ゆきこの部屋

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花組『巡礼の年~リスト・フェレンツ、魂の彷徨~』感想

花組感想

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ミュージカル『巡礼の年〜リスト・フェレンツ、魂の彷徨〜』
作・演出/生田大和

個人的な話をすると、私は幼稚園児の頃から高校3年生まで、断続的にピアノを習っていました(引越の関係で途切れることが数回)。
中でもショパンは大好きで「華麗なる円舞曲」「子犬のワルツ」などは大変好んで弾きました。ただ「幻想即興曲」に関しては生来の指の短さ、手の小ささが禍して、ついには満足できるレベルで弾くことが叶いませんでした。
一方、今回の主役であるリストも好きで、「愛の夢」はもちろん弾きましたが、今回のお芝居の宣伝で使われていて、なぜか本編では使われていなかった「ラ・カンパネラ」については、これまた手の小ささゆえに最後まで弾くことを断念しました。宣伝で使うなら本編でも使ってほしかったな。
『fff』の主役であったベートーヴェン東宝でおなじみの『M!』の主役であるモーツァルトは弾きはしたものの、あんまり好きではなく、『翼ある人びと』に登場したブラームスシューマンは、ほぼ弾かなかったという印象です。
何が言いたいかというと、音楽的な好みから言えば、トップスターがリストを演じ、2番手がショパンを演じる今回の作品は、今挙げた作品のどれよりも期待していたということです。そしてリストのコンサート場面の演出は、なるほど、とてもおもしろかったです! ピンクのライトにミラーボール、非常に凝っていました。
生田先生は「リストのファンには申し訳ないけれども、リストは天才肌というよりも努力家だった」とコメントしていますが、「ショパンに比べたらそら、そうだろう」とも思っています。

生田先生の好みなのでしょうか。一度、心を通わせたと思っていた女性に男性がひどく傷つけられるという筋は『ひかりふる路』と同じで、趣味全開ですね!という展開を見せます。
もっとも『ひかりふる路』において、マリー・アンヌは最初からひどくロベスピエールを敵対視していたのに、対して今回のマリーは本当にリストを心から愛していたのでしょう。
リスト(柚香光)とマリー(星風まどか)のあの白い衣装の幸せな時期、見ようによってはバカップルにも見えますし、『うたかたの恋』の予習をしているようでもありましたが、個人的には先生によってパターンがあるのは、少なくとも宝塚においてはいいことだと思っていて、そういう意味で小柳先生も信頼できます。
だからこそ、この逃避行の場面にはもう少し尺をとって、曲を弾かないにしてもピアノの前で作曲するリストの絵面が欲しかったような気もしますが、それは後述します。

とにかく二人が思いを通い合わせて、穏やかな日々を過ごした。
それにもかかわらず、二人はやがて袂を分かつことになる。パリに戻る前にマリーが予感したように。
パリでもう一度演奏をして欲しいと頼むジョルジュ・サンドの願いをリストは聞き入れる。
ここのサンドのお願いの仕方がまたいいんだ。
表面的には「あなたの名誉を取り戻したい」と取り繕いますが、「タールベルク程度の人間が私の愛しているリストの代わりになどなれるはずがない」とも思っているし、もちろんパリに戻ってくれば自分のところにも戻ってくるだろうという下心もある。
それを台詞から歌に上手に繋いで、リストに訴えかける。
今回は本当にジョルジュ・サンドが良かったです。これもまた生田先生の性癖なのでしょう。
これ、ご贔屓に演じられた日には諭吉が何枚あっても足りないな、と思います。ひとこ(永久輝せあ)ファンのみなさまの財布や通帳は息をしているのでしょうか? 心配になります。

リストを引き留める直前のやりとりもいい。
リストとマリーが静かに安らかに住んでいるジュネーヴに訪れたサンドは「紹介してくれないの? 恋人でしょ」と挑発する。
サンドの著書の愛読者であったマリーは、サンドに直接会えた喜びがあったにもかかわらず、その台詞を聞いてたちまちうろたえ、リストに視線を向ける。
これ「(そちらの方はあなたの)恋人でしょ」ではなく「(私はあなたの)恋人でしょ」なんですよね。少なくともマリーはそう捉えた。だからこそ、戸惑う。そして、出て行ったリストを追うサンドに対して、マリーは何もできなかった。
こういう台詞のやりとりや一連の流れがとてもすばらしい。生田くんの気合いが感じられる。
他にも、パリでタールベルクとの勝負に決着がついたとき、リストはマリーに「聞いたか?」と言い、マリーは「ええ、(あなたの演奏は)すばらしいわ」と答える。けれどもリストは「この喝采を!」と、マリーの言葉を無視する。
このすれ違い具合よ……っ! 他人に褒められているリストではなく、そのままのリストを愛しているんだよ、マリーは! そういうことが伝わる台詞のすれ違い。わかっている、わかっているねえ、生田くん! そういう巧妙な台詞のやりとりが最高だよ!

