ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

名前と占いと私

「名前を教えてください」
 人間は死ぬまでに一体何回この言葉と出会うだろうか。格別変わったとも思われない、日常のありふれた、そんなフレーズである。特にこの4月は耳にするだろう。あるいは、口にするかもしれない。
 しかし、私は最近この問いに悩まされてしまう。

 漫画、アニメ、ボーイズラブ、声優、ミュージカル、舞台などと常に何かを追いかけている「オタク」なるものを、かれこれ人生の半分以上やっている。一時期は二次創作の小説のサイトまでもっていた。そこでは必然的にハンドルネームやペンネームといった「仮の名」がつきものであった。中学生のときは「舞鶴心葉(まいづるここは)」、高校生のときは「常盤燈鞠(ときわひまり)」、その他「羽蝶結菜(はちょうゆいな)」「野々撫子(ののなでしこ)」などと、暴走族も吃驚仰天な画数の多い漢字がずらりと並ぶ。おそらくこれは長年親しんだ宝塚歌劇団の影響だろう。仮の名といえど、姓+名の組み合わせが当然だと無意識に考えていたのも同じく宝塚の力学がはたらいたと見える。これについては、ヅカオタの中では比較的有名な話がある。「ぶんちゃん」という愛称で親しまれたタカラジェンヌ音楽学校の生徒であったとき「絵麻緒」という芸名を提示したら、劇団から「姓か名をつけなさい」と言われたという話だ。宝塚では姓らしい姓や名らしい名が求められない一方で、姓と名の両方があることを原則としているのだ(タカラジェンヌの名前については、武蔵野書院から出版されている桐山智子著『タカラヅカ百年の芸名』に詳しい)。実は大学生あたりから現在まで使い続けているこの「ゆきこ」という名にも一応は姓があるのだが、インターネット上では特別必要とも思われないので書かないことが多い。
 オンラインはもちろんだが、知り合ったのが学校などの現実の日常生活であっても、オタクの友人・知人らと一緒にいるときは本名よりもむしろ仮の名でいることが楽だったし、手紙のやりとりは専ら「ここはさん」「ひまりさん」であった。特に高校生のときは、学校やクラスになじめない息苦しさの中で、オタクの友人と一緒にいることがある種の救済装置としての機能を果たしていた。本名でいる世界線では苦しいことも辛いことも多いけど、仮の名でいるときは好きな者を共有する人と楽しい話ができる世界線で過ごすことができた。使い分けることは当時の私にとってごく自然なことだった。名前がアイデンティティそのものであることを、身をもって経験した。

 かつての仮の名がタカラジェンヌに似ているだけでなく、実のところ私は本名もある元タカラジェンヌと同じである。芸能界で幅広く活躍するがゆえに誰でも知っている、超有名な俳優と同じ漢字である私は、しかし読み方は異なるので、なかなか一度では正しく読まれないという不運にも見舞われた。学校で表彰されるときは必ず賞状に書いてある名前の隣にうっすら鉛筆で読み方が書いてあった。子供を作る気は1ミリもないが、もし何かの間違いでできたとしたら、絶対に一度で読める漢字にしようと思っているし、今の仮の名がひらがなであるのも、その反動かもしれない。ひらがななら読み間違えようがなかろう。
 生物的性別が同じであるならば、下の名前の漢字が全く同じ人がいることも不思議ではなかろうが、生物学的性別が違うにもかかわらず、下の名前の漢字が同じである人が高校の同級生がいた。おそらく生物学的性別を考慮すれば、読み方は違うと思われるが、結局読み方を知らないまま卒業したし、今後も知ることはないだろう。知る機会がなかったのは、同じクラスにならなかったから、文理選択が異なっていたから、と理由はいくらでも考えられるが、われわれは姓もよく似ていたので、おそらく教員側がクラス替えのときに配慮したのだろう。今でも「加藤」「伊藤」「鈴木」「田中」といったよくある姓の生徒はなるべくクラスを分けると聞く。
 私も相手も姓は上記の4つほどではないが、よくある姓であった。地域によってはとても多いところもあるだろう。しかし、そうでなくても初めてお目にかかる大人はそういないだろうし、読み間違えることもない。漢字で書くと2文字、ひらがなで書くと3文字といったごくありきたりな組み合わせだった。そして私たちは漢字の2文字目とひらがなの1文字目と3文字目が全く同じであった。大変紛らわしいことこの上ないのだ。さらにややこしいのは唯一音が異なるひらがなの2文字目も、ローマ字に分解すると母音は同じ、異なる子音はやや聞き分けにくい音であった。クラスが分けられたのはもっともなことである。生徒を呼ぶたびに逐一二人が返事をしている教室は最初こそ笑えるが、だんだん笑いはとれなくなってきて「またか」と冷めた空気が流れるだろう。その後、生物学的性別が違う人で、同じ漢字を書く人に出会ったが、やはり読み方は違った。

