ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

花組『EL DESEO』感想

スパイシー・ショー『EL DESEO(エル・デセーオ)』
作・演出:指田珠子

 指田先生のデビュー作『龍の宮物語』が好きです。『冬霞の巴里』も大好きです。『海辺のストルーエンセ』は本当に感謝しかないです。お芝居を作るセンスを信じています。一方でショー『VIOLETOPIA』も楽しかったけれど、物理的にも場面的にも気を抜くとすぐに暗くなるし、スターを魅力的に提示する、芸名のスターさんを魅せるという意識はもう少しあってもいいかなあとも思いました。いや、楽しかったよ、好きだよ、『VIOLETOPIA』。ショーの見方がよくわかっていないのもあると思うけれど、でも「舞台」という一貫したテーマは伝わってきたし、おもしろかったし、好みではあった。だから今回のショーもすごくすごく楽しみにしていた。まさか指田先生がそんなにラテンショーごお好きだとは知りませんでしたが、努めて明るくしようとしているのは伝わってきました。しかし、気を抜くと案の定指田節暗い場面がやってくる。私は好きですよ!笑
 花組は『Jubilee』や『愛 Love Revue !』などクラシカルなショーが続いていましたし、そういうイメージがもともとある組でもあり、そのため今回のラテンショーもおしゃれなラテンショーという印象で、ただ一人星組でガンガン踊るラテンショーに出演し続けてきたかりんさん(極美慎)だけが熱く熱く熱く踊っている印象でした。これはあれですね、さんちゃん(咲城けい)が咲ちゃん(彩風咲奈)のサヨナラショーの「バラのタンゴ」で一人だけオラつき方が違ったのと同じ現象ですね。胡乱極まりないW二番手というシステムの中、片方だけ目立っている(しかも実際は三番手の方が目立っている)のはいいのか、どうか。何のためのスター制度だよって話ですよね。これからずっと二番手羽を背負わせ続けるつもりなのか? 次は『エリザベート』で一本ものだからパレードのときは羽なしだろうけれども、その次からどうしていくつもりなの、本当に。
 で、ただでさえスターを魅力的に見せるのがやや苦手な傾向にある指田先生の作品なのに、前例の極めて少ないシステムで頼んだらさあ……。いや、好きな場面はあるんだよ、でももはやそういう問題ではない。劇団は、花組プロデューサーは一体何を考えているの? どうしたいの? それが見えてこないからこちらもどう反応したらいいか困るんですけど?
 そういうわけでショーも「楽しかった〜!」「満足〜!」という人はここでお別れです。作品が、というよりはどうにも男役娘役の采配に納得いかないところが目立ち、気がついたら酔っ払いの戯言のようになっていました(なお私はお酒が飲めません)。好きな場面はマフィアの場面とハンター以降、編曲「クンバチェロ」、フィナーレです! 後半はとにかく楽しかった!

 プロローグは二番手以下男役が4人、ほのか(聖乃あすか)、かりんさん、だいや(侑輝大弥)、らいと(希涙らいと)。つまりあれだね、はなこ(一之瀬航季)を外したということは、この主演経験者(だいやは予定)でいくってことだね? あんまり期待を持たせても落胆させすぎてもダメだからね?
 そしてマーメードドレスで艶やかに銀橋に登場からの長髪ひとこ(永久輝せあ)が舞台の高いところからバーン!と登場。トップスターらしいいい登場だったと思うのですが、私はダイスケ先生にありがちな男役にドレスを着せて登場させるの、あんまり得意ではなくて。それだけ娘役の出番を奪っているように見えてしまうのでつらい。
 それでもマーメードドレスを着せれば当然男役であろうとも美しかったですし(でかかったなあ……)、ショーの中でマーメードドレスは踊りにくいのであまり出てこない(パレードではよく出てきますが)ので、それはそれで良かったと思うことにいたします。
 でもこのメインのお衣装は格好いい/可愛いのか?と結構疑問なのは私だけか? 今回衣装が総じてあんまり可愛くないなあと思っているからてっきり苦手な先生かと思いきや、しっかり大御所の先生でした。うん、まあ私、大御所の先生でも苦手なときは苦手だったな……涙。
 主題歌終わりからのひとこ一人。こういうところで若手や娘役を起用しようよと思ったらいかんですかね。マフィアの場面の冒頭もひとこ一人じゃん? イメージはだいぶ違うかもしれないけれど、タカラジェンヌたちをもっと見せて欲しいんだよ、私は。

 「海辺ダンスオフ!」場面は若手起用の観光客4組カップルからスタート。しかし、偶数のカップルだから、真ん中に相当する人もおらず、華が足りず、やや物足りない感は個人的にはある。ファンの人、すみません。私は『DEAN』で見つけた常和紅葉ちゃんを見ていました。
 そこから赤いほのかが出てきて、似たような衣装の男役がぞろり。緑のかりんさんが出てきて、『Éclair Brillant』の「ボレロ」場面の衣装と思われる黄緑のスカートと高校生の文化祭で着ているみたいな黒Tシャツの娘役がぞろり。なんでその衣装? みんな切り刻んだり結んだり、アレンジはしていたけれども、そういう話じゃないし、そういうことするから余計に学芸会っぽくみてえしまうんだよ、せっかくの娘役の出番なのに。らいとと踊るあわちゃん(美羽愛)は可愛いんだけど、もはやそういう問題ではない。
 指田先生ならではのストーリー性を重視した場面だと思うし、ショーの中のそういう場面は比較的好きなんだけど、でもなんで男役を率いているのは男役で、娘役を率いているのも男役なの? で、周りがカップルになっていく中、真ん中二人はどうしたらいいの? これもW二番手などという意味不明な制度(あ)の弊害のように見えた。娘役を率いるのは娘役でええやろがい! その上で「ディスティーノ!」すればええやん!などと娘役強火担としては思ってしまう。すみません。

 海辺は変わらず、そのまま、マフィアの場面。うまい場面転換だし、いや、待っていたよ、こういうの。スーツの神様ANJU先生ことヤンさん(安寿ミラ)の振付って最高じゃんか、たぎるぜ……っ!と手に汗握る展開でした。
 ハッと被ってスーツ姿で、ジャケット脱げばベストがこんにちわして(私はこの三揃のベスト姿が大好物すぎて、スパダリにもオーダーメイドさせたくらい)、そして! 脱いだジャケットを! 振り回す〜〜〜!!! ハッ!! 最高かよ!! 最高だな?! 好き。
 でもこのでもほのかとかりんさんはセットで出てくるの。それで、ええんか、さっきも見たで、そのコンビ……(あと2人はなぜかベストごない)それからハットは嬉しいんだけど、2階席からはややお顔が見えにくいので、ハットは素敵なんだけど、もう少し早くとっていただけると助かる。れいん(天城れいん)、まる(美空真瑠)くらいまでしかわからんかった、しょぼん。
 あとね、これは本当に謎案件なんだけど、マフィアの女はどういう人選で選んでいるんだろうね。基本的にはこういうの、前の場面に出ていない人が出るんだと思っているんだけど、私がどうしても気になってしまったのは、ことのちゃん(朝葉ことの)が出ていて、あわちゃんが出ていないこと。
 くりすちゃん(音くり寿)が退団してから劇団はみさきちゃん(星空美咲)を歌い手として、あわちゃんをダンサーとして起用してきたはずです。だから『鴛鴦歌合戦』『GRAND MIRAGE!』のルサンクでは、前者ではみさきちゃんを、後者ではあわちゃんを個別写真でピックアップしていましたし、まどか(星風まどか)が退団してからはバウホール『殉情』のヒロインや『鴛鴦歌合戦』で新人公演ヒロイン経験を活かしてことのちゃんは歌い手枠で花組を支えてきた娘役さんだと思っています。だから『愛 Love Revue !』ではジゴロの場面でメインで歌いましたし、出演が叶いませんでしたがれいちゃん(柚香れい)のコンサート『BE SHINING!!』の公演プログラムと照らし合わせてコンサートを見れば、きっとお糸ちゃん(糸月雪羽)やみこちゃん(愛蘭みこ)がカバーしたんだろうなということはわかります。
 それでマフィアの女はダンスがメインなのに、ことのちゃんを起用してあわちゃんを起用しないの? ねえ、劇団、どうして? その後は中詰ですが、先にことのちゃんが出てきて銀橋を渡るんでしょ、全然わからない……。もちろんみくりん(三空凜花)も両方の場面に出ているけれども、みくりんはダンサーだし、ことのちゃんとはわけが違うと思うんです。
 あんまりこういうことを露骨に書くと嫌がる人もいるとは思うんだけど、結局男役のことで手一杯で娘役にまで目が行き届いていないんじゃないですか、そして娘役を蔑ろにしていたら宝塚に先はないんじゃないんですか、と思われてしまうわけですよ、私みたいな客に。ああ、マフィアの女として踊るあわちゃんを見たかった。でもきっとヤンさんの振付は今後、どこかで見られるでしょう! なんといっても花組の大先輩ですからね!

 そして中詰。ピンクのドレスはまあ可愛い……か? でもそれより気になるのは下級生のホネホネタイツですよ。あれは可愛いんか? ゆめちゃん(彩葉ゆめ)にそんな格好させて2階席にあがらせてええんか?
 銀橋もれいん、まる、夏希真斗、ことのちゃん、ゆうゆ(初音夢)、はづきちゃん(七彩はづき)と6人を一度に渡らせないで、もう少し欲張ってもいいのではなかろうか。時間の問題もあるのだろうけれども、せめて3人ずつで頼むよ、目が足りないんだよ。
 バトンタッチで「よそゆきのスカート 目を背けたわざと」「恋はデリゲート 嘘つきのパレード」と韻を踏んだ歌詞を歌うだいやとあわちゃんが銀橋渡るのは楽しかったです。客席降りも盛り上がりましたね。
 中詰直後はみさきちゃん、はなこ、らいと。ようやくらいとの出番だね?!と思ったのは私だけですか(そしてパレードの階段降りはしっかり4番手でほっとした)。でも娘役はもっと他の生徒を起用してあげてよ、後ろで踊っている生徒もわりと中堅どころじゃないですか。退団者へのはなむけもいいんだけど、じゃあ若手の場面を作ってあげてよ〜!と思ってしまう。
 新人公演は105期がこれで最後。コロナの煽りで新人公演が上演できなかった学年はこれでほとんど新公卒業となるわけですが、一方で先輩が新公を上演していないためにチャンスを勝ち得られなかった学年はまだ残っているのです。この下の学年を一体どう育てていくつもりなのか、これはもはや花組に限った話ではないのではないでしょうか。

 砂漠のハンターの場面は105期生最後で新人公演主演を掴み取った鏡くん(鏡星珠)にようやくスポットが当たります。というか新人公演主演を任せたなら本公演でもそれなりに差別化したお役につけてあげたいところでしたが、お芝居では子知盛が1場面のみであとは平家の郎党の一人という扱いだったので、ここで目立つことができて良かったです。素敵なソロでした。
 しかしここでもほのかとかりんさんがバチバチに戦っているし、薄暗い中、ブルー系のライト担当のあすかと赤系のライト担当のかりんさんではどうしても後者の方に目が入ってしまうが、それはいいのか? 私の贔屓目なのか? 最初にばちばち戦っていた2人(という助数詞でいいかはわかりませんが)ハンター真打ひとこが出てきてからは一緒に戦っている様子を見て「敵の敵は味方。もっと嫌いなものの前ではわたくしたち、仲良くなれますわ」とデボンシァ公爵夫人が脳裏をよぎりました。よっぽど好きだな、私。

 熱帯雨林の新しい編曲「クンバチェロ」はよかったが、ここでもすぐに大勢出てきたので、もう少し生徒さんを小分けにしていただけると嬉しい。芸名の生徒さんが輝いているところを見たい。いや、神々しい場面だから全員集合で!という気持ちもわかるし、これまでにそういう場面があったなら欲張らないんだけど、ここまでにないんだよ、若手や娘役がメインで活躍している場面が、びっくりするくらい。
 ここから先の衣装は素敵だったし、場面も最高だった。安心して見ることができました。フィナーレの娘役の衣装は『異人たちのルネサンス』のフィナーレ衣装でしたね。格好いいシックで素敵なドレスです。階段を登って退場するのも『異人たち〜』と同じでしたね。
 男役群舞の曲も楽しかった記憶があります。オリジナルかな。なんか血湧き肉踊るって感じだった。宝塚のショーはもっとオリジナル曲を使うといいと思うよ! せっかく専属の作曲家さんがいるんだから積極的に使っていこうぜ! ここが宝塚のいいところの一つだと私は思っているんだよ!

