ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

宙組『HiGH&LOW -THE PREQUEL-』『Capricciosa!!』感想

宙組公演

TAKARAZUKA MUSICAL ROMANCE『HiGH&LOW -THE PREQUEL-』
原作・著作・構想/HI-AX
脚本・演出/野口幸作

ァッシーノ・モストラーレ『Capricciosa(カプリチョーザ)!!』-心のままに-
作・演出/藤井大介

宝塚大劇場の千秋楽で真風さん(真風涼帆)が「ルイのあとに何を喋ったらいいかわからない……」と客席をわかせながらも、「この作品は宝塚にとって挑戦だった」と真摯に話していたのが印象的でした。そりゃそうでしょうね。
発表された当初から「これはnot for meになるだろう」ということを予想していながらも、YouTubeで原作の宣伝動画のようなものを見ても全く胸が躍りませんでした(あと「ムゲン」という名を制作者サイドは「この時間が無限に続きますように」という祈りを籠めてつけたらしいですが、そのチームが解散したところから話が始まるのは、それでいいのか?と細かいことが気になる。全然ムゲンではないのでは?)。本当に楽しんだ人にとっては申し訳ないんですけど。
そんなことを言いながらも大劇場の配信を見たのは、本当にたまたま仕事の都合で見ることができた、という感じです。そして、全く最初の期待を裏切らなかったので、つまりはそういうことです。だから絶賛の人はこれから先は読まない方がいいと思います。忠告はしたからね。別に絶賛の劇評しか書いてはいけないって決まりはない、はず。
それに結局『FLY WITH ME』の感想も書けていないから、まあ、これを機に思い出しながら。『FWM』で一番感動したのは、しどりゅーが3番手にいたことだよ! そして最初に言っておくと今回、ショーは楽しかったよ。

作品を見て、「これはむしろショーの方がいいのでは?」と思ったのですが、それなら、もうそのまま『FWM』ですわな、とも思いました。
オープニングには主要メンバー5人が出てくるけれども、それぞれに絡みはなくて、THE☆プロローグって感じで芝居はしていない。
山王連合会のコブラは主人公だから、White RasclsのROCKYとも、RUDE BOYSのスモーキーとも、達磨一家の日向とも、鬼邪高校の村山とも絡む。だから真風はききちゃん(芹香斗亜)とも、ずんちゃん(桜木みなと)とも、もえこ(瑠風輝)とも、こってぃ(鷹翔千空)とも絡む。けれども、例えばこの4人の横のつながりは全然なくて、それって芝居として成立しているといえるのか?と不思議に思ってしまった。なんならそれぞれのチームに所属している人たちは、あんまり目立たない……ナニーロ(風色日向)はすごくよかったですけどね!
ずんちゃんはオープニングのあと出てくるのはほぼ1時間後ですよ?! ファンそれでいいんですか?! 仮にも3番手なのに、その出番の少なさよ……5つのグループを全部出す必要はあったのかという疑問。ここを絞れば話としてはまとまるのでは。既存のファンがおもしろいかどうかは別ですが。
だったらもういっそ、ショーの方が理由なくチーム同士がぶつかり合えるよね、出番も増えるよね、と思った次第。本当、そのまま『FWM』ですよね。
役者たちは原作を履修して、裏設定もたくさん考えているんだろうけれども、配信のせいか、そこまで楽しめなかったかなあ。

先に言っておくと、今回オリジナルのチームであったチャイニーズマフィア苦邪組はすごくよかった。よかった。
自己紹介ソングがあるから、誰が誰なのかわかるし、役者も覚えてもらえるし、役割もはっきりしている。芝居の基本だと思うけれど、それがきっちり守られている。まっぷーさん(松風輝)もさよちゃん(小春乃さよ)もさくらちゃん(春乃さくら)良かった~! チャイナ服、素敵だった。特攻服なんかよりもよっぽどよかったよ!
しかも、抗争の目的がはっきりしている。SWORD地区を乗っ取りたい。これくらいクリアの方が安心して見ることができる。だから私は彼らが出てきた後半くらいからようやく楽しくなってきた。
原作ファンにはこのオリジナルチームはどのように映ったのでしょうか。作品の中に違和感なく溶け込んでいたのでしょうか。
あとはナレーターのすっしーさん(寿司)も良かった! 原作のあのナレーションを意識したのでしょうが、こちらも原作ファンに好評だと嬉しいポイントです。ブラックジャックのような闇医者もよかった。でも闇医者なのに病院にいるんだ、ね?

職業病みたいなもので、芝居を見ると「1時間に納めるためにはどこを削るか」ということをつい考えてしまうし(特におもしろい芝居を見るとね! 60分脚本をおこしたくなる!)、あらすじの軸として「AがBを通してCになる(Cする)話」をまとめがちなのですが(小柳先生も物語を一行で表現するって言ってましたね)、それを今回にあてはめると「コブラがカナとの再会・死別を通して無口になる話」になるかな。
けれども、それって既存のファンはおもしろいのかな……いや、宝塚として役者を楽しんでもらえたならそれはそれでいいんだけど、話はおもしろい、のか……?と不安になったり心配になったりしてしまう。杞憂ならいいんですけど。
ここのところ『巡礼の年』『8人の女たち』『ベアタ・ベアトリクス』みたいに話がおもしろい、構成がよく練られている作品が多かったから、余計に、ね。

個人的には世界観がわからなかったのがとにかく苦しかった、辛かった。
ここはどこなのか。日本なのか、それとも全く別の世界観なのか、よくわからない(なんかセブンイレブンみたいなものが見えたような気もしたんだけど?)。
いつの話なのか。現代の話なのか、政府や警察が崩壊した近未来の話なのか、ファンタジーなのか(ボイスレコーダー闇市で売られる時代っていつ)。
登場人物はいくつくらいなのか。彼らの過去も未来もいまいち見えてこない。だから生きている生身の人間という気がしない。周りにいわゆる「大人」も極端に少ない。ヤマトの母親とバーのママはいるけれども(まあこの人たちも喧嘩推奨みたいな人たちだったけど、水音志保ちゃんは美しかったよ!)、大人の男の人がいないから、主要人物たちがこれからどうなっていくかというビジョンがわからない。年を取らないみたい。みんな『ドラえもん』や『ちびまる子ちゃん』みたいな世界観で生きているってことでいの、かな? それならそれでいいんだけど、それもよくわからない。鬼邪高校で5年留年は当たり前、二十歳過ぎが通常と説明されるくらいだから、時は流れているんだよ、ね……?(鬼邪高校のトップは譲らないっていうけど、早く卒業して)
彼らの金銭感覚もわからない。美容院には来るし、行きつけのバーがあるみたいだけど、そのお金は一体どこから出てくるの? 働いていないよね、あなたたち。
同じ地区に住んでいながら、美容院にいるひばりちゃんがまた常識人だから、世界観がわかりにくくなる。
近接しているチームなのに、全然近い街という感じがしないくらい街の様子が違いすぎるし、なんなら国が違うくらい雰囲気が違うよね……?
そして、一番不可解なのは、それぞれのチームは一体何と戦っているのか。拳で守るって何を何から守っているのか(チーム同士が抗争しているわけではないっていう話でしたよね? ヨーロッパ戦争のような領土侵犯が目的ではないなら、何が目的で喧嘩するの?)。喧嘩したいから喧嘩するの? 拳で勝ったらその人がリーダーなの? 戦う方法、喧嘩しかしらないの? 野蛮人じゃん。
かろうじてホワイトラスカルズは「女を守る」と言っていますが、嫌がるカナを追いかけ回しているのは矛盾だろと思ってしまうし、そもそも「夜の女しか守らないの?」みたいな疑問も。素人女がいない街なのかもしれませんが。そもそもいやいや夜の女になる人が出ないような制度をつくった方がよくない? 言い方が悪いけど、あたまわるいの?って思ってしまう。いや、原作で説明があるようなら申し訳ないんだけど、ホント。

宝塚にもLDHにもテニプリにも造形のある友人に「世界がぶっとんでいるのは、『テ○スの王子様』も同じでは?」と言われましたが、彼らは目的がはっきりしている。全国大会に行く、世界の頂点に立つ。そしてとりあえずラケットとボールを使ってテニスで戦っている。奇抜な技が繰り広げられ、コートが凍ったり、磔刑になったりするけれども、既存のテニスのルール通りに「ラインから出たらアウト」だし、サーブの順番も奇妙ではない。まあダブルスなのに、二人になったり三人になったり分裂するのは微妙だと思うけど。
拳で戦う元気があるならスポーツした方がいいよ、彼らも。
実際に困難校ではエネルギーをもてあましている子供たちを運動部に勧誘して、悪いことを考えないように、悪いことをする体力がなくなるように、という方針もとられていますからね。今年も甲子園に出ていた学校の中にもそういうところがあるでしょう、たしか。

そもそも喧嘩や殴り合いが身体表現であることは認めるにしても、それをフィクションやエンターテイメントとして楽しめるのは、自身の人生にそういう暴力がない人、あるいはなかった人だけであって、本物のヤンキーが歩いている街に住んでいる人や家庭内暴力を目の当たりにしたことがある人にはまあ無理でしょう。戦争が行われている国で迷彩柄がファッションとしてしてもてはやされないのと同じ論理です。
だからこそ、フェアリーちゃんたちには刺さりやすいのだろう、ファン層としても重なるところがあるのかもしれない、とも思いますが、残念ながらこの国はどこまで整備されていないですよね。ヤンキーは少なくなったとしても、暴力の類いは正しい統計がとれないくらい隠蔽され、さらに隠さなければならないものだという意識が植え付けられている。
ヤンキーが少なくなったのも、別に住みやすくなかったからではなく、その分自殺に向かう人が増えたというだけ。ベクトルが変わっただけで住みやすい国とはかけ離れている。
言葉が唯一の世界把握の手段であることを前提にしたら、その国で、言葉ではなく拳で語り合おうというのは無理がある。
ダンスも音楽も絵画も言葉を使わない表現はたくさんあるけれども、その技量を高めるためにはどうしたって言葉が必要である。優秀な指揮者は「もっと大きく」「もっと弱く」という単純な指示はしない。「金魚がはねるように」とか「夕焼けが沈むくらいのスピードで」とかすごい抽象的な言葉で指示をするという。画家だったロセッティは詩人でもあったんだよ! それは考えれば、言葉が豊かでなければ、それ以外の表現は豊かにならない。

話が抽象的でわかってもらえない人もいるかと思いますが、とにかく日本のドラマ脚本の語彙レベルが低い。優れた深夜アニメの方がよほど語彙が豊かだろうと思われるほど。
あとは複雑な構成に耐えられない、複雑なものを複雑なまま受け入れることができないからすぐに単純化したがる。だから韓国ドラマが流行るし(格差が激しい社会だからドラマティックになりがち)、王道の少年漫画少女漫画に大人がこぞって群がる、のめりこむ様って異様でしょう(別に全ての漫画を否定しているわけではない)。
花より男子』が流行したときにも思ったのですが、王道の少女漫画が国民的人気を誇るというのは、ドラマ化されたことをあわせて考えても、国の知的レベルがわかってしまうよね、って話。だから殴り合いの話が流行るのは、眉をひそめてしまう。
欲しい情報が自分の手元ですぐにわかるような時代、異質なものにそもそも触れない、出会わない、だからある程度裕福な家の子供でもおそろしく語彙力がない。「いい」「わるい」でしか物事を判断できないし、表現できない。グレーゾーンがないし、長い文章が読めないし、抽象的な議論ができない。この国の未来が悩ましい。

あと、これは完全に個人的趣味ですが、娘役ちゃんたちが好きだから、今回はあんまり出番がなかったのがつらかったし、描かれ方もな……原作ファンの方の「七姉妹がホワイトラスカルズを攻撃しているときに、苺美瑠狂が出てきたのがよかった!」「原作では絶対に見られない苺美瑠狂ちゃんたちが見られて良かった!」という声をツイッターでは結構みかけるのですが、そうなのか……?と思わず首をかしげずにはいられなかったよ。
純子がコブラを好きなのは原作通りなんですかね。どちらにしても結局女を恋愛脳にするんじゃねぇかよって思っちゃったよねー!
『カルト・ワイン』のアマンダを思い出すとね、ヒロインだからって別に恋愛主義でなくてもいいって宝塚にしては新しかったと思うけれども、でもそれがすごくよかったと思っているんだよ、私。
あえて悪い言い方をするならば「あの程度でよかったと思うって原作では一体どんな扱いされているの……」と心配になったよ。
そして特攻服しか着ないのも不満だった。私はあれをおしゃれだと思えない……。じゅっちゃん(天彩峰里)のドレス姿も見たかったよ。舞踏会の招待状って『ロミジュリ』だな、とか思っちゃったけどね。
それから、もう一つ。娘役ちゃん好きとしてはヒロインが病気という設定もね、本当にありがちだよねえ!と思ってしまった。もちろん原作の前日譚であり、原作に出てこない以上、物語の構成を考えたらカナには死んでもらうしかないのですが、それにしたって事故ではなくて、病気なのね、あえて苦しむ姿を描くのね、と長いため息が出てしまう。

