ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

雪組『Lilacの夢路』『ジュエル・ド・パリ!!』感想

雪組公演

ミュージカル・ロマン『Lilac(ライラック)の夢路』-ドロイゼン家の誇り-
作・演出・振付/謝珠栄
ファッシネイト・レビュー『ジュエル・ド・パリ!!』-パリの宝石たち-
作・演出/藤井大介

 ディートリンデがなんの罪の償いもしていないのはええんかい!とか、ラストは誰かヨーゼフのこと思い出さんかいな!とか、そもそもヨーゼフは死ぬ意味あったのか(本当に死ななければならなかったのか)?とか、フランツはディートリンデのどこが好きなんだろう?とかいろいろ疑問は残るのですが、雪組に珍しい多幸感で誤魔化された気が、する……。路線スターたちが真ん中でトップスターとわちゃわちゃして、着替え人形になってくれたからOKという人もきっといるのでしょうけれども。こういうとき私は宝塚向きではないのではないかと思ってしまう。
 20世紀はコンクリートの時代と言われますが、それと同じように19世紀が鉄の時代と言われたのでしょう。耐久性、持続性、可塑性、普遍性もろもろ合わせて考えると、当時の材料と比較してその利便性は他の追随を許さないのでしょう。今回の話は、鉄道を作る話というよりも、鉄道を作る資金を集める話になっていて、その縦糸に対して、横糸に夢人たちがいて、一族の話をもう一つのテーマとする。その構造はいい。いいのだが、それを果たしてうまく描けたかな、という疑問は残りました。

 ツイッターでは「これはベンチャー企業の社長がこれまで(成功まで)を振り返った再現VTRなのだ」という旨を読んで、なるほど~!わかりやすい!そして刺さらないわけだ!と妙に納得しました。私は見たことがないのでよくわかりませんが、『ガイヤの夜明け』なる番組のようだとも言われていました。だいたいベンチャー企業の成功秘話とか、うさんくさいにもほどがあると思う性質なもので。しかし、そういう胡散臭さも吹き飛ばしてしまうようなオーラが咲ちゃん(彩風咲奈)には確かにある。
 再現映像だと考えれば、ハインドリヒはディートリンデの罪の償いなんぞには興味がないだろうし、フランツがなぜディートリンデに惹かれているのかも知らないだろうから描かれないのもわかる。エリーゼにも家の紋章の話と鉄の話しかしないのもまあそうだろうなと思われる。それほどロマンチックな場面があったとも思われない。だからこそ、それが宝塚で、本公演として見たい話かどうかはまた別だろうけど。

 再現映像説はわかるのですが、それにしても一つの作品ですから、ハインドリヒを視点の中するにしてももう少し細部に矛盾なく、疑問なく作れないものだろうかという欲が私にはある。百歩譲ってフランツは話が始まる前からディートリンデが好きだったから、何が好きなのかわからなくてもいいけど(よくない)(二番手男役の物語が不明瞭なのは宝塚としてもどうなの)、エリーゼはなぜハインドリヒが好きになったのだろう、というのは知りたいよねえ。だってトップ娘役の役柄だよ? ゆめぴろちゃん(夢白あや)の大劇場トップお披露目公演だよ? やっぱりあれか、顔と金に惹かれたのかな(こら)、と思ってしまうのも、よくないかなあ。というか、なんならフランツは一度ハインドリヒと完全に袂を分つかと思ったのに、ハインドリヒの話を盗み聞きしただけで改心するとか、随分ハインドリヒに都合がいいストーリーだよな、と。まあハインドリヒ視点の再現映像だからねーと言われれば確かにそれまでなのですが、だからそれを宝塚でやる意味はあるのか、と。
 ディートリンデも、ハインドリヒが好きというわけではないけれども、自分を無視するのが耐えられなくて、脅してやろうと思うのは百歩譲ってわからんでもないが(わかりません)(甘やかして育てたであろうパパが悪いのもわかりますが)、それにしてもあの脅しはきつすぎないか。ひまりちゃん(野々花ひまり)になんて役をやらせるのか。そしてそれでも彼女を愛してくれるフランツって優しすぎないか。器がデカすぎるぜ。それは何よりもハインドリヒに都合よく見えてしまうのが悲しいかな。スター制度を採用している以上、トップスター中心になるのはいいのだが、ご都合主義とは一線を画すものではないだろうか。

 ハインドリヒの中で、ドロイゼン家の領主として農地や農民を守ることとプロイセンという国のために鉄道を作ろうとしていることがアイデンティティとして両立しているのもすごいなと思う。世界史としてはどうなんでしょうね。貴族としての役目と市民としての自覚ってそんなに親和性のあるものではないと思うけれども、そういう珍しい人だから主人公になり得るのかもしれませんが。まさに赤レンジャー。凄鉄戦隊美形レンジャーの真ん中。
 農民を解放すれば農民が喜ぶというのも難しい話だと思います。気候によって農作物が取れなかったときに面倒見てくれる領主がいなくなったら、路頭に迷う農民も出てくるのではないかと。実際に冬だけでも仕事をくださいと別の領地から農民がやってくるくらいにはハインドリヒって領主として有能だったのよね。とはいえ、実はご兄弟を率いていたのは、真ん中で取り持っていたのは、五男のヨーゼフだったことが明らかになるわけですが。あのオーケストラの場面は良かったなあ!
 ハインドリヒがいわゆる長男なのに夢想家で、自分の夢に一直線というのはあんまり今の日本では考えられないような感じもありますが、何もしなくても財産がまるっと転がり込んでくるのだから、あんまり悩まなくていいというのはわかる気がする。フランツ以下は「人生が保証されていない」という台詞が響くよなあ。ハインドリヒとフランツは一度決裂するかとも思いましたが、フランツがハインドリヒの思いを盗み聞きするだけでフランツが考え直してくれるのだから、これもまたハインドリヒに都合よく見えてしまう。あそこのあーさ(朝美絢)の白衣装、素敵でした。

 台詞が響くといえば、あとはランドルフ(一禾あお、すごくよかった!)を通じて国に支援を求めようとしても「鉄の力があるなら鉄道ではなく武器を作って!といわれる可能性が高い」という話が、なんだかとてもリアルで、あんまり他人事とは思えなかったんだけど、グサグサ刺さったのは私だけなのだろうか。重工業の企業の株式いっぱい持ってる政治家って。
 あと前半に出てきた「たった一つの情報を誰よりも早く手に入れたことで億万長者になる」というのは、今でも言えるかなーそんな時代でいいのかどうかはまた別の問題だけど、億万長者がその金を何に使うかはノブリスオブリージュを胸に刻んでほしい。その意味でハインドリヒは分配してくれそうなのが救いかな。

 美穂圭子の扱いとしては、アーニャとしての出番は最後しかなかったこともあって、もったいないという声も聞きますが、結局サブタイトルにあるような「ドロイゼン家の誇り」、つまり騎士道をもっとも体現していたのは彼女であったという横糸の物語はおもしろかったと思います。むしろ鉄の資金集めの話よりも私は興味あるよ。
 とはいえ、振付も謝先生だったから踊りはすばらしかったし、わりとみんな出番がある感じではあったから、それはよかったかな。そんなわけでアーニャの話、書きませんか、謝先生。
 はいちゃんとかけいくんとかはもうちょい出ても良さそうなものだけど、大劇場はその塩梅も難しいよね。退団者の見せ場はショーでたくさんあったから、まあこんなものでしょうか。

 さて、お次はショー。ショーだけでもいいから東京公演見に行きたい。楽しすぎる!と素直に思ってしまいました。宝塚が二本立てである意味がよくわかる。
 全部全部割とよかったんだけど、まず一ついい? ダイスケ先生にありがちな男役が娘役のカッコするの、私はとても苦手なんだけど、カンカン、私の大好きなカンカンで、え??まなはる(真那春人)??え、あすくん(久城あす)??みたいな???え?え?あれは、ちょっと……生で見たいです、すいません、ダイスケ先生、ありがとうありがとう。パステルカラーの雪組とか新鮮でした、本当にありがとうございます。
 初舞台生のラインダンス、黒燕尾の咲ちゃんが銀橋にいるときの背景として大階段から降りてくるの、マジで大正解!!!としか言いようがないよね?もう絶対あそこから出てくるって思ったもんね???そしてラインダンスの一番上手の方はどなただろうか、かわいいなあ!!! ラインダンスのところ、東京はどうなるかなー(めくるめく『デリシュ』の思い出)。
 しかしフルールたちはなぜ黄色なのだろう……ミモザ? でも花といえばピンクのイメージだが、まあそれもよきかな。
 そしてプロローグ、ひまりのシンメがメロディちゃん(音彩唯)だったのが、もうもう……っ! すごい。驚いてしまったが、それもそうだよね、と。ただ、変なアンチが増えないようにだけは劇団さん、頼むよ!
 ところで、階段から降りてくる美穂圭子が熟練男役を率いて歌う場面とかマジでありがたすぎませんか? ありがとう。こういう作品を待っている人もいるはずだよ! ヒロイン美穂圭子とか、ヒロイン五峰亜季とか!

 シャガールの場面の冒頭、かりあん(星加梨杏)とうきちゃん(白峰ゆり)の幻影デュエットダンスも良かった、素敵だった。その後のあーさとひまりのカップルも超可愛かったし、周りのすわん(麻花すわん)やりなくる(莉奈くるみ)もよかった。可愛かった。楽しかった。目が足りなかった。
 一つ言うことがあるとすれば、どこがシャガールかは不明ではありました(笑)。でも鮮やかな青いジャケットやワンピースはまぶしくて若々しくて良かったです。あれかな、細部に使われているカラフルなところがシャガールのイメージなのかな。

 オベリスクそらくん(和希そら)、噂のへそ。別に悪くないのだが、こういう場面こそともか(希良々うみ)にやっていただきたい。格好いい系娘役代表。今回のスチールもゆきちゃんみたいで好きだったなあ。 
 ところで、ここのダンサーにあがち(縣千)がいるというなぞ配役。これはいいの、か……? いや、私はファンがいいなら、それでいいのですが。それから、組長(奏乃はると)のお歌もありがとうございました。

 フェルゼン咲ちゃんのルーブルコレクションも楽しかったなあ。ゆめぴろちゃんの衣装も良かったし、サイドではあいみちゃん(愛すみれ)とあすくんが歌っていて、そのお衣装もすごくすごく良かったし(あいみちゃんの輪っかのドレス! 最高かよ!)、ここもずっとずっと見ていたかったな。今回のお衣装大当たりが多くて嬉しいな。ゆめぴろちゃんの進化するドレスはもちろん、デュエダン赤ドレスもよかったのです!
 うきちゃんの綺麗で長い足も拝めて満足だよ。本当にありがたい場面だったよ。

 そして聖母マリア様はありすちゃん(有栖妃華)。そうか、そういう配役にするんだと驚いた場面です。歌はもちろん申し分ないし、構わないし、お化粧も上手くなって、私は好みからいえば好きな生徒なのですが、例えばここ、メロディちゃんじゃないんだ、みたいな感想をもった人は他にもいるのではないだろうか。なにせ、オープニングではひまりちゃんとシンメトリーだったわけですし。
 私としては、ありすちゃんの美声が聞けて良かったことに違いはないのだけれどね! 不思議なキャスティングだなあと。劇団がある意味でメロディちゃんを守ったというのならそれはそれでよくわかるとも思います。

 娘役トップお披露目ショーにふさわしく、ゆめぴろちゃんは冒頭も中詰も男役を侍らせる場面がしっかりあってすごいな〜景気がいいな〜! 本人も楽しかろう!! 布量多い衣装ばかりで(これはこれで景気がいいので、こういうお衣装も大好きではある)指にリング嵌めて操るのは難しかったろうが、上手に捌いていた印象があります。上手にやっていたなあ。
 そして、あーさは必ず娘役を侍らせる場面がある印象(笑)。二番手だからというのもあるかもしれないが、前からそうよね……雪組に来てからショーは毎回と言っていいほど娘役侍らせ場面がある。まあ、そうさせたくなるのもわかるのだけれどね!

 中詰直後はあがち軍団。若手の筆頭みたいな扱いなのだろうけれども、こういうお役目もそろそろ卒業かな。なんせ四番手ですからね。この間の花組であすかもやっていたけれども、あすかも次にバトンタッチしたければならないでしょう。
 曲はノリノリのフランス国歌。いつもラインダンスで聴いているから、高い声での「やっ!」という声と共にあるから、男役だけの煽りの言葉の威力たるや!これはこれですごい。イメージがガラリと変わった。手拍子もしていたからな、あのフランス国歌。男役たちの雄々しい声で上書きされました。不思議な感じでしたが、ここも楽しかったです。

 次は白黒咲ちゃん。お衣装やカツラが一瞬ジャガビーかな?と思いましたが(ここの衣装は不思議だった)白チームと黒チームに分かれたこの場面も良かったなあ。クラッシックとモダンという分け方も新しい?
 白あーさの後ろに友人の大の推しであるせーみくん(聖海由侑)もばっちり発見しました。出番そのものは増えた印象がありますが、歌起用がもっと増えるといいなあ。

 そんでもってカンカン! 待望のカンカン! カンカン、レ、ディ……??? う、うん。とても見たい。生で見たいです。ピンクのおかっぱカツラに帽子をあごしたでリボンで止めるまなはるとか、超見たいです。
 そんでもってここのゆめぴろちゃんの衣装も超可愛い。なんだこの配色! 銀橋に残るのもよき。カップルコンビを左右に置いて真ん中のスターオーラを見せつけてくれましたね。ありがたい。

 フィナーレは階段に凱旋門と思しきものが立っていましたが、あれはちとスターの顔が見えない座席とかもあるだろうからなあ、フランス感は出てはいたかもしれないけれど。
 ここの衣装もよき! 白!白!白燕尾!!! 尻尾長いバージョン!!! 赤い薔薇を胸をさす!!! 大変好みです!!! たぎるぜ!!! ビジューキラキラすぎて、ライトが当たって眩しいってこともなくて、ちゃんとスターのオーラを見せてくれたのね、ありがてぇ。たまにこういうとき衣装のビジューが多すぎて眩しすぎて直視できないってことあるからな、よくわかっていらっしゃるわ、ダイスケ先生。ありがとう。

 デュエダンのラスト、そういう演出なのかどうかわかりませんが、咲ちゃんに抱かれてうっとり目を瞑ったままライトが消えるのかと思いきや、直前でゆめぴろちゃんが目を開けてしっかり顔を見せてくれたの、よかったなあ。こういうとき、娘役は男役に寄り添って目を瞑ったままのことが多いからな。娘役だってしっかり主張してくれていいのよ。
 そして、メロディちゃんのエトワール。こりゃたまげた。はいだしょうこのエトワールを思い出した。難しかったと思いますが、よくやったぜ! 追い上げ具合が怖い気もするけれども、劇団さん、そういうとこ、頼むよ……!
 その意味では、パレードの並びはゆめぴろを守ったのかな?と思うところがあって。パリがテーマだから、あーさが青羽、ゆめぴろが桃羽、咲ちゃんがトリコ羽でしたが、並びは上手からあーさ、咲ちゃん、ゆめぴろで、国旗とは反対。トップの上手側にトップ娘役がいて欲しい気もするが、ね……。
 『はいからさん』も確か上手からあきら、れいちゃん、華ちゃんだったから前例があるといえばあるが……まあ、それならそれで、あーさが桃羽、ゆめぴろが青羽でもよかったような気もするけど。あーさの桃羽、見てみたい気がする。見てみたいな!

