外部『田舎騎士道』『道化師』感想
外部公演
2022年度 全国共同制作オペラ
マスカーニ/歌劇「田舎騎士道(カヴァレリア・ルスティカーナ)」
レオンカヴァッロ/歌劇「道化師」
演出/上田久美子
行ってきました、うえくみオペラ。
ポスターの「みんなさみしいねん」という落書きが斬新でしたが、オペラを見た後に再度この言葉を噛みしめるとなんともいえない気持ちになります。『田舎騎士道』と『道化師』も予習せずに観劇しました。映像でオペラを見てもわかる自信がなかったともいいますが。
上演順が当初と反対になったのは、両作品に出演するアントネッロ・パロンビが『道化師』の途中から白塗りになるからでしょうか。この白塗り、顔の半分だけというのが結構肝だと思っていて、オペラ座の怪人のような印象も受けました。あの狂気っぷりも合わせて、エリックだよな、と。
文楽スタイルと言われるように歌を担当するオペラ歌手とダンスを担当する役者の二人で一人のキャラクターを表現するという、オペラとしては新しい形ですが、思っていたよりも違和感なく見ることができました。これはひとえに演者のみなさまのおかげでしょう。ありがたや。
オペラ歌手の歌を初めて生で聴いたわけではないと思うのですが(オペラという芝居の形は初めてだと思うのですが、コンサートのようなところで、歌だけなら聞いたことがあったはず)、どこから声を出しているのだろうといつも不思議に思っています。今回、とても良い席で見ることができてわかったのは、歌うとき、身体全身を使っているということです。口とか喉とかから声を出しているのではなく、身体全体を振動させて歌う。そりゃ1日の稽古時間も限られてくるだろうな、と思いました。あれはすごかった。
『田舎騎士道』はもうとにかく聖子役の三東瑠璃の身体の使い方がとてもすごかった!という一言に尽きます。関節という概念がさっぱり見えてこない。軟体動物のように身体が動く。まさに「くらげのななり」。同じ人間とはとても思えない。おかしい、同じ位置に頭も手足もついているはずなのに……。
脱いだときの腹筋もすごかった。あれは……なに……私のおなかにはないものがついている。ついでにいうなら私のおなかにはあるものがついていない。
その他のダンサーさんたちももちろんとても真似できないような動きの連続だったけれども、彼女の動きのインパクトが強すぎて、圧倒的すぎて忘れられません。
聖子が護男(柳本雅寛)を、その動きで誘惑する場面の振付もなかなか忘れられないものがありますね……聖子の細くて長い足が護男の手に伸びる。護男の手を足でつかんだ聖子は自分の股に引き寄せる。護男は慌てて手を引き戻す、というこのコンボ。すごかったな、ああいう振付を考える人はすごいわね。もう語彙力が消滅するかと思ったよ。
あとは日野(宮河愛一郎)のテーマソングがおもしろかったです。
日本語字幕では「日野さんさすがです!」「知らなかった!」「すごいです!」「センスいい!」「そうなんですね!」という、いわゆる「魔法のことばさしすせそ」が並ぶ。カラフルなライトを浴びて、軽快にバカにされている。うわ、こういう人、おるで!となる。いっそ哀れか。
合コン言葉のさしすせそに乗せられてしまうような愚かな男っているよね。ちょろい男とでもいうべきか。そしてそういう男の妻がよりにもよって他の男と逢い引きしている、というのは本当に物語でもよくありそうな筋立てですが、でもつまりそれって現実でもよくあるってことだよね、と思ってしまいました。怖い。
日野にも「だから葉子(髙原伸子)は他の男のところに行っちゃうんでしょ!」と心底思えましたね。この演出はすごくよかった。日野のキャラがよくわかる曲でした。トラックの運転手という設定も絶妙でした。ちょっとガラが悪い感じ、あるある~!
『道化師』の方では、「巴里劇団」という字面といい、好きな役者のことを「贔屓」と訳した字幕といい、旅芸人や歌う人の紹介振付といい、そこはかとなく宝塚の要素を感じましたが、そんなことよりも教会にいくはずの場面で、大阪に住む人々が野球のナイターを見に行くという設定変更が、これまたたまらなくツボにささりましてね! ええ、私は野球のことなんか1ミリも知らないわけですが、とても大阪っぽい!と思ってしまいましたよ。
「今期も最下位やったらファンやめたるで」みたいな字幕は、あるあるのことなのでしょう、クスリと笑いを誘いますし、そして実際に最下位になってもきっとこういう人たちはファンをやめないのだろうな、という気もしました。市井の人々の心理をよく捉えている歌詞でした。
イタリア人もきっと「神はどうしてかくも過酷な試練をお与えになるのか、もう神は信じない」という気持ちになることもあるのでしょうけれども、結局は神にすがってしまう、神に祈ってしまう、ということがあるのかもしれません。そういう教会の様子と野球場の様子とが二重写しになっていて、とても不思議な感覚でした。
『道化師』の方が『田舎騎士道』よりもさらにメタ構造が深くなっていたのもおもしろかったです。サントゥッツァ(テレサ・ロマーノ)と聖子は二人で一人のキャラクターを演じているけれども、寧々(蘭乃はな)はあくまで劇中劇の人形であり、それを操るのがネッダ(柴田紗貴子)という設定になっていて、劇中劇の寧々が愛する人がペーペー(村岡友憲)であるけれども、現実のネッダが愛するのはペッペ(中井亮一)ではなく、シルヴィオ(高橋洋介)であり、それは知男(森川次朗)とも異なるというところでしょう。
踊る人はあくまで歌う人にとっての操り人形であり、その人形が芝居をする。歌う人にとっての現実はその人形を使った芝居の世界とはまた違うところにある。
だから人形芝居が終わった後も、カニオ(アントネッロ・パロンビ)はネッダに「お前と一緒にいた男は誰だ」と追及を辞めない。ナイター帰りの客は「やけにリアルだな、この芝居」と口々に言う。舞台の上では芝居と現実が交錯し、ネッダはあわててペーペーを差し出して、「私と一緒にいたのはこの人ですよね、皆さん」と客に確認し、同意を求める。
しかし、カニオの耳には届かない。やがてカニオは観客の中に紛れていたシルヴィオを探し出し、ネッダとともに刺し殺してしまう。皮肉にも字幕には「喜劇は終わった」と大きな字で映し出されてオペラは終わる。一体これのどこが喜劇なんだ……と思ってしまったけれども、全体がオペラというフィクションだとわかっているから喜劇に見える、ということなのかな。
何重にも入れ子構造になっているという話は聞いていましたが、想像以上におもしろい演出でした。
どちらの作品も、ちょっと痴情のもつれをちょっと大袈裟に描いてみた、というような作品だったと思われるのですが、その中でも光っていたのは『田舎騎士道』の中の光江(ケイタケイ)と護男のやりとり、つまり家族愛の存在でした。
日野と決闘することになった護男は母に伝える。「おれ、あいつに言ってしまったんだ、結婚すると」「だから、もし俺がいなくなったら母さん、聖子を頼む」と。
護男が聖子の行く末を自らの母に頼むところに、護男の聖子への愛情が垣間見えたのも感動したけれども、死を覚悟した男が母親に必死に頼み事をして、その頼み事を母親が泣く泣く引き受けるというのは美しい構図でした。いや、死ななくてもいいことだとは思っているけどね、どうして男ってすぐに命を賭けたがるのよ!と、めちゃめちゃ思うけどね。
でもそこから血のつながりはないかもしれないけれども光江と聖子の間に絆が生まれるといいなと思ってしまうのです。むしろそれだけがこの作品の一縷の望みとでもいいましょうか。
さらにはその家族愛なるものをおそらく与えられなかった、得られなかったであろう路上生活者の二人、やまだしげきと川村美紀子も相当インパクトを残していました。
自分の望む愛情に恵まれずみんなさみしい思いをしている。でも、それは彼らに責任があると一概には言い切れず、彼らを取り巻く環境が整っていない、つまり政治の問題だと痛切に感じました。
私はフィクションを「現実を忘れられる夢の世界」だとはあまり思っていません。むしろ「現実を考える一助となるべきもの」と考えているくらいなので、この路上生活者という設定はとても考えるべき存在だと思いました。
なにせ芝居からはみ出ている。開場したときにはすでに舞台でふらふら何かをしているし、幕間でもうろちょろしている。とにかく自由。話の本筋にもあまり絡んでは来ない。けれども、つねに舞台のどこかにはいる。芝居を立体的に見せてくれる役割がありました。あれは未来の私たちの姿かもしれない。そう考えると背筋がゾッとする。
どちらの作品でも最後は着ている服を脱ぎ捨てて持ち前の筋肉を使ってあばれまくるのですが、それは彼らの精一杯の抵抗というか、彼らにしかできない反発の形を表しているように見えました。本当、いい筋肉しているよ、ホームレスなんて絶対嘘やんっていう体つきでした(笑)。
どちらの作品もそれほどスピーディーに物語が展開していくわけではないけれども、とにかく1回に与えられる情報量が半端なく多い。イタリア語の音楽、英語の歌詞、日本語の歌詞、関西弁の歌詞、踊る人による身体表現、同じ出来事をこれだけの情報量を使って観客に提示している。視覚的にも聴覚的にもいっぱいいっぱいだ。訳やダンサーの動きに逐一驚いたりしみじみしたりしているから、とてもではないが、1回では追いかけきれない。
けれども、考えてみれば意外でもなんでもないのかもしれませんが、歌のフレーズはよく繰り返される。だから同じ歌詞が何度も出てくる。それはうえくみの言うところの「耐え難くゆっくりしていた」というところに起因するものなのでしょうか、1回で追いかけきれないから何度も出てきてちょうどいいくらいの情報量になる。
もっとも後ろの席の人は「もう私、関西弁しか見てない」と言ってしましたし、もちろんそれで話が通じるようにはできているので、それでもいいのでしょう。そういう楽しみ方がオペラでもできることを提供することに意味のある芝居ですから、むしろそれは普段オペラを見ない人たちにオペラが無事に届けられたと考えるべきかもしれません。
一人二役演じるという演出については、今更『バイオーム』の例を持ち出すまでもなく、うえくみ先生の演出を考えるときに必要な要素だと思っています。プログラムには高橋彩子が『翼ある人びと』と『fff』を取り上げていますが、私は『FLYING SAPA』のアンカーウーマン777とタマラの二役を瀬戸花まり一人が演じたこともかなり顕著だと考えています。
二人の女性は物語の中で正反対の態度をとります。
アンカーウーマン777はブコビッチ(総統01)よって管理されるをニュースキャスターとして人々に推進していき、多文化共存を訴える人をいとも簡単に「差別主義者」と呼ぶような人であり、一方のイエレナの母であるタマラはサイエンスジャーナリストとしてブコビッチが作ろうとした世界に反発し、告発までしようとしていた人物である。作中に出てくる「へそのお」がマイナンバーカードやスマートフォンにそのまま置き換えられるような世界に住んでいる私たちにとって、彼女たちは架空のキャラクターであるが、決して他人事とは思えない。誰の心の中にも二つの顔があるのではないかと思わせる。
せとぅーはどんな気持ちで二役を演じていたのだろう、どんなふうに二人のキャラクターを切り替えていたのだろう、今でも興味深い案件です。
文楽のなり手がいない、研修を受ける人がいないというニュースも見ました。悲しいことです。能、狂言、歌舞伎とともに、なんとかして残していきたい日本の文化です。
その意味でオペラやバレエは「なり手がいない」ということはないのでしょうか。しかしこちらも残していく努力をしないとなくなってしまうかもしれません。文化とはそういうものなのでしょう。
雪組『海辺のストルーエンセ』感想2
雪組公演
ミュージカル・フォレルスケット『海辺のストルーエンセ』
作・演出/指田珠子
前回の大枠に関する記事はこちら。
yukiko221b.hatenablog.com今回はもうただひたすら萌え語りです(笑)。
神奈川公演は箱が大きいかなと思いましたが、梅田公演では神奈川公演であったはずの余韻が全体的にぎゅっと凝縮されてしまったような印象を受けました。余韻は欲しいが、箱は小さめがよかったな……箱を選ぶのも難しい。
開演五分前に緞帳があがり、海の映像と波音、上手と下手に高さのある舞台装置、上手の装置上には椅子(玉座のようなもの)が置かれている。タイトルの「海辺」、そして芝居の舞台の大半を占める「王宮」を連想させる。もうたまらん。
開演アナウンスは優しめの声。最初に出てくる好青年ヨハンを少し大人にしたような。よきよき。どきどき。
【第Ⅰ幕】
●第1場 朝 海辺
最初に出てくるのはヨハンでもカロリーネでもクリスチャンでもなく、名もなき「召使いの女」。白綺華ちゃん。す、すごい舞台度胸だ、まだ何も始まっていない中、デンマーク語で「おはよう」を意味する言葉から始まる主題歌を歌い出す。しかもうまい。なんだなんだ、『デリシュー』初舞台107期生の噂の主席。きぃちゃん(真彩希帆)が憧れの人であるだけあって、歌がうまい。ビックリしたわ。しかもマイメロが好きというところは親近感が湧く。歌がうまい。梅田になってからまたうまくなっている。すごい。どこまでうまくなるんだ。天井知らずだ。歌うまい(n回目)。
どうやら彼女は海辺で恋人を待っていたようです。やってきたのは「男爵」としか表記されていない男性貴族、苑利香輝、108期生ということで『グランカンタンテ』が初舞台。つい最近じゃないか、去年じゃないか、背中で幸せを語る恋人の役って研1で与える役かよ……しかもこの二人はずっと、人目の忍びながら秘密の恋人であり続ける。そう、これが「あったかもしれないヨハンとカロリーネの物語」だと思わせるの。なんて象徴的なんだ。すごい。この発想がすばらしいし、しかも二人には台詞はないんですよね、はなちゃんの歌と二人の表情、背中が全てを語る。少なくとも語らせようとしている。す、すえおそろしい……。初日からまたぐっと成長しているのがすごい。
ヨハン(朝美絢)はドイツの病院(と思われる場所・舞台センター)で医者(壮海はるま)に叱られる。「窓を開けるな」「シーツは破れるまで使え」「少し学があるからといってデカい面をするな」「ここのやり方に従え」と。古いしきたり・伝統・魔法、を嫌い、科学・理性・自由を求める。当時流行の啓蒙思想である。
しかしこの好青年のヨハン、この病院を追い出されて、次に出てくるときは「愛の錬金術」を歌うまでになるのですが、一体その間に何があったんだと思うほどの豹変振り。え。あの好青年はどこに行ってしまったのか? なんかいかがわしい医者が出てきたんですけどwと笑ってしまった。
一方同じ頃、舞台上手のデンマークではクリスチャン(縣千)が椅子に座って王になるための勉強をしている。間違えると家庭教師のレヴェントロー伯爵(一禾あお)に鞭でしばかれる。「静かに静かに目を閉じていたい~♪」と歌うが、そうりゃそうだろうなという気もする。しかし家庭教師からはフランス語の勉強もまだ残っていると叱られる。この時点で腕が痛いようで、腕をおさえるクリスチャン。後に、ヨハンに言われるがままにサインをし、腕をいいため、体調不良になることにつながっている。そちゃクリスチャンにとってはトラウマだろうな、この痛みは。
その周りではクリスチャンの父・フレゼリク5世(真那春人)が宮廷の男女と楽しく遊んでいる。男とはお酒を、女とは愛情をそれぞれ楽しんだのでしょう。
そして、それを王妃ユリアーネ(愛すみれ)が冷たいまなざしで見ている。この視線がまた冷たいんだ……物語の最後にユリアーネは「愛することも愛されることも何も知らなかった」と自身のことを言う。フレゼリク5世相手でも愛を得られず、カロリーネ(音彩唯)やゾフィア・ドロテア(白峰ゆり)のように異国の貴族と劇的な恋に落ちることもない。毒薬と間違えて惚れ薬を飲む前のトリスタンとイゾルデ。のちのカロリーネの台詞にも「愛を知らない方が淋しいかもしれない」とあり、ユリアーネが暗示されているように見える。
フレゼリク5世はクリスチャンには話しかけるが、ユリアーネはほとんど無視。ユリアーネが話しかけようとした瞬間、フレゼリク5世はクリスチャンに話しかけ、その後もユリアーネは視界に入っていないかのよう。ようやくユリアーネが「陛下」と声をかけて振り返る。その瞳にユリアーネを写す。フレゼリク5世はユリアーネに無関心であることがこの一場面でわかる。すばらしい。まなはるもあいみちゃんもうまいんだよ~!
