ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

花組『巡礼の年~リスト・フェレンツ、魂の彷徨~』感想2

花組公演

kageki.hankyu.co.jp

ミュージカル『巡礼の年〜リスト・フェレンツ、魂の彷徨〜』
作・演出/生田大和

2日目のざっくりした感想はこちら。

yukiko221b.hatenablog.com

足りないと思っていたところを妄想してから見るととても豊かな話に見えました。でもどうせならやはり一度見ただけで感動したいところですね。そして相変わらず長くなったのでショーの感想は別で。
多くの言葉を尽くしているあたりをみると、なんのかんのいいながら、私はこの作品が好きなようです(笑)。

見直して思ったのは、スイスのジュネーヴにおいてリストはマリーを前にピアノを弾いていましたね。この場面欲しいと思っていたんだ!と思わず力が入りました。
もっとも初見の友人は「そんな場面ありましたか?」と言っていたので、やはり印象にはあまり残らなかった模様。
さらに芸術家たちも自己紹介はしないものの、オランプとの初対面のときに結構尺をとって歌を歌っていましたね。それならなおのこと名乗らせてあげなよ、とも思いましたが。あとウィーンの夜会でもすでに登場して真ん中で踊っていますね。オペラであわちゃん(美羽愛)マダムばかりを追いかけているので、いまいち真ん中で何が起こっているのか知らなかったわ。
ラストで神父になるのは何回見ても唐突な感じはありましたが、生きる道に迷って、一つの悟りを開いた人間が神父になるのは、西洋世界ではごく自然なことなのかもしれません。物語の中でのフラグは欲しいですが。
あとは、リストとマリーとの恋は本当に衝動的なものだったのだから、すぐに別れが来るのもある意味当然の流れなのかな、と思うようにもなりました。
だからこそ、1本ものでやろうぜ!と思った所感とは異なり、ちょっと手直しをして台詞を足しさえすればもっとよくなるのでは?と思ったよ。台詞ちょっとつけたそうよ、生田先生。

以下、キャラクターと役者中心の感想です。

リストの有名な肖像画の髪型は、普通の日本人がやるとちょっと地雷の予感もしますが、さすがれいちゃん(柚香光)、先行画像からしっかり自分のものにしていました。
私は最初のリストの演奏会の場面がとにかく好きです。ピンクのライトにミラーボールがくるくる回って「今夜は特別な夜〜♪」と歌う出す、あの場面です。
ウィーンのマダムたちも非常に愛らしい。扇子を振り回させる生田先生のセンスがジュリアナですが、ウィーンのマダムにふさわしい振り付けになっているのはさすがです。
れいちゃんリストはここで銀橋に出てきますが、そのあたりになってくるとリズムが早いせいか、歌詞が聞き取れないのが残念ですかね。舞台に戻ってきて「君と二人で♪俺のピアノで♪」はハッキリしているのですが……。
ここの歌詞をしっかり知りたいので、早く『ル・サンク』出してくれないかなあ。脚本が早く見たいなあ。

ダグー伯爵夫人のマリーはまどか(星風まどか)。屋敷の中にも社交界の中にも居場所を見つけることができず、ジョルジュ・サンドに感化されて、自分が書いた文章が新聞に載るようになり、ようやく居場所を得る。他者を気にすることなく、心の翼を広げられる場所を見つける。それはマリーの1日24時間の中では本当に一時のことだったかもしれないけれど、その時間があるからこそ、伯爵の浮気にも気がつかないふりができたし、社交界で多少浮いていても多少気もまぎれたのでしょう。
それなのに「女がモノを書くとは何事だ」と伯爵の逆鱗に触れ、マリーの預かり知らぬところですでに伯爵は編集部と連絡を取り、今後はダニエル・ステルンの記事を掲載しないよう伝える。
ジョルジュ・サンドもどきを妻にした覚えはない」という伯爵の言葉からは、サンドちゃんがどれだけ理不尽な言葉を浴びせ続けられたかを思わせます。この飛龍つかさの演技もうまい。退団公演のわりには役不足にも思えるけれども、短い場面でバシ!と決めてくる安定感はさすがですし、くりすちゃん(音くり寿)とのデュエットもすばらしかった。
伯爵は男装することに対しても強い反発を示していましたし、これが世間一般のジョルジュ・サンドへの眼差しだったのでしょう。
エミールにそういう偏見がなかったのはすばらしいし、だからこそダニエル・ステルンを快く迎えたのでしょう。一方でそれはデルフィーヌの功績かもしれません。

ダニエルとしてマリーが筆を執ることは自分の中から自然と出てきた欲望かもしれませんし、旧知の仲であるらしいデルフィーヌの薦めだったのかもしれません。
マリーとデルフィーヌがどういう仲なのかはわかりませんが、こちらとしては女学校時代の友人かしら?と妄想が捗ります。伯爵家に嫁いでも満たされない気持ちを相談したときに、デルフィーヌが「今の気持ちを書いてみたら? あなた、昔から文章がうまかったじゃない」た薦めて、書いたものを見たら、なるほどやはりうまくて、そこからエミールにつながり、記事を書くようになったのでしょうか。
エミールはジョルジュ・サンドと知り合いだからダニエルへの抵抗も少なかったでしょうし、根底に自由を求める気持ちのある彼がそもそもそんなことで差別はしなかったのかもしれません。

このエミールのあすか(聖乃あすか)も良かったですね。主演作品は脚本が残念でしたが、『元禄バロックロック』『冬霞の巴里』など、それからこちらの作品は輝いています。
今回も前半はあまり出番がありませんでしたが、屋根裏部屋ではしっかり存在感を放っていましたし。
オランプに投げキッスするところをデルフィーヌに見咎められたり、仲直りのキスを本に隠れてしたり。なんなのこのカップル。
二人の出会いなんかも気になります。
後半の『1789』の「誰のために踊らされているのか」を彷彿させるラップも立派でした。
デルフィーヌはみさきみゃん(星空美咲)。キャストボイスに登場、スチール入りも果たし、今回が新人公演初主演ですが、すでに外部で2本ヒロインを演じているツワモノです。しかし、やはり表情が固いのが気がかりなところ。
出てくるわりに台詞が少なかったり、出ている役者との関係性がマリーとエミールだけに見えてしまったのが残念でしたが、こちらは脚本の問題でしょう。

そして屋根裏部屋の女王ジョルジュ・サンドと彼女とリストを心配し続けるフレデリック・ショパンはそれぞれひとこ(永久輝せあ)とまいてぃ(水美舞斗)。まいてぃは役作りのためにだいぶ痩せたのでしょうか。
プログラムを見て、頬のこけ具合に慄きました。
ショーではたくさん踊る場面があるのに、病弱なショパンを演じるためにここまでやるのか、と恐ろしくなりましし、病弱なショパンにそこまで心配をかけさせるなよ、リストとサンドちゃん……とも思いました。元気な人ならともかくさあ、相手は病人だよ。
ショパンはリストとマリーを追いかけるサンドちゃんを「僕も音楽の取材旅行をするさ」みたいなことを言って付き添うことを最初に明言します。
この優しさよ……! 器のデカさよ……! おい、見ているか、リスト! 君に足りないのは、まさしくこれだよ!となりましたね。

ショパンは最終的にサンドちゃんのお屋敷で、リストと再会、のちに亡くなる設定になっていますが、すでにこの頃からサンドちゃんが気になっているのでしょうか。リストを救うことさえ、半分くらいはサンドちゃんのためにやらなければ、と思っている節がありそうです。
「お前の絵筆でもう立派に自分を描くことができるのに、なぜ他人の絵筆を使おうとするのか」という疑問は痛烈です(しかしなぜ2回言うのだろうとは思います。1回でいいのでは?)。ショパンには天才なりの悩みがあったでしょうが、自分には音楽が全てと父に教えられ続けられたのに、貴族でないが故に音楽院には入れず、わかりやすい技巧にこだわることでなんとか社交界の花となったリストには、ショパンの悩みは理解できませんし、逆もまた然りです。
ただ、二人は唯一無二の友人であり、音楽について語ることができる同志である。だからこそ、ショパンは幼少期のリストを呼び出すことができる。リストがかつて見限った幼少期のリストを、大袈裟な称号や勲章を取り去ったリストに返す場面は美しい。この場面、良い場面なんだよなあ。泣く。
野心を分かち合ったサンドちゃんには同じことはできないでしょう。

サンドちゃんは屋根裏部屋に集まる芸術家たちとは一通り夜を過ごしていそうですが(タールベルクを諌めるときに一人だけファーストネームを呼ぶし、ショパンが「曲ができた!」と言ったときにごく自然にドラクロワに本を渡しているし、後の場面でベルリオーズはでこを本で叩かれている)、そこから「王子様」と言われるのはリストとショパンだけ。
この話で「王子様」と呼ばれるためにはサンドちゃんの特別な相手役にならなければならない。
マリーの相手役でも「じいや」止まりだからな……もっともこれは、リストが貴族になれない痛いところをついているような言葉のセレクトのようにも感じますが。
「おはよう、王子様」で始まり、「おやすみ、私の王子様」でサンドちゃんのセリフが終わるの、とてもいいですね。やはり生田先生の台詞は信頼できる。
すでに何人かが指摘していましたが、ショパンが亡くなってから音楽が流れるのが少し早いような気がします。もう少し余韻に浸らせてくれ~! ノクターンはもちろんいい曲なんですけどね。

問題のサンドちゃんは『ひかりふる路』で生田先生の性癖ぶっこみ丼だったサンジュストを連想させるほど、生田先生の好みが詰まっている印象があります。
夜会から酔っ払って帰ってきたリストが新しく継いだお酒は一口飲んだだけでピアノの上に置かれますが、サンドちゃんはちゃっかりそれを飲み干しています。
リストとショパンが「何のために音楽を♪」と銀橋で歌っているあとだったかな。サンドちゃんのリストへの傾倒ぶりがこんなところにも現れている。
冒頭から怪しい雰囲気を漂わせすぎてドキドキしてしまうサンドちゃんとリストですが、いきなり弾き語りもあるといういろいろ情報量が追いつかない状況に(笑)。夜会に行かなければならないのに、なぜ! ソファに! 押し倒すの?!

ジュネーヴに追いかけてきたときも最高でした。
マリーにちょっと意地悪して(このすれ違いの台詞のやりとりもうまい)、機嫌を損ねたリストは自分しかあやせないかのような言葉を残して外に出ていく。
「ねぇ、本当にそれでいいの?」と台詞から淀みなく歌につなげる。これがたまらなくいい!
「そんなものなの〜♪あなたの野心は〜♪」と声が裏返るのもよい! ドキッとする!
途中から冒頭で歌っていた曲「フランツ・リストジョルジュ・サンド〜♪」に戻る。すばらしい演出。
リストが少しずつ野心を思い出していく様子がよくわかる。

革命が深まっていく頃にはサンドちゃんはリストのことなどとうに見限って、ショパンに気持ちを寄せるようになる。これがどういう経緯でそうなったのか、本当に気になるのですが、サイドストーリーとかやってもらえませんかねえ、生田先生と劇団や。
気になっていたのは最近、バウホールがちょっと使われなさすぎませんか。もっともまいてぃとひとこでバウホールってのもチケット取れなさすぎて酷な気がしますが。
サンドちゃんのための演奏会はパリからノアンの屋敷へと会場変更。ここではずっと水の音がする。これが幻想的。近くに川が流れているのでしょうか、それとも心象風景を表しているからでしょうか、後ろの垂れ幕はジュネーヴと同じですが、照明効果もあり、全く別の場所のよう。
黒いドレスは喪服でしょう。ショパンは亡くなり、サンドちゃんは手厚く葬ったことでしょう。
ところでサンドちゃん、プログラムのお写真の中では馬をたたくムチみたいなものを持っていたような気がしますが、これは一体……ドSであることや女王様であることを示しているの? 生田先生の趣味? 馬に乗る場面は無かっと思うのだが。

リストはショパンと幻想の中で再会する。プログラムには「魂の彷徨2」とあり、その前にはマリーと再会する場面がある。マリーはその場所を「ここがそういう場所だから」と言いますが、どういう場所やねん……とは思いましたよね。いっそこの場面は現実でも良かったかな。ショパンとの再会がいかにも幻想であるのに対して、こちらはちょっとリアル味が残っているような気がしました。
でも現実で会ったら、マリーの仲間はリストを捕縛してしまうから、あかんのかな。
各国で勲章や称号をもらってリストが演奏会を開いている間に、革命の火種が切って落とされる。リストは貴族として、マリーは革命側の人間として、再会する。
「君から会いにきてくれたのか!」と喜ぶ一方で、マリーが革命家たちと共に行動していることがわかると「まだ戻れない」と言う。マリーはただリストがジュネーヴで言っていた「人と人との間を隔てる壁」のない世界を築きたいだけだったのに。
回る盆でせり下がりながらマリーは「私は今でもあなたを――」と言葉を最後まで言い切らないまま去っていく。
そして水音、上手から黒いドレスのサンドちゃん登場。よく考えたら、革命からショパンと共に逃れたときは下手にはけたのに、お着替えして上手から登場するとは、これも大変そう。どこで着替えているのだろう。
このショパン、少なくとも後半はしっかりサンドちゃんに愛されていたと思うし、だからこそサンドちゃんはドレスをまとっているのだろうけれども、ショパン自身はどこまで自覚があったのかなあ。
ラストでも神父になったリストはショパンの幻を見ているような場面があります。最後の全員集合は『神々の土地』を連想するので、うっかりすると泣きそうになります。リストもマリーに再会したことでいろいろ思い出すということですね。どうせならピアノの椅子に座ってリストが何かを弾き始めるあたりで緞帳がおりてもいいかなと思います。
主題歌の「巡礼の年(愛の夢)」はリストとマリーのジュネーヴでの幸せなときに生まれ、ラストでリプライズされますが、歌詞にも入っている「愛の夢」がどうしてもショパンを連想させていかんな。
リストの「愛の夢」はショパンが亡くなったときに捧げられた曲であり、それを生田先生も知っているだろうに、なぜ副題や歌詞に入れたのか、不思議です。