 星組の唯一のチケットかつSS席が、データ上の話とはいえ、紙屑同然となり、悲しみが押し寄せてきますが、一番辛いのは星組の生徒。中止の延長もお知らせされましたが、まずは健康第一で。
 そしてこれを機に劇団はトップスターだけでなくフェアリー全体の働き方を考えなければならないのではないでしょうか。1日2回公演が多すぎるし、本公演は期間が短いし、そのせいでショーは基本的に稲葉、ダイスケ、中村Bのローテーションで(時折別の人が入るが)、作品の質にも影響するでしょう。それは芝居にも言えることです。
 無給人間はそれほど投資はできないですが、応援はしているんだよ、阪急。頼むよ、阪急。 

花組『舞姫』-MAIHIME-感想

花組公演

Musical『舞姫』-MAIHIME-~森鴎外原作「舞姫」より~
脚本・演出/植田景子

 毎度のことで前置きが長くなって申し訳ないのですが、私の大学での師匠は、存命かつ現役の先生の中では、たぶん森鷗外について五本の指に入る研究者で、私自身も「舞姫」について話をすることでお金をもらっていた時期があるくらいなので、作品自体は好むと好まざるとにかかわらず相当読み込んでいる(読み込まざるを得なかった)立場の人間で、だからどうしても豊太郎や相沢、天方伯やエリスのモデルになった人が脳裏を過るのですが、とはいえ初演『舞姫』(愛音羽麗、野々すみ花)はオリジナルの演出も光っていて、丁寧に作られており、映像で見る限りは好印象でした。つまり何が言いたいかというと、今回の再演『舞姫』のいい観客ではなかったかもしれない、ということです。いや、見られなかった人もいるだろうに、本当すいません……。
 初演の宝塚オリジナルの演出として大きく五つ挙げるとすれば「①豊太郎が舞扇をエリスにプレゼントする」「②エリスの精神を柱時計の音で表現する」「③豊太郎を日本で待っている妹を設定する」「④原田芳次郎とマリーとの交流を描く」「⑤大日本帝国憲法発布をゴールとする」と考えており、そのどれもがよくぞやってくれた!と思っていた演出でしたし、特にその中でも私は②がすばらしいと思っていたので(その他の項目については、他の人でも思いつきそうな上に、舞台でなくても表現できるため)、よりにもよって今回の再演でその②がなくなっていたことが、もうものすごくショックで……舞台芸術であるからこそ表現できるエリスの不安定さみたいなものがものすごくわかりやすくなったし、そもそも豊太郎とエリスの出会いは「金時計」(東京帝国大学首席卒業者に送られるもの)で始まっているから、柱時計の音が止まることによって、二人の未来の時間がなくなってしまう、関係が壊れてしまう、さらにエリスは豊太郎と過ごした幸せな時間に閉じこもってしまう、まさにジュリアンとは異なるやり方で「未来と現在を交換した」ことが端的に表されていて、エリスが「永遠の少女」になったことをこういう方法で演出するけーこ先生すごいな!これぞ宝塚ロマン!と思っていたタイプの人間なので、いやはや繰り返しになりますが、本当に惜しいという気持ちでいっぱいで……。
 『歌劇』「てい談」(いつも思うがなぜ「鼎談」と書かないのだろう)でも「エリスは、今回脚本上の変更点があり、初演の貧しいが故にセンシティブなエリスから、原作に近づけて一途にまっすぐに豊太郎のことを思っている…という風にしています」とけーこ先生が述べており、これがあわちゃん(美羽愛)が演じるから変更したのか、初演から15年以上経ち、「舞姫」という作品をとりまく環境が変わったから変更したのか、はたまたそれとも別の何かが理由なのかはこの部分だけではわかりませんが、「一途にまっすぐ豊太郎のことを思っている」というスタイルにたとえ変更したとしても、柱時計の演出はあってもよかったと思うよ……としみじみ思ったのでした。
 ついでにけしからんと思ってしまったのは(何目線ですか)、エリスが「流産」したという台詞があったことですかね……どうしてそんなわざわざ女を苦しめるような単語を入れるの……別にその言葉がなくても、エリスが流産しただろうことくらい、あの演出で、あるいは役者たちの演技で十分に伝わったと思うのだけど、え?わからない人、いる?いないでしょ?って感じなのだけど、ダメかしら。相沢が「豊太郎は日本に帰る」とエリスに伝えたタイミングで、というのもあまりにも豊太郎と相沢側に都合が良すぎて、なんだか違和感を覚えました。同じ場面は初演で、エリスが発狂しきってしまい、「(ようやく柱時計の音が)とまったぁ……」という野々すみ花の白眉な演技があっただけに、ナンテコッタ!と観劇中心の中で頭を抱えてしまったのです。『源氏物語』でいうなら六条御息所が生き霊となって葵上を苦しめる場面のような、作品の中で本当に美しい場面だったんだよ。初演のこの場面はマジで迫力がすごいからみんなぜひ見て。そして私はそれをあわちゃんで見たかったよ、見たかったんだよ!なんならそれを見に行ったはずだったんだよ……っ!
 他に男性目線におもねったのか?と思われる演出としては、ヴィクトリア座での踊り子の衣装ですかね。どうして昨今の日本のアイドルみたいにしたのだろう。キャバレーではないのだからさ。初演のあの可愛らしいお人形さんたちの衣装がよかったな、私は。

 と、初演を見た私はぐちぐち言っていますが、世間では評判もよく、主演のあすか(聖乃あすか)は鷗外と誕生日が同じ上に、初演が憲法記念日ということもあり、よかったのではないでしょうか。個人的に『花より男子』の花沢類を超えられないのが難点ですが、まいてぃ(水美舞斗)が専科に行き、花組では3番手として支えていかなければならないスターさんですからね、頑張っていただきたいところです。
 あわちゃんは、もともとお芝居の人というイメージが強かったですが、今回は更に一つ殻を破った印象がありました。これまでは彼女が出てくると「あわちゃんだ!」と脳裏を過ってオペラをあげたものですが、今回は「エリスだ!」と思うことが多く、役を自分に近づけて役作りをしたのではなく、自分が役に近づいて役作りをしたのだろうということがうかがえました。世間では「エリスになりきれていない」「少女漫画のヒロインが限界」というような厳しい意見もありますが、作中にもあったように「出る杭はうたれる」わけですし、私はこの作品でだいぶ脱皮したのではないかなと思っています。
 宝塚において、役を自分に引き寄せて役作りをすることは、それほど悪いことではないと思っています。なぜなら座付き演出家が当て書きオリジナル脚本を書くことができるからです。だから特に主演級、メインキャストの人たちは、役を自分に引き寄せて役作りしてもそれほど違和感はないというか、むしろそれが真っ当なやり方のようにも思えてしまうのです。
 一方で今回のように再演ものとなると、どうしても役に自分が近づいていかなければならない、それは演技の勉強をする上ではとても大切なことではあるけれども、なまじ初演があるだけにプレッシャーは半端ではなかったでしょう。それでもそのプレッシャーや圧力をはねのけて、新しい『舞姫』という作品に生きる人間として、あすかもあわちゃんも奮闘していたように思います。
 相沢から手紙が届いて嬉しそうに無邪気に話す豊太郎を見て、すでに一抹の不安を覚えているエリスの表情、すばらしかったです、あわちゃん。みんなに見て欲しい。相沢が自分から豊太郎を奪うことに気がついている。もうこのときすでにトライアングルが観客にも見える。豊太郎とエリスと相沢、そして相沢は国を背負っているし、まさしく次期総理大臣になる天方伯を後見としている。一介の踊り子が叶う相手でないのは自明のことだ。
 一方で、舞扇をプレゼントされたときのエリスはとても愛らしかったなあ! 要返しができなくて、「むずかしーいー!」といって自分の得意な踊りをするエリス、超絶可愛かった。白いドレスのお衣装も夏の避暑地みたいで、「一時の恋」って感じが出てますよね。あの場面の舞台写真、めちゃめちゃ欲しい。あわちゃん、とてもよかった。

 さて、同じじように、その初演の圧力をはねのけて光り輝いていたのはやはりその相沢謙吉を演じたほってぃ(帆純まひろ)でしょう。いや、誰があの相沢に勝てる? ビックリだよ。エリスと豊太郎と奪い合うソングを歌うときも危機迫るものが伝わってきてどうしようかと思っちゃったよ、私が(なんで)。賀古鶴所(相沢のモデル)に見せてやりたいよ。
 しかし豊太郎の悲劇というのは相沢に代表されるように、「豊太郎のためを思って近づいてくる人が、もれなく全員豊太郎とエリスの愛を否定すること」「豊太郎の能力は見ているが、豊太郎の心を見ていないこと」にあり、母も天方伯もこのあたりが共通しており、地獄だな、と。当時の船便のことを考えれば、あのタイミングで母からの手紙が届いていたら諫死ではないだろうが、文脈から見たらあれはどうみても諫死だろうからなあ。一幕終わり、圧巻でした、組長(美風舞良)。
 あとは天方伯のひろさん(一樹千尋)がさすがすぎてですね。初演では星原美沙緒が演じ、次期総理大臣と目される人間として説得力のある佇まいが印象的で、月組ベルサイユのばら』(涼風真世天海祐希)を死ぬほど見た幼少時代を過ごした私としては永遠のジャルジェ将軍であり、本当にもういろいろたまらんのですが、ひろさんが事もなげに乗り越えてきてくれたのはさすがです!と思ったし、一生ついていきます!となった。宝塚の専科としての伝統が感じられたのがとても嬉しかったです。

 私費留学生としてドイツにやってきた馳芳次郎はだいや(侑輝大弥)。その恋人ミリィは咲乃深音ちゃん。なぜ初演通り原芳次郎、マリーにしなかったのか、もっといえば初演もなぜ巨勢(『うたかたの記』の主人公)にしなかったのかは謎ですが(モデルその人である原田直次郎にしなかったのは、原田は帰国したからだと思われる)、今回は恋人の名前まで変えてきたので、『うたかたの記』から離れようとしたのでしょうか。とはいえ、この『舞姫』としては、オリジナルキャラクターの馳がなかなか厄介で、自分もドイツでミリィという恋人がいて、日本人の面汚しを言われながらも自分の絵を描き続けようとしたにもかかわらず、亡くなる直前に豊太郎に「日本を任せたぞ!」とか言ってしまうのは、豊太郎にとっては呪いでしかないでしょう。日本に帰りたいのに帰れない俺の分も頑張ってくれ、というのは、このときの豊太郎にとって重荷以外でも何でもありません。豊太郎を国に回収しようとする姿勢は相沢も母も天方伯も同じですが、お前もか……となってしまう。もっとも馳自身には悪気はないのでしょうが、だからこそなおのこと悪いという言い方もできます。ミリィはどうしたらええねん、って話ですよ。
 ミリィはどんな気持ちだったでしょうか。一緒に暮らしてきて、愛し合って、そんな相手が死ぬ直前にもうドイツ語もわからなくなって、自分の言葉が通じなくて、近くにいる自分ではなく遠い母国を見ている恋人ってなかなか残酷だと思います。とりわけ二人の登場が明るくポップな感じで「ないないない~♪」と歌っているので、ギャップがしんどいですよね。この別れは、豊太郎とエリスに匹敵するくらいつらいものがあります。
 そして『うたかたの記』、誰かやりませんかね、巨勢とマリーとルードヴィヒ2世。2時間半まで話は延ばせないだろうから90分~100分と考えると大劇場サイズですが、それほど登場人物もいないので、トップコンビの別箱とかでどなたか書き下ろしてくれないかなあ。鷗外のドイツ三部作ならこの『うたかたの記』が一番好きなのです。

 一方で、国費留学生でありながら、唯一豊太郎の心に寄り添おうとするけれども、生来の気弱さが目立って、けれども自分の学問である衛生学に対してはひたすら一途な岩井直孝は泉まいら。何をやっても面白い。座っていても笑いがとれるし、立っていても笑いがとれる、歩いていてもおもしろい。すごい。「みんなが柏餅を食べるなら、自分が桜餅が食べたくても柏餅を食べる」という表現は言い得て妙で、それを茶化しながら言っていた豊太郎もまた、その長いものには巻かれろ精神で帰国するんだから、本当にもう……って感じになってしまう。でもそんなこと言っているからいつまでたってもこの国は壺から抜け出せないんだよ!と思ってみたりもする。この性質、決して過去のものではないということです。
 エリス母のゆずちょ(万里柚美)は相変わらず美魔女で、本当にドイツ人かと見紛う彫りの深さや貧しいとはいえ、娘を日本人なんかにくれやらないという意志の強さを上手に演じていましたし、ドクトル・ヴィーゼのしぃちゃん(和海しょう)もまた豊太郎を悪意なく国に回収させようとする役どころをいい案配で演じていました。そして明治天皇の声もすばらしかったよ、しぃちゃん。すごい。ヴィーゼの娘のマチルダのゆゆちゃん(二葉ゆゆ)も可愛かったです。前髪オン眉ぱっつんが素敵。なぜ公演スチールがないのか。
 ホットワイン売りのまる(美空真瑠)は美声を轟かせ、ワインが飲めない私も飲みたくなるほどでしたが、ラストの青木英嗣もまた良かったです。豊太郎に対して「先生の『独逸日記』を拝読してこのたび留学を希望しました。もしよろしければお言葉をたまわりたく!」と言うあの素直でまっすぐで一途な瞳が、冒頭の豊太郎と重なりますね。目の前にいる豊太郎ではなく。ええ、人生の酸いも甘いも知った豊太郎ではなく。
 言葉を求められて豊太郎は一度断る。しかし「ぜひに」と再度請われて「こころざし~♪」と冒頭の曲を歌う。大日本帝国憲法発布のあたりから泣いていた私は、しかしついこの場面で、「ここの病院に時折顔を出してエリスという女性を見舞って欲しい、くらい言ってやれよ!」と豊太郎の首根っこを掴んで言ってやりたかったです。男の志なんてどうでもええんじゃわい! 自分の意志を貫き通すだけの強さがないなら、桜餅を選べないなら、現地の女に手を出して子供をつくるな、と。豊太郎は自分がそうであったにもかかわらず、あやうく自分もまた「父なし子」をつくるところだったんですよ、罪深い(そしてそれが流産という形でなかったことになるのも許せないから、あの言葉は本当にいらなかったと思う)。
 あとは前回の『殉情』で幼少期春琴を演じた真澄ゆかりちゃん。ドレス姿、かわいかったなー! どこにいても見つけることができました。こちらもまた期待の若手スターさんです。少女役のときは『めぐあい3』カストルのワンピースを着ていましたね。

