ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

外部『マリー・キュリー』感想

外部公演

マリー・キュリー
演出/鈴木裕美
主演/愛希れいか、上山竜治、清水くるみ

 小学生の頃、学校図書館のカウンターに置いてある伝記漫画を片っ端から借りて読んだ中で、何度も繰り返し読んだ一人が『キュリー夫人』でした。同じくらい読んだのは『ナイチンゲール』と『マリー・アントワネット』で、次点で『モーツァルト』『ベートーベン』『ショパン』とピアノを習っていたこともあり、音楽家の伝記が多かったように思われます。
 その中で『キュリー夫人』のタイトルだけが不思議でした。なぜ『マリー・キュリー』でないのか、と。それを誰かに話したかどうかは覚えがないですが、ノーベル賞を二度もとった女性でありながら、男の付属品のような扱いを受けていることに対する違和感は幼いながらありました。今思い出すと怒り心頭ですが。
 最近では『キュリー夫人』ではなく『マリー・キュリー』と表記している会社も出てきているらしいですが、それにしても小学生でも疑問に思うことが、公然とまかり通っていたということが恐ろしい事実です。伝記漫画の総合編集を担当している人や出版社の人に、女性はいなかったのか、いたとしても少なかったのか。作中のマリー・キュリーの台詞の中で一番泣いたのは一幕ラスト付近の「次の機会という言葉が嫌い。次の機会にできることがどうして今できないの。あなたは、男で、フランス人で。だからわからない。私は可能性と危険性の両方と一度に示さなければならない」とピエールに訴えるあの場面です。思い出している今も泣きそう。危険性だけを示したら、ラジウムは使われなくなり、自分は世界から置いてけぼりにされてしまうのではないかという不安がちゃぴの演技を通じて痛いほど伝わってきた。とてもとても刺さる場面だった。令和になった今でさえおじいちゃんばかりの我が国の内閣よ、耳をかっぽじってよーく聞けよ。早くどうにかならんのかね。
 とはいえ、当時はマリー・キュリーナイチンゲールの業績に深く感心していたのです。その頃は多分看護師になりたいと思っていたあたりなので、理系分野での理系の活躍がどこか誇らしかったというのもあるかもしれません。
 その反動とでもいいましょうか、高校生になってナイチンゲールが、実はクリミア戦争のあと母国で激しい女性差別をしていた事実を知ったときの絶望感はすさまじかったです。自身が恵まれた家庭に生まれたことを顧みず、女性の社会的地位が向上しないのは、女性の努力が足りないからだと平然とナイチンゲールは言い放ったのです。衝撃でした。
 同じようにマリー・キュリーもまた、生前はラジウムの危険性を一切認めようとしなかったと言います。薄々は気がついていても、公表できなかったのかもしれません。奥さんのいる男性と関係を持ち、ノーベル賞発表直前に奥さんからばらすぞ!と脅されても、ひるまなかったといいます。この場合、客観的に見れば悪いのはマリーの方でしょう。この事実もまた高校生の私を落胆させました。
 思えば伝記(漫画)は人物の良かったところを強調して書かれることが多いのかもしれません。小学生向きの漫画なら、なおさらでしょう。しかし人間というのは往々にして良い面も悪い面も持っているものです。天才だといわれるエジソンも「1+1=1」と粘土をこねて言ったといいますから、現代だったらいわゆるひまわり学級のようなところにいる子供だったかもしれません。偉業を成し遂げた人は毒にも薬にもなるような強烈な性格の持ち主が多くいます。裏を返せば、だからこそ偉業を成し遂げることができたのかもしれませんが。
 実在の人物をフィクションで取り上げるとき、その人の良い面ばかりを強調して描くのはどうでしょう。もちろん、そういうやり方もあるかもしれませんが、あくまでも我々の歴史の中に実在した人間だということを忘れてはいけないと思います。そしてたとえ、架空の人物が主人公であったとしても、その人を善人としてのみ描いたら、その作品は薄っぺらくなるのではないでしょうか。