リスト、マリー、ショパン、サンドちゃんでベルベットの素材を共通で使用したお衣装も素敵でした。
リストがネイビー、マリーがブルー、ショパンがブラウン、サンドちゃんが深紅、美しかったなあ。
この4人の写真がプログラムでは見開きで掲載されていますが、サンドちゃんは本を読み、マリーはリストの方を向いているけれども、リストはショパンと向き合っているんですよね……キャストの欄でも写真はリストとショパンがピアノの前で向かい合っている場面で、マリーは不在。なんでやねんw
生田先生の趣味かな。知っています。信頼できます。
衣装といえば、ウィーンのマダムたちも素敵でした。ゴールドやベージュを基本に、みんな少しずつ違うドレスなのがよかったです。

今回で退団のくりすちゃんはウィーンマダム筆頭のラプリュナレド伯爵夫人。リストの歳上の愛人役で、本作ではリストを社交界デビューを飾った第一人者として出てくる。
物語の構成上、前半しか登場するタイミングがないのは残念ですが、舞台にいるときの存在感は圧倒的華やかさで目を惹きつけられます。
歌唱はいうまでもなくすばらしい。くりすちゃんが率いて歌う「一度パリを捨てたなら二度とここには戻れないここはそんなに甘くない〜♪」の歌は、作中で最も好きな曲と言っても過言ではありません。銀橋に出てくるタイミングもあってよかったです!
彼女がリストに腹を立てるのは、リストとの幸せな時間があったからこそでしょう。そういうことを感じさせる演技でしたし、きっとラプリュナレド伯爵夫人はジョルジュ・サンドのような女性を侮蔑の目で見ていることでしょう。
なんなら伯爵夫人自らが歌って社交界の華になればいいのに!と思うくらいですが、貴族はあくまでパトロンということでしょうか。
衣装が一着しかなかったのはもったいない気もしますが、豪華なドレスでした。

伯爵夫人は「ピアニストは替えが効く」と言ってリストが去ったあとはタールベルクをお抱えの音楽家にする。
タールベルクは、今度『殉情』の主演が決まりましたほってぃ(帆純まひろ)。リストとの対決は勝たなければ、という焦る気持ちがまた悪い方に転がってしまい、心のどこかで「リストに勝てるはずがない」と思っていることが見え隠れする。
タールベルクは作中でリストと「速さ」「強さ」「激しさ」を競い合いますが、本来ピアノってそういうものではないでしょう。技巧に走るのはやはりなんらかのコンプレックスを感じずにはいられませんし、リストがそういう流行をつくってしまったのも罪かもしれません。
歴史では確かに当時はリストやショパンと並んでタールベルクも実力者と謳われていましたが、その後メッテルニッヒに近づいてしまったこともあり、一時期歴史から忘れ去られることになります。今ではピアニストのレパートリーに入っていることもありますが、リスト、ショパンに比べたら数は圧倒的に少ない。
本作は、そこまでは描かず、リストに負けたことによって表舞台から姿を消したみたいに見えるところが秀逸です。主人公のリストをよく際立たせているという意味で。
サンドちゃんに「ジギスモンド!」とファーストネームを呼ばれて咎められるところは、「ねぇ、今どんな気持ち?」ってあの背中に聞いてみたいです。
タールベルクはラプリュナレド伯爵夫人のつばめにはなれたけれども、サンドちゃんの王子様にはなれなかったのね。

同じく今はリスト、ショパンほどに名は知られていないけれども、ヅカオタは『fff』で予習済みのロッシーニははなこ(一之瀬航季)。今回めでたく大劇場のたまごにも仲間入りしました。いや、本当におめでとうございます。
バウワークショップで『殉情』の主演も決まりましたね。
とはいえ、あまりやりようがなかった役かなとも思います。ここちゃん(都姫ここ)のオランプとのバカップルぶりは可愛かったんですけど、オランプちゃんにももう少し台詞とかください!!!
花組104期製娘役は、『冬霞』で多くの人に覚えてもらったみこちゃん(愛蘭みこ)や高身長でキュートな表情のみさとちゃん(美里玲菜)、そしてわたくしのご贔屓あわちゃんと充実しているんですからね〜!!!

さてここからはあわちゃん日記です。
冒頭のウィーンの貴婦人、すばらしくないですか?
マダム方が一列に並ぶときに一番下手にいるので! みなさん! 見てください!!!
前の胸のあたりにリボンがあるドレスを着ている娘役が多い中、あわちゃんは後ろの腰のあたりにリボンがあります。つまり何が言いたいかというと後ろ姿でも発見できます。
リストの演奏会で、ピアノを囲んで半円になっているあたりでは上手にいます。だいたいみさきちゃんとシンメトリーでございます。
このあわちゃん、本当に可愛い。写真とかないんかい……。
ラプリュナレド伯爵夫人をはじめとする社交界のみなさんとどんなお話をしているのか、気になってたまらん。

ウィーンの貴婦人役は冒頭で終わり、続いてリュサンド嬢として登場。マリーの小間使いということですが、出てくるたびに「奥様!」と台詞があるのはファンとしては大変嬉しいし、3回奥様と呼ぶその3回がどれもニュアンスが違っているのが、やはり演技がうまいなあと。
最初は編集部に向かうときですからダニエル・ステルンの小間使いとして、任せておいてちょうだい!という得意げな感じですし、2回目のジュネーヴでは旦那様のお友達がたくさんきてちょっと困った感じですし(ここは『M!』か?と見紛う場面。「ダンスはやめられない」をマリーが歌わない代わりに、サンドちゃんが歌うw)、3回目はリストの手紙を持ってきて、きっと奥様が喜ぶだろう!という感情が滲み出ています。ああ、すごいわ。
リュサンド嬢自身は貴族なのでしょうか、それともブルジョワの娘? マリーとはどういう経緯で知り合って主従関係を結ぶことになったのでしょうか、革命にマリーは参加しますが、パリジェンヌとしてリュサンド嬢が出てこないのも気がかりですし、リュサンド嬢自身は恋人がいるのでしょうか、いるならエミールの編集部やロマン主義たちの芸術家の中でしょうかとか、そんなことも気になってしまう。
ジュネーヴでもユゴーと何を話しているのか、大変気になるところでございます。
こういう細かい裏設定を本来ならお茶会で聞けたのだろうと思うと辛くてたまりません。これは他のジェンヌを応援している人にも言えることでしょう。

リストとタールベルクの勝負のときは、マリーの後ろにいるものの、基本的には台詞なし。
でもマリーがリストを応援していることはわかるから、リュサンド嬢もリストを応援していることでしょう。
マリーはパリに行くのは「嫌な予感がする」と言い、ここでの勝負に勝とうが負けようが既に別れを予感しているので、もしかしたら心の底からまるっとリストを応援しているわけではないかもしれないけれども、でも負けても欲しくないですからね。
そんな奥様の気持ちをリュサンド嬢も感じ取っていることでしょう。

お衣装は水色の襟がついたベージュっぽいワンピースと黄色っぽいワンピースの2着。主人のマリーが着替えると、小間使いのリュサンドも着替えます。
マリーの出奔はいつ知ったのだろう……一緒に出て行ったわけではなさそうですので、あとから手紙で呼び出されたのかな。ダグー伯爵に見つからないよう、ドキドキだったことでしょう。

しばらく出番がなくて、ラストはリストの回想の中で兵士たちと一緒に出てきます。いる場所がないからここなのか、やはり貴族の娘なのか。謎は深まる。気になって夜も寝られん。
あわちゃんがすばらしかった新人公演の感想はまた別に記事を立てますね!

宙組『カルト・ワイン』感想

宙組公演

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ミュージカル・プレイ『カルト・ワイン』
作・演出/栗田優香

「狂乱のオークション~♪ 過激なイリュージョン~♪」
いきなりですが、私はお酒は一滴も飲みません。
ビールもワインも日本酒も焼酎もブランデーも一切飲みません。体質的に飲めないのです。
飲むと頭がくらくらして気持ち悪くなってそのまま寝ます。起きているときから考えると「気の毒なくらい静かに」なるそうです。
アルコールがなくても酔っ払いと同じテンションで話ができるのは私の良いところです。

さてそんなわけで私はワインの知識は一切ないのですが、もっと知りたい!と思う程度には面白かったですよ、2日目の『カルト・ワイン』。「女を口説かないイタリア男」の名をほしいままにしていたかつての職場の上司を思い出しました。あの人に見て欲しい。もう梅田で見るのが楽しみで仕方がありません。
よく考えれば、絵画や骨董品などと比べて飲んだら消えてしまうワインになぜそんな価値を見出すのかわからないし、どうしてそんなにお金をかけられるのかとも思いましたが、「舞台もまた形には残りません」とプログラムで栗田先生にバッサリ切り捨てられましたね。痛いところを突かれた〜!
そうだよね、ヅカオタは基本的に映像が残ると過信している部分がありますが、生でなければ感じられない雰囲気は確実に存在します。福利厚生は豊かな方ではあるけれども、それでもね。
思い出させてくれてありがとう、栗田先生。感謝しかねえな。

ずんちゃんも(桜木みなと)、ずんちゃんをご贔屓にしている方々も本当に良かったですね。ようやく主演作品に恵まれましたものね。おめでとうございます。
なんなら前回の作品ではなく、今回の作品をスカステ20周年記念で円盤化して欲しいくらいじゃないですか。少なくとも私はそう思ってしまいましたよ。すいません。
もえこ(瑠風輝)も堂々の2番手でしたし、あーちゃん(留依蒔世)も『夢千鳥』に引き続き栗田先生と2作目、存在感を放っておりました。私の見たときはちょっと台詞が回らないところがありましたが(魔の二日目ってやつかな)、なんのそのです。フィナーレまでにはしっかり挽回するのがプロですね。
プログラムの第1幕第1場Aのみ、名前がずんちゃん、もえこ、あーちゃんの並びになっていたのは、そんなのありか!?と思いましたが、番手を明確にさせることが宝塚では必要でしょう。ファンにもありがたい。
ヒロイン枠には専科の五峰亜希という大物と並んで宙組からは春乃さくらちゃん。『ネバセイ』の新人公演ヒロインでしたね。
あんまりラブを追求する話ではありませんでしたが、それも生きるのに必死という暮らしをしていたためでもありましょう。ほのかに、ずんちゃん、もえこ、さくらちゃんで三角関係があり、別箱なら私はこれで充分かなと思いました。ラブを求めている人にとっては物足りないかもしれません。
例えば、シエロとアマンダが再会して2人でワインを飲むシーンなんかは台詞だけでなく場面が欲しいかなと思うかも。
あと、あえて足りないと思うところがあるとすればフリオの妹、モニカの2幕の出番がなかったことくらいですが、まあいずれにしても瑣末なことです。私はてっきりモニカもシエロに気があるのかと思っていたわ。
そして五峰ミラとシエロのソファでのやり取りは思わずオペラでガン見しちゃったよね、すごい色気だったよね、2人とも。なんか私までドキドキしちゃったよ。
正体を見抜かれて不快になったシエロが自分を抱かないかもと一瞬思ったミラのつまらなさそうな顔から、しっかり自分の思った通りになったときの魔女のような笑みに切り替わるところをばっちり見てしまって、あわわだった。なぜ、私が……。しかし五峰さん、少し歩きにくそうなのが気になりました。

開演アナウンスは、幕が上がって風色くん(風色日向)のオークショニアが合図をし、音楽が鳴り、役者が出てきてから。風色くん、なぜかオークションハンマーがよく似合う。
2幕も緞帳の上がり方はほぼ同様で、かろうじて休憩時間の終わり頃からかかっている音楽と共に急に幕が開き、椅子が並んでいる舞台が見える。
個人的には無音で幕が開くのはハラハラしてしまい、なぜそのタイミングで幕が開いたのかとか気になってしまうタイプなのですが、それ以外のところではもうずーっと音楽が鳴り響いているようなイメージ。いつも誰かが歌っている。THEミュージカルって感じでした。
圧倒的なコーラス力を感じました。
そういえば、2幕の初めは『不滅の棘』も幕が上がっていましたっけ……?

『翼ある人びと』でブラームスベートーヴェンの音楽について「必要なものが全部あって、いらないものがない」と言いますが、まさにそんな感じの脚本で、これで2作目とは恐ろしい人です、栗田先生。
指田先生も『冬霞の巴里』が2作目とは末恐ろしいと思いましたが、栗田先生も同じです。この2人が大劇場デビューしたに日は一部の男性演出家なんかは本当に居場所を失うレベルですよ。
最初にシエロが逮捕される場面をもってくるのがもう秀逸なんですよね。まるで映画のようでもある。それで、これまでのあらすじみたいな感じで1幕が始まる。逮捕されるまでの栄光の道のりを観客は安心して楽しんで見ることができる。観客にやさしいタイプ。
シエロは世界一天国に近い国ホンジュラスでマラス(マフィア)の一員として生きているが、実際に人を殺すことはできない優しい心の持ち主で、友人のフリオの家が税金を滞納していることをかばっている。
ただ、抗争が激しくなり、とうとう庇いきれなくなったところでフリオの父を殺せと言われ、でもやっぱり殺せなくて、フリオとその父と妹と4人で自由の国アメリカを目指す。
亡命している最中も、シエロは川で溺れた人間を助け、根っからの悪人ではないことが示されますが、刺青を見れば周りからは敬遠される。
そもそもなぜシエロがマラスの一員になったのか、作中では語られていませんが、これもそもそもフリオの一家を守るためだったのかもしれません。
もちろん本人に居場所がないことも手伝ったことでしょうが、決め手はフリオにあったのではないかな、と思います。ホンジュラスにいたときはマラスになることを勧めていたものの、シエロはアメリカに着いて以降、フリオだけは気質の道を歩んで欲しいと思っている様子が伺えますし。おそらくそこには「家族がいるフリオにはせめて真っ当な道を歩んで欲しい」という思いがあるのでしょう。シエロの家族については作中で語られませんが、おそらく血の繋がりのある人がシエロにはいないと思われます。だから多少無理も効く、と自分では思っているのでしょう。
シエロは優しい。メキシコのフードフェスティバルでも酔っ払いに絡まれているアマンダを助けるし、カミロになってからもいかにも上から目線の男性に絡まれるアマンダを助ける。
2回も助けられたらそりゃアマンダだって惚れるよね。そもそも、自分が6歳の頃から飲んでいるワインの味について、神の与えたもうた舌をもってあっという間に自分を凌駕していくシエロを、気にせずにはいられないでしょう。これもよくわかる。
でもシエロはアマンダとは一緒になれないと思っている。住む世界が違う上にアマンダはフリオが惚れている相手だから。初めからシエロは相手にしていない。残酷だな!