 さて残る問題は豊太郎の妹・清です。いや、すみれちゃん(詩希すみれ)はとてもよく演じていたし、本当はミリィをやって欲しかったとも思うけれども、狂言回しみたいな役回りが多く、しどころがないといえばない役であるにもかかわらず、しっかりと印象を残したなという感じがして、本当に今後が期待できるスターさんです。だからここで問題だといっているのは脚本上の問題です。
 この清をどのように捉えたらいいのだろう。作中の人物がことごとく豊太郎の能力を買って、豊太郎をエリスと別れさせ帰国させようとしている中、清はどの立場なのだろうかと考えれば、そりゃもちろん清だって、お兄様に帰ってきて欲しいに決まっているのですが、彼女は一度決まりかけた有栖川宮家との縁談が、おそらく豊太郎が免官された時点で白紙になっており、似たようなタイミングで母も亡くし、父はもちろん豊太郎同様に幼い頃に亡くしている。頼りにできるのは豊太郎しかいないのに、その豊太郎がドイツにいるという日本では寄る辺なき身の上に他なりません。その豊太郎がドイツでエリスと一緒に暮らす道を選べば、清はいよいよ天涯孤独となり、おそらく身を売るより他に生きる手段はないでしょう。だから清にとっては豊太郎が帰国するか否かは、登場人物の誰よりも身に迫った問題であるはず。むしろ清がいるからこそ豊太郎は帰国したのだと言われても納得するくらいの勢いで。しかし実際はそんなことをミリも考えていないだろうな、あの豊太郎は。だからラストは大日本帝国憲法発布なんだもの。わかりやすいラストではあるけど、国家の犬はそう簡単に野良犬にはなれないことを見せつけられたような気がするよ。
 そう考えると、清には、むしろ清だけにはエリスを恨む権利があるでしょう。エリスと清のデュエットは、自身の危機を歌い上げるものとして見事にシンクロしていました。だからこそ、宝塚で上演するときに清の存在にはとても意味があると思う。作品の構成としては納得できる。ただ、私は小金井喜美子があんまり好きではないというだけなのかな。モデルから離れてみるには、「舞姫」は身に馴染みすぎているのがつらい。
 清にエリスを恨む権利があるように、エリスにも日本の近代化を恨む権利があるはずなのだが、精神を病んでしまうことで、その権利さえも奪われるのだから、全くひどい話だよ。だいたい男に振られたくらいで発狂なんかしないよ、大抵の女は。とはいえ、やっぱり豊太郎がエリスと最後に舞扇をもって面会する場面は泣いてしまったわ。彼女が犠牲になってできた日本の近代のなれの果てがこれかよ!って思うこと、最近多すぎて余計につらい。新聞の見出しを変えさせたって、それもう検閲ですよ。

 本公演は14日まで。無事に最後までできますように。配信は見ます。思えば前回のバウホール公演『殉情』も原作は『春琴抄』というタイトルで、今回は『舞姫』、どちらもタイトルロールを、しかもどちらも再演という作品を、連続で演じているあわちゃんのプレッシャーはいかほどのものでしょう。体調も気になりますが、メンタルもあまり追い込まれすぎないように、と願うばかりです。こういうのは終わった後が心配だよな……。大事に育ててね、劇団さん。
 もう一方の花組『二人だけの戦場』の配信は見られませんでしたが、梅田公演は良い作品だと評判が高く、こちらも嬉しい限り。何かの間違いで東京公演が見られるようになるといいのだけれども、まずは無事に舞台の幕が開きますように。

外部『マリー・キュリー』感想

外部公演

マリー・キュリー
演出/鈴木裕美
主演/愛希れいか、上山竜治、清水くるみ

 小学生の頃、学校図書館のカウンターに置いてある伝記漫画を片っ端から借りて読んだ中で、何度も繰り返し読んだ一人が『キュリー夫人』でした。同じくらい読んだのは『ナイチンゲール』と『マリー・アントワネット』で、次点で『モーツァルト』『ベートーベン』『ショパン』とピアノを習っていたこともあり、音楽家の伝記が多かったように思われます。
 その中で『キュリー夫人』のタイトルだけが不思議でした。なぜ『マリー・キュリー』でないのか、と。それを誰かに話したかどうかは覚えがないですが、ノーベル賞を二度もとった女性でありながら、男の付属品のような扱いを受けていることに対する違和感は幼いながらありました。今思い出すと怒り心頭ですが。
 最近では『キュリー夫人』ではなく『マリー・キュリー』と表記している会社も出てきているらしいですが、それにしても小学生でも疑問に思うことが、公然とまかり通っていたということが恐ろしい事実です。伝記漫画の総合編集を担当している人や出版社の人に、女性はいなかったのか、いたとしても少なかったのか。作中のマリー・キュリーの台詞の中で一番泣いたのは一幕ラスト付近の「次の機会という言葉が嫌い。次の機会にできることがどうして今できないの。あなたは、男で、フランス人で。だからわからない。私は可能性と危険性の両方と一度に示さなければならない」とピエールに訴えるあの場面です。思い出している今も泣きそう。危険性だけを示したら、ラジウムは使われなくなり、自分は世界から置いてけぼりにされてしまうのではないかという不安がちゃぴの演技を通じて痛いほど伝わってきた。とてもとても刺さる場面だった。令和になった今でさえおじいちゃんばかりの我が国の内閣よ、耳をかっぽじってよーく聞けよ。早くどうにかならんのかね。
 とはいえ、当時はマリー・キュリーナイチンゲールの業績に深く感心していたのです。その頃は多分看護師になりたいと思っていたあたりなので、理系分野での理系の活躍がどこか誇らしかったというのもあるかもしれません。
 その反動とでもいいましょうか、高校生になってナイチンゲールが、実はクリミア戦争のあと母国で激しい女性差別をしていた事実を知ったときの絶望感はすさまじかったです。自身が恵まれた家庭に生まれたことを顧みず、女性の社会的地位が向上しないのは、女性の努力が足りないからだと平然とナイチンゲールは言い放ったのです。衝撃でした。
 同じようにマリー・キュリーもまた、生前はラジウムの危険性を一切認めようとしなかったと言います。薄々は気がついていても、公表できなかったのかもしれません。奥さんのいる男性と関係を持ち、ノーベル賞発表直前に奥さんからばらすぞ!と脅されても、ひるまなかったといいます。この場合、客観的に見れば悪いのはマリーの方でしょう。この事実もまた高校生の私を落胆させました。
 思えば伝記(漫画)は人物の良かったところを強調して書かれることが多いのかもしれません。小学生向きの漫画なら、なおさらでしょう。しかし人間というのは往々にして良い面も悪い面も持っているものです。天才だといわれるエジソンも「1+1=1」と粘土をこねて言ったといいますから、現代だったらいわゆるひまわり学級のようなところにいる子供だったかもしれません。偉業を成し遂げた人は毒にも薬にもなるような強烈な性格の持ち主が多くいます。裏を返せば、だからこそ偉業を成し遂げることができたのかもしれませんが。
 実在の人物をフィクションで取り上げるとき、その人の良い面ばかりを強調して描くのはどうでしょう。もちろん、そういうやり方もあるかもしれませんが、あくまでも我々の歴史の中に実在した人間だということを忘れてはいけないと思います。そしてたとえ、架空の人物が主人公であったとしても、その人を善人としてのみ描いたら、その作品は薄っぺらくなるのではないでしょうか。

 だから今回も、マリー(愛希れいか)がラジウムの危険性について気がついて、それを公にしようとしていた、少なくとも工場を止めるようにルーベン(屋良朝幸)に指示したという設定にするなら、誤解を恐れずいえば現実をねじ曲げようとするのなら、そこにいたるまでのエピソードは丁寧に描かなければならず、そのためにおそらくアンヌ(清水くるみ)というキャラクターは生み出されたはずなのです。その意味でマリーとアンヌはある種の表裏一体を成しており、最初に電車で出会って意気投合してから一度は道を分かち、それでも最後は再び気持ちを分かり合う仲になるという劇的な展開が用意されていないといけないのではないでしょう。
 マリーが病院に寝泊まりしてルーベンと何やら怪しい実験をしていることに気がついたときのアンヌの絶望感、信じていた者に裏切られたというやりきれなさ、マリーはルーベンが約束を破って工場を動かしていたことを知っても、病院を出ないとアンヌに告げる。かつての職場でガスが職員の健康を害していたことを知っているアンヌはもう気がついている、工場の人間が次々と亡くなるのはラジウムのせいだ、と。アンヌにとってそれはマリーを信じられなくなることと同義ではないけれども、肝心のマリーにとってはそう聞こえてしまった。この分かれ道は良かった。なんならアンヌが観客に背中ばかり見せていたことが気になるくらい。歌はあったかな……なかったなら、歌も欲しいところだけど、そのあたりはあんまり記憶にありません。
 アンヌの班員は全て亡くなり、残ったのは自分だけ。彼女は徐にシャツを脱ぎ捨て、自らラジウムを浴びようとする。屋上といっていたかな。そこにマリーが現れ、二人は手に手を取り合い、和解する。「あなたはラジウムではない、ラジウムがたとえ危険なものであっても、マリーはマリーだ」と言ってアンヌはすばらしい。二人は再び表裏一体の存在になる。ここまではものすごく良かった。なんならアンヌ・コバルスキー(ファミリーネームもちゃんとプログラムに記載してくれ!)のイニシャルはマリー・キュリーとそろえた方が良かったのではないかと思ったくらいです。『MA』のマリー・アントワネットとマルグリット・アルノーみたいに。もっともこの場合イニシャルが本当にMAでいいのかはまた別の問題なのですが。

 しかしマリーの夫であるピエール(上山竜治)が亡くなったあたりからが、マリーとアンヌの結びつきが怪しくなる。ピエールが亡くなって、牧師とともにマリーの家を訪れたアンヌは、マリーがピエールの死を一人で受け止めている間に、部屋を出て行ってしまう。なんの声をかけることもなく。それは最後にピエールと最後のお別れを一人でさせてあげようという気遣いかもしれない(そして最後のお別れの儀式が被検体として認識することという演出のすばらしさよ……っ! ここも泣いたわ!)。でもそのあと、マリーとアンヌがどうだったかは明かされず、物語は一気に時間を進め、冒頭の死期を悟ったマリーの病室となる。
 この物語はマリーが娘のイレーヌに言い聞かせる壮大な話だったわけですが、冒頭で「棺に一緒に入れて欲しいというその袋は何!?」と言うイレーヌはおそらくこのときまでアンヌの存在を知らなかった。知っていたとしても、マリーにとってそれほど影響力のあった人だとは思わなかったのでしょう。でもそんなこと、ありますかね。少なくともイレーヌもマリーと同じように科学者の道に進んでいるのに……? ここもご都合主義の設定のような気がして、この物語の語り手は娘で本当によかったのかと疑問に思いますが、もっと疑問に思うのは次です。
 イレーヌは話を全て聞いてから、サインが入っている元素記号の一覧表が数日前届いたことをマリーに告げる。そう、アンヌはまだ生きていたのだ。姿は出てこないけれども、彼女はラジウムの害から逃れることがどうやらできた、らしい。
 アンヌが、アンヌだけがラジウムの害から逃れられたってそんな都合のいい話、あります、か……? マリーがラジウムの危険性を認め、世間に発表しようという姿勢を見せた時点で、アンヌの役割は終わっていたはずで、だからこう言ったらキツいかもしれませんが、アンヌもまた死ぬべきだったのではないでしょうか。別にお涙ちょうだいしたいがためにアンヌが亡くなるべきと思っているわけではありません。ピエールはラジウムのために馬車を避けられなくて亡くなった、マリー自身もラジウムを浴び続けたことが死の原因の一端となる。アンヌだけ、どうして逃れることができるでしょう。それはあまりにもご都合主義ではないでしょうか。屋上のシーンが感動的だっただけに、アレー!?となってしまった。いや、全体としてはいい話なんだよ、よくできた話なんだよ。だからこそこのあたりは拍子抜けしてしまったのです。
 ピエールが亡くなったことを、アンヌはマリーと共に受け止めるべきだった。二人でここを乗り越えるのに、次にアンヌが亡くなったとき、マリーはその悲しみを一人で受け止めなければならなくなる。その絶望には底がない。それでもマリーは生き残った者としてラジウムの危険性を世間に訴えなければならなかった。実在の人物をあたかも聖者として描くのなら、それくらいのシナリオを用意すべきだったのではないか、と思うのです。
 アンヌは死ぬべきだったと繰り返すと感じが悪いかもしれませんが、アンヌがマリーにラジウムの危険性を世間に公表するのに対して、実際とは異なり、前向きになるための装置であるとするならば、生き残っている必然性が見当たらないのです。実際に危険性が周知されなくてもいい、そこには別の力学が働くこともあるでしょう。それはルーベンが担っている役割が象徴している。アンヌはマリーに気付かせるだけでいい。マリーが気がついたところで、彼女は役割を果たし終えたことになる。ピエールに続きアンヌも失うのはマリーにとって痛手かもしれませんが、アンヌが生き残ることは物語の論理に矛盾があるなと感じました。ファクトとフィクションとを融合させた手法はそれほど珍しいものではありませんが、それに「ファクション」と名前をつけて上演するなら、物語の意味も考えたいところです。