さて、お次はショー。こちらは楽しかった。
宝塚ではフランス巡りは多いけれども、イタリア巡りってあまりないのかな? ナポリ、ミラノ、ヴェネチア、ローマ、これはもう次元大介の作るピザが食べたくなるぜ~!
ダイスケ先生は30作を超えたのか、すごいなあ。ショー作家がいないからすぐに回ってくるというのもあるだろうけれど。
先日の『ベアタ・ベアトリクス』の演出家である熊倉先生はダイスケ先生を尊敬しているということなので、熊倉先生のショーも見てみたい。
プロローグのあとに、ダイスケ先生にありがちな主題歌を娘役センターでリプライズがなかったから。おや?と思ったけれども、ナポリではいきなり歌い題した潤花。すごい足があがるな、本当。
じゅっちゃんやひばりちゃん(山吹ひばり)はもちろんですが、しほちゃんも見せ場があって、よき。
留依蒔世はエトワール。もう少し歌唱場面があってもよかったかな、とも思いますが(ナポリの場面やデュエダンのソロのどちらかはあーちゃんでもよかった、はず!)すばらしいエトワールでした。
しどりゅー(紫藤りゅ)とこってぃと3人で中世イタリアの画家に扮して、パスタの名前を高らかに歌い上げる場面はおもしろかったけれども、もっとごりごりの見せ場つくってやってくれ~!となりました。
ダイスケ先生にありがちな男役に娘役の格好をさせてトップスターと絡ませるというのは、あんまり好みではないのだけれども、ずんちゃんは怪しい水の女でしたね(突然の「エリーゼのために」は笑ったけど)。
後半のスカラ座の場面は「アイリーンとモリアーティなのでは?」と思いもしましたし、『シトラスの風』に似たような場面あるよね?とも思いましたが、真風さんがそっと潤花をききちゃんのもとに返す場面はしびれました。そうくるか。新しい。よき。
フィナーレの出発は、ききちゃんが中森明菜の『ミ・アモーレ』を歌って娘役ちゃんたちをぞろぞろ連れて登場。視覚的には『デリシュ』を思い出すし、聴覚的には『夢千鳥』を思い出す仕様となっておりました。

タイトルの「カプリチョーザ」はイタリア語で「気まぐれ」「勝手気まま」「わがまま」というような意味らしいですが、プロローグのあとの「ずんずん今夜はあなたを攻めます」「危機迫るほどの情熱キッス」「俺のゆりかごにきみ縛り付けて」あたりは、ダイスケ先生、自由にやっていますね!と思いました。あれは笑う。笑うしかない。

真風さん、潤花と退団発表もされました。
真風さんはなんとなく予感はありましたが、潤花はなんかちょっと早いかなという気もしなくはない。
なんならききちゃんと息を合わせたコメディ作品なんかも期待していたんだけどな。まあ彼女の決断です、仕方ない。
次期トップコンビの発表を大人しく待ちます。

星組『ベアタ・ベアトリクス』感想

星組公演

ミュージカル『ベアタ・ベアトリクス
作・演出/熊倉飛鳥

ラファエロ前派といえば、ジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』とウォーターハウスの『人魚』といったところ。つまり両方とも水に浮かぶ女たちである。ミレイの『オフィーリア』に感化され、ウォーターハウスもオフィーリアを題材に3点ほど作品を描いている、はず。川で遊ぶことなどもうないだろう年齢になったが、万が一そんな機会が訪れたら、積極的にオフィーリアごっこをしたいと思うので、たくさんの花を用意しなければならない。

今回はそんなエヴァレットを二番手としてかのんくん(天飛華音)が演じ、そして主演のロセッティをきわみ(極美慎)が華々しく飾った。
きわみの出てきたときのスターオーラがもう半端ない。それはもちろん照明や音楽による演出もあるのですが、それだけではない。真ん中に立つべき人だということが一目で分かるあの圧倒的な華やかさは、他人がどれだけ真似しようと思ってもなかなかできるものではない。生まれついてのものだろう。きわみは生まれながらにしてタカラジェンヌ。すいません、もう自分でも何を言っているのかよくわからないのですが、それだけすごく格好良かったということです。
無造作ヘアかと思いきや、くるりと回れば後ろでちょいと結んでいる様子がうかがえる。なんですか、あの短い尻尾、けしからんですな、かわいいですな。ひっぱりたい。
先行画像もポスターも同じ衣装で、似たり寄ったりの構成で、まあ、とにかくきわみの顔が良いことを前面に押し出した感じ。その前に発表されて衝撃的だった『カルト・ワイン』にくらべるといかにも王道で典型的、まあ正直に言えば少しつまらないような気もしたけれども、作品を見ればあれが大正解だということがわかるし、熊倉先生も演出家としてデビュー、きわみも初主演ということもあるし、とにかく今はあれ以外考えられなかったなと思う始末。ずいぶん都合がいいな!
本人のスターオーラもさることながら、作中ですばらしいのは、なんといっても娘役を見つめるあの目。どんな娘役でもあれには酔ってしまいそうになるだろう。きわみに見つめられれば誰もがヒロイン。娘役をたらしこむあの瞳はすばらしい。「俺は君を描くために生まれてきたんだ」ってすごいくどき文句だ。これ、きわみの顔で言われて落ちない人、いるのか?いないでしょ?
そしてただ格好良いだけでなく、ちょっと情けない感じも残っているのが何よりイイ。
娘役ちゃんたちが、ヒロインであり、また理想のベアトリーチェであるリジーファム・ファタルのジェインだけでなく、娼婦までもが虜になる。マーガレットは言葉こそきついものの、ロセッティを心配しているのは顔を見ればわかる。「絵が売れてなくてね」というロセッティに、「どうせ描いてもないんでしょ」と間髪入れず返すマーガレットがロセッティの心配をしていないで、誰がしているっていうんだ。この言葉のやりとり、大好きだよ。
つまり、みんなロセッティが大好き。主人公にありがちな設定だけど、それが説得力をもっちゃうんだからすごい。
兄弟団のみんなだってもちろんロセッティが好きだけど、娘役ちゃんたちはまた違うニュアンスがある。きわみに見つめられたときに出てくるあの芳醇な色気よ、スタオベするところだったよ。見つめられたら私なら死ぬな。娘役ちゃんたち、すごい。

約10分弱のオープニングは少しばかり長いようで、しかし物語の、エヴァレット以外の要素が全て詰め込まれているといっても過言ではない。
とんだいたずら小僧のロセッティ、ロセッティに振り回されるウィル、少しどんくさいけど仕事に一生懸命なリジー、教授に怒られるのが日常茶飯事であろう兄弟団、ロンドンで仕事を探す労働者たち、色を売る女たち、すれ違うロセッティとリジーの出会い、そして最後にリジーの帽子を拾うロセテッィ、すでにここに物語がある。観客を素早く世界観に浸らせる、すばらしい演出だった。無駄がない。
ここに出てきたおぼこいリジーが(『メランコリック・ジゴロ』のフェリシアのような)、ロセッティに見いだされ、少しずつ自分を開花させていく明るい美しさ、エヴァレットに頼まれてモデルを務めることへの不安からくる影を伴った美しさ、リジーの病と引き換えにエヴァレットは名声を手に入れ、ロセッティたちと袂を分かつ。
ジーの病が偶然的でないのもいい。物語から都合が悪くなった女を排除するために病というのはよく使われがちで(事故よりも圧倒的に病気になる方が多い印象・男は事故の方が多い)、病気姿の女をわざわざ描写する作品も芝居に限らず少なくない(宙組のヅカローはまさに病に苦しむ女だったな)。私はそれに対して抵抗があったのだけれど、リジーの場合は水風呂に長く浸かっていたことが原因であろうことがわかる。そしてそれが好評を博すから、ロセッティともうまくいかなくなり、精神的にも弱っていく。リジーの描き方としては、よかった。もちろん現実には病気に因果関係がないのはわかっているけど、創作物では病でなくなる女がやたらと多すぎるんだよ。

ただ、もう一歩踏み込むとしたら、指の絵の具が取り切れないほどロセッティよりも絵を描いていたリジーが描いた絵はどんなものだったのか、「モデルだけでなく、絵の勉強もできる」と誘っておきながら、実際のリジーの絵はどうだったのか、モデルとしてのリジーにばかり目が向けられていたのが惜しかった。もっと、主体性をもった女性として描くこともできたであろう。ひたすらにそれが残念であった。熊倉先生、次、頼みますね!
次第に垢抜けていき、ロセッティと出会ったときは天使であったリジーが、だんだん女神になっていく美しい様をほのか(小桜ほのか)は見事に演じきった。いやはや、すばらしい。衣装もか可愛かった。台詞のない紫のドレスなんかもすごいよかった。あれは台詞がないのに、すごいインパクトを残すほのかの演技力もすごい。カメラさん、正しいカメラワーク、ありがとうございます。
ロセッティの過去を知り、リジーは彼の詩集を読む。ここの「ちょっと、いつの間に……」というきわみが、これまた情けない感じなのがたまらんのだが(そして「きみのことを読んだんだ」と正直に言っちゃうあたりとか……っ! もう! 本当に女たらしなんだから!)、ここから「あなたのこと、ダンテって呼んでもいい?」というリジーのお願いを聞き入れるロセッティが、これまたたまらん。この一連の流れ、本当にたまらん。
ずっと嫌いだった自分の名前を呼ぶことを許すって、なんだよ、それ。おいしい展開だな。その前の場面ではウィルに「ダンテ」と呼ばれて「その名前で呼ぶな」とはっきり断っているのに。そしてそのすぐあとにラスキンに名前を聞かれて「ガブリエル・ロセッティ」と「ダンテ」は言わない。それくらい自分が「ダンテ」であることが悩みで、苦しいのに、リジーには許す。最高だな。鼻血ものの展開ですわ。
幻想のベアトリーチェの娘役さんは星咲希ちゃん。すごい豊かな表現力でした。お見事。出てきたときから「おっ!?」と思ったけど、出てくるたびに、最後まで、すばらしかった。

初めてモデルを務めるリジーに、ロセッティはこの上もなく優しい。「ポーズがつらくなったら、すぐに言って」と言う。
おい、『夢千鳥』の夢二とは大違いだな!と思ったのは私だけではないはず。でも、ロセッティが優しくて嬉しいし、きわみの娘役たらし感も出ていて大変によい。きわみの正しい使い方だよ。
それに対してエヴァレットはオフィーリアを描くとき「風呂の水は冷たいかもしれないけれど、ろうそくの火が君をあたためるから」と言う。
優しいようで、全然優しくない。きっとエヴァレットはエフィにはこういう対応をしなかっただろうな、ということも思わせる。
このときの物理的な風呂を演出したり、精神的な不安を演出したりするコロスの使い方も上手い。
コロスはオフィーリアの幻想だというのもよい。
これ以降、ロセッティはリジーを描くことができなくなる。エヴァレットと真っ向から絵で勝負することができないから。
けれどもリジーがいなくなってからは筆を握ることさえできなくなってしまう。この一連の流れもうまい。

文学を捨てたお前、と度々ロセッティを苦しめるメタファーの中心として出てくるダンテの父。このあたりは『M!』なんかもそうですが、文学から絵画に表現の場を移したのは、ロセッティにとっては良かったのだろうと思える演出もいい。ダンテのパパは朝水りょうが好演。最近パパの役が多いけれども、ひげが似合うダンディな男役になりましたな。すてき。ショーでぎらついているのも好き。
あのまま詩を書き続けていたらロセッティは父親の言いなりで、父親の世界観の中でしか成功も失敗もできなかっただろう。
絵画という別の表現方法を身につけて、それでも詩を書き続けるのと、詩だけをひたすら書き続けるのは違うでしょうね。そういえば竹久夢二も言葉での表現がうまくいかないから絵を描いてみた、とか言っていましたね。二人とも当時の主流に喧嘩を売るタイプの芸術家ですね。自分が亜流だという自覚があるからでしょう。
2幕でロセッティはリジーの墓にリジー宛ての詩をびっしり書いた本と出会いのきっかけとなった帽子を埋葬する。つらい。後にその詩を掘り起こし、詩集を出そうとする。芝居の中では明確に描かれていないけれども、ロセッティは実際に掘り起こした詩集を世に発表した。事実は小説よりも奇なり。
しかし、そのノートがあるから淋しくなかったという女神ほのか。もうひと頑張りしようと励ます。それは美しい幻想だ。ロセッティはそれでようやく描く気力を取り戻す。なんだよ、やっぱりリジーがいなければダメなんじゃんかよ!と思わせる。ありがたい。
幻想に悩まされるロセッティは、芝居としてはありがちだけど、流れとしては自然だったし、まあ、そうならざるを得ないよね、っていうか狂気じみているきわみも素敵だね、とかそんなことを考えていました。狂っていても、酔っていても、真ん中に立つべき人なんだな。

ロセッティのベアトリーチェであるリジーに対して、酒場の女優であったジェインは、ロセッティのベアトリーチェにはなれなかったけれども、ロセッティにお金を恵んだ。そしてそのお金でリジーと暮らすんだよな、つらい。
ジェインは水乃ゆりちゃん。非常に正しい彼女の使い方だったと思います。彼女の演技力を考慮すれば、悪役の方がやりやすいでしょう。歌がないのも正解でした。身長もあるので、悪女、ファム・ファタルというのはぴったりでした。ブラック・レディのような。今までで一番似合っている役だと思いました。手足が長いし、妖艶なこの路線でいくといいよ。ロセッティとの単語の迫力もすごかった。
ロセッティのモデルをして、その絵が好評で、その上でトプシーはジェインに結婚を申し込む。このあたり、ちょっとスピンオフで見てみたいですねえ。トプシーは大希颯くん。私の記憶の中では今回が始めましてです。ロセッティに懐いていた弟子時代とジェインの夫としてロセッティをなじる場面とロセッティの葬式の日と、3つを上手に演じ分けていたと思います。これから期待できる。

ジェインを見ていると「女は愛される方が幸せ」みたいなことを考えさせられるけど、ジェインはロセッティを炎のように愛し、それでいてトプシーのことも静かに、穏やかに愛していたと、ロセッティの葬式に行かずに「家に帰りましょう」と言う最後を見ると思えるのもいい。それはジェインらしくない愛し方だったかもしれないけれど、トプシーが相手だから、そういう愛になる。愛は一人では育めない。そういうことを考えさせられる。
2幕で、トプシーに「ジェインを描いてみろよ」と喧嘩を売るロセッティは、そのままその言葉が見事にブーメランになっていて、構成として恐ろしかった。それでもトプシーがロセッティのように悩み苦しむことがなかったのは彼がブルジョワだからでしょう。お金は心の余裕を生むって本当なんだな。病室でロセッティがエヴァレットに語るように「自分よりも上手にリジーを書ける人がいるのが怖かった」「画家なら、絵で勝負すべきだった」。似たような台詞は作品全体に散りばめられていますが、この集大成が見事だった。
ロセッティが自分のコンプレックスを乗り越えて、もう一度リジーを書こうとする、その流れが違和感なく見ることができた。なんで?とか、これはなに?とか思う場面がない。大きな齟齬なく感情を上手につないで脚本を書いているし、役者もそれに充分に応えている。すばらしかった。
ジェインからしたらたまらなく辛かったでしょう。夫婦の不貞は教会からも世間からも白い目で見られる、エヴァレットとエフィの件で当時の常識が語られる中、ジェインはそれでもロセッティのモデルになることを自分の意思で選んだ。旦那が用意したアトリエで、自分が愛している男のモデルを務めたのに、描かれたのは自分ではない。『夢千鳥』のお葉も「あの絵は私じゃない!彦乃さんでもない!」という。モデルをしているのに、自分が描かれていなかったときの絶望たるや……つらぁ……。
それでもジェインにも帰る場所がある。それが救いだった。観客にとっても。