ユリアーネはようやくフレゼリク5世と話をしようとするのに、宮廷人の女が邪魔をする。フレゼリク5世は「待て~」と追いかけ、ユリアーネは再び一人ぼっちになる。上手にはけるときには下を向いて、うつむいている。つらそう。
さらに下手の舞台装置の足下のイギリスでは、兄のジョージ3世(霧乃あさと)の狩りについてきた妹カロリーネが「待て~!」犬と戯れている。同じ言葉で場面をつなぐ方法がうまい。
兄に「大きくなったらどこかのお姫様になる、だからお勉強を」と言われたカロリーネは「お姫様になって軍隊に入る!」と無邪気に言う。どうやら射撃や乗馬がお好きなよう。
「馬に乗ります」「ダメよ♪」「危ない♪」「皇后らしくない♪」「そうです♪」「なぜなの♪」「古いしきたりを守らなくてはいけない~♪」と一瞬のうちに脳裏をよぎる『エリザベート』「皇后の務め」ですわ。いや、一瞬のうちに脳裏をよぎってびっくりした。自分でも。シシィの時代でダメなら、そりゃカロリーネの時代はもっとダメだろうな……。
日本では女性のやんちゃな幼少期を示すのに「木登り」が使われることが多いですが(シシィもそうでした)、ヨーロッパだと乗馬や狩りなのでしょうね。大河ドラマのヒロインは大抵第一話で木に登っている。
はばまいちゃんのこの白いドレスがまた可愛いんだな……最高なんだな……超絶可愛い。えらい健康的なメリーベルのような。ソーキュート。大正解。白いドレスにピンクのリボンとか反則だろ。
ヨハンは解雇、フレゼリク5世は亡くなり、クリスチャンが王となる。妃としてカロリーネがイギリスからデンマークへやってくる。運命の歯車が狂い出す。
「神よ、なぜ異国の地に生まれた三人を、このフランスで結び合わせたもうた」とオスカル様の声が聞こえるよう。『愛の巡礼』が流れるよね。「見知らぬ国をただ一人愛を求めて今日も彷徨う♪」というのは、まさに後半で男装するカロリーネにぴったりなのではないかと。すごいな。オープニングだけで『エリザ』も『ベルばら』も出てきたよ。
異国の地の三人の三重奏。お見事。オープニングとしても美しい。
幕前芝居では、ベルンストッフ(奏乃はると)が下手に去った後、ユリアーネとその息子フレゼリク(風立にき)の家庭教師であるグルベア(叶ゆうり)が「静かに静かに今は目を閉じて♪」と歌う。耳が幸せな二人。しかし、ここのグルベア、見るたびにユリアーネへの下心が増してくるようで。それは権力だけではなさそうな。ユリアーネに愛を教えることができるとしたら、もしかしたらこの人だったかもしれないと思わせる演出でした。
さらにユリアーネはしきりに「今まで通りでいい」と言います。ゆくゆくは自分の子供を王座につけることを目論みながらも、あくまでその過程はゆっくりと慎重にということでしょう。これはのちに急速な改革を進めるヨハンとの対比となっております。ただ史実ではユリアーネの子供のフレゼリクは身体障害を持っていたようで、ヨハンが追放されたあと、クリスチャンの摂政となり、あくまで摂政という形でのみ政治に関わり、王にはならなかったようです。摂政といってもユリアーネの操り人形だったようですが、その母の慎重さが仇となって、彼は王になれなかったのかもしれません。やがてクリスチャンの子供のフレゼリクがメガネ・ベルンストッフ(紀城ゆりや)とクーデターを起こして、王になったようです。ここでヨハンの政策が息を吹き返すのがまたドラマチック。
●第2場 ドイツ アルトナの病院
アルトナで怪しい錬金術。くるくると機会仕掛けの人形のように登場する紳士淑女のみなさんがすばらしかったです。目が回らないのかな、大丈夫かな。バッスルドレス、可愛いよ。公演プログラムには「ドイツ アルトナの病院」とありますが、淑女りなくる(莉奈くるみ)の歌によると「デンマークのアルトナにある日舞い降りたあなた♪」ということで。調べてみると1640年から1864年までアルトナはデンマーク領だったようで。現在はドイツハンブルクの一地区だそうです。ころころと国が変わる地域といえばドイツとフランスの間にあるアルザス地方、アルトナもそんなところだったのでしょうか。
りなくるの「あなた♪」の歌い方が見るたびに違っていて感心しました。美人で歌が上手い。
ランツァウ伯爵(真那春人)とブラント(諏訪さき)とこの地を離れるときも「では行こう!」「どこへ?」「デンマーク、の郊外」と言っていたので、どっちかなーという悩みは尽きない。
そしてプログラムを読んで驚いたのは、ここ、病院だったのね!?ということ。最初に見たときはてっきりいかがわしい酒場か何かかと。だってソフィーが「お忍びで」とかいうからさw
もっとも迷信深い中世の世界で、科学や理性に基づいた医療行為は、あながちいかがわしい行為だったのかもしれません。病院内の換気や清潔なシーツの使用の徹底はナイチンゲールの登場を待たなければなりません。
「きっと私前世で恋人だった♪」の歌詞は個人的に優勝。頭韻脚韻同音異義語を使った歌詞が多く出てきますが(「政治軍事愛の情事」「酒を飲んで酒に飲まれて皿割って騒いで」「これは何か使える再び王に仕えるこれは何か掴める」などなど)、私にもっとも刺さったのはこの歌詞です。すばらしい。オタクの心がよく分かっているわ、指田先生。うふふ。
老若男女問わず診察しているところは、もはや『シルクロード』の「千夜一夜」の場面を思い出しますわ。既視感バリバリ。赤い宝石たちをもてあそぶシャフリヤール様。あれの西洋の医者版でしたな。
治療に訪れたソフィー(妃華ゆきの)に聞こえないように「どうせ不摂生だろ」という毒を吐くのもいいし、すぐさま医者(錬金術師)の仮面をつけて胸に耳を当てる姿も麗しい。当時はまだ聴診器がなかったとはいえ、あっても使わない演出が正解と思わせるほど。ソフィーが「今日は良い子にして早く寝ます」というとき、後ろでランツァウ伯爵が両手を合わせて眠るジェスチャーをしているのがなんとも可愛らしい。これが「流行り物好き」といわれるゆえんなのか!?
それにしても前回『ほんものの魔法使い』で主演の魔法使いの役をやった人に「魔法なんてない」「魔法が嫌い」と言わせるの、本当にすごい。そして『ほんまほ』が刺さらなかった私は、そうだよね、まやかしだよねとやはり思ってしまうのでした。
続くランツァウ伯爵やブラントとのやりとりも、歌いながら合間に台詞をはさんで話が進んでいく。いいね、いいね。歌うように台詞をいい、台詞をいうように歌う。こういうの、好きなのよね。そしてさすがすわっち。初日からしっかり歌詞が聞こえる! すばらしい! ユニークな歌詞がちゃんと生かされている!と実感できる。
というか、ここのブラントがめちゃめちゃいいんだよね〜王宮を追放されてなんとかもとの地位に戻りたいという考えは下衆なことこの上ないのですが、明るく溌剌した雰囲気を感じ取るし、すわっちがまたそれを嫌味を残しつつも清涼に演じてくれるから、ヨハンも魔法や錬金術といった怪しげなものが嫌いという「身の上話」をついしてしまうのが、すごくよくわかる。迷信深い貴族たちにはその方がウケるという話には「なるほど」と納得するものの、それをヨハン自身が「馬鹿馬鹿しい」と言うのを聞いて咳払いをするランツァウ伯爵は結構冷静で、ブラントは王宮に返り咲く夢を見る。二人は一緒にいることが多いけれども、決してニコイチのような扱いを最初からされていないところもミソですな。最終的に二人が決定的に別の道を選ぶことになることは、すでにここで暗示されている。
ブラントの衣装、ストライプに金箔が散っているけれども、柄物の生地に金箔が舞っている布地を使っているのは彼だけかな。ジャケットが長いのは他の貴族と同じですが、ブラントもタイツではなく、ブーツのあたり、しっかり三番手という感じがしてよい。そしてこのときの歌が客席挨拶のときにもきちんと流れていて、ブラントのテーマソングとなっているのが非常によい。
三人はデンマークの郊外の酒場へ、仲良く腕を組んで舞台上手奥に去っていく。ランツァウ伯爵がヨハンに行き先を聞かれて「デンマークの、の郊外」というところは狂言回しのルキーニのようでもあるし、その直後から次の場面の音楽の前奏が流れ始め、実に場面もスムーズ。そうね、「計画通り上手くいかない」とブラントとランツァウに教えてあげたいところです。
●第3場 デンマーク郊外 酒場
クリスチャン7世のテーマソングはやたらと激しい。「愛してくれ愛が足りない一人だけなんて時代遅れだろう♪」と歌うクリスチャンはどれだけ人と一緒にいても埋まらない心の隙間を抱えている。これは史実のクリスチャンが「王妃を愛さない。一人の妻を愛することは時代遅れ(unfashionable)」と宣言したことにちなんでいるのでしょう。ちなみに最後のフレーズは何と言っているのだろう……「女神触れる矢をかき抱く男♪」と聞こえるのですが、意味が全く通じない。
失脚したときのヨハンが孤独に歌う「私ひとり~♪」という歌詞にも通じるものがありますね。伏線貼りまくりですな! 楽しい!
酒瓶をまるでマイクのように持ち、酔っ払いの千鳥足演技もすごいな、あがち……と思って見ていましたが、酔っ払って倒れているのに、そこから足の遠心力?と腹筋で起き上がるのもすごいな、と。身体の作り、どうなってんだ。体幹をわけてくれ、と体の衰えを感じつつある私は心底思いました。トレーニングして、私。
クリスチャン以外も、スサンナ(白峰ゆり)、ヒルガ(りなくる)、ミラ(千早真央)も爆踊り。すごいなーみんな可愛いなー三者三様なんだよ、ここ。スサンナは公演スチールのパイプを上手で吸うところがあるのだけれど、これもたまらん。
最高。そして座長のヘンリック(一禾あお)もうまいんだな、これが。いい声! 本当に彼、芸達者ですよね。この後もフリードリヒ2世を演じますが、うまい。いつの間にこんなに演技がうまくなったんだ、と目を瞠る。ちなみにフィナーレは色っぽかった。驚いた。
王立劇場の役者たちと一緒に馬鹿騒ぎをしているけれども、クリスチャンの心は埋められないのね……クリスチャンのテーマがフェードアウトしていくなかで、台詞が入り、すんなりと芝居に移行する手腕もお見事。脚本を考えた指田先生もそうだし、それを演じるタカラジェンヌも、音響さんも照明さんも上手くやっているわ。
スサンナに手を挙げるクリスチャンを見て淋しい気持ちになったところに現れるヨハン、ブラント、ランツァウ伯爵。
クリスチャンは「医者だ」と自己紹介したヨハンを完全にスルーして、ブラントとランツァウ伯爵に「会いたかった」と告げる。これもいくらかは酔っ払った勢いでしょうし、またいくらかは本音でもあるのでしょう。ユリアーネのつばのついたホルク(日和春磨)が侍従長では息の詰まる思いは以前と比べるまでもない。
とはいえ、観客的にはホルクも憎めない愛嬌のあるキャラクターでした。クリスチャンからどちからがひどい被害にあったか、でブラントとマウントを取り合うところは小物感もある。なるほど、ユリアーネ様がいなかった本当に君は侍従長にはなれなかったでしょうねwという感じがする。クリスチャンに「こいつらみんな拷問にかけろ!」と言われてホルクはすぐに「はい!」と答えてしまう。そこをスサンナがドスの効いた声で「え?」と聞き返すから、「いいえ、陛下!」となる。流されやすい人だ、ホルク。そして退場するときも「暴力反対~!」とか言いながら逃げていく。憎めないな……。
梅田では舞台のサイズの問題でしょうか、この台詞があるときとないときがありました。
ダンスのあと上手の椅子のところで、急いで決闘用の剣を腰につけているところも目撃してしまいました。あれは尺の都合で間に合わなかったら大変だからな。
酔っ払ったクリスチャンに絡まれたブラントが、少しばかり目でヨハンに助けを訴えているように見えるのもおもしろいところです。帰って来たくて帰ってきたのではないのか。このときはまだクリスチャンを、自分の地位を取り戻すためのものとしか見ていなかったのでしょう。これがちゃんと「人間」として認識していく過程が、マジで痺れる。
おいたが過ぎるクリスチャンにヨハンは「遊び」と称して決闘を申し込む。「死が怖くて医者が務まりますか」という言葉は最もだけど、初日に見たときは、まさかこの展開がラストに見事につながるなんて夢にも思わなかったよ、私は。ただの乱痴気騒ぎの描写だと思っていたよ、すんすん。
ここでランツァウ伯爵はカロリーネのことを「可愛そう」とも言います。王と王妃が愛し合っている国は少ないけれども、まだ「お若い」とそれとなくかばう。ランツァウ伯爵は恋愛や情愛に人一倍敏感で、だからこそ、後半、ヨハンの不義不貞を最初に外から指摘できるキャラクターなのでしょう。「流行り物好き」というのもこのあたりが所以かな。よく練られている。
●第4場 王宮 枢密院
ものすごい気合いの入った四重奏で始まる。すごい。厳かな世界。まさに「機械仕掛けの宮廷人」たちが集まる場所でありました。そしてユリアーネの「祖国に栄えあれ とこしえにとこしえに 愛するこの国~♪」は圧巻でした。あいみちゃんが歌がうまいのなんてみんな知っているけれども、あの厳つい顔で一人高らかに違うパートを高い場所で歌う愛すみれって本当にすごい。あと貴族服のタイツにより、みんなの足首の細さがわかるが、しっかり筋肉がついているふくらはぎである。すごい(どこ見ているの)。
ちなみにこの場面では、冒頭で男爵の役を演じた苑利香輝くんは「貴族の男」というくくりになっています。これはきっと、男爵がランツァウ伯爵側の人間だからでしょう。第Ⅱ幕冒頭のテニスのシーンで明らかになります。つまりランツァウ伯爵が王宮追放されている時間軸では、男爵もまた宮廷にいない、と考えるのが妥当かと。細かいな、指田先生。
召使いの女はベルンストッフについていますので、二人は決して同じ派閥にはいない者同士。こんなところもヨハンとカロリーネのあったかもしれない世界線を連想させる仕組みになっている。すごい。
機械仕掛けの宮廷人たちから「眠り姫」と呼ばれるカロリーネは自室からほとんど出てこない模様。「啓蒙」の観点から言えば、寝ているのはどっちか、と聞きたくなるような気もするが、誰もが自分は「目が醒めた場所にいる」と思いたがるものなのでしょう。
しかもオペラ歌手との浮気というゴシップ付き。おそらくこれは宮廷人たちがカロリーネを蔑視することを表す噂にすぎないのでしょうけれども、すわん(麻花すわん)になかなか品のないことを言わせるのもすごかった。水色のカツラ、とても不思議だったけど、よく似合っていた。どうやったらあんな色の髪にしようと思いつくのかわからん、すごい。
そしてユリアーネは「眠り姫」に「発音が耳障りだからデンマーク語の勉強をするように」と侍女エイベン(華純沙那)に伝える。黄緑と白のストライプのドレス、可愛いな。どの国でも異国の者は忌避される。まずは言葉を嘲笑される。これ、別に今でも私たちの身の回りにあるよね。宝塚の外国人表象そのものを考えさせられてしまう。そういえば最近、星組でも外国人が議会に出席できませんでしたね、ディミトリ……。
貴婦人たちの話を聞いていたカロリーネは、うっかりここで枢密院の様子をうかがっていたヨハンと出会う。「あの、みなさん行かれましたか」とカロリーネが扇で顔を隠しながら聞き、「ええ、実にイカレた連中です」とヨハンは巧みに返す。なんて気の利いた台詞なんだ、みんなこういうの真似したいよね。
カロリーネは話し相手がいかがわいい医者だとわかると態度を厳しくする。「ユリアーネ様に怒られるのは自分だ」と。なぜカロリーネが怒られるんだ、そんな理不尽だな。
●第5場A 王宮 王の部屋・第5場B 王宮 庭
ヨハンはクリスチャンもカロリーネも短気であり、宮廷人は「機械仕掛け」、王宮内の「病」の深さに半ばあきれているところで、王の部屋へと向かう。ここも場転がスムーズなんだよね。舞台装置の入れ替えはこのあともあるけれども、ずっとヨハンが舞台上にいることで観客の意識が途切れない。そしてあーさは場面と場面をつなぐ力をもっているという証でもあるでしょう。舞台にいる時間もかなり長いような気がします。
王の部屋では、すでに別の医者によって血を抜かれたらしいクリスチャンがソファで横になっている。血の気の多いヤツの血は抜いてしまえ、ということか。なるほど、確かに古い。
ここでのヨハンとクリスチャンの問答がお互いのテーマソングになっているのもいい。「聞かせてあなたの鼓動を♪」「喉を焼き尽くせイカしたコイツで♪」とな。ヨハンが話すときは青い照明、クリスチャンが話すときは赤い照明になるのもいい。ここは照明さん、めっちゃ忙しいだろうな。
ヨハンによる診察をサポートするためにどこからか現れたブラントは黒い帽子に黒いマント、まるでヨハンが嫌いな魔法使いではないかwという出で立ち。一方で、スムーズに場転し、王宮の庭に出てくるランツァウ伯爵は農民の姿で王宮に忍び入っている模様。王宮追放されたわりには楽しそうで何よりです、二人とも。
ヨハンに理想とする人を聞かれ、あからさまに「そんなやついない」というクリスチャン、昔懐かしツンデレというやつですな。そして登場するフリードリヒ2世。「君主は人民の第一の従僕にすぎない~♪」一禾あおがこれまた高らかに歌い上げます。すげぇな、本当。
そしてヨハンは「案外センスがよろしい」と上から目線。おもしろいな。
ところでクリスチャンがフリードリヒ2世に憧れていたのは史実なのでしょうかね。第Ⅱ幕にあるように「友人を殺してでもその地位を守った人」で「啓蒙君主」だから今回選ばれただけなのでしょうか。
フリードリヒ2世、ヨハン、クリスチャンの順番で銃を撃ち、堂々たる気風を示す。一体何を撃っているんだ、鏡の中のプリズナーでも助けるのか、と脳内は『ジャガービート』。しかしこの場面、センター後方席に座るとタカラジェンヌ三人から打ち抜かれるという、確かにある意味「心臓が走りだ」しそうになりますな。
騒ぎを聞きつけたカロリーネとエイベン登場。クリスチャンに「オペラ歌手がベッドでお待ち」と言われて、「あなたと一緒にしないで」と、もっていた本を投げ飛ばすカロリーネ。噂は噂でしかないのでしょう、その噂をよりにもよってクリスチャンが、王が信じていることに我慢がならないカロリーネ。そりゃそうだろう。クリスチャンとカロリーネで「「冗談じゃない!」」とぴったりタイミングを合わせて話すところは、意外と似たもの同士……と観客にも思わせます。あそこ、たくさん練習したのだろうな。
カロリーネを叩こうとするクリスチャンをヨハンは「暴力はよくない」といってとめる。しかし「ヤブ医者!」と言われてしまうw カロリーネ、罵るところも可愛いな。ところでエイベンがここで「先生のことはご報告させていただきます」というが、一体どこに報告するのだろう。
「一緒に勉強しましょう」というヨハンに「鞭で殴ったりするのか?」とクリスチャン。だいぶあの教え方がトラウマになっている模様。しかしヨハンは「私のレッスンは愛を教えるがごとし」という。これは観客みんな受けたいレッスンなのでは?