 そしてマリーを後援し、ラジウムの危険性にマリーよりもおそらく早くに気がつき、マリーに工場を止めるようお願いされても、工場を動かし続けた利益を最優先するルーベンの存在が非常によかった。ルーベンは長い時間舞台の上にいる。それは役者としてももちろんですが、時には我々観客の目線になって、物語を傍観する。現実世界で資本主義の渦に飲み込まれている我々観客と巨大な資本でもって利益を最優先するルーベンとが重なるのは、実に巧妙なやり方で、ビビビ!と来ました。しびれるぜ。
 ルーベン率いる「ラジウム・パラダイス」が始まったときはテンション爆上がりでした。楽しかった。ようやくミュージカルを見に来た!という感じがしましたね。なんならトシさん(宇月颯)もいるから「カオス・パラダイス」を思い出してしまいました。まさにラジウムで「悪いことがしたい♪」って感じですね。その後工場の机と椅子で作業をしているときは、偽のパスポートを作っているのかとさえ思いました。
 ミュージカルのわりに、それまでひたすらに装置も衣装もわりと地味だったから……まあ、そういう時代のそういう舞台の話ですから仕方ないかもしれませんが、でも1幕でラジウム発見のために石を潰して鍋で煮やし顕微鏡を見るという一連の動作は何度も繰り返すよりも、緑の衣装を着たバレリーナのような踊りをするラジウムをマリーが追いかける、みたいな象徴的な場面をつくってもよかったかもしれません。『fff』の小さな炎のようなアレですね。1幕ラストの「私の別の名」でもそのラジウムバレリーナとハグをしてもよかったかもしれません。だって二人はこのとき、一心同体だから(笑)。
 このラジウムバレリーナはルーベンと一緒に何回も出てきて不思議ではないと思うのですが、彼は部下(聖司朗)と一緒にひたすら踊ります。この二人の踊りが……っ! また! いいんだ!!! すごくよかった。ルーベンの怪しい感じもすごくよく表現できていた。だからなんならラジウムバレリーナも一緒にいれてあげたかった。三人の方がルーベンセンター感がもっと出て、いっそうよくなると思うんだ!
 アンヌがマリーの良いところを拡大したキャラクターなら、ラジウムはマリーの危険なところを拡大したキャラクターとして扱って、ちゃんとキャストをあてた方が対照性がわかりやすくなったのではないかとも思うのです。だからシャーレの中に光る緑だけではなく、是非とも誰かに演じて欲しいキャラクター、というかものでした。
 初めての人が多いカンパニーで屋良さんは大変だったと思いますが、だからこそ舞台の世界観で一人だけ「浮いている」というか「異質」な雰囲気を絶妙に漂わせることができたのではないかと思います。すごくよい役だった。お化粧も研究されたんだろうな……一人地に足の付いていない感じがブラボーでした。

 ちゃぴは退団後既に何度も真ん中を経験していることもありますが、さすがに安定感のある真ん中具合でした。在団中に娘役トップが主演を務めるという類い希なる実績がスタート地点になっているのはいうまでもありません。だからこそ、その作品があんな作品になってしまったことは恨んでも恨みきれないところです(正確には座長は紫門さんでしたが)。
 自身も「芸のオタク」と自認するちゃぴは、例えば最初に電車でたまたま一緒になったアンヌに元素記号の話をしているときはとても生き生きしていて、アンヌは若干ひいているんですけれども(笑)、好きなことにはつい饒舌になる感じがたまらなかったし、ピエールとの最初のやりとりもまさに科学者にありがちなコミュ障って感じがよく出ていて楽しかったです。再演するならまたちゃぴにマリーをやって欲しい。
 上山さんも、舞台裏では結構いろいろやらかしているらしいことがプログラムからうかがえる愉快な人ですが、舞台の上では抜群の安定感を誇りますね。このコンビ、夫婦、良かったわ。ところで、プログラムでは「マリー」のあとに「ピエール」が来ますが、カーテンコールのときはマリーを真ん中に下手から、屋良・愛希・清水・上山の順番で、なぜ……となりました。百歩譲ってアンヌ役がマリーの隣にくるのはわかるけれども(それでも下手側が自然かな)、なぜルーベンがいるのだろう、と。上山さんだってちゃぴの隣が良かったでしょうに。
 アンヌ役の清水くるみさんは今回おそらく私は初めましてで、芝居も歌も申し分ないのだけれども、果たしてこのキャスティングは適切だったのかどうか……と疑問に思いましたが、世間ではどう言われているのでしょうか。もっとなんか他の役が見てみたいなと思った俳優さんです。あと屋上でマリーと手に手を取り合う場面はノースリーブのようで、肌色の下着を着ていましたが、あれはない方がよかったかなあ。
 そしてイレーヌは、なんかもう……こちらはもっと他に適任の人がいたでしょう、と思わざるを得ませんでした。いや、もう脚本の段階でイレーヌの存在が疑問が多いから、なんなら、再演するときはいなくてもいいとさえ思うけれども、なんだか客寄せのためのキャスティングかなと思ってしまいました。芝居できる人、読んできて~!
 そして石川新太くん。だいもん(望海風斗)のライブにいた子じゃないですかー! こんなところで再会できるとは! 「ブラック・ミス・ポーランド」の曲にはイライラしましたが(そして女子トイレがないという歌詞は本当に今の社会問題そのもので、ぐさりときた)、あの憎めないキャラクターを思い出してしまうと、もう君だけ許しても良いかって思えたくらいですよ。

 ミュージカルという看板を掲げていますが、それほど歌は多くない印象。けれども、どの歌も印象深いのもまた事実。おもしろい作品でした。
 また今回初めて知った「ファクト+フィクション=ファクション」という言葉ですが、前述した通り、別に事実や実在の人物をモチーフに作品を作ることはそれほど珍しいやり方ではなくて、なんなら平安時代初期の『伊勢物語』だった在原業平がモデルになっているだろ!とか、もっと遡れば木梨軽皇子も穴穂皇子も実在の人物で、それがもとになって『日本書紀』や『古事記』が描かれたんだろう!という気はします。たぶんもっと世界に視野を向けたらもっと遡れると思うのですが、わざわざそういう行為に「ファクション」という名前が新たにつけられたことは本当におもしろいと思っています。我々は名前のないものは基本的に認識できない脳みそになっていますから、数千年かけてようやく事実をベースとした物語創作は認識されるようになったわけです。作中のラジウムもマリーが発見される前からあったけれども、発見されて、名前が付いたから世間の人々にも知れ渡るようになったし、「名前をつけよう」とも歌っています。それは認知するためなのです。
 一方でこれは物語(フィクション)そのものがないがしろにされているからこそ生まれた言葉なのではないかと思うのです。つまり、簡単に言えば文学なんかいらないという人たちが急増して、社会の中で物語が急に肩身の狭い思いをさせられているということです。だからこそ、物語や文学を大事に思う人たちが「是は一大事だ!」となって、新しく名前をつけたのではないか、と。物語の生き残りをかけた名称なのではないでしょうか。
 私はあまりにも物語を浴びて育った人間なので、新しく名前が付いたところで「ついたんだ~でもよくある手法だよね~」みたいな感じになりますが、たぶん学校の教科書くらいでしか小説を読んだことがない、漫画は難しいけど、アニメなら理解できるとか、そもそもフィクションは役に立たないとか、そういう風に考えている人にとってはだいぶ新しいことのように見えるのではないでしょうか。っていうか、見えてくれないと困る。
 新しいことのように見えて、物語って意外と面白いじゃん!となってくれないと、それこそ本当に文学不要論とかがデカい面して社会を支配しようとするから、ほら、なんとかいしんみたいな。そういうのに騙されない想像力を物語、ひいては文学は与えてくれる。だから物語にも論理が欠かせず、自己矛盾はなるべくない方がいいのではないかな、と思う次第でした。

花組『殉情』コラム

谷崎潤一郎春琴抄」の語り手の描かれ方――『殉情』を中心に

1 はじめに
 宝塚歌劇専用チャンネル「タカラヅカ・スカイ・ステージ」でこの4月、谷崎潤一郎春琴抄」が原作の『殉情』が放映される。それを記念して、放映される2022年10月13日から11月7日まで上演された花組の『殉情』(主演:13日から21日までは帆純まひろ、30日から7日までは一之瀬航季)での新しくなった語り手の描き方について考えていきたい。
 なぜ、語り手に注目するのか。ヒントは原作にある。谷崎は、「春琴抄を書く時、いかなる形式をとつたらばほんたうらしい感じを与へることが出来るのか一事が、何よりも頭の中にあつた。」と言う(「春琴抄後語」『改造』昭和9年6月)。そこで佐助が残したとする偽書「鵙屋春琴伝」を編み出し、それをもとに、語り手の「私」が新たな春琴像を作っていく構成となっている。作品構成は難解だ。
 文体も一筋縄ではいかない。一文がおそろしく長く、句読点や改行が極端に少なく、ひらがなを多用する本文は決して読みやすいとはいえないし。しかし、谷崎はそれによって、盲人の世界を表現しようとしていた。谷崎は他にも同様の文体で「盲目物語」という作品を描いている。つまり、文体は春琴の世界を表現しようとしているにもかかわらず、当の春琴自身には構成上、徹頭徹尾言論の自由が与えられていない。描かれるのはひたすら佐助ないしは語り手が春琴を「どう見たか」という話であり、佐助と春琴、あるいは語り手と春琴はどこまでいっても見る/見られるの非対称の関係である。そこに春琴の主体性は微塵も感じられないし、そもそも求められていないのだ。谷崎と同じく『源氏物語』を訳した小説家の円地文子は「谷崎文学中で屈指の名作」とした上で、「ほんとうの意味では、内面を無視されて描かれた女性」は「シテにはなり得ない」と述べ、本作を「男の女を相手にして悪戦苦闘の末についに法悦の境にまで達する顛末を完全に描いた作品」と指摘している。円地は谷崎が死ぬまでは『源氏物語』は訳さないと言っていたほど、谷崎をリスペクトしており、自身の小説『なまみこ物語』では「春琴抄」の手法を真似するほどであったが、この言葉は痛烈なものだろう。なお、谷崎には見る/見られるの関係を意識した作品として他にも短編の「秘密」などが挙げられ、初期の谷崎のモチーフであったことは確認しておきたい。
 宝塚歌劇団(以下、宝塚)においては、理想の男女の関係を描くことに一つの大きな価値を置いている。だからこそ「トップスター」「トップ娘役」という役目が与えられているのだろう。けれども、上記のような作品はどのように料理したところで、理想の男女の関係には行き着かない。だからこそ、今までの4度にわたる上演も、常に本公演(宝塚大劇場東京宝塚劇場での公演)ではないのだろう。とはいえ、一方で異色の男女の関係を描いた作品であり、人気がなければ再演もされないのは言うまでもない。
 今回の再演に際しては、それまで作・演出を担当していた石田昌也が監修・脚本に回り、新たに竹田悠一郞が潤色・演出を担うことで、大きく語り手の描かれた方が変わった。ここでは、近年の他の「春琴抄」を下敷きにした物語なども合わせて、竹田版『殉情』の新しさについて述べる。

2 宝塚の語り手
 6度にわたって映画化されている本作は、作品によっては語り手を配していないものもある。一方で、宝塚では石田版も竹田版も原作にならい、語り手を設定している。原作では語り手「私」が一人で語るのに対して、宝塚では大学生のカップル二人と郷土史の研究をしている石橋(石橋忍月が名前の由来になっていると考えられる)という老年の男性の三人になっている。石橋が大学生カップルに春琴と佐助について語る形式をとることで、観客の夢前案内人としての役割を果たしているのだ。
 ここで注目するのが、大学生カップルのマモルとユリコについてだ。バイト先が同じであるらしい二人は、作品の冒頭から恋人同士という設定である石田版に対して、竹田版では作品の冒頭で二人は友達以上恋人未満といった微妙な関係である。さらに、マモルは郷土史の研究をしているYouTuberなのだ。それにともない、石橋も、石田版は定年後の趣味として郷土史の研究をしている設定だが、竹田版では郷土史の研究をしている大学の先生という設定に変更されている。そして、マモルが春琴と佐助について調べ、ユリコの助けを得ながら発信する過程で晴れて二人は恋人同士になる。
 竹田は公演プログラムの中で初演「当時との大きな違いはSNSの存在」だと言い、マモルがYouTuberであるという設定はかなりこだわっている様子がうかがえる。翌年の『歌劇』1月号の「二〇二三年新春を言祝ぐ」と題された正月の挨拶でも竹田は「(マモルのYouTubeチャンネルの開設はまだ諦めていません)」と書くほどの執着ぶりである。SNSYouTubeである必然性はともかく、ここで重要なのはマモルが「発信者」言い換えれば「見る存在」であるという設定だ。
 見る/見られるの関係をこの上なく意識した原作の存在を考慮したとき、マモルが「見る存在」にいることは見逃せない。子まで成したにもかかわらず、決して相手の名前を言おうとしない春琴と決して子の父であると申し出ない佐助、結婚しないままあくまで師匠と弟子として暮らし続けた春琴と佐助のような歪んだ関係に比べたら、マモルとユリコとの関係は極めて健全だ。そもそも「見る存在」であるマモルに対して、ユリコはマモルにとっての「見られる存在」には属しておらず、もちろん盲人でもない。
 ユリコについては不明瞭なことも多いが(後述)、マモルの動画の編集をしているらしいことは、「私があれだけ言っても徹夜で編集してたら体調を崩すに決まってるじゃない」というユリコ自身の台詞や、石橋に対するマモルの「この前の動画、ちょっと編集で間違えてたところをコメント欄でこっぴどく指摘されて」「俺が間違えたんですけど、ユリコが責任感じちゃって。『私が全部任せっきりにしていたのが悪い』って」という台詞からうかがえる。これは、生徒会長/副会長にみられるような男女の主/副のイメージを再生産してしまっている節はあるが、ユリコが「見る存在」の「補佐」をしているからこそ、作品内部でユリコはマモルをぶたずに済んでいるのである。
 佐助と春琴を語るとき、原作では本来一人であった、そして性別は明かされていないが、男性であっただろう語り手を、語り手に若い男女の二人にわけるならば、それはそのまま佐助と春琴の投影であるという設定にした方が、構成としては穴がなく、端的に言えばわかりやすいだろう。けれども、佐助と春琴の関係が本当に「そのまま」投影されているだけなら、語り手を設定する意味がなくなってしまうのも事実である。その意味で竹田版は「春琴抄」の語り手の要素の中でもっとも大切な「見る存在」であるという役割をよみがえらせ、佐助と春琴とは異なる現代の男女の関係を描いたことは大いに評価すべきであろう。
 惜しいのはユリコの描かれ方だ。冒頭からマモルとユリコは旧知の仲、友達以上恋人未満の距離感が演出されているにもかかわらず、マモルが郷土史を専攻していることをユリコが知らないのは不自然である。そもそもユリコはマモルと同じ大学の学生なのか、大学は異なるが高校からの腐れ縁なのか、単なる家が近いだけの幼馴染みなのか、年の差はどれくらいあるかなどは気になるところだ。宝塚が目指す男女関係を『殉情』の中で描くとしたらこの二人になるからこそ、ユリコの設定や主体性がもう少し描かれて欲しいところだ。
 その点石田版のユリコは自立はしている。物語の最後でも、「少し愛され、それで充分に満足すべきじゃないかな」という石橋とそれに賛同するマモルに対して、ユリコははっきりと否を唱える。曰く「佐助は春琴を愛して愛して愛し抜いて、尽くして尽くし抜いて、ついには春琴を自分のものにしてしまったのよ」と力強く反論するのだ。このような姿勢は竹田版のユリコには見られなかった。どちらかといえば、竹田版のユリコはマモルに寄り添う姿勢を示す。先に記した「私があれだけ言っても徹夜で編集してたら体調を崩すに決まってるじゃない」と言ったときも「自分って無力だなあって思って」と自信をなくしかけているマモルに対して「そういう意味で言ったわけじゃ……」と一歩引いてしまうのだ。
 とはいえ、やはり宝塚の中で語り手の一人であるマモルが原作において重要な「見る存在」の要素を取り戻したことは、作品にとっても大きな一歩であったことは疑いようがない。