 生まれてこの方子供が欲しいと思ったことはないと書いた通りで、今なお作る気はないが、それと同様に結婚願望もまるでなかった。結婚したら幸せになれるというディズニープリンセスにありがちな妄想は自分の父母を見ればすぐに打ち砕かれたし、自分が誰かに頼って生きていくというのもあまりピンとはこなかった。同じように自分が労働者になることも、あまり想像はできなかったが、専業主婦なんてまっぴらごめんだったし、料理のできない私は有閑マダム志望である。働きもせず、家事もせず、優雅に日がな一日本でも読みながらゆっくり年をとっていきたい、正直に言えば今でもその願望はある。しかし、そうも言っていられないのが現実だ。
 働き始めてまる2年、何を間違えたのか、私と結婚してくれる人がいるという。青天の霹靂とはまさにこのことか。周りはもちろんだが、誰よりも私自身が驚いていた。これから先、自分の人生で何が起きてもこれ以上の驚きはないだろうと思っている。ありがたいことに今年の3月でまる9年が経ち、現在10年目をハッピーに過ごしている真っ最中である。
 のろけはともかくとして、深刻な悩みはそう「名前」。姓をどちらにそろえるか。私自身は変えたくはなかった。ちっぽけではあるが、私には研究業績のようなものもあった。一方で、自分の嫌なことを相手に押しつけるのも嫌だったし、自分の倍近く生きている相手に姓を変えさせるのは抵抗があった。ただ、これを機会に自分が生まれた家と縁が切れるのは気が楽だと思い、「別姓が法的に認められるようになったらすぐに手続きをすること」「私の姓変更による各種手続きには必ず同行すること」を条件に、結局私が戸籍の姓を変えることになった。

 私の職種はありがたいことに旧姓使用が認められている。婚姻届を出した翌日、早速その制度を使おうと書類を提出した矢先、当時の女の管理職にやんわりと咎められ、妨げられてしまった。初任から2年、私はことある毎にその女管理職と衝突してきたが、ここでも私の望みは阻まれてしまったのだ。むなしく書類は誰の目に触れることなく、私の手元に返ってきて、ただの紙切れにしまった。あのときの虚無感は計り知れない。
 それから私は「新しい姓で呼ばれるとき、結婚したんだなあと実感が湧き、嬉しさをかみしめる」というような男に都合のよすぎる幻想を実感することなく、働き続けた。正直、違和感しかなかった。自分の名であるはずなのに、他人のようなよそよそしさが常につきまとった。自分が呼ばれているのに、誰を呼んでいるのだろう、と。あんた、誰?みたいな。その間にも旧姓で細々と研究まがいのものを続けており、旧姓そのものがかつての憩いの場のような場所になっていた。高校生のときは本名の自分の生活が嫌でたまらなかったのに。まこと不思議な話である。表の顔と裏の顔を使い分けていた。一方で何かの間違えで、戸籍名での業績もできてしまった。これが乖離に拍車をかけた。自分が誰なのか、何者なのか、漠然とした不安と背中合わせで生きてきた。
 戸籍名で働き始めて7年、とうとう耐えきれなくなって職場で旧姓使用願の書類を提出した。そのときは初任の職場からは変わっていたし、意地の悪い管理職もいなかった。周囲からは極めて奇異な目で見られたが、私自身はあるべき姿に戻ったという安堵感が得られた。この名とともにある嫌な思い出も多いが、この名で認識されることが少なくとも「あるべき」だと思えたのである。2つ目の職場は最初から戸籍名だったから、後輩ちゃんたちからは「違和感がある」「気軽に呼べない」と言われたが、私にとっては戸籍名の方がずっと身体に馴染まなかった。
 書類提出から数週間後、管理職から「旧姓使用許可証」なる紙が渡されたときは「許可も何もねえだろ、名前くらい好きにさせろ」と身も蓋もないことを思ったが、どこかのいじわるばあさんとは違って認めてくれたのだから、と口に出さなかったのはえらいと思っている。今はクレジットカードに紐付いている取引や保険証が必須の病院以外はほとんど旧姓にしている。名前に関する葛藤はこれで一旦は決着がついた、かのように見えた。