おもしろいのは鞭で殴ってクリスチャンにトラウマを植え付けた伯爵とクリスチャンの理想の君主であるフリードリヒ2世をともに一禾あおが演じているというところ。すごい芸達者だよ、本当、すごい。そしてフリードリヒ2世のあとのヘンリックもすぐに登場。早着替え、すごい。
●第6場 王宮 劇場
後日、劇場ではすっかり大人しくなったクリスチャンが大使(稀羽りんと)とにこやかに話をしながら観劇をしている様子。しかし、そこにカロリーネの姿はなく、大使に「明日はご一緒できるとよいです」と言われると、さっそくカロリーネに文句を言いに行く。クリスチャンに「なぜ同席しない」と聞かれたカロリーネは「フレゼリク(子供)の熱が下がらない」と答えるが、「そのために乳母がおります」とグルベアに言われ、追い打ちを掛けるように「子供を育てることは王妃の務め、ではありません」とユリアーネから有無を言わせない威圧をかけられる。まさに『エリザベート』の世界。そう思っている間に場面はスムーズに枢密院へと移り変わる。ストレスのない場転よ、ありがとう。
役者たちの歌もいいですね。「我らは役者気ままな仕事さ♪」と。りなくるが高い音ではもるのも素敵です。エアマイクのようなものも素敵。
ところでスサンナの「私○○○拍手もない!」という台詞、ちょっと間が聞き取れなかったな……何と言っていたのでしょうか。クリスチャンに向けられた言葉だと思うのですが。
アンコールで幕が上がったときは、クリスチャンに投げキッスしていたと思うんだけど。
枢密院ではほぼ初めてといっていいでしょう、クリスチャンが自分の意見を述べる。検閲の禁止や拷問の廃止をしてもいいのではないか、と。一瞬枢密院はどよめく。クリスチャンが自分の意見を述べたことにも驚きだが、それ以上にその内容が今までの価値観とは全く異なるものであり、貴族の特権を奪いかねないものであったから。「わからんちんはお前達だ」とヨハンは言う。突然コミカルな「わからんちん」の台詞には驚きましたが、それくらいの清涼剤がないと、この場面は重たかったでしょう。
メガネ・ベルンストッフは、叔父上ベルンストッフ(奏乃はると)に「時代は変わっています」と助言もする。彼がゆくゆくはクリスチャンの息子フレゼリクを補佐すると思ってみると、今はまだ頼りないけれども、考えの基礎がどこにあるのかはよくわかる。
一方、宮廷に戻ってきた男爵は、召使いの女にすれ違いざまにプレゼントである貝を渡す。召使いの女は貝に耳をあて、幸せそうに波の音を聞いている。本当に心の癒やしのカップルですな。
●第7場 昼 海辺
波の音を聞いて幸せになる召使いの女とは異なり、カロリーネは「こんな音(波の音)、淋しくならない?」という。明るい日の光のあったイギリスとは違い、曇り空の多い暗いデンマークに馴染めない彼女は、波の音を楽しむことができない。イギリスもだいぶ霧が多いイメージがありますし、気候区分でいえばイギリスとデンマークではそう変わらないような気もしますが、実感としては大きく違ったのでしょう。ヨハンが作中で海を訪れるのはここが最初でしょうか。クリスチャンではなく、カロリーネと最初の海辺の場面を過ごすことが意味深ですね。ここで歌われるのがカロリーネのテーマソングかな。はばまい、本当に歌上手いよな、すごいな。あーさの相手役には歌の上手い人を!という人がいるけれども、気持ちはわかる気がする……。
「青い海をすくったビロードのドレス♪」と歌い出すと、舞台後ろでは、ビューロー男爵夫人(天咲礼愛)の娘テレーサ(瑞季せれな)が、幼少期のカロリーネを象徴するかのように出てきて踊ります。ここは王妃大集合の場面でもあり、カロリーネの理想である前王妃ルイーセ(美影くらら)、カロリーネの曾祖母にあたり、正確に問題のある王をもち、外国人貴族と恋に落ちたことで孤城に幽閉されたゾフィア・ドロテア(白峰ゆり)(しかしなんでもやるな、ゆりちゃん。宮廷の女、貴族の女、スサンナ、ゾフィア、勅令兵、劇中劇の姫と七変化)、そして舞台の後ろを下手から上手に向かってゆっくり歩く現在のデンマークの王太后ユリアーネ、もちろんカロリーネも王妃である。そう考えるとテレーサもいずれどこかの国の王妃になる、ということの暗示なのでしょうか。
この場面でヨハンもドイツの病院にいたとき、人々のためにやっている自分の行いが誰からも理解されなかったことの悔しさを吐露する。そう、ヨハンはクリスチャンには自身の気持ちを打ち明けることがあまりないけれども、カロリーネには思わず伝えてしまうんですよね。うう、愛の萌芽が見えるぞ、見える。
その一部始終をクリスチャンはブラントとともに見ている。観客には見える愛の萌芽はもちろん彼らにはまだ見えない。今のクリスチャンは王妃を気遣うことで精一杯なのだ。観客はここでクリスチャンのカロリーネへの愛の萌芽を見てしまうが、花を咲かせなさそうなことも同時に知り、つらくなる。
ブラントはブラントで、ホルクに見つかり逃げていく。ホルク、本当に小物感がたまらんな。
●第8場 王宮 広間
クリスチャンはすっかりヨハンの「愛のレッスン」を会得したようで、「ストルーエンセ先生」の教えに従い、役者と共に大人しくお茶を飲む。地べたに座ってお茶も何もあるかいなwという感じですが。もっとも役者たちはお茶ではもちろん物足りない。酒を飲みたいが、クリスチャンが我慢している手前、そうもいかない。「俺がこんだけ我慢しているのに!」と怒り散らしたときは、むしろ役者たちは喜んでいた。それでこそクリスチャン!と。
その後ろではユリアーネ、ベルンストッフ、グルベアがお行儀良く椅子に座ってお茶会を開いている。同じお茶会なのに全然趣が違うのだもの、笑ってしまうわ。「陛下が政治に関心を抱くことはよいことかと」と言うベルンストッフに対して、「発言が誰の入れ知恵によるものなのか、気になります」というユリアーネ。続けて「(ヨハンが)薬の量を間違えないよう、我々がしっかりと見張っていなければ」と。監視社会を感じました、怖い。でも今だってSNSで充分相互監視社会だよね、と思うなどした。
クリスチャンのお茶会では、ディドリックが昨晩強盗に襲われてけがをして遅れてやってくる。街頭があれば犯罪は減る、と思い至ったクリスチャンはここで初めて「ヨハーン!」とファーストネームでヨハンを呼びながら下手に去って行く。仲良くなっているではないか。クリスチャン発案の政策があるのがこれまたよい。
●第9場A 王宮 王妃の部屋・第9場B 海辺
その頃ヨハンはカロリーネの部屋を訪れる。「いちいち口の減らない小娘だ」と悪態をつきながらも、与えられた「医者」の役割を全うするために、「訛のように重たい」カロリーネを部屋の外に誘い出す。本を追いかけるカロリーネがくるくる踊るように回るのも可愛いし、しんどいふりをしてヨハンに心配させて本を取り返そうとする知能派なところも愛らしい。すばらしい。二人は追いかけっこの末に海辺に辿り着く。二人で過ごす海辺その2です。かつては「馬にだって乗った」「柵を跳び越えることだってした」「誰よりも上手にできたんだから」というカロリーネは宮廷にいるカロリーネとはまるで別人のようであり、ヨハンは彼女がありたい形の彼女を引き出すことに成功、男装の姿のはばまい、可愛かった。
娘役大集合で、「みなさん素敵な笑顔ですよ」と真ん中のヨハンに言わせる演出、天才だな。みんなヨハンにめろめろになったわ。傘をくるくると回しているのも可愛らしい。デンマークの日差しがそれほど強いとも思えないけれども、おしゃれアイテムとしては大切です。ここの「フォレルスケット」の曲も好きです。いいよな、可愛いよな、未来が明るいことをこのときはまだ信じられる。夏至祭のころになると、海辺で炎が焚かれることを教えてもらうヨハン、「炎が悪い者を追い払ってくれるの」というカロリーネに「あなたに炎は必要ない」という。それはつまり、自分が守るからってことですかー!?と思っていると、夏至祭の舞踏会に出席するようにお願いする。それはクリスチャンのためでしょう。クリスチャンの病もカロリーネの病も、治すのが自分の役だと思っている。それはそうなんだけどね……うう。クリスチャンが王である前に人間だと言いたいように、カロリーネが王妃である前に人間だと言いたいように、ヨハンも医者である前に人間だと言っても良かったのではないですかね。もっとも言ったところで、傷つくことはあったと思いますが。
●第10場 王宮 夏至祭の舞踏会
夏至祭の舞踏会の音楽、ノリノリで楽しいなと思っているとユリアーネが「なんですか、この音楽は!(怒)」とお怒りのご様子。しかし、保守派も意外とノリノリで、義弟フレゼリクやグルベアは身体がリズムを刻むし、ベルンストッフは仮面を薦めてくる。意外とコミカルですな、あなたたちw
ユリアーネ様も結局あとで一緒に踊ってくださるし、猫ちゃんの仮面はよく似合っています。
他の貴族も楽しそうにしているのは、クリスチャンが最初に自分の意見を述べたときと同様で、「新しいもの、珍しいものに初めは食いつく」という習慣によるものでしょう。そして来年の夏至祭の舞踏会は、きっと以前と同じような音楽が流れるのでしょう。そう思うと、いろいろはかなくて涙が出てくるよ、すんすん。次の舞踏会にはヨハンもいないだろうからな。
この曲とクリスチャンのテーマがツイッターで「フレンチロック」と言われるゆえんでしょうか。指揮者のような振りをしているヨハンもいい。自分がこの宮廷の病を治療するぞという意気込みが感じられる。舞踏会のこの曲はフィナーレ以外でリプライズがないのが淋しいかな。しかし「指を滑らせ骨砕く~♪」という歌詞は結構過激ですよね。音楽というアリプロジェクトを思わせました。
カロリーネはまさかの男装のまま登場。ドレスアップしたエイベンを相手にしているのもいい。
あがちクリスチャンのこの場面のピンクタイツ、赤革手袋、とても素敵です。そして高らかに宣言する「ここで一つ、遊戯をしよう」と。ユリアーネは「そんな話聞いていない!」と再び怒りを露わにしますが、王の決めたこと、話は進んでいきます。そしてユリアーネ様もそれに付き合ってあげます。本当に優しいんだから、もう。
ここでヨハンが勝者となったのは、別にクリスチャンと図って行ったことではないでしょう。結果的にそうなったというだけの話で。もちろん観客の私たちからすれば、「これはヨハンが勝つなw」とわかるわけですが、それとはまた別次元の話です。
見事グルベアを生け贄にして勝者となったヨハンは、ここぞとばかりに先日の枢密院で一蹴されてしまった陛下の改革の実現を跪いて願う。けれどもあっさりユリアーネに折られてしまう。「先生は遊戯をご存じないのですね」と。さらにベルンストッフが「ましてや先生は陛下の主治医にすぎない」と言う。保守派の勢力に結局は丸め込まれてしまう。
配信のとき、ちょうどこのあたりの台詞を聞いているヨハンの顔が映ったのですが、ナイスカメラワークです。とてもショックだという顔をしている。話をしている人の顔ではなく、聞いている彼の顔を映すの、大正解の場面でした。指田先生から指示があったのかもしれません。
一方、ユリアーネに公開叱咤されているヨハンを周りの貴族たちは我関せずといった様子でおのおの近くの貴族たちをおしゃべりを始める。ああ、王宮ってこういうこと、よくあるのだろうな、ということがよくわかる。つらい。仮面をつけなければ宮廷でなんて暮らしていけなかろうことがよくわかる。
ここでも男爵ではなく貴族の男として出てくる苑利くん。ランツァウ伯爵はこの舞踏会に参加していませんからね。この演出がにくいな。
●第11場 海辺
お茶のために他の貴族は去って行く(よくお茶するな、最初の枢密院の場面でも去って行くときに「あちらにお茶の準備があります」とかなんとか言っていた。第Ⅰ幕だけで三回)。残ったのはヨハン、カロリーネ、クリスチャン、ブラントの改革派のメンバー、場所は移り変わり海辺、本当に場面転換がスムーズだ。すばらしい。ここにランツァウ伯爵がいないのがのちの決別を暗示していますね。
ヨハンはすぐさま「医者」という仮面をつけ、役者になってクリスチャンと話す。「私は敵が多い方が楽しい」とはいかにも野心家の発言。そしてカロリーネは「私は今日初めてこの場所が怖くなかった」という。きっと炎(ヨハン)が悪いものを遠ざけてくれたおかげでしょう。重ねて「私は先生のように勉強をしているからきっと役に立つ」と。ブラントも「法律を勉強していたからきっと陛下の改革の役に立つはず!」と協力する姿勢を見せます。四人で見たこの朝焼けが、四人それぞれの胸に鮮やかに刻み込まれたことでしょう。梅田では思わずこの場面、泣いてしまったよ……うう。
●第12場 王宮 海辺
ヨハンとカロリーネだけが四角のスポットの中にいて、上手では枢密院が開かれる。そこでクリスチャンはホルクを解雇、ブラントを再雇用することを宣言、さらにはヨハンを自分の右腕に任命する。
ユリアーネの「子供達もいずれ夢から醒めるでしょう」という。四人は「自分たちだけが目を覚ましている」と考える一方で、ユリアーネたちは自分たちこそが「現実を見ている」と思っている。この乖離が見事である。
そして翻って考えてみると、今私たちの生活をとりまとめている政府は本当に現実を見ているのかと疑いたくなるが、自分たちは「自分たちこそが目を覚ましている」と思っているのでしょう。つらぁ……国民主権って知っているか。
カロリーネは「まだ何も始まっていないのに、私いまものすごく楽しい」と言い、ヨハンは「本当だね、カロリーネ様」とおそらく初めてファーストネームで呼ぶ。お互いしか見えない、二人だけの世界に没頭、それはエイベンがカロリーネを探す声も聞こえないほどで、二人の距離は急速に縮まり、口づけをかわすこととなる。キャー!><
そしてここでも男爵と召使いの女の逢瀬がある。実に象徴的だ……木琴のような音で水のポコポコという音を連想させながら、溺れていくままに第Ⅰ幕が終わる。
【第Ⅱ幕】
●第1場 王宮 テニスコート
うっかり違うミュージカルを見に来たのではないかと疑われるほどのテニスっぷり。ただし、クリスチャンにも「怒りは運動と遊びで解消♪」と医者としてスポーツを勧める歌詞の歌はありましたし、おそらくこれはのちの1789年6月20日のテニスコートの誓いを意識したものでありましょう。当時のデンマーク王宮でどれくらいロココのドレスが流行していたかわかりませんが、ここでロココのドレスを着た貴婦人がたくさん出てくるところも、たぶんフランス革命を意識しているのだろうな、と。
初戦は舞台手前センターで、クリスチャンの息子のフレゼリク(星沢ありさ)とメガネ・ベルンストッフVSユリアーネの息子のフレゼリクとテレーサのダブルスが向かい合ってテニスをする。
ベルンストッフが二人いるからという理由でクリスチャンに「メガネ」と呼ばれるアンドレアスも可愛いし、みんながそれに倣うのも滑稽だし、フレゼリクが同じ名前であるけれども、観客が混乱しないような工夫もあって、『PoR』のときもこれくらいわかりやすければよかったのに……と思うなどしました。ちゃんとキャラクターが判別できるって大切。特にヨーロッパは同じ名前が多いからね。
メガネとフレゼリクがサーブを決めていきますが、これはあれか、義弟フレゼリクに対して王太子フレゼリクがアンドレアスとともにクーデターを起こすことの暗示なのかな。それならテレーサは、義弟フレゼリクの結婚相手となり、ゆくゆくは王妃になる予定だったのかな、とかいろいろ妄想が膨らみます。
王太子フレゼリク役のありさちゃん、可愛い! ストップモーションのときは、これまたビックリするくらいキリッとした格好いい表情をしているんだよ!
お次の試合は舞台上手と下手に別れて、高さのある舞台装置の上で行われるダブルス。ユリアーネ&グルベアVSブラント&ホルクの戦い。ブラントとホルクがペアなんだ!?という驚きがまずありましたね。「優秀なホルク殿の後任は荷が重いですなあ」という嫌味よ!