3 女が見る「春琴抄
 語り手の中で「見る存在」という作品内容にもっとも深くかかわる要素に注目し、生まれ変わった宝塚の作品からさらに一歩踏み込んで、「見る存在の性別」を重視した作品紹介をしよう。一つ目は2008年に上映された映画『春琴抄』(主演:斎藤工長澤奈央)である。ここでは、佐助から春琴への視線が、里内てる(春琴と佐助が暮らす家の奉公人・原作では鴫沢てる)から佐助への視線、つまり女から男への視線に転換しているところが非常に興味深い。映画のパンフレットやDVDのパッケージでも、春琴役の長澤よりも先に佐助役の斉藤があることから、監督金田敬が佐助を「見られる存在」として描くという強い意識が読み取れる。
 例えば、春琴が琴の稽古をしている場面。宝塚では、一段高いところに上手から師である春松検校、琴を弾いている春琴、隣で控えている佐助、と並び、一段低い下手には稽古を待っている芸者たちがいる。一方で映画では、佐助は稽古をしている屋敷の外で春琴を微動だにせず待っている。画面はその佐助を映し出す。ただ映し出すだけではない。顔のアップ、全身、そして神の視点を思わせる上空からとあらゆる方向からなめまわすかのようにしつこく佐助を追いかける。執拗なまでのその視線の、なんと熱いことか。女性客の欲望を反映したかのようなこの視点は、作中で佐助と春琴の二人の世話をするてるが担っている。
 二つ目の作品は、山崎ナオコーラ著『ニキの屈辱』(河出書房新書、2011年)である。こちらは作品内部に語り手を配さないが、「見る存在の性別」として女性を据えており、主人公のニキは売れっ子カメラマンである。これ以上ないほど「見る」ことを意識した職業になっているのだ。男性が多い職種の中、ニキは「写真家という性」としてカメラのシャッターを切る。アシスタントの加賀美は、ニキからぞんざいな扱いをされても彼女のもとでカメラマンになるべく献身的に働く。ニキの「犬みたいな僕が欲しい」という言葉通り、加賀美はニキの「僕」のように振る舞う。やがて二人は世間並みの恋人同士になる。なるほどその姿は確かに春琴と佐助を思わせるだろう。
 二人の幸せは、加賀美が写真家としての才能が開花し始め、アシスタントからカメラマンとして成長していくことで影が差す。加賀美はニキの元を去って行くのだ。数年が、かつて撮影したニキの写真をニキ本人が見てしまうことで、決定的に見る/見られるの立場が反転する。ニキは否応なく自身が女であることを突きつけられてしまう。当然、ニキは「私は、もう写真を撮らない」と言う。加賀美は信じないが、ニキは「私、写真家、やめたい」と繰り返す。
 これらの作品は「春琴抄」を下敷きにした作品の中でもかなり「見る存在の性別」を意識しているといえよう。ジェンダーギャップ指数が146か国中116位の日本社会にフィクションが痛烈な批判を投げかけているようにも見える。

4 自在に変化する語り手
 最後に紹介するのが笹倉綾人著の漫画『ホーキーベカコン』(全三巻)(角川書店、2019年)である。ここでの語り手は一言で言えば変幻自在な存在として描かれている。物語は1847年(弘化4)の道修町から始まり、一見すると語り手は不在かと思われたが、第一景(第一話)の最後に1933年(昭和8)へと時代が移り、書生らしき格好をした男・順市(「ジュンイチロウ」が名前の由来だろう)が春琴の墓を訪れている。そこで彼が出会うのは皇族や華族の最上級の正装である大礼服の上着を着物の上から羽織った一人称が「女(アタシ)」である性別不明の奇怪な人物である。名前の与えられていない彼ないし彼女から順市は「鵙屋春琴伝」の存在を知らされる。さらに2人は喫茶店で、「鵙屋春琴伝」を佐助の元で編纂した鴫沢てると合流し、3人の語り手によって春琴と佐助の話は紡がれていく、かのように見えた。
 この順市なる人物はなかなかくせ者で、ご丁寧に谷崎が「春琴抄」を書く際に参考にしたというトマス・ハディ著「グリーヴ家のバーバラ」を翻訳している。さらに、それを読んだ婚約者は「好きやあらへん男はんと我慢して住むのはかなんわ」とエドモンドについて行く意志を示し、「それに人形やとしょうもないよって」と頬を赤らめながらうっとりと色気たっぷりに言う。順市はそれに「ぞくり」とし、二人の関係は春琴/佐助の関係と二重写しになる。ここまではそう難しくないだろう。
 物語の終盤、奇怪な人物が春琴の墓の前にやってくると、てるがすでに墓参りをしており、いつの間にか順市も合流している。語り手3人の2度目の集合だ。てるから春琴の最期、その後の佐助との暮らし、佐助の最期などを語り聞いた順市が「貴重なお話を聞けてよかった ありがとうございます」と感謝の意を伝えると、二人に見送られながらてるは帰っていく。入れ違いに順市の婚約者がやってくる。思えば彼女も名前がない。そして名前のない婚約者は、順市ではなく、同じく名前のない大礼服を羽織った奇怪な人物に向き合って言う。「順市はん でっしゃろ」と。
 何を言っているのかわらない、とそう思う人もいるだろう。つまり、3人だと思っていた語り手は全て順市であったのだ。順市と奇怪な人物がてると合流した喫茶店でも、読者には3人で話しているように見えた場面が、作中の給仕の少女からは「一人で来はってソーダ水を三つ頼まはったんです」「一人で三杯のソーダ水を飲んで行かはったんです」「ずっと一人で誰かと話してはるねん」と言われる。順市は人格が分裂しているのか、はたまた多重人格なのか、と聞かれても不思議はないだろう。
 男性である順市は春琴と佐助の物語を語る上で、なんとかして佐助へのシンクロを拒絶しようとした。そのために性別を越境したのキャラクターになったり、時にはかつて春琴と佐助に仕えた女性のてるになったり、あがき続ける。しかし、婚約者に看破されたとき、彼は彼女の前で両膝を折り、頭を下げる。順市が春琴と佐助の物語を書き、「もし幸いにもその書が後世まで残るものならばそれは貴女様というものを伝えるためでもあります 我が尊き人」という言葉とともに。これは春琴と佐助を語る際、語り手がなんとかして佐助の視線から自由になろう、逃れようとあらゆる語り手を自身の中で想定し、必死にもがいたけれども、最終的には婚約者の存在によって佐助に回収されてしまった男の物語であった。語り手がすんなり佐助とシンクロしないところに新しさがあるといえる。
 他にも本作は「春琴に熱湯をかけたのは誰か」という「お湯掛け論」の中でも佐助犯人説を上手に取り込んだり、原作では春琴が産んだ子が女の子であったのに対して、男の子を産んだことになっていたり、春琴が盲人となるきっかけの物語が描かれていたり、鶯の鳴き声をタイトルにし、作中でも効果的に示され、春琴亡きあと佐助の妄想の中で春琴が迦陵頻伽に扮するなど鳥のモチーフをふんだんに盛り込んだりしており、「春琴抄」をベースとした作品の中でもかなり意欲的な作品であるといえよう。

5 おわりに
 以上、あらゆる形で「春琴抄」が受け継がれ、実に多様な語り手の設定が可能であることを示した。なぜ「春琴抄」が長く読み継がれているのか、それは春琴と佐助の物語が語り手の設定によっていかにようにも語ること、解釈し直すことができるからだろう。「春琴抄」の寿命が尽きるときとは、春琴と佐助の物語が語るに値する魅力をもたなくなったとき、あるいは新しい語り手の設定が不可能になったときのどちらかなのかもしれない。
 私が現在期待する「春琴抄」の物語は、春琴の暴露本である。原作では徹底的に言論が抑圧されていた彼女自身の胸中は一体どうだったのか、それを佐助というフィルターを通すことなく春琴の口から聞いてみたいといったところだ。佐助をいじめるのは最初こそ楽しかったものの、後からは結構面倒になった、それでもいじめ続けていたのは、もはや自分の世話ができるのは佐助だけだということを春琴自身もわかっていたから、かもしれない。
 物語の中の語り手は基本的には信頼できない。嘘をつくこともある。実際に原作の「私」は「鵙屋春琴伝」の記述に対して、明確に疑問をもっている箇所が見受けられる。さらには嘘をつかなくとも、所属するグループなどによって無意識に語り手の認識が歪んでいたり、意地の悪いことに、読解に必要な極めて重要な情報を故意に隠していたりすることもある。語り手は決して信頼できない。
 翻ってそれは、しかし現実の社会でも同じだろう。情報社会といわれるこの時代、公私の別なく発信される情報は多岐にわたり、我々は否応なくそれらの受信者とさせられてしまう。同時に誰でも発信者になり得る時代にもなった。何を信じて、何を疑うのか、よくよく考えて生きる必要がありそうだ。

※引用文献・参考資料
【書籍】五十音順
円地文子源氏物語』(全六巻)(新潮文庫
円地文子『なまみこ物語』
笹倉綾人『ホーキーベカコン』(全三巻)(角川書店、2019年)
谷崎潤一郎『刺青・秘密』(新潮文庫
谷崎潤一郎春琴抄』(新潮文庫
谷崎潤一郎吉野葛・盲人物語』(新潮文庫
トマス・ハーディ、井出弘之訳『ハーディ短編集』(岩波文庫
山崎ナオコーラ『ニキの屈辱』(2011年、河出書房新書)
『名著初版本複刻珠玉選 春琴抄』別冊「『春琴抄』解説」(日本近代文学館1984年)

宝塚歌劇】制作順
宝塚歌劇団雪組『殉情』(主演:絵麻緒ゆう)(2002年)
宝塚歌劇団宙組『殉情』(主演:早霧せいな)(2008年)
宝塚歌劇団花組『殉情』(主演:帆純まひろ、一之瀬航季)(2022年)

【映画】制作順
島津保次郎春琴抄 お琴と佐助』(1935年)
伊藤大輔『春琴物語』(1954年)
衣笠貞之助『お琴と佐助』(1961年)
新藤兼人『讃歌』(1972年)
西河克己春琴抄』(1976年)
金田敬春琴抄』(2008年)

名前と占いと私

「名前を教えてください」
 人間は死ぬまでに一体何回この言葉と出会うだろうか。格別変わったとも思われない、日常のありふれた、そんなフレーズである。特にこの4月は耳にするだろう。あるいは、口にするかもしれない。
 しかし、私は最近この問いに悩まされてしまう。

 漫画、アニメ、ボーイズラブ、声優、ミュージカル、舞台などと常に何かを追いかけている「オタク」なるものを、かれこれ人生の半分以上やっている。一時期は二次創作の小説のサイトまでもっていた。そこでは必然的にハンドルネームやペンネームといった「仮の名」がつきものであった。中学生のときは「舞鶴心葉(まいづるここは)」、高校生のときは「常盤燈鞠(ときわひまり)」、その他「羽蝶結菜(はちょうゆいな)」「野々撫子(ののなでしこ)」などと、暴走族も吃驚仰天な画数の多い漢字がずらりと並ぶ。おそらくこれは長年親しんだ宝塚歌劇団の影響だろう。仮の名といえど、姓+名の組み合わせが当然だと無意識に考えていたのも同じく宝塚の力学がはたらいたと見える。これについては、ヅカオタの中では比較的有名な話がある。「ぶんちゃん」という愛称で親しまれたタカラジェンヌ音楽学校の生徒であったとき「絵麻緒」という芸名を提示したら、劇団から「姓か名をつけなさい」と言われたという話だ。宝塚では姓らしい姓や名らしい名が求められない一方で、姓と名の両方があることを原則としているのだ(タカラジェンヌの名前については、武蔵野書院から出版されている桐山智子著『タカラヅカ百年の芸名』に詳しい)。実は大学生あたりから現在まで使い続けているこの「ゆきこ」という名にも一応は姓があるのだが、インターネット上では特別必要とも思われないので書かないことが多い。
 オンラインはもちろんだが、知り合ったのが学校などの現実の日常生活であっても、オタクの友人・知人らと一緒にいるときは本名よりもむしろ仮の名でいることが楽だったし、手紙のやりとりは専ら「ここはさん」「ひまりさん」であった。特に高校生のときは、学校やクラスになじめない息苦しさの中で、オタクの友人と一緒にいることがある種の救済装置としての機能を果たしていた。本名でいる世界線では苦しいことも辛いことも多いけど、仮の名でいるときは好きな者を共有する人と楽しい話ができる世界線で過ごすことができた。使い分けることは当時の私にとってごく自然なことだった。名前がアイデンティティそのものであることを、身をもって経験した。