そうしてパリでの演奏会で調子に乗った(あ)リストは、ジュネーヴに戻るというマリーとの約束を反故にして、マリーをパリに置き去りにして、ヨーロッパ各地で演奏会をし始め、行く先々で勲章をもらい、念願の貴族にまでなる。
幼少期、音楽院に入学を認めてもらえなかった(貴族でないから認めてもらえなかったのよね?)ことへのコンプレックスがここでようやく解け始めるのでしょう。
しかしコンプレックスをこじらせた時間が長すぎて、勲章をもらったからといってすぐに解けきるわけではないのが肝ですかね、まあそういうものだよね。
からまった糸がほどけきらないから、マリーのいるパリにリストはすぐに帰らない。帰れない。もっと、もっと、と際限のない上を目指す。貴族に囲まれ、自分も貴族になり、夢見た生活をすることをやめられない。そのむなしさに、気がつかない。
自分への喝采の拍手が聞こえない状況に耐えられなくなっていく、中毒になっていく。

一方で、パリに取り残されたマリーは当然、伯爵家に戻るわけにはいかず、生きていくために再び筆をとる。
サンドがルポルタージュの仕事を譲ってくれる。このサンドが! またいいんだよ!
自分の愛した男を奪った女なのに、彼女の筆の力をニュートラルな視点でちゃんと認めている。
自分のファンであることもいくらか手伝っているあたりが、非常に人間らしく描かれている。すばらしい。素敵だ。
できれば再び記者となったマリーの活躍を伝える場面も欲しかったよ!(後述)
記事を書く傍ら、マリーはそれでもリストを愛している。このあたりはちょっと男に都合のいい女だな、と思わなくもないけれども、それくらいマリーにとっては一世一代の恋だったということでもあるでしょう。
それに、一途さだけが全てでないことを、これまたサンドちゃんが語ってくれているんだから、もうジョルジュ・サンド、すばらしいわよ、あなた……っ!
話が脱線しましたが、マリーはリストと敵対しようという気持ちはない。ないけれども、記者をやっていく中で、自然と革命の流れに乗っていくことになる。巻き込まれたという言い方よりも、もう少し彼女の場合は積極的でしょう。民衆の前で自分が貴族であることを明かしているので。
それでも「人々の間に壁をなくすこと」と「リストを愛すること」は彼女の中で矛盾なく同居している。それはそれでいいのでしょう。

そして、いよいよ妥当貴族!と革命家たちが乗り込んだ先で、マリーはリストと再会する。
プログラムには「魂の彷徨」とあり、「現実の時と空間を超えて、リストはマリーと再会を果たす」とありますが(このあたり『鎌足』っぽい感じもありましたねw)、私は現実にはあり得なくとも、マリーとの再会は現実で起こったことにしてもよかったかなと(続くショパンの場面が幻想なので、あえてこちらは現実世界でもいいかな)。まあ、とにもかくにも再会する。
かつて愛し合った者が、敵同士で正面から向かい合う……っ! た、たまんねぇー! 緊張感、半端ねぇー!
とてもたぎりましたね! ドキドキしましたね! そして言葉はかわすけれども、手さえ取り合わず、リストと思いが通じないままマリーはセリ下がっていく。良かったよ、この場面。本当に良かった。ドラマティックでした!

そしてサンドに導かれて、リストはもうすぐ命の灯が消えるであろうショパンに出会う。そこで勲章の類いをすべて脱ぎ捨てる。
サンドに導かれてっていうのがいいよね? 本当にサンドがいい仕事するんだよ! しかもドレスなんだよ! さいっこうだな!
ショパンの役は、今まで「動」のイメージが強かったまいてぃ(水美舞斗)でしたが、とても上手に演じていたと思います。このクライマックスも、前半にリストに小言を言う場面もすばらしかった。
そうしてリストはショパンに、他人から与えられた勲章や称号に、自分のコンプレックスに別れを告げる。
サンドと話しながらショパンは亡くなり、「おやすみ、私の王子様」とつぶやく。
サンドちゃん、冒頭では「おはよう、王子様」ってリストに言っているし、まじでヒロインだな。
今回の脚本は本当に台詞のうまさが際立っていたと思います。