ずっとロセッティの側にいて、「唯一の友人」と言われるウィルは常識者だけど、正直者でもあって、ロセッティの幸運やエヴァレットの才能に嫉妬していないわけではないのだろうけれども、堅実に絵を描き続けていて、そういうウィルを碧海さりおがこれまた上手に演じるんだから! もう! すごい!
今まであまり彼女を芝居ですごいと思ったことはなかったけれども、地に足のついた演技のできる人だということがしっかりわかりました。ヒゲもよく似合っていた。2幕で再び絵を描き始めたロセッティのことをラスキンに伝えるところも優しい。人情がにじみ出ていた。ただの狂言回しに徹しないのがよかった。熊倉先生、この役を彼女に与えてくれて、ありがとう。
ラスキンは安定のひろ香祐。こちらもダンディですばらしかったです。ある意味、彼も芸術に魂を売った人である。エヴァレットがリジーを描けばどういうことになるのか、この人だってわからないわけではなかろう。ロセッティとエヴァレットの二人を引き合わせたラスキン自身が二人の友情を裂く。お見事。そして途中、実はエヴァレットを見返すためにロセッティを利用しようと思っていたでしょ? そういうの、よくない。案の定、ロセッティにも見透かされる。ロセッティにわかるようじゃ、みんなにわかるよ。気をつけて、ラスキン
ラスキンは「私は失うものの方が多かった」というけれど、エフィさんだって相当今まで失ってきたし、これからの世間の評判を考えたらかなり失っていると思うけどなあ。勝手な人だ。

ヒゲといえば、エヴァレットのかのんちゃんの2幕のヒゲ! そして渾身の演技!からの涙!
アカデミーの神童と言われながら、アカデミーの展示会に落選、やけ酒を飲んでいる姿はまるで坊ちゃん。でも最初からエヴァレットの方がちょっと大人かな。酒場から帰るときも「すまなかった」と言うのはエヴァレットの方だし、2幕でもイケオジになったエヴァレットが最初に謝る。エヴァレットの方がいつだって少しだけ大人。
そんな坊ちゃんがロセッティに悪さを教えられる、ロセッティは絵の技法を教えてもらう、いい相棒になれるはずだった。仲間だった。最初から「一緒にやろう」というスタンスのエヴァレットに対して、ロセッティは改めて「仲間になろう」と言う。だから初めからそう言っているやん!と思うけど、ロセッティはそこでエヴァレットを「アカデミーをぎゃふんと言わせたい仲間」として本当に認める。
けれどもラスキンエヴァレットに「君が描いたリジーを見たい」と言われ、嫌な予感がしつつ、それを了承する。
完成したオフィーリアはそれはもう傑作だったけれど、エヴァレットは代わりに大切なものをなくす。初めてできたかけがえのない友達を。
1幕の終わりに出てくる幻想のエヴァレットの顔がめちゃくちゃ怖い。これはロセッティから見たエヴァレットなんだ、乗り越えられない壁なんだってすごく感じる。でもエヴァレットだってロセッティに憧れていたところもあるのでしょう。
かのんちゃんは演技も歌も存在感もすばらしく、るりはなちゃん(瑠璃花夏)のエフィとのデュエットもすばらしかった。
エフィはエヴァレットを明らかに誘っておきながら、いざ誘われると「あなた、自分が何を言っているのか、わかってる?!」みたいなことを言う。でも世間の冷たい目にさらされながらも二人はあたたかい家庭を築く。エヴァレットがずっと欲しかったもの。
それに気がつくことができたのもロセッティたちがいたからこそ。病室の場面の美しさは唯一無二の芸術家の魂が現実世界でもういちど交錯したことによる。たまらない。
エヴァレットと新聞の世評を競うことになっても、その結果は芝居の中でわからない。これもいい。
大切なのはロセッティが勝つことでもエヴァレットが勝つことでもなく、ロセッティが「エヴァレットは悪くない」と自分の弱さを認め、自分を見つめ直し、リジーをもう一度描くということだから。この演出がすばらしい。

2幕で居酒屋で繰り広げられる幻想に兄弟団がいたり、冷たいまなざしでロセッティを見つめてくるリジーがいたりするのもよかった。とにかく作り方がうまい。
演出といえば、額縁構造になっているようで、実はそこから少しはみでている構成もいい。
冒頭は、ロセッティの葬式の日、最後にロセッティが絵を描いていたアトリエにジェインとトプシーがいて、そこから回想、長いオープニングとなるが、終わりは、アトリエから二人が去り、時間が戻り、ロセッティがリジーを描いていることがわかり、さらにオープニングの時間軸へと時間が遡る。エヴァレットがオフィーリアを書く前の時間軸である。
まっすぐにリジーを愛するロセッティと屈託のない笑顔で寄り添うリジー。最高だ。そう、この幸せな二人で終わるのがこの物語の大正解なのだ!と思わず目頭が熱くなる。二人で目指したんだもの、ほんもののベアトリーチェを。よくできた構造だった。
場面転換も全くストレスがなかった。
居酒屋の幻想で「学生時代に戻れるなら、戻りたい」と言って、本当にその学生時代で終わる。芝居ならでは。もちろん、あれは天国なんだけど、その天国で学生時代やってんだよな。
まあ、本当に強いて言うと、1幕と2幕の時間のバランスはよくなかったかな、というところ。90分、40分くらいの配分でしたかね。リジーが亡くなったところで1幕終わりでしたが、オフィーリアでエヴァレットが成功し、ロセッティと袂を分かつあたりで1幕を終えてもよかったかもしれません。
でも些末なことです。観客としては全く集中力を切らさずに見ることができました。
熊倉先生、もう次の作品が今から楽しみです! デビュー、おめでとうございました。

デビューといえば、初主演、きわみもお疲れ様でした。作品に恵まれて良かったね! これららも新しいきわみに会えるのを楽しみにしています。

外部『8人の女たち』感想

外部公演

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8人の女たち
原作/《 HUIT FEMMES 》by Robert THOMAS
上演台本・演出/板垣恭一

早々にチケットを取ったにもかかわらず、まさかの土曜日が仕事確定の日だったので、泣く泣く同行する予定だった友人のお母様にお譲りすることになりましたが、その母上が「のんちゃんとまみちゃんが並んでいるのを見ることができて良かったです」とのことでしたので、もう私は胸がいっぱいになりました。
そうなんですよ、のんちゃんとまみちゃんが並んでいるのがね、もうね! もうもう!! しかもセンターですよ!
私の年齢を考慮すると、たぶん「なぜお前がのんちゃん、まみちゃんの並びを知っているのだ……」と思われるのですが、母親がビデオで後追いするタイプのオタクだったので(当時、ドがつくほどの田舎に住んでいたこともある)私が初めて好きになったタカラジェンヌがかなめさん(涼風真世)であることを明かせば、納得していただけることでしょう。そうです、だからのんまみの並びで感動がありとあらゆるところからやってくるのです。ありがたい。
今年の梅田芸術劇場はわりと挑戦する作品が多くて楽しいのですが、こちらもまたその挑戦の一つでしょう。

「今度、元タカラジェンヌだけで『8人の女たち』という映画の芝居をやるんだけど」と夫に話したところ、「フワンソワ・オゾンの?」とどこからともなく映画が出てきたので、映画を視聴してから臨みましたよ、配信に。同じ監督でおすすめなのは『彼は秘密の女ともだち』ですかね。
オゾン監督はゲイであることを公表していますが、関係あるのかないのか、女性の描き方がとても辛辣です。ええ。ドキリとします。でも嫌味ではないです。
映画ではシャネル役の俳優さんが黒人であることも手伝って、人種差別的なことも考えさせられます。

作品としては、「自分の秘密でも他人の秘密でも守るのは難しいこと」「誰も知らない秘密はないこと」を考えさせられます。
ギャビーの不倫はオーギュスティーヌが知っていたし、オーギュスティーヌが読書クラブに入っていたことはピエレットが知っていた。彼女の詩心はルイーズが知っているし、お酒を飲んでいることはギャビーが知っている。
ピエレットがシャネルとポーカーを頻繁にしていたことはマミーが知っていたし、マミーがポートワインを夜な夜な飲んでいたことはシャネルやルイーズが知っていた。
シュゾンの懐妊もオーギュスティーヌが知っていたし(シュゾンはロンドンにいたのになぜ知っていたのかw)、カトリーヌがいやらしい本を読んでいたことをルイーズが知っていた。
マミーが毛糸を夜中に取りに来たことをオーギュスティーヌは知っていたし、シュゾンが前日の夜に帰宅していたことをカトリーヌは知っていた。
ルイーズがマルセルの愛人であることはピエレットが知っていて、マミーやギャビーはマルセルが破産していたことを知っていた。
「他人の秘密」を思わず喋ってしまう心理はわからなくはないですが、シャネルが「ハートのエース、2枚も持っているんだからね!」と勢いあまって言ってしまったり、ギャビーがピエレットに自分の不倫について話してしまったりするように「自分の秘密」でさえ、人間は隠しきれない。愚かではあるけれど、愛のある描き方でした。
あれ、でもマミーが歩けることや株券をクッションに隠していたことは誰も知れなかったのかな。

8人の女性はすべて赤い衣装で出てくる。それに対して、舞台装置として存在感を放つ本棚はブルー。シュゾンが帰宅して「本の香りが懐かしい」というようなことを言いますが、「赤:青=女:男」のメタファーになっているのもよく練られている。
これは映画ではなかなかできない。舞台だからこそでしょう。こうなってくると犬の性別も気になってくる。
これは何度でも見たいですね。配信で見たこともあって、視線が誘導されましたが、生で観劇していたらきっと見落としていたところもあるだろうなあ、と思うほど見所があって、楽しい舞台でした。そもそも芸達者しかいないのがすごい。間の取り方が天才。

ギャビーはわたる(湖月わたる)。オープニングでは「ひときわデカい……」と。もう圧巻。存在感が半端ない。あのロングコート、他に誰が着るんだ……引きずってしまうぞ。
そして本当におもしろい。突然歌い出すのも、マルセルがポーカーをしていたことを知ったときの反応も、ピエレットが銃を触っていないことがわかったときの反応も、全部全部うまい。さすが。
「あなた、マルセルに手紙を書いたの? 毎日顔を合わせている人に!?」の演出もよかったよな。ギャビーは本当に知らなかったんだな。

オーギュスティーヌはみず(水夏希)。あの赤いチェックのワンピースもなかなかにパンチがあるのに、首元のスカーフとタイツがショッキングブルーみたいなまた攻めた色なのに、それがまたよく似合っているんだから、本当にスタイルって怖い。
演じ方によっては、ものすごく嫌味なキャラクターになってしまうはずなのに、そのギリギリを攻める。すごい。
シュゾンに「あなたみたいに汚れてないわ!」と言うあたりが、もう「年季の入ったオールドミス」って感じでした。語の重複はわかっているのですが、もうそう言うしかない。あのキャラクターをキュートに演じることができるのはすごい。
つまり、マルセルとは清い関係だったと。そうよね、「いつか乗ってみたい、恋のゴンドラ」というくらいだものね。
音楽は彼女のためにあったといっても良いくらい、音楽とマッチした演出でした。

ピエレットはたまきち(珠城りょう)。俳優デビュー、おめでとうございます。
かつてヌードダンサーだったという話ですが、思わず宝塚時代のダンスを思い出してしまったよ。肉感のある肉体が迫力をもってダンスする姿が脳裏をよぎって、はっ!としてしまった。何を想像しているんだ、私は。
煙草を吸う姿とかね! 色っぽかったね! ポーカーしている指先もきっと色っぽいわね!とか思ってしまったよ。だから私は何を考えているんだって話ですが。

ルイーズはねねちゃん(夢咲ねね)。メイドなのにえらいメイクが濃いw お人形さんw まさにスタイルお化け。
「私、告げ口するのは嫌いだけどー!?」「もう全部ぜーんぶ言いますから!」「だって私たち、愛し合ってしましたからー!」可愛いな。キュートだな。たまんねぇな。
妖婦と言われているけれども、納得しちゃったよ。納得しかなかったよ。いわゆる肉食女子。あんな家にわざわざ仕事しに来るくらいだから、本当に愛していたんでしょうね、マルセルとマルセルのもっているお金を。
看護師免許まで持っているので、仕事には困らないでしょうが、今後も妖婦として生きていくのでしょう。

シュゾンはらんの(蘭乃はな)。私はタカラジェンヌ時代の彼女をあまり買ってはいないのだけれど(好みの問題です、すいません)、これはいかにも「しっかり者の一族の長女」というぴったりのお役でしたね。わかる、私も長女だから、そういう役割を担わされてきたんだよね。
襟付きの赤いワンピースがとても可愛かったし、途中でボレロを脱いだ姿も可愛かった。
一族の中で唯一「自分を幸せだと思える人」と言われる。この家の外で見つけた幸せというのが、屋敷の魔を感じる。