シエロは優しいだけでなく賢い。
フリオに「幕引きは自分で決める」と言うように、偽造ワインで金儲けをすることがいつまでもできることでないとわかっているし、ミラに正体を見破られたときもチャポに早速連絡して、潮時であることを示唆する。しかしチャポには相手にされず、続行を命じられたシエロは、今までの儲けをチャポの手の届かないところに隠し、その隠し場所を記した十字架(フリオパパからもらったもの)をフリオに託して、疑惑の目を向けられつつもオークションに向かう。
この十字架を託したときはアレですね、『メランコリック・ジゴロ』の母親のコンパクトを思い出しましたね。刑務所の面会でやっぱり〜!となりましたよ。
シエロは賢いから、裁判でもチャポの名前は出さない。フリオはチャポの名前を出しさえすれば、シエロの罪は軽くなると思っている。だからFBI捜査官に「妹の手術代6万ドルを肩代わりしてもらった」話をするのでしょう。
しかしチャポの恐ろしさはそんなものではない。名前を出そうものなら、犬と一緒に屠殺処分されてしまう。それならいっそ刑務所の方が安全だと考えるシエロは賢い。
勉強ができるできないではなくて、処世術があるというのかな。そのあたりもチャポは初めから見込んでいたのかもしれないな。ただ偽造ワインを作る天才なだけでなく、華もあり、表舞台で活躍できる人材だと。だから6万ドルは安いと思ったのかも。それに比べたらオーダーメードのスーツも安いものでしょう。
チャポが足抜けしてペットショップを軌道に乗せるまでの話もいっそ見てみたいくらいです。

「生きるための悪は裁かれるべき悪なのか?」という主題はみんな大好き芥川龍之介の「羅生門」の老婆の主張につながるところがありますが、現行の「羅生門」が「下人の行方は誰も知らない。」とかいうスッキリしない終わり方に対して、『カルト・ワイン』はめちゃめちゃスカッとする。
やーい!チャポにもまんまと一泡吹かせてやったぜ!ってなる。
初版の「羅生門」は「下人は、既に、雨を冒して、京都の街へ強盗を働きに急ぎつつあった。」はスカッとはするものの、一方で盗賊の首領にバッサリ斬り捨てられる残念なエンドが予想されるのに対して、こちらは10年我慢して刑務所にいれば、大金と友人が待っていますからね! これはもうハッピーエンドといっても過言ではないぜ???

羅生門」において老婆の主張はもう一つありました。「悪人には悪事をはたらいてもよい」というものです。
オークションに参加するワインコレクターたちは悪人なのでしょうか。
ミラが専務となったオークションの会社(ゴールデンなんとか)は闇オークションという印象は受けませんでしたが、お客さんの中には実際に女を侍らせてニヤニヤしている人もいましたし、高いワインを買って虚栄心を満たそうとする人もいました。
ロクなことで稼いだ金でないならば、詐欺に遭っても仕方がないと思えるでしょうか。
シエロは、そのあたりはシビアで、実際に自分のワインを買った店は人がたくさん来て、儲かったではないか、自分のワインを買って虚栄心が満たされて満足したのではないか、と裁判で言います。
このあたりはやはりホンジュラス育ちというところが表れているのでしょう。「自己責任」とは言わないけれども、比較的それと近いことを言う。政府とか国のやることにハナから信頼がない。信じられるのは自分とフリオだけ。チャポでさえ信じていないものな。
そこは非常に現実的なんだよなあ。人なんてすぐ死んでしまうって心のどこかで思っている感じがある。最初にチャポに対して「夢を見るのが夢」と語るくらいには明日の暮らしに悩まされてきた少年時代だったのでしょう。
かといって、刑務所に入っても反省する気配はなさそうですので、シエロの人間像としては理想的になりすぎず、かといって荒みすぎることもなく、いい塩梅だったかな。
ずんちゃんはプログラムやチラシの白いストライプ入りのスーツも着こなすし、メキリカンな派手な色のシャツもよく似合うし、刑務所のオレンジのつなぎまでしっかり見せるのだから、何事!?となりますよね。
ずんちゃんのファンのお財布と通帳が心配になります。最近そんなのばっかりですわ。

もえこフリオもものすごく丁寧に作られている感じがして良かった。
シエロがマラスに入ったことに対して文句は言わない、けれども自分は絶対に人の道を外さないと決めている。もしかしたらシエロがマラスに入った理由も自分のためだとは思っていないのかもしれません。
料理人の息子だからシェフになる夢は描きやすかったのかもしれませんが、それでも味覚はシエロの方が確かで、そこにほのかなジェラシーも感じる。
だけどシエロは大切な幼馴染だし、父も妹もシエロを大切にしている。フリオ自身もシエロといれば向かう所敵なしの気分になることができる。
シエロが苦しければ自分も苦しい、離れようと思えば離れられるほど遠い関係性でもない。まるで兄弟のような。
アマンダがシエロを気にかけていることにも気がついている。だからアマンダに結婚を強いることもできない。アマンダの気になる相手がシエロでなくてもフリオは無理強いはしなかったでしょうが、相手がシエロだからこそ余計に強くは言えなかったのでしょう。切ない。
シエロとアマンダがキスをするのを見て、フリオはどちらに嫉妬していたのでしょうね……アマンダはフリオの店でソムリエをやるかもしれないけれども、結婚はしないのかな。それともシエロの偽造ワインを見抜けなかったことを受けて、ソムリエを辞めてしまうかな。
10年後の楽しそうなシエロとフリオは想像がつくけれども、アマンダがどうしているのかは、私にはいまいち想像できませんでした。アマンダの妹もどうなっているのでしょう。あまり出番がありませんでしたが、エバがフリオのことを好きだとおもしろいなと思いました。
ミラはきっと、飽きもせずオークション会社でめきめき働いていることでしょう。詐欺事件を受けて多少の降格はあったかもしれませんが、ばりばり働いている姿が想像できます。
たとえシエロが捕まったとしても、オークションにおいてワインの値段は暴落しない。カミロ・ブランコなど最初からいなかったかのように、今日も今日とてオークション会場の紳士淑女はオークショニアのハンマーに踊らされながら札束で殴り合いをして、欲しいものを手に入れる。
この世界観の描き方、栗田先生の視点が光っています。スタオベするわ。

フリオの妹のモニカは美星帆那ちゃん。抜擢でしょうか。105期生です。2幕にももう少し出番があると良かったですが、病弱な妹、けれども体調がいいときはハキハキしているし、言いたいこともしっかり言う。可愛かったなあ。
1幕での強盗に襲われて、フリオの腕に戻ってきたときの「兄さん!」はたまらなかった。
2幕はもっぱらバーテンの格好をしたコロスやオークションの淑女として登場。しっかり見つけましたとも!
そしてフリオの父のまっぷーさん(松風輝)。本当に良い仕事するわね……『サパ』の母親役もすごかったけれども、今回の父親役もものすごく良かったです。
2幕はワインコレクターとして出てきますが、1幕の父親がすばらしすぎて、思わず幻想を追いかけてしまいました。

下級生娘役は他にも風羽咲季ちゃんのFBI捜査官、金髪ボブ、パンツスーツ姿が格好良かったです。台詞もあったし、めでたい!
アメリカ人女の子もキュートでした。アメリカ人女とは区別されてプログラムに書いてあるのは興味深い。
フィナーレでは下手にいらっしゃり、上手にいた私からは少し遠かったですが、無事に発見できました。満足。
フィナーレといえば、今回は『夢千鳥』とは違ってわりとフィナーレの尺が短めでしたが(前が長かったともいうが)、芝居の終わりにずんちゃんももえこも舞台にいて、「これは『夢千鳥』同様、あーちゃんから始まるのか?」と思ったら、ずんちゃんがしっかり着替えて、『NZM』でだいもんが肩から掛けていたふわふわとともに登場。『ほんものの魔法使い』もそうでしたが、無理に早着替えをさせなくても、と個人的には思いました。まあ、ファンは嬉しいに違いないけどね!

調べてみると、シエロのモデルとなったルディ・クルニアワンは2012年に逮捕、翌年懲役10年を言い渡され、実際は7年で刑務所とおさらばしています。2020年11月に出所しているんですね。
結構最近の話なのね、と驚きました。だから今でもワイン業界には、彼が作った偽造ワインが流通している可能性が充分にあるし、ドキュメンタリーなどもこれから作られることでしょう。
すでに2016年にはイギリスで映画『すっぱいブドウ』(原題:「Sour Grapes」)としてフィクションのモチーフにされているとか。こちらも見てみたいところです。

そして魔のぶりりあちゃん。今回も一階席上手後方。前回の『バイオーム』とは異なり、床に座って演技をする機会も少なかったせいか、役者の声がはっきりと聞こえました。音響にこだわっている、とまでは感じられなかったけれども、可もなく不可もなくというところかな。
しかし、ぶりりあちゃんでここまで聞かせるためには、他の劇場では考えられないほどの工夫がされているのかもしれません。
とりあえず今まではそれほど悪い席に当たっていないのでなんともいえませんが、悪名はとっとと改善したほうがいいと思いますよ。
ちなみにお手洗いの導線が悪すぎるという話も聞くので、お手洗いはぶりりあちゃんでは行かないように事前に済ませてから向かいました。実際どうだったのかは、幕間に客席にいたのでわかりませんが、改善されているのでしょうかね。

外部『バイオーム』感想

外部公演

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スペクタクルリーディング『バイオーム』

作/上田久美子
演出/一色隆司
出演/中村勘九郎花總まり、古川雄大、野添義弘、安藤聖、成河、麻実れい

とにかく幕が開く前からプログラムにある「中村勘九郎 ルイ(8歳)」という文字列の破壊力に慄いたし、幕が閉じてからは「なるほど、確かに8歳だった」と思わせる説得力はさすがだったし、もう何が何だか……配信の最後についていた脚本家と演出家の対談の中でも「男女の8歳を演じてくださいって言うのは、ちょっと無理があるじゃないですか。でも稽古の中でちゃんと8歳になっていった」とあり、これを「演技がうまい」の一言で片付けるのはいささか無理があろう、とさえ思いました。
「わからない〜!」と言いながらも模索して8歳にみえるようにするってすごいよな。ちなみに山口祐一郎も稽古場では「わからない〜♪」とか「できないよー♪」とか歌うことがあると聞いたことがあります。上手い人ってみんなそうなの?
プログラムの中で勘九郎は「今まで培ってきたテクニックは一旦忘れて」と言い、こんなことを勘九郎をして言わしめるのはタダゴトではない。ブランコの上でふらつくバランス感覚もタダゴトではない。よく落ちないな、あれ。
植物たちからは「小さな獣」と言われるルイは、一方で「大きな獣」と言われる学よりも物理的には大きいにもかかわらず、舞台の上ではちゃんと小さく見えるのがまたすごい。このあたりは配信だとどう見えたでしょうか。アップになると気になった人もいるかもしれませんが、少なくとも劇場で観ているときにはつゆほども気になりませんでした。
勘九郎が演じるもう一人のお役であるケイは、プログラムを先に確認してしまったので、野口の子供であることやふきの孫であることには最初から大分疑問がありました。
だって人物関係図の中でケイだけ誰とも繋がっていないし、説明もないのだもの。怪しすぎるでしょw
だから白いお衣装で出てくるルイの、いわゆるイマジナリーフレンドであることはなんとなく予想できたわけですが、このケイがラストにふきのところに現れる際、色付き(オレンジかな)のお衣装を着て出てくる。これがなかなかに興味深い。
他の6人は植物のお役のときにグレーっぽい色味で統一されたお衣装で出てきて、人間のお役のときに色付き衣装を上から羽織ってくる。
ルイが実在している人間で、ケイが空想の中の友達なのに、色がついているのはケイの方である。少なくともふきにはそう見えている。
最後にケイがふきに会いに行くこと自体、あらゆる解釈が生まれそうですが、ケイが色付き衣装というのも考えさせられる。
私は、そもそもケイを最初に作ったのはふきではないかと考えています。ルイが思い描いているようなハッキリとした輪郭はなくとも、その妄想の源泉みたいなものはふきが作り出した孫像であり、それをルイに寝物語か何かで語ったものが、やがてルイの中で友達として育っていったのではないでしょうか。
だからこそ最後にケイはふきに言う。「ばあちゃんのケイだよ」と。優しい口調で。あそこ、泣けるのよねえ……。
ふきは怜子に対する母性を封印せざるを得なかった。そしてそれはあたかも完璧に封印されたように見えた。けれども、人間ってそんな完璧なものではないのでは?と思う。
怜子に対する母性を封印するとともに、もう一人の子供である野口にもそれほど愛情がかけられなかったらしいことが、野口の最後の電話で明らかになる。
ボロが出る、という言い方はいかにもマイナスで、悪いことのように聞こえるけれども、ふきの人間らしい綻びのようなものを追求するなら、やはりケイの原型はふきによるものではないかと思います。
そして最後に、めぐりめぐってケイは生みの親のところに戻ってきたのではないでしょうか。