一方で、構成のあらが目立ったような気がします。端的に言えば、これは100分には収まりきらないアイデアではないでしょうか。一本物で見たかった。
あらゆる場面が不足しているように思いました。
生田先生は『CASANOVA』よりも、むしろこちらを一本物にすべきだったのでは?と思いました。
ただ、どうやってオリジナルの一本物を劇団側が決めているのかはよくわからず、『CASANOVA』のときも、プログラムでは「一本物で、音楽はドーヴアチアで、何やりますか?」みたいな依頼のされ方だったような気がしますが、そもそもこの依頼の仕方に疑問が残りますし、一概に生田先生が悪いとも思わないのですが、以下、不足していると思った場面についてです。

まずはなんといってもロマン主義芸術家たちの自己紹介ソングがなかったのは惜しい、推しすぎる。
その後の活躍は、時間の都合によって割愛せざるを得ない面があるにしても、それにしても、あー! なんていうこと! こんな宝塚的にも歴史的にも有名どこを集めて! どうして! 自己紹介ソングが! ないの~!
『冬霞』でヴァランタンだってしてくれたよ? この城のみなみなさまを紹介してくれたよ? 「ここにいるやつら、みな金はないけど、影はある」って。なんでジラルタンはしてくれないの?(作品が違うからです)
いいじゃないですか、新聞記者のエミール・ジラルタン(聖乃あすか)に紹介させれば! させてくださいよ!(そして『冬霞』で新聞記者をすすめられたあすかはここで記者として大活躍なのもなんだか嬉しい)
物語の中で、音楽家であるタールベルク(帆澄まひろ)とロッシーニ(一之瀬航季)はなんとなくわかりますが(しかし希波らいと扮するベルリオーズは同じ音楽家なのに、あまり触れられなかった・残念)、問題はそれ以外の人たちですね。
レ・ミゼラブル』『ノートルダムの鐘』などを描いた小説家ヴィクトル・ユゴーのさおたさん(高翔みず希)、近代批評の父と言われるサント=ヴーヴのしぃちゃん(和海しょう)、近代叙情詩の祖といわれるラマルティーヌを演じた峰果とあ、サマセット・モームに「天才」と言わしめたバルザックを演じる芹尚英(今回で退団なのに見せ場がないなんて!)、そして言わずとしれた「民衆を導く女神」(オスカル様のモデルになったといわれている)を描き、一躍有名になったドラクロワ(歴史的にはのちにサンドとも恋仲になるらしい)の侑輝大弥くんですよ。
これだけの歴史上の人物を集めておいて! これだけのスタージェンヌを集めておいて! なぜ自己紹介ソングがない!? ドラクロワは絵筆をもっていたから画家だということはわかりそうですが、その他は難しいかな。譜面や詩集を持っていたりはしていたけれども。
せっかくオランプ(都姫ここちゃん、愛らしかった!)が来たのだから、そこで! やるべき! です!!!

そして後半、いよいよ革命の兆しが明確になってきたとき、芸術家たちは「自分たちのパトロンである貴族を滅ぼすのはちょっと……」みたいに尻込みしていましたが、ジラルタンが「芸術を一部の人たちだけのものにしていていいのか!?」と言ったときには、もうちょっと何か反応をしてほしかった。
確かに芸術ではお腹はふくれない。住む場所も提供してくれない。けれども、間違いなく心の豊かさにつながる。
個人的には最近はやりのSDGsなんかは、この「文化・芸術の保存・育成」という観点が著しく欠落していると思うのですが、よりよく生きるためには誰にとっても絶対に必要なものであるでしょう、芸術や文化って。宝塚って、まさにその芸術の一部でしょう。
その宝塚の芝居の中で、芸術家たちがへっぴり腰のままであることが残念でした。
コロナそのほかで先行き不安しかないこの国で、せめて芝居の中でくらい芸術家たちよ、立ち上がってくれよ。芸術をみんなのものにしようって言ってくれよ、それはひいては宝塚歌劇団の未来の観客を増やすことにつながると思うのです。
これが私は淋しかった。
それを言わないへっぴり腰な芸術家たちは、一方でジュネーヴで心穏やかに暮らすリストとマリーの邪魔をしにくる。だからいいところが全然ないように見えてしまう。
もっとも、こういう場面、『M!』でも見たわ、と思ったけれどもね。あと『マノン』もそうでしたね。
人の恋路にちゃちゃもいれるのは、まあいいですけれども、芸術家としての誇りを忘れさせないであげて……。