 エトワールは今回で残念ながら退団してしまう湖春ひめ花ちゃん。同じく指田先生の『冬霞の巴里』でヒロインの幼少期を演じたことで認知した人も多いのではないでしょうか。御園座『ドンジュアン』も大活躍でした。彼女も歌での起用が多かった娘役さんですので、最後に劇場中に美声を轟かせる機会を得て、本当に良かったと思います。残りの公演も応援しています。ただ、エトワール専用のドレスを作ってやれとは思いました。

 宝塚が好きなのに、こんな話ばかりで申し訳ないし、私も苦しいけれども、改革だってやることなすこと全部明後日の方を向いた見当違いなことばかりやる劇団を(副組長2人は良い考えだと思いましたが)、ひいては阪急を、なかなか信じられないのが辛いものです。私はタカラジェンヌに幸せいっぱいで舞台に立って欲しいんだよ、これは本当だよ。

舞台刀剣乱舞『禺伝 矛盾源氏物語』~再演~感想

舞台刀剣乱舞『禺伝 矛盾源氏物語』~再演~
原案:「刀剣乱舞ONLINE」より(DMM GAMES/NITRO PLUS)
脚本・演出:末満健一
共同演出:吉本考志

 見てきました、舞台刀剣乱舞『禺伝 矛盾源氏物語』再演。
 ちなみにいわゆる刀ステなるものは『虚伝』『ジョ伝』『維伝』『綺伝』『心伝』あたりを見ていて、後輩からは『天伝』『无伝』を見ろと言われているのですが、なんせ大阪の陣に興味がなくて(豊臣嫌い)、気が進まず……でも今回の再演を見て、いよいよ見なければならないと思いました。
 なお、ゲーム『刀剣乱舞』は初期プレイヤーであるものの(初期刀はもちろん加州清光)、毎日ログインすることやエピソードがない単なる鍛錬が退屈で退屈で仕方がなく、早くにドロップアウト。アニメは『花丸』と『活劇』は一通り見たくらいですかね。同じキャラクターでも本丸によって性格が違うとか、刀剣が擬人化した刀剣男士が刀剣を持っていることとか、そもそも刀剣男士をゆかりのある時代に送らなければいいのではないかとか、そんなことばかりが脳裏をよぎるのではまってる〜!という感じは全くない。ただ、基本的にスエミツの物語を作る力を信じているというのはあって(TRUMPシリーズは全て追いかけている)比較的舞台は見ている程度かな。もちろん今回はこれだけ宝塚OBがいるのもある。あとは『源氏物語』関連であることも気になる要素ではある。

 で、なまじ真面目だから(笑)、今回の再演観劇直前に初演の円盤を見返しました。当時も思ったこともありますが、ひとまず書き出してみると以下のような感じです。

①「真の物語」「偽の物語」
 「偽の物語」を付与したら刀剣たちは強くなるのか?という実験をしているのが、顕現実験用疑似本丸という認識だと思われるが、「偽の物語」とは、ご隠居が言うように「古美術商が刀剣の価値を高めるために嘘の物語を付与した」として、その「偽の物語が強い」と刀剣も強くなるということか? けれども「物語が強い」とはどういうこと? 「本物の物語」を知らない人にとって「偽物の物語」が「本物」になってしまう。「真の物語」よりも「偽の物語」を信じる人の方が増えればいいってことか?
 そもそも「真の歴史/物語」「偽の歴史/物語」というけれども、(為政者の都合により)語り継がれ得なかった歴史がある以上、語り継がれた歴史もいわゆる全ての歴史を包括しているわけではなく、だからといって歴史と物語が同等の地平にあるとは言わないけれども、人為的に作り出された事実でない物語を信じる人が多くなれば刀が強くなるって、ホント政府の目論見は一体なんなの、政府って審神者の上司で味方じゃなかったの、政府が一番の敵じゃん……?

②一文字
 上記のことを知りながら、なぜ一文字たちが運営というか見張っているのか? 剣そのものに詳しくないというか、調べてもよく分からないのは刀工のうち「一文字」が今回の公演で特別視されるのは古いからなのか、種類がたくさんあるからのか、格式が高いからなのか、はたまた別の理由なのか。
 こう、シリーズにおける一文字の立ち位置がわからないから、なんでお前ら顕現実験用擬似本丸ということを知っているの? 誰に教えてもらったの? あなたたちにも偽の物語があるでしょ? どうしてあなたたちはそれに飲み込まれないの? 「一文字であることがアイデンティティとして強い」ってどういうこと?となっています。本当、どういうことかね。

③歴史修正主義者の目的
 刀剣男士たちの敵は歴史修正主義者であることは百も承知なんだけど、よく考えてみると「どのように」修正したいのか、いまいち見えてこない。
 現実世界では実際にあった南京虐殺をなかったことにしようとしている日本政府は日本はそんな虐殺なんて酷いことしない!という思想の持ち主であることが(残念ながら)わかるわけですが、例えば蜂起された歴史の続きを紡ごうとする黒田官兵衛なんかは歴史を修正することで自分が生き残りたいってことだとしても、それは個人に限った話で国や政府レベルの話ではないと思うのね。
 けれども顕現実験用擬似本丸を運営しているのは(おそらく)政府で(このあたりのマッチポンプぶりが笑えない)、そうすると修正した後の歴史に明確なビジョンが少なくとも権力者には見えていそうだけど、シリーズ通していないせいか私には見えてこない……。

 というような内容を、もっとまとまりのないくどい形で後輩に送ったんですけど(本当にすみません)、再演をすでに見ていた後輩は「いいから再演見てね!」ということだったので、再演を楽しみに見ました。見たよ、ええ。見たとも。

「お前だったのか、官兵衛……」

 この顕現実験用疑似本丸の主人が明かされたことが再演の意味だと思うのですが、いや、お前かよって話じゃないですか。そして当然官兵衛(ちなみに私にはTRUMPシリーズのクラウスに見えるわけですが)が正規ルートで審神者になれるはずがないので、政府の裏切り者が手を貸したか、違法ルートで審神者になった脱法者かの二通りが考えられるわけですが、前者だったら、それTRUMPシリーズ『グランギニョル』のゲルハルトじゃん!って話ですよ。原初信仰を禁じている血盟議会のお偉いさんが、原初信仰者と深いつながりがあるっていう、あの話じゃないですか。え、じゃあ刀ステ世界にもゲルハルト(概念)がいるってこと??? やっぱり政府が何を考えているのかわからない。というか初演の復習の際ちゃんと官兵衛のことを念頭に置いている私、鋭いな(自画自賛)。
 なお、このあたりは後輩も「政府はよくわかりません」と言っており、アニメ、映画、舞台、ミュージカル、歌舞伎と幅広くメディアミックスすることによってかなり息を伸ばしたコンテンツではあるけれども、初期の刀剣乱舞のゲーム制作者たちもたぶんそんな政府の設定まで細かく考えていないのではないかと思いました。コナンとかでもよくあるよね、メディアミックスされたものから原作に追加される設定、逆輸入みたいな考え方。ただ刀剣男士の長みたいな顔している三日月宗近が実は政府の裏切り者(概念ゲルハルト)や黒田官兵衛とズブズブの仲で、刀剣男士たちを実験に用いて自分の望む歴史に修正しようとしている、みたいな設定だったら地獄ですな、と思ったところです。
 あとはなぜ一文字たちがその任を負わされているのかは謎のままだったかなあ。伝説が多いから? 仲間が多いから? 刀剣として格式が高いから? 偽の物語だと理解した上で「馴染ませる」ってどういうこと?と、このあたりが依然謎のままだし、一文字について調べてもよくわからないのだよね。いかんせん刀剣なるものに興味がなさすぎて。だって、所詮は武器だし。
 武器なんだけど、姫鶴一文字が飛んで戦う初演の演出が好きだったのに、再演ではなくなりましたかね? 私が見逃しただけか。あれ、本当に美しくて大好きでした。「夢告げ」みたいな設定は相変わらずわからなかったけれども。

 ここからは『源氏物語』関連ですごーく細かいことで気になったことをいくつか挙げていこうと思います。1つ目は「公家」という単語。平安時代なら「貴族」でいいのでは? 「公家」は基本的に武士が台頭しないと出てこない言葉だから平安時代後期以降のものなはず。ただ、刀剣はそもそも武家の人間が使うものだから、この刀剣乱舞の世界ではその対比を明らかにするために公家でもいいのか?などと考えました。
 2つ目は「む」の発音。和歌を詠むときに推量の助動詞「む」や「けむ」が出てくるんだけど、そのまま「む」を読んでいるのはどうしても気になる。平安時代における「む」の表記は原則「ん」と読む決まりでしょう。だって「ん」の表記がない時代だから。
 3つ目は参考文献。公演プログラムの最後には参考文献が掲載されいて、初演からは与謝野源氏が追加されたものの、円地文子は相変わらずなし。与謝野は自分で作った和歌を入れているし、かなり飛ばしている現代語訳のに。寂聴訳や田辺訳は変わらずあるけれども、むしろこれらはむしろ翻案であり、かなり省略加筆が多い。原文読めとは思わないが、せめて原典に忠実な訳を読んで欲しい。円地文子、いいよ。
 あとこれはもうどうしようもないことだとも思っているけれども、初演からどうしても気になっているのは光源氏と北山で出会う若紫ちゃんはおかっぱで頼む! 着物は山吹で頼む!って心の底から思うけれども(すみません)。あの場面の光源氏を歌仙兼定(つまり七海ひろき)にしたのは最高の設定だよね、白眉だよ、白眉。そして「紫の」の和歌!最高だ。
 『源氏物語』全五四帖はぜひとも「ごじゅうよじょう」と数えて欲しいのですが、「桐壺」から「夢浮橋」までの歌は日本人みんなが覚えるべき歌だよ(大袈裟)。「ポケモンいえるかな」を歌っている場合ではないよ。そしてプロローグの刀剣男士紹介はいつも一人にスポットライトが当たるので、つい拍手をしてしまいそうになりますが、その後の主題歌に出てくる「石山寺」は結局本編の中では特に回収されなかった印象ですが、どうなんでしょう。なお、紫式部が石山寺に照る月を見て「須磨」巻を書き始めたというのもかなり伝説ですね。観光地として売り出すための。なお、ここまで語っておいてアレですが、別に私は『源氏物語』強火担ではありません。

 初演からキャストが変わらなかった刀剣男子六人は相変わらず美しかったです。かいちゃんは雅だし、大倶利伽羅の翔くん(彩凪翔)は殺陣の量をすごいこなしているし、一文字則宗のあやな(綾鳳華)は一番学年がしたなのに頑張って「じじい」を演じているし、山鳥毛のまお(麻央侑希)はけだるそうな感じが格好いいし、姫鶴一文字のあっきー(澄輝さやと)は根性のあるギャルって感じだし、セーラーウラヌスをかつて演じた汐月しゅうの南泉一文字は相変わらず猫でした。光源氏役のあきら(瀬戸かずや)は優雅なのに扇で戦うし、最後の決戦の場面の衣装は正直意味がよくわからないんだけど、格好いいんだよなあ……せめてあの肩についているのをとればもう少し動きやすくなりそうなんだけど、刀を受けるために必要なのかなあ。前世でどんな徳を積んだら女性として産まれておきながら人生で光源氏と頭中将の両方を演じる運命になるのか、不思議ですが、あきらの美しさなら納得です。
 そして今回は女性陣が一新されました。なんといっても紫式部役のみみちゃん(舞羽美海)よ……っ! いやはや、きっといいだろうと予想して感激したものの、予想以上に良かったです。

 きっとスエミツの中ではこの物語の終わりが見ているのでしょう。早く知りたいものです。そしてTRUMPシリーズも終わりの物語が近づいていますね。こちらも楽しみにしています。