一方で配信を見たダーリンは違う考えをします。ケイはふきの最後の光であり、ルイが見せた幻なのではないかと。
ケイを作ったのも、それを育てたのもルイ自身であり、それがめぐりめぐってふきのもとに辿り着くのだ、言ってみれば正反対の解釈をします。
もしかしたらそう考える人の方が多いのかもしれませんし、次に見るときは私もそう考える方が自然だと思うかもしれません。次に見る機会があるのかどうかは別ですが。円盤、出ないかな……。

ルイは、いわゆる知的障害か発達障害か何かを持っている子供であり、繊細で幼稚、そして植物の声が聞きたいと願う少年ですが、そんな少年がしっかりと「承認を見下す」みたいな人間的な視点を内面化しているのはとても心が抉られますね。これ、つらいわ。
怜子も同じです。怜子自身は父親からも母親からも愛されず、だから自分の子供であるルイのことも愛したい気持ちはあるし、「なんで私じゃないの」と悲痛な叫び声もあげる。けれども、どうやって愛したらいいのかわからず、結局は子供の方から離れていってしまう。実の子供に噛まれてしまう。
その意味で、彼女は間違いなく被害者だし、同情もする。そりゃ、心を病むだろうと思わせるだけの説得力ももちろんある。
けれどもその一方で、ふきのことも家政婦風情と思っている態度が随所に表れますし、庭師の野口を見下し、「バカで無能なケイスケの遺伝子」とか言ってしまう。
もっともこれも、ふきがかしずき過ぎたことによる影響もあるのかもしれません。母であるのに、母であることを明かせず、しかし愛情だけが募っていった結果、乳母としてへりくだり続けたために、他者を自分の下に置く癖がついてしまったとも考えられます。
それなのにそのたかだか乳母に、たかだか家政婦ごときに「こうしなさい」と命令されるような視線や態度を浴びせられ続け、それに耐えられずわざと違う言動ばかりをしていたら、そりゃ人間壊れるだろうよ、悲惨すぎるだろ、と、思いましたね。いや、なんていうか、本当にこの辺りは救いがなくて。
怜子にこの自然と他人を見下す態度さえ身に付かなかったら、もう少し別の道を歩めたのではないかと思いますが、10年前に亡くなった母親のヒロコも「気性が荒い」とふきに言われる通り、人の上に立つことが当然だと思っていたのかもしれません。これは血脈というより、あの一族の家庭環境がそうさせるのでしょう。克人の言う「名家の人間がもつ花」といえば聞こえはいいですが、「当たり前のように人の上に立つ」姿勢が、怜子にも悲しいことに身についてしまった。
けれども、怜子に対して冷酷になりきれないのは、私自身が不仲な両親の元で育ち、愛情の何たるかがいい歳まであまり理解できなかったことも手伝っているのだと思います。今のダーリンに出会えていなければ、もしかしたら今も人を愛することの意味はわからなかったかもしれません。
私にかしずいてくれる人間はいなかったけれども、それでも私も一歩間違えれば、怜子のようになっていたのかもしれないという危惧がある。その意味では、怜子はあの家を出るべきだったのでしょう。
だからこそ、お花様のもう一つのお役のクロマツの芽がルイと共に別の世界に行く、変化する場面は涙なしでは見られない。ここで報われてよかったね、と思ってしまう。

怜子のような「病んでいてエキセントリックな美人」はなかなか宝塚の枠の中では描けないキャラクターでしょうし、せっかく退団したのだから、うえくみ先生の描くそういうものも見てみたいと思っていたけれども、この役を、よりにもよって宝塚の生み出したレジェンド、宝塚の一つのシンボルを担っているようなお花様(花總まり)に演じさせるというのがまたすごい。
うえくみ、宝塚に親でも殺されたんか?と思うレベルのキャスティングでした。いや、いいものを見せてもらいました。ありがとうございます。
完全にチャタレイ夫人だったわ。

その怜子に傾倒する庭師は野口。野口は「じいさんの代からこの家の庭師」と言い、ふきは事情聴取の独白の中で「代々庭師を務める野口の家へ私を片付けました」と言い、どちらだろうとは思いましたが、ケイスケが知っているのがおじいさんの代から、ということなのかもしれません。
野口としては幼い頃から一緒に育ってきた美しくて憧れのお嬢様ですから、そりゃもう後から出会った他の女性なんか目に入らなかったでしょうね。なんせ最初に出会った女性が強烈すぎる。
ゆん(古川雄大)が演じていますので、まさかそんなことはあるまい、と思う人もいることを承知で言いますと、きっとあの年まで童貞だったよ、野口くん。
怜子が留学しているときは淋しかっただろうなあ。
ただ一方で、野口自身も母であるふきから愛されていない、満たされていない気持ちはどこかにあり、だからこそ最後の電話は非常にドライに響きました。プログラムで「最後の電話のシーンにも怖さを感じます」と本人は言いますが、怖いというよりも、あの一族の呪縛から逃れて、真っ当な人間になれたのだな、と私は思ってしまいました。
やはりあの家を出ることが、あの家に住んでいた人間を救う道だったのでしょう。
ふきだって、あの家を出たからこそ、ケイと出会えたと考えることもできます。
そしてもう一つのお役がイングリッシュ・ローズというのも笑ってしまう。さすがゆんである。

さて、そんな野口から乱暴にお金を渡されてしまうともえは、「素直でヘルシーな雰囲気」とあり、安藤聖さんは見事にそれを体現していたと思います。
花療法の話をしているときなんかは「明るいけどヤバイ人」みたいな印象も受けますが、2幕では地に足のついた信念があり、ある種の真っ当さを感じさせます。
この家の外の人間ということでキャスティングも、少し違うところから考えられたようですが、よかったです。最初はお金目当てで近づいたのかもしれないけれども、ちゃんと怜子と向き合って彼女の問題に気がついてあげられるのもえらい。そんな彼女の主張はもっともだし、だからこそこんな時代にお金ばら撒いて問題を解決していく『夢介』みたいなのを上演するのはどうよっていうね……。
花療法というのが本当にあるというのも驚きでしたが、花でも何でも他者を見て感じたことは、大抵自分の問題を浮き彫りにするのでしょう。その意味では芝居も小説も映画も同じです。自分の問題意識が明らかになる。
ところで、このお話は絶妙に時代設定がわからないのですが(「令和」という言葉は出てきましたので、日本の現代かなと推測はできる)、配信でお金を渡される場面を見てみると、「1」や「0」の数字の書き方が新しい1万円札のデザインのような印象を受けました。だから令和は令和でも、実はちょっと先の未来、近未来を描いているのかもしれません。
だから学も「ゼネコンからお金をもらうなんてやり方、古い」と執拗に言うのでしょうか。

さてそんな学ですが、子どもが生まれたといってもルイのような子供ですから、あの家の中ではさぞ肩身が狭いことでしょう。
しかしあの家の外部からやってきた人間だからこそ、ルイは学に懐くのだろうという気もします。学自身も自分の子が可愛くないことはない。幸せにしてやりたいと思うからこそ、施設に入れようという話をする。克人は昔の人間ですから、わざわざ病名を受ける必要はないといい、怜子は母として子と一緒にいることを願っているので、なかなかわかってもらえませんが、怜子から離すという選択は、外からやってきた人間だから思いつくことでもありましょう。
またね、成河の演技がいいんだな! さすがなんだな! 私の信頼したルキーニなんだよな、これが!
「お金には興味がないけど、愛には興味がある」学は確かに政治家らしくないかもしれませんが、では出世には?とすぐに疑問に思いましたね。
「この家に入った以上、後戻りはできない」と本人は言いますが、そんなことはないはずです。別に生きてさえいれば多少苦難があってもやり直しは効くはずです。結局出世には興味あるのではないのか、と冷めた目で見ていましたよ、私は。
変なところだけ聡い怜子にもしっかり不倫がバレているツメの甘さには笑いましたが、これでサカイエリさんに子供ができたらどうするのだろう、とは思いましたね。これまた悲劇しか待っていない予感がします。

もう一つのお役はセコイア。そしてルイはこの木に登って、そしてこの木の枝が折れて、落ちてしまう。人間と植物の役は関係があったりなかったりするそうですが、学が自分ではもうルイを救いきれないと思っているのがよくわかりました。
セコイアは序盤、クロマツに言われてイングリッシュ・ローズや竜胆にエネルギーわけてあげる。クロマツはやらんのかい!とも思うけれども、セコイアはクロマツよりも後からこの庭に来た新参者だから、言うことを聞く。肩身の狭い学やな、と思ってしまったよ。
セコイアのときは声音もだいぶ違ったのがおもしろかったです。どこから出ているの?その声!と思いましたよね。

そんな学を自分の後継者に見込んで育て上げたのが怜子の父、克人なわけですが、まあ諸悪の根源とでもいいましょうか、本当にどうしようもない男ですよね。しかしこういう人、いるいるーと脳裏に具体的な政治家の顔や身近な人間の顔が浮かんでくる。まことに残念なことに。
私はクロマツの盆栽が可愛くて好きでした。害のないおじいちゃん、みたいな。もっとも野口曰く「ハタチ」らしいですが。
こちらは正反対ともいえる二役。野添義弘さんが別人に見えたよ、私は。
植物たちは感情を持たない。レーテル層のことは感知しない。いきなりコクト層。けれども盆栽は人間の手によって捻じ曲げられ、歪められた結果、感情のようなものを露わにする。クロマツを「ばばあ」と呼んだり、「ハタチ」と言われて喜んだり、ルイを助けたいと思ったり。
人間以外の視点を入れようと考えて、それに植物が選ばれることはSFではよくあることらしいですが、その人間以外の視点にも多様性があるのはおもしろかったです。
クロマツは「私たちは何も感じない」と言いますが、イングリッシュ・ローズや竜胆は踏まれたら「痛い」と言うし、クロマツの芽はお腹が空いたと言うし、セコイアはエネルギーをわけてあげなさいと言われた最初は不服そうな返事をするし、盆栽は言わずもがなだし。けれども「私たちは死ぬとは言わない。ただ変化するだけ」という考えは共有されているようだし、その意味では人間よりも達観している。植物が達観していればいるほど、人間たちの醜さが鮮やかに対比される。ここに描かれる人間たちは醜くなければいけなかった。家父長制のだめなところを煮詰めた中で繰り広げられる復讐、愛憎、欲望その他は、残念ながら今この国に暮らす人にとっては無関係ではいられないはずだ。

「調和の要」と言われたクロマツは切られてしまった。冒頭のチェーンソーの音が2幕の途中でようやく繋がる。この音がリコーダーと対比されているのもずっしりくる。ルイとケイのささやかな幸せの象徴のようなリコーダーの音色が、クロマツを切り倒す残酷な音と対比だなんて……そんな、あんまりだよ……。
怜子は「どうしてルイはこんな木のところに来るの?クロマツぅ!」と痛々しい叫び声をあげますが、これもクロマツを演じた麻実れいのもう一つのお役であるふきに対して「正体を表せ、野口ふきぃ!」と呼応してますよね……ああ、無情。
ふきを演じようが、クロマツを演じようが安定の麻実れいは低いいい声を響かせてくれました。調和の声音だよ、あれは。当てがきというのも頷ける。
彼女だけ、と言ってもいいでしょうか、人間のお役のときの衣装がなんとなく右側と左側と素材違いで、色は同じなのですが、二面性のあるような、それこそ右を向いているときと左を向いているときとで別人のような印象を初めは受けました。最後まで見ればこれが狙ってやっていただろうこともわかります。
対談で演出家は「台本の読み込みがきちんとできているから、怜子との場面のときも道順は多少違っても、最後はオチるべきところに落ち着く」と言い、圧倒的な信頼感だな、と。役者も生き物ですからその日の体調や気分に多少左右されるもので、それ自体は悪いことではないのでしょうが、それで脚本の意図と離れたことをやってはいけないから、難しいところでしょう。身体に台本を染み込ませるのが良いのかもしれません。体で覚えるような感覚でしょうか。
とにかく彼女の存在感は間違いなく半端なく素晴らしくて、去年見た『森フォレ』を思い出しました。よく考えたら成河も同じ作品に出ていましたね。
観劇後に『森フォレ』を思い出したのは、役者が同じだったばかりではないでしょう。つまり血脈と宿命、そして戦争というテーマの類似です。
今回はいわゆる兵士たちがさせられるような戦争そのものが描かれていたわけではありませんが、人生における戦いでしたし、実際人も死にます。
怜子が倒れているのを発見したとき「殺虫剤の間が転がっていた」とふきは言います。それだけではどうやって亡くなったのか、判然としませんが、その前に学がルイに殺虫剤の危険性を説く。「飲んだら人間だって死んでしまう」と。おそらく怜子は殺虫剤を飲んだのでしょう。私は今まで睡眠薬を大量に飲んで自殺を図ろうとする人にはお芝居の中で(現実でも)出会ってきましたが、殺虫剤を飲んで自殺しようとした人は初めてだったよ、衝撃的だったわ。どうやったら殺虫剤を飲むという発想になるのだろう。