 だから今回も、マリー(愛希れいか)がラジウムの危険性について気がついて、それを公にしようとしていた、少なくとも工場を止めるようにルーベン(屋良朝幸)に指示したという設定にするなら、誤解を恐れずいえば現実をねじ曲げようとするのなら、そこにいたるまでのエピソードは丁寧に描かなければならず、そのためにおそらくアンヌ(清水くるみ)というキャラクターは生み出されたはずなのです。その意味でマリーとアンヌはある種の表裏一体を成しており、最初に電車で出会って意気投合してから一度は道を分かち、それでも最後は再び気持ちを分かり合う仲になるという劇的な展開が用意されていないといけないのではないでしょう。
 マリーが病院に寝泊まりしてルーベンと何やら怪しい実験をしていることに気がついたときのアンヌの絶望感、信じていた者に裏切られたというやりきれなさ、マリーはルーベンが約束を破って工場を動かしていたことを知っても、病院を出ないとアンヌに告げる。かつての職場でガスが職員の健康を害していたことを知っているアンヌはもう気がついている、工場の人間が次々と亡くなるのはラジウムのせいだ、と。アンヌにとってそれはマリーを信じられなくなることと同義ではないけれども、肝心のマリーにとってはそう聞こえてしまった。この分かれ道は良かった。なんならアンヌが観客に背中ばかり見せていたことが気になるくらい。歌はあったかな……なかったなら、歌も欲しいところだけど、そのあたりはあんまり記憶にありません。
 アンヌの班員は全て亡くなり、残ったのは自分だけ。彼女は徐にシャツを脱ぎ捨て、自らラジウムを浴びようとする。屋上といっていたかな。そこにマリーが現れ、二人は手に手を取り合い、和解する。「あなたはラジウムではない、ラジウムがたとえ危険なものであっても、マリーはマリーだ」と言ってアンヌはすばらしい。二人は再び表裏一体の存在になる。ここまではものすごく良かった。なんならアンヌ・コバルスキー(ファミリーネームもちゃんとプログラムに記載してくれ!)のイニシャルはマリー・キュリーとそろえた方が良かったのではないかと思ったくらいです。『MA』のマリー・アントワネットとマルグリット・アルノーみたいに。もっともこの場合イニシャルが本当にMAでいいのかはまた別の問題なのですが。

 しかしマリーの夫であるピエール(上山竜治)が亡くなったあたりからが、マリーとアンヌの結びつきが怪しくなる。ピエールが亡くなって、牧師とともにマリーの家を訪れたアンヌは、マリーがピエールの死を一人で受け止めている間に、部屋を出て行ってしまう。なんの声をかけることもなく。それは最後にピエールと最後のお別れを一人でさせてあげようという気遣いかもしれない(そして最後のお別れの儀式が被検体として認識することという演出のすばらしさよ……っ! ここも泣いたわ!)。でもそのあと、マリーとアンヌがどうだったかは明かされず、物語は一気に時間を進め、冒頭の死期を悟ったマリーの病室となる。
 この物語はマリーが娘のイレーヌに言い聞かせる壮大な話だったわけですが、冒頭で「棺に一緒に入れて欲しいというその袋は何!?」と言うイレーヌはおそらくこのときまでアンヌの存在を知らなかった。知っていたとしても、マリーにとってそれほど影響力のあった人だとは思わなかったのでしょう。でもそんなこと、ありますかね。少なくともイレーヌもマリーと同じように科学者の道に進んでいるのに……? ここもご都合主義の設定のような気がして、この物語の語り手は娘で本当によかったのかと疑問に思いますが、もっと疑問に思うのは次です。
 イレーヌは話を全て聞いてから、サインが入っている元素記号の一覧表が数日前届いたことをマリーに告げる。そう、アンヌはまだ生きていたのだ。姿は出てこないけれども、彼女はラジウムの害から逃れることがどうやらできた、らしい。
 アンヌが、アンヌだけがラジウムの害から逃れられたってそんな都合のいい話、あります、か……? マリーがラジウムの危険性を認め、世間に発表しようという姿勢を見せた時点で、アンヌの役割は終わっていたはずで、だからこう言ったらキツいかもしれませんが、アンヌもまた死ぬべきだったのではないでしょうか。別にお涙ちょうだいしたいがためにアンヌが亡くなるべきと思っているわけではありません。ピエールはラジウムのために馬車を避けられなくて亡くなった、マリー自身もラジウムを浴び続けたことが死の原因の一端となる。アンヌだけ、どうして逃れることができるでしょう。それはあまりにもご都合主義ではないでしょうか。屋上のシーンが感動的だっただけに、アレー!?となってしまった。いや、全体としてはいい話なんだよ、よくできた話なんだよ。だからこそこのあたりは拍子抜けしてしまったのです。
 ピエールが亡くなったことを、アンヌはマリーと共に受け止めるべきだった。二人でここを乗り越えるのに、次にアンヌが亡くなったとき、マリーはその悲しみを一人で受け止めなければならなくなる。その絶望には底がない。それでもマリーは生き残った者としてラジウムの危険性を世間に訴えなければならなかった。実在の人物をあたかも聖者として描くのなら、それくらいのシナリオを用意すべきだったのではないか、と思うのです。
 アンヌは死ぬべきだったと繰り返すと感じが悪いかもしれませんが、アンヌがマリーにラジウムの危険性を世間に公表するのに対して、実際とは異なり、前向きになるための装置であるとするならば、生き残っている必然性が見当たらないのです。実際に危険性が周知されなくてもいい、そこには別の力学が働くこともあるでしょう。それはルーベンが担っている役割が象徴している。アンヌはマリーに気付かせるだけでいい。マリーが気がついたところで、彼女は役割を果たし終えたことになる。ピエールに続きアンヌも失うのはマリーにとって痛手かもしれませんが、アンヌが生き残ることは物語の論理に矛盾があるなと感じました。ファクトとフィクションとを融合させた手法はそれほど珍しいものではありませんが、それに「ファクション」と名前をつけて上演するなら、物語の意味も考えたいところです。