ミュージカル『ISSA in Paris』感想

ミュージカル『ISSA in Paris』
原案・作詞・作曲:モーリー・イェストン
脚本・訳詞:高橋知伽江
演出:藤田俊太郎

 いい芝居だった!!!
 の、ですが、ちょっと長い前置きから入ります。本作自体はTouTubeで主題歌「TALK TALK TOKYOU」を見ていたので知っていました。海宝直人くんのいい声を浴びました。けれどもこれだけだとどんな話はよくわからず、おまけに動画だったので背景の俳句が映写されているのは見えず、本当にただいい曲をただいい声で聴いたなという印象でした。
 そしていつも楽しくブログを拝見しておりますこちらで好印象な旨が語られており(本来観に行く予定の芝居は他人の感想を読まずに行くのですが、こちらは見に行く予定がなかったので読みました)、おもしろそうじゃん!となり、地元で上演することもあり、いそいそとチケットを用意しました。しかし高いね、いちまんごせんえん……あの御園座で……わりとギリギリにチケットをとったとはとても思えないほどいい席で見ましたけどね。そして当日券はあるキーワードをいうと正規の値段の3分の1で買えるというおそろしさでしたね……。
 上記のブログでは「宣伝が下手」な旨も語られておりました。私はこの世の全ての宣伝や広告なるものが苦手で、宣伝や広告の半分はだいたい嘘だとさえ思っているような人間で、本当にいいものは宣伝や広告なんて追い抜いてちゃんと評価されるべきだろ?!と、我ながら超理想主義者なわけですが(資本主義社会でそれが難しいのは百も承知です)(そして御園座はむしろ宣伝が下手だと思っています)、本公演を観た後の私の感想としてはまさしく「宣伝下手やな……」でした。海宝くんが出るのはわかる、主題歌も素敵、岡宮来夢くんはイケコのお気に入りだろうということしか知らず(『1789』や『ロミオとジュリエット』に出演していましたよね、生で見るのは初めてでした。プログラムでは彼を押し出したいのかな?と思いましたが、あんまり印象には残りませんでした、すみません)、小林一茶にある謎の10年、その間にもし一茶がパリに行っていたらちょうどフランス革命の時期だった、というのもポスターの説明でわかる、わかるんだけど、そのわりにポスターはほんわかしていましたよね。桜に波のため、浮世絵風というか。江戸時代が舞台だからそれでもいいのかもしれないけれど、それではこの作品の良さは伝わらないのではないかと思いました。だって浮世絵の話じゃないじゃん!!!
 現代の東京、現代のパリ、18世紀末の江戸、18世紀末のパリの4つの時空間を自由に行ったり来たりする演出はとても素敵で(花組『DAEN』然り私らこの手のものが好き)、でもその4つに共通している、為政者たちによる独占的な政治、それによる貧しさへの抵抗、このあたりが主眼になってくると思うのですが、ポスターでは伝わらない。銃やらデモの看板やらを掲げたらダメなのか? フランス革命は確かに特権階級から政治の決定権を国民が勝ち取ったある種の象徴だったと思いますが、しかし暴力はいかんのです。元首相だってつい最近暗殺されましたが、本当はいかんのです。でもその裁判がきちっと行われていないこの国で、この作品をどう受け取るか、私たちは考えなければならないと思う。高いチケット代を払っているはずなのに寝ている場合ではないのだよ、ワトソンくん。あとおしゃべりも本当にやめてくれ。あとスマホの電源も切って! 芝居は良かったのに、客層が残念すぎたんだよな、今回。
 私な完全にテキスト派な人間のため、ポスターの代案は出せないけれども、でもコレジャナイ感は確かにありました。プロモーション、頼むよ。せっかくいい作品なのに、もったいないよ。

 4つの時間軸を自由に行き来するため、舞台装置(美術/松井るみ)にもかなり工夫が凝らされており、素敵でした。良かった。大きな本棚、真ん中には穴が空いていて、そこから人が出てくるといった高さも生かしていたし、階段があったり、大きさのわりにスムーズに動いたりしていて、舞台装置は本当にすばらしかった。残念ながら白で統一されていた理由は実はよくわからなかったけれども(すみません)、ごちゃごちゃせずかえってシンプルなのが観やすかったと思います。休憩中の俳句のパネルも素敵でした。いや、思わず読んでしまったよね。そして当然ですが歌詞に入っている俳句ばかりでしたね。それにしても、ああいうの、一体誰が書いているのだろうか。筆跡が違うような気もしましたが、おしゃれでした。
 小林一茶は、言っちゃなんですが、俳句が俗っぽいんですよね。松尾芭蕉が俳句界の神みたいなところがあって、与謝蕪村がその系統を継いでいるけれど、一茶は全然違う。だから17音になっていないものもあるし、平気で同じ言葉が繰り返されるし(基本的に17音しか許されていないのに!)、擬音語擬態語も多い。そのあたりがもしかしたらフランスでは受けたのかもしれませんが(フランス語で17音ってどうやって数えるんだ?)、日本ではあんまり人気がないというか教科書に載っていてもつい松尾芭蕉にみんな目がいってしまう。ただ、今回は擬音語擬態語をうまく使っていて、それがダンスみたいという発言につながり、1幕終わりの「そこのけそこのけ」はとても良かったと感じました。しかもこれ、現代のパリに住むルイーズ(潤花)が踊り始めるのですが、17世紀の人間も一緒に出てきて踊るじゃないですか。こういうのがいいんだよなあ、演劇ならではの手法で、小説ではできないじゃないですか。ここがすごく楽しかったです。

 貧しさに対してどのように抵抗するか、フランス革命では民衆が武器を手に取った。「自由を!さもなくば死を!」という文言がお皿にまで書かれるくらい民衆の意識が高まっていた。でも繰り返すように暴力はいかん。一茶はテレーズ(豊原江理佳)に「自分の国も貧しかったけれど、戦おうとは思わなかった、その代わりに俳句を作った」みたいなことを言っていて、まさしく同じようなことを「サラダ記念日」で有名な俵万智が『生きる言葉』の中で書いていました。現実の世界で何か辛いことや苦しいことがあっても、それを短歌の材料にしてやろうと思える、だから短歌をやっていて良かった、みたいなことを書いていたはずです。一茶も同じで、貧しさゆえの辛さを軽快で軽妙で、それこそ松尾芭蕉から見たら非常に俗っぽいふざけた俳句を詠むことで乗り越えてきた、その俳句に助けられた人もいたでしょう。なんせ一茶の俳句はわかりやすいから当時の民に受けたことは想像に容易い。俳句の中でもエンタメっぽいんだよね、一茶。だから時代や場所を共有していないとわかりにくい。ただでさえ俳句は場の文学と呼ばれているのに。
 だからその俳句を後世に伝えるのは難しい。難しいけれども、人間の心の支えになっていたものを語り継がないわけにはいかないはずなのです。私は東日本大震災の時に避難地で「ドラえもん」や「アンパンマン」の曲が歌われたという話が好きなのです。文化の力を信じたいのです。

 海宝くん演じるISSAこと海人(しかし中の人とよく似た名前なのは偶然なのか)は一茶の俳句を歌詞に盛り込んで歌を作ったらバズったけれども「親の七光り」と世間から叩かれてしまい、曲が作れなくなってしまったところから物語はスタートします。いやあそんなに小林一茶の研究者が世間に知られた世界線っていいなあと思いながらも、でもそもそもISSAって名前で音楽活動しているんだから、そんなに叩かれることもないんじゃないの? だいたい一茶に家族を壊されたという割にはその名前を使うんだね?!とかまあいろいろツッコミどころはありましたけれど、最後にちゃんと母(私が見た日は藤咲みどり。彩吹真央とWキャスト)と向き合い、母を受け入れることで、曲が作れるようになったのはありきたりですが、良かったですよね。ここにもちゃんと物語があった。あとはISSAが現代に戻ってきて日本のデモに参加するというところまであると、作品にまとまりがあってさらに良かったかなあとは思うけど。
 そう、弱いのはまさしくここ。母と向き合うことが課題の海人が主人公で、でも作品のメッセージの主眼はそこでないところに私が見つけてしまったから、まとまりがないように見えてしまう。

 本来だったら21世紀の人間と18世紀末の人間が出会うはずがなく、そこを自由に演出しているのが印象深かったですし、海人と小林一茶がが顔を合わせていても自然に話が進み、よくありがちな「お前、誰?」みたいな展開にはならないのね、と思っていたところ、最後の最後で、君誰?みたいな展開になって、しかもそこで「僕はあなたのことを未来で研究してきた女性の息子です」と自己紹介するの、そんなのアリ?!って感じなんだけど、ここがあるから母との確執が解消されたのがわかるし、すっごく変というわけではなかったからまあいいか、とは思える。まあいいかとは思えるんだけど、だからやっぱりこの話は海人の話であって、政治に苦しめられる人の話ではないのか?とはなる。不登校の坊やの話も入っていましたし、テーマを少し欲張りすぎたか、だからポスターをどうしたらいいかわからないし、どの層にむけて宣伝したらいいのかわからなかったのだと思う。主人公の海人があまりにも政治に無関心なように見えて、それゆえにまとまりに欠ける部分があったのだと思います。
 私は「ペンは剣よりも強し」というメッセージを受け取ったけれども、海人がペンを持たない。音楽がペンの代わりになるのか、見えてこない。そこが惜しかったなあと思いました。音楽もペンの代わりになると私は信じたいんだよ。

 テレビ放送もするそうですね。テレビだと背景に映し出される俳句が見えなくてもったいない気もしますが、今この時代に、この国で、より多くの人に見て欲しいと思う、そんな作品でした。

花組『蒼月抄』感想

花組『蒼月抄(そうげつしょう)』-平家終焉の契り-
作・演出/熊倉飛鳥

 熊倉先生が100分で脚本を作り慣れていないせいもあろうが、それ以上にとにかく劇団のW2番手なる怪しいシステムを導入してしまったがために「あと一捻りあればもっとおもしろくなるのに!!!」と暴れ回りたい気分なので、今回の『蒼月抄』を心ゆくまで楽しんだ方はここでお別れいたしましょう。本日はありがとうございました。またのお越しをお待ちしております(?)。
 かなり言いたい放題言っているからね! 覚悟してね!

 まあ、文句を言うにも好きじゃないと語れないというのはあるものの、なんといってもお芝居は一ノ谷の戦いは良かった。本当に良かった……ッ! ここが一番泣いた! 重衡(聖乃あすか)の思いを伝えるために命からがら平家の陣に戻ってきた教経(極美慎)の場面はとてもドラマがあって、涙を流しました(もっとも教経でさえ三種の神器を源氏に「返す」と言っているのはどうかと思いましたが、自分たちの正当性とは?)。南都焼討を経て苦悩し、一度和睦を提案したものの、それでも一族が戦うというのなら自分も最後まで戦うのだという重衡の遺志も伝わって来たし、ずっと戦いたくてうずうずしていて、ようやく戦いの場に出てみれば義経というおもしろい敵に出会い、窮地に陥り、そこで臆病者だと侮っていた重衡が立派に戦っているのを目にして自身も「平家一番の強弓」の名に恥じない戦いをしようと腹を決めて、傷だらけになりながらも戻ってきて重衡の言葉を、思いを伝える教経も本当に良かった。この場面は涙なしにはみられない。見られないんだけど、で、肝心の知盛(永久輝せあ)の思いはいずこ? 知盛は何のために、何と戦っているの? 知盛の物語は明子(星空美咲)との出会い、別れはあるけれども、少なくとも戦場にはない。父清盛(英真なおき)の亡霊に取り憑かれ続けている。清盛のミニチュアじゃん? ようやく清盛から解放されたかと思えば、よりにもよって「とつくに」への夢を捨てる。いや、そこではないでしょう、と思ってしまう。そして最後にとってつけたように「とつくに」への夢を再度明子に語る。どういうこっちゃ。そして平家の名前を残して欲しいと勝手なことを言う。本当に男ってやつは勝手なんだから……っ! 少しは残された者のことも考えて!
 このお芝居は何といっても戦う武士が主人公であるためにセットやお衣装が月組『桜嵐記』を連想させる。俯瞰してものを見ている主人公、戦を避けたがる弟、戦を楽しむ縁者、主人公に取り憑く亡霊、長生きしたものたちの語りなど、他の設定もよく似ていて、そりゃ熊倉先生だって大劇場デビュー作品を、宝塚を去るとおそらく心の中では決めた上で書いただろう上田久美子先生の脚本と比べられたらたまったものではないだろうが、でもよく似ている事実は覆しようがない。
 作中では知盛が「清盛が月、自分はその月が水面に映った存在」と言いますが、主人公がそれじゃダメじゃん。主人公は、確かに物語冒頭は水面の月かもしれないけれども、やっぱり結末では月そのものになって一族を明るく照らしてもらわないと困るわけですよ、だって主人公だよ?! もちろん、映写され続ける月が次第に欠けていく演出は素晴らしかったんだけど(あまりに大き過ぎたし、実際にはあり得ない欠け方をしていたけれども、それ象徴だからよいのです)、本物の月が清盛なら、清盛が死んだ時点で、この話も終わっちゃうじゃん? 知盛は明子を照らし出す月にはなったかもしれないけれども、一族を照らす月に果たして本当になれたといえるだろうか。正行は途中で後醍醐天皇の呪いを断ち切り、父・正成を超えることはなかったかもしれないけれども、少なくとも正成と同じ地平にまでは立って、そして「一人の女のために」と違う道を見つけたじゃない。そういうのが、この知盛にあっただろうか。
 日本物というか武士物にありがちな、最期はスローモーションで戦い、侍烏帽子が取れて、まとめられていた髪が散らばり、刀を交えながら傷つきながら海の底に沈んでいく(セリ下がりでしたが、船から飛び降りた教経の方が目立ってしまわないか? 大丈夫か?)場面はお約束だけど圧巻で、それゆえに一番盛り上がるはずの場面だけど、私は泣けなかった。頼朝も後白河法皇も出てこないこの作品で、知盛が何のために何と戦っているのかが、見えてこなかったから、「見るべきものは見た」と言われても何を?と思ってしまう。共感できない。もったいないなあ。もういっそ知盛の敵は清盛でもよかったんだよ。ありがちだけど、父を乗り越える話でもよかった。まあ、乗り越えた先が破滅ってどうよって感じだけど。

