ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

映画『ゴヤの名画と優しい泥棒』感想

映画

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ゴヤの名画と優しい泥棒』
監督/ロジャー・ミッシェル
脚本/リチャード・ビーン、クライヴ・コールマン
主演/ジム・ブロードベントヘレン・ミレン

うっそ、ちょ、ヘレン・ミレン!?!?
というのが、最初の感想です。もうこれで終わってもいいくらいです(ダメです)。
ヘレン・ミレンといえば『RED』シリーズでのスゴツヨ英国淑女スパイが大好きなので、こんなちょっと怖いけど平凡な老年の奥さんという役を! あの! ゴリゴリスパイの! ヘレン・ミレンを!!!
いやあ、ビックリしましたよ。驚いたわ。
ヘレン・ミレンだよ!? ねえ!?と終わった瞬間、スパダリをバシバシ叩きました(迷惑)。
いや、何やらせても、ちゃんとできるの、本当にすごい。もう姿勢が全然違う。言われなければ気が付かない人がいてもおかしくない。
『黄金のアデーレ』でも絵画関係の映画には出演していましたが、それだって美術館相手に果敢に戦う姿でしたからね。
市井の民を演ずるとは、いかに。
しかし演技力はすばらしく、綺麗なトイレを掃除しまくる姿から、きちんと感情が伝わって来るのがまたすごい。

そのヘレン・ミレン扮するドロシーは中流階級の家政婦をやっており、それが一家の収入。彼女は大黒柱なのだ。
中流階級といっても、屋敷の主は議員様ですから、貴族でないというだけで、日本でいえば立派な上流階級なのです。
主である議員は出てきませんが、奥さんであるグロウリング夫人はとてもいい人。
最初はドロシーをこきつかっているのかな? ケンプトンの仕事先の心配をするのは皮肉かな?とか思わないわけではないのですが、「旦那がゴルフの会員だから、私も今夜のパーティーに行ける。女が会員になれるわけがない」という一連の流れはおや?と思わせるし、裁判の傍聴席では彼女は高らかに歌いあげる。追い出されそうになっても。
英国上流社会にいながら、女性であるがゆえにその違和感に気が付くことができる人、そんな描かれ方がしてあるように見えました。

さて、主人公のケンプトンはドロシーの伴侶であり、もう身近にいたらさぞ鬱陶しいだろうということを思わせる役どころ。彼の行動は不可解で、彼なりに筋が通っているのはわかるけれども、でもそんなことよりやることがあるでしょ!というのは、周りにいる誰もが思うこと。
それに腹を立てるドロシーの方に肩入れしてしまう。同情してしまう。
日本でいうところのNHKが見られないテレビなのだから、受信料を払う必要はない、という。映らないのはケンプトンが改造したから。そこまでして支払いたくないのは、支払えないからではなく、「主義の問題だ」と裁判ではいう。
彼は自分が溺れていなくても、周囲に溺れている人がいないか確認し、溺れている人を見つけたら助けないではいられない人なのだ。
問題なのは「溺れれいないかどうか」の基準が極めて自分勝手に設定されるから、身近な人は振り回される。だから彼の行いを「正義」というのは難しいだろう。

けれども、タクシーの運転手をクビになり、新しく働き始めたパン工場での一件は、間違いなく彼の「正義」と社会の「正義」が一致したタイミングだったように思う。
休憩時間中にケンプトンは仲間たちとカードゲームにいそしむ。そこには自分の教育係であるパキスタン系の青年もいた。
現場のお偉いさんはその彼にだけ、働くように命ずる。休憩時間は誰にも平等に与えられた時間であるにもかかわらず、彼の休憩時間を不当に短くしようとする上司に穏やかに反論したケンプトンは、「永久に休憩だ」とあっさりとクビになる。
このエピソードがあるから、ケンプトンの良さがわかる。鑑賞者の多くが、この場面に感銘をうたれたことだろう。