 かつての仮の名がタカラジェンヌに似ているだけでなく、実のところ私は本名もある元タカラジェンヌと同じである。芸能界で幅広く活躍するがゆえに誰でも知っている、超有名な俳優と同じ漢字である私は、しかし読み方は異なるので、なかなか一度では正しく読まれないという不運にも見舞われた。学校で表彰されるときは必ず賞状に書いてある名前の隣にうっすら鉛筆で読み方が書いてあった。子供を作る気は1ミリもないが、もし何かの間違いでできたとしたら、絶対に一度で読める漢字にしようと思っているし、今の仮の名がひらがなであるのも、その反動かもしれない。ひらがななら読み間違えようがなかろう。
 生物的性別が同じであるならば、下の名前の漢字が全く同じ人がいることも不思議ではなかろうが、生物学的性別が違うにもかかわらず、下の名前の漢字が同じである人が高校の同級生がいた。おそらく生物学的性別を考慮すれば、読み方は違うと思われるが、結局読み方を知らないまま卒業したし、今後も知ることはないだろう。知る機会がなかったのは、同じクラスにならなかったから、文理選択が異なっていたから、と理由はいくらでも考えられるが、われわれは姓もよく似ていたので、おそらく教員側がクラス替えのときに配慮したのだろう。今でも「加藤」「伊藤」「鈴木」「田中」といったよくある姓の生徒はなるべくクラスを分けると聞く。
 私も相手も姓は上記の4つほどではないが、よくある姓であった。地域によってはとても多いところもあるだろう。しかし、そうでなくても初めてお目にかかる大人はそういないだろうし、読み間違えることもない。漢字で書くと2文字、ひらがなで書くと3文字といったごくありきたりな組み合わせだった。そして私たちは漢字の2文字目とひらがなの1文字目と3文字目が全く同じであった。大変紛らわしいことこの上ないのだ。さらにややこしいのは唯一音が異なるひらがなの2文字目も、ローマ字に分解すると母音は同じ、異なる子音はやや聞き分けにくい音であった。クラスが分けられたのはもっともなことである。生徒を呼ぶたびに逐一二人が返事をしている教室は最初こそ笑えるが、だんだん笑いはとれなくなってきて「またか」と冷めた空気が流れるだろう。その後、生物学的性別が違う人で、同じ漢字を書く人に出会ったが、やはり読み方は違った。

 生まれてこの方子供が欲しいと思ったことはないと書いた通りで、今なお作る気はないが、それと同様に結婚願望もまるでなかった。結婚したら幸せになれるというディズニープリンセスにありがちな妄想は自分の父母を見ればすぐに打ち砕かれたし、自分が誰かに頼って生きていくというのもあまりピンとはこなかった。同じように自分が労働者になることも、あまり想像はできなかったが、専業主婦なんてまっぴらごめんだったし、料理のできない私は有閑マダム志望である。働きもせず、家事もせず、優雅に日がな一日本でも読みながらゆっくり年をとっていきたい、正直に言えば今でもその願望はある。しかし、そうも言っていられないのが現実だ。
 働き始めてまる2年、何を間違えたのか、私と結婚してくれる人がいるという。青天の霹靂とはまさにこのことか。周りはもちろんだが、誰よりも私自身が驚いていた。これから先、自分の人生で何が起きてもこれ以上の驚きはないだろうと思っている。ありがたいことに今年の3月でまる9年が経ち、現在10年目をハッピーに過ごしている真っ最中である。
 のろけはともかくとして、深刻な悩みはそう「名前」。姓をどちらにそろえるか。私自身は変えたくはなかった。ちっぽけではあるが、私には研究業績のようなものもあった。一方で、自分の嫌なことを相手に押しつけるのも嫌だったし、自分の倍近く生きている相手に姓を変えさせるのは抵抗があった。ただ、これを機会に自分が生まれた家と縁が切れるのは気が楽だと思い、「別姓が法的に認められるようになったらすぐに手続きをすること」「私の姓変更による各種手続きには必ず同行すること」を条件に、結局私が戸籍の姓を変えることになった。

 私の職種はありがたいことに旧姓使用が認められている。婚姻届を出した翌日、早速その制度を使おうと書類を提出した矢先、当時の女の管理職にやんわりと咎められ、妨げられてしまった。初任から2年、私はことある毎にその女管理職と衝突してきたが、ここでも私の望みは阻まれてしまったのだ。むなしく書類は誰の目に触れることなく、私の手元に返ってきて、ただの紙切れにしまった。あのときの虚無感は計り知れない。
 それから私は「新しい姓で呼ばれるとき、結婚したんだなあと実感が湧き、嬉しさをかみしめる」というような男に都合のよすぎる幻想を実感することなく、働き続けた。正直、違和感しかなかった。自分の名であるはずなのに、他人のようなよそよそしさが常につきまとった。自分が呼ばれているのに、誰を呼んでいるのだろう、と。あんた、誰?みたいな。その間にも旧姓で細々と研究まがいのものを続けており、旧姓そのものがかつての憩いの場のような場所になっていた。高校生のときは本名の自分の生活が嫌でたまらなかったのに。まこと不思議な話である。表の顔と裏の顔を使い分けていた。一方で何かの間違えで、戸籍名での業績もできてしまった。これが乖離に拍車をかけた。自分が誰なのか、何者なのか、漠然とした不安と背中合わせで生きてきた。
 戸籍名で働き始めて7年、とうとう耐えきれなくなって職場で旧姓使用願の書類を提出した。そのときは初任の職場からは変わっていたし、意地の悪い管理職もいなかった。周囲からは極めて奇異な目で見られたが、私自身はあるべき姿に戻ったという安堵感が得られた。この名とともにある嫌な思い出も多いが、この名で認識されることが少なくとも「あるべき」だと思えたのである。2つ目の職場は最初から戸籍名だったから、後輩ちゃんたちからは「違和感がある」「気軽に呼べない」と言われたが、私にとっては戸籍名の方がずっと身体に馴染まなかった。
 書類提出から数週間後、管理職から「旧姓使用許可証」なる紙が渡されたときは「許可も何もねえだろ、名前くらい好きにさせろ」と身も蓋もないことを思ったが、どこかのいじわるばあさんとは違って認めてくれたのだから、と口に出さなかったのはえらいと思っている。今はクレジットカードに紐付いている取引や保険証が必須の病院以外はほとんど旧姓にしている。名前に関する葛藤はこれで一旦は決着がついた、かのように見えた。

 今年の4月から、日常生活がガラリと変わる。それはずっと望んでいたことであり、喜ばしいことであるはずだが、準備のための様々な、そして多くの書類には望まない名前で書くことを強要された。知らない人の名前を自分のことのように何枚も何十枚も書かされることが、あれほど精神的ダメージのあることだとは思わなかった。苦しかった。身分証にかかわることなので、よく考えれば戸籍名を要求されることは必然であったが、1日に何十回も戸籍名を書くことは、私の心をどんどん冷たくしていった。あれは夏のことだったのに。
 提出書類の中には旧姓のものもあり、同一人物であることを示すためには役所にお金と時間をかけて戸籍を取りに行かなければならなかった。結婚するときに「姓の変更によって起こる諸手続きを一緒に行うこと」を条件にしていたにもかかわらず、その前年に戸籍が必要であったときにはコロナを理由にやんわりと断られていた。そのときもまたなかなか時間を合わせてくれないパートナーと喧嘩もした。働いているから忙しいのはわかるが、それは私とて同じことだ。約束が違うと泣いて訴えたし、これを書いている今も思い出し泣きをしている。「女は3秒で泣ける」と固く信じているパートナーが私の涙に動かされたとは考えられないが、最終的には相手から「空いてるなら今から役所に行こう」と誘ってくれた。まだコロナが完全に収束したとはいえない中、役所はマイナンバーカードを発行する人でいっぱいだった。私は未だにポイントと引き換えに自分の人権を権力者には渡せないでいる。
 4月から新しく出会う人には、身分証とは異なるが全て旧姓で自己紹介をしている。そうしてなんとか私のアイデンティティを保とうとしているのだ。綱渡りのような感覚だ。中高の友人には、出産祝いを贈ると「まだ旧姓を使っているの?」と笑われたときは綱から落ちそうな気分だった。外ではパートナーのことを姓で呼んでいるほど、私の身体には馴染まないのに。

 自分の意志で決めたこととはいえ、環境が大きく変わることに不安がなかったといえば嘘になる。友人らに話をしてもあまり真面目に取り合ってもらえず、「ゆきこちゃんなら大丈夫!」と楽観的な返事をされるばかりで、どうしてみんなそれほどまでに私を信頼しているのか、私の一体どこを、何を信じているのか不思議で仕方がなかった。
 心配が募りすぎたせいか、悪夢も見た。燃えさかる炎の中、私の右腕にもまた火が燃え移り、大変熱い思いをする。しかしその火は右腕からいっこう動こうとせず、熱心に右腕だけを焼いている。肩から身体にかけては燃え移らない。夢の中で起きたことを論理的に説明するのは難しいが、炎はつまり頭にも燃え移らないので「熱い」という意識だけははっきりしており、それはそれでとてもしんどかった記憶がある。またあるときは、なぜか物語の世界に入り込んで、私は一列に並ぶ地蔵の末席に立っていた。雪の日におじいさんは自分の笠を私のすぐ隣の地蔵にかぶせ、私のことは見向きもせずに通り過ぎてしまった。地蔵の私はただひたすら寒くて寒くてとても耐えられなかった、死んでしまいそうだった。パートナーに話すと、後者については「もはやギャグ」と笑われてしまったが、冷え症の私にとっては死活問題であった。
 パートナーにもわかってもらえない悩みをもてあました私は、行きつけのお店にたまたま来ていた占い師が「お試し15分・無料」という看板を見過ごさなかった。普段占いなんてまともに気にしたこともない人間なのに、笑える話だ。しかしそのときの私は藁にもすがる思いであった。
 そこでの占いは「名前」と「生年月日」を元にしていたが、ここでの名前は「生まれてきたときの名前」であり、私にとっては自分の身体によくなじんでいる旧姓であった。別にそれを知っていて占ってもらおうと思ったわけではなかったが、そこで一つ、確実に何かが救われたような気がした。
 それによると、私は「思ったら即行動派の勇猛果敢なロマンチスト」と評された。他にもいろいろ言われたが、まとめるとこんな感じである。なるほど、思い当たる節がないわけではない。無料お試しなので、とりあえず4月からの生活についてのことを聞こうと思っていたのだが、時間に余裕があったせいか、いろいろな世間話をした流れで、「戸籍名だとキャラクターが変わる」という話に至った。どう変わるのか、それを聞かずにはいられなかった。曰く「純粋で何にも染まりやすい一途な人」ということだ。もう少し言えば「旧姓に比べるとやや大人しく、気の小さい性格になる」と聞いて、合点がいった。パズルのピースが全部そろったかのようだった。そして誓った。やはり私はできる限り旧姓で生きていこう、と。初めて臨んだ占いで、これほど救われるとは夢にも思わなかった。

 日本語と英語の両方ができる知人は、日本語で話すときは穏やかだが、英語で話すときは自然と攻撃的になってしまうと言っていた。自分ではその違いを意識して使い分けているわけではないのだが、否定語を終わりに持ってくる言語と最初の方にもってくる言語とでは当然話し方や態度は変わるだろう。おそらく名前もそういうことである。同じ人物でも、使う名前によって意図的ではなくとも、キャラクターが多少変化する。意識的に使い分けるのが賢いのかもしれないが、私は生まれたときの名前に付随するキャラクターがたぶん好きなのだ。
 戸籍名を書くときの違和感に慣れることは一生ないだろう。早く夫婦別姓が法的に認められたら良いと思う。そしてその日まで、できるだけ好きな名前で生きていく、ただそれだけの話。

星組『Le Rouge et le Noir ~赤と黒~』感想

星組公演

『Le Rouge et le Noir ~赤と黒~』
D'après l'œuvre de Stendhal «Le Rouge et le Noir, l'Opéra Rock»
Produced by Sam Smadja - SB Productions
International Licensing & Booking, G.L.O, Guillaume Lagorce
潤色・演出/谷貴矢

配信を見ました。
プログラムは手元にないのが悔しいくらい楽しかったです。今度、大劇場に行ったら買おう。オリジナルミュージカルは未見です。
トップコンビを引き離してまでこのロックミュージカル作品を上演したかったのが、劇団なのか、それともタカヤ先生なのか、それはわかりませんが、とにもかくにもトップ娘役の不在が納得できないと作品にも入り込めないだろう、と不安でたまりませんでしたが、そこはさすがタカヤ先生というべきでしょう。
これは確かにルイーズはくらっち(有沙瞳)でなければなければいけなかったでしょうし、マチルドもまたうたち(詩ちづる)でなければならなかったでしょう。者の説得力はもちろんですが、演出の妙もあったかと思います。
作品全体が芝居というよりもショーに近いこともトップ娘役不在であることを意識しなくて済んだことの要因の一つでもあるかと思います。伏線を回収する、気の利いた台詞の応酬を楽しむといったタイプの作品ではなく、みんなが知っている話をロックミュージカル仕立てにした作品だったことが幸いしたのでしょう。
超有名な作品のあらすじを歌とダンスでねじ伏せるタイプの作品という意味では『ロックオペラモーツァルト』や『王家に捧ぐ歌』あたりも同じことでしょう。
新しくこういう境地を切り開いていくなら、こういうのは『ベルサイユのばら』で見たいなと思いましたね。小柳先生、いかがでしょうか。でもそのときはトップコンビでやはり見たいなと思う次第なのです。それくらいトップコンビという存在に宝塚の特徴を個人的には見出しています。

冒頭に出てくるのは『エリザベート』のルキーニのように狂言回し&『M!』のシカネーダーのように劇中で活躍する役者のジェロニモ。主人公ジュリアンの影、ときには光というような形で表裏一体を形成するのもおもしろい役回りです。
私はよく知らないのですが、このジェロニモという歌手は実在したのでしょうか。そもそも『赤と黒』という作品そのものが事実あった事件の裁判記録からヒントを得たということですから、実在していたとしてもおかしくはありませんが。
例えば『激情』では、作者のメリメが出てきますが、ジェロニモが『赤と黒』の作者スタンダールの分身とも考えられるのでしょうか。
ありちゃん(暁千星)は今までにない扉を開きましたね。お化粧も良かったです。下まつ毛! 描いてる!!! ギラギラ感が! 増している!!!