 コロスの使い方はさすがに達者で、赤い着物を着た平家専属特別警察こと禿たち(詩希すみれ、初音夢を筆頭に湖春ひめ花、真澄ゆかりなど可愛かった!)が民を監視する場面があったのは良かったし、この赤をそのままコロスとして重衡の南都焼討や清盛が高熱で亡くなったことを示しているのはとても良かった。演劇ならではの手法で美しかった。
 でもさ、例えば南都焼討の場面は本当にあの解釈で良かった? この作品で重衡は南都に赴き、源氏とあい見える。ここの重衡が甲冑姿でないことには驚いたけれど、もっと気になるのは火をかける理由でしょう。東大寺の大仏まで焼き払った事実は変えられないけれども、平家方が主人公の作品では、あれは途中から風向きが変わってたまたま東大寺にまで火が及んでしまった、だから重衡の重い悩みは深くなるのだ、と解釈されることが多いような気がしますが、今回はもう最初から東大寺に火をかけるつもりでいるじゃないですか、女子供や大仏を焼き払うつもりで指示を出しているじゃないですか、だから重衡に同情できないんですよ。自業自得、因果応報に見えてしまう。でも、平家の人間が主人公の物語で、しかも宝塚的にいえば2番手が演じるお役が、それでてええんか? 主人公と対立もしてないのに? なんなら弟で、思いっきり仲間なのに???
 で、こう考えると知盛の戦う理由もわからず、重衡が自業自得なら一番目立っているのは教経なんですよ。え、劇団や、それでほんまにええんか?と問い詰めたい。

 その上、禿があれだけ長く舞台上にいるなら、禿たちに「平家にあらずんば人にあらず」と言わせればいいんですよ。わざわざ語り手に説明させるほどのことではない。この語り手2人、後高倉上皇(天城れいん)と四条局(朝葉ことの)もいい仕事をしているんだけど、脚本に物語がない。
 彼らは「40年前」の出来事として今回の話を語る。裏を返せば40年経たなければこの出来事は語れなかった、それほど四条局にとっては辛い出来事だったというのはもちろんいいんだけど、でもなんで四条局は後高倉上皇に語るの? 後高倉上皇はまだ守貞親王(彩葉ゆめ)と呼ばれていた頃、平家と共に都落ちし、御座船にこそ乗らなかったものの、壇ノ浦まで着いて行ったのだから、平家の結末は間近で見ていたのだから、わざわざ彼に語る必要はないのではないか。私は配役発表のときにてっきり後高倉上皇が帝になれず出家した自分が帝の父として上皇になる(日本史上前例のないこと)、この浮世のはかなさ、移ろいやすさを嘆いて(なんなら守貞親王は一度天皇になる機会を逃している)、四条局が何事も栄枯盛衰ですから、からの日本人なら誰でも知っている『平家物語』冒頭「祇園精舎の鐘の声」を奏で、知盛登場というプロローグを予想していたので、語り始めるきっかけはないわ、全編通して「祇園精舎の鐘の声」はないわで戸惑ったのですよ。いや、四条局に「平家にあらずんば人にあらず」って言わせている場合ではないでしょう、平家の物語の冒頭はやっぱり「盛者必衰の理を表す」でしょう、頼むよ、これはいるでしょう……っ!
 そして「40年前」とはいつから考えて「40年」なのかというのも結構謎で。例えば壇ノ浦の戦いは1185年とされていて、この40年後なら1225年になるわけだけど、後高倉上皇は1221年に亡くなっているので、おそらく違う。急に12年飛んでやってきた倶利伽羅峠の戦い(これも固有名詞が出てこなかったけれども、それでいいのか?)は1183年だから、同じ理由でこれも難しい。なお、出家したのは1212年で、この40年前は1172年、つまり徳子(美羽愛)(舞、最高でした……っ!)が高倉天皇に入内した年にあたるからぴったりではあるのだけれども、彼が院号を受けたのは承久の乱(1221年)以降のはずだから、四条局が口にする肩書きとは合わない。まあぴったりでなくてもいいし、史実に沿う必要もないんだけど、史実に沿わないなら、そこに物語上の何か納得できる理由が欲しいじゃないですか。そういうのがない。ちなみに帝になったことがないので「上皇様の御代」という言い方もおかしい。
 彼らの存在は本当によかったんだけど、場面転換のつなぎに見えてしまう(そして実際そうだったから集中力が切れる)。出番も多すぎる。もっと、ここぞ!というときだけにしておかないとスパイスとして機能しない。冒頭と結末と壇ノ浦の合戦前くらいにしておかないとピリッとしない。

 物語上納得できる理由がない改変としては、壇ノ浦の戦いに平頼盛(南音あきら)がいたことです。ダメじゃん。壇ノ浦の戦い以降も残った唯一の平家じゃん。頼朝の命乞いをした池禅尼の子供であり、八条院ともつながりがある人物じゃん。清盛の弟でありながら、正妻の子であるため、嫡子であるために可愛がられて、清盛から嫉妬の眼差しを向けられていたのが頼盛じゃん?(なお、これは私の解釈)(こんなことを気にするのは私だけか?)
 オリジナルキャラクターを出してもいいし、絶対に歴史通りにしなければいけないわけではないけれども、そこに理由が見つけられないのがつらい。最後に後高倉上皇が「知盛様に教えて貰ったとおり筆で戦おう」とする姿勢が感じられたのはよかった。おそらく彼が何か文学的なものを書き残した事実はないと思いますし、これが四条局が語る『平家物語』語り本系統に対して、『平家物語』の読み本系統に連なっていくのでしょうが、知盛の言葉によって生きる意味を見つけていく残された者たちという構図はよかった。ただ押し出しが弱い。このメッセージは現代に伝えるべきメッセージだと思う。だからこそ惜しい。現代で『平家物語』を上演する意味を見つけるならまさしくここでしょう。「ペンは剣よりも強し」と。

 だから明子についても最初から「物語が好き」みたいな設定があればいいと思うんですよ。さらさらと和歌を詠むし、「お役目とあらば」舞も舞うし(この台詞、好き!)、「とつくに」の話にすぐに共感して知盛と同じように憧憬するわけだから、最初からそういう設定があれば、彼女が物語を紡ぎ続けることについても説得力が増す。なんなら、どこかで琵琶も演奏したらええんとちゃうか。平家の栄華の場面が少ないから、そういう場面を作ってあげなよ。その上で知盛から「語り継いで欲しい」と言われるのはすごく筋の通ったことじゃん。そして四条局はかなり早い段階でネタバレ、つまり明子であることが明かされますが、あれもいらない。大丈夫、多くの観客は見ればわかるから。わからないかもしれないと不安だとしても、種明かしは最後でいいよ。
 この明子が登場したときと最後は聡明なんだけど、途中およよ?となるのもつらい。キャラクターとして一本筋が通っていないように見える。平家の滅亡を予言し、平家を憎み、母を二度殺すことはできないと言っていたのに、倶利伽羅峠の戦いの結果を知る直前には「平家は勝ちます」みたいな著しく客観性に欠ける発言をする。それは自分も平家の一門になってしまったからといえばそうかもしれないけれど、その後父藤原忠雅(紫門ゆりや)との感動的な別れを挟んで(この場面、必要かと言われれば微妙なんだけど、白眉でした)、一ノ谷の合戦から帰ってきた知盛に「あなただけでも帰ってきてくれてよかった」っていうのは何?という感じがするじゃないですか。いや、これは本当に失礼だと思うけれども、私は男性の描いた女性像だなと思ってしまった。それは違うでしょう。そんなことは言えないでしょう。
 とはいえ、知章(美空真瑠)は立派だった。まるも立派だった。怪力設定をなくしたのは正しかったと思うし、一ノ谷の合戦を初陣に変更したのもよかった。父子としての別れとしては上手いんだけど、じゃあそれが平家の滅亡につながるかといえば、難しい。なんせ栄華の場面が短いから。
 物語の中で効いていたかどうかは難しいですが、時子の「海の下にも都はございます」が安徳天皇(花海凛)の質問「この下には何があるの?」に答える形で、徳子が「新しい都が、主上も共に参りましょう」みたい改変されていたのは、あわちゃんファンとしてはありがたいが、果たして意味があったかどうかは難しいです。三人の入水の場面もセリ下がりでわりとあっさりだったかなあ……。
 そして、ここで義経が救助の声を上げないのは、希波らいとの義経だな!とは思いましたが。いや、あんな義経、見たことなかったから。まだ新しい義経に出会えるんかい、と思ったくらいだったよ。三白眼で戦うの大好き!みたいな。ありゃ、女にも興味なさそうだったぜ。なお、義経の見張り役として頼朝から送られている梶原景時(侑輝大弥)はうっかりすると壇ノ浦の戦いで死んだように見えますが、死んでません、生きています。知盛と相対して戦ったけど、生きているので!!! 少なくとも史実では。

 100分に収めるためには、額縁の御高倉上皇と四条局の舟の場面からのプロローグ、そのまま徳子入内の宴になって(なんせプロローグ、あんまり娘役の出番がないし)、ダブル結婚めでたい!からの禿の場面で語り手なしで彼らに「平家にあらずんば人にあらず」って歌わせて、そこからちょっと時間が飛ぶけれども徳子の子供が帝(安徳天皇)になった祝いの宴と前半でくどいくらいに平家の栄耀栄華をなるべく早巻きで見せて、そこから盆が回って10年後の教経による知章の稽古風景、突然知らされる源氏の蜂起、南都焼討~清盛の死(禿活躍)、倶利伽羅峠の悲報、一ノ谷の戦いの敗戦、最後の逢瀬、語り手再登場、壇ノ浦の戦い、額縁に戻ってくる、くらいの感じで後半は怒涛の戦いの連続ほっとする逢瀬、みたいに描かないと最後の満月の下全員集合で気持ちよく泣けないんだよ!
 いっそおいしい役だったのは教盛でしたかね。前半はあまり出番がありませんでしたが、知章に稽古をつけ、一ノ谷の合戦で敗走し、壇ノ浦の合戦でも義経と戦う(八艘飛びはなかったけれど)。見せ場が結構あったように思います。評定に出られないことをコンプレックスのように思っていたり、父教盛(峰果とわ)に怒られたりするのもいいんだけど、でもこの作品だけ見ていると、「パパ、そんなに怒らんでもええやん?」となってしまう。評定がどういう場なのか語られていないから。もったいないんだよなあ。
 よく考えてみれば知盛なんて歴史上のエピソードまみれの人で、それをそもそも100分に収めるのは難しかったのかもしれませんが、だったら河童の化身が妻とかいうわけのわからん伝説をもつ教盛の方を主人公にしてもよかったように思います。冒頭、初陣で溺れかけたところを助けられて(人魚姫だな)、そのあと人間に化けて妻となり、壇ノ浦の戦いの前に「やはりお前はあのときの」となって、海に一緒に沈んでハッピーエンド(?)もありだと思うんですよね。彼は平家そのものを背負っているわけではないけれども、義経という好敵手もいるわけだから、物語にはなりそうかなあ。
 で、この教経を演じたかりんさんが額縁の冒頭で船頭もやっているわけですが、そんなにおいしい役をいただいちゃっていいんですか?! 私はこの船頭、ひとこの方が良かったと思うよ。二人を導いたのは間違いなく知盛じゃん。そりゃ直後に出番があるとはいえ、なんだかもやるなあ。後の方の出番を調整しておくれよ。しかし、この船頭が最後に「出てこない」というのもいいですね。もう二人は知盛に導かれずとも自分たちでこの先の人生を歩んでいけるってことですよね。いや、いいわあ。