ロンドン・ナショナル・ギャラリーで一度だけ起きた盗難事件、その犯人として裁判を受けることになったケンプトンだが、弁護を引き受けてくれたマシュー・グードが演じたジェレミーがまたよかった。あの白い鬘もなぜかよく似合っていた。まだそういう時代の話なのね、とも思いました。
最初はもう負けるなと思っている感じがありありと伝わって来たけれども、ケンプトンが裁判で話すのを聞いて、またそれが聴講者に受けている確かな感触を得て、裁判長には「ここはコメディアンのオーディションではないのですよ」とまで言われるケンプトンの言葉の力を目の当たりにし、自分も最後の演説をする。ひー! しびれるー! 格好いいー!
「我々は隣の家から借りた芝刈り機をしばしば返し忘れるものです」という演説のしめくくり、すごいよかったわ……。
日本でいうところの傘みたいなものでしょうか。
ジェレミーが静かにテンションをあげていく様子がすごく良かったです。
ここも印象深かった人が多かったのではないでしょうか。
少なくとも女性筆跡鑑定者を見下した上に「いいケツだ」と言い放った男性警察官とは比べ物にならないほど立派である。

まあ、しかしよく考えれば、ケンプトンのあの貫禄のある体が美術館のトイレの小さな窓を通るわけがないわけですよね(笑)。そしてあの返却の方法も、雑といえば雑w
振り返ると、うまく編集してあるな、と思うわけですよ。
もしケンプトンの単独犯なら、部屋のクローゼットに隠すのも、長男の恋人に見つかったときも、全部ひとりで解決しようとしたでしょう。わざわざ次男に相談はしない。
思えば、次男は序盤ではしごから要領よく降りてくる場面がありましたし、中盤でもまだ恋人未満のガールフレンドと船の博物館に夜、上手に忍び込む場面がありました。なるほど、伏線になっていたとは。
あとこの次男は、長男とは異なり、わりと父と一緒に行動しているんですよね。雨の中、署名運動にも付き合う。
それは、最初は父の見張りかなにかかと思ったけれども、やはり次男にも父に共感するところがあったのでしょう。
始終、家族を見返らなかったような父にも見えますが、この「優しい嘘」は間違いなく家族を救った。次男だけでなく、ドロシーも。
うまい映画だ。この監督がこの映画を最後に亡くなってしまったのが、ひたすらに悲しい。

「あと1回だけ、ロンドンに行かせてほしい。それが終わったらまっとうな人間になるから」とドロシーと約束して、ケンプトンは本当になんの成果も実は上げていなかったというのもおかしい。
帰宅して、ドロシーに「もうふざけたことはやめる」と言って、二人で仲良くキッチンでダンスする場面なんかは多幸感に溢れていますよね。
観客は「そんなこと言って、ケンプトンったら。ドロシーの笑顔にまた泥を塗るんでしょ」と思って見ているのですが、少なくともこのときのケンプトンは正真正銘真っ当な人間になろうとしていた(実際できるかどうかは別として)わけなんですよね。
ええ、「公爵さん」が家にやって来ていると知るまでは。
この「公爵さん」、テレビでは英雄だ、と繰り返し言われていますが、ケンプトンからしたら「普通選挙に反対した人」であるから、一体どこが英雄なのか、わからないといったところでしょう。
同じ言葉がそっくりそのままケンプトンにも向けられると思います。
描いたゴヤ自身も、当人にいい印象をもっていたとは思えません。もしそうなら、あんな描き方はしないでしょうし、実際に公爵は完成した絵を見て怒ったと言います。いい男に描いてはもらえなかった自覚があるのでしょう。中野京子もプログラムでそんなことを書いていました。

そもそもケンプトンとドロシーの仲が目に見えて悪くなったのは、末の娘であるマリアンがケンプトンの買った自転車に乗って亡くなってしまったから。
大切な娘を亡くし、ドロシーは現実を生きるためにそれを忘れようとした。反対にケンプトンは夢想の世界へ旅立っていく。仲が悪いというより、もう生きている世界が違うのだから、言葉が通じないのは仕方がないだろうと思えるほど、あれらの見ている世界は違う。
最後に家のダイニングにマリアンの写真が飾られたのは嬉しかったですね。いいラストです。
ゴヤの描いた「公爵さん」が飾られるよりもよっぽど二人の家にふさわしい。
画家の描いたどんな名画にも勝る価値がマリアンヌの少女時代の写真にはある。
これが実話に基づくというのだから、またすごい話です。
いい映画でした。私もそろそろポスターでよい映画を見極める力を養ってきたようです(笑)。