『ロミオ&ジュリエット』を彷彿させるような赤のダンサー・ルージュ(希沙薫)と黒のダンサー・ノワール(碧海さりお)。とっても素敵な舞台装置は薔薇の蔓が絡みついた柵のようなもの。おしゃれ! たぎる! もうこれだけでとっても楽しみになる!!!
なんなら私は『PoR』でこういうのを見たかったんだよ、赤薔薇のダンサーと白薔薇のダンサーって形でさ。
そして灰色のコロスたちが大活躍。
『元禄バロックロック』でもラッキー来い来いガールズたちのコロスの扱いがすばらしかったので、タカヤ先生はこういうの、うまいんだな、本当。今回はコロスに男役も混ざっているというのが非常にいいですね。「花の精」とか「雪の精」とかやはり娘役に偏りがちだからな。別に『壬生』のこと言っているわけじゃないよ!><
そしてコロス役の鳳花るりなちゃん、めちゃめちゃ可愛い!!!『ジャガビー』のコーラスをやっていたり、『ディミトリ』の新人公演のリラの花も可愛かったからなー配信でいっぱい映って良かったです!!!

コロスが灰色であるのに対して、レナール夫妻もラ・モール父娘も黒の衣装が基本。一方、町長レナールにやたらとつっかかってくるヴァルノ夫妻は赤い衣装。ぎんぎらぎんにさりげなくない赤い衣装。眩しいぜ。
だからレナール家のメイドであるエリザは黒い衣装に赤いエプロンなのでしょうね。るりはな(瑠璃花夏)がとても可愛かったぜ~!
レナール夫妻とヴァルノ夫妻の衣装を対立させているのでしょうけれども、それはそれでいいのだろうか。1幕はそれでもいいかもしれないけれど、2幕はラ・モール公爵との関連はどうなるのだろう。衣装の色はオリジナル通りなのでしょうか。
とはいえ、着飾らないレナール夫人と着飾りまくるヴァルノ夫人の対立はたいへんよかったです。

大工の息子が家庭教師をやることを冷笑というよりも嘲笑してみせるヴァルノ夫妻は「ラテン語で何か暗唱してみろ」という挑発にのり、レナール夫人が読み始めた聖書のフレーズを突然歌い出すジュリアン。琴ちゃん(礼真琴)は当然うまい、めちゃくちゃうまい。さすがとしか言いようがない。ヴァルノ夫妻は「歌で殴られた」と思ったに違いありません。歌で殴り合うタイプの作品であることを最初に強く思った場面で、大変印象的です。

歌で殴り合うタイプの作品というのは娘役の配置を見ると納得いく部分が多くて、これはくらっち、うたち、なっちゃん(白妙なつ)、ほのか(小桜ほのか)、るりはなの布陣ですよ。圧倒的歌唱力。さすが、歌で殴り合う作品だわ。次の雪組大劇場公演の魔女も美穂圭子、妃華ゆきの、希良々うみ、有栖妃華、音彩唯という歌わせる気満々のメンバーですが、これが別箱でできるというのも強いですな、今の星組
この中でくらっちとるりはなのデュエットソングがあるのは最高だったな。宝塚だとトップ娘役と二番手格の娘役のデュエットでさえ稀なのに、ショーでもあんまり見ないのに。こういうのがもっと見たいし、なんならトップコンビを分けるくらいなら、娘役主演作品をもっと上演してくれてもいいんだよ! 楽しみにしているよ、劇団!!!
その意味で『愛聖女』がこけたのは本当に惜しい。返す返すも惜しく感じる……ヨシマサめ!
今回はもとが海外のロックミュージカルであるせいか、娘役が学年に関係なく活躍の場があるのは嬉しい限りです。反対に男役は宝塚だと番手にしばられるので、ちょっと難しいところもあるのかもしれません。だから別箱上演というのはわかる。

ジュリアン、君はいったいいつレナール夫人に恋に落ちたんだ、というツッコミはロックミュージカルだからしないとして(笑)。
ジュリアンが夜這いに来たとき、レナール夫人が赤い薔薇の髪飾りを胸の谷間のあたりにさしているのは、もうなんともいえない気持ちになりました。ドキドキすぎたわ。官能的とはまさにこのことか。『ドン・ジュアン』でもこんなくらっちを見たことがありますが、それよりも色気が増し増しになっていて、私は眩暈がするかと思いましたよ。なんてこった。
髪の毛を下ろしているだけで色っぽいというのに、罪な人だ、くらっち……。
しかも感動的なのはこの赤薔薇の髪飾りをレナール夫人が積極的にジュリアンに渡すというくだりですよ! ロケットと共に大切にしてほしいと言葉にして伝える。主体的な女性というのがとてもよいのです。
ロックミュージカルなら『1789』や『ロックオペラモーツァルト』はオリジナルを見たのですが、こういう女性がたくさん出てきてくれるのが嬉しいところです。
最後にジュリアンに撃たれるとき、笑っているのは印象的です。そう、彼女は嬉しかったのよね。自分を殺してまでも愛を守ろうとしたジュリアンが。本当に愛しいのでしょう。もしかしたら彼女にとってはこれが最初で最後の恋だったのかもしれません。

2幕冒頭は夜会でしょうか。マチルドは1幕冒頭では黒衣装でしたが、こちらでは華々しく赤い衣装。このツインテールは罪。歌のうまさは言うまでもない。「あ~退屈だわ この世界 凍えそうよ 退屈だわ この人たち 燃え上がる 出会いはどこに~♪」最高でしたな。もう間違いなくパーティーの主役はあなたですよ!って感じでした。好き。
しかしこの美貌と野心をもっているにもかかわらず、父親のラ・モール侯爵には「貴族の嫁に」とか言われちゃうんだから、マチルダからしてみたら、うんざりですよね。本当、うんざりですよね。鬱憤がたまるでしょうよ。もはや彼女が求める「気高さ」がどういうものなのかは、問いません。ロックミュージカルだから。
とにかくレナール夫人もマチルダもいわゆる「小さな青い花」でないというのがものすごくイイ! 女たちの戦い(生き方)が主体的に描かれているのが本当に嬉しいです。

それにしてもレナール夫人は羽織りが黒レースと赤薔薇の2枚ありましたが(そしてなぜかその2枚を同時に羽織っている場面はちょっと「?」という感じでしたが。どちらかで良いでしょう)、ドレスは基本的に1枚だったかと思います。一方マチルドはドレスが2枚あり、豪華といえば豪華。黒の衣装のときは羽織があったりなかったり。髪型も黒いカチューシャと黒いリボンの2種ありました。可愛いよ~!
着せ替え人形感の楽しみはマチルドの方がありますが、全編にわたって登場するヒロインはレナール夫人ですから、やはりこれはどちらがトップ娘役が演じるのかは悩ましい。その意味でもくらっちとうたちの二人で分けたのはそれなりに筋は通っていたかもしれません。

ほのかヴァルノ夫人は2幕でようやく歌う。良かったよ、歌ってくれて。ロックミュージカルなのに彼女を歌わせない手はないでしょう。最高でしたわ。
しかしスカートを持ち上げすぎなのは気になったかな……ドレスの中の足、丸見えですよ。下品ギリギリといったところなのか。そう、あれは宝塚でできる下品ギリギリのラインという感じはした。これが『ベアタ・べトリクス』のリジ―と同一人物なんて! さすが役者だわ!!!
ヴァルノ夫人はどれくらいヴァルノを愛していたのでしょうね。ヴァルノは他所に女がいくらでもいそうでしたが……ああいう演技、うまいよな、ひろ香祐。芸達者。

芸達者といえば、町長のレナールのゆりちゃん(紫門ゆりや)、ラ・モール侯爵のじゅんこさん(英真なおき)の専科のお二人は本当に劇団にとって貴重な戦力だと改めて思い知らされました。すごいよ、お二人とも。
ゆりちゃんはスチール写真もものすごく良かったです。まだまだ新しい扉を開いていく姿、ありがたすぎるわ。
じゅんこさんは顔のふっくら感が戻って来た印象があります。お元気そうな姿を見ることができてうれしい限りです。そしてマチルドとジュリアンを一度部屋から追い出したあとに歌う歌はまさしく『ロミオ&ジュリエット』のジュリエットパパと同じ心境ですな。

ようやくジュリアンとマチルドの結婚が認められ、ジェロニモは「地位と名誉が愛によって与えられた」というようなことを言う。皮肉だよな、ジュリアンはずっとそれが欲しくて、武器でもなく身分でもなく、ただ己の知恵だけを頼みにしてラ・モール侯爵の秘書にまで上り詰めたのに、愛によって、それはいとも簡単に与えられてしまったのだから。彼がしてきた血のにじむような努力とは一体なんだったのだろう、彼が受けてきた理不尽な中傷とは一体なんだったのだろうと考えずにはいられません。いられませんが、余韻にひたる暇はありません、なにせこれはロックミュージカルですからね!
しかもそれを東京大学出身のタカヤ先生が演出するとは何たる因果よ! 心境をぜひお伺いしたいところです。

なっちゃんは歌ももちろんすばらしかったですが、フェルバック夫人のあのお衣装の破壊力たるや……っ!
どうしてあの形のドレスを着こなせるのだろうか、すごい。驚異的なスタイルだな。
胸元が開いていて、大きな白い襟がついていて、身体のラインに沿った黒いドレスかと思いきや、腰からお尻の部分にバッスルみたいにふくらんだものがついていて、膝から下の裾は広がっている。オリジナルもああいう衣装だったのかな、気になるな。
きっとフェルバック夫人もいっぱい若い燕が周りにいるのだろうな、と思いました。素敵だ。美魔女!

「愛されるよりも愛したいマジで~♪」とはKinKi Kidsの曲ですが、古今東西老若男女、みなすべてこれなのでしょう。その意味でマチルドはジュリアンを愛しすぎてしまったとも思います。マチルドにはジュリアンとの子供が与えられますが、レナール夫人に対するほどの愛情は与えられない。そしてレナール夫人にはジュリアンの心が、愛が与えられる。
もっとも罪と背中合わせでなければ自覚できない愛というのも淋しいものでしょう。これは物語の中だから、もちろんその方が盛り上がるというのはあるでしょうけれども、そして人間の認識は相対的なものであるということも考慮しても、愛は愛だけで存在する世界を、その理想を私は求めてしまいます。
マチルドもバカではないですから、なぜジュリアンがレナール夫人を撃ったのか、すでにわかっていることでしょう。それでも助けだそうとするその健気さは、ジュリアンに生きる希望を与えない。マチルドと生きる「未来」ではなく、レナール夫人を殺害しようとした罪人の「現在」を貫こうとする。

最後のダンスは琴ちゃん、くらっち、うたちの三人。琴ちゃんが二人の娘役に対してジュリアンとして接しているけれども、とてもやさしくて穏やかで。けれどもなこちゃん(舞空瞳)とのデュエットダンスのときにしか見せない表情があるということがわかって、これはこれで新しい発見でした。3人のデュエットソングもすばらしかった。
しかしやはりトップコンビが分かれるのは寂しいものです。
いわゆる宝塚のフィナーレはついていませんでしたが、三人で最後に踊るのはオリジナルにもあったのでしょうか。とてもよかったです。

レナール夫人とジュリアン、マチルドとジュリアン、どちらのカップルも女の方が身分が高いという共通点がありますね。月組がただいま東京で上演中の『応天の門』の高子と業平も、駆け落ちした当時はともかく、将来的に高子の方が身分が高くなるということを考慮すると、相似関係にあるといえるかもしれません。
世界の物語をひもとくと、男の方が身分が低いという話は少ないのではないかと思っているのですが、宝塚はそうでもないのかもしれません。「身分がなくても俺は気にしない」と『fff』のルイも言います。それ、身分が低い(ない)人間が言う台詞ではないでしょう、と盛大にツッコミを入れたのは懐かしい思い出です。

日本青年館ホールでの公演、また他の星組の2つのチームも無事にすべての幕が上がりますように。
バレンシアの熱い花』『パッション・ダムール・アゲイン!』と『Stella Voice』は配信情報がまだ発表されていませんが、あることを願います。

花組『うたかたの恋』感想2

花組公演

ミュージカル・ロマン『うたかたの恋
原作/クロード・アネ
脚本/柴田侑宏
潤色・演出/小柳奈穂子

東京千秋楽、おめでとうございました。なんでも東京で完走したのは『アウグストゥス』以来だとか。もっとも華ちゃんの退団公演であったその公演も、宝塚では最後の方の公演が中止となり、私は生で観劇するはずだった華優希サヨナラショーを見ることができなかった悔しさが思い起こされます。
これはれいちゃん(柚香光)に限った話ではありませんが、宙組以外のトップスターは全公演が中止することなく上演できた本公演ってないんですよね。そんな状況ではなかなか本人もファンも退団の選択はしにくいかと思います。一方で、下級生が育ってきているのも事実、また娘役トップスターにいたっては、このような状況の中でも退団していってしまう、というのがなんとも言えない気持ちになります。

そんなわけで『うたかたの恋』。初日付近の感想はこちら。

yukiko221b.hatenablog.com

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本当はもう二回見るはずだった公演のチケットは中止となり、宝塚大劇場の新人公演のチケットもむなしく散りました。無念……っ!
今回は、配信で見た東京の新人公演と千秋楽とを合わせた感想でございます。

繰り返し言われていますが、大劇場での『うたかたの恋』は20年ぶり、初演から40年経った物語は当然、そのまま上演するには難しく、最近の別箱の再演でも違和感を覚えることが多かった部分は小柳先生によってかなりスッキリした印象があったことは最初の観劇の感想にも書きましたが、それにプラスして女性キャラクターの多様性をかなり意識的に描き分けているように感じました。
つまり、今まではルドルフにとって、あるいは作品にとって「女性」というのは「聖女/娼婦」に大別され、前者は言うまでもなくヒロインのマリー、そしてジャンの恋人であるミリー、あるいはここに母のエリザベートも入ってくるかもしれません。一方で後者はマリンカ、ツェヴェッカ伯爵夫人などの女性がカテゴライズされ、悲しいことにステファニーやラリッシュ伯爵夫人は「女性」というカテゴリにも入れられていないように思います。そしてそれは「人間」として見られていたこととは違うというよりも、おそらくは正反対のベクトルを向いていたものだとさえ感じます。
彼女たちの描かれ方は、それほど「多様」とは言えなかったように思いますし、それが柴田先生の限界、言い換えれば時代の限界だったとも言えるかもしれません。

