ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

外部『バイオーム』感想

外部公演

www.umegei.com

スペクタクルリーディング『バイオーム』

作/上田久美子
演出/一色隆司
出演/中村勘九郎花總まり、古川雄大、野添義弘、安藤聖、成河、麻実れい

とにかく幕が開く前からプログラムにある「中村勘九郎 ルイ(8歳)」という文字列の破壊力に慄いたし、幕が閉じてからは「なるほど、確かに8歳だった」と思わせる説得力はさすがだったし、もう何が何だか……配信の最後についていた脚本家と演出家の対談の中でも「男女の8歳を演じてくださいって言うのは、ちょっと無理があるじゃないですか。でも稽古の中でちゃんと8歳になっていった」とあり、これを「演技がうまい」の一言で片付けるのはいささか無理があろう、とさえ思いました。
「わからない〜!」と言いながらも模索して8歳にみえるようにするってすごいよな。ちなみに山口祐一郎も稽古場では「わからない〜♪」とか「できないよー♪」とか歌うことがあると聞いたことがあります。上手い人ってみんなそうなの?
プログラムの中で勘九郎は「今まで培ってきたテクニックは一旦忘れて」と言い、こんなことを勘九郎をして言わしめるのはタダゴトではない。ブランコの上でふらつくバランス感覚もタダゴトではない。よく落ちないな、あれ。
植物たちからは「小さな獣」と言われるルイは、一方で「大きな獣」と言われる学よりも物理的には大きいにもかかわらず、舞台の上ではちゃんと小さく見えるのがまたすごい。このあたりは配信だとどう見えたでしょうか。アップになると気になった人もいるかもしれませんが、少なくとも劇場で観ているときにはつゆほども気になりませんでした。
勘九郎が演じるもう一人のお役であるケイは、プログラムを先に確認してしまったので、野口の子供であることやふきの孫であることには最初から大分疑問がありました。
だって人物関係図の中でケイだけ誰とも繋がっていないし、説明もないのだもの。怪しすぎるでしょw
だから白いお衣装で出てくるルイの、いわゆるイマジナリーフレンドであることはなんとなく予想できたわけですが、このケイがラストにふきのところに現れる際、色付き(オレンジかな)のお衣装を着て出てくる。これがなかなかに興味深い。
他の6人は植物のお役のときにグレーっぽい色味で統一されたお衣装で出てきて、人間のお役のときに色付き衣装を上から羽織ってくる。
ルイが実在している人間で、ケイが空想の中の友達なのに、色がついているのはケイの方である。少なくともふきにはそう見えている。
最後にケイがふきに会いに行くこと自体、あらゆる解釈が生まれそうですが、ケイが色付き衣装というのも考えさせられる。
私は、そもそもケイを最初に作ったのはふきではないかと考えています。ルイが思い描いているようなハッキリとした輪郭はなくとも、その妄想の源泉みたいなものはふきが作り出した孫像であり、それをルイに寝物語か何かで語ったものが、やがてルイの中で友達として育っていったのではないでしょうか。
だからこそ最後にケイはふきに言う。「ばあちゃんのケイだよ」と。優しい口調で。あそこ、泣けるのよねえ……。
ふきは怜子に対する母性を封印せざるを得なかった。そしてそれはあたかも完璧に封印されたように見えた。けれども、人間ってそんな完璧なものではないのでは?と思う。
怜子に対する母性を封印するとともに、もう一人の子供である野口にもそれほど愛情がかけられなかったらしいことが、野口の最後の電話で明らかになる。
ボロが出る、という言い方はいかにもマイナスで、悪いことのように聞こえるけれども、ふきの人間らしい綻びのようなものを追求するなら、やはりケイの原型はふきによるものではないかと思います。
そして最後に、めぐりめぐってケイは生みの親のところに戻ってきたのではないでしょうか。

一方で配信を見たダーリンは違う考えをします。ケイはふきの最後の光であり、ルイが見せた幻なのではないかと。
ケイを作ったのも、それを育てたのもルイ自身であり、それがめぐりめぐってふきのもとに辿り着くのだ、言ってみれば正反対の解釈をします。
もしかしたらそう考える人の方が多いのかもしれませんし、次に見るときは私もそう考える方が自然だと思うかもしれません。次に見る機会があるのかどうかは別ですが。円盤、出ないかな……。

