ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

星組『王家に捧ぐ歌』感想

星組『王家に捧ぐ歌』

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グランド・ロマンス『王家に捧ぐ歌』-オペラ「アイーダ」より-
脚本・演出/木村信司
 
文句なしの名作というにはやや演出の甘さや構成の不明瞭さは残るものの、普遍的なテーマを扱っており、かつちょうど今のタイミングで再演でじたことには大変意味のあるものだと思っています。
初演の2003年は2年前の9.11、あるいはそこから始まるイラク戦争を意識したものであることはプログラムにも明確に掲載されており、今回は初日が遅れてしまったこともあり、ちょうどウクライナとロシアの問題が取り上げられている真っただ中ということで、大変な緊張感をもって観劇することができました。そういう人が他にも多かったのではないでしょうか。そして「ロシア」と一括りに考える危うさも、痛いほど伝わってきます。
 
なるほど、本当に「戦いは新たな戦いを生むだけ」ですね。ヒロインのアイーダのソロ「アイーダの信念」がすばらしいのは言うまでもないのですが(一幕で唯一泣いた場面)、星組別箱でも書いたようにヒロインが神の存在を否定するという姿勢がスタオベものなのです。
それはもしかしたら宝塚のヒロインらしくはないかもしれない。けれども私は残念ながら深い信仰心があるわけではないので、脚本によってはそれでもいいだろうと思ってしまいます。特にアイーダは古代を生きる人間であり、我々よりもはるかに神の存在を意識して生きてきたはずです。
アイーダの周囲の人間もごく普通に神を受け入れていた中、アイーダのものの見方は奇異に映らざるを得ません。しかし誰よりも普遍的なメッセージに気が付いているのはアイーダです。
「国と国が争うのは~お互いの利益のためよ~どちらが勝とうとどちらが負けようと争いは続いていく♪」もアイーダの視点が際立っています。
勝ち誇ったものよりも、それらの人々備虐げられた人々の方がこの世の欺瞞に疑問を持ちやすいですから、より深い思考にまでたどり着きやすいのはいつの世も同じ。アイーダはまさにその体現者であるといえるでしょう。だからこそいつでもどこでも通じる人の世の真理にたどり着くし、「王女である前に一人の人間、女である」というところまで行きつく。
 
一方でアムネリスはその反対の道を行きます。「女、一人の人間である前に王女である、ファラオである」という一種の高みに上り詰め、支配者であることをアイデンティの中心に置こうとする。置いているというには、あのファラオはまだ未熟でしょう。その揺らぎがよかった。くらっち(有沙瞳)美しかったですね。歌ももちろん素晴らしかった。
アムネリスは自身が戦いに赴くわけではないにもかかわらず「エジプトは勝ち続けなければならない」という傲慢さを2幕の途中で発揮しますが、地下牢に入る寸前のラダメスの言葉を受けて、ラストでは虚しいとわかっていても争いをしてはいけないと宣言する。あの凛々しさよ……っ!
 
だから二人の女性に比べるとラダメスが本当に小さい、言葉を選ばずに言うならポンコツに見えてしまうのですよね。
これはもう脚本の問題でしょう。
エチオピアを解放したい彼が、エチオピア進軍の将軍に任じられたいと願うのはもはや皮肉でしかありません。
もういっそのこと、最初からラダメスとアムネリスは婚約者である設定を追加し、芝居の冒頭は将軍であるラダメスがエチオピア侵攻中、エジプト兵士に理不尽に襲われそうになるアイーダ(うえくみ先生が考えそうなことかな)を助けるところから始まってもいいかもしれません。ここで二人はフォーリンラブするんだよ、ということも明確になる。
そしてエチオピア人たちを捕虜としてぞろぞろと連れて来たにもかかわらず、ラダメスは「王族以外のエチオピア人の解放」をファラオに願い出て、周りをぎょっとさせる。
これくらいスピーディーに話が進み、かつポイントになる歌だけを残しごく普通の台詞に直せば、1幕に収まるかもしれません。アイーダをいじめる女官たちは見られませんが、「ファラオの娘だから」はどこかに入れて、なんとか1幕におさめたいところなのです。
やっぱりショーが見たい女なんですよ、私。
全編歌で進むというのは、『エリザ』みたいに死が擬人化したトンチキ設定とか語り手が全く信頼ならないとか、『レミゼ』みたいに時間の流れが膨大とか登場人物が多いとかそういう要素がないと少し退屈なのかもしれません。
プログラムに載っているような大きなナンバーだけ残して、ごく普通に芝居をしてほしいなあ。

エトワールは都優奈ちゃん。すばらしかった。
いやはや、本当に。これは大劇場でのエトワールもぜひ聴きたいと思いましたよ。
もちろん、エトワール専用ドレスの準備もよろしくお願いしますね、劇団さん。