けれども今回マリンカと役割を分けたミッツィやマリーやミリーとの対照性の中で生まれたソフィーといった女性キャラクターが増え、既存の女性キャラクターにも多様な生き方が見えてきたように思います。
まずはマリー・ラリッシュ伯爵夫人、彼女は『ハムレット』観劇の場面にも登場し、出番が増えましたが、なんといってもルドルフと女性たちを仲介するのは決してボランティアではなかったというところがおもしろいところです。ホッフブルク宮殿にマリーを最初に連れてきた場面の帰り際、ロシェックからちゃっかり白い封筒を受け取っています。あれにはおそらく報酬が入っているのでしょう。従姉妹(どちらが年上か、『ル・サンク』の脚本では曖昧にされています)という血でつながっているのではなく、あくまでビジネスとしての信頼関係で二人が結ばれているのは大変興味深かったです。
本公演では朝葉ことのちゃん。笑顔のままロシェックから封筒を受け取り、その自然な動きからは、なるほどやはりこれは初めてなのではないなと観客に説得力をもって伝えていたと思います。
新人公演ではあわちゃん(美羽愛)。直前までのあわちゃんスマイルは消え去り、ロシェックからお金を取り立てる姿はまるで借金取りのように真面目そのもの。慈善活動ではない、あくまでビジネス上での結びつきであることを強調した演技となっていました。しびれた。

ステファニーは従来ヒステリックさが強調され、ややもすると観客の大半が女性なのに反感を買うのではないかと思われるような演出が続いたと思うのですが、今回は、特に千秋楽公演で感じたのはルドルフもステファニーも「本当はうまくやりたかったのに、そうできなかった」という悔いがにじんでいたということです。
特にルドルフがステファニーに愛情を示せなかったことを悔いるような場面がないと、本当にステファニーはヒステリックに走るしかなくなってしまう。だから、これはれいちゃんのお芝居が光っていたとも言うべきでしょう。そのおかげでステファニーは今までよりは救われたような気がします。
その意味でステファニーは『源氏物語』でいうところの葵上のような存在に見えました。言われてみれば主人公の正妻なのに報われないあたりはよく似ていますが、二人が結びついたのは初めてだったので、これもやはり演出・演技の賜でしょう。
かといってステファニーのつらいところは、自分も恋人を作って憂さを晴らそうとするのが難しいところです。彼女の腹は彼女のものではなく、オーストリーハプスブルクという巨大な帝国のものであり、伴侶以外の人との子をなすことは決して許されないからです。つらいわ。あとはもうアントワネットのように賭け事に走るしかなさそうですが、生真面目が禍してか、そうもなれない。行き所がなく苦しそう。
本作では史実でいるはずの娘も出てこないので、このステファニーの息苦しさはたまらないだろうな、と。でも今回の演出でちゃんと人間としての人格、女性としての人格が与えられた役になっていました。
本公演ではうららちゃん(春妃うらら)。あの鋭い目つきといったらない。しかし私はうららちゃんのやわらかいキャラクターも知っているからこそ、ああいうすさんだ目にしたのはお前だぞ、ルドルフ!と思ってしまう。ジャンとのデュエットも最高でした。
新人公演ではこれで退団のここちゃん(都姫ここ)。苦しい、もどかしい、どうして自分は愛されないのか、どうして自分は愛せないのか、その悩みや葛藤の背景がにじみ出ているキャラクターに仕上がっていました。なぜ退団してしまったのか……淋しい。

ツェヴェッカ伯爵夫人は、おそらく今回初めてルドルフにスパイだと気がつかれている設定を付け足されたと思うのですが、作品の政治色を強める一方で、こちらも女性の多様な生き方を応援しているように感じました。いや、スパイという生き方がいいかどうかはまた別の話ですが。
そしてその伯爵夫人とプラーターの酒場の歌姫ミッツィはなにやらつながりがある様子。もしかしたらミッツィもスパイであることにルドルフは気がついているかもしれません。
そのミッツィは、今までのロシアの歌姫マリンカ役をわけた役になっていて、それは正解だと思っています。今までのルドルフとマリンカは一線を越えていたような気がするのですが、私はずっとそれに不満でした。マリーに出会ったんだから、もう他の女に手を出したらダメでしょ!って思っていた。ちょっと潔癖かもしれませんし、その自覚はあるけど、でもそれは嫌だったんだよ!
ルドルフとマリンカの絆が浅くなり、その分ミッツィとの結びつきにつながったのは、結果としてマリーと出会った後は双方ともに一線を越えていないだろうと思えるのが良かったです。いや、たぶんミッツィとはやることやっていると思うけど、マリーに出会ってからはなくなったと思えたんだよね、あのルドルフは。
マリンカが「ロシアの」歌姫であることから、もしかしたらルドルフはマリンカのこともスパイだと疑っていたかもしれませんし、実際にそうだったっようにも見えます。
一言で女スパイといっても、ポーランド、ロシア、国内と利益がバラバラの女性たちがそれぞれに暗躍している様子はたまりませんでした。伯爵夫人もミッツィに渡した情報は、嘘ではなかったかもしれませんが、自分が知っている情報の全てではないでしょう。そのあたりの女性たちの駆け引きが最高だった。
この女スパイ三人組(なんだかキャッツ・アイみたいだな)で光っていたのはなんといってもすみれちゃん(詩希すみれ)です。本役ではミッツィ、新人公演ではマリンカでした。ルドルフを愛し、美声を響かせた美しい歌姫、たまらんな。
新人公演のゆゆちゃん(二葉ゆゆ)の伯爵夫人も素敵だった。あのキリッとした感じがたまらなかったわ。スパイで近づいたつもりだったのに、本気になっちゃったんだよね、わかる~という感じでした。ルドルフが死んだあともどこかのスパイとして、心に鎧をまとって強く生きていくことでしょう。

以上が、今まで女として人間の尊厳を与えられていなかった女性キャラクターと娼婦に分類されていた女性キャラクターの新しい一面となります。これらによって物語はより立体的となり、深みが増し、味わいのあるものになったと思います。少なくともそのまま上演するよりは新しい時代にふさわしい、新しい『うたかたの恋』だったと思います。
難しいのが次の、今まで聖女に分類されていた女性たちの多様性です。母親のエリザベートがここに入るかどうかはかなり難しい問題ですが、20年前にはおそらく名前くらいしか観客も知らなかったエリザベートは、今や観客のほとんどが「シシィ」という愛称で呼ばれていた頃からの彼女の生涯をミュージカル『エリザベート』によって知っていることを考えると、彼女の描かれ方もこのカテゴリに近づいてきていたのかな、と。あとは母親に抱きがちな聖女幻想ね。私は鼻でせせら笑うけど。
まあ、今回は演出うんぬんというよりもとにかくかがりり(華雅りりか)がうまかったということに尽きると思います。だってあのエリサベートは、そのままタイトルロールができそうなエリザベートだったんだもの。本作で退団ということもあり、本人の気合いの入れ方ももしかしたらいつもよりも増し増しだったのかもしれませんが、あれほど愛されて結婚したはずのフランツはオペラ歌手と懇意の関係になり(もっとも「皇后も認める」とは言われていますが)、母としても上手に生きることができず、「ここではないどこか」に自分の居場所を探し求め続け、旅に明け暮れるより他に生きていく手段を見つけられなかった哀愁のエリサベート、完璧だったからなあ。そのまま精神病院で、ヴィンディッシュ嬢と競い合うあの歌を歌ってもなんの違和感もなかったと思うんだ。とにかく気迫や熱意がすごかったし、きれいなだけでは済まされないエリサベートの人生を背負っているように見えました。

新キャラクターのソフィーは、フィルディナントの身分違いの恋人。ここに、ルドルフとマリー、ジャンとミリー、フェルディナントとソフィーといった、ハプスブルクの人間でありながら、身分の低い女性を恋人にもったカップルが3組登場することになる。せっかく新しく作ったキャラクターなのだから、もうちょっと見せ場があってもよかったようにも思うけれども、それは時間の関係で難しかったのかな。そもそもミリーもそれほど出番があるキャラクターとは言えませんし、だからこそ、別箱で上演された方が組子の成長につながる芝居ではあるのでしょう。
もともとマリーとミリーのキャラクターの描き分けも結構大変というか、難しいと思っていた上に、そこにまた似たような「身分の低い」「小さな青い花」のような女性を描き足して、どうなるのだろうと思っていたけれども、本公演でのあわちゃんが好奇心旺盛でおちゃめたっぷりに演じてくれたので、少なくともマリー、ミリーとは違う人物像を打ち出していたように感じました。フィルディナントにおもちゃの電車やらブレスレットやら王冠やら、毎日せっせと渡していたのは彼女のチャームポイントに他ならないでしょう。
そして彼女の存在が物語を動かす。フェルディナントにルドルフを捕らえる、という選択をさせる。これはソフィーの描かれた意味としてもっとも大きいものだと感じました。何度見ても「納屋伝いに外に出られます」というあのフェルディナントの台詞、泣いちゃうんだよな……うう。それがあなたの本心なのよね……とぽろり。なんなら、新人公演ではぼろぼろ泣いた。鏡くん、良かった……迷っている感じがたまらなかった。切実な思いが伝わってきて見ているこちらも苦しかった。

新人公演のミリーを演じたみこちゃん(愛蘭みこ)は、従来のミリーよりもいたずら心がありそうなキャラクターで、マリーとのキャラ分けができていたと思います。「船を指揮なさってもいいわ」というけれども、ミリーも指揮してそうだなと思ったくらいです(笑)。その意味で本公演のソフィーとは似ているけれども、新人公演のソフィーのゆめちゃん(初音夢)があわちゃんとは違った役作りをしていたので、また全然違う感じがしたのがおもしろかったです。ゆめちゃんのソフィーはもうちょっと真面目そうでした。
本公演のみさきちゃん(星空美咲)のミリーはちょっと固かったかな、それが彼女の持ち味なのだろうけれども、それがミリーかと言われるとまた難しいなと感じました。常にジャンより一歩下がって見えるのも、ミリーなのかなと思ってみたり。

そしてヒロインのマリー・ヴェッツェラ。彼女はあくまでも「青い小さな花」でなければならないし、『ハムレット』のオフィーリアでなくてはならないし、今までと大きくキャラクターを変えることは難しかったと思います。だから最終的に彼女はずっと「聖女」だったのかな、と。
もちろんまどか(星風まどか)がうまいのはわかっているし、いろいろ考えた末のマリーなのだろうけれども、しばりが大きすぎて自由度が少ないというか、決定的に今までとは違うマリー!とはなかなか言えそうにないなと思いました。いや、別にまどかは普通にうまいんだけどね。
『歌劇』では「推しの部屋に行く」くらいの気持ちで、という話がありましたが、だったらもっと違う、うわついた感じ、もうちょっといえば軽薄な感じのキャラクター解釈もできたかなと思う一方で、でもやはり彼女はオフィーリアの枠からは出られない。今回はルドルフがハムレットを演じたわけではないから、そこまでオフィーリアにこだわらなくても良いのかもしれませんが、それでもやっぱりね、マリーはオフィーリア枠だと思って見ちゃうからさ、私も。そして、オフィーリアはきっとうわつかない(笑)。
新人公演でははづきちゃん(七彩はづき)。初の新人公演ヒロインでした。芝居・歌ともにまだまだ小ぶりではあるけれども、こう演じたい!というい意志が感じられて、今後が楽しみな娘役さんの一人です。頑張ってください。そして多分、初の新人公演ヒロインなら、こういう王道のヒロインの方がやりやすくて良かったかもしれません。身も蓋もない言い方をすれば、こういうヒロイン像ってやたらと宝塚に多いからさ。もっとも今後はヒロインにも様々な生き方を要求していきたいと思いますけどね! 劇団! 頼むよ!!!

あとは、花組はなまじっか『元禄』『巡礼』も新人公演を見ているものだから、娘役だけでなく私にしては珍しく男役も解析度が高くて、本当自分でも驚くのですが、新人公演でジャンを演じたれいんくん(天城れいん)が、今までにあまりないタイプのジャンだったと思うんですよね。ほら、ジャンってわりと力で押していくタイプのキャラクターだったと思うのですが、彼女のジャンはきれいなジャンだった。そうね、あえていえば、まあ様(朝夏まなと)に近いタイプだったかな。でもそれよりももっと線が細い感じで、しかもミリーがみこちゃんだったから、これはもう間違いなくみこちゃんの方が強いカップルだなと思うなどした。同期なんですけどね、二人。
それから珀斗星来くん。すごい、どこにいても見つけられる。見つけるたびに「とみまつー!」と『殉情』のキャラクターの名前で叫んでしまう。新人公演ではフィリップで、ラリッシュ伯爵夫人と舞踏会で踊っていますが、こちらもあわちゃんとの同期コンビ。
あとは青騎司くん。新人公演での軍服姿、麗しかった。『花より団子』でつくしの弟としてあんぽんたんな踊りをさおた組長(高翔みず希)としていたあの頃と比べるとなんと洗練されたことでしょう(役柄の問題です)。『冬霞』でもちゃっかりヒロインの婚約者だったもんね。
あとは鏡くん(鏡星珠)。新人公演のフェルディナントはもちろんだけど、本公演でもちょくちょく後ろにいるのを見つけて、自分でも驚きました。ショパンの印象がかなり強かったものと思われます。

まる(美空真瑠)がどこにいても見つけられるのは、そりゃそうだろうという話なのですが、よく考えたらまるモーリスって、マイヤーリンクには一緒に来ていないんですよね……今までの『うたかたの恋』はマイヤーリンクにもっと人がいたので、モーリスがいたかどうかまではちょっと記憶がないのですが、でも少なくとも今回はモーリスがあそこに不在で、そこにフェルディナントがやってきて、と考えると、ルドルフの居場所を教えたのはもしかしてモーリスなのでは……という疑念が。プラーターでも「殿下、少々お声が」とジャンと話しているルドルフに制止を入れるのはモーリスではなく、フェルディナントだったからな。モーリスがスパイだったのか、それとも途中で裏切ったのかはわかりませんが、気がついてちょっと愕然としてしまいました。
新人公演では反対にルドルフの忠臣ブラットフィッシュ。軽快でよかった。ブラットフィッシュは生前、ルドルフと最期まで一緒にいた男として、出版社から金をつまれて真実を話してくださいと言われたようですが、一言も喋らなかったといいます。本役のあすか(聖乃あすか)が出版社と話すときは軽快でありつつも、核心に入ると急に真面目な顔になって、もうそれ以上突っ込めない感じになりそうですが、まるのブラットフィッシュは泣きながら「話すことはありません」と言ってそうだなと思いました。

次の別箱の片割れ『舞姫』は早速配役発表があった様子。花組の組子は休むことができたのでしょうか。心配です。
とはいえ、『舞姫』楽しみにしています!