ルイは、いわゆる知的障害か発達障害か何かを持っている子供であり、繊細で幼稚、そして植物の声が聞きたいと願う少年ですが、そんな少年がしっかりと「承認を見下す」みたいな人間的な視点を内面化しているのはとても心が抉られますね。これ、つらいわ。
怜子も同じです。怜子自身は父親からも母親からも愛されず、だから自分の子供であるルイのことも愛したい気持ちはあるし、「なんで私じゃないの」と悲痛な叫び声もあげる。けれども、どうやって愛したらいいのかわからず、結局は子供の方から離れていってしまう。実の子供に噛まれてしまう。
その意味で、彼女は間違いなく被害者だし、同情もする。そりゃ、心を病むだろうと思わせるだけの説得力ももちろんある。
けれどもその一方で、ふきのことも家政婦風情と思っている態度が随所に表れますし、庭師の野口を見下し、「バカで無能なケイスケの遺伝子」とか言ってしまう。
もっともこれも、ふきがかしずき過ぎたことによる影響もあるのかもしれません。母であるのに、母であることを明かせず、しかし愛情だけが募っていった結果、乳母としてへりくだり続けたために、他者を自分の下に置く癖がついてしまったとも考えられます。
それなのにそのたかだか乳母に、たかだか家政婦ごときに「こうしなさい」と命令されるような視線や態度を浴びせられ続け、それに耐えられずわざと違う言動ばかりをしていたら、そりゃ人間壊れるだろうよ、悲惨すぎるだろ、と、思いましたね。いや、なんていうか、本当にこの辺りは救いがなくて。
怜子にこの自然と他人を見下す態度さえ身に付かなかったら、もう少し別の道を歩めたのではないかと思いますが、10年前に亡くなった母親のヒロコも「気性が荒い」とふきに言われる通り、人の上に立つことが当然だと思っていたのかもしれません。これは血脈というより、あの一族の家庭環境がそうさせるのでしょう。克人の言う「名家の人間がもつ花」といえば聞こえはいいですが、「当たり前のように人の上に立つ」姿勢が、怜子にも悲しいことに身についてしまった。
けれども、怜子に対して冷酷になりきれないのは、私自身が不仲な両親の元で育ち、愛情の何たるかがいい歳まであまり理解できなかったことも手伝っているのだと思います。今のダーリンに出会えていなければ、もしかしたら今も人を愛することの意味はわからなかったかもしれません。
私にかしずいてくれる人間はいなかったけれども、それでも私も一歩間違えれば、怜子のようになっていたのかもしれないという危惧がある。その意味では、怜子はあの家を出るべきだったのでしょう。
だからこそ、お花様のもう一つのお役のクロマツの芽がルイと共に別の世界に行く、変化する場面は涙なしでは見られない。ここで報われてよかったね、と思ってしまう。

怜子のような「病んでいてエキセントリックな美人」はなかなか宝塚の枠の中では描けないキャラクターでしょうし、せっかく退団したのだから、うえくみ先生の描くそういうものも見てみたいと思っていたけれども、この役を、よりにもよって宝塚の生み出したレジェンド、宝塚の一つのシンボルを担っているようなお花様(花總まり)に演じさせるというのがまたすごい。
うえくみ、宝塚に親でも殺されたんか?と思うレベルのキャスティングでした。いや、いいものを見せてもらいました。ありがとうございます。
完全にチャタレイ夫人だったわ。