怜子もルイも亡くなる。
本作は西洋の大河小説のような側面も感じられました。
トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』やエミール・ゾラの『ルゴーン・マッカール叢書』だったり。
あとは、、これで私立探偵が出てきたらロス・マクドナルドだし、作品の雰囲気としてはフォークナーの『響きと怒り』を連想させるものがある。うえくみ先生の造詣の深さが垣間見えるし、描いているのはある家庭の人間に限っているけれども、その裏にはもっと人類を俯瞰した視点があることを感じさせる。
作品の中でうえくみ先生の講演会を思い出したポイントもありました。
まずは、克人がルイについて「ああいう子は昔はよくいた。だから病名をつける必要はない」というところ。
発達障害や知的障害は、今ではあらゆる分類に分けられていて、素人ではとても追い切れない。名前がつくことが良いことなのか、悪いことなのか、一概には言えないでしょう。名前がついたことで、現状を受け止めて治療に前向きになれる人もいれば、名前がついても現状を受け止められない子供や親もいるでしょうし、名前がついたのをいいことに逃げ道を作る人も出てくるでしょう。
ただ現実は変わらないから、現状を否定するといつまでたっても幸せにはなれなさそうです。
そして2幕冒頭の野口の台詞「地球がおかしくなっているんですかね」という言葉。
台風が来て、雪まで降った。別に台風だけでもルイが熱を出す原因にはなりそうですが、雪が降り、気候異常を示す。
地球温暖化にはじまる環境問題にもアンテナが高いことを講演会のときにも感じました。
最後にともえのパン工場での悲惨な現状。フレンチトーストをバカみたいに焼かされて腱鞘炎になった話はきっと、本人ではないかもしれないですが、どなたかの実話なのでしょう。ブラックだな。
うえくみ先生の講演会の記事はこちら。

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スペクタクルリーディングという枕詞を冠していながら、2幕はほぼストレートプレイのような感じでした。
植物のといは本を読み、人間を演じるときは本がない。だから勘九郎だけ本をもたなかったような気がします。
この造語を作り出した人は天才だな。まさに『バイオーム』という作品のためだけにある枕詞です。
もっとも成河は最初に舞台で本を読むことに抵抗があったようですが(笑)。
朗読劇ですので、多少説明っぽいところはありましたが、私はそれほど気になりませんでした。
おもしろい作品でした。この脚本で、この演出で、この役者で見ることができて良かったです。
次の作品も楽しみにしています。

ちなみに私は初めてのぶりりあちゃんでした。悪名高きぶりりあちゃんですよ。今までこの箱のせいで諦めた演目もありましたが、今回はとうとう諦めきれず。
1階席通路後方上手側でしたが、後方はしっかりと段差があったので視界は良好でした。
音響もかなりこだわっていたようで、3Dのようになっていたとか。
ただ、やはり役者がしゃがんでしまうと聞き取りにくいことがありました。これはもう役者の力量の問題ではないでしょう。
本日観劇した宙組『カルト・ワイン』も似たり寄ったりの席だったので、まあまあ良かったです。
噂を聞いていると2階席や3階席は勘弁してくれって感じかな。

花組『巡礼の年~リスト・フェレンツ、魂の彷徨~』感想

花組感想

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ミュージカル『巡礼の年〜リスト・フェレンツ、魂の彷徨〜』
作・演出/生田大和

個人的な話をすると、私は幼稚園児の頃から高校3年生まで、断続的にピアノを習っていました(引越の関係で途切れることが数回)。
中でもショパンは大好きで「華麗なる円舞曲」「子犬のワルツ」などは大変好んで弾きました。ただ「幻想即興曲」に関しては生来の指の短さ、手の小ささが禍して、ついには満足できるレベルで弾くことが叶いませんでした。
一方、今回の主役であるリストも好きで、「愛の夢」はもちろん弾きましたが、今回のお芝居の宣伝で使われていて、なぜか本編では使われていなかった「ラ・カンパネラ」については、これまた手の小ささゆえに最後まで弾くことを断念しました。宣伝で使うなら本編でも使ってほしかったな。
『fff』の主役であったベートーヴェン東宝でおなじみの『M!』の主役であるモーツァルトは弾きはしたものの、あんまり好きではなく、『翼ある人びと』に登場したブラームスシューマンは、ほぼ弾かなかったという印象です。
何が言いたいかというと、音楽的な好みから言えば、トップスターがリストを演じ、2番手がショパンを演じる今回の作品は、今挙げた作品のどれよりも期待していたということです。そしてリストのコンサート場面の演出は、なるほど、とてもおもしろかったです! ピンクのライトにミラーボール、非常に凝っていました。
生田先生は「リストのファンには申し訳ないけれども、リストは天才肌というよりも努力家だった」とコメントしていますが、「ショパンに比べたらそら、そうだろう」とも思っています。

生田先生の好みなのでしょうか。一度、心を通わせたと思っていた女性に男性がひどく傷つけられるという筋は『ひかりふる路』と同じで、趣味全開ですね!という展開を見せます。
もっとも『ひかりふる路』において、マリー・アンヌは最初からひどくロベスピエールを敵対視していたのに、対して今回のマリーは本当にリストを心から愛していたのでしょう。
リスト(柚香光)とマリー(星風まどか)のあの白い衣装の幸せな時期、見ようによってはバカップルにも見えますし、『うたかたの恋』の予習をしているようでもありましたが、個人的には先生によってパターンがあるのは、少なくとも宝塚においてはいいことだと思っていて、そういう意味で小柳先生も信頼できます。
だからこそ、この逃避行の場面にはもう少し尺をとって、曲を弾かないにしてもピアノの前で作曲するリストの絵面が欲しかったような気もしますが、それは後述します。

とにかく二人が思いを通い合わせて、穏やかな日々を過ごした。
それにもかかわらず、二人はやがて袂を分かつことになる。パリに戻る前にマリーが予感したように。
パリでもう一度演奏をして欲しいと頼むジョルジュ・サンドの願いをリストは聞き入れる。
ここのサンドのお願いの仕方がまたいいんだ。
表面的には「あなたの名誉を取り戻したい」と取り繕いますが、「タールベルク程度の人間が私の愛しているリストの代わりになどなれるはずがない」とも思っているし、もちろんパリに戻ってくれば自分のところにも戻ってくるだろうという下心もある。
それを台詞から歌に上手に繋いで、リストに訴えかける。
今回は本当にジョルジュ・サンドが良かったです。これもまた生田先生の性癖なのでしょう。
これ、ご贔屓に演じられた日には諭吉が何枚あっても足りないな、と思います。ひとこ(永久輝せあ)ファンのみなさまの財布や通帳は息をしているのでしょうか? 心配になります。

リストを引き留める直前のやりとりもいい。
リストとマリーが静かに安らかに住んでいるジュネーヴに訪れたサンドは「紹介してくれないの? 恋人でしょ」と挑発する。
サンドの著書の愛読者であったマリーは、サンドに直接会えた喜びがあったにもかかわらず、その台詞を聞いてたちまちうろたえ、リストに視線を向ける。
これ「(そちらの方はあなたの)恋人でしょ」ではなく「(私はあなたの)恋人でしょ」なんですよね。少なくともマリーはそう捉えた。だからこそ、戸惑う。そして、出て行ったリストを追うサンドに対して、マリーは何もできなかった。
こういう台詞のやりとりや一連の流れがとてもすばらしい。生田くんの気合いが感じられる。
他にも、パリでタールベルクとの勝負に決着がついたとき、リストはマリーに「聞いたか?」と言い、マリーは「ええ、(あなたの演奏は)すばらしいわ」と答える。けれどもリストは「この喝采を!」と、マリーの言葉を無視する。
このすれ違い具合よ……っ! 他人に褒められているリストではなく、そのままのリストを愛しているんだよ、マリーは! そういうことが伝わる台詞のすれ違い。わかっている、わかっているねえ、生田くん! そういう巧妙な台詞のやりとりが最高だよ!

そうしてパリでの演奏会で調子に乗った(あ)リストは、ジュネーヴに戻るというマリーとの約束を反故にして、マリーをパリに置き去りにして、ヨーロッパ各地で演奏会をし始め、行く先々で勲章をもらい、念願の貴族にまでなる。
幼少期、音楽院に入学を認めてもらえなかった(貴族でないから認めてもらえなかったのよね?)ことへのコンプレックスがここでようやく解け始めるのでしょう。
しかしコンプレックスをこじらせた時間が長すぎて、勲章をもらったからといってすぐに解けきるわけではないのが肝ですかね、まあそういうものだよね。
からまった糸がほどけきらないから、マリーのいるパリにリストはすぐに帰らない。帰れない。もっと、もっと、と際限のない上を目指す。貴族に囲まれ、自分も貴族になり、夢見た生活をすることをやめられない。そのむなしさに、気がつかない。
自分への喝采の拍手が聞こえない状況に耐えられなくなっていく、中毒になっていく。

一方で、パリに取り残されたマリーは当然、伯爵家に戻るわけにはいかず、生きていくために再び筆をとる。
サンドがルポルタージュの仕事を譲ってくれる。このサンドが! またいいんだよ!
自分の愛した男を奪った女なのに、彼女の筆の力をニュートラルな視点でちゃんと認めている。
自分のファンであることもいくらか手伝っているあたりが、非常に人間らしく描かれている。すばらしい。素敵だ。
できれば再び記者となったマリーの活躍を伝える場面も欲しかったよ!(後述)
記事を書く傍ら、マリーはそれでもリストを愛している。このあたりはちょっと男に都合のいい女だな、と思わなくもないけれども、それくらいマリーにとっては一世一代の恋だったということでもあるでしょう。
それに、一途さだけが全てでないことを、これまたサンドちゃんが語ってくれているんだから、もうジョルジュ・サンド、すばらしいわよ、あなた……っ!
話が脱線しましたが、マリーはリストと敵対しようという気持ちはない。ないけれども、記者をやっていく中で、自然と革命の流れに乗っていくことになる。巻き込まれたという言い方よりも、もう少し彼女の場合は積極的でしょう。民衆の前で自分が貴族であることを明かしているので。
それでも「人々の間に壁をなくすこと」と「リストを愛すること」は彼女の中で矛盾なく同居している。それはそれでいいのでしょう。

そして、いよいよ妥当貴族!と革命家たちが乗り込んだ先で、マリーはリストと再会する。
プログラムには「魂の彷徨」とあり、「現実の時と空間を超えて、リストはマリーと再会を果たす」とありますが(このあたり『鎌足』っぽい感じもありましたねw)、私は現実にはあり得なくとも、マリーとの再会は現実で起こったことにしてもよかったかなと(続くショパンの場面が幻想なので、あえてこちらは現実世界でもいいかな)。まあ、とにもかくにも再会する。
かつて愛し合った者が、敵同士で正面から向かい合う……っ! た、たまんねぇー! 緊張感、半端ねぇー!
とてもたぎりましたね! ドキドキしましたね! そして言葉はかわすけれども、手さえ取り合わず、リストと思いが通じないままマリーはセリ下がっていく。良かったよ、この場面。本当に良かった。ドラマティックでした!

そしてサンドに導かれて、リストはもうすぐ命の灯が消えるであろうショパンに出会う。そこで勲章の類いをすべて脱ぎ捨てる。
サンドに導かれてっていうのがいいよね? 本当にサンドがいい仕事するんだよ! しかもドレスなんだよ! さいっこうだな!
ショパンの役は、今まで「動」のイメージが強かったまいてぃ(水美舞斗)でしたが、とても上手に演じていたと思います。このクライマックスも、前半にリストに小言を言う場面もすばらしかった。
そうしてリストはショパンに、他人から与えられた勲章や称号に、自分のコンプレックスに別れを告げる。
サンドと話しながらショパンは亡くなり、「おやすみ、私の王子様」とつぶやく。
サンドちゃん、冒頭では「おはよう、王子様」ってリストに言っているし、まじでヒロインだな。
今回の脚本は本当に台詞のうまさが際立っていたと思います。

一方で、構成のあらが目立ったような気がします。端的に言えば、これは100分には収まりきらないアイデアではないでしょうか。一本物で見たかった。
あらゆる場面が不足しているように思いました。
生田先生は『CASANOVA』よりも、むしろこちらを一本物にすべきだったのでは?と思いました。
ただ、どうやってオリジナルの一本物を劇団側が決めているのかはよくわからず、『CASANOVA』のときも、プログラムでは「一本物で、音楽はドーヴアチアで、何やりますか?」みたいな依頼のされ方だったような気がしますが、そもそもこの依頼の仕方に疑問が残りますし、一概に生田先生が悪いとも思わないのですが、以下、不足していると思った場面についてです。

まずはなんといってもロマン主義芸術家たちの自己紹介ソングがなかったのは惜しい、推しすぎる。
その後の活躍は、時間の都合によって割愛せざるを得ない面があるにしても、それにしても、あー! なんていうこと! こんな宝塚的にも歴史的にも有名どこを集めて! どうして! 自己紹介ソングが! ないの~!
『冬霞』でヴァランタンだってしてくれたよ? この城のみなみなさまを紹介してくれたよ? 「ここにいるやつら、みな金はないけど、影はある」って。なんでジラルタンはしてくれないの?(作品が違うからです)
いいじゃないですか、新聞記者のエミール・ジラルタン(聖乃あすか)に紹介させれば! させてくださいよ!(そして『冬霞』で新聞記者をすすめられたあすかはここで記者として大活躍なのもなんだか嬉しい)
物語の中で、音楽家であるタールベルク(帆澄まひろ)とロッシーニ(一之瀬航季)はなんとなくわかりますが(しかし希波らいと扮するベルリオーズは同じ音楽家なのに、あまり触れられなかった・残念)、問題はそれ以外の人たちですね。
レ・ミゼラブル』『ノートルダムの鐘』などを描いた小説家ヴィクトル・ユゴーのさおたさん(高翔みず希)、近代批評の父と言われるサント=ヴーヴのしぃちゃん(和海しょう)、近代叙情詩の祖といわれるラマルティーヌを演じた峰果とあ、サマセット・モームに「天才」と言わしめたバルザックを演じる芹尚英(今回で退団なのに見せ場がないなんて!)、そして言わずとしれた「民衆を導く女神」(オスカル様のモデルになったといわれている)を描き、一躍有名になったドラクロワ(歴史的にはのちにサンドとも恋仲になるらしい)の侑輝大弥くんですよ。
これだけの歴史上の人物を集めておいて! これだけのスタージェンヌを集めておいて! なぜ自己紹介ソングがない!? ドラクロワは絵筆をもっていたから画家だということはわかりそうですが、その他は難しいかな。譜面や詩集を持っていたりはしていたけれども。
せっかくオランプ(都姫ここちゃん、愛らしかった!)が来たのだから、そこで! やるべき! です!!!