グルベアは「ユリアーネ様は運動音痴」といいますが、当時の運動の概念はよくわからないし、グルベアだってそんなに運動神経良さそうには見えないのだけれども、ユリアーネが「どこからでもかかってらっしゃい」と、最初はヨハンにラケットを突っ返すくらいやる気がなかったのに結局は付き合ってあげちゃうんだからもう! 優しいんだから!!! 舞踏会のときと同じですな!とたぎる。
そして「どうにでもなれ」という気持ちでホルクが打ったサーブが決まる。おお、こっちが勝ちそうなのか。このダブルスは、本当に見物。
その間に次の試合のメンバーが準備体操をしている。ラジオ体操をやったり、ストレッチをやったり……日替わりでした。
最後は舞台センターで、客席に向かって打つよ。ヨハン&エイベンVSクリスチャン&カロリーネですね。打ち合いになりますが、クリスチャンのスマッシュが綺麗に決まる。
「怒りは運動と遊びで解消♪」と最初にヨハンがクリスチャンにアドバイスした通りになりましたね。いや、もういっそここが一番幸せだから、ここで時を止めて欲しい。のちにヨハンに「戻れるならいつに戻りたいですか」と聞かれたカロリーネが「みなが笑い合っていた頃に」と言いますが、まさにこのあたりの時期ですよね、みんな幸せそうだよ。
テニスが終わると、メガネが「街灯計画はつつがなく進んでおります!」と真面目に報告すると、舞踏会の一件のことがあるため、クリスチャンは「ここは真面目な話を持ち込むところではありません~」とちゃかす。でも、いつでもそういう話ができるのが本当はいいいんだよね。本当、この国もさ……。
そしてクリスチャンの下手くそな(笑)取り回しにより、エイベンがヨハンに気があることがばれてしまう。ブラントはそのあたりをよく心得ているようで、性急すぎるクリスチャンに適切なアドバイスをします。
もちろん、ヨハンにその気は全くない。ここのカロリーネの表情がたまらんのですわ。そしてその隣でひとり上手の王太子フレゼリクのありさちゃん、可愛いわ。ラケットが立つかどうかで遊んでいるし、立ったときにはカロリーネママに見てもらいたいのに、ママはそれどこどろではない。手をつないで去っていくが、母子には見えんな……これは難しいだろうが。
クリスチャンがブラントに「ヨハンと二人きりにしてくれ」というと、照明が落ち、テニスは終わったのかと思われたが、音響では、どこからともなくボールの音が。あれ、まだテニスはやっているの?と思ったところで、クリスチャンの恋心が示され、戸惑うヨハン。時期を自分が考えると言って、二人は舞台奥に去っていく。
ボールの音が鳴り止まない中、上手下手でシングルスの客打ちが残っていました、ベルンストッフVSランツァウ伯爵。場面転換がうまい。ずっと同じ音響を使い続けているため、観客の意識が途切れない。
「やはりあの医者を陛下に会わせたのはあなたでしたか、流行り物好きなあなたらしい」と言われる王宮復活したランツァウ伯爵。けれども彼もヨハン一辺倒ではなくて「もちろんこの王宮に合うかどうかは別の問題」みたいなことを言います。このランツァウ伯爵の立ち位置が絶妙なんだよね、完全に改革派ではないけれども、完全に保守派というわけでもない。芝居に深みを与える役どころです。また、まなはるがうまいのよね~。
後ろにはそれぞれ召使いの女と男爵が控えていて、退場するときに男爵はこっそり召使いの女に手紙を渡す。そうそう、これくらいつつましやかに秘密の恋は進めないとね、という感じ。
●第2場 街
街灯が完成する。これは映画『ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮』にはなかった設定でよきよき。「光をあてる」という意の「啓蒙」とも引っ掛けているのもうまい。
クリスチャンとカロリーネの仲が良くなったのも「先生のおかげ」とか言われて、少しその幸せに影が差す。でもある意味本当にその通りで、ヨハンの「治療」のおかげで二人の距離は縮まった。カロリーネは別の「病」を得てしまったかもしれないけれど。こういうのは一度自覚すると、瞬く間に落ちていくのよね。坂道を転げ落ちる石のように加速度が増す。
人々がいなくなり、ヨハンとカロリーネの二人きりになる。カロリーネに先日(第Ⅰ幕の終わり)のことを謝ろうとするけれども、やはり謝るのはやめたというヨハン。最初は「なんのこと」ととぼけていたカロリーネも、それを通すことはできなくなり、「エリサベートとの結婚の話を、どんな思いで聞いていたと思っているの」と言う。ここの言い方、はばまいちゃん、可愛かったな~。そしてめっちゃキスするな、この二人~初めてキスシーンを書いたとは思えないよ、指田先生。
続けて「あなたが作る世界にいられると思うと私は何も怖くない」という。ヨハンが「悪いものを避けてくれる炎」だからでしょう。カロリーネのこの素直で善意の本音は、しかし、ヨハンにとっては「呪いの言葉」となる。王宮のあらゆる病を慎重に治療していたはずのヨハンは、この言葉に縛られ、直後に「保守派の賛成を得る必要はない」と言い始める。考えを変えない人たちと手を携えるのは無理だから、自分たちだけで政治を行おうとクリスチャンに提案する。
カロリーネの幸せを守るために、ヨハンは医者に必要なはずの「慎重さ」(あとからベルンストッフにも忠告される)を失ってしまう。「無敵だ」と思ってしまう。夏至祭の舞踏会のときは「私は敵が多い方が楽しい」と言っていたけれども、ここではいるはずの敵を認識できなくなっている。そりゃ選択も間違えるわな。
●第3場 勅令
「検閲の撤廃」「拷問の禁止」「捨て子のための施設設立」と次々とヨハンが勅命を出す中、唯一この場で「慎重さ」を保とうとするランツァウ伯爵は「予算は?」と現実的な訴えをするが、「貴族の馬車に新しい税金を」というカロリーネの声でかき消される。そんなものでは足りないだろう、脱税する貴族も出てくるだろう、ということは観客にもわかる。つまり、この改革が上手くいかないだろうことは、別に史実を知らなくても想像がつくということ。それくらい、カロリーネの言葉がヨハンを縛っているのがよくわかる。
『不思議の国のアリス』のトランプの兵士のような勅命たちのダンスに翻弄されるユリアーネ、グルベア、メガネ・アンドレアス、ヘンリック――王宮側の人間だけでなく、民衆側の人間もいることがいい。次々と出される勅命に立ち往生をさせられているのが、王宮の人間だけではないということがわかるのが、ものすごくいい。国民も困っている。
ベルンストッフはヨハンに忠告する。「誰もがすぐに変わりたいわけでも、変われるわけでもない」正論だな。
「悪いところは当然取り除かれた方がいいでしょう。でもそれは大変気を遣う慎重な作業のはずです」はまさしく釈迦に説法。
続けて「どうか、この国を愛してください」という。しかしどの言葉もヨハンには届かない。「役を間違えて」いる今のヨハンには。カロリーネ! なんてことしてくれたんだ!
とうとうクリスチャンは疲労の果てに倒れる。腕を押さえている様子がプロローグと重なってつらい。
医者であるはずのヨハンが誰よりも心配しなければいけない、治療しなければいけないにもかかわらず、今、ヨハンの医者の目は曇っている。人間の治療よりも国の治療を先んじてしまう。そこで暮らす人が幸せでなければ、国は豊かにならないのに、いつの間にかヨハンは順番を間違えてしまう。カロリーネの呪いの言葉はそれほどまでに重くヨハンにのしかかる。
今のヨハンにクリスチャン個人は見えていない。王であるクリスチャンしか見えていない。でもそれはかつて枢密院がクリスチャンに上手に名前を書くことだけを求めたのと、何も変わらないんだよ。ヨハンはクリスチャンが名前を書かなくてもいいように、自分の署名は王と同じ価値があることをクリスチャンに同意させるにいたる。つらいわ。映画でもこの場面、心臓がぎゅーってなった、ざわついた。つらかった。
ここでピンクのロココのカロリーネきたー!!!
もうこれで完全に彼女も立派な「宮廷人」ですよ。髪の毛も高く結い上げちゃってさあ! この変わりようよ! もう破滅の香りしかしない! 完全に宮廷あるあるうかれぽんち貴婦人なんだよね、怖い物は何もないっていうあれ。人間としてのバランス感覚を完全に失っているやつ。めっちゃキスするやん。宮廷内やで。危ないで。
しかしはばまい、本当に顔が小さい。髪を結い上げたので、余計に小顔が目立つ。
●第4場 王宮 執務室
天気の悪い日、ヨハン一人だけの枢密院。ひたすら一人で書類仕事。神奈川公演後半から、この場面ではメガネをかけていらっしゃることが多い。しかし書類仕事のときだけにメガネをするのは、もしかしてろうg……げふんげふん。
ランツァウ伯爵が友人のフレミング伯の解任の取り下げを願いにきた。そしてこのときのランツァウ伯爵はすでにヨハンと王妃との関係に気がついている様子。
「王宮に連れてきたのは誰だったかな」「恩義はないのかな」と冷静に詰め寄るランツァウ伯爵にヨハンは「だからこそ伯爵が過去に行った着服に目をつむっている」という。ちゃんと知っていると釘を刺す。けれども「とりわけ情愛にはお気をつけください」と反対に釘を刺され返す。うまいやりとりだ。
罷免されたランツァウ伯爵は「成り上がりがっ」と吐き捨てるように暴言を吐いて退場。もっとも現実的な人間なので、気持ちはわかる。思いあがっているのは間違いない。「なんでも一人でできるわけではない」というメッセージもまさしくその通りである。
●第5場 王宮 ヨハンの部屋
「雨雲に隠れている月よ、その姿を見せておくれ」という芝居じみた台詞でカロリーネ登場。「ここが花のしとねでないことを許してください」と、これまでのヨハンからは考えられないような台詞。こういうことを言っているときには、大体腹の中でせせら笑っていたからな、ヨハン。今は真面目に言っている。破滅の香りしかしない。
苦手なことに「うるさがたを黙らせる」ことを挙げ、しかし今はその話はやめようという。そう、遊びに仕事を持ち込んではいけない。でもここは本当に「遊び」の場面なのかー!? あ、火遊びですか? ヨハンの部屋だしな! だからちゅーする。本当によくキスする(n回目)。でも「みなもいずれあなたを理解する」「でもそれもなんだか嫌だわ」「私だけのヨハンにしたいから」なんてあんなカロリーネに言われたら、ヨハンでなくても狂いそうな予感はしますけどね!!!
ずいぶん小さくて薄そうなベッドが出てきて、これに二人で寝られるのか?と思っていたら、案の定横やりが入って、紛らわしいことにクリスチャンが『オセロー』の台詞を言いながら、ヨハンを襲う。雨や雷のせいもあるけど、これは結構ガチで怖い。カロリーネが声も出ないほどになるの、わかる。いや、言い訳くらいちゃんとしてよ!と思う場面なんだけど、照明の関係もあってか、ものすごく怖い。
この混乱の中で、医者であるはずのヨハンが、クリスチャンを噛む。医者なのに、治さないどころか、傷つける。ついでに心も傷つけた。決定的瞬間でしたね。直前のピンクの雰囲気とがらりと変わる。
ヨハンもヨハンで「野盗かと思いました」って。そんな宮廷の、しかも枢密官房長官という王に代わる存在の部屋に野盗が入り込むかよ……もっとうまい嘘があっただろうに、賢い人じゃなかったのか。「夜盗」「野盗」どちらもあるけれど、どちらだろう。時間は夜だったのかな。
「王妃様の具合が悪いので」ととってつけたように言うのも、あの場の雰囲気としては、最悪だったでしょうね……それでも本気でカロリーネの体調を気遣うクリスチャンは優しい夫だった。カロリーネのこと、ちゃんと好きだもんな、このクリスチャンは。普段はふざけていてなかなか言えないけれども、でも形だけの王と王妃以上に愛しているんだよね。
クリスチャンに「芝居の練習をしておけよ」と言われるヨハン。オマエモナー!クリスチャン!
傷つくクリスチャンを見て、ブラントはヘンリックたちとある芝居を上演することを決意する。たとえクリスチャンを傷つけたとしても「目を覚まして」もらわなければならないのだ。
梅田ではクリスチャンはもう少し自分のことで精一杯で、あまりカロリーネを気遣う余裕がなさそうな態度に代わっていたのが印象的です。
●第6場 王宮 劇場
貴族の特権が次々となくなることで、役者たちも豊かになったのか、豪華な衣装で現れるヘンリック。民衆は少なからずヨハンの政策の恩恵を受けているという証でもありましょう。まあ、次の場面への着替えの時間の問題かもしれませんが。
芝居を見るヨハン、クリスチャン、カロリーネの三人は最初こそ気まずい雰囲気を出すが、「おけがは大丈夫ですか」「大丈夫」らしい会話をかわきりに芝居がおもしろくなって柔らかい雰囲気になる。束の間の穏やかな時間でしたが。
ここで! 白峰ゆりが! ソロを! 歌ったー! あー!!! すごい場面に出くわしたと思いました。ダンスのゆりちゃんのソロだよ、ソロ。全部同じ歌詞だから、何を言っているのかよくわかる!(こら)
公演プログラムにあった「北欧の神話」がここの劇中劇に活きていて、「化けるのが得意♪」と歌われるオーディンは北欧神話の代表的な神様だそうな。
「いにしえの歴史書」にある「恋の物語」の主人公オーディン、一目惚れした王妃に取り入ろうと、騎士や宝石商に化けるもどうもお気に召さない様子。最後に医者に化けて、王妃の心をゲット、二人で楽しくダンスをしているところ見て王は衝撃を受ける――観客はみな、これがヨハンとカロリーネのことだとすぐさま察知し、クリスチャンはいたたまれなくなり、その場を出て行く。周りの貴族たちは冷たく笑う。ユリアーネ様の笑いのすごいことといったらないわ。
劇中劇のとき、ブラントはずっとクリスチャンを見ている。凝視している。ヨハンのことなんかまるで見ていない。ブラントにとってクリスチャンが「王である」こと以上に大切な存在になっているのがわかる。いい!
「なぜ上演を許可した」とヨハンはブラントに詰め寄るが、「王に必要なのは自分ではなく名医のヨハンだから、これ以上、ヨハンはクリスチャンを傷つけないで欲しい」というブラント。なんて不器用なんだ。でもとても優しい。だってブラントにはちゃんとクリスチャンを故意に傷つけたという自覚があるんだもの。
動揺の激しいカロリーネの背中をエイベンは優しくさする。このとき、エイベンはどういう気持ちだったのだろう。自分が思いを寄せていたヨハンと自分の女主人がまさか不倫なんて、と思ったのだろうか。それとも噂はやはり本当だったのかと薄々気がついてはいたのだろうか。どちらにせよ、カロリーネを見捨てないあたりが温かい。「気立ての良い子」ということですね。
役者たちは「新しい思想や政策なんかどうでもいい」と言うし、虚構の記事に惑わされてヨハンがクリスチャンに怪しい薬を飲ませていることを信じてしまう。検閲がなくなったので、ヨハンはこれを認知していなかったし、この虚構の記事をばらまいているのはユリアーネ側の人間であるグルベアっていうのが、また……っ!
映画では、ヨハンとカロリーネの不倫の記事が多く出回ったことで、ヨハンは苦し紛れに検閲を復活させるにいたる。くそったれ!という気持ちを表すために、あらあらしく椅子を蹴り飛ばすマッツ・ヨハン。本作品ではその場面がないのもよかったな、あれは心が締め付けられるから……映画でもざわついちゃったからさ、私……。
ヘンリックの「ロクに日(太陽)が昇らない」デンマークには「絶対の光、王が必要」といい、スザンヌが「クリスチャンが日に日に沈んでいくのを見ていられない」という台詞のかけあいが実にうまい。
国民にも改革が受け入れられていないことに気がつくヨハンは口をぽっかり開けている、なんて間抜けな顔なの、でも美しいよ。すごい顔だった。
そのとき、舞台下手前方で思わずうずくまってしまうヨハン。ここの舞台写真、欲しかったな。「私ひとり♪」「いつから全てがいつから愛しかった♪」と力なく歌う。
ヨハンにのみスポットがあたり、後ろでは場面転換。仮面舞踏会へ。
●第7場 王宮 仮面舞踏会
この仮面舞踏会はつなぎのような感じで、全員大集合で豪勢に、という感じではない。仮面舞踏会にやってきた子供達が騒いでいるところで、ビューロー男爵夫人が「庭師まで」とさげすみ、「仮面を被っているのだからわからない。あなたが黙っていてさえくれれば」とヨハンは言う。そう、ヨハンは「黙っていてもらえなかった立場」の人間である。
ヨハンは人混みに消えていき、この場面の主人公はブラント。愛人であるソフィーに「君は自分が何者か、考えたことある?」と。それに対するソフィーの名回答よ!
「買ったドレスは覚えていても、領収書は忘れたわ」という名回答たるや! すばらしい! この台詞のセンスよ! 本当に指田先生、信頼している!!! 使う!!!
続けて「そうね、でも最初に王宮を歩いたときの景色は忘れないわ」と「ソフィーらしい」回答をし、仮面をつけて二人で踊る。仮面をつければ、今は「何者でもない」のだから。おーおー! 盛り上がってきたぞ!