カトリーヌはかのまり(花乃まりあ)。配信で見た『The Parlor』も良かったですが、今回は全く違う役で、こちらもよかった。
これは考え方の一つですが、結局カトリーヌが提案したことにより、8人の女たちの秘密が次々に暴かれ、それを扉の向こうでマルセルは全て知ることになる。知って、そして絶望して、本当に亡くなってしまう。
かつて『名探偵コナン』に「ピアノソナタ『月光』殺人事件」というお話がありまして。コナンが推理で犯人を追い詰めて、自殺に追いやってしまう、それをコナンがひどく後悔し、今後はそういうことがないように慎重になる、というコナンにとっても一つの分岐点になっているエピソードです。
その後に服部平次に「推理で犯人を追い詰めて自殺に追い詰めるような探偵は犯人と変わらない」というような旨の発言もしており、忘れられない事件なわけですね。
その線でいくと、今回マルセルを殺したのはカトリーヌということになるのかな、と。彼女は最後に泣き叫びますが、そこまで追い詰めたのはミステリー好きな無邪気な子供心だったのではないでしょうか。

マミーはまみちゃん(真琴つばさ)。車椅子から立ち上がるのは、もう笑いがね! 堪えきれないよね! 思ったより立つの、早かったな、という気もしますが、そもそもミステリーの中で車椅子の人って大抵怪しいですよね。
周りから「立ち上がれない」「一人で移動できない」と思わせるのにぴったりなアイテムですから。
がめついババアをコメディタッチだけでなく、キュートにも演じていました。すごいよ、本当に。
隠し扉のあのワイン、死ぬまでに飲みきれるのだろうかという謎が残りますね。

シャネルはのんちゃん(久世星佳)。ギャンブル依存症で「ハートのエースを2枚も持っている」というね。この設定がおもしろくて何度も言いたくなるわ。
けれども、仕事はしっかりする。屋敷のことは隅々のことまでわかっていて、ギャビーからシュゾンとカトリーヌの養育を任されるほど信頼されている(もっともシャネルは「ギャビーにはできないと思ったから自分から進んで買って出た」と言うけれど)。
手紙の処理をしていたのは彼女だから、オーギュスティーヌが読書クラブの会員であったことは知っていた可能性もありますが、主人の家の人間の秘密は守る。マミーの秘密をあばくのもルイーズをかばってのこと。彼女はむやみに屋敷の人間の秘密をばらまかない、仕事のできる人です、すばらしい。しかし彼女は一体どうやって真実に辿り着いたのだろう。ガス管が爆発したときにマルセルの気配でも感じたのだろうか?

ミステリー作品であるにもかかわらず、何度でも見たい作品だと思えるのはすばらしい。
普通、犯人がわかったらミステリー作品の魅力は落ちると言われていますからね。それだけ芸達者が多かったということ。ミステリーの本筋とはまた別の芝居が端々で行われていて、楽しすぎる。目が足りない。
数年後また別の元タカラジェンヌ8人で上演してもおもしろそうです。そのときは必ず生で見たい。
オープニングと1幕終わり、2幕でシャネルが撃たれたあとに少しだけ入るダンスの場面も印象的でした。うまいよなあ。素敵でした。
原作の戯曲は日本語訳されていていますが、私の住んでいる都道府県では2つの図書館しかもっていないという貴重図書。
ちょっと離れた図書館ですが、何かの折にぜひ行って、手に取ってみたいところです。

花組『巡礼の年』考察

マリーとオーロール――『巡礼の年』に見るシスターフッド

1 はじめに
 宝塚歌劇団花組『巡礼の年~リスト・フィレンツ、魂の彷徨~』(作・演出/生田大和)は、19世紀初めにピアノの魔術師として活躍したフランツ・リストを主人公にした宝塚のオリジナルミュージカルである。トップスターである柚香光がリストを、トップ娘役である星風まどかがリストと駆け落ちするマリー・ダグー伯爵夫人を、水美舞斗が天才音楽家フレデリック・ショパンを、永久輝せあが男装の麗人の小説家であるジョルジュ・サンドをそれぞれ演じ、絶妙なバランスで『風と共に去りぬ』とはまた異なる四角関係を見事に表現した。
 主人公であるリストに対して、ショパンは対になる存在として始終描かれている。『歌劇』の「座談会」の中でも「リストが憧れた友人のピアニスト、フレデリック・ショパン」「リストとは対照的に描かれている」「ショパンにすれば、体力があって、華やかな生き方ができるリストに羨ましさがあったはず」と、リストとショパンがお互いに自分にないものを求めている、対照的な存在であることが繰り返されている。講演が始まってからの「楽屋取材」でも「ショパンはリストにとって、地べたを這っている時に軽やかに天を飛んでいるように見える…やはり憧れだったんだろうな」「リストは自分とは対極の、一番分かり合えない人。でも誰よりも認め、尊敬し、ある意味敬愛している」と柚香と水美はそれぞれ語っている。作品の中で、四角関係にある男たちが対立関係にあることは疑いなく、多くの観客もその構造を受け取ったことであろう。
 一方で、四角関係の女性たち、マリーとサンドはどうだろうか。こちらも、リストを間に挟んだ対立関係かと思えば、そう簡単には解釈できないだろう、ということが見えてくる。貴族を見返してやろうと熱く大きな野心を燃やすリストとサンド、大きな愛でリストを包み込もうとするマリーとショパン、孤独な魂の持ち主として出会った瞬間、精神的な共鳴を感じるリストとマリー、と四人の人間関係には多くの共通点が存在する。その中で、マリーとサンドは一見すると恋敵とも考えられるが、実は多くの共通点を持っている。そして、その共通点こそが物語を動かしているのではないだろうか。
 今回は、マリーとオーロール(ジョルジュ・サンドの本名。マリーが本名のため、並立に際して合わせた)の二人の共通点を確認した上で、二人の関係を改めて分析し、彼女たちのシスターフッド(女性同士の連帯)について考えてみたい。なお、サンドを演じている永久輝は元来男役であるが、「男装の麗人」という設定のため、ひとまずここではサンドは女性と定義する。新人公演(演出/中村真央)でサンドを演じた太凰旬は声も高く、ほぼ娘役として役作りをしてきた。

2 二人の共通点
(A)ロマンチスト
 マリーとサンドの共通点の一つとしてロマンチストであることが挙げられる。リストとパリから逃避行した先のジュネーブの森で二人は白い衣装で「姫」「じいや」と呼び合い、鬼ごっこのような追いかけっこを始める。

マリー「あははは」
リスト「姫!お待ちください!姫!」
マリー「じいや、こっちよ!早く!」
リスト「ミラベラ姫…」
マリー「なによ、もう疲れてしまったの?情けない人!」
リスト「なんだと」
マリー「(笑)あら、怒った?怒る元気があるのなら、私を捕まえてご覧なさい!」
リスト「このー」

 ここで二人は「ただのリスト」と「ただのマリー」になり、「本当の自分」で互いと接し合い、本音を語り合う。マリーのロマンチストぶりを示すには十分だろう。『歌劇』の「座談会」でも生田は「前半は若干ラブコメだと思った方がいいかもしれない」「ある意味能天気なただのフランツとマリーになれた」と言う。
 一方のサンドは、屋根裏部屋に初めてロッシーニの結婚相手であるオランプがやってきたときに楽曲「いつか世界は夢を見る」の中で「人とは違う何かがあるって本気で信じたロマンティスト」と歌う。これは同じ部屋にいるパリの芸術家たちを総称したものであるが、もちろんこの中にはサンドも入っている。物語の後半、ショパンとのやり取りの中でもサンドがロマンチストであることがうかがえる。このときのサンドは、ショパンの大きな愛情に気づいて、彼に寄り添うようになっている。

サンド「まだパリに残っていたのね」
ショパン「もうすぐ演奏会があるんだ」
サンド「世界がひっくり返ろうって時に、誰が聴くの」
ショパン「君がいる」
サンド「私が」
ショパン「観客が一人でもいる限り、必ずやる」
サンド「革命渦巻くパリで、私の為だけの演奏会…」
ショパン「パリから芸術が消えていく!誰かがその日を護らなければ…」
サンド「あなたの命の炎が消えるのと、どっちが先なのかしら」
ショパン「気づいていたのか」
サンド「気づかないわけないでしょ」
ショパン「もう時間が無いんだ」
サンド「死なせはしないわ!あなたも。あなたの音楽も!逃げましょう、私と」
ショパン「パリを捨てろっていうのか!?」
サンド「会場変更よ!私の為の演奏会。だったら私の言うことを聞いて」
ショパン「どこへ行く」
サンド「ノアンに屋敷があるの」

 ここで、世界の危機が迫る中、サンドは自分のためだけに演奏会を開くというショパンにときめきを隠せないでいる。だからこそ、そのあとすぐにショパンの体調を気遣い、ノアンの屋敷へと案内する。リストがマリーと駆け落ちするために手を差し伸べたように、サンドは体調のすぐれないショパンの肩を抱いて袖にはける。花道で行われる互いを思いやる二人のこのやりとりは、舞台でジラルダンが率いるシトワイヤンたちの行進のものものしさとは対照的である。
 さらにノアンの城でショパンと暮らすサンドは、それまでの男装の深紅のパンツ姿とは異なり、黒いドレス姿であり、髪には赤い花をつけている。色が黒いのは来るべきショパンの喪の象徴だろうが、ドレスを身にまといショパンと過ごすサンドは、「ジョルジュ・サンド」の鎧を脱ぎ捨て、リストとマリーが求めような「本当の自分」すなわち「オーロール」になっていたのだろう。
 以上により、リストといるときのマリーとショパンといるときのサンドはロマンチストというにふさわしい人物として描かれていることがわかる。

(B)リアリスト
 もう一つの共通点はリアリストであるという点である。二人が文筆家であることが何よりの証拠だ。マリーは伯爵家から物理的に逃げられなくてもせめて精神だけは自由でありたい、とダニエル・ステルンとして筆をとる。そこにはジョルジュ・サンドの影響も大きかった。サンドを初めて紹介されたマリーは「勿論、存じておりますわ。私、あなたに憧れて」と言い、ジラルダンが「それで、彼女、うちの新聞で執筆を」と続ける。これより前の場面で、ダグー伯爵に男性の筆名で新聞記事を執筆していることを詰られたときも「あら、今流行りのジョルジュ・サンドだって、女流作家ですのよ」と言葉を返す。ダグー伯爵がマリーの記事を掲載しないよう抗議したことを知ると、マリーは「私の居場所を奪うのね」と言う。マリーにとって執筆は自らの居場所そのものであったのだ。
 肝心の執筆内容、特にリストの批評について、マリー本人は「あなたの中に、自分を偽って生きる、私の魂の写し絵を見た」「きっと私自身の苦しみを、勝手にあなたに重ねてしまったのね」とそれほど客観性のある記事であったという評価をしない。しかし、実際にリストは「僕自身も気づかずにいた魂の苦しみが、どうしてあなたには見えたのですか」とマリーの批評が的を射ていることを述べる。さらにはショパンも、マリーの記事をリストに渡すときに「逃げずに向き合うべきだ。君が戦うべき本質が書かれている」と鋭い指摘であるとマリーの批評を高く評価している。ここからノン・フィクションを描くジャーナリストとしてのマリーの能力は、自身が思っているほどは低くはないだろうことが予想される。
 作品の中でマリーの書いた記事について言及されるのが、リストの批評だけであるため、実際に他の記事の出来がどうであったかは詳しいことはわからないが、のちに再び筆をとるときにサンドは「あれだけ書ければ、ジャーナリストとして十分!一人で生きていけるわよっ!」と言い、サント=ヴーヴも「ダニエル・ステルン復活だな!」と力強く言う。そのため、マリーの筆力は少なくともただの手遊び程度のものではなく、一定水準の客観性の担保された確かな批評眼に裏付けされた記事であったことが推測される。これはマリーが地に足の着いたリアリストであることを示しているだろう。
 サンドも同じように筆を執る女性だが、こちらは小説家としてフィクションの世界を描いている。作品の冒頭では「ようやく書き上げた私の新作」として「真実の愛を探して、彷徨う魂の物語」「まるで奴隷のような結婚生活に絶望したアンディアナは、愛を探して夫の元を逃れる」「インドが舞台の話」と説明する。ここから推測すると、史実でジョルジュ・サンドが書いた小説『アンディアナ』を指していることがうかがえる。これはリストが「君の話だ」と指摘するように、私小説的な部分を多く含んでいると考えられるが、舞台がパリからインドに変わったことやこの小説を気にサンドが文壇で注目を集め始めた事実を考えると、自身のことをある程度客観視できた作品であったことだろう。現在、フランスで『アンディアナア』がどのように評価されているかはわからないのがもどかしいが、少なくとも作中でサンドは、ロマン主義作家として、リストほどではなくても、一角の成功を収めている人物として描かれている。そして、夫から逃れてきたサンドにとってもまた、書くことは自分の居場所を確保することであったのだ。
 さらにマリーが再びダニエル・ステルンとして筆を執ることになったジャーナリズムの仕事は、もともとサンドが依頼を受けた仕事であった。つまり、サンドはフィクションの書き手としてだけでなく、ノン・フィクションの書き手としても信頼されていたことがわかる。
 マリーとサンドは、物事を相対化し、観察して筆を執る、リアリストな一面をもつ女性として描かれているのだ。
 以上のように、マリーとサンドの二人は、リストを取り合う対立関係であるばかりでなく、それよりもむしろロマンチストとリアリストの両方の側面を絶妙なバランスで保つ人物として描かれているという共通点をもった女性たちなのだ。

3 台詞のすれ違いから歌
 本作品で非常に優れている点として、台詞のすれ違いを用いて心のすれ違いを描き、その後女性が心情の吐露をしながら歌い、リストと別れを示しているところである。初めに、マリーと逃避行したリストとジュネーブまで会いに来たサンドの台詞を挙げる。

ジラルダン「そうだ、ずっと会いたがっていた僕らの仲間を紹介しよう」
マリー「誰かしら」
ジラルダン「ジョルジュ・サンドさ」
  ジラルダンが示したところに、サンドが立っている。
サンド「紹介してくれないの?あなたの恋人でしょ?」
マリー「え」
リスト「ああ、紹介するよ。マリー、彼女はジョルジュ・サンド。作家だ」
サンド「はじめまして」
マリー「勿論、存じていますわ。私、あなたに憧れて」
ジラルダン「それで、彼女、うちの新聞で執筆を」
サンド「まあ、嬉しいわ」