そして後半、いよいよ革命の兆しが明確になってきたとき、芸術家たちは「自分たちのパトロンである貴族を滅ぼすのはちょっと……」みたいに尻込みしていましたが、ジラルタンが「芸術を一部の人たちだけのものにしていていいのか!?」と言ったときには、もうちょっと何か反応をしてほしかった。
確かに芸術ではお腹はふくれない。住む場所も提供してくれない。けれども、間違いなく心の豊かさにつながる。
個人的には最近はやりのSDGsなんかは、この「文化・芸術の保存・育成」という観点が著しく欠落していると思うのですが、よりよく生きるためには誰にとっても絶対に必要なものであるでしょう、芸術や文化って。宝塚って、まさにその芸術の一部でしょう。
その宝塚の芝居の中で、芸術家たちがへっぴり腰のままであることが残念でした。
コロナそのほかで先行き不安しかないこの国で、せめて芝居の中でくらい芸術家たちよ、立ち上がってくれよ。芸術をみんなのものにしようって言ってくれよ、それはひいては宝塚歌劇団の未来の観客を増やすことにつながると思うのです。
これが私は淋しかった。
それを言わないへっぴり腰な芸術家たちは、一方でジュネーヴで心穏やかに暮らすリストとマリーの邪魔をしにくる。だからいいところが全然ないように見えてしまう。
もっとも、こういう場面、『M!』でも見たわ、と思ったけれどもね。あと『マノン』もそうでしたね。
人の恋路にちゃちゃもいれるのは、まあいいですけれども、芸術家としての誇りを忘れさせないであげて……。

邪魔しにこられたリストとマリーですが、このあとにリストがジュネーブで作った曲でタールベルクに圧勝することを考えると、もう少しこの場面に時間を割きたいところ。
前述した通り、少なくとも、ピアノの前に座るリストの絵面が欲しい。ピアノを弾いていなくてもいいんだ。ただ、ピアノの前に座っているだけでもいいんだ。ジュネーヴの生活の中でもリストはピアノからは離れず、優しい安らかな時間を得て、新しい曲のインスピレーションを得ていることがわかるといいなあ。
そうい場面があると、タールベルクとの戦いで曲を弾いているときのリストにもうちょっと観客が近づけるのではないでしょうか。

この逃避している間に作った作品で勝負して勝つ!という流れは『源氏物語』「絵合」さながらですね。
光源氏も須磨に流浪していたときに手慰みに墨で海や波の様子を描き、のちにそれを中宮争いの絵合わせ大会で最後に披露する。
あれは、絵の善し悪しで勝ったというよりは、周囲の貴族に対して「お前たちは、おれをこんなすさんだところに流したんだぞ、一生忘れないからな」という脅し込みで出してきた絵巻であり、当然光源氏側が勝つわけですね。だって脅しだから。
実の母を殺した貴族社会に復讐していく話だから。帝の血はついでいるけれども、臣籍に下った者が覇者となり、貴族社会を崩壊させていく。
それに対してリストは反対に、これを皮切りに貴族社会を上り詰めていく。恋人のマリーはそんなこと、つゆほども期待していないのに。リストはマリーの気持ちを理解しない。マリーもリストの気持ちがわからなくなっていく。お互いに、愛し合っていたのはそれほど遠い昔の話ではなかったはずなのに。
どうして男ってすぐに地位とか名誉とか世間体とか言いだすかね!? こっちは好きな人と静かに暮らせたらそれでいいんですけどね!? それこそ地位や名誉、野心じゃお腹はふくれないよ!怒

リストのいなくなったパリでマリーは再び筆をとる。ダニエル・ステルンとして記事を書く。
このあたりは『ひかりふる路』でマリー・アンヌが「私も自分にできることがしたいの」といって養父母に訴えかける場面と似ています。思いの通ったと思っていた男と別れたあとの女の身の処し方として、非常に立派です。
だからこそ、サンドに譲ってもらった仕事でまずは成功を収める、という場面が欲しかったなと思います。
そして自立できるようになっても、なおリストを愛し続ける態度を描いて欲しかったです。
つまり「恋も仕事も」と欲張る女を描いて欲しかった。だって、今のこの国の社会でそれができる人、どれだけいます?
物語の中でくらい、理想を描いて欲しいんです。

最後にマリーは修道院を訪れる。魂の彷徨で再会してから18年後の出来事です。
ここで急に時間軸が飛んでしまうのはやはりわかりにくいかな、と思います。ナレーションをつけたらどうだろうか。
そして突然リストが神父になっている。もちろん史実としてはそうなのですが、物語の流れの中で、リストが神父に向かう道筋はそれほど丁寧に示されていなかったように思います。
貴族になってもてはやされたものの、そのむなしさに気がつき、革命が起こり、ショパンは亡くなる。
おそらくはその中で神のお導きなるものに気がついたのでしょうけれども、あまりにもヒントがなさすぎたような……。
そこは、やはりユゴーあたりに老年のジャン・バルジャンの心境を最初の方で語らせましょうよ。だって専科からわざわざ来てもらっているんですよ!? かつて組長であったという縁もありますし、せっかくですから主人公の人生の光になってもらいましょうよ。
あるいはマリーがジュネーヴで「人と人との間の壁」というリストの言葉を胸に刻んだように、マリーにも神のなんたるかを語らせて、それをリストの胸に刻ませましょうよ。
幸福のつまったあの時間にかわした言葉によって、二人の人生が導かれていくというのもおもしろいじゃないですか!
突然時間が進んだー! 急に神父になってしまったー! あー!というラストではあまりにももったいない作品ですよ、これ。失意のリストが宗教の道に入るのは、ヨーロッパ人としては必然だったのかもしれません。しかし観客の多くは宗教に疎い日本人ですから、その辺りをもう少し描きこんで欲しかったです。
今すぐどうこうできる問題ではありませんが、劇団側にはやはりオリジナルの芝居の依頼方法からちょっと見直してもらわないとね……観客は妄想で頑張って補うけれども、1回しか見ることのない、見ることのできない客もいるので、そのあたりは1回でわかるようにしていただきたいものです。

雪組『夢介千両みやげ』新人公演感想

雪組新人公演

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大江戸スクランブル『夢介千両みやげ』
原作/山手樹一郎「夢介千両みやげ」
脚本・演出/石田昌也
新人公演担当/生駒玲子

本公演の感想はこちら。

yukiko221b.hatenablog.com


役者はよくやっていますが、脚本は全然ダメだと思っています。

新人公演の配信、見ました。
千秋楽の配信は、花組明治製菓貸切公演ペアチケットプレゼントが当選しましたので、見る予定はありません。
もっとも見る時間があったとしても芝居はそれほど真面目に見るとも思わないのですが……本当、ダーイシは価値観アップデートするつもりがないなら、ショーだけやっていて欲しい。
新人公演担当は生駒玲子先生。確か、『食聖』の新人公演も同じ先生だったと思われます。
あまり変更もされていなかったと思いますが「ダーイシが女性演出家に変更を許すわけはないよな」という意見を見て、なるほどと思いました。
気が早いことですが、花組『殉情』は竹田悠一郞先生に演出を譲りましたが、男性だったら変更が許されるのかな……っていうか変更しないとちょっと今の時代に耐えられないところもありそうな気がしますが。

そんなわけで雪組新人公演。主演はあがち(縣千)。3度目になるのかな。
凱旋門』『CITY HUNTER』と今回ということで、あんまり作品に恵まれていない感じもしますが、そろそろ主演でなくてもよかろうに、とも思いました。
せっかくの新人公演なのだから、もっといろいろな人に活躍の場を与えて欲しい。
場を与えられて成長するという側面もあるでしょう。
もっとも、あがちに伊勢谷の総太郎がニンでないといえばそうなのですが、悪七とかでもよかったと思うんだけどな、ダメなのか。紀城ゆりやもよかったけどね。
田舎者のでくのぼう役というかマッチョ役は似合っていたとは思うけど、思うんだけども……っ!>< でも一禾あおとかも似合ったと思うんだ。
私の好みとして全くあがちが刺さらないので、ちょっと冷たい視線かもしれません。ファンの方、申し訳ありません。
曲はかすみちゃん(華純沙那)にだいぶ助けられていたね。

お銀はかすみちゃん。『CH』では王女役でしたが、大変好印象でした。芝居もうまいよね~。
ザ娘役という可憐なお嬢さんもできるし、今回みたいな気の強い女の子もできて、振れ幅もあっていいなあ。
後半、銀橋を先導するのもよかったな。でもこういう小手先の技術で「娘役を大切にしています」って言われても信じないからな。
次の別箱での活躍が楽しみですな。

さて、伊勢谷の総太郎はおしもおされぬかせきょー(華世京)。濃ゆいお顔と濃ゆいお化粧がよく似合うお役でしたね。
もともとお化粧が濃い方ではありましたが、本役ですこし落ち着いて、新人公演では得意分野がぴったりで。
とにかく顔が派手。あーさ(朝美絢)とはまた違う意味で派手。華やか担当。
もちろんダメ加減はあーさには及ばないのですが、頑張ってやっていたのが好印象でした。
「なんせこの顔、この声、この目力」ってぴったりでした。あーさとはまた違うまなざしの印象っぷりよ。
まあ、楽しい役だからね。楽しくできて良かったと思います。
駄目人間オリンピックに出たら金メダルがとれそうな役だからな。

友人が大好きな聖海由侑はあがちの役・金の字。ピンクマフラーが可愛らしい。
前髪がなかったので、顔の輪郭がはっきりわかる姿でしたが、かわいい感じの顔立ちですね。金髪はどこにしまわれているのだろう。
なんとなくきぃちゃん(真彩希帆)に似ているなと思いました。目元口元のあたりが。
本役があがちなので歌がないのがもったいないくらいでした。聖海くんも歌がうまいのに。そして最後の高笑いは控えめでしたね。
あと下駄なのに、でかいのがよくわかる。そうか、彼女も大きかったのか。さすが男役。「話は最後まで聞きやがれ!」もよかった!
ラストは本公演だと上手からずるずる袴をひきずって出てきたような気がしますが、新人公演ではセンター後ろにいたかな。
よく画面に出てくるので、友人はいっぱい喜んでいました。でも、総太郎もやってほしいとわがままを言っていましたw
そして「ごめんなすって」のところは、見える足が細すぎて、心配になりました。細い……それであんな暴れ回るダンスして大丈夫なのか……。

痩せすぎて心配になったのは夢白あや。
浜次役は、さすがに経験値を感じさせる雰囲気でよかったのですが、頬がこけすぎて心配だよ。
もともとシュッとした感じの子ではあったけれども、やはりコロナで食生活がまだ制限されているのでしょうか。外食ダメとか。
大丈夫かな。
本公演のときも思ったけど、浜次とお銀の場面、しょうもないよな……場面転換の都合なのだろうけれども、いらんな……。
次は和物ですが、もう少し顔がふっくらしていることを祈りますよ。

三太は一禾あお。これまた歌う役でよかったね、という人ですな。
楽しそうにやっていたけれども、やはりかすみちゃんよりも年上に見えてしまうのが難しいな。
というかそらかずき(和希そら)が若々しく見えすぎという問題もあるのでしょう。
お糸ちゃんと手を繋いではけるのは若々しかったわ。

あいみちゃん(愛すみれ)の春駒はありすちゃん(有栖妃華)。
歌は上手いし、顔立ちも可愛いんだけど、あれ、もしかして、あんまり芝居はうまく、な、い……?
あいみちゃんが上手すぎるというのはもちろんありますし、総太郎を縛り付けるところは同期ならではの楽しさがあるのは認めるのですが、なんていうか、そうか、お芝居……頑張れ><

はばまい(音彩唯)は市女笠姿がオープニングで映ったものの、三太の妹ではやりようがないよね……前回新人公演ヒロインをやった人間にあてる役とはとても思えない。
というか、やはりそもそもこの役をタカラジェンヌにやらせるのが許せなさすぎて辛いし、腹が立つ。
画面に映るたびに辛かった。こういうの、本当いらないよ、ダーイシ。

大好きりなくる(莉奈くるみ)は小唄の師匠のお滝。あら素敵。コメディ担当かと思えば(愛すみれを継いでくれ)、黙っていれば美人タイプなのよね。扉を閉めるときの悪い顔がたまらんわい! 色っぽいわ!
本役のともか(希良々うみ)もよかったけど、りなくるも良かったよ~!
「失礼します~」「あ、どうも~じゃなくて!」とか「くまのいとか!」「ないの~!」とか可愛かった。

お松はブーケちゃん(花束ゆめ)。狸メイクって難しいんだな、と改めて思ったよ。
ひまりちゃん(野々花ひまり)は狸メイクなのに、よくあんなに可愛く見える方法見いだしたな、すごい……。
そしてやはりお松の子供のことしかみんな言わねぇ。信じられない。総太郎も。本が問題なんだよ!
お松も総太郎のどこがいいのか、表明する場を奪われている。なんでだよ。
伊勢谷の両親もお松のいいところの一つや二つ言ってやれよ! おかみさんになってくれる人なんやで!