この間、クリスチャンとカロリーネの二人は舞台奥の装置の上で仲良くしている子供達三人、王太子フレゼリク、テレーサ、ハンス(月瀬陽)を見ている。芝居の中心はブラントとソフィーなのに、二人は子供たちを見ている。子供たちが大人になるときには家柄や身分など関係なく人と人が結び合わさりますように、自由な世の中になっていますようにという願いや自分たちのように傷つかないようにという祈りのようなものを感じる背中でした。もっとも男二人と女一人という配分は不吉でもありますが。観客は悪いことも予感してしまう。テレーサは「ハンスと先生、二人を恋人にする」とテニスの場面で無邪気に言いますしね。
仮面舞踏会に仮面をもたずにやってくるヨハンに、すっかり意気消沈したクリスチャンはまともに顔を合わせられず、逃げていく。さらに枢密院からはフリードリヒ2世を引き合いに、彼の暗殺まで薦められる始末で、自分の身の処し方がわからない。どんな顔をして会ったらいいのかわからない。やりきれない。
ロココを脱ぎ捨てたカロリーネ、そして赤い衣装を脱ぎ捨て、理性の色を取り戻したヨハン。衣装も印象的です。
●第8場 王宮
うっかりヨハンとカロリーネは二人きりになってしまう。さらにうっかりが続いて泣いてしまうヨハンは「私は泣いてはいけない」という。それは「医者」だからでしょう。そう、ヨハンはここでもう「医者」に戻っている。医者は他人の病を治療するのが役割であり、自分が病を得ても、治療をしてくれる人はいない。つまり「傷ついてはいけない」ということなのでしょう。他方、カロリーネにはまだ少し未練がある模様。
そこに狙っていたかのようにランツァウ伯爵が登場、「これであなたも功績が残せますね」というヨハンにランツァウ伯爵は「この期に及んでまだ強気でいらっしゃるとは」と。ここのランツァウ伯爵はヨハンを本当に強気だと思っているのか、芝居の強気であると思っているのか。これは観客によって意見が分かれそうです。順当にいけば前者でしょうが、まなはるが演じていることを考慮すると後者の解釈もおもしろいかもしれません。ただ「国を負うものは君ほど甘くない」という台詞を考えるとやはり前者でしょうか。
兵士たちがヨハンとカロリーネを取り囲みますが、そこに助けに現れるブラントが! もう! これが!!! たまんねえええええ!!!!! ありがとう、指田先生。
「お前のやったことは許せねぇ」「でもあの日、見たことのない朝焼けを見せてくれた!」っていうんだ。ヨハンをかばってくれるんだ。もう、この演出に涙だよ、私は。最高だよ、ブラント。ありがとう、すわっち。あなたの代表作にもなるわ、これ。
ここの兵士と次の場面に出てくるクリスチャン率いる兵士のメンバーが若干違うのは、着替えのためもありましょうが、こちらがランツァウ伯爵の私兵で、次の場面が王直属の兵士と考えると、もしかしたらまだこの時点でクリスチャンは処刑の書類にサインをしていなかったのかもしれないとも考えられますね……つらい……。
●第9場 朝 海辺
ブラントのおかげでヨハンとカロリーネは逃げることに成功したものの、海辺に辿り着くヨハンにカロリーネは不信感を覚える。こんなところに来ている場合ではないのに、と。つまり、未練がまだ残っているカロリーネは逃げる気でいるのに、ヨハンはもう逃げるつもりがないのである。この対比がお見事!
カロリーネのケープは『1789』のアントワネットや『シラノ・ド・ベルジュラック』のロクサーヌがまとっていたものでしょうか。
ヨハンは「最期にあなたとこの海を見たかった」と。やはりヨハンはもう覚悟が決まっている。海にはもう夏至祭のときのように「悪いものを避けてくれる炎」はない。「何者にもなれなかった、なろうとしてはいけなかった」「今はもう何も見えない」という。でもあなたは確実に医者であったし、クリスチャンやカロリーネの人生の光であったことは間違いないんだよ~~~>< 見えていたときもあったはずなんだよ~~~><
海辺には兵士をつれたランツァウ伯爵ではなくクリスチャン自ら登場。「今まで王として自分で考え、行動したことはなかった。今がそのときだ」と。もう……芝居が下手なんだから、クリスチャン……そんなこと、思ってないでしょ、本当は。芝居が下手なんだからもう……。
ヨハンがクリスチャンの言動が芝居だとわかっているかどうかは定かではありませんが(わかっていて欲しい!とは思う)、「愚かな王妃」「等しく愚かなブラント」悪人ぶりながらカロリーネやブラントを許すように口悪く彼らを罵りながらクリスチャンにお願いする。本当、ここが耐えられない。腹の中で思っていることと全然違うこと言っているんだもの、彼らを救うために。つらすぎる。苦しい。
「こんな国、愛してはいなかったんだよ」という台詞もクリスチャンとだまし合いになっているみたいで、つらい。だってヨハンだってそんなこと思っていない。ベルンストッフが頼むまでもなく、ヨハンは確かにこの国を愛していた。
「身体と心を学んでいたからどんな人間も意のままに」できたというけれども、じゃあなんで「うるさがたを黙らせることが苦手」とか言っちゃったのよ、矛盾しているでしょ、嘘つき!>< もうひたすらここは苦しい。
「悪人にはふさわしい幕切れ」というのもオシャレな台詞でした。幕切れって、あなた……。演劇は苦手のくせに……。
それでも最後のふんぎりがつかないクリスチャンにヨハンは「私たちがやり残した遊びをしましょう」といって、決闘へと持ち込む。刃を挟んで向かい合うヨハンは、むしろ嬉しそうな顔をしている、微笑んでいるのだ。決闘の直前なのに、殺されるのに。だからヨハンはクリスチャンに殺されて幸せだったと思わないとやっていられないんだよ><
梅田になってからは、殺されようとしているヨハンはもう少し真面目な顔をしていたかな。個人的には微笑んでいる姿が好きでした。
決闘と言いながらもヨハンは全然戦う気がなくて、あっさり殺される、というかむしろ積極的に殺されにいく。切ない。
この場面、第Ⅰ幕の第1場と呼応として「朝 海辺」なんですよね。「朝」なのはこの二つの場面だけなんだよ……うまいな、本当、指田先生。
「美しい」という言葉を残して息絶えるヨハン。同時に海は赤く染まる。これはヨハンの胸に血がにじんで赤が広がっていくことの比喩でもありましょうし、炎が悪いものを燃やし尽くしきったという証でもありましょう。ヨハン(悪)を飲み込んだ「海」――最後の場面は「海辺」ではなく「海」となり、エピローグへと続く。
●第10場 海
ヨハンの死体が兵士によって引きずられて退場する一方、センターではスポットを浴びながらずっと客席に背を向けているクリスチャンの周りをユリアーネ、グルベア、ランツァウ伯爵、メガネ・ベルンストッフ、宮廷の女3人娘がぐるぐると回る。国は急激に時計の針を元に戻していく。
ここでソフィーがブラントの処刑を悲しんでいる様子がないのが怖い。もしかしたら仮面をつけているのかもしれないけれども、悲しむ余裕もないなら、それはそれで悲しい。
それにしても「死刑囚から似た者を見つけ出し」というのは随分無理があるな、とは思いました。ユリアーネ様よ。
カロリーネの処置に対して「お気の毒に」というランツァウ伯爵だが、ユリアーネは「愛することも愛されることも何も分からなかった私には」「伯爵のお考えがわかりかねます」と言われてしまう。ユリアーネとカロリーネは確かに対照的な生き方をした女性だったといえるでしょう。
「正しい王妃にはほど遠かった」とカロリーネは言いますが、ではユリアーネが「正しい王妃」かどうかはわかりません。ヨハンの処刑を促すグルベアの台詞にも「国民は正しい王を求めています」とありましたが、何が「正しい」かなんて、そう簡単にはわからないし、それは時代によっても残念ながら変わってしまうものなのでしょう。
ベルンストッフは亡くなり、メガネが報告に来る。王太子フレゼリクとの未来を語るのは、逆行する時代の中で一部の人にとっては一筋の希望だったでしょう。
中世世界へと時間を逆回しにする貴族たちにクリスチャンは「ありがとう」という。感謝の気持ち、なんだよな。つら……めっちゃつらい……。「ありがとう」ってあなた……自分に形だけの王を強いる人たちに「ありがとう」って……どんな気持ちになったら言えるのだろう。
孤城に幽閉される直前にクリスチャンはカロリーネと会えるよう、密かに手を回していた。
囚人服のようなカロリーネにクリスチャンを穏やかに迎える。そして二人はヨハンに思いを馳せて芝居は終わる。
海辺で友情を育み、愛情を知る。トリスタンとイゾルデが誤って飲んでしまった毒薬はヨハンにとっては「海辺」だったのでしょう。望んだ通りに、カロリーネとの思い出がつまった海辺で、クリスチャンの手で殺され、海に還っていけるのだから、彼を幸せだと思わないと本当にやっていられない。史実通りにしないでくれて、本当にありがとう、指田先生。
ヨハンの沈んだ海の近くで召使いの女と男爵は相変わらず密会を続けている。穏やかな愛情の炎を感じる。派閥が違ってもかなえられる恋はある。身分が違っても叶えられる恋があったかもしれない。少なくとも21世紀の現代ではそうあってほしい。そんな希望を感じました。
●フィナーレ
ここは! 唯一! 愛すみれが笑っている顔が見られるよ! めっちゃ貴重な場面だわ。カーテンコールの挨拶が終わると、また優しく笑ってくれますが、本編ではここだけなんだよ!
ユリアーネのときはもうずーっと怖い顔しているし、低い声を出しているし。
まなはるが娘役を呼ぶときに、指でちょいちょいするのもキャー><ってなるし、その髪の色はちゃらすぎるぞって感じだし。
あーさも黒い衣装、髪の毛もほぼ黒かな? オールバックで、きめきめです。おらおらです。あーさがあがたと二人で踊っているところにすわっちが合流するのですが、その直前に一回転するの、あれ、本当にいかん……すわっち、それはいかん、なんて色気を振りまくの、あなた……意識が飛ぶかと。
デュエットダンスの最初がこれまた神ですね! 去って行くはばまいちゃんの手を、前を向きながらすっととる。逃さない。やり手だよ、これ、すごい。
デュエダン自体も素敵でした。はばまいが後ろからあーさに抱き着いて、スリットの入っていない方の脚をあげる振付がとても好きです。
歌がなかったのが残念かなーと思うけれども、本編で沢山歌っているので、いいとします。
指田先生、この作品を朝美絢主演で書いてくれて、本当にありがとうございました。はばまいもしっかりあーさに食らいついていこうとしている様子がうかがえました。あとは場数を踏んで芝居がもっとうまくなるといいですね。度胸は充分にありますから。台詞回しもちょっとクセがあるので、それが凶と出るか吉と出るかは賭けになってくるかと思われます。
そして劇団よ、頼むから脚本付きの『ル・サンク』を出してください。魅力的な近代の要素をちりばめつつ、きちんと近代批判も取り入れている演劇なんて、外部でも滅多にお目にかかれないですよ。
そしてここまで読んだ人がいるかどうか知りませんが、2万8千字超えですわ。あほなのか?w 感想記事としては二本目なのにw とにかくとても良い作品であったと思います! 私は大好きです! 最前列で観劇できて、本当に幸せでした。
月組『応天の門』『Deep Sea -海神たちのカルナバル-』感想
月組公演
平安朝クライム『応天の門』-若き日の菅原道真の事-
原作/灰原薬「応天の門」(新潮社バンチコミックス刊)
脚本・演出/田渕大輔
ラテン グルーヴ『Deep Sea -海神たちのカルナバル-』
作・演出/稲葉太地
私は「在原業平」という単語を見たり聞いたりすると正気でいられない性質の人間です。だから「あのなり様は私の解釈のここと違う」とか「解釈違いも甚だしいわい!!!」とか、本当に面倒くさい人間なのです。
しかし、もともと漫画『応天の門』のなり様は「FOOO!!!解釈ほぼ一致!」みたいな感じで、かなり好感をもっていた中で、キャストが「鳳月杏」と知り、これはもう優勝☆と思っていたのですが、観劇したら国宝級の解釈一致ぶりで、ホントちなつに金一封を贈りたい気持ちです。ありがとう、ちなつ。好きだよ、なり様。
『応天の門』のなり様の何が良いかといえば、一言で言えば「余裕があるところ」です。どうしても藤原高子との恋愛模様にスポットがあたると、恋に精一杯で、それを政治の力によって阻まれた悲運の貴公子みたいな感じになりがちなのですが、そもそもあれだけの数と質の和歌を、男が和歌を詠んでも仕方がないと言われていた時代に、詠みこなしたことを考えると、たぶんボケ担当というか、結構余裕があった人だと思うんですよね。心の中ではいくらでも悪態をついていたでしょうが。だからちなつが「女性を見るとすぐに愛想を振りまく一面」「高子が忘れられない一面」「検非違使としての仕事をこなす一面」「居心地の悪い、微妙な政治バランスを見定める朝廷での一面」の四つを上手に演じ分けていたのがもう本当に本当にありがたくて、たまらない。すばらしいよ、ちなつ。ありがとう、ちなつ。武官姿にブーツとか、本当、考えた人は天才だし、ちなつの脚は長かった。道真との出会いが漫画の1巻そのもので感動したし、最初から業平が上手花道から出てきてくれるのもありがたかった(そこ?)。
「もしかして、人妻ですか」と道真に聞かれて、あわてて扇で顔をあおぎ、知らんふりするところのボケっぷりや昭姫の店で女の子たちを口説く調子に乗った場面なんか、本当に最高でした。ずっと見ていたい。
あと『応天の門』において大切なのが「道真にツッコミを入れられる一面」でしょうか。このバディがマジでたまんねぇな!!!
だから最初のほう、第3場の大学寮で「鬼なんていませんよ」という道真坊ちゃんに対して、業平が「そう、鬼はいない」みたいに答えるのは、脚本的には「んー!?」とめちゃめちゃ違和感を覚えました。そこは業平に鬼の存在を信じさせておいた方がいいんじゃないの!?と。ここは東京でどうにかならんかね……原作でも業平、道真と何度も怪異事件を解決しているのに「まさか鬼!?」とか「まさか物の怪!?」とか言って、「だかからそんなのいないって言ってるじゃないですか」みたいな道真のツッコミが入る、というやりとりがとても良かったんだけどなあ。
ちなみに業平推しの私としては原作5、6巻の「長谷雄、唐美人に惑わさるる事」と14巻の「在原業平、伊勢に呼ばれる事」(「呼ばるる」ではないのね……など)が好きです。あとは6巻の「源融、庭に古桜を欲す事」(「欲する」ではないのね)も好きです。源融がまおくん(蘭尚樹)であったときの私のうれしさといったら……っ!
芝居の大筋は7巻の「藤原多美子、入内の事」をメインに、5巻「都にて、魂鎮めの祭りが開かれる事」(こちらも「開かるる」ではない)をサブテキストにして、あとは毒を飲むのが伴善男(夢奈瑠音)(小顔すぎてほとんどがもはやヒゲだった)ではなく、藤原常行(礼華はる)に変更されるなど、タカラジェンヌの番手似合わせてアレンジされておりました。原作がまだ完結していなかったり、重要人物である島田忠臣が登場しなかったりすることもあり(そして宣来子も不在。『蒼穹の昴』もそうでしたが、宝塚は原作の主人公の婚約者や結婚相手が設定されないことが多いな)、若干「解釈違い……?」と思うところがないわけではなかったのですが、基経の吉祥丸への激重感情とか高子の父兄たちの手駒にすぎないことへの在り方とかは上手に膨らませて演じていたなと思います。
そして! なんといっても! 敬語で嫌味を言うれいこちゃん(月城かなと)の道真が! これまたちょっと漫画とは解釈が違うかな、と思わないでもないのですが、まー可愛いこと、可愛いこと! 世間を知らない坊ちゃんですこと! オホホホホ! ういヤツよのう! 若いのう! 若いのう! ……と思っているところで気がついた。私、もうその意味で若くないんだ、と。黒幕が政治のドンだと気がついたら、心でどう思っていようと、手を引いてしまうような大人の側にいるんだって。そう考えたら、なんだかすごく悲しくなってしまった。そんなことには気がつきたくなかったよ、ワトソンくん……。
だからこそ、高子と一瞬だけでも目が合ってしまって「理に適わないことが嫌い」と思い直し、道真たちと再び合流する業平、最高なんだよな。まさに孔子の「人知らずしてうらみず、また君子ならずや」(他人に認められなくても腹を立ててはいけない。そういう人を立派な人というのではないだろうか)といったところでしょう。
そんなわけで楽しく見ました、平安朝クライム『応天の門』。うみちゃん(海乃美月)が昭姫と聞いたときには「おかしな恋愛要素、入れるなよ……」とか「たぶち先生、頼むで……皆殺しにしないでよ」とかいろいろ思いはしたものの、楽しかった。「双六は7割が戦略、運頼みのバカ相手にいかさまなんてしませんよ」って格好良すぎるだろ。しびれるぜ。最後に道真と昭姫とで「俺たちの戦いはまだまだ続く!」となっていたのも、まあよいでしょう。
心残りといえば高子はみちるちゃん(彩みちる)で見たかった……っ!ということくらいですかね。でもみちるちゃんの白梅、とてもキュートだった。『夢介』のひまりちゃんのたぬきメイクも可愛かったけど、今回のみちるちゃんの白梅も、決して美人の役ではなかったけれども、とても愛らしく仕上げてきた。良かった。なんなら出番は高子よりも多いくらいだったかな。
その白梅と一緒にいることが多い紀長谷雄はあみちゃん(彩海せら)。メインの台詞がないときも二人でちょこちょこ演技をしているのが可愛いにもほどがあるよ、この二人! 長谷雄が紀氏であること、紀氏と業平は婚姻関係があることについては触れられませんでした。
道真、白梅、長谷雄と並ぶと元雪組勢がそろって何組を見に来たのかと一瞬混乱し、花の色男ちなつの業平が出てくるといっそう混乱する仕掛けになっている。おだちん(風間柚乃)が出てくると、なるほど月組だったと納得する始末。
おだちんの基経、怖ぁ~>< そしてこじらせ具合が半端な~い! おもしろすぎるわ。
1回しか会ったことがないのに、たまらなく気になっている、そしてもう会えない、自分とは正反対の凡人である吉祥丸、そしてその弟の道真にラストはしっかり「アンタがやったってことはわかってんだよ!」と主上の前で釘を刺されてしまう基経くん、ねえねえ今の気持ちをお姉さんに教えて御覧?と後ろをつけて回りたい。聞き出すまでストーカーしたい。殺されること間違いないけど。「権謀術数~♪」の曲がプログラムに載っていないことが残念。
一方で、これで退団してしまう人が多いのが淋しい本作。
組長のるうさん(光月るう)の良房、めっちゃ怖かったし、あの基経に「まだ藤原はやらない」と釘を刺すところなんか冷や汗が流れるかと思ったくらいでしたが、弟の良相に先をこされて内心穏やかでない様子もまたうまい。こんなに芝居が上手い組長が抜けるなんて、淋しすぎる……。
そしてからんちゃん(千海華蘭)の清和帝、めっちゃ可愛かった。幼いながらも民のことを考えていて、そうあの朝議にいた誰よりも純粋に民の幸せを願っていて、もうもう! 末尾の「たも」とか可愛すぎて眩暈がするし、多美子のまのんちゃん(花妃舞音)と並んでも全く遜色のない若さよ。人魚の肉でも食べているのではないかしらん。まのんちゃんもめっさ可愛かった。なんという幼女っぷりよ! まさに多美子!