 ここでサンドが言う「あなたの恋人でしょ」は「(そちらの方は)あなたの恋人でしょ」ではなく「(私は)あなたの恋人でしょ」の意味であり、マリーもそう受け取る。だから「え」と戸惑う反応を見せ、不安そうな視線をリストに向けるのだ。リストはそれに気が付いて、サンドのことを「作家」と紹介し、マリーの不安を和らげようとする。肝心のマリーはサンドに憧れて執筆を始めたこともあり、その後は笑顔でサンドに対応する。
 ここでは、冒頭に濃厚なラブシーンを見せたリストとサンドとの結びつきが、いよいよ本格的に切れてしまったことを暗示させるすれ違いになっている。このすれ違いは見事だ。この後、パリに戻ってきてほしいと楽曲「パリの屋根の下、野心は目覚めるRep.」を歌い、サンドがリストにキスをしようとするが「やめてくれ」と阻まれてしまう。サンドはリストが離れてしまったことをここで認めざるを得ない展開となっている。
 そしてマリーもリストとすれ違うことが、台詞を用いて上手に表現されている。次の場面はリストとタールベルクの象牙の戦いの直後のやり取りである。

マリー「フランツ…」
リスト「マリー!聞いていたかい、マリー!」
マリー「ええ、聴いていたわ!本当に、素晴らしい演奏だったわ」
リスト「あの喝采だよ!聞いたかい」
マリー「ええ…」

 リストの言う「聞いていたかい」を、マリーは「(僕の演奏を)聞いていたかい」と受け取り、「ええ、聴いていたわ」と答えるが、リストは「あの喝采だよ!」と続ける。見事なまでのすれ違いである。ここですれ違うのは台詞だけではなく、ジュネーブのときに固く結びついたと思われるリストとマリーの人間関係にもひびが入ることがわかるようになっているのだ。
 また、芝居を見ているときにはなかなかわかりにくいが、脚本では「聞く」と「聴く」が巧妙に使い分けられているとも感じる。マリーは本当にリストとの愛の逃避行の地で新しく生まれた曲に「聴き入っていた」のだろう。しかしマリーの傾聴の姿勢とは打って変わって、リストは観衆の拍手に呑まれ、溺れていく。この後マリーは楽曲「喝采を浴びて」で「なにが嬉しいの」と心情を歌に乗せ、続く楽曲「どうして、手を離したの」で、リストとマリーの心が完全にすれ違ったことが表現される。
 つまり、マリーとサンドは、リストとの決別が台詞のすれ違い、その後の楽曲によって表現されるという演出の面でも共通点を持っているのだ。そして前者の決別がリストをタールベルクとの対決に向かわせ、後者の決別がリストを地位や名誉へと結び付けていく。これらの別れの場面がそれぞれ物語を動かしていくのである。もちろん、これは星風や永久輝が歌唱力に定評があることも手伝っていよう。
 さらに『歌劇』の「座談会」では「どちらも真実だと思うんです。野心も、マリーと共に本当の自分の自分として生きたいという思いも」とある。タールベルクとの対決が終わったあと「一緒に帰りましょう。ジュネーブへ」というマリーは現在のリストとの幸福を訴えるが、リストは「これが成功すれば、金が入る。名誉にだって手が届くかもしれない」とマリーが望んでいない野心への期待を興奮気味に語る。今のままで幸せだというマリーに対して、野心をくすぐられたリストは、相反する道を選ぶより他に仕方あるまい。
 これが、サンドが相手だったらリストの葛藤はなかっただろう。なぜならリストとサンドは熱く大きな野心で結びついていたからだ。サンドはリストが赴くウィーンへ、なんの衒いもなくついていくことを選ぶことができた。あえていえば野心の有無がマリーとサンドの性質を決定的に分かつものであり、それは『歌劇』の「公演評」で「リストから離れて彼の愛人となるサンドが”炎”なら、まさに”水”のように静かな天才ショパン」と言われるように、マリーもまた「水」の性質の持ち主なのだろう。冒頭で指摘した通り、確かにショパンとマリーは愛する人を大きな愛情と広い心で包み込む母性のようなものが共通しているといえる。

4 マリーとオーロール
 マリーとサンドの共通点を確認したところで、マリーとサンドの関係を改めて確認したい。マリーがサンドに憧れていたことは前述した通りであり、リストと別れた後もサンドがマリーに仕事を譲ったことを考えると、マリーは作品の中で一貫してサンドを尊敬し、同じ女性としてのつながりを意識しているように見える。書き続ける中で、マリーはサンドとの連帯を感じていたはずだ。
 一方でサンドはそうではない。途中でリストが自分のもとを離れ、「駆け落ちするほどの想いがどんなものなのか、見せてもらおうじゃない」と敵意をむき出しにする。ジュネーブでリストと二人きりになったときも「マリー・ダグー『伯爵夫人』」とマリーの地位を必要以上に強調し、まるでマリーにパトロンとしての価値しかないようなものの言い方をする。サンドはリストの「本気の恋」を認めようとせず、認めてからは「最後は私のところに帰って来ると思えばこそ、今まで耐えてきたのよ」とリストをなじる。ここでのサンドにとってマリー、リストを本当の意味で自分から奪った憎い女という印象である。
 けれども、リストがマリーを置いてパリから去った後、前述した通り、サンドはマリーに仕事を譲る。少し長くなるが、引用する。

ショパン「それで、あなたを残して行ったのか」
マリー「ええ、けれど、パリには身寄りが無くて」
サンド「夫がいるでしょ」
マリー「別れた夫を頼るなんて!」
サンド「そこは、うまく転がしてやるのよ!」
ベルリオーズ「誰もがジョルジュみたいにうまくできるわけじゃないって」
ショパン「どうするつもりなんです」
マリー「仕事を探そうかと。皆さんみたいに何かできるわけじゃないし、私には何も無いけど」
サンド「自分には何もない?」
  ジラルダンやサント=ヴーヴら文芸絡みの仲間たちが入って来る。
ジラルダン「ジョルジュ!原稿を取りにきた!」
サンド「いいところに来たわね、エミール。その仕事、悪いけど辞退させてもらうわ」
ジラルダン「え!?今更断るのか?」
  サンド、マリーを押し出す。
サンド「ルポルタージュには彼女の方が適任じゃないの?」
ショパン「そうか…リストの批評だ!」
サンド「あれだけ書ければ、ジャーナリストとして十分!一人で生きていけるわよっ!」
ショパン「ジョルジュ…」
サンド=ヴーヴ「ダニエル・ステルン復活だな!」

 リストに置いていかれたマリーに対して、サンドは口調こそ厳しいものの、「夫を頼ればいい」と言ったり、「ルポルタージュは彼女の方が適任」とマリーをジラルダンの方に押し出したり、マリーが自活できるように助け舟を出している。マリーが自分に憧れて執筆を始めたという事情も手伝っているのかもしれない。このときのサンドにとってマリーはもはや「リストを自分から奪った女」ではなく、「自分と同じように筆で生活をしていく女」である。当時のフランスの時代背景を考えれば、一人の女性として生きていくパワーや勇気はすさまじかっただろう。「女性作家」ではなく「女流作家」と言われた時代である。女性は男性の筆名でなければ、書いたものを正当に評価されなかった。サンドはマリーを「ものを書く女性」の後輩として、連帯を意識せざるを得なかったともいえるかもしれない。間違いないのは、このときサンドはマリーを嫉妬心抜きに対等な存在として認めたということである。この場面は確かにマリーとサンドの間に女性同士の絆――シスターフッドが生まれた瞬間であった。それだけに、二人の大きなナンバーがないのが悔やまれる。
 この直後、革命に向かうジラルダンたちと貴族をパトロンとする芸術家たちは袂を分かつことになり、マリーとサンドは作中では顔を合わせない。けれども、一概に彼女たちの物理的なつながりを革命が引き裂いたとはいえないのは、彼女たちの生きる原動力が愛する人への一途な愛であるからだ。
 マリーは「魂の彷徨」の場面において「私は、あなたと一緒にいたくて、あなたを取り戻したくて始めたことなのよ」「フランツ!わたしは、もう一度あなたと…」とリストに語りかける。「楽屋取材」でも「彼への愛がずっと原動力」と言い、革命を起こしたこととリストを愛していることがマリーの中で矛盾なく存在しているどころか、リストを愛しているからこそ革命に身を投じたという態度を示す。そして実際「魂の彷徨」の革命の中でリストと念願の再会をようやく果たすのだ。
 サンドは革命から逃げるが、それはショパンの体調を気遣ってことである。それはサンドがロマンチストであることを述べるときにも引用した通りだ。いつの間にか自分を大きな愛で包み込み、寄り添ってくれる存在に、サンド自身も何度も支えられた経験を自覚しているようなことがにじみ出る演技であった。仮に革命がなかったとしても、ショパンの病状を考えて療養を勧めていただろう。
 マリーとサンドは、それぞれ自分の愛を選んだことにより、違う道を歩むことになる。しかしこれは決別ではない。彼女たちは「男性の筆名で執筆を続けること」「自分が愛する人と共にいること」を選んだ点において共通している。その選択は、最高の形の幸せとまではいかなくても、それぞれその選択に納得している。だからサンドはショパンの死に気づいて「さよなら、私の王子様」とつぶやき、マリーは革命から18年後、リストに会いに行くのだろう。

5 おわりに
 リストを取り巻くヒロインはもう一人いる。圧倒的な歌唱力を誇る音くり寿が演じるリストをパリの社交界に連れてきたラプリュナレド伯爵夫人である。彼女とリストを隔てたのはまさに身分である。ラプリュナレド伯爵夫人は単なるパトロン以上にリストを愛していた様子がうかがえるが、マリーのように貴族という身分を捨てることはなく、その選択肢さえも最初からなかった。あくまでパトロンという立場にこだわり、後見人としてしかリストをつなぎとめる方法を知らない彼女に、パリで大成功を収めたリストが「本当の自分」をあらわにできるはずもなく、いつの間にかラプリュナレド伯爵夫人の存在を重荷に感じていく。リストとマリー、リストとサンドの関係と違うのは、二人が対等な立場で本音を話すことができなかったことに尽きるだろう。だからこそ、彼らの台詞はすれ違うことがない。もともと心が通っていないからだ。しかしミュージカルらしく、二人の決定的な決別を示す楽曲「二度とパリには」では貴族たちを率いて高らかに歌い上げる。
 本作は、リストとマリーの決別までの前半の盛り上がりは間違いなくおもしろい。そのため、今回もそれまでの中心に論じてきた。一方で、後半は、すでに多くの人が指摘するように、リストの戴冠式が『エリザベート』(脚本・作詞/ミヒャエル・クンツェ)を、革命時におけるジラルダンのラップが『1789ーバスティーユの恋人たちー』(脚本/ダヴ・アチア)を、魂の彷徨の場面が『fffーフォルテシッシモー』(作・演出/上田久美子)を、可視化された才能が自身の幼少期であることが『モーツァルト!』(脚本・作詞/ミヒャエル・クンツェ)を、といったように他のミュージカル作品を連想させてしまう演出になっている。それ以外にも、ロマン主義の芸術家たちの自己紹介ソングがなかったり、ラストが唐突に18年後になったこと、リストが神父になった理由が少々わかりにくかったりするが、本作は宝塚のオリジナルミュージカルとして、トップスターの柚香光の代表作になるに違いない。
 生田作品には他にも『ひかりふる路』がフランス革命を題材とし、トップスターがロベスピエールを演じている。本作とは「一度心を通わせたと思った女性(娘役トップスター)に男性(トップスター)がひどく傷つけられるが、最後はある種の安らぎを得る」という筋が共通している。ジョルジュ・サンドの人物像にはロベスピエールの片腕であるサン=ジュストからの影響もうかがえる。『ひかりふる路』でも、マリーアンヌとオランプのシスターフッドが描かれており、娘役の描き方の評価は高い。生田作品は、主たる観客である女性を不快にさせる演出がほとんどないのが特徴だ。今後のオリジナルの生田作品にも大いに期待したい。

●出典
『歌劇』「座談会」(通巻1161巻、2022年6月)
『歌劇』「楽屋取材」(通巻1163巻、2022年8月)
『Le・CINQ vol.224』(通巻385号、2022年6月)

月組『グレート・ギャツビー』感想

月組公演

三井住友VISAカード ミュージカル『グレート・ギャツビー
-F・スコット・フィッツジェラルド作“The Great Gatsby”より-
脚本・演出/小池修一郎

世界的な名作を宝塚で上演するのはやぶさかではないのですが(むしろ海外文学入門としての敷居が低くなるので大歓迎)、物語の根幹に関わるところを改変することには両手を挙げて賛成することができないのが難しいところです。
宝塚で上演するのなら、トップスターと娘役トップスターが結ばれなければいけない、というのはある意味真理かもしれません。けれどもそれは、個人的な見解を言えば、オリジナル当て書き脚本に限ったことだと思います。そもそも宝塚には座付き演出家がいて、オリジナル当て書き脚本で上演するのが前提で、それが可能な、世界的に見ても珍しい劇団だからです。宝塚の特色を「役者が未婚の女性だけで構成されている」とするのはもちろんですが、これを全面に持ってくるようでは、宝塚の存続が危ういことを『刀剣乱舞』の舞台のキャスト発表で知らされた身としては、やはり「オリジナル当て書き脚本をその都度作成することができる」という特色をもっとクローズアップした方がいいのではないでしょうか。
海外文学作品、海外ミュージカル作品の入り口としての役割はわかる。でも、一方でそれだけでは生き残れないと痛感しています。
そして原作付きの作品を上演するときに、「宝塚的な演出変更」が場合によっては必要になってくるのはわかるけれども、それが物語の根幹に関わったり、ラストシーンだったりすると、なんだかもうこれでいいのかなと思ってしまうのです。
例えば、今回と同じフィッツジェラルド作の『リッツ・ホテルくらいに大きなダイヤモンド』も、ラストにあるはずのキスミンのキャラクターを示す大切な場面がカットされているし、それゆえに原作のラストの冷たさはなく、宝塚版では「二人はいつまでも仲良く暮らしました」みたいな御伽噺になってしまっている。それはもう別の作品なのではないかと私は思ってしまう。
今上演されている星組の『モンテ・クリスト伯』もね、その意味でなぜエドモンとメルセデスと元サヤになるのか、さっぱりわからん……どうしても宝塚でやるならエデを娘1にしたらいいのではないか……もしくはバウホールの若手育成の場にして、ダブルヒロインの形をとるとか、やりようはいくらでもあると思うんですけど、なぜトップコンビで上演するの……(ちなみに巌窟王については、劇団☆新感線の『蛮幽鬼』の改変はすばらしかった)。