邪魔しにこられたリストとマリーですが、このあとにリストがジュネーブで作った曲でタールベルクに圧勝することを考えると、もう少しこの場面に時間を割きたいところ。
前述した通り、少なくとも、ピアノの前に座るリストの絵面が欲しい。ピアノを弾いていなくてもいいんだ。ただ、ピアノの前に座っているだけでもいいんだ。ジュネーヴの生活の中でもリストはピアノからは離れず、優しい安らかな時間を得て、新しい曲のインスピレーションを得ていることがわかるといいなあ。
そうい場面があると、タールベルクとの戦いで曲を弾いているときのリストにもうちょっと観客が近づけるのではないでしょうか。

この逃避している間に作った作品で勝負して勝つ!という流れは『源氏物語』「絵合」さながらですね。
光源氏も須磨に流浪していたときに手慰みに墨で海や波の様子を描き、のちにそれを中宮争いの絵合わせ大会で最後に披露する。
あれは、絵の善し悪しで勝ったというよりは、周囲の貴族に対して「お前たちは、おれをこんなすさんだところに流したんだぞ、一生忘れないからな」という脅し込みで出してきた絵巻であり、当然光源氏側が勝つわけですね。だって脅しだから。
実の母を殺した貴族社会に復讐していく話だから。帝の血はついでいるけれども、臣籍に下った者が覇者となり、貴族社会を崩壊させていく。
それに対してリストは反対に、これを皮切りに貴族社会を上り詰めていく。恋人のマリーはそんなこと、つゆほども期待していないのに。リストはマリーの気持ちを理解しない。マリーもリストの気持ちがわからなくなっていく。お互いに、愛し合っていたのはそれほど遠い昔の話ではなかったはずなのに。
どうして男ってすぐに地位とか名誉とか世間体とか言いだすかね!? こっちは好きな人と静かに暮らせたらそれでいいんですけどね!? それこそ地位や名誉、野心じゃお腹はふくれないよ!怒

リストのいなくなったパリでマリーは再び筆をとる。ダニエル・ステルンとして記事を書く。
このあたりは『ひかりふる路』でマリー・アンヌが「私も自分にできることがしたいの」といって養父母に訴えかける場面と似ています。思いの通ったと思っていた男と別れたあとの女の身の処し方として、非常に立派です。
だからこそ、サンドに譲ってもらった仕事でまずは成功を収める、という場面が欲しかったなと思います。
そして自立できるようになっても、なおリストを愛し続ける態度を描いて欲しかったです。
つまり「恋も仕事も」と欲張る女を描いて欲しかった。だって、今のこの国の社会でそれができる人、どれだけいます?
物語の中でくらい、理想を描いて欲しいんです。

最後にマリーは修道院を訪れる。魂の彷徨で再会してから18年後の出来事です。
ここで急に時間軸が飛んでしまうのはやはりわかりにくいかな、と思います。ナレーションをつけたらどうだろうか。
そして突然リストが神父になっている。もちろん史実としてはそうなのですが、物語の流れの中で、リストが神父に向かう道筋はそれほど丁寧に示されていなかったように思います。
貴族になってもてはやされたものの、そのむなしさに気がつき、革命が起こり、ショパンは亡くなる。
おそらくはその中で神のお導きなるものに気がついたのでしょうけれども、あまりにもヒントがなさすぎたような……。
そこは、やはりユゴーあたりに老年のジャン・バルジャンの心境を最初の方で語らせましょうよ。だって専科からわざわざ来てもらっているんですよ!? かつて組長であったという縁もありますし、せっかくですから主人公の人生の光になってもらいましょうよ。
あるいはマリーがジュネーヴで「人と人との間の壁」というリストの言葉を胸に刻んだように、マリーにも神のなんたるかを語らせて、それをリストの胸に刻ませましょうよ。
幸福のつまったあの時間にかわした言葉によって、二人の人生が導かれていくというのもおもしろいじゃないですか!
突然時間が進んだー! 急に神父になってしまったー! あー!というラストではあまりにももったいない作品ですよ、これ。失意のリストが宗教の道に入るのは、ヨーロッパ人としては必然だったのかもしれません。しかし観客の多くは宗教に疎い日本人ですから、その辺りをもう少し描きこんで欲しかったです。
今すぐどうこうできる問題ではありませんが、劇団側にはやはりオリジナルの芝居の依頼方法からちょっと見直してもらわないとね……観客は妄想で頑張って補うけれども、1回しか見ることのない、見ることのできない客もいるので、そのあたりは1回でわかるようにしていただきたいものです。