その怜子に傾倒する庭師は野口。野口は「じいさんの代からこの家の庭師」と言い、ふきは事情聴取の独白の中で「代々庭師を務める野口の家へ私を片付けました」と言い、どちらだろうとは思いましたが、ケイスケが知っているのがおじいさんの代から、ということなのかもしれません。
野口としては幼い頃から一緒に育ってきた美しくて憧れのお嬢様ですから、そりゃもう後から出会った他の女性なんか目に入らなかったでしょうね。なんせ最初に出会った女性が強烈すぎる。
ゆん(古川雄大)が演じていますので、まさかそんなことはあるまい、と思う人もいることを承知で言いますと、きっとあの年まで童貞だったよ、野口くん。
怜子が留学しているときは淋しかっただろうなあ。
ただ一方で、野口自身も母であるふきから愛されていない、満たされていない気持ちはどこかにあり、だからこそ最後の電話は非常にドライに響きました。プログラムで「最後の電話のシーンにも怖さを感じます」と本人は言いますが、怖いというよりも、あの一族の呪縛から逃れて、真っ当な人間になれたのだな、と私は思ってしまいました。
やはりあの家を出ることが、あの家に住んでいた人間を救う道だったのでしょう。
ふきだって、あの家を出たからこそ、ケイと出会えたと考えることもできます。
そしてもう一つのお役がイングリッシュ・ローズというのも笑ってしまう。さすがゆんである。

さて、そんな野口から乱暴にお金を渡されてしまうともえは、「素直でヘルシーな雰囲気」とあり、安藤聖さんは見事にそれを体現していたと思います。
花療法の話をしているときなんかは「明るいけどヤバイ人」みたいな印象も受けますが、2幕では地に足のついた信念があり、ある種の真っ当さを感じさせます。
この家の外の人間ということでキャスティングも、少し違うところから考えられたようですが、よかったです。最初はお金目当てで近づいたのかもしれないけれども、ちゃんと怜子と向き合って彼女の問題に気がついてあげられるのもえらい。そんな彼女の主張はもっともだし、だからこそこんな時代にお金ばら撒いて問題を解決していく『夢介』みたいなのを上演するのはどうよっていうね……。
花療法というのが本当にあるというのも驚きでしたが、花でも何でも他者を見て感じたことは、大抵自分の問題を浮き彫りにするのでしょう。その意味では芝居も小説も映画も同じです。自分の問題意識が明らかになる。
ところで、このお話は絶妙に時代設定がわからないのですが(「令和」という言葉は出てきましたので、日本の現代かなと推測はできる)、配信でお金を渡される場面を見てみると、「1」や「0」の数字の書き方が新しい1万円札のデザインのような印象を受けました。だから令和は令和でも、実はちょっと先の未来、近未来を描いているのかもしれません。
だから学も「ゼネコンからお金をもらうなんてやり方、古い」と執拗に言うのでしょうか。

さてそんな学ですが、子どもが生まれたといってもルイのような子供ですから、あの家の中ではさぞ肩身が狭いことでしょう。
しかしあの家の外部からやってきた人間だからこそ、ルイは学に懐くのだろうという気もします。学自身も自分の子が可愛くないことはない。幸せにしてやりたいと思うからこそ、施設に入れようという話をする。克人は昔の人間ですから、わざわざ病名を受ける必要はないといい、怜子は母として子と一緒にいることを願っているので、なかなかわかってもらえませんが、怜子から離すという選択は、外からやってきた人間だから思いつくことでもありましょう。
またね、成河の演技がいいんだな! さすがなんだな! 私の信頼したルキーニなんだよな、これが!
「お金には興味がないけど、愛には興味がある」学は確かに政治家らしくないかもしれませんが、では出世には?とすぐに疑問に思いましたね。
「この家に入った以上、後戻りはできない」と本人は言いますが、そんなことはないはずです。別に生きてさえいれば多少苦難があってもやり直しは効くはずです。結局出世には興味あるのではないのか、と冷めた目で見ていましたよ、私は。
変なところだけ聡い怜子にもしっかり不倫がバレているツメの甘さには笑いましたが、これでサカイエリさんに子供ができたらどうするのだろう、とは思いましたね。これまた悲劇しか待っていない予感がします。