 そしてマリーを後援し、ラジウムの危険性にマリーよりもおそらく早くに気がつき、マリーに工場を止めるようお願いされても、工場を動かし続けた利益を最優先するルーベンの存在が非常によかった。ルーベンは長い時間舞台の上にいる。それは役者としてももちろんですが、時には我々観客の目線になって、物語を傍観する。現実世界で資本主義の渦に飲み込まれている我々観客と巨大な資本でもって利益を最優先するルーベンとが重なるのは、実に巧妙なやり方で、ビビビ!と来ました。しびれるぜ。
 ルーベン率いる「ラジウム・パラダイス」が始まったときはテンション爆上がりでした。楽しかった。ようやくミュージカルを見に来た!という感じがしましたね。なんならトシさん(宇月颯)もいるから「カオス・パラダイス」を思い出してしまいました。まさにラジウムで「悪いことがしたい♪」って感じですね。その後工場の机と椅子で作業をしているときは、偽のパスポートを作っているのかとさえ思いました。
 ミュージカルのわりに、それまでひたすらに装置も衣装もわりと地味だったから……まあ、そういう時代のそういう舞台の話ですから仕方ないかもしれませんが、でも1幕でラジウム発見のために石を潰して鍋で煮やし顕微鏡を見るという一連の動作は何度も繰り返すよりも、緑の衣装を着たバレリーナのような踊りをするラジウムをマリーが追いかける、みたいな象徴的な場面をつくってもよかったかもしれません。『fff』の小さな炎のようなアレですね。1幕ラストの「私の別の名」でもそのラジウムバレリーナとハグをしてもよかったかもしれません。だって二人はこのとき、一心同体だから(笑)。
 このラジウムバレリーナはルーベンと一緒に何回も出てきて不思議ではないと思うのですが、彼は部下(聖司朗)と一緒にひたすら踊ります。この二人の踊りが……っ! また! いいんだ!!! すごくよかった。ルーベンの怪しい感じもすごくよく表現できていた。だからなんならラジウムバレリーナも一緒にいれてあげたかった。三人の方がルーベンセンター感がもっと出て、いっそうよくなると思うんだ!
 アンヌがマリーの良いところを拡大したキャラクターなら、ラジウムはマリーの危険なところを拡大したキャラクターとして扱って、ちゃんとキャストをあてた方が対照性がわかりやすくなったのではないかとも思うのです。だからシャーレの中に光る緑だけではなく、是非とも誰かに演じて欲しいキャラクター、というかものでした。
 初めての人が多いカンパニーで屋良さんは大変だったと思いますが、だからこそ舞台の世界観で一人だけ「浮いている」というか「異質」な雰囲気を絶妙に漂わせることができたのではないかと思います。すごくよい役だった。お化粧も研究されたんだろうな……一人地に足の付いていない感じがブラボーでした。

