師になりたいジェインは最後に魔法使いになった、というジェイン側の物語は充足している。
けれども、アダムの「本当の自分」とやらが曖昧で、そもそも原作のアダムはそんなこと言わなさそうじゃないですかね。
魔法使いは技に磨きをかけたくて教えを乞うた。けれども魔術師たちに拒絶された。その虚しさが欲しいのかもしれません。そうでないとラストの虚しさにつながらないのではないでしょうか。
だから2幕のソロは唐突で、なんだかそれまでの世界観と異なるように思えました。
ただ、ここが原作にないオリジナルの部分でもありますので、きっとキムシン先生はここを肝に作りたかったんだろうなという気もします。
だったら、例えばですけれども、ジェインの方から「本当の自分」の話を持ち出す形にした方がいいかな、と。
「本当の自分はワン・メイにも見せられないもの」
「本当の自分?」
「そう、私、本当は魔術師の助手じゃなくて、魔術師になりたいの」
「自分に本当も嘘もないよ。それは君の願いだ。すばらしい願いじゃないか!」
「ありがとう。アダムの願いは?」
「僕は、もっと技に磨きをかけること。そう思ってここにきたんだけど……」
みたいな展開の方が自然かなーなんて思ったり。
これだったら2人が惹かれ合って、手を繋いではけるのも納得がいきますし。
まあ、いち素人の意見ですが。

バウホールはなんとか完走できそうですね。
神奈川の公演はあーさにとっては地元ですし、もぜひ最後まで幕が上がりますように。