かれんちゃん(結愛かれん)の大師様も美しかった。圧巻の美しさだった。出番が三回しかないのがもったいないくらいだったけれども、むしろ三回目の道真の悪夢に出てきた大師様が美しいというか、妖艶で、そんなかれんちゃんを拝むことができてありがたかった。あの悪夢の場面、良かったよなあ。
そしてらんぜくん(蘭世惠翔)。若き日の高子よ。こちらも貴族の姫君として非常に美しいかった。この高子がじゅりちゃん(天紫珠李)の高子につながるの、ものすごくよくわかる……という感じでした。『伊勢物語』第六段「芥川」を、これまたロマンチックに演じてくれました。ありがとう。祭りのときの町娘も愛らしかったです。
気になったのは「高子」の発音が「たかこ」だったことと「百鬼夜行」が「ひゃっきやぎょう」だったことかな。前者は「たかきこ」が転じて「たかいこ」となった説が有力だしな……とはいえ、どちらも原作漫画準拠なんですけどね。
それにしても原作者の灰原薬が公演プログラムに寄せた文章、うまいですね。座付きの演出家の先生も見習った方がいいと思われる方もげふんげふん。
あとは高子に送られた和歌の意味がわからないと言っている観客がいましたが、あれは業平の和歌の中でも超有名だから知っておくといいですよ。もっとも口語訳はちなつが歌っていましたけどね。「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして」(月は昔のままの月だろうか、春は昔のままの春だろうか、いいや月も春も昔のままではない。けれども私自身は昔のままである、まだあなたを愛しています)。在原業平は変わらないわが身を歌に詠み、小野小町は「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめさせしまに」と変わってしまうわが身を嘆く。平安時代初期の美男美女の物思いや、これいかに。
ショーは、コンセプトも好きだし、開演前の舞台装置も美しかったし、「ダイブ」を聞いただけでうっかりドキドキしちゃうくらいでしたが、いかんせん衣装が……私、この人の衣装、ダメなんだよね……今回の「深海」モチーフにはぴったりの名前なのに、デザインするものはどうしてそれなの……どうしてそれをマーメードの衣装にしようと思ったのか、怪獣じゃないか。どうしてそれを真珠の衣装にしようと思った、『BADDY』のホタテを見習って。ハットの場面が多くて顔が見えないじゃないか。マントルの場面の衣装もよくわからなかったなあ。デュエットダンスは大人っぽいタンゴで素敵だったのに、ギラギラしすぎて眩しすぎて、ちょっとオペラでは見られないくらいだった。もっと色っぽい衣装があったでしょうに。
ターバンのちなつを見れば、『金色の砂漠』のフィナーレを脊髄反射のレベルで思い出す。これは似合っているんだけどね。とはいえ、れいこちゃんの相手役をちなつにさせる必要があったのか、貴重な娘役の出番を一つ潰すんじゃないよ、いなば先生!と思ってみたり。退団者のうたうまさんと踊り子さんがれいこちゃんと歌う・踊るという場面でもよかった気がする。
娘役といえば、みちるちゃんの出番がとにかく少ないんだ、今回のショーも。『FS』のときも思ったんだけどさ。組替えは栄転であるべきでしょう! あみちゃんも単独センターの場面があってもいいのでは!? あともうちと生徒を小出しにしてくれ~! 頼む~!
こありちゃん(菜々野あり)やそらちゃん(美海そら)はそりゃ可愛かったけど、なんだかちょっとな~とモヤモヤしてしまうショーでした。「海神が収める世界の祭り」といいますが、「竜宮城の暮らし」くらいにして、もう一回別の人でやってもいいんじゃないかな。お芝居でもいいかもしれませんが。
なんだかられいこちゃん・ちなつ・おだちんの三人とそれ以外みたいになっているのが気になります。それを言ったら星組もことちゃん(礼真琴)とそれ以外という感じになっているのは否めませんが。下級生も育ててくれ~! もうちょっとこだしにしてくれ~!
栗田優香先生のショー作家デビューが控えていますが、今時宝塚の演出家を希望する人の多くはショーを作りたいのではないでしょうか。宝塚でないとできないことですからね。新しいショー作家が出てこないと、いつまでも同じようなメンバーで回すことになっちゃいますよ、それではアイデアが枯渇してしまうのも仕方が無いでしょう!と思ってしまいます。
竹田悠一郞先生もだいすけ先生に憧れているようだから、いつかショーを作るかもしれない。
指田珠子先生のショーも見てみたいな。熊倉飛鳥先生はどうかな。
演出家の先生たちにもインプットの期間、お休みの期間をしっかりあげてほしいものです。
外部 木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』感想
木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』
作/鶴屋南北
監修・補綴/木ノ下裕一
脚本・演出/岡田利規
出演/成河、石橋静河、武谷公雄、足立智充、谷山知宏、森田真和、板橋優里、安部萌、石倉来輝
木ノ下歌舞伎初心者です。
いやはやなんとも不思議な時間を過ごしました。もういっそすがすがしいくらい何もわからない。でもそのわからなさは全然不愉快ではない。私はわりと「わかる」ことに価値を置きがちな、面倒くさい、理屈っぽいところがある人間だなという自覚があるのですが、今回の舞台は「なんなんだこれは……」と思う一方で、でも確実に何か意図があるのだろうとも思えました。私がその意図に至らないだけで。
もっとも私は原作となっている歌舞伎が好きで、もともと話をある程度知っていたから楽しめたのだろうとも思います。だからこそ歌舞伎の内容を知らない人が見たらどうなるのだろう、どういう感想をもつのだろうと非常に興味がわきました。けれども、そもそも歌舞伎の元ネタを知らない人は木ノ下歌舞伎を見ようとは思わないのかしらん。役者のファンだと見に来てくれそうかな、と思うと、推し活や推し事というのは、もしかしたらアーカイブを残していくことの裾野を広げる役割を担っているといえるのかもしれません。
同時に歌舞伎が好きな人には、もしかしたらこの作品はウケないかもしれないな、とも。そう考えるとターゲットを絞るのも難しい作品だなと思う次第。
舞台は廃墟というかさびれた貴族の別荘か何かのような。ヨーロッパというよりはギリシア風に見えたのは柱の印象のせいでしょうか。プールというか池のようなものがあるせいでしょうか。この一段低くなった水の中に音響さんが一人いて、電子音のための機材やら何やらも確認できました。途中、マイクを使う演出があったのも不思議だったな。プロセニアムアーチのようなものが少し下手向きに開かれていたかな。
開演時間になると、特にそれらしいアナウンスもないままにぞろぞろと役者たちが出てきて、着替えたり小道具を用意したりして、そうこうしているうちに清玄と白菊丸が心中しようとする場面が始まる。それ以外の役者は何をしているかといえば、私達観客と同じように舞台の上でその場面を一緒に「見て」いる。非常にわかりやすいメタ表現である。
そして演者たちはずーっと棒読み。もちろんわざとやっているのだろうし、わざとやっているということも伝わってくる。だってこの人たち、めちゃめちゃ発声がいいのだもの。何を言っているのかちゃんとよく聞こえる。じゃあなんで棒読みかといえば、たぶん芝居になんらかの批判精神を読み取らせたいからでしょう。それが歌舞伎の内容を現代に置き換えることを指しているのか、それとも他の何かなのかは、あまり判然としなかったけれども、とにかく役が変わっても演者たちはずーっと棒読み。
では何でキャラクターを演じ分けているかといえば、あばら屋に不釣り合いだと思われるほどのカラフルな衣装でしょう。それも観客のいる前で準備するというおもしろさ。
あとは体の使い方ですかね。しなやかにのびやかに、みんなよく体を鍛えているのだろうと感じました。争いの場面は歌舞伎の典型的な掛け声や動きもあって、でも型の中にもちゃんとそれぞれの登場人物たちの気持ちがのっていて、本当にうまいなあ、と。この人たちが本当に感情をのせる台詞をいいながら芝居をしたら、歌舞伎そのものではないのに歌舞伎みたいな暑苦しさを感じてしまうのではないかと思うほど。よく通る声とよく動く体でした。すごい。
それだけに残念なのが、センター奥と上手手前に置かれたあらすじや場所を紹介する文章ですかね。「序章」「第一章」とかはあった方がいいし、場所が急に変わるところもあるので、誰がどこにいるのかくらいの情報は提供してもらえてありがたい、親切なのですが、たとえば「清玄が白菊丸は心中しようとしたが、清玄だけ生き残った」みたいな文章は完全にネタバレじゃないですか。「清玄は白菊丸と心中しようとしていた」だけでいいと思うよ。「清玄だけ生き残った」は別に書かなくても芝居を見ていればわかるよ、原作の歌舞伎を知らない人でもさすがにそれはわかるだろう、という話の流れが書いてあることを多くて、せっかく芝居を見に来ているのに、説明されるのはなんかちょっとなあ……と思ってしまいました。
でも、もしかしたらそれも何かの、一つの狙いだったのかもしれません。つまり、先に観客にあらすじを紹介して、それを棒読みの演者が演じて、さて観客は何を、どんなクリティカルなことを受け取るか、という。ブレヒトの異化効果的な。しかし、私には難解すぎたよ、パトラッシュ。どんな意図があったのか、ぜひとも知りたいところ。
批判精神といえば、わかりやすかったのは2幕のお十でしょう。桜姫の代わりにお十が女郎屋へ売り飛ばされようとしている場面で、観客に向かって「さて、ここで問題です。今売られようとしているのは何でしょう」「またモノ扱い」みたいな台詞があったと思うのですが、ここだけはなんだかものすごーくあからさまに脚本が作られているなという感じがしました。
ちなみにお十役の安部萌は、随所でポーチを振り回して存在感をアピールしており、台詞がないときもぶらぶらと動いているので、なんとなく視界に入ってきてしまい、私はなんだか落ち着かないなと思ってしまいましたが、あれにも何か意味はあったのでしょうかね。あったのだろうな……。
あと、彼女はトップスが肌色っぽい色だったのかな、最初に見たときは「上半身……着てる?」という感じでひやひやしました、驚いたわ。
驚いたといえば、非人たちの役が印象的だった石倉来輝は、最初に出てきたときにTシャツだったのですが、後ろを向いたら、背中がむき出しで「おお!?」と思いました。どんなアバンギャルドな設定なの。
私はもとの歌舞伎が結構好きで、ただ、清玄が桜姫の子供を育てる羽目になるところまでがおもしろいと思っていて(「上の巻」が最&高!)(宝塚の一本物も大抵一幕が好きな女)、途中はあんまり記憶がなくて、最後の桜姫が清玄の幽霊に、「自分の子供がすぐ近くにいること」「権助が父と弟の仇であること」を教えてもらい、権助と子供を殺す場面は強烈だな、と。
最初に見たときの「あー!?」という新鮮な感情は今も覚えているけれども、だからといって桜姫よ、子供まで殺すことはなかったのではなかろうか、とも思いました。いくら仇の子供とはいえ、子をなしたときはまだ父も弟も生きていたわけだし、無理やり一つになったとはいえ、自分は顔もわからない相手と同じ彫り物をいれるくらい相手にぞっこんになった、つまり一時は本当に愛した人間の子供なのだし、子供そのものに罪はないわけだし……とはいえ、そう思ってしまうのは、現代の感覚であり、吉田家が落ちぶれていったのはそもそも父が亡くなり、家宝が盗まれたことが発端なのだから、やはり仇の子は仇、殺さなければならないというのが江戸の感覚なのかもしれません。
だからこそ、今回は子供は生き残るかなとも思ったのですが、もう出てきた最初から子供なんて全く大切にされていないというか、小道具の赤子がなんというか、まったく有機物の香りがしなくて、やはり最終的には桜姫に殺されてしまうのでした。痛々しくなかったのは、赤子がいかにも赤子という姿でなかったからでしょう。なんだか粘土の塊みたいな子供だったからな。それは良かったのかもしれない。
小道具といえば、清玄の幽霊もなかなか滑稽な仕掛でした。早着替えとかどうするのかな、と思っていたら、そうきたか。しかし、あんなチープなナリの人間(幽霊)に「事実」を語らせるのは、なかなか気が利いているな、と。見た目でヒトを判断しちゃダメよってことか。
観客の芝居をしている役者たちは、歌舞伎の大向こうのように「ポメラ二屋」「ダルメシ屋」「スガキ屋」「ブルガリ屋」「シルバニ屋」「ベニ屋」と声をかけていて、そういうものかーと思っていたけれども、最後に桜姫が権助と子供を殺して「ハレルヤ」と言ったときに「つながった!」と思いましたね。何がどうつながったのか、「〇〇や」が一緒なだけじゃないか、という感じがすると思うのですが、体感的に一回りした!という実感が得られました。お腹にストンと落ちたというか。観客がずっとかけていた声を、最後に役者が観客にかけるという、これよ! これこれ!
歌舞伎にあるはずの吉田家お家再興のお祭りの大団円がなくて、この「ハレルヤ」で終わったのがまさに「ハレルヤ」でしたわ。粋な演出でした。取り返した都鳥でさえ放り投げてしまう。自分にはいらないものだと桜姫は態度で示す。家に縛られない。よかったわ~!
ただ、東京の初日とはラストが変わったという話もあって、一体最初はどんなラストだったのだろうかと気にもなります。
成河はもうさすがにうまい。何をやらせても安心。訓練されている。にざ様(片岡仁左衛門)の動きをよく研究したのだろうなという感じがする。
石橋静河は今回が初めましてだと思うけれども、ポスターのときも「少しちゃぴに似ているかな?」と思い、芝居のときにも思いました。桜姫の大きなフードも彼女に合わせて絶妙に計算されていて、しっかり顔が見える仕様になっていたのはすばらしかった。こちらもたま様(坂東玉三郎)の面影を残しつつ、しかしかなり主体的に動くキャラクターになっていたのがよかったです。桜姫が服を脱がせるとか!>< 赤髪の桜姫の堕落っぷりというか、たくましい成長っぷりは本当に感心しました。
粟津七郎を演じた森田真和は、ずっとつま先立ちだったのが気になりました。これも何か意味があったのかな。
箱は穂の国とよはし芸術劇場PLAT主ホール。電車の音が気になる人もいるようですが、私はわりと好きです。駅からすぐ近いのもいいし、小ぢんまりした感じもいい。椅子のメッシュは賛否がわかれるかもしれませんが、私はとくに嫌いということはありません。傾斜もあってちびの私にはありがてぇ~!
