ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

外部『The Parlor』感想

外部公演

www.theparlor.jp

『The Parlor』
作・演出/小林香
作曲・編曲/アレクサンダー・セージ・オーエン

世間様がゴールデンウィークの最後の日に配信で視聴することができました。
みやちゃん(美弥るりか)の吉野圭吾とのライブや『ヴェラキッカ』はチケットはあったものの、公演中止となってしまい、見ることができなかった(そして『ヴェラキッカ』は配信も見られなかった)ので、舞台での退団後のみやちゃんに初めて会いました。自分でもまさかすぎると思っている。

まず印象に残っているのが「現実よりものめり込めるゲーム、それよりのめり込める現実」という台詞。
私はゲームでも芝居でも何でも現実に返ってくるもの、影響のあるものが好きなんだなと改めて実感した。
ただそれは作り手だけでなく、当然見る側にも想像力を要するものなんですよね。その意味で本作は良かった。作り手の想像力があらゆるところに息づいていたように思う。

ラストもものすごく良かった。
「ホーム」か「ノマド」か、という選択肢が並ぶ。朱里は、一度は「ホーム」と「ノマド」にするけれども、それでも納得しない。
自分はどちらも選んだけれども、どちらかを選びたい人もいるだろう、という想像力がはたらく。
だから、そうでない選択肢を作ろうと、「ホーム」か「ノマド」か「(空欄)」という画面で終わる。
これ、選択肢が増えるだけであるという点において、夫婦選択制別姓と同じなんですよね。そしてどれを選んでも他人の人権を傷つけることはないという点においても同じ。生きる上での選択肢が増える。
同姓がいい人もいるだろうけれども、別姓がいい人の生きやすさは保障しないのか、誰が傷つくわけでもないのに。
そんなことを思いながら見ました。あのラストは本当に良かった。

朱里のみやちゃんはそりゃもう良かった。
あの髪型、なかなか似合う人はいないでしょう。金髪にメッシュが入っていて、きれいに切りそろえられたおかっぱ。素敵な髪型でした。髪は一生脱がない冠、まさに朱里にぴったりの冠でした。
みやちゃんは首の詰まったお衣装が多かったように思うけれども、あれでどうやって着替えをしていたのだろう。
あの髪型を崩すことなくハイネックを脱いだり着たりするのは難しいのでは?と思いながら見ていましたが、何か秘密があるのかもしれません。あの髪型、ホント可愛かった。誰もが似合う髪型ではないよね。
アバターになったときの衣装も大きめのマントをぐるっと巻いているだけなのに、とてもオシャレに見える。すばらしい。
子供と大人の演技のギャップも良かったし、今更ながら本当に目が大きいな、と。いや、本当に今更なんですけど、ヅカメイクでなくてもはっきりとそうわかるくらいに大きいアーモンドアイだな、と。配信の大画面で見ていたから余計にそう思ったのかもしれません。

千里と灯の2役を演じたかのまり(花乃まりあ)もよかった。
自営業で働くお母さんと大切に箱庭の中で育てられたお嬢さんと、これまただいぶ違う役でしたが、うまかったし、お母さんはなんなら格好良かったよな。
草笛とどこで出会って、どこに惹かれたのかは聞きたいところではありますが。
だってあんなガチガチに家に縛られた男だよ? 千里が美容院で働き続けるのをよしとするわけがない……それは最初からわかっていたような気もしないではないのだが、いかがだろうか……。
もっとも友人にもいますけどね、「家は実家の近くに建てない」と言っていたくせに、自分の家族の前では急に「同居する」とか言い出した奴。婚約破棄して大正解だったと今でも思う。

あみりおばあちゃんはうたこさん(剣幸)。これまたすごい。役者だな、と感じさせられました。
あと着物から洋服への早着替えもビックリしました。帯なんかはマジックテープみたいなものを使っているかもしれませんが、えらい早かった。そして灯パパに許しを乞わないところもすばらしい。「許して欲しいとは言っていません」って。格好いいなあ、千里の母、朱里の祖母というつながりが見えた気がしました。
ところであみりおばあちゃんは漢字で書けば「阿弥莉」ですが、これは当時としてはだいぶ珍しい名前のような気もします。どうだったのでしょう。菩薩のような名前ですな。「阿弥莉」と「阿闍梨」似てますよね。
あみりさんが朱里に言う「母を失っただけでなく、娘を失ったおばあちゃんまで背負うことになった」という台詞がすごい。
なかなか言えることではないでしょう、これ。
いくら相手が大人になってからとはいえ、思っていても口にするのは難しい。
でもその壁を越えられるのがパーラーという場所、人が集まり、語り合う場所ということなのでしょう。あみりさん、立派だった。

ザザという名はおそらく『ラ・カージュ・オ・フォール』からとったのでしょうが、これもよかった、舘形比呂一さん。
コムデギャルソンみたいなボトムスだったからオシャレさんかと思えば、スカートでした。
そして、まさにそのことで千里やあみりさんに救われた張本人で、喫茶店を作るきっかけになった人でした。
背が高いからみんなで歌ったり踊ったりするときは一段と映えていましたね。
こういう役は初めてだったのでしょうか、やりすぎず、やらなさすぎず、ちょうどいい案配のように見えました。