前置きが長くなりましたが、つまり『ギャツビー』でもなぜデイジーがギャツビーの墓参りをしなければならないのか、ということが昔から疑問で不満で不審で、フィッツジェラルドに謝って?!と思っているところなのです。だからイケコ以外の演出で見たかったんだよ……とほほ、と思ってします。
これはもしかしたら、イケコが初めて『ギャツビー』を宝塚で上演しようとしたとき、「ヒロインが宝塚っぽくない」と言われて却下されたことが関係しているのかもしれません。
だからこれは「ヒロイン(デイジー)を宝塚っぽく」するための処置だったのかもしれないけれど、当然世界には宝塚の枠には収まらない名作がたくさんあるわけでして。ラストの墓参りはデイジーのキャラクターの根幹に関わるところでしょう。そこは変えてはいけないのでは……。だったら無理に大劇場作品にしなくてもいいのに、と思ってしまう(私は大劇場公演に限ってはトップコンビのラブが欲しいのです)。
デイジーは周囲の考えを受け入れ、内面化することで子供から脱皮して大人になる、一方でギャツビーは子供の頃の夢や愛をかなえるために生きている、大人になっても子供を捨てられない、子供の延長として大人になる、その見事な対比が鮮やかなのが原作の印象だったがゆえに、ギャツビーの墓参りに来るデイジーって何、と呆然としてしまう。
デイジーはギャツビーを捨てたのだ。ギャツビーの死を本気で悼んでいるニックをジョーダンがばっさりと捨てるように。だからデイジーが車でマートルを轢いたあと、銀橋でギャツビーに「信じてもらえないかも知れないけれど、あなたを愛している」というのは、とてもずるい女に見えてしまって、なんだかなとモヤる。ずるい女というキャラクター設定だったか? 墓参りはもっとモヤる(しつこい)。

とはいえ、与えられた枠の中でタカラジェンヌたちはいつもながらよくやっていて、持ち前の演技力を発揮していたわけです。
れいこちゃん(月城かなと)のギャツビーなんてさ、もう見る前から大正解だってわかってんじゃん? 白いスーツで「朝日が昇る前に」を歌いながら背中を向けるれいこちゃんなんて大優勝に決まっているじゃん? 
見たら、もうあのギャツビーしかいないじゃん?ってなる。徹頭徹尾正統派耽美系男役。
ギャツビーの宝塚的改変はわりとうまくいっていると思っている。
デイジーがゴルフコンペで自分を選ばなくても、挙げ句自分の車で事故を起こし、死人まで出したデイジーを愛し続けるギャツビーって、ものすごく理想で宝塚的。言ってしまえば乙女の都合のいい永遠の夢。
原作では、自分を選ばなかったデイジーに絶望している、これから先生きていても意味がないと思うから、ウィルソンの銃口にも恐れることなく向かう。
宝塚のギャツビーもウィルソンの銃口を向けられて、死を覚悟はしているけれども、最後までデイジーを愛している。デイジーに幻滅しない。なんなら自分が死ぬことがデイジーへの最後の、そして最大の愛の証だとさえ思っている節がある。怖いくらいに。宝塚のギャツビーはデイジーをそうやって最後まで愛し抜いた。
マートルを轢いたことで動揺しているデイジーに「君はパメラの母として生きる」と言える男ですよ、すごいでしょ。いや、そうはならんでしょ、やさしくしなくていいでしょって思うよ、普通は。でもギャツビーは最後までデイジーの「王子様」であろうとしたんだよ。きれい事だよな、本当。
そして、これがれいこちゃんとうみちゃん(海乃美月)のコンビなんだから、もうファンはたまらない。うみちゃんを最後の最期まで愛するれいこちゃんって……! 私たち、これ知っている! 何度も見てきた! 進研ゼミでやった!となるやつです。
れいこちゃんの、まゆぽん(輝月ゆうま)ウルフシェイムとのやりとりもよかったんだよな、しっとり大人。危ない橋を渡りまくっている大人の雰囲気が漏れ出でて最高だった。

デイジーを演じたうみちゃんも、よくわからない演出の枠組みの中でよくやっていて、墓参りのシーンのあの冷たい無表情の美しさといったら、なんなのもう!って感じ。うみちゃんの美しさの使い方、間違っているだろ!?とイケコに対しては思うけれども、うみちゃんはひたすらに彫刻のように美しくて思わず跪く。
デイジーの墓参りを無理矢理納得させる方法がもしあるのだとすれば、それはやはりパメラの存在でしょう。デイジーは、銀橋でずるい女になって言うようにギャツビーを愛しているかもしれないけれども、パメラの父としてはギャツビーではダメで(社会的地位が虚構な上に裏社会の人間だったから)、マートルを轢いたことを警察に自首しようとするデイジーを引き留めるトムの言葉にも「俺たちにはパメラがいる」とある。
女を子供で縛り付けようとする姿勢には正直うんざりするのだが、周囲の価値観を受け入れることで大人になったデイジーには、子供を捨てることができない。
ゴルフコンペのときにパメラとギャツビーを引き合わせようとして、ヒルダにものすごい勢いで避けられてしまう、あのときにデイジーの中では何かが崩れ始めた。パメラの父親としてギャツビーはふさわしいのか、その疑問をもった上でトムの「ギャツビーは輝かしい過去をすべて金で買った悪党だ」と知らされてしまえば、デイジーは当然ギャツビーのもとにはいけない。あそこの痛烈な叫びも演出としてはどうかと思うんだけど(まあ、なんせ『ポーの一族』をあんなに大袈裟にしてしまうイケコだからな)、じゃあパメラがいなかったらどうなんだ、と思ってみると、少なくとも原作のデイジーはトムを選ぶと思うんですよね。というか、原作のデイジーはギャツビーと結婚したあと、ギャツビーの本当の過去を知っても別れそうなキャラクターだからな。
「子はかすがい」とは言いますが、仲の悪い両親を目の前に毎日生活しなければならないパメラの気持ちを考えたら悲惨なものです。乳母のヒルダだってあの価値観の人間ですからね。パメラが可愛そう。
またヒルダがね、厄介なのよね。今回で退団のなつこさん(夏月都)ですが、デイジーが家出をしたときも母親に告げ口をするのは彼女だし、彼女はデイジーの乳母でもあるのに、デイジー個人を見ていなくて、デイジーの幸せを身分でしか測らない。怖い。
フィナーレの二人のデュエットダンスがまさかの赤いお衣装で美しさに眩暈がした。ギャツビーがデイジーに見合う立場の人間だったら、あるいはデイジーが既存の価値観を振り払うことができたら、こんなに幸せなことはなかっただろうに。

トムのちなつ(鳳月杏)はさすがの足の長さと存在感。二番手がトムということで、こりゃメロドラマの色が濃くなるのかな、と思ったけれども、追加された曲は「アメリカの貴族」という愉快なナンバーでした。
なんていうかね、「アメリカ」の「貴族」っていうのがね、もう滑稽で笑う。貴族は血統に存在するものであって、トムはただの金持ちにすぎない。
マートルやヴィッキーと他の女に平気で目を向け、手を出すというのに、トムはデイジーを手放さない。何にも執着しないトムが、おそろしいくらいデイジーに執着している。自分の「格」に釣り合うのはデイジーだけだと思っているから。それが愛だと思っているから。「釣り合う」って考え方がもう傲慢で耐えられない。
マートルのこともヴィッキーのことも「何をしてもいいもの」と考えている、自分と対等な個人だとは少しも考えていない。だから簡単に拾うし、簡単に捨てる。子供がおもちゃをそうするように。
でも、いるよね、こういうやつ。そう思ったらものすごく腹立たしくなってしまって。自分が恵まれているのは自分が努力したからだと勘違いし、貧乏人には自己責任を振りかざし、お金で何でも解決できると思っているヤツ。「ノブレス・オブリージュ」って知っているかい?と胸ぐらを掴んで聞いてやりたい。
だからちなつの役作りは間違っていないのだろうけれども、今この国で、この時期に、こういうキャラクターがひどい目に遭わないのはモヤるんですよね。別に勧善懲悪な話がすごい好きというわけではないのだけれども、美形のちなつの後ろに汚い政治家達の影を見てしまって本当につらい。なんだよ「神様だって時には見逃してくれる」って。金でもみ消すだけだろうと思ってしまう。
フィナーレのちなつのお衣装、素敵でしたね。ゆったり銀橋を渡りながらしっとり曲を聴かせてからのロケット、すばらしかったです。次の主演公演が楽しみだなあ。

ニックはおだちん(風間柚乃)。ニックはとても大切な役で著者であるフィッツジェラルドの半身である(ちなみにもう半分はギャツビーかな)。
レオナルド・デカプリオ主演の『華麗なるギャツビー』はまさにニックがキーパーソンになっていて、冒頭、彼が精神病院で治療を受けているところから始まる。彼が精神を病んだのは戦争のためだけではない。ギャツビーの一連の出来事を通して「アメリカン・ドリームなんてまやかしである」と痛感してしまったためだ。
ニックの月給は、ジョーダンに「週に?」と週給と勘違いされるほど、トム・デイジー・ジョーダンの3人にしてみたら安い。安くて笑いがこみあげてくるほどには。
そんなニックと3人がうまくいくはずがなく、しかも真面目に働いているニックに対して、ジョーダンはいかさまゴルフで稼いでいる賞金女王だ。うまくいくはずがない。
みちるちゃん(彩みちる)のジョーダンとのやりとりは軽快で楽しく、恋をゴルフに見立てるニックは可愛らしいが、所詮そこまでである。生涯を共にするにはあまりにも価値観が違いすぎる。
おだちんは研9でありながら、もうタカラジェンヌ人生3回目!と巷で騒がれるほどの演技力の持ち主ですが、良い具合に初々しさ、若々しさをまとっていました。ニックが主演の『ギャツビー』もおもしろいでしょう。宝塚でやるなら別箱でしょうが。

みちるちゃんのジョーダンは公演スチールを見て瞬間に「はい、最適解!」と思うほどの出来映えで、もう本当ありがてぇ!という感じでした。拝むわ。可愛い。
ジョーダンとデイジーがなぜ「親友」なのか、ついでにいえばギャツビーとウルフシェイムも「親友」という枠なのか?と思いますが、後者は単なるビジネスパートナーだし、前者はお金の価値観が合うというだけなのでしょう。付き合う上でそれも大切なのわかる。でもそれだけだから私たちが普通に考える「親友」と比較するといかんせんドライな関係に見えざるを得ない。
デイジーはゴルフの良さがわからないし、ジョーダンもバレエの良さがわからない。なんなたお互い「なんでそんなこと」くらいに思っている。それでも「親友」なのは金銭感覚が強く二人を結びつけるからでしょう。金銭感覚が結びつける友情といえば、なるほどたしかにギャツビーとウルフシェイムも同じで、そういう関係が跋扈する程度には、当時のアメリカではお金が第一だったということがよく伝わってくる。でもそれはとても淋しい。
トムがニックのことを「独身なんだ」とジョーダンに紹介したときの、「私もよ」というみちるジョーダン、最高に色っぽかったわ。あれは落ちる。トムはまだ純情だからさ。
そして、ゴルフコンペでのパンツ姿、とても愛らしかったわ! 素敵でした。好敵手であるマダム・セイヤーはスカートだったのに、ジョーダンはゆるーいパンツ、ちょうど今流行っているようなスカートにも見えるタイプのパンツというのか。

そして月組へようこそあみちゃん(彩海せら)。私は『ブエノスアイレス』を見られなかったので、これが本当の月組あみちゃんはじめっましてなんですけど、丸眼鏡のエディ、とても可愛い。ときめくに決まっているレベル。
しかもアイスキャッスルでは、クールなスーツガイとしてまゆぽんの後ろにいる。なんなの、あの悪い人。そしてこの振れ幅よ……っ!
2幕冒頭も天国かと思いましたね。センターやんか……。天使の歌声じゃんか……銀橋の先頭にも立つじゃんね……ねえ、これは夢なの幻なの、とってもいいわ、素敵だわ。歴史的瞬間でした。
しかもその隣では今回退団のアキちゃん(晴音アキ)が歌い、後ろではこありちゃん(菜々野あり)とそらちゃん(美海そら)のバレエ姿が拝める。マジで何なの、目が足りない。ありがてぇなあ!!!
ヴィッキーのかれんちゃん(結愛かれん)の可愛らしさもぐんぐん伸びてきて、彼女の時代が近いことも感じました。

今回の『ギャツビー』でもっとも共感してしまったのが組長(光月るう)が演じるウィルソンです。まさかすぎる。
自分にとってマートルは過ぎた女だということを充分に理解していながらも、一方でものすごくマートルのtこおを愛している。ウィルソンがそのとき、そのときでできうる限りの最大の愛情を示している。それは場面になかったところでも、きっとそうなのだろうということを思わせる。
何も大きなことは望んでいない。豪邸に住むとか、一生かかっても使い切れないお金を手にするとか、そういうことを夢見ているわけではない。ただ、マートル問いっしょに小さな幸せを積み重ねていければそれでいい、それでちゃんと満足できる人間。
それにもかかわらず、その幸せさえ、摘み取られてしまう。トムのようにお金を持っている人間にとって踏みにじられてしまう。あるいは有り余るお金がないと生きていけないデイジーによって。
でもさ、もう100年も前に書かれた小説の、一番ひどい目に逢う人に共感できちゃうなんてどういうことだよ。それでいいのかよ。
人間って本当に、絶望的なまでに進歩がない。