画面のはしにちょいちょい映るすわん(麻花すわん)もしっかり確認。
すわんもそろそろ主演くるかなーどうかなー。
戦いのときに猪崎先生が草履で滑ったのがひやりとしましたが、何事のなくてよかった。危なかった。
草履のときはこういうこともあるのか……と本当に舞台は生ものです。
お糸ちゃんをしばる紐がゆるすぎたのは笑いましたがw
ところで、「オランダお銀」の「オランダ」ってどこから来ているんでしょうね。
「肩書き付きの道中師」というのもね、なんかわかりにくい。「肩書き付き」ってつまり「前科持ち」ということなんでしょうけれども。
そもそも夢介にしたって、「道楽修行」ってどういう意味でしょうね。「人生修行」よりも楽しそうな感じはありますが。
本当、脚本が駄目……タカラジェンヌが可愛そう。
雪組の次回本公演は『蒼穹の昴』。原作は読みましたが、これをなぜ宝塚でやろうと思ったのか謎すぎて、もうめまいがする。
さききわ(彩風咲奈・朝月希和)コンビは大人の雰囲気のあるいいコンビなのに、なぜ作品に恵まれないのだろう……泣いちゃうわ。

ちなみにこの日は花組新人公演の、主演以外のキャスト発表があった日でもありました。
あわちゃん(美羽愛)はくりすちゃん(音くり寿)のお役。
ラストくりすちゃんだから、さぞ歌うでしょう。あわちゃん、たくさんお歌の勉強ができますね。
上演はできなかったけれども、華ちゃん(華優希)から紅緒を、まどか(星風まどか)からキラを、そして今回はくりすちゃんから教えてもらえる。また一回り大きくなることを祈っています。
人物関係図も出ました。本公演では、まどかの小間使いの役ということで、まどかと一緒にたくさん出てくることを祈っています。

月組『Rain on Neptune』感想

月組公演

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ドラマティック・ショースペース『Rain on Neptune』
作・演出/谷貴矢

海ちゃん(海乃美月)のバースデー観劇となりました。ありがてえ!
しかし現地で海ちゃんのスチール写真だけが売り入れていた。納得いかねえ!
そしてタカヤ先生は早くショー作品でデビューしましょう。頼むでえ!

タカヤ先生と月組は『出島小宇宙戦争』『ダル・レークの恋』と続いて今作。全て出演している海ちゃんはタカヤのミューズに違いない!
舞台が舞浜ではあるけれども、コンサートで「みなさーん!」みたいになっているれいこちゃん(月城かなと)が想像しにくく(笑)、またせっかくれいうみコンビだから芝居が見たいと思ったタカヤの気持ちはわかるし、私もそうだけど、やはりちと芝居パートは見にくかったかな……私は一番端で観劇したときもあって、真ん中で向かい合って芝居されるときは、手前の人の後頭部に奥の人の顔が完全に重なってしまい、2人の会話なのに、2人とも表情が見えないというストレスがございました。これは集中力が途切れるから私は苦手なのです(>_<)

とはいえ、良かったところもあります。
デュエットダンスの際、れいこちゃんを見つめる海ちゃんの表情を真正面から拝むことができたり、海ちゃんを見つめるれいこちゃんの眼差しをこれまた真正面から受け止めることになりまして……いやはやあの端正で麗しい顔のとろけたる顔面の破壊力はなかなかでした。心のスケッチブックに一生残るし、墓場まで持っていく。本当、お似合いの相思相愛のカップルなのだなとつくづく思いました。マジでミラクル・ロマンス(あ)。

開演前にプログラムを読む時間がなかったので、1回目はノー知識で見たのですが(なんせツイッターでもショーの感想しか流れて来なかった)、ありがちな、短めのお話ですし、ひたすら美を浴びたという印象しか残りませんでした。
もちろん、シャトーの城、ネプチューンの海、アプリコの杏にはタカヤの愛を感じるし、氷と女王は「普通の人間の娘がヒロインではない」タカヤ節が炸裂していますし、映像も装置も衣装も良かった。良かったのだけど……マッドサイエンティスト(だよね?)がつくるのは、母娘に似せる必要はあったのか、と。
これ、完全に『999』(ショーの歌にもありましたが)とか『エヴァ』とかその系譜じゃないですか。
母ってそんなに神聖な存在ですか、ね……?
途中、トリオン王が陽気な碇ゲンドウにしか見えなくなってつらかった(陽気な碇ゲンドウとは?)。
ジェンヌにアニソン歌わせるにしてもヨシマサみたいにならない(え)あたりはさすがのタカヤなのに、なんちゃってSFだとそちら寄りになってしまうのか。毒素を含む雨が降る星、地球という設定はわりと面白かったと思うのですが、個人的に私はひたすら「家族」という単位に疑問と疑念しかない女なので、すいません、ちょっと引いたわ。
それから、すでに地球が荒廃していて、金もちは他の惑星に移り住んだということも、プログラムを読まないとわからなさそうだな、と。
海ちゃんの美しさはもちろんその分を取り返してはくれたのですが、でも私はそれだけでは満足できない面倒な人間なのよ、ごめんなさい。

ビジュアル公開時から、見たこともないようなれいこちゃんの銀髪?で、おでこがかなり見えるタイプの前髪(オールバックではないのだろうが、あれはなんと言うのだろう)で、眉もキリッと上向きで、こりゃ海ちゃんのビジュアルも期待できるぞ、と。あと主役がスペードという安易な発想でないのもいいぞ、と思っていました。
ベルメールの清楚なお嬢さんは言うまでもなく愛らしかったのですが、ネプチューンの冷たさといったら……!
わりと早くシャトーと意気投合してしまうので(時間の都合)、冷酷無慈悲みたいなネプチューンは本当に最初の方しか拝めないのですが、ビーズのマスクに人魚をイメージしたと思われるブルーのお衣装、そしてあのメイクは本当にすばらしかった。美の光線を浴びたって感じだった。

トリトン王に「ネプチューンに恋をしないこと」と言われて、「そっちはえらく簡単だな。会ったこともない人間にどうやって恋するんだ」みたいなことを言っておきながら、一瞬で恋に落ちるやん?
なんで見せた?と思わないでもないけど、まあこれも時間の都合かな。
マッドサイエンティスト(だよね?)のトリトンにしたって、石を擬人化するのと遺伝子操作するのとではだいぶ違う気もするけれども、まあ時間がないからね?
ネレイドとラリッサはトリトンと地球時代からの知り合いで、むしろマッドな部分の黒幕なの?とも思ってしまったり。
ラストも「俺たちの戦いはまだまだ続く!」と『ジャンプ』の打ち切り漫画のように終わってしまった気もします。
当初の予定とはだいぶ違うものになったということなので、急いで書き直したから仕方がないのかな?
オリジナル版でガッツリみたいよ、別箱でもいいからさ、アンハッピーでもいいからさ、と思ってしまったのでした。
苦言ばかり呈しているようですが、タカヤのこともっとできる!って思っているのは本当ですよ!!!

ザ⭐︎タカヤのヒロインを体現するもう1人はみちるちゃん(彩みちる)のクール。アンドロイドですって。デビュー作を思い出しますな。
何がいいって、女性がロケット?の操縦を担当しているところですよ。英かおと演じるトレフルも天才技師で、故障とかは彼が直すのかもしれませんが、女に機械を扱わせるという発想は、なかなかエンタメでは見ないからさ……いたらいたで「リケジョ」とか言われるしさ……そのあたりを回避しているのはさすがなんだよ!
思えば『元禄』でもキラが時計を作りますし、本当タカヤのそういうところは信頼できる。
なんとなく心が芽生えたところで終わるのも、もうちとなんか展開が欲しい気もしますが、まあ時間がなかったからね。
ところでみちるちゃん。また痩せましたか?
なんかちょっと心配です。彼女の持ち味であるダイナミックなダンスに影響がないといいのだけれども。

そして『ダル・レークの恋』に引き続き主人公の心象風景を表現するシャドーのお役のこありちゃん!(菜々野あり)良かったなあ、良かったよ!
ゲストトークでは「今回は宇宙が舞台ということで、シャトーの影の部分を重力を感じさせない踊りで表現しようと頑張りました」とな。ふぅー! すげーな! 無重力ダンスですってよ!
影の部分を娘役に担当させるというのも、ニクイな、タカヤ! 光と影なら、光が娘役で影が男役になりそうなところかな、と思いまして。
ショーでも「コンパス・オブ・ユア・ハート」で、みちるちゃんとシンメになったり、「コブラ」でからんちゃん(千海華蘭)と組んで踊ったり大活躍でしたね!

そらちゃん(美海そら)もトパーズ役では可愛い髪型しちゃって、さ……!
あれは両サイド三つ編みドーナッツになっているのかな。すごいキュートだった。
毎公演、後ろではいろいろ違うことをやっているのだろなということを感じさせました。これだから芝居の月組はやめられない。
ショーでも「銀河鉄道999」のときにセンター歌うとはちなつに寄り添って踊っていましたね。やだ、世界に発見されちゃう! みんな見て!
一列に並ぶときなんかは、学年の関係でこありちゃんと近くにいることも多く、サイド席だったときは目の前に来てくれることもあって良かったなあ。
でも反対を言うと、サイドは当然といえば当然ですが、本当に下級生ばかりで、もっと下級生を前に出したれや!とも思いました。
それが円形の強みでしょう。もっともショーパートが短かったからかもしれませんが。
もう少し下級生も小出しでいいかな。せっかく別箱ですし。

からんちゃんとやすちゃん(佳城葵)をシンメにしたことは天才でしたね。なんて安定感のある2人なのでしょう。すばらしかったです。
ショーパートでもついつい見てしまう男役さんたちです。
あと、男役といえばまおくん(蘭尚樹)ですよ!
少年シャトーの芝居のうまさよ
本当は主演の少年時代を演じるような学年でもないのでしょうけれども、いやはやうまかったねぇ。そしてベルメール海ちゃんとの組み合わせも良かったね。ベルメールへの執着もすごかったね。
『出島』でも少年カゲヤスでしたし、慣れているのはあるかもしれませんが、良かったなあ。
こちらもショーではつい見てしまいますし、こありちゃんと組んで踊っていたときは歓びに胸が震えましたね。ありがたい。

ショーパートのスタートはちなつ(鳳月杏)から。
さすがの貫禄。からのデュエットダンス。前述した通り、おなかいっぱ〜い! 幸せいっぱ〜い!
このブルーのお衣装も、とてもよいだな、これが……っ! たまんねー!!!
虹は『ロマ劇』にも出てきましたし、一つれいうみを象徴するものになりそうですな。
『ロマ劇』といい、今回といい、次の『ギャツビー』といい、海ちゃんの方がれいこちゃんより身分なり地位なりが高いのもおもしろい。れいこちゃん自身だって、あんなに美しいのに。端正な人に傅かれるヒロインが似合いすぎるのだよな、海ちゃん。

舞浜ですのでねずみの国の曲も。
正直私は「Under the Sea」しかわからなかったけれども、知名度の高い曲のメドレーよりも作品のコンセプトである「海」にちなんだ曲のメドレーの方がいいに決まっている。
海ちゃんの歌った曲は『モアナ』の曲らしいですが、よい曲でしたね。娘役が力強い感じもまたよい。だからタカヤは信頼できる。
あとここの海ちゃん、一回り大きくなったように思えた。いい意味で力が抜けたというか。

アニソンメドレーは「銀河」「宇宙」に関する曲で、こちらは先程とうって変わって全部わかるというオタク。
そしてみちるちゃんが歌う「乙女のポリシー」に合わせて海ちゃんが娘役をひきつれて踊る場面は最高に幸せで泣いた。
あんな可愛い「乙女のポリシー」あるかよ?!
そうだよ、「どんなピンチのときも絶対あきらめない」んだよ! それがセーラー戦士タカラジェンヌの共通点なんだよ!!!
「可憐な乙女のポリシー」だからな! 私も胸に刻むよ!!!
「いつかほんとに出会う大事な人のために」ってもう、海ちゃんは出会ったんだよね〜!と思ったら泣いた。号泣した。でもこれは涙の序曲だった。
最後の「ピッとりりしく」もキュートだよ、みちる。

かーらーの「ムーンライト伝説」。やばいね? あんな艶っぽい上に格好いい「ムーンライト伝説」今まであった? いや、なかったよ。
海ちゃんが歌うんじゃないんかい!!!
「ごめんね、すなおじゃなくて」って、れいこちゃんが歌うんかい!!!
タカヤ、天才か?!?!となりました。落ち着けなかった。情緒不安定だった。「乙女のポリシー」より泣いた。なんでだよ、コンサートだからマスクの替えなんか持ってきてないよ。
すなおじゃないの、知ってるよ。海ちゃんの誕生日プレゼントも本人に直接渡さずに化粧台前に置いたんでしょ?!
しかもさー海ちゃんとデュエットダンスしながら、れいこちゃんが歌うじゃん?
この海ちゃんがもう完全にプリンセス・セレニティね。月のお姫様ですよ!
そして途中から海ちゃんも歌うけど、バックダンサー男役全員集合じゃん?
ナニコレ? エンディミオンがつれてきた地球軍なの? 四天王がいたよね???
ちなつがクンツァイトで、からんちゃんがゾイサイト、るねぴ(夢奈瑠音)がジェダイトで、英かおとくんがネフライトってことでいいですか?
さちかねえさーん(白雪さち花)、クイン・デビル様やってー!
一番の問題は、れいこちゃんはあんまりエンディミオンっぽくないのよね。兵士というより王族っぽいのよね。それなんて『ダル・レークの恋』。
呼吸困難で死ぬと思うくらい泣いたわ。
「月の光は、愛のメッセージ」なのですね、わかります。