 ところで平家の男性陣はプログラムの家系図にもあったように(ありがたい!)、「○盛」が多いわけですが、みなさんは今回、区別がつきましたかねえ。名前、全然呼ばれないじゃん。中の人を知っている客が観ること前提になってはいまいかと心配しました。それについてもはや『ボー・ブランメル』のピアポントも同じだったんだけど、人物を出すなら、名前をわかるようにしてあげてね、頼むよ。
 オリジナルの脚本だったら似た名前は避けられますが、こういう史実に基づいたお話は難しいですね。どうしても名前がかぶりがちだから。そこのところを混乱させないように、わざと出さなかったのかもしれませんが、名前を出さなくても話ができるなら、そのキャラクターが本当にその芝居で必要かどうかは考え直した方がいいでしょうね。

 まだ観劇予定があるので、もう少し芝居は埋まってくるでしょう。お化粧も上手くなっているでしょう。次はもう少し役者さんたちをしっかり見たいと思います。

月組『雨にじむ渤海』感想

月組公演
亡国封史『雨にじむ渤海(パレ)』
作・演出:平松結有 

 平松先生のデビュー作にして前作『にぎたつの海に月出づ』はとても好きなポスターで、配信でしか見られなかったのですが、とても良い作品で涙を流しながら見た記憶があります。そんな平松先生のこの作品のポスターもまた素敵でしたね。やわからい雰囲気、タイトルに即した「雨」、滲む文字、その中に見えるわずかな光、テ・インソン(礼華はる)におんぶされるセウォン(彩海せら)。全てが美しい情景でした。ショルダータイトル「亡国封史」も素敵です。このショルダータイトルなのに、最低限しか人が死なないのもよい。
 なんの因果か知人のおかげで奇跡的に初日を観劇することができ、また別の友人のおかげでもう一度観劇できる予定なのがありがたいことこの上なく、心して観ようと思います。一方で、予想はしていたことですが、1幕からぐずぐず泣いて、2幕も号泣するというような場面はありませんでしたが(なお『にぎたつ』は智積が蘇我入鹿と戦っている場面はほぼ泣いていたため、画面が見えず、心の眼で見ていた)、断続的にグッとくる場面は1幕より多くあり、タオルハンカチはじっとり、ティッシュも消費、アイシャドウはすっかり落ちた状態でフィナーレを迎えました。隣の人、本当に申し訳なかったです……。
 私は「渤海」と書いてあったら「ぼっかい」と読むタイプの人間で、「パレ」という読み方もあることは今回初めて知りました。たぶん世界史の教科書でも「ぼっかい」と読んでいたのではないかしらん……読み方については苦心した旨が『歌劇』や公演プログラムにも平松先生が書いていました。曰く「韓国ドラマを意識して世界観を作りたい」と。主人公のいる国を「渤海」を「パレ」と読み、その敵である「契丹」を「きったん」と別の国であることが発音でわかるように読んだのは正解だったかもしれません。
 ただ、私は漢字表記のできる国や名前をわざわざ現地の発音に似せて(そして実際は似ても似つかず、現地では全く通用しない)カタカナ表記にすることにはだいぶ懐疑的です。「長江」はやはり「ちょうこう」でしょうし、「黄河」は「こうが」でしょう。「毛沢東」も「もうたくとう」かな。「チャンジアン」「ホワンホー」「マオ・ツォートン」などと言ったところで通用しなような気がします。漢字読みができることがアジアの一体感ではないのか……みたいなことを考えてしまうのです。もっとも私は韓国ドラマを見ないので、なんともいえないのですが、今はカナカナ発音が普通なんですかね……?
 話がそれましたが、そんなわけで『雨にじむ渤海』、良かったです。「雨」が悪い意味で使われていないのも雨女としては嬉しかったです(笑)。

 ポスター発表の際、主なキャストも発表され、そのときはぱるくんとあみちゃんの二人だけだったと思うのですが、改めてホームページを見ると上部にインソンの后役で乃々れいあちゃん(研3!?)の名前もあり、公演プログラムでもあみちゃんと同じサイズで前の方に写真がありましたから、バウヒロインにカウントしてもらえるといいのですが、どうでしょう。カウントしてもらえないとしたら惜しいのではないか、もったいないのではないかと思うほど、この王妃ウンビンという役は丁寧に描かれていたと思います。
 公演プログラムの「物語」のところには四段落目にようやく「ウンビン」の名前が出て来ますが、ホームページの「作品紹介」では冒頭でインソンを暗殺しようとした男の姉であることが最初から明かされ、おそらく平松先生の中でこの作品紹介を書くときにはこの冒頭が明確に頭に浮かんでいたのだろうと思います。だからこそウンビンという登場人物を大切にしたい、大切にしてこの作品を読み解きたいと思ってしまうのです。
 そんなわけでここではウンビンの苦悩、ひいては生き方とそれと対照的に描かれていたセウォンの婚約者クムラン(白河りり)について考えた感想が中心になります。ネタバレいっぱいあるから気をつけてね! いつも思うけど、前置きが長いな。

 テ・インソンは渤海15代目国王であるが、その身は常に暗殺の危機にさらされ、誰のことも信じられず、孤独な日々を送っていた。ある日、これもまた暗殺されかけて川に流されたと思ったら、かつて奴婢であったという民セウォンに助けられ、穏やかな生活を知る。けれども、王宮では王の訃報を機に勢力が分裂、隣国契丹からも戦をふっかけられ、インソンは王として生きるために再び都に戻る決意をする。王宮で分裂した勢力は皇太子(和馬あさ乃)を担ぎ出し実権を握ろうとする執務ムクチョル(夢奈瑠音)とあくまでインソンが生きていることを信じている王妃ウンビンの二つである。武官は多くの数を動かすことはできないが、文官を動かすことのできるムクチョルは頭を使って行動し、王宮の人間の多くも前者に傾いているように見えましたが、そんな中でウンビンはインソンの遺体を見るまではインソンの死を信じない、インソンが帰ってくるまで自分が王座につくと宣言する。いやあ、良かった、この場面、本当に良かったんですよ。
 何が良かったって、ウンビンが「もしかしたらインソンは生きているかもしれない」と思ったこともいいし、「インソンが帰ってきたら自分は殺されるかもしれないけれども、国のためにムルチョルに実権は渡せない」と判断するのも格好良いし、「だからこそ息子は王座につかせない」と決めるのも腹が決まっているし、「短期間であるならば自分が王座につくことができる」と考えた自負も最高なんですよ。とても素晴らしい思考回路じゃないですか、これ。そしてこれをインソンの死が伝えられてすぐにぐるぐる考えられる、そのスピードもすごくないですか。つまりウンビンって優秀なんですよ、これ、マジで声を大にしていいたいんだけど。
 もともと実の弟・カンミョン(月乃だい亜)がなんの拍子か自分の夫を暗殺しようとして、そのために弟は夫の手によって殺され、ウンビンには王宮に強い不信感はあったはずで。おそらくその黒幕がムクチョルであることにも薄々気がついていて(頭良いんですよ、ウンビン)、けれども周りは自分が黒幕であるかのように考える人、つまり敵も多くて……味方は嫁いだときに一緒に国元・新羅を離れたキョン(七城雅)(よかった! 外伝ができるレベル!)だけ。子供たちは当然愛しいが、いつなんどき周りに利用されるかわからない危うい存在でもある。ウンビンはいつも頼りない小舟で王宮という大河を渡っていかなければならない、揺れた存在だった。

 それは嫁いできたときも同じ。第1幕第6場②の婚礼式の回想場面では、知らない異国にやってきて、予定通りの相手と形だけの儀式で婚礼を済ませ、ときめきも何もないまま寝室に入ったと思ったら、突然暗殺部隊がやってきて。インソンは「逃げろ」と言ってくれたが、異国に嫁いできた人間としての覚悟、王妃を務めるのだという覚悟がインソンを一人にはできないと自らも剣を手に取り戦う。いやーこの場面の王妃はのりんちゃん(一乃凜)でしたが、良かったですね。そしてここで王妃が殺陣ができるということが後の話の伏線になっているのも良かったです。
 ウンビンは異国に嫁ぐ人間として訓練されていたのか、最初から自ら剣を持って戦うことがでいる人間だった。もしかしたらそれは反対で、自ら剣を持って戦うことができる女性だったからこそ、異国に嫁がされたのかもしれない。自分の身を最低限守れる人間でないと親だって怖くて異国になぞやれないでしょう。一国の王の娘として生まれた運命を、ウンビンは受け入れている。受け入れているけれども、渤海ではそれに応えてくれる相手がいない。インソンはいつも冷たい。だからウンビンの乗っている舟はいつまでたっても大きくならない。魑魅魍魎が跋扈する王宮の中、小舟のまま揺らいでいる。
 でもこの出来事がウンビンには忘れられない。危ないところから逃がそうとしてくれたインソン、頬に即いた血をぬぐってくれたインソンが、今もインソンの中にいると信じたい。子を二人も為した今でも、インソンが考えていることは、ウンビンには正直よくわからない。わからなくてもインソンを切り捨てることなどウンビンにはできなかった。「インソンは必ず自分を守ってくれる」とまでは言い切れない、でももしかしたら、とも思う。インソン不在の今、子供達を利用されないためにも立ち上がるべきは自分なのだ、と。キャー格好いい! これがムクチョルにはない王家の血筋の風格ってやつですかね。私、高貴なる血筋に弱いんですよね、知ってる……。本当、ムクチョルみたいな悪い奴が成敗されたのはよかった。せめてフィクションくらいはそうであって欲しい。現実がそうでないのが悲しすぎる。
 おそらく周りが敵ばかりの中、外交大使ペグ(真弘蓮)が味方であってくれるのも嬉しい。外交大使だから、もしかしたらウンビンとインソンの結婚も彼が取り計らったのかも知れません。そして将軍ヒョシン(柊木絢斗)は最初こそ疑うものの、自分が助けられてからはウンビンを信頼していました。だからキョンに将軍の証を預ける。二人がウンビンを信じてくれたことが王宮の中にウンビンをどれだけ励ましてくれただろうか。ありがとう。

 1幕終わり、インソンが王宮に帰ってきた。自分が不在の間、王座についた人間をインソンは殺すだろうとムクチョルも思うし、敵国の主将・契丹の王である耶律阿呆機(一樹千尋)も同じように考える。けれども帰ってきたインソンはセウォンとの交流を経て、ウンビンが自分のことをないがしろにしたことがなかったことに気がつき、セウォンの助言通りに心を開こうと決意している。当然許すに決まっている、と観客は思うわけですが、ここは結構ひっぱる(笑)。
 1幕終わりで、ウンビンの縄を解いて、抱きしめて、みんなが驚いて幕!でよかったと思うのですが、ここではインソンがウンビンの縄に手をかけたあたりで終わっていて、2幕冒頭同じ場面から始まり、縄を解いて抱きしめる、という形でした。大丈夫だよ、観客はもうインソンが許すってわかっているんだから、さっさと周りの貴族たちを驚かせてやろうぜ!とせっかちな私なんかは思ってしますが、ここはしっかりためる演出でした。なんならひっぱるから、え、もしかして殺すの?と思ったりもしてしまった。
 でももちろんそんなことはなく。一方で許されたからといって、ウンビンの舟は相変わらず小さいまま。インソンはいつも言葉が足りないから、なぜ自分が許されたのか、このときはいまいちわからない。相変わらずウンビンにとってインソンは何を考えているのかいまいちよくわからない不可解な人間のまま。けれども、何かが変わろうとしているのかもれしれないと期待をするには充分すぎる出来事でもあったことは確かだったと思うのです。

 ウンビンの小舟が徐々に大きくなるのは、セウォンが捕まって、インソンと交流したことを知り、「豆の味」の話をインソンにしてから。インソンはウンビンに背中を預けて戦うに至る。国のために戦う皇帝の力になっていると実感した王妃の小舟は大きくなり、インソンと心の交流が初めて可能になったのではないでしょうか。れいあちゃんの殺陣もよく頑張ったよね。戦いやすい衣装に替わったのもよきでした。ウンビンの心はいつだって戦っていた。お飾りの王妃などではなかった。自らも戦える王妃であることが視覚化されたようで嬉しかったです。
 民を高麗に逃がす、新しい国の高麗は受け入れてくれるだろうという決断は正しく、戦って命を落とすよりもよほど賢い選択だと思います。民あっての国なのです、聞いていますか、自民党。「国のために死んでいい人などいない」のですよ。そしてインソンはウンビンをも逃がそうとする。渤海の歴史書を渡して、あなたには生き延びて欲しいと伝える。ウンビンはようやく報われたと思ったのではないでしょうか。ここにきてウンビンはもう揺らがない。心の小舟はインソンの支えで大きくなったから。それはウンビンにとって間違いなく幸せな一瞬で、でもこれは永遠ではないことをウンビンは知っていた。