もう一つのお役はセコイア。そしてルイはこの木に登って、そしてこの木の枝が折れて、落ちてしまう。人間と植物の役は関係があったりなかったりするそうですが、学が自分ではもうルイを救いきれないと思っているのがよくわかりました。
セコイアは序盤、クロマツに言われてイングリッシュ・ローズや竜胆にエネルギーわけてあげる。クロマツはやらんのかい!とも思うけれども、セコイアはクロマツよりも後からこの庭に来た新参者だから、言うことを聞く。肩身の狭い学やな、と思ってしまったよ。
セコイアのときは声音もだいぶ違ったのがおもしろかったです。どこから出ているの?その声!と思いましたよね。

そんな学を自分の後継者に見込んで育て上げたのが怜子の父、克人なわけですが、まあ諸悪の根源とでもいいましょうか、本当にどうしようもない男ですよね。しかしこういう人、いるいるーと脳裏に具体的な政治家の顔や身近な人間の顔が浮かんでくる。まことに残念なことに。
私はクロマツの盆栽が可愛くて好きでした。害のないおじいちゃん、みたいな。もっとも野口曰く「ハタチ」らしいですが。
こちらは正反対ともいえる二役。野添義弘さんが別人に見えたよ、私は。
植物たちは感情を持たない。レーテル層のことは感知しない。いきなりコクト層。けれども盆栽は人間の手によって捻じ曲げられ、歪められた結果、感情のようなものを露わにする。クロマツを「ばばあ」と呼んだり、「ハタチ」と言われて喜んだり、ルイを助けたいと思ったり。
人間以外の視点を入れようと考えて、それに植物が選ばれることはSFではよくあることらしいですが、その人間以外の視点にも多様性があるのはおもしろかったです。
クロマツは「私たちは何も感じない」と言いますが、イングリッシュ・ローズや竜胆は踏まれたら「痛い」と言うし、クロマツの芽はお腹が空いたと言うし、セコイアはエネルギーをわけてあげなさいと言われた最初は不服そうな返事をするし、盆栽は言わずもがなだし。けれども「私たちは死ぬとは言わない。ただ変化するだけ」という考えは共有されているようだし、その意味では人間よりも達観している。植物が達観していればいるほど、人間たちの醜さが鮮やかに対比される。ここに描かれる人間たちは醜くなければいけなかった。家父長制のだめなところを煮詰めた中で繰り広げられる復讐、愛憎、欲望その他は、残念ながら今この国に暮らす人にとっては無関係ではいられないはずだ。

「調和の要」と言われたクロマツは切られてしまった。冒頭のチェーンソーの音が2幕の途中でようやく繋がる。この音がリコーダーと対比されているのもずっしりくる。ルイとケイのささやかな幸せの象徴のようなリコーダーの音色が、クロマツを切り倒す残酷な音と対比だなんて……そんな、あんまりだよ……。
怜子は「どうしてルイはこんな木のところに来るの?クロマツぅ!」と痛々しい叫び声をあげますが、これもクロマツを演じた麻実れいのもう一つのお役であるふきに対して「正体を表せ、野口ふきぃ!」と呼応してますよね……ああ、無情。
ふきを演じようが、クロマツを演じようが安定の麻実れいは低いいい声を響かせてくれました。調和の声音だよ、あれは。当てがきというのも頷ける。
彼女だけ、と言ってもいいでしょうか、人間のお役のときの衣装がなんとなく右側と左側と素材違いで、色は同じなのですが、二面性のあるような、それこそ右を向いているときと左を向いているときとで別人のような印象を初めは受けました。最後まで見ればこれが狙ってやっていただろうこともわかります。
対談で演出家は「台本の読み込みがきちんとできているから、怜子との場面のときも道順は多少違っても、最後はオチるべきところに落ち着く」と言い、圧倒的な信頼感だな、と。役者も生き物ですからその日の体調や気分に多少左右されるもので、それ自体は悪いことではないのでしょうが、それで脚本の意図と離れたことをやってはいけないから、難しいところでしょう。身体に台本を染み込ませるのが良いのかもしれません。体で覚えるような感覚でしょうか。
とにかく彼女の存在感は間違いなく半端なく素晴らしくて、去年見た『森フォレ』を思い出しました。よく考えたら成河も同じ作品に出ていましたね。
観劇後に『森フォレ』を思い出したのは、役者が同じだったばかりではないでしょう。つまり血脈と宿命、そして戦争というテーマの類似です。
今回はいわゆる兵士たちがさせられるような戦争そのものが描かれていたわけではありませんが、人生における戦いでしたし、実際人も死にます。
怜子が倒れているのを発見したとき「殺虫剤の間が転がっていた」とふきは言います。それだけではどうやって亡くなったのか、判然としませんが、その前に学がルイに殺虫剤の危険性を説く。「飲んだら人間だって死んでしまう」と。おそらく怜子は殺虫剤を飲んだのでしょう。私は今まで睡眠薬を大量に飲んで自殺を図ろうとする人にはお芝居の中で(現実でも)出会ってきましたが、殺虫剤を飲んで自殺しようとした人は初めてだったよ、衝撃的だったわ。どうやったら殺虫剤を飲むという発想になるのだろう。