木ノ下歌舞伎は今後も機会があればぜひ見てみたいです。できれば、今度はもうちとわかりやすいといいな。
雪組『BONNIE & CLYDE』感想
雪組公演
Musical『BONNIE & CLYDE』
Book by IVAN MENCHELL
Lyrics by DON BLACK
Music by FRANK WILDHORN
潤色・演出/大野 拓史
実話をもとにしたミュージカル、ということでしたが、個人的にはちと辛かったかな……。
誰にも共感できなくて(できたら困る人ばかりだったが)、ボニーとクライドが蜂の巣にされても、まあそりゃそうだよね、仕方ないよね、くらいにしか燃えなくて、もうどうにもなからなかったかな、私の中では。
「実話を基にしているのだから、暗くなるのは仕方がない。最後に二人が死ぬのも仕方がないじゃない」という人もあるようですが、その実話をきちんとフィクションに昇華させきれていないのではないかと疑問を持ちました。
「現実」と「歴史」と「物語」の垣根の低さはわかるけれども、「物語」の設定や展開、構成にはやはりそれなりの必然性が必要であって、それがないと「私たちは何を見せられているのだろう……」という気持ちになってしまうのだよ。
一方で、物語のラストは超おしゃれ!と感動しました。
「最後に二人が死ぬのも仕方がない」という感想を持った方もいるようですが、私は、物語のラストでは別に二人は死んでいないのでは?と思っています。
母親思いで、母に会いに行こうとするボニーとその運転をすることになっているクライド。ボニーはすでに一人でまともに歩くことが出来ないほどの重症を脚に負っている。クライドはそんな姿のボニーを母親に会わせなければならないことがひたすら申し訳ない。どんな顔をして会ったらいいのかわからない。
そして二人とも行きつく先は、というか、そう遠くない未来、あるいはこの道のりでおそらく死ぬだろうことを知っている。ボニーの方が先に覚悟を決めているように見える。この役をトッププレお披露目公演で演じる夢白あやはさすがにすごい。末恐ろしい……。
彼らの人生がハッピーエンドだったかどうかはさておき(それは彼ら自身が決めることであり、外野が決めることではない)、物語は最期の穏やかなひと時で終わる。これがよかった。上手と下手には冒頭で蜂の巣にされた車が映し出されているのも気が利いている。
まあ唯一「わかるわー」と思えなくもないのは、ブランチでしょうか。敬虔なクリスチャンで、犯罪を犯す弟を持つ夫にどうにか真っ当な道をあるんで欲しいと願う美容免許を持った女性。アメリカに「髪結いの亭主」という言葉があるかどうかはわかりませんが、バックがまともに働かなくても、なんとか生活はできていた様子がうかがえます。
なりゆきでクライドたちと一緒に行動することになってしまい、警察に取り囲まれ、自首を勧める悲鳴、心から血を流しているブランチが痛々しかったです。
彼女が逮捕されるのは仕方がないけれども、でもあのときバックを追いかけて家を出て来たことは、病院や自宅で警察からバックの死を聞かされるよりもずっとマシだったのでしょう。彼女は、自分のための選択をすることができていたように思います。平穏な生活を求めていた彼女にとっては、どちらも辛いことに違いはないのだけれども、後悔が少ないというか。
うっかりボニーの髪に関する悪口を言って神に許しを乞うところは人間らしくて、実にチャーミング。可愛いひまりちゃん(野々花ひまり)でした。ありがとう。
一方で、その「神」という存在が、私たち日本人にはわかりにくいような気もしました。
あすくん(久城あす)が神父として登場し、2幕冒頭なんかは朗々と歌い上げることで「神」の存在を感じることができるといえばできるだろうし、アメリカで上演する分にはそれだけでもいいかもしれないけれども、そもそも唯一神を信仰するという感覚から遠い私にはどうも……。1幕冒頭でバックが自首した場面でも、バックを滝に無理矢理突っ込んでいる神父が果たしてちゃんと「禊」「洗礼」●に見えていたかどうかは怪しいのではないあでしょうか。少なくとも私はプログラムを読んで観劇しなかったら、きっとわからなかっただろうなと思います。偉大なる神とか言われてもいまいちピンとこないのだなあ。
フィナーレがあることが救いであったのだけれども、それは『蒼穹の昴』でも同じことであったし、だったら『蒼穹』の方がよいフィナーレだったよなと思ってしまう。少なくとも私は断然『蒼穹』のフィナーレの方が好みでしたね。舞台のサイズや人数の関係もあるのでしょうけれども。
咲ちゃん(彩風咲奈)のスーツ姿はもちろんどの場面も素敵でしたし、ファンにはたまらないな!というところだったでしょう。そらくん(和希そら)ももちろんスーツで、ええ声で演じてくれたし、かせきょー(華世京)も聖海由侑もよかった。夢白ちゃんの着せ替え人形もどれも似合っていた。さんちゃん(咲城けい)、はいちゃん(眞ノ宮るい)の警官姿も麗しかった。かりあん(星加梨杏)のカーボーイ姿もありがとうって感謝している。
けれどもどれほど生徒が頑張ってもこの題材ではどうしようもないよな……と遠い眼をしてしまう。もとがブロードウェイだから役も少なくて、娘役のともか(希良々うみ)やありすちゃん(有栖妃華)も美容院であれっぽっちで、他はどうしようもない役どころだったように見えます。
お金のない話というのもこれまた世相的にはちときつかった。ああいう状況に置かれたら誰もがボニーになってしまうのは仕方がない、クライドみたいになる可能性がないと本当に言い切れるだろうか? ブランチは幸運だっただけなのでは? だからこそ彼らは一度は英雄視されたのでしょう。みんな鬱憤を溜めていたということでしょう。
もちろん、人を殺してしまってからはそうではなくなくなってしまったけれども、でも今、私たちの社会はボニーとクライドを生もうとしているのではないか?と、いろいろ気になることが多すぎて。
もっともこれは宝塚歌劇団のせいではない。
大野先生は『エドワード8世-王冠を賭けた恋-』や『白鷺の城』戸かは割と好きなのですが、『Bandito -義賊 サルヴァトーレ・ジュリアーノ-』とかはめっちゃ苦手で、つまり今回は後者だったな、と。本当、娘役なんて全然出番ないじゃん……咲ちゃん、全然作品に恵まれなくて、本人もファンが気の毒。
観劇はもとも1度のみの予定でしたし、これからチケットを増やす予定もなく、配信は東京で『クラブセブン』を見てくるので、こちらも見られず。生徒の配置とか同時期の雪組公演『海辺』と比べるとなんだかな、と悩ましくなってしまいます。すいません、『海辺』厨で……。
ところで新しくなって早数年の経つ御園座、1階席は傾斜がなく、4列目でさえも沼、サブセンターからの眺めは前の人の頭が重なること必須の地獄席だとよほど評判が悪かったのでしょう、座席には赤いクッションが置かれていました。私は幸い今回は1階席は1階席でも一段高くなっているサイド、非常に座席数が少ないところだったのですが、見切れることもなく、人の頭が気になることもなく、クッションも快適で、実に幸せに観劇することができました。ちなみに2階席からの眺めはわりとどこからも良好で、御園座で観劇するなら、2階センターだな、と思うわけですが、なんと件のクッション、後ろの席に行けば行くほど分厚くなっているということがわかりました(笑)。よほど苦情が多かったのでしょう……でもクッションで解消されるほど私の背は高くないので、これからも2階席か1階席のサイドを狙っていきたいと思います。
外部『舞台刀剣乱舞禺伝矛盾源氏物語』感想
外部公演
『舞台刀剣乱舞禺伝矛盾源氏物語』
脚本・演出/末満健一
出演/七海ひろき、彩凪翔、綾凰華、麻央侑希、澄輝さやと、汐月しゅう、皆本麻帆、梅田彩佳、橘二葉、井上怜愛、永田紗茅、山城沙羅、岡田六花、兵頭祐香、瀬戸かずや
配信を見ました。手元にプログラムもありません。
作品の感想というよりも、作品の解釈の感想に近いです。悪しからず。
本来、歴史改変をしようとする時間遡行軍を倒すのが刀剣男士たちの役目である。それに対して、今回刀剣男士たちが迷い込んだ世界はいわゆる「歴史」ではなく、「物語」であった。シェイクスピアが生み出す世界的名作よりもずっと以前にできた『源氏物語』、その作者である紫式部が刀剣男士たちを呼んでいる、助けを求めているという。そしてその紫式部の依頼は、願いは「自分の描いた物語の設定・内容を矛盾させること」であった。なぜならば、そもそも彼らが迷い込んだ世界は紫式部が描いた『源氏』の世界ではなく、『源氏』を愛した名もなき男性貴族によって作り出した『源氏供養』の世界、つまり『源氏物語』の二次創作の世界であり、彼は「物語」を「現実」にすることを目論んでいる。
なんのために?ーー紫式部を救うために。当時、仏教の教えによれば「嘘は大罪。地獄に落ちる」とあり、54帖にもわたる物語、いってしまえば「大嘘」をついた紫式部が地獄に落ちないために、『源氏』の一読者であった、むしろ一読者でしかなかった名もなき男は紫式部のために奔走する。それはもう『魔法少女まどか⭐︎マギカ』の暁美ほむらが鹿目まどかをがむしゃらになって救おうとしたのと同じように、彼は物語の中を自由に行き来し、光源氏や惟光といったらあらゆる人物の設定を取り込み、成り代わる。まさに目的のためなら手段を選ばない男である。
実に見事な仕掛けのある脚本、演出ですばらしかった。
『源氏』のファンを名乗る平安の男性貴族という設定、モデルは藤原道長か、あるいは藤原公任か。
今回の作品の業ともいうべきポイントはまさにここにあり、物語は決して無から有を生み出しているわけではないというところだろう。
必ず、とは言わないが、現実にモデルを求めることができるという点である。それは作者が意識しているものもあるだろうが、意識してないと言っても、当時の事情を鑑みれば、当然そこに行き着くよね、みたいなものもある。
『源氏』でよく言われるのは、桐壺帝は醍醐天皇、村上天皇あたり、桐壺更衣は藤原定子、藤壺女御は藤原彰子がモデルになっている、とか。六条御息所とその娘秋好中宮は、徽子女王とその娘規子内親王で、紫式部は自身を「中の品」(中流の女)とし、空蝉に投影したという話もある。何より主人公の光源氏は在原業平、藤原伊周、藤原道長とたくさんの貴公子たちがモデルになったと言われている(ちなみにこの手のモデル論を準拠論という)。
『源氏』が「物語の出で来はじめの祖」という『竹取物語』に出てくる五人の貴公子たちにもモデルがいる。
研究としてモデルの特定をすることが有意義か否かは議論が分かれるだろうし、事実と事実という点同士を妄想という線で結びつける楽しさがフィクションを作る上ではあるのだろうが、おそらく「現実」と「物語」はそう簡単に分けることはできないだろうことは確かである。
その上厄介なのは、元来刀剣男士が守ってきた「歴史」も、「語り継がれてきた現実」にすぎないのであって、「語り継がれなかった現実」もあったはずであり、しかしそれは「歴史」には残らず、「なかったこと」にされてしまうという点だ。
平安時代の同じ頃の歴史書、『栄花物語』と『大鏡』は同じ時代を描いているはずだが、同じ人物、出来事でもおそろしく違うことが描かれていることもある。
一文字たちの刀がどういう刀の集まりなのか、特に調べたわけではないのだけれども(ネットだと刀剣男士の話ばかりが出てきて、肝心の元ネタに全然辿りつかなかった・笑)、作中では「古美術商が商品の価値を釣り上げるために偽の物語を付与された刀」であるらしいことがうかがえる。ねこちゃんの呪いもその一つなのでしょうか。
と、するならばもちろん彼らは二次創作の担い手である名もなき平安貴族を一概に否定することはできない。歴史と物語の境が曖昧である以上、事実あったことが物語として付与されている刀剣男士たちにとってもそれは同じことである。森鷗外がいうところの「歴史其儘」と「歴史離れ」みたいだな、と。
歴史と物語を完全な対立概念として描くのではなく、歴史もまた物語であることを認めた脚本であったのが良かった。
私たちが「現実」だと思って過ごしているこの世界も、AIに見せられている夢かもしれない。『マトリックス』のように。今回は未来ではなく、過去に目が向けられていたというだけの話だ。
そして現実を生きている私たちもまた「設定」から完全に自由であるわけではない。役職がついた途端えらそうな態度を取る人がいるように(日本だけなのかな)、生身の私たちにもあらゆる設定が貼り付いてある。物語の設定との違いをあえてあげるなら、必然性があるかないかといったところだろう。
私たちの生きる世界を「美しい地獄」という、この気概よ! あっぱれ!
顕現実験擬似本丸という実に闇の深いことをする主人は一体誰だろう……刀剣男士たちがあまりにも美貌なので、うっかりすると審神者・望海風斗の登場か?と思ってしまうのだが(笑)、これが藤原公任あたりであったらおもしろいと思うのだよね。
公任は父も祖父も摂政・関白の地位についた家柄であるにもかかわらず、自身はその手の官職には付かず(付けず)、漢詩・和歌・管楽といった文化方面で身を立てた人である。とはいえ、藤原北家小野宮流といつ看板は九条流の道長にとっては脅威であっただろうから、いつ毒を盛られてもおかしくなかったのではないかな。そういう文化に生きた人、生きざるを得なかった人が「物語を現実に!」と考えるのはあり得そうな気がします。
もっとも同じ時代で考えなくても、権力を不当に奪われた人が権力を取り戻すために、手始めに『源氏』を利用したというのはありそうな話ですが。だから菅原道真でもいいのですが、道真はあまり物語に興味がなさそうなんですよね。
なり様も2歳で臣籍降下しているから、文化の人・歌の名人とはいえ、思いつかなさそうかな。大体権力を持つとロクなことにならないのは父親を見ていればわかるだろうし。
女性でもおもしろいかもしれません。よしながふみの『大奥』を見ていると、それもあるかもと思います。
『禺伝』が発表されたときに私が一番心配したのは、「元タカラジェンヌばかりで既存のファンの反感を買わないだろうか」ではなく(これは二番目の心配だった)、「『源氏』が題材というけれども、『伊勢』でも置き換え可みたいな脚本だったら許さねえ」という極めて共感されにくいポイントであり、結果としてこれは『伊勢』の在原業平では大体不可の作品だったので良かったです。なり様なんか、いくつ墓があると思っているんだ!笑
でも同時期に大劇場で同じ平安時代が舞台の『応天の門』が上演されており(もっとも平安初期と平安中期ではちと趣が異なるが)、にわかに平安ブームみたいなのがきているのは嬉しいことです。日本の古典作品、おもしろいよ! みんな読もうよ!