 ウンビンの小舟は大きくなったけれども、その賢さゆえにインソンに心残りがあることも見抜いている。セウォンに会いたいと思っているのだ、と。会ってどうなるかはわからない。けれども、契丹の進路を知らせてくれたのはセウォンであり、そのために民を逃がす日程を組むことができたのだから、ウンビンとしても感謝はしている。自分が感謝しているくらいなのだから、命を拾われ、インソンの行動にも影響を与えたセウォンに、インソンが会いたがっていることくらい、わかっている。だから歴史書を火の中に投げ捨てる。「あなたはもう王ではない」と宣言する。「陛下」ではなく「テ・インソン」と呼びかけ、個としてインソンを見つめる。とキャー!格好良い!(2回目)
 インソンはそれで解き放たれた。けれどもウンビンは自分の判断に泣かずにはいられない。インソンには「あなたを愛する人間にとってあなたが幸せになることが大切」と伝え、一方で「自分以外の人を思っているインソンの隣にいるのは耐えられない」ともつぶやう。だからそこにキョンがいて良かった。ありがとう、キョン。外伝やろうよ。この場面、泣いたな、涙なしには見られないんだよ。大きくなったけれどもこの舟は片割れを失う。キョンとまた新しい舟を気づいて欲しい。この、ウンビンが生き残るというのが良かった。ツイッターではネタバレになるかと思って言えなかったのですが、インソンが王でなくなったら、ウンビンも王妃ではなくなり、別に混乱に乗じて亡くなってしまった人として描くこともできたと思うのですが、ウンビンは少なくとも作中では生き残る。これがいい。女の命を無駄にしていない感じがたまらなくいい。平松先生、ありがとう。

 セウォンはセウォンで高麗に逃げるときに都が燃えているのを見て、インソンに会わなければと確信する。クムランはおもしろくない。自分たちに世話になっておきながら、礼も言わずに勝手に消えた皇帝になどクムランは興味がない。貧しくても毎日を笑って暮らせればそれでいい、それは彼女の本心だった。戦争などおっぱじめた皇帝にクムランは同情しない。私もしない。
 けれどもセウォンは違う。今、インソンに会わなければ、と思う。思ってしまう。無事に逃げられたのか、確認したくなってしまう。セウォンにとってインソンは皇帝である前に一人の人間だった。インソンにもう一度会うために自ら危険をおかし、契丹の仲間入りをし、渤海の都の牢にまで入れられた男ですからね(笑)。あみちゃん、かつて奴婢だったとは思えない剣さばきだったからね、契丹の王子突欲(瑠皇りあ)を脅すなんて、そんな……! インソンへの思いが暴走していますね!
 インソンをセウォンをいわゆるBLみたいに読み解く人もいるでしょうけれども、私はそうは思いませんでした。台詞の中に「人として」と言っちゃっているので、おそらく平松先生にもその意図は明確にはないように思われます(台詞でわからせる、という形でいいかどうかはまた別の問題ですが)。一匹の手負いの狼が一匹の兎に癒やされた、というそういう話でしょう。セウォンが女性だったら微妙に成り立たないところもあるように思いますし、普遍的な人間のお話、のように受け取りました。とはいえ、友愛には収まりきらない二人の関係は、既存の言葉では言い表せないのかもしれません。友愛以上恋愛未満といったところでしょうか。

 お芝居の中に二つカップルが出てくると、似たり寄ったりな話になってしまうこともあるけれど、インソンとウンビン、セウォンとクムランは全然違うタイプのカップルとして描かれているのも印象的でした。ウンビンはインソンを許す、けれども泣かずにはいられない。クムランは叫んでセウォンを止める、けれどもセウォンを止めることはできない。それは王族と民という立場の違いでもあるかもしれませんが、どちらも真摯な思いが伝わってきて、そうだよね、そうだよねと私なんかはウンビンにもクムランにも感情移入して泣いてしまう。四人で歌う曲は結末を予見しているようで涙なしには聞けない。
 ウンビンだって行かないでと素直に乞うことができたらどれだけ良かっただろう。でも彼女はそれをしない。インソンと心を通わすことができたのはセウォンのおかげだから。だからといって行かないでというクムランが弱いわけでも愚かなわけでもない。心を通わせていたと思っていたセウォンをインソンに取られたような気がするのは当然の話だと思うから。どちらにも納得できる。だからこそ私も悲しい。どんな形であれ愛する人と一緒にいられないのは悲しいに決まっているのだから。
 ウンビンはキョンと幸せにささやかに暮らしていくでしょう。クムランにもそういう人が現れることを祈るばかりです。考えてみれば作中で幸せなカップルはセウォンの妹・ヨウォン(帆華なつ海)とスジュン(飛翔れいや)(『花の業平』から期待してます!)だけかもしれません。この二人も高麗で幸せになって欲しいと思いますが、幸せになってくれるとなぜか自信をもって言えます(笑)。

 結末でセウォンとインソンは燃える都を一緒に見る。雨が降ってきて、いつかと同じようにセウォンを雨から守ろうとする。その後二人が一緒に高麗に逃げるのか、どうかはわかりませんが、あの場面で終わっているのはとても印象に残りました。良かったです。ささやかで静かに終わっていくのが雨に溶けていくようで美しかったです。婚礼衣装が赤ばかりの中、結末の二人が赤いのもしびれる。国がなくなたって人は生きていく。白眉だわ……っ! そのあとフィナーレがあるのも良かったです。あみちゃんに綺麗なおへべを着せてくれてありがとう。れいあちゃんもデュエットダンスがあって良きでした。
 もう一度見るのが楽しみです。バウ公演のみだから円盤化はないだろうけれども、脚本くらい発売してくれてもいいのよ、劇団……。

雪組『ボー・ブランメル~美しすぎた男~』感想

雪組公演
ミュージカル・ロマン『ボー・ブランメル~美しすぎた男~』
作・演出:生田大和
作曲:フランク・ワイルドホーン

 結構頑張って自分でもチケット取りをしたつもりなのですが、友会は抽選はちっとも友になってくれないし(新しいシステムになってから全く当たらなくなった)、貸切公演は行けない日だったり(私だって仕事より観劇したいよ)、なんとか大劇場で1枚譲っていただき、その後すぐにリセールでもう1度運良く観劇できた、という感じです。もう東京なんて当然当たらない。そもそも東京公演は平日だとマチネ公演しか行けないし(遠征民の辛さよ……)、月曜日が休演日になってからというものの、祝日さえも公演してくれないから(星組バウ「にぎたつの海に月出づ」が月曜祝日休演だったときに胃が痛くなったことを思い出す)、ますます行ける日は限られ、倍率は高くなっていく……。働き方改革はもちろん大事で、タカラジェンヌだって身体資本なわけですから、充分にお休みは取って欲しい、取って欲しいんだけど、何も祝日を休演にすることないだろう、阪急。代わりに火曜日にお休みでいいじゃん、飲食店とか美容室とかそういうところ多いじゃん、頼むよ、本当に、見たいんだよ……っ!
 と、まあこれだけ見たい見たいと騒ぐことのできる本公演のオリジナル脚本の作品に巡り会えたことの幸せを一方では噛みしめています。最近、個人的にはからきし刺さるお芝居が少なかったから……いつもこうであって欲しいとさえ思う。チケットはなかなか取れなくなってしまうかもしれないけれど、それが本来あるべき宝塚歌劇団の姿であるとさえ思う。オリジナルやってくれ、マジで。当て書きしてくれよ、頼むよ、なんのための座付き演出家なの。
 東京のリセールは本当に瞬く間になくなっていきますね。もはや私には●がネッシーにしか見えなくなってきました。「5分毎に時報を鳴らしてくれるな」と家人からは呆れられています。なお、そんな家人は金子國義絵表紙の『ダンディズム 栄光と悲惨』の文庫本を持っています。ひぃー!なんで格好いい表紙なの!というわけで予習はバッチリでした(?)。

 そんなわけでボー・ブランメル。副題の「美しすぎた男」は、まあ物理的にもそりゃそうなんだろうけれども、やっぱりブランメルの生き方にこそふわさしい言葉だと思います。一度社交界の味を覚えてしまった父(諏訪さき)は、追放されたあとも「壁の向こう」に戻ることを望み、息子のリトル・ジョージ(愛陽みち)に「壁の向こう」の話を聞かせ続け、それはやがて呪いとなり、亡くなった父の遺産を目の当たりにした大人ジョージ(朝美絢)は父が叶えられなかったことを叶えることが父への復讐だと考えるようになり、それまでの「すべて」を捨てて、ピアポント(縣千)たちの力を借りつつ、社交界に顔を出すようにになり、ついには皇太子(瀬央ゆりあ)の友人の地位を手に入れ、社交界の頂点に立つ。「すべて」を手に入れたかのように見えたが、皇太子の愛人ハリエット(夢白あや)との一件が露見し、ロンドンを離れる決意をする。ブランメルにとって「すべて」とは金でも地位でも名誉でもなく、ハリエット、つまりは愛情だったのだ。それに気がついたとき、亡霊もロココの夢も消えていく。美しい構成です。すばらしい。王道だけど、しっかり魅せてくれました。
 ところで、ハリエットにとっての「すべて」とは一体なんだったのでしょう。今回は、そんなことを中心に考えた感想です。

 ハリエットはもともと庶民の芝居小屋の女優で、家がお金持ちだったわけでも有力な後見人が最初からいたわけでもない。だから本当に実力でここまでやってきた女性なのでしょう。そこには当然つらいこともたくさんあった。おそらくはパトロンとなるべき男性を複数渡り歩き、あるいは他の有力なパトロンのいる女優から嫌がらせもされ、生まれや育ちの卑しさを嘲笑され、それでも耐えに耐えてようやく皇太子の寵姫という何にも脅かされることのない地位を手に入れた。ここまでの彼女の忍耐力はすさまじいものがある。
 なぜ彼女はそれほどまでに我慢できたのだろうか。それは芝居小屋でかつて愛し合ったジョージ・ブランメルの存在があったのではないか。愛し合っていた、少なくとも自分はそう思っていたのに、ある日突然彼は姿を消した。誰にも、何も告げずに消え去った。しばらくは待っていた。ジョージが病気かけがにでもなったのではないかとあるはずのないことまで心配した。けれども途中で待ち続けることにも疲れてしまった。一方で、ジョージが生きているのなら、自分が有名になれば見つけてくれるのではないか、会えなくてもいい、自分の無事が伝えられれば、そんな期待がハリエットの中になかったとは思わない。
 しかし、そう思いながら女優の道を直走り続けていくこともまた辛いことで。心の中ではジョージの幻想を追い求めながら、しかしパトロンの腕に抱かれる、というのはおそらく皇太子が初めての経験ではないはず。ハリエットはいつも引き裂かれそうだった。愛情と夢のはざまで。ことに皇太子の場合はその悩みも深かったでしょう。パトロンがあまりにも大きすぎるから。再会したとして、パトロンが皇太子ではなかったら、彼女の苦しみはここまでではなかったはず。再会してしまったのはまさに「今じゃない」タイミングだった。これ以上ないくらい最悪のタイミングだった。板挟みの苦しみを示す鏡を使ったシーンは秀逸でしたね。舞台写真にあの場面を選んだ夢白ちゃんのセンスもすばらしかった。
 ハリエットがジョージを想い続けていたのは多くの人が異論はないと思うのだけれども、では皇太子のことは?となると意見が分かれるかもしれません。私はパトロンとして芸術に理解があって、自分の芸を褒めてくれるならそれが皇太子であろうとなかろうと基本的に悪い気はしないのではないかと思うし、しつこいとか臭いとか(笑)そういう生理的な嫌さがなければ、ジョージへの愛情とは違うかもしれないけれど、この愛情に報いたいと思うのは自然ではなかろうかと思う。もっとも今回は相手が皇太子だったので、関係が非対称であると言えばそうなんだけど、そこをハリエットがどう考えていたのかはいまいち読めない。
 私は女性を簡単に恋愛のことしか考えられない、好きな人のことしか考えられない恋愛至上主義者として描かれるのは本当に苦手なのですが、それでもハリエットはジョージの存在を心のどこかで支えにしてきたのではないかと思う。だからこそジョージとのつながりである女優もやめることができなかった。それはもちろん自分の夢であるというのもそうなんだけど、女優さえやっていれば、いつかどこかでジョージが見つけれてくるかも、あわよくば再会できるかもと潜在的に思っていたのではないでしょうか。反面、皇太子のことも憎からず思っていた。それは両立することだと思う。
 そして、ようやく再会できた。皇太子の愛人とやった今のタイミングなら、いっそ再会しなかった方が良かったかもしれない。けれどもジョージの無事を自分の目で、自分の耳で確かめることができたというのはハリエットにどれほどの安堵をもたらしただろうか。会えて確かに嬉しかったはずなんです。だからロンドン郊外の狩の場面では蓋をしていた気持ちがあふれ出す。それは決して過去に遡るものではなく、未来へと続く愛情の発露だった。少なくとも、あの森の中ではそう思えた。あの一瞬が、彼らにとっての永遠だった。