ヴィジュアル公開時から騒がれていた衣装は、なるほど、確かに無視はできないなと。
特にエチオピアに将軍として乗り込んでくるラダメスは、さながら現代の暴走族がエジプトにタイムスリップして、世話をしてくれたエジプトのため、兵士たちを率いて、エチオピアに侵攻しているように見えてしまいます。
天は赤い河のほとり』や『王家の紋章』のヒーローバージョンのようですね。
だから、これでは下手をすると、ラダメスによる一方的な虐殺になってしまいます。
より脳筋マッチョな役作りをするようにきむしんは指示したのでしょうが、それではかえってラダメスが薄っぺらく見えてしまうんだよ、と私は思ってしまいました。
頭を守るものが何もないのも、戦場としては違和感があったのかもしれません。頭で考えるタイプの将軍ではないようですが。
エチオピア人が黒、エジプト人が白でありながら、ウバルドが革ジャンで現代的なところがラダメスに通じており、このあたりにテーマの普遍性を見出している人もいましたが、言われなければ気が付かなかったな。少々無理があるように見えました。
いや、革ジャンのキワミ(極美慎)はよかったんですけどね。『ロミジュリ』のマーキューシオをやったことが今回の役作りに生きたかな。
フィナーレはほぼ彼とみっきーを見ていましたよ。
また琴ちゃん(礼真琴)があれを着こなしているのも、すごいはすごいんですけどね。
 
ウバルドと双子という設定(これ、はちゃめちゃに萌えた。パパが2人を守ろうとしている場面に強く双子であることを感じたし、思っていたよりも兄っぽい感じはあった)になったアイーダ役のひっとん(舞空瞳)の衣装は黒のワンピース、ずっと同じものですので、かつらに工夫が見られましたが、ものすごく遊べるというわけではない役なのが悲しい。
ワンピースのラインも前から見たときはあまり気にならないのですが、横から見たときは寸胴のように見えてしまいました。あれだけ深くスリットが入っている上に、ひざまずく場面もあるので、こちらもあまり遊ぶ余裕はなかったのかもしれません。
ひっとんは歌がちょっと苦しそうだったのが心配です。せっかくトップ娘役なんだから、ちゃんとキーの合った音楽をオリジナルで書いてほしいところです。
本作は名曲ぞろいであり、音楽としての質が高いことは認めるのですが、一方でだからこそ難易度はやはり高いのでしょう。
博多座『DC』のときも海ちゃんが辛そうで、でも今回のお披露目公演『FS』はそんなことを感じなかったから、やはり彼女のための曲を作ってもらうべきです。経営が苦しいのはわかるけれども、もともと琴ちゃんはとうこやちえさんの再演ものが多かった分、ちょっと不満かな。オリジナルをやってナンボでしょう、座付き演出家がいるのだから。れいうみの月組もオリジナル、少ないのよね。

アモナロス、公演スチールではなぜか帽子をかぶっており、なんかそのままカーボーイにでもなりそうだなと思っていたのですが、銃を持つ姿はやはりカーボーイでしたね(笑)。いや、格好良かったんですけど。
ギラつき度がマシマシで、エチオピアを再びこの手に!という非常に俗っぽい、どうしようもない野望を胸に抱いているのは以前も同じでしたが、今回は自分が国王であることにしがみついているようにも見えました。
民なんてどうでもよくて、本当、ただ王様でいたいだけの哀れな男よ。
もちろん彼も子供の頃から帝王学を学ばされ、王になる以外の道はなかったのかもしれません。家臣のものもまとめて愚かですな。
だからこそそのあと、アイーダが自分で決めた道をひた走る様子は輝いて見える。

フィナーレでは宙組大劇場のときは、アイーダ役に「エジプトはすごくて強い」に歌わせるとはどういうことじゃ、と思っていたところ、博多座では「アフリカはすごくて強い」に直されていたとかなんとかで、今回は「どの国もすごくて強い」になっていました。
なんだか小学生の作文感が拭えませんが、そもそも「すごい」ことや「強い」ことはそれほど誇らしいことなのか、という疑問も生まれます。
すごくなくても、強くなくても、その国の人々が明るく楽しく笑って暮らせる国なら、それでいいのではないか。「すごい」とか「強い」とかを求めるから、かえって争い事が起きるのではないかとさえ感じます。
別にすごくなくてもいいんだよ、強くなくてもいいんだよというメッセージにはならないものなのでしょうかね。「女性が輝く社会」と同じです、全ての女性が輝く必要はないし、輝かなくても楽しい人生を送る権利がある。

きむしんは「再演するときは脚本を変えてはならない」派のようですが、作品をより良いものに仕上げるために必要のある改変なら、どんどんやってほしいなと思うのでした。