おすすめは、『あさきゆめみし』(大和和紀)、『なんて素敵にジャパネスク』(氷室冴子)、『とりかえ・ばや』(さいとうちほ)、あとは平安より少し前だけど『日出処の天子』(山岸凉子)、もう少しがっつり行くなら『おちくぼ物語』(田辺聖子)、『むかし・あけぼの』(田辺聖子)、『はなとゆめ』(冲方丁)あたりです。あと、歴史と物語に興味をもったならば、同じ道長の時代を描いた『なまみこ物語』(円地文子)も! ぜひ、ぜひに……。
あとは今回の『源氏』の設定のあれやこれやなのですが、設定上仕方がなく、途中で読めたとはいえ、紫式部と藤壺女御が重ねられているのはおもしろかったです。名もなき平安貴族の『源氏』のファンでなければ、絶対に思いつかない設定です。
映画『源氏物語千年の謎』では中谷美紀扮する紫式部が、東山紀之扮する藤原道長と男女関係にあり、『源氏』の物語の進行に従って、紫式部が六条御息所さながらの生霊になっていくという設定で、これもこれですごいな、と思ったけれども(理由は後述)今回の設定も私は天地がひっくり返っても思いつかないだろうなと感じました。
そしてその六条御息所に投影されるのが彰子というね……っ! すげえよ、これ。
彰子自身は子供の頃はともかく、ある程度分別がつく頃になると父道長に反発、折り合いが悪くなっていったと言います。まあねー! そりゃそうだよねー! 自分のことを政治の駒としてしか見ていない父親、12歳という生理もきているかきていないかわからないような微妙な年頃の娘を、権力欲しさに帝のもとに入内させちゃうし、当時中宮であった定子を押し除けて、彰子を中宮、定子を皇后にするという前代未聞のことをやってのけちゃう父親なんてねー!!! いらねー!!! ついでに藤原高子も摂政となった兄基経とえらい仲が悪かったって話です。そりゃそうだ。
例えばその怨念を先取りして彰子に六条御息所が投影されたのなら納得がいく。生霊というのは「本来政治の中枢にあるべき人物がいないの場合」に発動するものと『源氏』の世界では少なくとも設定されているので、どれだけ物思いが深くても藤壺女御や彰子が生霊になることはないはずなのだけれども、ここでも「矛盾」が生じているというのがたまらなくおもしろいんだよねー! 物語の設定がすでに破綻している。
紫式部が生霊になる設定が私に思い付けないのはこのあたりに理由がある。別に紫式部は権力の中枢にいるべき人間ではないからね。
一方で、六条御息所はかつての皇太子の妃であり、いずれは国母となることを約束されていた人間である。それなのに皇太子が亡くなり、太政大臣一派は左大臣右大臣らによって潰されてしまった。しかも太政大臣派再興のために使えると思った男の正妻は左大臣家の娘だし、その娘の家と従者たちが祭りで揉め事を起こして恥をさらされるし……これで物思いに沈むな、生霊になるなという方が無理な話だよ。ちなみに六条御息所は「源氏との出会いが描かれなかった」ことに恨みを述べますが、『源氏』は全体的に源氏と高貴な身分の女性との馴れ初めは基本的に描かれない傾向にあるといわれています。
だから『源氏』は恋の物語と言われるけれども、私は徹頭徹尾、政治の話だと思っている。源氏が六条御息所の雰囲気を思い出した明石の君だって結局は父親の入道が旧太政大臣派の一人だったわけだし。
「女だから」という理由で差別されることは平安時代にもあったでしょうが、男が女のところに通う通い婚が普通だったこの時代、女の家の経済力は重要で、一概に差別ともいえないのではないか、さらに女房として働いている彼女たちにその感覚がどれほどあったのかはわかりません(着ているものもそもそも違うしな、できることが違うというのもあるから、区別という感覚の方が強かったかも)。なんなら現代の方が女は生きにくい可能性もあるのではないかとさえ思っているのですが、紫式部が父親から「お前が男だったら」と言われて育ったことは、そりゃ呪いだろうという気もします。
おかけで宮中では「漢字の一の文字さえ読めないんです」とかまととぶりながらも、彰子に頼まれて夜な夜な『史記』を教えることになる。アイデンティティ分裂しまくりだよな。つらいよな。根暗にはきついだろう。
この点、同じように漢籍を父から習った清少納言が救われるのは、元輔の晩年の子供であり、元助自身がもう出世を諦めていたから、よくできる娘を猫可愛がりしていたのだろうなあ、と。そりゃのびのびと育つわな。雪が降ったら御簾をあげちゃうよな。
ちなみに「清少納言も和泉式部も和歌を詠む」みたいな台詞がありましたが、和泉式部は和歌の名手だけど、清少納言は漢詩のパロディ和歌みたいなのはうまいけど(百人一首も「鶏鳴狗盗」が元ネタ)、それ以外はあんまり、というところもあるから(自分から定子に和歌を詠まなくてもいいにしてくれとお願いしている)微妙だったかな。
微妙といえば、葵上が祭りに出かけようと思った理由が「お腹にいるややこに父の晴れ姿を見せたい」というのはお茶を吹き出すかと思いましたね。もうここですでに矛盾が生じているじゃないか!と思ったけど、たぶんあれは矛盾としての演出ではないのだろうな……。主人公と正妻が不仲という設定はそんなに現代に受け入れがたいものなか。
葵上といえば、父桐壺帝が決めた光源氏の最初の妻で、いわゆる正妻なわけですが、いくら新枕は年上の女性になることが多いとはいえ、母とも姉とも慕った藤壺女御の面影を彼女に見出すのは難しかったでしょうし、葵上もやってらんねーなと思ったはずなんですよね。だから葵上は作中で一度も和歌を詠まない、冷たい女として描かれている。主要キャラクターで和歌を詠まないのは彼女と弘徽殿女御の二人。
葵上自身は光源氏の異母兄、のちの朱雀帝のもとに入内するための教育を受けてきた人だから、自分もそう思っていただろうし、そうでなければやっていられなかった面もあるだろう。それなのに突然臣籍降下した、どれだけ帝の愛息子とはいえ、もう絶対に帝になることのない人と結婚する羽目になったのだから、打ち解けられるはずがない。冗談じゃないわ!という感じでしょう。いずれ帝との間に男皇子を産み、その子がやがて帝になれば、自分は国母となり、左大臣家を繁栄に導くはずだったのに、その夢はあっさり潰える。
しかしまあ当時の平安貴族の男女なのでやることはやり、子供ができる。子供が産まれて、ようやく仲良くなれると思った矢先に彼女は死んでしまう。お産は今も昔も命懸けである。
芥川龍之介の『鼻』に出てくる禅智内供のような、えらい気合の入った鼻をつけて登場した末摘花は「なぜ作者は、私を貧しく荒れ果てた家に住む醜女として描いたのか」と言うけれども、これも結局は光源氏が「一度自分の側についたものは、どんな人間であれ最後まで面倒を見る」と世間に知らしめる広告塔だからなんですよね。家系的には高貴だけれども、まともな後見人もおらず、今後繁栄する見込みもなく、かといって女房として働きたくない彼女にとって、むしろ光源氏に生涯面倒を見てもらえたのはラッキーだったのではないだろうか。
藤壺の兄・兵部卿の宮との対比もありましょう。あいつは自分に都合が悪くなれば、かつて敵対していた人間のくつさえなめるような男である(比喩です)。
そして女たちの復讐。なぜ一時でも愛したのか、と。その後の苦しみがどれほどのものだったのか、わかっているのか、このやろう!と女たちは光源氏を殺そうとする。そうだ、そうだ!やっちまえ!!!なんなら手を貸すぞ!!!と私は全力で思っていたけれども、彼女たちにそれはできなかった。まあ物語の中とはいえ、平安貴族の女性たちが毒ならともかく、刀で男を殺そうとするのは無理がある……とも思うし、最終的にそれを受け入れた名もなき男性貴族の願いを叶えてやる義理もない。ましてや幼い若紫にやらせるわけにもいかず、歌仙に刺されて良かったと思うことにします。このとき歌仙は「物語」と同じくらい「歴史」「史実」を信じたということでしょう。
小少将の君だけが物語の中であると自認できるのも、光源氏に愛された女性ではない弘徽殿女御という設定を与えられているからでしょう。この意図もわかりやすくてよかったです。彼女もまた葵の上同様和歌を詠まない冷たい人間、さらには怨霊生霊の類も信じない極めて理性的な人(紫式部も怨霊生霊の類は人の心の闇が見せるもの、という和歌を『紫式部集』に残している)。平安時代には珍しいその感覚を持った人を、ほとんど唯一といっていい作者の友人が担うとは。反転とまではいかないかもしれませんが、このズレがいい。
歌仙と大倶利伽羅の自分探しの旅でもあったわけですが、元タカラジェンヌたちの殺陣は舞のように美しかったですし、光源氏が女たちを連れて階段に並んだときは「あれ?『恋の曼荼羅』歌う?」って思ったよね。私、宝塚の曲の中で5本の指に入るくらい好きなんだよね、「恋の曼荼羅」。
代わりに歌われたのは、「ポケモン言えるかな?」ならぬ、「54帖言えるかな?」です。
ご丁寧に54帖(ちなみに発音は「ごじゅうよじょう」にしてくれ!)巻の名前を並べた曲でございました。まさに能『源氏供養』の世界観。これは全国の高校生や文学部の大学生には聞いてもらいたい、なんなら覚えていただきたいところ。大丈夫、151匹覚えたでしょ(歳がバレる)。その三分の一だと思えば、楽勝でしょ。
『禺伝』のラストは、本丸に帰ってきたのか、帰る直前なのか。「雲隠」から一転、朝日が昇る様子が描かれる。
まさに『枕草子』の冒頭「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、『紫』だちたる雲の細くたなびきたる」である。お見事!
雪組『海辺のストルーエンセ』感想
雪組公演
ミュージカル・フォレルスケット『海辺のストルーエンセ』
作・演出/指田珠子
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」
これは私が大好きなアニメの一つ『輪るピングドラム』(監督:幾原邦彦)のヒロイン高倉陽毬の別人格プリンセス・オブ・ザ・クリスタルが高慢に言い放つ台詞である。この台詞の他に「生存戦略、しましょうか」という決め台詞もある。
『海辺のストルーエンセ』を見て、ものすごくこのアニメのことを思い出した。めちゃめちゃリンクする。見たことがない人にはぜひ見ていただきたい。去年前後編で映画化もしました。イクニチャウダーが好きな人は『海辺』も見てください。
ヨハン(朝美絢)もマチルデ(音彩唯)もクリスチャン(縣千)も、みんな自分が望む「何者か」になりたかった。結果として、みんなその「何者か」にはなれなかったような気がするけれども、では三人とも不幸だったかと聞かれれば、それは違うだろう。それぞれが、それぞれなりの「生存戦略」を遂行したと考えるからだ。
ヨハンは、古い因習に囚われた世界に「科学」「自由」「平等」を実現させたかった。それを実現するためには為政者になるしかなかった。念願叶って力を得るも、急すぎる改革にはかつての権力者だけでなく、国民さえもついていけず、スキャンダルが決定的となり、人々はヨハンから離れていく。それでもヨハンは死に場所を選ぶことができた。マチルデとの思い出の詰まった「海辺」で、他でもないクリスチャンという「王」に罰されることを望み、事実そうなった。
王妃ユリアーネ(愛すみれ)が言うように、王が直接手を下したとなれば国民に対して角も立つだろう、ということで、似た者を死刑囚から探し出し、ブラント(諏訪さき)と共に公開処刑するよう指示する。そう、これが史実だ。史実通りにしなかったことで、朝美ヨハンは「救われた」のだと思った。少なくとも彼の願いは、最期の願いは叶ったのである。他の媒体のヨハンとはここが決定的に異なる。これが朝美ヨハンの生存戦略なのだ。言っていることと思っていることの違う最期のヨハン、思わず泣いてしまったよ……。ヨシツネ役をやっても死ななかった人が、とうとうここで想定外の死に方をしたんですよね。
ドイツ生まれで海を知らないはずのヨハンに、「海辺の」という枕詞がつくタイトルなのも、このあたりが効いている。海辺で愛を知り、友情を育み、最後は海に姿を消す、お見事。
この話でヨハンとマチルデにとっての「海辺」は、『神々の土地』でいうところのドミトリーとイリナにとっての「ロシアという大地(土地)」なのでしょう。
マチルデも、ヨハン同様古いしきたりや伝統に息苦しさを感じている。だから、啓蒙思想に傾倒している。一方で理想の王妃像も明確であり、ルイーセ王妃(美影くらら)のようになりたいと歌う。それ自体も人として素晴らしいことであるし、まして王族でありながら啓蒙の大切さをわかっているところは極めて進んだ人間である。
けれども、彼女もまたスキャンダルによって生涯幽閉されることになる。自分が一番なりたくなかった曽祖母ゾフィア(白峰ゆり)のようになってしまう。それでマチルデが不幸になったかと言えば、それも違うだろう。ヨハンと過ごした日々、あるいはそれだけでなく、クリスチャンと心を通わせたときの喜びは、一生彼女の胸の中に鮮やかに残るだろう。王妃としての勤めは全うできなかったかもしれないけれど、一人の人間として、一人の女性として、一生分の喜びを輝を経験したのでしょう。だから彼女は決して不幸なだけではなかったはずだ。これが彼女の生存政略。
クリスチャンの生存戦略は、一番分かりやすいようで、実は一番苦しいかもしれない。
フリードリヒ2世(一禾あお)のようになりたいと思っていた彼もやはり啓蒙の必要性を理解する人間であり、しかも王であるのだからその実現がもっとも容易いように見えて、その実、決定的な権力を握っているのは王太后と枢密院の貴族たちである。肩書は立派なのに、自分では何も決められない。上手に名前を書くことだけが求められている。誰も自分を、クリスチャンという人間を必要としない、愛のない環境で育ったクリスチャンが鬱病になるのは、いたしかたがない。
「寝た子を起こすな」という言葉があるが、反対に「起きた子は寝ない」とも言う。ヨハンやマチルデとともに自由と平等の夢を見て、一時はそれを叶えて、旧勢力を政治から追い出すことに成功したクリスチャンにとって、再び傀儡の、形だけの王になることが、どれだけしんどいことだろう。生命は長らえたが、魂はどうだろう。ユリアーネの子供フレゼリク(風立にき)ではなく、マチルデとの子供フレゼリク(星沢ありさ)を皇太子とし、自身の後継者としたことが、ヨハンやマチルデをなくした彼にできる精一杯の抵抗だったのかもしれません。
ちなみに史実ではヨハン亡き後、ものすごい勢いで時代が中世に戻っていくのに対して、クリスチャンの息子であるフレゼリクが王になると、ヨハンが唱え、一時は実現した農奴制廃止、検閲の廃止、拷問の禁止などいわゆる近代的な政策が再び実現したそうな。それを匂わせる演出もメガネ(笑)のアンドレアス(紀城ゆりや)の台詞にありましたね。いや、メガネ、良かったよ。
その意味でフレゼリクと庭師の見習いのハンス(月瀬陽)とビューロー男爵夫人の娘のテレーサ(瑞季せれな)の三人の子供が仲良くしてくれるのも希望です。
みんな「何者か」になりたくて、でも届かなくて。それでも不幸なだけの人生ではなかった、という極めてしょっぱい物語。それをリアルというのかどうか、今の私にはわからないけれど、でも人間愛に満ちた作品であったことは間違いない。彼らにとっての「ピングドラム」は「フォレルスケット」、デンマーク語で「恋に落ちた瞬間に感じる喜び」だったのでしょう。
ツイッターか何かで「うえくみ先生と指田先生は人間が嫌いに見えるけれど、栗田先生は人間を愛しているように見える」という言葉を見かけたけれども、そもそも人類愛に満ちていなければ良い作品、多くの人の心を打つ作品をつくることはできないでしょう。愛のベクトルが三者三様であるだけで、私はお三方とも人間を愛していると思うし、それが作品から伝わってくるから先生たちの作品が私は好きです。人間は愚かでどうしようもない、そのダメさ加減を愛さないと、創作はやっていられないと思います。多少心に屈折のある人の作品の方がおもしろい。
指田先生、すばらしい当て書きオリジナル脚本、本当にありがとうございます。これは間違いなくあーさの代表作となるでしょう。
ヨハンの死に方ともう一つ、大きく史実と異なったのはヨハンとマチルデの間に娘ができなかったこと。だから二人は精神的な繋がりが強調されて見えました。
そもそも『歌劇』の「座談会」によると指田先生はキスシーンを書くのも初めてとかで。そのわりにはよくキスしてましたけどね、二人(笑)。勝手にキスシーンを増やしてませんか? 朝美さん。
ベッドが出てきたときは、いよいよあーさの濃厚ラブシーン!と期待した人も多かった中、ベッドに潜り込んでくるのはまさかのクリスチャンで笑ってしまう。いや、そこからは全く笑えないシーンになるのですが。
あくまでもプラトニック・ラブであったことが、生臭い現実の苦しみを背負う娘の不在につながり、彼ら三人の「生存戦略」は完結する。娘がいたら、ヨハンはあれほど潔く死ねないだろうし、マチルデもきっぱり王宮を去れないし、クリスチャンもヨハンに気持ちを寄せられないからね。
そんなわけで映画『ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮』(監督:ニコライ・アーセル/主演:マッツ・ミケルセン)で予習はしていきましたが、なくても楽しめます。
印象的なのは、愛の象徴としてプロローグやエピローグで、海辺で逢引を重ねる名もなき恋人たち。プログラムには「召使いの女」(白綺華)と「男爵」(苑利香輝)とあるのみ。
王宮の場面にもよく出てきますが、秘密の恋人なのでしょう。不倫でありながらオープンなブラントとソフィー(妃華ゆきの)と違って(笑)。
しかもそれぞれベルンストッフ(奏乃はると)とランツァウ伯爵(真那春人)にお仕えしているようで、主同士は同じ派閥ではない。だからこその内緒の恋人、でも逢引のときは後ろ姿でもわかるくらい穏やかでささやかな幸せが満ち溢れていました。
ヨハンとマチルデのあったかもしれない世界線の二人のお話に見えました。
公演プログラムの中で指田先生はデンマークの「温かさと寒さを取り入れられたら」と書いています。そのせいでしょう、海辺の青い照明とそこで火を灯す薪の赤い照明がとても美しかったです。
同時に、ヨハンとマチルデも青いお衣装のときにはわりと理性的である一方で、赤いお衣装、ピンクのお衣装を着ているときには理性を失い、愛欲に溺れる。赤と青の対照が計算され尽くしされていて、「一人で話を考えている時が一番退屈です。スタッフの先生方が世界に色を与えて膨らませて下さり、出演者達が役に血を通わすことで、初めて物語が始まります。」と公演プログラムに書いている意味がよくわかりました。
象徴的な舞台装置も、この大きな物語にはよく似合っていた。具体的だったのは椅子やベッドくらいかな。よく動く装置だったので、怪我などありませんように。音楽も素敵だった。Twitterではかもっぱらフレンチロックと言われていますね。リプライズも効果的に使われています。
気の利いたオシャレな台詞や歌詞が多かったのも嬉しいです。こういうのがいいんだよ、本当!!!「政治軍事愛の情事」「酒を飲んだ酒に飲まれて皿割って騒いで」といった頭韻脚韻の連続、すばらしい。
デンマーク郊外の酒場でいかがわしいことをしているヨハンを取り巻く女性たちが「私きっと前世で恋人だった♪」と歌ったり、ソフィーに「買ったドレスは覚えていても、領収書は忘れてしまったわ」と言わせたりするのもよき。しかもそのあとに続く「でも王宮に初めて入ったときのあの景色は忘れられない!」という台詞が、ブラントを駆り立てて「海辺で一緒に見た景色が忘れられない」と最後にヨハンをかばうに至る。台詞もうまいし、そこからの展開もしびれる。たまらんな。
あとは、ほぼ全権を握ったヨハンに対してランツァウ伯爵が「王宮の病を取り除くのは、人間の病を取り除くのと同じ。慎重になさいませ」と医者であるヨハンに忠告するところとかもすごく好き。残念ながらヨハンにはその助言は届かないのですが。
二幕冒頭は「おや、違うミュージカルを見にきたかな?」と思うくらい『テニミュ』が研究されていましたが(笑)、客席に向かって球を打つ演出はテンションが上がりますね。パコーン、パコーンという音も暗いこの作品の中で清々しい気持ちになる。うっかり生田先生と熊倉先生が混ざってないかなって思っちゃったよ。
「なぜわたくしまで」とドレス姿のユリアーネが怒り(当然だ)、ヨハンに渡したラケットを返されて、そのままテニスをする様子は滑稽でもありましたが、楽しかったです。いやはや、あいみちゃん、どこを切り取ってもブラボーでしたわ。いや、本当に。カテコのときもあーさを、姉が母かのように見守っていてくれました。ありがたい。
カーテンコールの挨拶は、稽古期間の短さを思わせ、もしかしたら稽古確保のために初日が延期する可能性があったかもしれないと予感させた。
初日の舞台の日の夜に、各メディアが出すはずの写真付きの記事も今のところ見当たらない。ゲネプロに外部メディアを入れなかった可能性も見えてくる。
それでも、初日の幕が開いてよかったと心の底から思える舞台でした。
舞台関係のコロナ対策を全くしない国のために、劇団に派閥争い(経営優先VS生徒優先みたいな)があるのではないかと心配するほど、ファンを動揺させる記事がここのところ続いて出ておりますが、でも確かに「清く正しく美しく」の教えを守った生徒たちがいて、彼女たちが素晴らしい作品を上演した証を見せてもらいました。今回の舞台にご尽力いただいた方々全てにお礼を申し上げます。
どうか神奈川公演、梅田公演、無事に全て上演できますように。
以上、初日の大枠ざっくりの感想でした。キャスト感想など細かいことはまた後日。