 今年の4月から、日常生活がガラリと変わる。それはずっと望んでいたことであり、喜ばしいことであるはずだが、準備のための様々な、そして多くの書類には望まない名前で書くことを強要された。知らない人の名前を自分のことのように何枚も何十枚も書かされることが、あれほど精神的ダメージのあることだとは思わなかった。苦しかった。身分証にかかわることなので、よく考えれば戸籍名を要求されることは必然であったが、1日に何十回も戸籍名を書くことは、私の心をどんどん冷たくしていった。あれは夏のことだったのに。
 提出書類の中には旧姓のものもあり、同一人物であることを示すためには役所にお金と時間をかけて戸籍を取りに行かなければならなかった。結婚するときに「姓の変更によって起こる諸手続きを一緒に行うこと」を条件にしていたにもかかわらず、その前年に戸籍が必要であったときにはコロナを理由にやんわりと断られていた。そのときもまたなかなか時間を合わせてくれないパートナーと喧嘩もした。働いているから忙しいのはわかるが、それは私とて同じことだ。約束が違うと泣いて訴えたし、これを書いている今も思い出し泣きをしている。「女は3秒で泣ける」と固く信じているパートナーが私の涙に動かされたとは考えられないが、最終的には相手から「空いてるなら今から役所に行こう」と誘ってくれた。まだコロナが完全に収束したとはいえない中、役所はマイナンバーカードを発行する人でいっぱいだった。私は未だにポイントと引き換えに自分の人権を権力者には渡せないでいる。
 4月から新しく出会う人には、身分証とは異なるが全て旧姓で自己紹介をしている。そうしてなんとか私のアイデンティティを保とうとしているのだ。綱渡りのような感覚だ。中高の友人には、出産祝いを贈ると「まだ旧姓を使っているの?」と笑われたときは綱から落ちそうな気分だった。外ではパートナーのことを姓で呼んでいるほど、私の身体には馴染まないのに。

 自分の意志で決めたこととはいえ、環境が大きく変わることに不安がなかったといえば嘘になる。友人らに話をしてもあまり真面目に取り合ってもらえず、「ゆきこちゃんなら大丈夫!」と楽観的な返事をされるばかりで、どうしてみんなそれほどまでに私を信頼しているのか、私の一体どこを、何を信じているのか不思議で仕方がなかった。
 心配が募りすぎたせいか、悪夢も見た。燃えさかる炎の中、私の右腕にもまた火が燃え移り、大変熱い思いをする。しかしその火は右腕からいっこう動こうとせず、熱心に右腕だけを焼いている。肩から身体にかけては燃え移らない。夢の中で起きたことを論理的に説明するのは難しいが、炎はつまり頭にも燃え移らないので「熱い」という意識だけははっきりしており、それはそれでとてもしんどかった記憶がある。またあるときは、なぜか物語の世界に入り込んで、私は一列に並ぶ地蔵の末席に立っていた。雪の日におじいさんは自分の笠を私のすぐ隣の地蔵にかぶせ、私のことは見向きもせずに通り過ぎてしまった。地蔵の私はただひたすら寒くて寒くてとても耐えられなかった、死んでしまいそうだった。パートナーに話すと、後者については「もはやギャグ」と笑われてしまったが、冷え症の私にとっては死活問題であった。
 パートナーにもわかってもらえない悩みをもてあました私は、行きつけのお店にたまたま来ていた占い師が「お試し15分・無料」という看板を見過ごさなかった。普段占いなんてまともに気にしたこともない人間なのに、笑える話だ。しかしそのときの私は藁にもすがる思いであった。
 そこでの占いは「名前」と「生年月日」を元にしていたが、ここでの名前は「生まれてきたときの名前」であり、私にとっては自分の身体によくなじんでいる旧姓であった。別にそれを知っていて占ってもらおうと思ったわけではなかったが、そこで一つ、確実に何かが救われたような気がした。
 それによると、私は「思ったら即行動派の勇猛果敢なロマンチスト」と評された。他にもいろいろ言われたが、まとめるとこんな感じである。なるほど、思い当たる節がないわけではない。無料お試しなので、とりあえず4月からの生活についてのことを聞こうと思っていたのだが、時間に余裕があったせいか、いろいろな世間話をした流れで、「戸籍名だとキャラクターが変わる」という話に至った。どう変わるのか、それを聞かずにはいられなかった。曰く「純粋で何にも染まりやすい一途な人」ということだ。もう少し言えば「旧姓に比べるとやや大人しく、気の小さい性格になる」と聞いて、合点がいった。パズルのピースが全部そろったかのようだった。そして誓った。やはり私はできる限り旧姓で生きていこう、と。初めて臨んだ占いで、これほど救われるとは夢にも思わなかった。

 日本語と英語の両方ができる知人は、日本語で話すときは穏やかだが、英語で話すときは自然と攻撃的になってしまうと言っていた。自分ではその違いを意識して使い分けているわけではないのだが、否定語を終わりに持ってくる言語と最初の方にもってくる言語とでは当然話し方や態度は変わるだろう。おそらく名前もそういうことである。同じ人物でも、使う名前によって意図的ではなくとも、キャラクターが多少変化する。意識的に使い分けるのが賢いのかもしれないが、私は生まれたときの名前に付随するキャラクターがたぶん好きなのだ。
 戸籍名を書くときの違和感に慣れることは一生ないだろう。早く夫婦別姓が法的に認められたら良いと思う。そしてその日まで、できるだけ好きな名前で生きていく、ただそれだけの話。