スタイリストのパパは、かつて赤い死に神で見たことのある植原卓也
なぜ娘の学校に抗議しに行かないのか甚だ謎ではありますが、スタイリストのアシスタントというカタギではない仕事をやっている人間の言うことなんて聞き入れてもらえないのかな。あと女の子は黒づくめになるタイミングが必ずと言っていいほどあるよ(笑)。
と、いうかそもそもスタイリストなのに、娘にはピンクを着て欲しいという王道を行く巧は、だからあんたアシスタント止まりなんだよ、と思わせたし、なんならその身長で自分がモデルになった方がいいのでは?と思うくらいでした。
私は割と強要されるまでもなくピンクが昔から好きでしたし、なんなら今でも赤やピンクは好きな色だし、図々しいことに似合う色だとさえ思っているけれども、それでも一時期、紅ちゃんのように全身黒というスタイルはしていたし、妹は何なら私よりも開始時期が早くて期間も長かった気もする。
「らしさ」を押しつけようとする点ではザザと対照ですが、最後に灯さんといい感じになっていて、それはそれで大丈夫か?とも思ってしまいました。巧の方が変わってくれないと、これはどうにもならんぞ。

アリスの役は北川理恵さん。
歌唱力は申し分ないのですが、あの髪型であの服装ならむしろもっと丸顔の子の方が良かったのでは?と思ったものの、結局大して似合もしない好きでもないものを身につけさせられていたというのが肝なのでしょう。
クールカジュアルみたいなのが好きで、そしてよく似合ってた。
「ロリータ系の服を着たいのに、着られない」ではなく「ロリータ系の服を着たくないのに、着せられている」という逆転の考え方もおもしろかったです。同時に、いよいよロリータも市民権を得たのだなとも思いました。

そして出てきただけでわかる坂元健児は灯のパパ。
そしてよく歌う。ええ、全くもって正しい使い方だと思う(笑)。
千里の死に責任を感じていたからこそ、灯が朱里やあみりと会うことを禁止していたのでしょう。それはわかるのですが、でもやっぱりそれでは何の解決にもならないし、前に進めない。向き合わないと解決にならない。おい、コロナ対策のことだぞ、聞いているか、政府や。
草笛は向き合った。朱里の作ったゲームを通して。自分が想像したものとは全く違うものになっていたはずなのに、それを受け入れた。この度量の深さよ。
ただ最後に草笛の言った「すべてのおもちゃをジェンダーフリーにする」というのは果たして現実的なのでしょうか。
おもちゃそのものをジェンダーで振り分けるのではなく、どんなおもちゃも生物的性別関係なく遊んでいても大人が受け入れることが大事なのではないでしょうか。
おもちゃそのものに罪はないかなと。検索すればそれなりに出てきますが、私にはいまいちそれで遊ぶ子供が想像できなくて、ピンとこないというか……想像力の欠如なんでしょうけれども。そのおもちゃで育った子供がどういう思考になるのか、いまいち読めない。
そういう意味では絵本や挿絵みたいなものの影響は大きいかな。
この国はまだ機械の説明書の表紙のイラストに、したり顔で話す父、困り顔でそれを聞く母、興味津々の娘と息子みたいなものが採用されていて、まさに朱里の言うところの「世界の表側」しか見えていないわけですが。とほほ。

朱里の恋人は最後に声だけ出てきますが、名前だけでは性別がわからないあんぽんたんな私は、なるほど恋人は女性だったのか、と大変腑に落ちましたし、自身が裏側の人間だという自覚があるからこそあのゲームに対しては抵抗感があると歌い上げるのでしょう。いや、そうかな?とは思ったけれども、いかんせん、名前だけで性別がわからないの……。
子供は養子でも良いという考えもLAならではでしょうし、そういう考えはもっと広まってもいいのではないかと思います。親子は血がつながっていることが大切なわけではないでしょう。血がつながっていてもダメな親はいる。

ところで冒頭では、ロサンゼルスのことを「LA」と言っていましたが、これは普通なのでしょうか?
「ロス」とは言わないのか? 海外暮らしが長くなるとああなるのかもしれませんが、1回だと少し分かりにくくて、だから何回か出てきたのかな。でも、だったら一度「ロス」と言えば事足りるのでは?とも思っていまいました。つまらないことですいません。

今回は主人公がゲームクリエイターだったこともあり、美容室の上手と下手にそれぞれ壁にもなるスクリーンがあり、センターには大きなスクリーンが上がったり下がったりしましたが、こういう映像にも詳しくならないと今後は舞台美術みたいなこともやりにくくなるのでしょうかね。それはそれで、いわゆる大道具が得意な人の活躍の場を奪ってしまっているような気もしますが。
経費の問題もあるのでしょう。実際に大道具を作るよりも映像を作る方がはるかに安く済むでしょうから。でも重厚感のある柱からしか生まれない雰囲気もあると思うんだ。

それから、朱里がゲームを好きになるきっかけが母の死でないのも良いなと思いました。
母との幸せな思い出の中にゲームも入っているという設定が素敵で、もちろん千里はマリオになりたい朱里に姫を強要することなく、ありのままを受け入れて自身もはさみとポットで戦士になる。幸せなゲームの記憶があってよかった。
これが母の死によって、現実から逃げて、ゲームの世界に没頭するようになり、ゲームクリエイターになった、という設定なら、おそらく「ゲームよりものめり込める現実」という発想にはならないでしょう。この二点において、私はすばらしい作品だと思う。
けれども、公式ホームページで興味をもってくれて一緒に見た夫は、いまいち脚本にはのれなかった模様。
ウルトラマッチョ思想とか嫌いなくせに、こういう女性の系譜みたいな話はそれはそれで受け入れ難いのかな。本人はイデオロギーがすぎると言っています。『経国美談』『雪中梅』のような政治小説的な感じというか、寓意がすぎるというか。あと『情海波瀾』とか。
そんなわけで他の男の人の感想が気になるところではあります。どうなんでしょうね。

あとこっそり言うなら、タイトルは全部大文字ですか?それとも大文字小文字入り交じった形ですか?
こういうのは統一しておかないと、インターネットの時代なんだから、検索に引っかかりにくくなるのではないですか、と余計な心配をしてしまいます。ロゴの見栄えの問題もあるのかもしれませんが……。