 けれどもデボンシァ公爵夫人(華純沙那)に罠を仕掛けられ、キャロライン皇太子妃(音彩唯)に伝わり、あっという間にブランメルの地位は失墜する。ブランメルの一世一代の大芝居をする場面で、皇太子がハリエットの言葉を信じず、ブランメルの言葉だけを信じているあたり(ホモソーシャルって感じだよね、あの態度)、ハリエットだっていつかはデヴォンシア公爵夫人のようにお払い箱になる運命は見えていた。それがわからないハリエットでもなかったと思う。けれどもその日は思いの外、早くに来てしまった。
 この場面、いいですよね~本当に涙を堪えられない。ハリエットはここで「私が愛したのはブランメルではない」というけれど、これはある意味で真実の言葉に違いない(なお、ここでいつも涙がせき止められなくなる)。だってハリエットが愛したのは確かに社交界ボー・ブランメルではなく、芝居小屋で出会ったジョージだったから。そして皇太子は男であるブランメルの言葉しか信用しないという。男の身勝手さよ……これ、本当の男性に演じられたら腹が立つ場面だなとも思いました。
 ブランメルは国外追放、ハリエットは事実上女優として皇太子という誰にも負けない後見人を失ってしまった。「すべて」をなくしたと思っていたブランメルはここでようやく、気がつく。自分の「すべて」はハリエットの幸せだ、と。だからジェンキンソン(華世京)に駆け引きを持ち出し、ハリエットの後見になってくれるよう頼む。その地位と家柄にかけて。いや~この取引もうまいですよね。最高だ。そしてちゃんとそれに応じるジェンキンソンも素敵だ。人間としてできている。ほら、これがピアポントやその仲間たちだったら、きっとこうはならないじゃないですか。

 ハリエットは再びジョージに捨てられ、皇太子というパトロンも失い、ブランメルもロンドンを離れてしまう。そんな中、それでも自分にできることは「舞台に立つこと」だと気がついたのだと思います。つまり、仕事をし続ける、という選択をとった。これがハリエットの「すべて」の答えではないでしょうか。皇太子という後ろ盾を失って、迷いはあったかもしれない、けれども、ジェンキンソンがなぜか突然新しい後見人になってくれて、赤い花束を見て、決心がついたんだと思います。もう退路はない、自分は仕事を続けていくのだという覚悟ができたように見えました。女優を続けることがジョージへの愛に報いることなのだ、と。
 それはもちろん今回で残念ながら退団してしまう夢白ちゃん自身とも重なっている。退路がない。引き返せない。でもそれでいいのだ、と前向きに、顔を上げて、赤い花束をもって銀橋を渡ることのなんと美しいことよ……っ!
 多くの現実が、そして作品が「男は仕事、女は愛情」みたいな捉え方、描き方をするのに対して、この作品は全くの反対をいく。そこが潔くて格好良くて気持ちのよい作品でした。そしてそれぞれがそれぞれの美学として見事に描けていると思いました。いや、本当に良い作品でした。
 最後はブランメルも真っ白なお衣装だからうっかりするとあーさもこれで退団か?と思ってしまいますが、美しいラストでした。圧巻。まるで怪盗キッドのような、あの白さよ。最後に捨てられるシルクハットに、わたしはなりたいよ……っ!

 もっとも作劇としては、もう少し早めにいろいろなキャラクターの名前を出してくれるとありがたいかな~。おそろしく名前が出てこないんだよ、ピアポント。三番手なのに。全然出てこないんだよ、いや、こっちはわかって見ているけど、でもそういう客ばかりではないからね? ジェンキンソンも少ないかな。ブルーベリーとかストロベリーとかサルスベリ―とか遊んでなくていいから、必要なキャラクターの名前はちゃんとわかるようにしてくれ、と思います。組長(奏乃はると)やはいちゃん(眞ノ宮るい)の王党派のホイッグ党の出番はあれでよかったのか、与党のトーリー党はジェンキンソン以外にあんまり目立たなかったけれど、それでいいのか。まなはる(真那春人)やさんちゃん(咲城けい)はもちょっと目立ってもいいのではないかとか思ってしまう。もったいたかったような。
 娘でいえば、今回で退団のあんこさん(杏野このみ)、りなくる(莉奈くるみ)はどこにいてもそりゃすぐわかるんだけど、そういうこととピックアップされることは違うと思うし、まあショーで見せ場をもらったからよしとするか……すわん(麻話すわん)もすぐ見つけられるけれども、もう少し起用があってもいいと思うし、皇太子妃付侍女なら白綺華ちゃんにもっと見せ場作らんかい!とも思ってしまう。わがままですみません。
 一方で、ロココの夢なるコロスは最&高で、パンツスタイルとドレススタイルの半分ずつの衣装やどこからともなく現れる黒い紐(衣装にくっついていて驚いた)なんかは非常に象徴的に使われていたと思います。あのお化粧も難しいだろうな。ツイッターでつぶやきましたが、おそらくこの黒い紐が身分社会制度の中の人々の壁の象徴であり、花組『巡礼の年』でいうところの壁なのでしょう。「生田大和における壁の象徴」みたいな話が一本書けそうですね。もう少し拡大解釈すれば宙組シャーロック・ホームズ』でいうところの鎖にもつながりそう。『シルクロード』はショーですが、こちらも鎖が出てきましたね。『鎌足』には恵尺が司る中間世界がありましたが、あれはまたちょっと別かな。そして壁も鎖もない世界、それが雪組『ボイルド・ドイル・オンザ・トイル・トレイル』だったのではないでしょうか。
 私が夢白ちゃんとスターとしていいなと思ったのは結構遅くて(ファンの方、本当にすみません)、まさしくこの『ボイルド~』でした。なんせみちるやひまりが好きだったということもあるのですが、あのピンクとブルーのストライプの衣装が素敵で、そしてそれ以上にルイーザの前向きさ、明るさが本当に夢白ちゃんにしかできない!と感じさせるエネルギーやパワーに満ちあふれていて、私はここでようやく夢白あやというタカラジェンヌを「発見」したんだと思いました。いや、本当に遅くて申し訳ないんだけど、そこからすごく光り輝いて見えるようになったのです。『Sweet Little Rock 'n' Roll』は良かったと思うのだが、いかんせん私はあがちの魅力が刺さらない女なので、夢白ちゃんは素敵だったけれど、作品としては微妙でした。『愛の不時着』のユン・セリなんかは最高でした。
 『神々の土地』の新人公演に麗しのイレーネに抜擢されてから、『フライングサパ』『fff』などよく見ました。いろいろあったと思いますが、あと少しのタカラジェンヌとしての人生、応援しています。

 『ボー』の衣装はどれももちろん良かったですし、あれだけの数のロココドレスとあれだけの数のエンパイヤドレスを色違いでそろえられるのはさすが宝塚!と思いましたね。すごい。普段どこに閉まっているんだ。よっぽど広いか空間が歪んでいるかのどちらかかな。
 装置は國包洋子。いつもこの方の装置が素敵で、私は大好きです。直近だと『DEAN』や『エスペラント』とか。『ディミトリ』もそうでしたね。くるっと開く装置や高さを生かした装置が得意な方なのだと思われます。
 音楽はまあワイルドホーンに作ってもらっているわけだし、壮大でいろいろな種類があって、リプライズもあって楽しめました。楽しめた分、これはCDにならないの?と思っちゃう。『ひかりふる路』はなったのに?という気持ちにもなります。同じ土俵では較べられないかも知れませんが、えーん!>< 欲しいよ~!
 東京公演、無事にみんなで千穐楽まで公演できますように。寒い日が続いておりますので、くれぐれもおかぜなど召されませぬよう……っ! そして私もなんとかあと1回でいいから見たいよ~!涙

花組『DEAN』感想

花組公演
『DEAN』
潤色・演出:谷貴矢

 いやあ、いい脚本・いい芝居でしたよね。私はオリジナル版も宝塚版も今までの分は見ておらず、この『DEAN』が本当に初めてでした。現実と空想が見事に融合していくかなり抽象的で難しいお芝居でしたが、花組メンバーはよく頑張っていました。かりんさん(極美真)もよい主演作に恵まれて、円盤化もして(『にぎたつの海に月出づ』とは違って……頼むよ、これも円盤化してくれよ)本当にめでたいと思います。思えば初主演『ベアタ・ベアトリクス』から数えて3回主演をやりましたが、どれも良い作品で嬉しい限りです。
 さて、私はホラー・グロテスク・バイオレンスが苦手なので、ジェームズ・バイロン・ディーンが主演の3本の映画も見ていません。一番有名な『理由なき反抗』はザッツ・バイオレンスな映画と聞いており、少なくとも私向きではないなと思いましたが、このお芝居を観ると、一番気になるのは『理由なき反抗』だよなあ、なんて思ったり思わなかったり。
 いつの世もどの作品でも多くの男連中は「母」なる概念から離れられず、ディーンももれなくそういうアダルト・チルドレンみたいな枠に入るのかもしれませんが、嫌味なく演出さえていたと思うのはさすがタカヤ先生……っ!ありがとう!と気持ちでいっぱいです。そんなわけで以下、ディーンを取り巻く母なる概念を3つにわけて考えてみたいと思います(例によって以下、台詞はうろ覚えです)。

①抱擁系…ディーンを聖母マリアのように包み込む女性たち
 (例)ディーンの実の母親(糸月雪羽)、ピア・アンジェリ(美羽愛)
②拒絶系…ディーンに対して攻撃的な態度を示女性たち
 (例)ママ・アンジェリ(詩希すみれ)、『エデンの東』のキャルトラスクの母(詩希すみれ)、ナタリー・ウッド(初音夢
③包括系…ディーンと対等に話ができる女性たち
 (例)ヘダ・ホッパー(美風舞良)、アイリーン(朝葉ことの)、エリザベス・テイラー(三空凜花)

 私が考えたのはこの3つの分類です。この分類名が妥当かはわかりませんが、だいたい女性を描こうとすると多くの作品は①と②のみで、しかもそれが対立して描かれることが多いものだから辟易してしまうことが多いのですが(例えば『ドン・ジュアン』も聖女と娼婦しかいない世界線だったと思われる)、③の清濁あわせのむぜ!なんでもこいや!みたいな豪快なビッグ・マザー的な存在、ディーンの帰る所、みたいな存在があったことが、それぞれがそれぞれを相対化する、善し悪しにとどまらない価値観の提示になっているように見えたのが良かったのではないかと考えています。本作がいわゆる「3人ヒロイン」と言われるのも、それぞれ違うところに属しているからでしょう。③を配置したことが本当にすばらしい。