ギャツビーのパパはじゅんこさん(英真なおき)。『CH』で休演してから初めてかな、お元気そうで良かったです。
ニックをギャツビーの元に連れて行くタクシーの運転手とラストにギャツビーの墓で出会うギャツビーの父が同じ人なのはにくい演出。そう、こういうところはすばらしいんだよ、本当。

大劇場公演は何が何でも観るぞ!という気概の元、3枚チケットがありましたが、全て流れました。ああ、無情。
そんなわけでいそいそと配信を見ましたが、ここは芝居の月組、下級生に至るまで端っこでわちゃわちゃ芝居をするのが常ですから、そこが見られないのはとても残念。娘役ちゃんたちをもっと堪能したかった。
東京は1枚何とか確保したものの、立ち見席ですから、体調との相談もありますし、往復の新幹線代の方がかかるのは頭が痛い。そもそも無事に上演してくれるのだろうかという一抹の不安さえある。たとえ私個人が見に行けなかったとしても、公演だけはなんとか無事にできますように。
去年の夏、『桜嵐記』が無事に上演できたのがどれほど奇跡だったのか、思い知らされます。

雪組『ODYSSEY-The Age of Discovery-』感想

雪組公演

雪組公演 『ODYSSEY(オデッセイ)-The Age of Discovery-』 | 宝塚歌劇公式ホームページ

Midsummer Spectacular『ODYSSEY(オデッセイ)-The Age of Discovery-』
作・演出/野口幸作

雨の影響で朝から新幹線が100分以上遅延をしているわ、なんとか乗った満員の新幹線の中でまさかの『心中・恋の大和路』の休演を知るわ、キャトルでは浴衣を着たお嬢さんたちが大きな声でお話をされているわで、驚きがドミノのように倒れていく中、最下手ではあるものの、一桁の列のお席で観劇いたしました『ODYSSEY』。
ショー2幕ということでワクテカ!しつつも、ノグチくんに一抹の不安を覚えながら開演前の波音を聞きました。
思えばこれも正月に座礁した船でしたね……。正月版のプログラムと比較するとこれまた興味深いですが、あやなちゃん(綾凰華)を失ったのがつらすぎて、あんまり正面からは見られないという罠。初日、号泣して観劇したそうですが、そらそうだろうよ、自分が出演するはずだった作品を観客として見るとは、一体どういう気持ちなのだろう。

個人的に楽しかったところから。
まずはかりあん(星加梨杏)です。なんといっても彼女です。
最近なぜか『本物の魔法使い』を観劇したときの彼女に関するツイートがよくいいねされたり、リツイートされたりしていて、不思議には思っていたのですが、いやはやこれは世界に見つかっちゃいますね、猪崎先生。どんどん皆さん知ってもらいましょう。
どの場面でもオペラから覗いちゃったわよ! なにがそんなに目を引くのか、今のところよくわかりませんが、とにかく見ちゃうんですよ! ひゅ~! 格好いい~!ってね。
大体どの場面にもいますが、わりと目の前に来てくれることもあって、ウキウキでした。淡い恋心を抱いている女子高生のようでした。あらやだ、恥ずかしいわ。
特に「中華の美男(歌手)」は最高でしたね。っていうか白峰ゆりが美人すぎる件について。いや、知っていたけどな、あのチャイナもすごかったけど、次の「捕虜の女」のお腹もすごかったな。何も食べていないのかというお腹だったな、夢やかすみを食べているのか、タカラジェンヌよ……。踊れる美人のゆり姉さんでした。
あとはありきたりですが、かりあん、ウィーンの紳士もよかったな。銀の軍服。あれは、みんな、反則や……。

夢やかすみを食べているタカラジェンヌですが、あーさ(朝美絢)もまたほっそりしてきて、おいおいそれ以上痩せてくれるなよ、ダイナミックなダンスや演技ができなくなるぞい……と心配になりますが、美しかったですね、アポロン
メインの金色お衣装はさることながら、中国の美男もすばらしかったわ……っ!
プログラムを見たときは『シルクロード』で果たせなかったあーさのチャイナ服リベンジ!と期待したわけですが(私だけじゃないですよね?)、実際に出てきてみると、『眩耀の谷』のような、中国の皇帝のラクチンルックみたいな感じで、まあ、もちろんそれはそれで大変に似合っていたので良いのですが、私たちは一体いつになったら彼女のチャイナ服は見られるんだという気持ちにはなりました。『蒼穹の昴』もいわゆるチャイナ服って感じではないだろうしなあ。じらされている。
それはともかく、すばらしいビジュアルでした。ダンスも素敵でした。でもこの場面、相手役はなぜはいちゃん(眞ノ宮るい)だったのか。はいちゃんに罪はないけれども、ひまり(野々花ひまり)で見たかったなあと思いました。
そもそも娘役がいるんだから、女性の役は娘役にちゃんとやらせないと、娘役に場数を踏ませないと、アップするスキルもアップしないよ。経験積ませてあげて(後述)。
あと、あーさはさきちゃん(彩風咲奈)ときわちゃん(朝月希和)の夢のように甘く美しいデュエットダンスで歌も担当していましたね。だいもん(望海風斗)に歌い方が似てきたのかな。すごく良かったです。なんでもできる頼もしい男役さんになったよね、本当……っ!
ビジュアルでいえば、もちろんウィーンの紳士の銀の軍服も良かったですし、メフィストフェレスも最高によかった。なんだ、あのメフィストフェレス。今すぐ『銀の狼』できるやん、シルバじゃん、ヒロインはひまりでよろしくって思いましたね。
この悪魔の写真はぜひ欲しい……欲しいけど、場面としては短かったしな、どうだろう。ちゃんとシャッター押してね、頼むよ!
雪祭男子にあったようなイケメンジャニーズみたいな売り出し方はもういいから、とりあえず一回闇の深いキャラクターを主演でやらせてあげて欲しい。栗田優香先生、マジで頼みます。
そして「お前にマジ」の歌詞は、ごめんなさい、笑ってしまいました。
カルメン場面のエスかミールヨはあーさではいけなかったのだろうか。白軍服のあーさ、見たかったな。
ところで赤茶みたいなカラコンしてましたかね、彼女。ええ、そんなところまで見えるくらいには席が近かったんですよ、わたくし。

大活躍のはばまい(音彩唯)。誰だって美穂圭子の代役といわれたら緊張で足がすくんで声も出ないようなところを、新人公演主演も経たはばまいちゃんがしっかりこなしましたね、めでたい。
プログラムを読んだときには「なぜ……なぜ美穂圭子の代役はすべてはばまいちゃんなの……他にも歌姫がいるでしょ、ともか(希良々うみ)とかありすちゃん(有栖妃華)とか。そもそもきわちゃんの出番もいまいち少ないような気がするのだけど」みたいな感じだったのですが、やってくれました。通し役ですし、見てみれば、彼女が全部代役をするので正解なのでしょう。他の歌姫のファンは多少もやるでしょうが、それははばまいちゃんの責任ではありません。
どのドレスも素敵でしたが、プロローグの青いドレスとエトワールの白いドレスは群を抜いて良かったです。美しかったよ、はばまいちゃん。彼女もどこかに組替えしてしまうのでしょうか、と一瞬淋しいことが脳裏を過りました。円盤は残らないにしろ、スカステではどうにかならんかな。はばまいティティスを世に残したい。
しかし、正月があったとはいえ、座付きの作家なのだから、無理にAとBのパターンを作らなくても良かったのではないかなという気もします。これは劇団側の問題ですが。
もちろん実際に見てみれば美穂圭子しかできる人はいないキャラクターだというのはわかるんですけどね、コロナがあったとはいえ、全日程こなせるメンバーでどうにかならなかったのかな、という気はします(後述)。

どこにいても可愛いヒロイン! 別格扱いが嬉しいひまりちゃん!
プログラムを見ると、ちゃんと別格扱いなのがわかるけれども、舞台だけ見ているといまいちかなー。きちんと舞台の上でも別格であることがわかるようになってくれるといいのですけれども。
ニューヨークの場面なんかは埋もれがちだったような気がします。もちろん私はすぐに見つけるのですが。
大勢が出てくる場面が多すぎるのも問題ですが、大勢の中で真ん中にいる、だけではない何かが欲しいなと思います。いや、私の見落としの可能性もあるけどね。
カエラもマチルドもあったじゃん!と言われればそうなんですが、なんか単に色違いの衣装を着せられているだけな感じがして、歌のワンフレーズでもよこさんかい、とか、一人で踊る場面ばかりではなく男役と絡ませんかい、とかそんなことばかり思ってしまいました。
そして娘役を使ってくれ! 彼女が中国の美女ではダメだったのか! 『ほんまほ』の再来で、あさひまコンビが見たかったよ、私は!!

大人格好いい娘役代表ともか! もっとガンガン起用してやってくれよ!
冒頭の波のお役なんかはさ、誰よりも頭を後ろにそらせるし、ニューヨークの場面では、誰よりも高く足を上げて色っぽく組むし、ちょっとこの娘役芸をもっている人を、どうしてもっと活躍させてくれないんだあああああと心の底から思いましたね、ええ。
かろうじてウィーンの淑女のソロ場面はありましたが、それだけかーい! もっと歌えるやんけ、彼女! 場数を踏ませてやってくれー!と机をバンバン叩きたい。
あれですね、別箱あたりで、悪役令嬢みたいな役が回ってくると本領を発揮してくれるのではないかな、と勝手に期待しています。うう、貴重なんだよ、セクシーで格好良い大人の娘役さん! カルメンは彼女ではダメだったのですか。

トップ娘役だというのに、きわちゃんの出番もなんだか少なかったように思えて残念です。色っぽい大人の娘役からウィーンの淑女Sのようなキャラクターまでできる芸の幅の広い娘役さんなのに! それを余すところなく使いこなしてくれよ!
出番といえば、1幕はプロローグとニューヨークと最後にちょっとだけだよ。2幕はお祭り場面以外は出ていたけれどもさ……。
さききわのコンビファンとしてはなんだか物足りないよぅううう。
もちろんこれも本当は正月に行われる公演だったという弊害でしょう。退団を公表してからの公演のわりに、コンビの場面が少なかったのが解せぬ。囚われた王妃の役はきわちゃんではダメだったのですか。
そのあとすぐにセレネが出てくるけれども、それは場面の入れ替えでどうにでもなるでしょう。さききわコンビが見たかったよ。

あとはすわん(麻花すわん)が蛇使いの子供として登場しましたね。今後が楽しみなスターさんです。
友人が大好きなせいみくん(聖海由侑)もばっちり発見。ソロもありましたね。今回は金髪ではなく黒髪で登場。
カセキョー(華世京)は赤い髪が新鮮! ちょっとお化粧も変わって、ぐっと垢抜けてきた感じがします。
ありすちゃんも美声を轟かせてくれました。もっとお歌の出番があってもよかったのにー!><
と、まあショーでしたからスターを探すのに忙しいし、大変だし、楽しかったです。

楽しかったんだけど、ねえ……。男役さんがドレスを着る場面があまりにも多すぎて……。
いや、そういうのが好きなファンがいることは知っていますし、演出家でも例えばダイスケ先生(藤井大介)も好きですよね。
でも私は個人的にはとてもとても苦手で。物語の都合上、大きくてガタイのよい女性である必要がない限り、女性の役は娘役さんに回して欲しいんですよ、ええ。
宝塚歌劇団が男役中心なのはわかるけれども、男役さんにもドレスを着せてトップスターの相手をさせてしまうと、娘役の意味とは???となってしまう。
もちろん男役さんの作り出す女性像と娘役さんの描き出す女性像は異なる。異なるけれどもさ、男役さんのいわゆる女装(あんまりこの言い方も好きではないけれども)を許容したら、ではそもそも女性だけで演じている意味とは???となってしまう。
私は娘役の強火ファンということもあるから、路線でなくても娘役をきちんと育てて欲しいと思うし、それには今回のような別箱での場数を踏むことが鍵になってくるとさえ思っているから、ちょっとね苦い。
先日退団されたはるこさん(音波みのり)みたいな娘役さんを各組に配置したいじゃない。経験を重ねても磨き上げられる娘役力ってあるじゃない。雪組だったら、ひめさん(舞咲りん)だってある種の見本だったと思うのです。
それなのに3つの場面続けて男役さんが女性のキャラクターを演じ、あまつさえ2幕でも「また……」となり、私は正直辟易してしまったよ。好みもあるけれども、劇団が娘役をどういうふうに考えているのか、真剣に問いただしたい気分だよ。

トップコンビについても、この絆をどう考えているのかはちょっと謎でした。先にも書いたけれども、あまりにもきわちゃんの出番が少なくないですか?
そりゃ出てくれば目を引くし、色っぽいし、格好良いし、でも可憐にもなれるし、変幻自在の美しい娘役さんなんだけど、コンビとしての売り出し方に疑問を感じざるを得ない。次の大劇場作品で退団なのに、そして次の作品だってあまり咲ちゃんとの絡みは並一通りな感じでドラマティックにしようがないのに、なぜ……いっそ、きわちゃんがセンターの場面が『センセーショナル』のときみたいにあってもいいくらいなのに。
これは、正月に公演されることが想定されていたから、そのときにはまだ退団が発表されていなかったから、仕方がないという味方も一方でできますが、それじゃあ座付き作家の役割ってなんだよ、もっと柔軟に対応してくれよ、と私はわがままなので思ってしまう。

ショー2幕ということでしたが、ほぼ全員が全部の場面に出ているという恐ろしい有様で、一体裏には何着衣装があるんだよ、すごいことになっているなと思うわけですが、もう少し小出しでいいんだよ、ショーなんだから、レビューなんだから。せっかくだから下級生をセンターにする場面をもっと作ろうよ。別箱なんだし、覚えてもらおうよ。目当ての下級生さんをすぐに見つけてもらおうよ。
2幕の後半にはわりと少ない3人4人程度の小グループで出てきて踊る場面がありましたが、それだよそれと思いました。後半ではなくて前半に欲しいし、むしろ全体をそんな感じで頼みたい。
なんでいつも全員集合なの、8時じゃないんだからさ……なんていうか、もっとこう、観客に見つけてもらおう? せっかくもともとのメンバーが少ないんだからさ???
もっともこれも好みといえば、そうなのかもしれません。私はその意味で中村B先生のショーも苦手な側面があるからな。すぐに全員出してくるの、勘弁してくれ~!ってなる。だって目は二つしかついてないんだよ!?!? 別箱は期間が短いから何度も見られるわけではないし、配信で映るのはセンターが中心ですからね!?