 ちゃぴは退団後既に何度も真ん中を経験していることもありますが、さすがに安定感のある真ん中具合でした。在団中に娘役トップが主演を務めるという類い希なる実績がスタート地点になっているのはいうまでもありません。だからこそ、その作品があんな作品になってしまったことは恨んでも恨みきれないところです(正確には座長は紫門さんでしたが)。
 自身も「芸のオタク」と自認するちゃぴは、例えば最初に電車でたまたま一緒になったアンヌに元素記号の話をしているときはとても生き生きしていて、アンヌは若干ひいているんですけれども(笑)、好きなことにはつい饒舌になる感じがたまらなかったし、ピエールとの最初のやりとりもまさに科学者にありがちなコミュ障って感じがよく出ていて楽しかったです。再演するならまたちゃぴにマリーをやって欲しい。
 上山さんも、舞台裏では結構いろいろやらかしているらしいことがプログラムからうかがえる愉快な人ですが、舞台の上では抜群の安定感を誇りますね。このコンビ、夫婦、良かったわ。ところで、プログラムでは「マリー」のあとに「ピエール」が来ますが、カーテンコールのときはマリーを真ん中に下手から、屋良・愛希・清水・上山の順番で、なぜ……となりました。百歩譲ってアンヌ役がマリーの隣にくるのはわかるけれども(それでも下手側が自然かな)、なぜルーベンがいるのだろう、と。上山さんだってちゃぴの隣が良かったでしょうに。
 アンヌ役の清水くるみさんは今回おそらく私は初めましてで、芝居も歌も申し分ないのだけれども、果たしてこのキャスティングは適切だったのかどうか……と疑問に思いましたが、世間ではどう言われているのでしょうか。もっとなんか他の役が見てみたいなと思った俳優さんです。あと屋上でマリーと手に手を取り合う場面はノースリーブのようで、肌色の下着を着ていましたが、あれはない方がよかったかなあ。
 そしてイレーヌは、なんかもう……こちらはもっと他に適任の人がいたでしょう、と思わざるを得ませんでした。いや、もう脚本の段階でイレーヌの存在が疑問が多いから、なんなら、再演するときはいなくてもいいとさえ思うけれども、なんだか客寄せのためのキャスティングかなと思ってしまいました。芝居できる人、読んできて~!
 そして石川新太くん。だいもん(望海風斗)のライブにいた子じゃないですかー! こんなところで再会できるとは! 「ブラック・ミス・ポーランド」の曲にはイライラしましたが(そして女子トイレがないという歌詞は本当に今の社会問題そのもので、ぐさりときた)、あの憎めないキャラクターを思い出してしまうと、もう君だけ許しても良いかって思えたくらいですよ。

 ミュージカルという看板を掲げていますが、それほど歌は多くない印象。けれども、どの歌も印象深いのもまた事実。おもしろい作品でした。
 また今回初めて知った「ファクト+フィクション=ファクション」という言葉ですが、前述した通り、別に事実や実在の人物をモチーフに作品を作ることはそれほど珍しいやり方ではなくて、なんなら平安時代初期の『伊勢物語』だった在原業平がモデルになっているだろ!とか、もっと遡れば木梨軽皇子も穴穂皇子も実在の人物で、それがもとになって『日本書紀』や『古事記』が描かれたんだろう!という気はします。たぶんもっと世界に視野を向けたらもっと遡れると思うのですが、わざわざそういう行為に「ファクション」という名前が新たにつけられたことは本当におもしろいと思っています。我々は名前のないものは基本的に認識できない脳みそになっていますから、数千年かけてようやく事実をベースとした物語創作は認識されるようになったわけです。作中のラジウムもマリーが発見される前からあったけれども、発見されて、名前が付いたから世間の人々にも知れ渡るようになったし、「名前をつけよう」とも歌っています。それは認知するためなのです。
 一方でこれは物語(フィクション)そのものがないがしろにされているからこそ生まれた言葉なのではないかと思うのです。つまり、簡単に言えば文学なんかいらないという人たちが急増して、社会の中で物語が急に肩身の狭い思いをさせられているということです。だからこそ、物語や文学を大事に思う人たちが「是は一大事だ!」となって、新しく名前をつけたのではないか、と。物語の生き残りをかけた名称なのではないでしょうか。
 私はあまりにも物語を浴びて育った人間なので、新しく名前が付いたところで「ついたんだ~でもよくある手法だよね~」みたいな感じになりますが、たぶん学校の教科書くらいでしか小説を読んだことがない、漫画は難しいけど、アニメなら理解できるとか、そもそもフィクションは役に立たないとか、そういう風に考えている人にとってはだいぶ新しいことのように見えるのではないでしょうか。っていうか、見えてくれないと困る。
 新しいことのように見えて、物語って意外と面白いじゃん!となってくれないと、それこそ本当に文学不要論とかがデカい面して社会を支配しようとするから、ほら、なんとかいしんみたいな。そういうのに騙されない想像力を物語、ひいては文学は与えてくれる。だから物語にも論理が欠かせず、自己矛盾はなるべくない方がいいのではないかな、と思う次第でした。