 ①はわかりやすくディーンが美化している女性たちで、温かく包み込んでくれる存在ですが、母親は亡くなってしまうし、ピアはヴィック・ダモン(遼美来)と結婚してしまう。意図的であるかないかにかかわらず、ディーンが愛した女性たちはみんなディーンから離れていってしまう。だから一幕のディーンは「さびしい……」と言う。この場面、最高でしたよね、本当。絶品……っ!
 この二人を結びつけるのがディーンが子どもの頃によく聞いた子守歌です。ピアがたまたま歌っていた曲はディーンの母親がよく歌い聞かせてくれた子守歌だったというのはご都合主義のようにも見えますが、ディーンの意識の中で2人が上手下手から登場し、デュエットする姿は幻想的であり、また美しかった。この子守唄こそ、ディーンにとっての永遠の女性の象徴であり、精神的な臍の緒なのでしょう。だから終わりの方にはあまり出てこない。ディーンは大人になってちくから。
 恋人ごっこも楽しかった。なんならここが一番幸せな場面だった。わたあめを食べ、射的をし、鏡で遊び、観覧車に乗る。「これからここで起こることがドラマさ」というディーンの誘い文句もいい。『ゲーテ!』でロッテが「芝居よりもドラマティックね、人生は」と言っていたことを思い出す。役者であろうがなかろうがみんな、誰かを演じている。雪組ボー・ブランメルのように。ドラマは虚構だけど、でも現実を生きる私たちに力をくれる。そして入れ込み過ぎれば、現実の人間の方が蝕まれてしまう。それはピアがディーンと一緒にいられないと気がついたように。
 ピアはディーンに言う。「私以外の誰かを見ている」と。それはピアが本当にディーンを愛していたから気がついたのでしょう。そして「あなた、怖いわ」というのは絶品だった。ディーンはニューヨークを抜け出して、二人しか存在しない世界に行こうとする。二人だけの世界を夢見る。けれどもピアはその夢を一緒には見られない。だってその夢は到底現実離れしているから。観客の私たちが見ていても、ディーンが思い描く夢は非現実的である。ピアはディーンを愛している、愛しているけれども、その夢は一緒に追いかけられない。だから辛い。
 ディーンが『星の王子さま』が好きというのも、彼女たちを象徴しているように思います。母親に読み聞かせてもらった経験もあっただろうし、実際にピアに本をプレゼントしている。ピアはその本を自分の子どもに読み聞かせるでしょう。あたたかい話です。そういう結びつきを連想させました。
 ディーンを聖母マリアのごとく見守る女性たちは、しかしすべて彼から去って行く運命にある。母親は不可抗力としても、ピアはディーンが大人になりきれていないことが原因である以上、それは仕方のないこと、美しい思い出にとどまるのみです。

 ②はわかりやすくディーンを拒絶し、攻撃する女性たちです。ママ・アンジェリ(この名前はどうなのとは思った)は娘可愛さにディーンは拒否される。このママもなかなかで自分が娘のボーイ・フレンドを決められると思っているのはどうなの……という気もしますが、イタリアから一緒に渡ってきたならどうなるものなのかな。ピアに父の話が出てこないのも気になりますし、結婚式にもいなかったから母子家庭のようにも見えた。そうなると、娘の幸せを過度に願ってしまうのも仕方がないのことなのでしょうか。
 ここでママを演じたすみれちゃんが映画『エデンの東』で売春宿を経営しているキャルトラルクの母を演じているというのが本当におもしろかった。この売春宿の女性四人(美空凜花、朝葉ことの、初音夢、湖春ひめ花)は良かった……っ! そのキャルトラスクの母は「このガキをつまみだしておくれ」と言い、わかりやすくディーンを拒絶する。あの迫力はすごかったわ~。
 なお、ハリウッドのスタジオでは、一人の女優として登場しますが、ここディーンの実の母親を演じたおいとちゃんとシンメトリーになることが多くて、それはそれでまた興味深く見ました。偶然なのではあろうけれども、おもしろいですよね、こういうの。
 2幕から本格的にディーンと絡むナタリーは、ギャングのリーダーの恋人、強気な女の子でしたが、登場早々ディーンにかみついていて、格好良くて、威勢がよかったですね~。けれどもそんなナタリーとも撮影をしていく中で人間らしい交流に変わっていく。だから最後のパーティーの場面では、憎まれ口はたたいているけれども、そこには愛情がにじんでいるのがわかる。ディーンは3本目の映画『ジャイアンツ』の撮影のときにベン(希波らいと)に「愛する者は去って行ってしまうけれども、それは敵も同じこと」と言う。この「敵」に該当するのが②の女性たちで、ママ・アンジェリとは当然交流は立たれ、撮影が終わればキャルトラスクの母とも会わない。その中でナタリーは「敵」から「味方」よりに変化するという形で敵としては離れていったタイプのキャラクターといえるでしょう。そうよ、人間関係って変化するものなのよ。だから楽しいし、悲しい。ディーンはそれにようやく気がついたんですよね。生まれたての赤ちゃんが言葉を覚えたような感動がありました。
 ディーンを拒絶する女性たちはさまざまに姿を変えて、ディーンのもとから去って行く。去って行くからこそ、ディーンは大人になる。大人になってからピアに出会っていれば、もしかしたら何かが違っていたかもしれないと思わせるほどに一気に大人になっていく。

 ③はレベルの差はあれ、地母神のような存在。一番大きいのは言うまでもなくハリウッドの新聞女王ヘッダ。ディーンのダメなところも、良いところもまるっと呑み込んでしまうような、包み込んでしまうようなそんな懐の人差がある。実の母にもその気はあるけれども、彼女はそこまで大きくはなれないし、客観してできるほどの視野の広さも感じさせなかった。ディーンの中の母しか登場していないのはそのせいで、ディーンの母親はえらく美しく優しいけれども、ちまっこい印象を受ける。それに対して、母なる大地を連想させるこのグループの女性たちは現実が見えていて、その上でディーンと相対する。格好良い女性たち。3人全員が仕事を持っている女性であることも関係しているでしょう。
 ヘッダが『ジャイアンツ』の撮影現場までわざわざ足を運んで、お叱りをするかと思えば、「あなたはそれでいいのよ」と言う。「私たちが自由にできない分、あなたは自由でいていい」というようなことを言う。ふ~! しびれる台詞だぜ! さすがレディ・ハリウッド! 器の大きさが違う! 最高! ヒューヒュー! 私はこの場面がとても好き。ちなみに『エデンの東』の撮影時、エリア・カザン(紫門ゆりや)に「信じているよ」と言われ、「黙れ!」というディーンも相当好き。1幕終わりとあわせて大好きな場面3つなのです。
 話がそれましたが、ヘッダはディーンを叱ることもできる存在。だからディーンと対等である。聖母マリアに収まっている実の母にはできないし、ピアも怖くてディーンを叱ることはできない。このあたりも①との違いでもあるかな。
 ヘッダと比べると器の大きさは劣るけれども、売れる前のディーンと仲良くしていたためにディーンと対等に話せるアイリーンはおいしい役だな~と思ってしまう。え、だっておいしすぎません? ニューヨークの最初に出て来て、二幕の最初に出て来て、あとは最後と3回くらいしか出番はないけれども、「あなた、いつもそうやって私が待っていると思っているの?」とディーンに問いただし「違うのかい?」と甘えたような顔で言われたら、そりゃ「ずるい人!」ってなるわよね。わかる~! 二幕の最初にニック(一之瀬航季)と出て来たときも「どんな顔したらいいかわからなくて」と正直に言うし、ディーンに「ベイビー」と言われて「もう私の名前、忘れちゃったの?」っていうのも可愛いし、冒頭の「歩き疲れたら戻ってくれば良い」と言ったのに対して「もう歩き疲れちゃった?」とおしゃれな言葉遣いもできる。4人目のヒロインともいえるのではないか。出番は少ないけれども、ディーンとの絡みで言えば小さな幸せが積み重なっている印象があって、日常の幸福がここにある!と思いましたね。もちろん、ディーンはそんなことで満足できる男ではないのだけれども(このあたり、ゲーテと一緒だな)。
 ニューヨークには他にもたくさん女優の卵がいるはずだけど、その中でちょっとだけアイリーンはディーンに特別扱いされている、そんな姿が微笑ましく、けれどもこちらは大女優になる運をつかめずにいるのでした。『ジャイアンツ』ではカウ・ガールとして歌っていたけれども、あれはアイリーンとは別の役ってことでしょうしね(なお、この場面の常和紅葉ちゃんが可愛かったです)。
 エリザベス・テイラーはディーンにとっての最後の映画『ジャイアンツ』のヒロイン。夫も子もいて、家族を愛している一方で、ディーンの濃やか心情にも分け入っていける人物でした。いや、たぶん普通の人は「もうすぐ赤ちゃんが生まれるんでしょう、ピア・アンジェリのところに」なんてそう簡単に言えないと思うんですよ。叶わぬ恋、破れた恋なわけですから。それをさらっと言ってしまうところにエリザベスの懐の大きさがあり、エリザベスに母の存在を感じさせる。けれども彼女もまた監督(涼葉まれ)の姿を借りてではあるけれども「声が聞こえない!もっとはっきりしゃべるんだ!」とディーンにダメだしをする。そういうことができる。だから①よりは③に属するかなと思っています。
 ウィキペディアの情報ですが(ちゃんと出典は明示してあった)、リジィは「彼は傷つくことをとても恐れていました。彼は万が一にもそれが裏目に出て自分自身に対して行使されることを恐れていたのです」とディーンについて述べていたともいいます。こういうところが上手に演出されているように見えましたし、相手を包み込む器の大きさを感じさせるのです。
 ディーンはこうして多くの女性に囲まれて、そしてまた監督たちに育てられて、大人の階段を上っていきます。ベンと仲良くデュエットしたときに、「あ……これはフラグ……」と思ってしまったくらいです。このあたりは男の友情物語でしたね。けれども、ディーンが大人である時間はほんのわずかに過ぎなかったのです。語り手でカメラマンのパット(天城れいん)はいい仕事をしていました。私みたいにディーン初心者でも話がわかるようになっていたのは、ひとえに彼の存在のおかげです。ありがとう、パット。パットのディーンへの愛情表現も良かった。あれだけの追いかけは仕事だから、だけでは説明がつかないでしょう。
 この話は母親の愛しか知らなかったディーンがいろいろな人と交流することによってさまざまな愛の形を知っていく物語とも言えるでしょう。周りの女性を概ね三種類に分けましたが、もちろんその中でも少しずつ違っているし、男性もまた、父性愛的なエリア・カザン、ジョージ・スティーブス、友情を育んだベン、パット、ニック、古馴染みのモーゼス、実の父(南音あきら)とさまざまだったと思います。いろいろな愛情に囲まれて大人になることができてよかったね、ディーン!

 それから舞台装置(國包洋子)もおしゃれでしたね~。同時進行の花組ゲーテ!』もまた非常におしゃれな装置(松井るみ)でしたが、こちらが曲線を生かした装置であった一方、『ゲーテ!』は直線を生かした装置だったと思います。『理由なき反抗』のプラネタリウムのドームにもなるような曲線は、裏側は映画のフィルムのようになっている。動きが自由なのがいい。少し高さもあり、上ることもできる。おっしゃれ~! 真ん中は平らで回りに傾斜のある八百屋舞台もダイナミックに見えて素敵でした。映画の撮影所の場面も多かったので、役者たちがいろいろなものを用意したり、片付けたりしているのも自然に見えてよかったです(特に珀斗星来くんよかった!)。しかし、ピアとの恋人ごっこの場面で出て来た不思議な鏡の登場シーンはおもしろかった(笑)。上手から突然にゅっと出てくる。
 それほどお着替えが多い芝居ではありませんでしたが、ヴィラ・カプリでみんな白黒を基調とした色使いなのにデザインが全然違い、キャラクターに合わせていたのはおしゃれでした。「それじゃまた!」というラストの台詞も映画でいつでも会えるよ!という意味にも天国で待っているよ!という意味にも次の公演で待っているよ!もいうメタ的な意味にも受け取れて、楽しかったです。いい笑顔だった〜!

 それからショーがついているのも良かったです。謎の少年(ディーンの少年時代の幻影みたいな)を演じていた彩葉ゆめちゃんが思いの外身長が高くて、おお!と驚きでした。帽子を被っている場面が多かったので気がつきませんでしたが、けっこう垂れ目のご様子。ピックアップ勢の中にいましたね。新人公演のヒロインも演じたことですし、今後も抜擢が期待されるでしょう。
 そしてなんと言ってもデュエットダンスですよ、奥さん……っ!(誰) かりんさんとあわちゃんのデュエットダンス、もう本当に本当に本当に幸せでした。ありがとう、劇団。あわちゃんがまたザッツ花娘☆みたいな白からピンクのグラデーションのドレスだったのがまたたまらん。眼福でした。幸せを噛みしめる時間でした。かりんさんが正統派黒燕尾だったのもたまらんかった。本当に最高だった。

 冒頭にも書いたとおり、難しい脚本だったと思いますが、本当にいいお芝居でした。組子たちもいい勉強になったと思います。『ゲーテ!』との対照もおもしろかったです。どちらも実際にいた男性を主人公にし、表現者として生きる喜びを見つける話だったと思います。ただ片方はそこがスタート地点で、もう片方はそこが人生のゴールであったという違いがあるだけです。ああ、この対称性みたいなの、本当に興味深い! 好き!
 次の花組公演も楽しみにしています~!(しかしチケットはない)(なぜなら友なのに友になってもらえないから)