そこからのトークタイム。いやはやこのトークタイムがあって良かった。なかったら涙が落ち着くタイミングがなかった。
コンサートならではのこのトークタイムですが、お茶会が開かれない時期にこの時間は実はものすごく貴重なのではないか?と思いました。花組でもやらないかな。あわちゃんのトーク、聞きたい。
私が聞いた回は「れいこちゃんが子供の頃になりたかった夢3択問題」と「海ちゃんにプレゼントするバースデー妄想企画3題」だったのですが、前者、ちなつってこういうの、本当に強いよね……なんでわかったの……『ブリドリ』のゲームとかもちなつは強いイメージがあって、なかなか罰ゲームをさせられない(笑)。
後者はるねぴの妄想が完全に『セラムンS』の百合界のカリスマ天王はるか海王みちるでした。
海辺をオープンカーでデートってね、素敵ですよ。
からんちゃんがしたり顔で浴衣花火プランを提示するのもおもしろかったし(きっと「夏祭り」を再生するのは彼女)、こありちゃんが控えめに、でも一生懸命考えてきたプランを披露するのもかわいかったなあ。

お次は宝塚メドレー。ここからはあんまりコンセプトは関係なくなりますが、でも宝塚の曲をやらないとね!
そして最初はまさかの御庭番衆だよ! ここで蒼紫様に会えるとは夢にも思いませなんだ。心はすっかり操の気持ちでした。この曲が下記にあるような名曲と並べられるとは感慨深い。
またね、ダンサーもよかったのよ、四人。好みかと聞かれると難しいけれども、彩音星凪くん、やっぱり目をひくわ〜。
前後で人間が交替して、お次はちなつがセンターで大勢引き連れて『1789』「誰のために踊らされるか」。れいこちゃんとちなつがすれ違うときにアイコンタクトをとるのがたまらん。そしてこの曲、月組生みんな大好きだな。
『ミーマイ』や『ロミジュリ』はれいうみで見たいと思う作品ではないからこそ、楽曲を聴けたのは良かったかな。いや、曲はいいからさ、やっぱり。
そしてショーメドレー「ル・ポアゾン」「ヒート・ウエーブ」「アパショ」と続く。
「ル・ポアゾン」の海ちゃんの腰反り、すごかったなあ。『川霧の橋』の冒頭でも思ったのですが、どんな体幹しているのやら……。
いろいろな組で上演されていますが、やっぱり月組の曲だなと思ったのは、れいうみで『川霧の橋』を上演したからかもしれません。
「アパショ」は、たぶんれいこちゃんは出たことがないと思うのですが、れいこちゃんの代表作とはまた別の形で、こうして月組の作品として受け継がれていくのでしょう。しみじみ。これぞ、宝塚。

そんなわけで、初めにも言いましたけど、タカヤ先生は早くショーを作りましょう! ショー作家、足りてないし!
私は楽しみにしているよ! いい子で待ってるよ!

外部『The Parlor』感想

外部公演

www.theparlor.jp

『The Parlor』
作・演出/小林香
作曲・編曲/アレクサンダー・セージ・オーエン

世間様がゴールデンウィークの最後の日に配信で視聴することができました。
みやちゃん(美弥るりか)の吉野圭吾とのライブや『ヴェラキッカ』はチケットはあったものの、公演中止となってしまい、見ることができなかった(そして『ヴェラキッカ』は配信も見られなかった)ので、舞台での退団後のみやちゃんに初めて会いました。自分でもまさかすぎると思っている。

まず印象に残っているのが「現実よりものめり込めるゲーム、それよりのめり込める現実」という台詞。
私はゲームでも芝居でも何でも現実に返ってくるもの、影響のあるものが好きなんだなと改めて実感した。
ただそれは作り手だけでなく、当然見る側にも想像力を要するものなんですよね。その意味で本作は良かった。作り手の想像力があらゆるところに息づいていたように思う。

ラストもものすごく良かった。
「ホーム」か「ノマド」か、という選択肢が並ぶ。朱里は、一度は「ホーム」と「ノマド」にするけれども、それでも納得しない。
自分はどちらも選んだけれども、どちらかを選びたい人もいるだろう、という想像力がはたらく。
だから、そうでない選択肢を作ろうと、「ホーム」か「ノマド」か「(空欄)」という画面で終わる。
これ、選択肢が増えるだけであるという点において、夫婦選択制別姓と同じなんですよね。そしてどれを選んでも他人の人権を傷つけることはないという点においても同じ。生きる上での選択肢が増える。
同姓がいい人もいるだろうけれども、別姓がいい人の生きやすさは保障しないのか、誰が傷つくわけでもないのに。
そんなことを思いながら見ました。あのラストは本当に良かった。

朱里のみやちゃんはそりゃもう良かった。
あの髪型、なかなか似合う人はいないでしょう。金髪にメッシュが入っていて、きれいに切りそろえられたおかっぱ。素敵な髪型でした。髪は一生脱がない冠、まさに朱里にぴったりの冠でした。
みやちゃんは首の詰まったお衣装が多かったように思うけれども、あれでどうやって着替えをしていたのだろう。
あの髪型を崩すことなくハイネックを脱いだり着たりするのは難しいのでは?と思いながら見ていましたが、何か秘密があるのかもしれません。あの髪型、ホント可愛かった。誰もが似合う髪型ではないよね。
アバターになったときの衣装も大きめのマントをぐるっと巻いているだけなのに、とてもオシャレに見える。すばらしい。
子供と大人の演技のギャップも良かったし、今更ながら本当に目が大きいな、と。いや、本当に今更なんですけど、ヅカメイクでなくてもはっきりとそうわかるくらいに大きいアーモンドアイだな、と。配信の大画面で見ていたから余計にそう思ったのかもしれません。

千里と灯の2役を演じたかのまり(花乃まりあ)もよかった。
自営業で働くお母さんと大切に箱庭の中で育てられたお嬢さんと、これまただいぶ違う役でしたが、うまかったし、お母さんはなんなら格好良かったよな。
草笛とどこで出会って、どこに惹かれたのかは聞きたいところではありますが。
だってあんなガチガチに家に縛られた男だよ? 千里が美容院で働き続けるのをよしとするわけがない……それは最初からわかっていたような気もしないではないのだが、いかがだろうか……。
もっとも友人にもいますけどね、「家は実家の近くに建てない」と言っていたくせに、自分の家族の前では急に「同居する」とか言い出した奴。婚約破棄して大正解だったと今でも思う。

あみりおばあちゃんはうたこさん(剣幸)。これまたすごい。役者だな、と感じさせられました。
あと着物から洋服への早着替えもビックリしました。帯なんかはマジックテープみたいなものを使っているかもしれませんが、えらい早かった。そして灯パパに許しを乞わないところもすばらしい。「許して欲しいとは言っていません」って。格好いいなあ、千里の母、朱里の祖母というつながりが見えた気がしました。
ところであみりおばあちゃんは漢字で書けば「阿弥莉」ですが、これは当時としてはだいぶ珍しい名前のような気もします。どうだったのでしょう。菩薩のような名前ですな。「阿弥莉」と「阿闍梨」似てますよね。
あみりさんが朱里に言う「母を失っただけでなく、娘を失ったおばあちゃんまで背負うことになった」という台詞がすごい。
なかなか言えることではないでしょう、これ。
いくら相手が大人になってからとはいえ、思っていても口にするのは難しい。
でもその壁を越えられるのがパーラーという場所、人が集まり、語り合う場所ということなのでしょう。あみりさん、立派だった。

ザザという名はおそらく『ラ・カージュ・オ・フォール』からとったのでしょうが、これもよかった、舘形比呂一さん。
コムデギャルソンみたいなボトムスだったからオシャレさんかと思えば、スカートでした。
そして、まさにそのことで千里やあみりさんに救われた張本人で、喫茶店を作るきっかけになった人でした。
背が高いからみんなで歌ったり踊ったりするときは一段と映えていましたね。
こういう役は初めてだったのでしょうか、やりすぎず、やらなさすぎず、ちょうどいい案配のように見えました。

スタイリストのパパは、かつて赤い死に神で見たことのある植原卓也
なぜ娘の学校に抗議しに行かないのか甚だ謎ではありますが、スタイリストのアシスタントというカタギではない仕事をやっている人間の言うことなんて聞き入れてもらえないのかな。あと女の子は黒づくめになるタイミングが必ずと言っていいほどあるよ(笑)。
と、いうかそもそもスタイリストなのに、娘にはピンクを着て欲しいという王道を行く巧は、だからあんたアシスタント止まりなんだよ、と思わせたし、なんならその身長で自分がモデルになった方がいいのでは?と思うくらいでした。
私は割と強要されるまでもなくピンクが昔から好きでしたし、なんなら今でも赤やピンクは好きな色だし、図々しいことに似合う色だとさえ思っているけれども、それでも一時期、紅ちゃんのように全身黒というスタイルはしていたし、妹は何なら私よりも開始時期が早くて期間も長かった気もする。
「らしさ」を押しつけようとする点ではザザと対照ですが、最後に灯さんといい感じになっていて、それはそれで大丈夫か?とも思ってしまいました。巧の方が変わってくれないと、これはどうにもならんぞ。

アリスの役は北川理恵さん。
歌唱力は申し分ないのですが、あの髪型であの服装ならむしろもっと丸顔の子の方が良かったのでは?と思ったものの、結局大して似合もしない好きでもないものを身につけさせられていたというのが肝なのでしょう。
クールカジュアルみたいなのが好きで、そしてよく似合ってた。
「ロリータ系の服を着たいのに、着られない」ではなく「ロリータ系の服を着たくないのに、着せられている」という逆転の考え方もおもしろかったです。同時に、いよいよロリータも市民権を得たのだなとも思いました。

そして出てきただけでわかる坂元健児は灯のパパ。
そしてよく歌う。ええ、全くもって正しい使い方だと思う(笑)。
千里の死に責任を感じていたからこそ、灯が朱里やあみりと会うことを禁止していたのでしょう。それはわかるのですが、でもやっぱりそれでは何の解決にもならないし、前に進めない。向き合わないと解決にならない。おい、コロナ対策のことだぞ、聞いているか、政府や。
草笛は向き合った。朱里の作ったゲームを通して。自分が想像したものとは全く違うものになっていたはずなのに、それを受け入れた。この度量の深さよ。
ただ最後に草笛の言った「すべてのおもちゃをジェンダーフリーにする」というのは果たして現実的なのでしょうか。
おもちゃそのものをジェンダーで振り分けるのではなく、どんなおもちゃも生物的性別関係なく遊んでいても大人が受け入れることが大事なのではないでしょうか。
おもちゃそのものに罪はないかなと。検索すればそれなりに出てきますが、私にはいまいちそれで遊ぶ子供が想像できなくて、ピンとこないというか……想像力の欠如なんでしょうけれども。そのおもちゃで育った子供がどういう思考になるのか、いまいち読めない。
そういう意味では絵本や挿絵みたいなものの影響は大きいかな。
この国はまだ機械の説明書の表紙のイラストに、したり顔で話す父、困り顔でそれを聞く母、興味津々の娘と息子みたいなものが採用されていて、まさに朱里の言うところの「世界の表側」しか見えていないわけですが。とほほ。

朱里の恋人は最後に声だけ出てきますが、名前だけでは性別がわからないあんぽんたんな私は、なるほど恋人は女性だったのか、と大変腑に落ちましたし、自身が裏側の人間だという自覚があるからこそあのゲームに対しては抵抗感があると歌い上げるのでしょう。いや、そうかな?とは思ったけれども、いかんせん、名前だけで性別がわからないの……。
子供は養子でも良いという考えもLAならではでしょうし、そういう考えはもっと広まってもいいのではないかと思います。親子は血がつながっていることが大切なわけではないでしょう。血がつながっていてもダメな親はいる。

ところで冒頭では、ロサンゼルスのことを「LA」と言っていましたが、これは普通なのでしょうか?
「ロス」とは言わないのか? 海外暮らしが長くなるとああなるのかもしれませんが、1回だと少し分かりにくくて、だから何回か出てきたのかな。でも、だったら一度「ロス」と言えば事足りるのでは?とも思っていまいました。つまらないことですいません。

今回は主人公がゲームクリエイターだったこともあり、美容室の上手と下手にそれぞれ壁にもなるスクリーンがあり、センターには大きなスクリーンが上がったり下がったりしましたが、こういう映像にも詳しくならないと今後は舞台美術みたいなこともやりにくくなるのでしょうかね。それはそれで、いわゆる大道具が得意な人の活躍の場を奪ってしまっているような気もしますが。
経費の問題もあるのでしょう。実際に大道具を作るよりも映像を作る方がはるかに安く済むでしょうから。でも重厚感のある柱からしか生まれない雰囲気もあると思うんだ。

それから、朱里がゲームを好きになるきっかけが母の死でないのも良いなと思いました。
母との幸せな思い出の中にゲームも入っているという設定が素敵で、もちろん千里はマリオになりたい朱里に姫を強要することなく、ありのままを受け入れて自身もはさみとポットで戦士になる。幸せなゲームの記憶があってよかった。
これが母の死によって、現実から逃げて、ゲームの世界に没頭するようになり、ゲームクリエイターになった、という設定なら、おそらく「ゲームよりものめり込める現実」という発想にはならないでしょう。この二点において、私はすばらしい作品だと思う。
けれども、公式ホームページで興味をもってくれて一緒に見た夫は、いまいち脚本にはのれなかった模様。
ウルトラマッチョ思想とか嫌いなくせに、こういう女性の系譜みたいな話はそれはそれで受け入れ難いのかな。本人はイデオロギーがすぎると言っています。『経国美談』『雪中梅』のような政治小説的な感じというか、寓意がすぎるというか。あと『情海波瀾』とか。
そんなわけで他の男の人の感想が気になるところではあります。どうなんでしょうね。

あとこっそり言うなら、タイトルは全部大文字ですか?それとも大文字小文字入り交じった形ですか?
こういうのは統一しておかないと、インターネットの時代なんだから、検索に引っかかりにくくなるのではないですか、と余計な心配をしてしまいます。ロゴの見栄えの問題もあるのかもしれませんが……。