野口センセは『THE ENTERTAINER』はおもしろかったけど、個人的には一歩ずつ下がって、冷めた目で見てしまう……次の宙組も心配なんだよな。いや、実はここに来てまだチケットが一枚もないんだけどね……いやはや、どうなるのかな。
ショーは気になるから、見に行きたいし、下級生ウォチのためには現場に足を踏むより他に仕方がないんだけどね。とにもかくにも1回は見たいなあ。

この作品が8月7日の千秋楽まで無事に公演できることを祈っています!

雪組『心中・恋の大和路』感想

雪組公演

kageki.hankyu.co.jp


ミュージカル『心中・恋の大和路』
近松門左衛門「冥途の飛脚」より~
脚本/菅沼潤 演出/谷正純

行って参りました梅田シアター・ドラマシティ。
8月上旬は日本青年館ホールということで、これはだいぶ見え方が変わるのではないかしらん?
両方見る予定の人はそのあたりの違いのレポを待っていますね!
配信は梅田の千秋楽。仕事で見られないのが残念です。思えば、青年館は配信したことないかしら? そういうシステムが整っていないのかな。

再演ものですが、おそらく見たことがないのではないかと思います。少なくとも生では見ていないはず。
「おそらく」というのは、例によってお腹の中から宝塚を見ていたヅカオタにありがちな「主題歌は聴いたことがある」というタイプの作品ですね。ええ、全く知らないな楽しみだなと思って臨んだのに、幕が開いた瞬間知っている曲が流れるという盛大な矛盾。一昔前は年単位で主題歌集が出ていたから(いや、今も出ているけれども、型がだいぶ違うような気がする)それで聞いたのかな。冒頭のそらくん(和希そら)、美しかったですね。あれ、もうだいぶ前から雪組だった?というような着物の着こなしと体勢。あの腰の落とし方、すばらしいな。
近松門左衛門の「冥途の飛脚」も学生時代に読んだような気がしますが、きれいさっぱり忘れています。

1幕はわりとどうしようもねぇ話だな、どうしようもねぇ主人公だな、という感じだったのですが(八右衛門が書いてくれた偽の受取証文を音読して笑っていたけれども、笑っている場合ではないとツッコミを入れたかった)(しかし1幕ラストで忠兵衛が何かに取り憑かれたかのように小判を投げるところの狂気はすさまじかった。恐るべし、和希そら!と思いましたね)、2幕であくまで二人は内心はどうあれ「二人で生きるために、生き続けるために大和を目指す」と口にし続けるところあたりから、ぐっと引き込まれて、そのあとはちょろかったですね。
っていうかさ! 今更なんだけどさ! 忠兵衛の父・孫右衛門のなとりさん(汝鳥伶)がやっぱり抜群に上手いんだよね!!!
噂で聞いた息子の話、キセルよりも重たいものをもったことのなさそうな遊女との出会い(でも梅川は酒は飲んでいたけれども、キセルは持っていたかな?)、最初はもちろん目の前の女が息子を騙した遊女とは思わないけれども、次第に確信に変わっていく様子、そして極めつけは「一言相談してくれれば先祖の田畑売ってでも金を用立てたのに」という台詞ですよ。
当時、京の問屋に養子に出ることは、おそらく大和みたいな田舎では大出世だったのでしょう。子供のことを思えばこそ、縁を切って養子に出したのでしょう。そういう気持ちがとても伝わってくる。とにかく出で立ちや台詞の言い方から観客が得られる情報量が人一倍多い。これが役者として、すばらしい。そして泣く。
そのあとかちゃさん(凪七瑠海)の八右衛門(これまたうまい)がようやく忠兵衛を見つけて、「雪山を越えることはできない」とわかりつつも、金子と何か(何だっけ……袋、2つ渡していたよね?)を持たせて二人を逃がすところが、もうもうもう……っ! ここで八右衛門が梅川のことを「御新造さん」と呼んでいるのもいい。正式な祝儀はあげていないけど、せめて自分だけは二人を認めてやろうという気持ちがたまらない。
そして二人は、八右衛門が想像したとおり、厳しい雪が降る山を越えることができず、折り重なるように果てる壮絶なラスト。
梅川が言っていた通り「長く生きなくても良いんです。ただ生きている限り、あの人と一緒にいたいんです」という言葉と通りになりました。めでたくもなんともないけれども、二人はああなるしかなかった、恋を諦めきれないなら。
忠兵衛は八右衛門のことを「唯一の友達」というけれども、そりゃ友達もなかなかできないでしょう。忠三郎のことも「大和の幼友達」といいますが、おそらく郷里では彼しか友人がいないのではないかと思うくらいです。
別に誰かに共感して見るような作品ではないと思いますが、残っていくべき作品でしょう。

亀屋の場面では番頭のまなはる(真那春人)が、鎚屋の場面では女将のあいみちゃん(愛すみれ)が、それぞれ場をしめているという印象が強くて雪組は安泰だなあと。キュッてしまるのよね、本当に場面が。安心して見ることができる。
これはすごいなあ、貴重な役者だわ。大切にしてあげてくださいね、劇団さん。頼むよ!
ただ、まなはるは忠兵衛の郷里の幼友達の忠三郎としても出てきますが、八右衛門と与平と一緒に出てくるものだから、うっかり番頭さんも一緒についてきたんかーい!と思ってしまいましたね。ちょっとすぐには忠三郎とは思えないかな、プログラムを見て知りました。これは演出の問題かな。

あとはなんといってもゆきの(妃華ゆきの)でしょう。かもん太夫、うまかったなあ。あれは経験を感じさせるものがありました。和物の雪組ということで、和服に慣れているというところはあるかもしれませんが、裾捌きもそつなくこなすし、堂々たる姿勢もすばらしいし、太夫としての出で立ちや佇まいが非常に美しかった。
はおりん(羽織夕夏)の歌手も美声ですし、りなくる(莉奈くるみ)の鳴渡瀬花魁も似合うし、千代歳花魁の愛陽みちちゃんはお写真がきぃちゃん(真彩希帆)に似ているかな、禿の華純沙那ちゃんもばっちり発見しました。さなちゃんは2幕で歌もあり、またその歌の場面がちょっと辛い場面なんだけど、少女の無邪気さで歌うという対比がたまらないんだよね!

娘役の話ばかりしていますが、男役の集う宿衆も良かったです。
宿衆は今から七夕祭りでもするのか?という葉っぱのついた枝をもって踊る場面があるのですが、あれはちょっと謎だったにしろ(あれ本当に一体何の場面だったのだろう、わかる人、教えてください)、まりんさん(悠真倫)がどっしりとしめてくれました。いや、すばらしかった。場の安定感が違う。
あとは個人的につい見てしまうのが一禾あお。飴屋も良かった。子供達と絡むシーンも可愛かった。
すわっち(諏訪さき)も良かった。個人的に好みとは違うので、ものすごく見ているわけではないのですが、今回はつい目が行ってしまうような役、演技でした。
そして蜆売りがじわじわくる。1幕の第2場にしか登場しないのですが、「しじみ~♪あさり~♪」という台詞だけで、時代の雰囲気がわかるし、場の奥行きも感じられる。あの腰の落とし方、すばらしかった。あの姿勢で、あれほどゆっくりと歩く琴を続けて、腰を痛めていないといいのだけれど。前から3列目という貴重なお席だったこともあり、ほぼ目の前をゆっくりと通っていく希翠那音くんがとても印象に残っています。顔が見えていたわけではないので、次のお芝居で見つけられるかわかりませんが、お芝居がぐんと上手になるだろうなと思いました。

反対に微妙だったのがおまん、庄介、三太の亀屋トリオの場面。なんだか私はいまいち笑えなかったのですよね。
コメディタッチにしたいのはわかるのですが、ちょっとドリフを見ているみたいになってしまって、冷めてしまいました。ここは演出の問題でしょう。もうちとなんとかならなかったかな、せっかく再演するのだから。
かれんさん(千風カレン)の妙閑も同じように笑わせ担当、コケティッシュな感じの役作りはむしろうまいと思ったので、やはり話の筋で笑わせる、文脈を組んでくすりとさせるような台詞劇が必要となってくるのでしょう。
そしてかれんさんも専科でないのが不思議なくらい演技がうまくて恐れおののくわ。なんでもできる人だな。

舞台装置もよかったです。初演からこんな感じなのでしょうか。
1幕の亀屋、それが左右にわかれると後ろから槌屋の2階が出てくる。スムーズな場面転換はストレスがなくて本当によい。
上手には「新町」「横堀川」といった文字も。パソコンで映し出しているのかと思いきや、スライドを入れ替えるアナログ仕様でした。ちょうど入れ替えるとこを見てしまったw 貴重な機会です。ありがたや。
気になったことといえば、槌屋の2階の扇形になっている窓がガタガタ揺れているのが心配だったくらいです。あれはああいう仕様なのでしょうか。いつ落ちてくるかと気が気ではなかったのですが。
2幕は門のセットが際立っていました。センター奥にある大門、下手に斜めに立つ西門。同じセットなのに全然雰囲気が異なる。照明の工夫もあるのでしょう。
そこからは忠兵衛と梅川がひたすら逃げる道のり。セットではなくて、上からいろいろなものをつるすことによって難儀な道のりであることが視覚的にも非常にわかりやすくてよかったです。舞台装置よりも吊るしの方が簡単とは思いませんが、他の舞台でも使い回しが吊るしの方が効くでしょうし、お金のないときのやり方の参考にはなると思いました。
最後の雪山も圧巻。布の敷かれた階段をゆっくり上る、雪山を一足一足踏みしめて登っていく、そんな姿がひたすらに美しかったです。
忠兵衛も梅川も2幕はお着替えがたくさんあったのも良かったです。もっともだんだんぼろぼろになっていくのですが、雪山に倒れた二人の美しさは圧巻でしたね。
八右衛門の「歩き続け~♪」も涙を誘うよ、ああああああ!!!!

2幕も緞帳が下りた後、最近よくある全員集合はせず、もちろんフィナーレもなく、忠兵衛を演じたそらくんと梅川を演じた夢白あやが心中をしたままの姿で前に出てきてセンターでお辞儀をするのみ。余韻に浸るには充分でした。ありがとう。思えば途中に拍手をするタイミングもありませんでしたが、そういうお芝居もいいですね。

前回の本作を見ている人は一様に「若いカンパニー」「トップ二人の役作りの幼さが際立つ」みたいなことをおっしゃっているのですが、カンパニー全体はともかく忠兵衛と梅川は若く幼い役作りというのはある意味での正解かなと思いました。
忠兵衛の父が忠兵衛のために田畑を売ってもいいと口にした通り、八右衛門だって忠兵衛と梅川のことを考えて、思って、いろいろ言ったり手を差し伸べたりもするけれども、忠兵衛や梅川には伝わらない。伝わらないから観客はもどかしいのですが、では伝わらないのはなぜかといえば、肝心の二人が幼稚だからでしょう。幼いから納得できない。周りの気遣いを台無しにしてしまう。観客は本当にじれったい。でもそういうこと、あるよね、現実世界でも。
自分が幼いゆえに気がつけなかった優しさとかさ。そう思うとじーんとしてしまう。

身の丈に合った恋愛をしないから二人は死んだ、商人が花魁に恋などしても、身請けするのは無理に決まっている、最初から夢を持つな、作中の人々はそう思うだろうし、近松門左衛門の時代もそういう受け取り方をした人はいたでしょう。でもそれだけではダメだと思いました。
そもそも「身の丈」って何さ。誰がそんなの決めるのさ。かもん太夫は、梅川は、好きで花魁になったわけではないでしょう。
忠兵衛だって、亀屋に養子に出たのではなく、出されたのでしょう。いくつのときかはわかりませんが、自分から親元を離れて問屋を継ごうと思うような年頃ではなかったように思います。
宿衆の人々はどうでしょう。自ら望んで問屋の亭主をしているのでしょうか。もしかしたら、そういう人もいるかもしれません。そういう人はそれはそれでいいんです。この寄り合いみたいなグループも商売敵のはずなのに、困ったときには助け合えるようにというシステムはとても近代的でよいと思う。
でも、やっぱり好きで借金をカタに吉原にくくりつけられる人なんていやしませんよ。このあたりは、この間の元舞子さんによる告発なんかも思い出しましたね。
だから万民には教育が必要だし(情報ではなく教育です。知の体系なるもの)、教育のためにはお金が必要になってくる。困窮している市民にお金をばらまかないでなにが政府だよ、税金という名の下お金をむしるだけむしって市民に再分配しなって何様なのよ、と腹が立ってくる。幕府がそれをできないのはわかる。でも今は違うでしょう。欲しいものは手に入れるだけではダメで、それを持ち続けるためにはお金もかかるし、一通りの世話や気遣いも必要。でもそういう心の余裕さえもお金がないとどうにもならんのですよ! 聞いてますか、えらい人!
この時代の話はこの時代の話として、それはそれで仕方がない。でもどうしてそこから何も学ばないのよ。だから先進国の中でもジェンダーギャップ指数は最下位だし、賃金も唯一下がり続けているんでしょうが。
この作品は、今後も再演して欲しい作品ではあります(もちろん手直しするところはしてね)。でもそのときにはもっと心穏やかな気持ちで、もっと作品に集中して見られるようになりたい、とそんなことを感じずにはいられません。