ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、古典文学など好きなものについて語るところ。

外部『スリル・ミー』感想

外部公演

horipro-stage.jp

『スリル・ミー』
原作・脚本・音楽:Stephen Dolginoff
翻訳・訳詞:松田直行
演出:栗山民也

見てきました。噂の『スリル・ミー』。フォロワーさんが熱狂的なファンで、いつもつぶやいていたところで、近くに公演があると耳にし、さくっとチケットをとりました。
一般発売から大分日が経ってからの購入でしたので、だいぶ後方ではありましたが、センターよりで見やすい席をゲットできたのはラッキーでした。
しかしいいホールですね。ウィルあいちの大ホール。
それほど大きな箱ではありませんが、前方センターは席が互い違いになってあり、11列目あたりからは急な勾配をつけ、後方席でも大変見やすかったです。150センチ族としてはありがたいとしか言いようがない。
『流れ星』を観劇して以来の箱でしたが、改めて良い箱だと感じました。しかし宝塚を呼ぶにはちと狭いかな。

もっとも今回の『スリルミー』という芝居に対しては、反対に少し大きめの箱かなとも思いました。もう少し小さい箱でもいいのかもしれません。
なかなかぴったりの会場を探すのって難しいですよね。
しかしあの舞台装置は素晴らしかった。
センター前方の正方形の平台、センター奥の階段、さらにその奥には窓や扉の役割を果たす仕掛けがあり、平台に対して上手、下手にはそれぞれ椅子やら電話やらといった小道具たちが並んでいる。
それらがほぼ色なし、というか、モノクロで統一されている。究極の抽象舞台。
正方形の平台は四辺にライトが仕込んであり、途中で真ん中が沈むのも大変気が利いている。あの沈む演出はとにかくすごかった。工夫されていた。
すばらしい。

舞台装置が抽象であるように登場人物もまた「私」と「彼」という大変抽象的な名前でプログラムにも記載がある。
「私」に関しては「彼」から名前を呼ばれることがありますが、それが本名なのか、それとも本名とは全く関係のない愛称なのかはよくわかりません。非常に中性的な名前でもあり、世界のどこへ行ってもわりと違和感なく通用しそうな呼び名であることが印象に残りました。
この作品の世界観をより普遍的なものにしようという強い意志が感じられる設定でした。

『パレード』同様、肉体的、精神的に疲れているときに見るのは全くお勧めいたしませんが、見て良かったと素直に思える芝居でした。
宝塚ではなかなかこういうのはできませんし(笑)、新鮮でした。
音源が欲しいなあとも思いますが、聞くタイミングをかなり選びそうな気もします。
私は初代コンビの田代万里生(私)×新納慎也(彼)とフォロワーさんの『スリル・ミー』の親である成河(私)×福士誠治(彼)のコンビを観劇しました。
個人的には、成河×福士誠治の方が好みでした。
というのも、田代の歌がうますぎて、どんな悲痛な歌を歌っていても「たしろ〜!うたうめぇ!」となってしまい、その度に現実に引き戻されてしまったという……いや、本当にすいません。
あと新納の滑舌が私にはちと聞き取りにくかったということもあるかもしれません。
その点、成河と福士コンビは個人的には物語にきちんと入り込めて、演技もうまくて、フー最高〜!ささる〜!となりました。

成河は『エリザベート』のルキーニを観劇したことがありますが、狂気は狂気でもベクトルが違いすぎて、演技の幅の広さよ……っ!と感動いたしました。
福士さんは多分初めてかな?
いや、実にいい「彼」でした。神童となまじ崇められていた幼年時代があるだけに、大学生になって実は大したことがなかった自分やできない自分を認められない。
だから酒や非行に走る。
そして自分の足りない部分を補うために「私」を求める。補完してくれるのは「私」しかいない。
それが愛なのか憎しみなのか、本当のところはよくわからない。
芝居の中に出てくる「彼」は「私」の中の「彼」でしかないから。
ただ幼少期から同じように神童と言われ育ち、同じように飛び級したのに、学業成績の振る舞わない自分と野鳥研究で論文まで書いている「私」とを比べてしまうことはあったのではないでしょうか。
「私」は「私」で自分にはない逞しさを「彼」に求めていたところもありましょう。派手に遊ぶことができない臆病な自分を補完してくれるのが「彼」だったわけです。
共依存というやつですかね。単純に怖いわ。
誰もツッコミを入れる人がいないとこういう恐ろしさに繋がりやすいのでしょう。
どこかのタイミングで「そんなwwwバカなwww」と言えればよかったのですよ。
例えば「彼」が友人のものを盗もうとしたときとか。
そうしたら放火や殺人まではいかなかったような気もします。
本当、人生においてツッコミって大事だなと思うわけですよ。

この作品は繰り返し見るといい、スルメのような作品だなとも思いました。それにメンタルが耐えられるかどうかはまた別の問題ですが(笑)。
例えば脅迫状を作る場面。
「彼」は出来上がった脅迫状を見て満足し「完璧だ」と言う。
そして眼鏡がない!というやり取りをしたあと「私」も続いて「完璧だ」と繰り返す。
でも本当に彼らの言っている「完璧」は同じ意味を示しているのだろうか。
少なくとも「私」には脅迫状以外にも「完璧」だと感じる要素がある。
ラストを知ってからこれを見ると、なるほど!と思わずにはいられない。
「完璧」と言うときのテンションの違いもうまかったな、と。「私」は冷静な態度であるのに対して、「彼」は子供のように無邪気に喜んでいる。
彼らの言葉は同じだが、考えていることは全く違うことが明らかなのだ。

最初に見たときの違和感は、なぜ野鳥研究で論文まで書いている、有り体に言えば賢い「私」が、愛しくてたまらない「彼」の指示通りに、凶器やその他もろもろの物的証拠を隠蔽しなかったのか、ということでした。
「彼」のことが好きだから指示通りに指紋を拭き取ったけれども、バカだからうっかり拭き残しがあった、ではない。
「私」は意図的に証拠を隠蔽しなかった。
これはラストまで見れば、なるほど!となりますが、見ているときはモヤモヤしました。

登場しない「彼」の弟もいい味を出していて、きっと彼こそがこの芝居でもっとも普通の人間なのだろうな、と思っていたのですが、「私」が弟の部屋で寝る!と言ったときの「彼」の反応を見ると、実はそうでもないのかも?とも思える。
想像が膨らむ。楽しい。弟くんにインタビューしたい。

Twitterでは田代の狂気ともいえるキューピーたちによる『スリル・ミー』も開催されていて、それはそれでおもしろかったです。
というか、全体的に『スリル・ミー』のTwitterの中の人、珍しくSNSの使い方が上手な企業人だと思いました。中の人もきっとオタクなのでしょう(こら)。

生のピアノ演奏というのもたまらなかったなあ。
舞台の上手の上にピアノが一台。伴奏だけでなくBGMの役割も果たす。
あの演奏はさぞ疲れよう。
カーテンコールでピアニストも一緒に舞台に出てきてくれて、ちゃんとキャストと同じように拍手ができたのはよかったです。

最後に願望を書き添えるなら、海宝直人「私」×上原理生「彼」を見てみたいな、と。
やたらと脳内再生余裕だと思ったら、このコンビ、そういえば『イヴ・サンローラン』で共演していましたね。
演者として2人のファンなので、栗山先生、ここは一つ頼みます〜!