怜子もルイも亡くなる。
本作は西洋の大河小説のような側面も感じられました。
トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』やエミール・ゾラの『ルゴーン・マッカール叢書』だったり。
あとは、、これで私立探偵が出てきたらロス・マクドナルドだし、作品の雰囲気としてはフォークナーの『響きと怒り』を連想させるものがある。うえくみ先生の造詣の深さが垣間見えるし、描いているのはある家庭の人間に限っているけれども、その裏にはもっと人類を俯瞰した視点があることを感じさせる。
作品の中でうえくみ先生の講演会を思い出したポイントもありました。
まずは、克人がルイについて「ああいう子は昔はよくいた。だから病名をつける必要はない」というところ。
発達障害や知的障害は、今ではあらゆる分類に分けられていて、素人ではとても追い切れない。名前がつくことが良いことなのか、悪いことなのか、一概には言えないでしょう。名前がついたことで、現状を受け止めて治療に前向きになれる人もいれば、名前がついても現状を受け止められない子供や親もいるでしょうし、名前がついたのをいいことに逃げ道を作る人も出てくるでしょう。
ただ現実は変わらないから、現状を否定するといつまでたっても幸せにはなれなさそうです。
そして2幕冒頭の野口の台詞「地球がおかしくなっているんですかね」という言葉。
台風が来て、雪まで降った。別に台風だけでもルイが熱を出す原因にはなりそうですが、雪が降り、気候異常を示す。
地球温暖化にはじまる環境問題にもアンテナが高いことを講演会のときにも感じました。
最後にともえのパン工場での悲惨な現状。フレンチトーストをバカみたいに焼かされて腱鞘炎になった話はきっと、本人ではないかもしれないですが、どなたかの実話なのでしょう。ブラックだな。
うえくみ先生の講演会の記事はこちら。

yukiko221b.hatenablog.com

 

yukiko221b.hatenablog.com

 

yukiko221b.hatenablog.com

スペクタクルリーディングという枕詞を冠していながら、2幕はほぼストレートプレイのような感じでした。
植物のといは本を読み、人間を演じるときは本がない。だから勘九郎だけ本をもたなかったような気がします。
この造語を作り出した人は天才だな。まさに『バイオーム』という作品のためだけにある枕詞です。
もっとも成河は最初に舞台で本を読むことに抵抗があったようですが(笑)。
朗読劇ですので、多少説明っぽいところはありましたが、私はそれほど気になりませんでした。
おもしろい作品でした。この脚本で、この演出で、この役者で見ることができて良かったです。
次の作品も楽しみにしています。

ちなみに私は初めてのぶりりあちゃんでした。悪名高きぶりりあちゃんですよ。今までこの箱のせいで諦めた演目もありましたが、今回はとうとう諦めきれず。
1階席通路後方上手側でしたが、後方はしっかりと段差があったので視界は良好でした。
音響もかなりこだわっていたようで、3Dのようになっていたとか。
ただ、やはり役者がしゃがんでしまうと聞き取りにくいことがありました。これはもう役者の力量の問題ではないでしょう。
本日観劇した宙組『カルト・ワイン』も似たり寄ったりの席だったので、まあまあ良かったです。
噂を聞いていると2階席や3階席は勘弁してくれって感じかな。