ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、古典文学など好きなものについて語るところ。

外部『森 フォレ』感想

外部公演

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『森 フォレ』
作/ワジディ・ムワワド
翻訳/藤井慎太郎
演出/上村聡史

きっかけは成河が好きな友人が「行きませんか?」と誘ってくれたことでした。
たまたま行ける日にちであったので、とくに公演解説も読まずに「行きます」と返事。
返事をしたあと、どんな話かと公式ホームページを見たのですが、「なるほど、全くわからん」という状態になり……。
しかも4部作の3作品目ということで、1部と2部を見ていなくても大丈夫だろうかと頭を悩ませていたところ、なんと実は夫が見たかった芝居ということが発覚。まさかすぎる。
夫はどうしても仕事の都合でその日は行けず、しかも地元公演は1回しかなく、泣く泣く諦めていたということです。
なんでそういう話をもっと早くにしないんだ、と思いつつ、夫は1部の『炎 アンサンディ』の映画を見たことがあったようです。
芝居でナワルを麻美れいが演じたことを知って、「そりゃ見たかった」と感慨深く煙草のけむりをふかしておりました。
長年一緒に暮らしていても、案外知らないことは多いものです。

一緒に暮らしていてもわからないこと、知らないことがたくさんある。
いわんや血がつながっているだけで、一緒に暮らしていない親子同士がどうして互いについて多くを知ることができようか。
そういうことを感じました。
親に愛されなかった子供たちの物語といったところでしょうか。
別に愛してくれるのは血のつながった本当の親でなくてもいいと思うけれども、それは私が令和の時代を生きているからそう思えるのであって、かつてはそう思うことが容易でなかったことも想像がつきます。
子供の頃に愛されなかったという欠陥は、大人になってから別の誰かに愛されたとしても、なかなか乗り越えきれないところがあるのもわかるような気がします。

ルー(瀧本美織)は20歳とは思えない幼さで、今までどうやって生活してきたの?!と驚きますが、ルーの祖母であるリュス(麻美れい)も驚くほど幼い。
母はもう死んだとずっと前に聞かされたはずなのに、まだ母親が迎えに来てくれることを信じているよう。
そう考えると、冒頭に出て来たルーの母・エメ(栗田桃子)もどこか幼かったような気がしてきます。
3人とも母親に愛された記憶のない娘たちなんですよね。だからこの物語は女でないと成立しない物語。
女の産む力ってすごいのね……と改めて思いました。『1789』のソレイユの楽曲「世界を我が手に」を思い出しました。
一緒に暮らすことが愛することと必ずしも一致するわけではないけれども、そもそも一緒にも暮らしていなかったんですよね。
私自身は母親に愛された記憶はあるけれども、ちょっと歪んでいたかな、いわゆる毒親に近いものを感じていますし、もちろんそうならざるを得なかったクソな父親の存在もわかるのですが、今はもう自分が愛する夫を見つけたので、わりと心は平穏です。
だからといって子供時代をなかったことにはできないのですけれどもね。

8代にわたる大叙事詩
3時間40分はさすがにお尻が痛くて……(笑)。あんまりいい椅子でもなかったのがよくなかったです。
クッション性もそうですし、あとは椅子自体が低いというのがつらかった。
劇場自体は寒くなかったので、羽織りをお尻にしいていたくらいですが、焼け石に水程度でした。
この年にしては足腰弱すぎるのが難です。ジム通いとかしないといけないかな、やっぱり……。
エレベーターもエスカレーターもない職場だから、日々鍛えている方だとは思っているのですが、ダメのようです。

私が一番印象に残ったのは「家族」というものの考え方が男女で違うということです。
アレクサンドル(大鷹明良)は血がつながっているからアルベール(岡本健一)を可愛がるし、アルベールは血がつながっていないからエレーヌ(岡本玲)を恋人のように扱う。
でもサラ(前田亜季)は自分とも血がつながってはいるけれども、何よりも愛するサミュエル(岡本健一)の子だからリュスを可愛がるし、リュディヴィーヌ(松岡依都美)はサラの子だからリュスのを可愛がるし、リュスも孫としてというよりは一人の人間としてルーと対峙する。
男たちが血縁関係や体のつながりを大事にしているのに対して、女たちは約束や絆を大切にしている。
女は他人を無条件で信じられるけれども、男は何かがないと他人を信じられない。
この違いは本当におもしろい。
男にとって、自分が愛する女が生んだ子が本当に自分の子であるかどうか、確かめる術はない。
検査をすることはできるけれども、基本的には、相手の女を信じるよりほかに仕方がない。
だから血のつながりをことさら意識するのでしょう。
一方女は、相手がだれであれ、生まれてくる子供は間違いなく自分の子であり、自分が苦しんで、命を懸けて産んだ子どもである。血のつながりをはじめから問題にしない。
円地文子の小説『女面』にも似たようなことが出てきます。
主人公の女性は、愛する男ではない、別の男のもとに嫁ぐことになる。
そして最初に生まれて来た子供は愛する男の子供であり、「結婚相手への最大の復讐は自分の子供でない子供を、自分の子供だと思い込ませて暮らすことである」というようなことが語られます。
漫画『はいからさんが通る』の冬星さんのお父さんは自分の子供でないと知ったうえで可愛がりましたが、それでは復讐にはならないということなんですね。
あな、おそろしや。おすすめです。ぜひ多くの人に読んで欲しい小説です。
全ての男は女から生まれてくる。そう思うと、もっと女を大切にしろよな?と石をぶつけたくなるような人間は現実世界にたくさんいますね。

有り体な言い方になってしまいますが、リュヴィディーヌはサラのことを愛していたのだろう、と思いました。
インターセクシャル、つまり両性具有であることは語られていますが、性的指向については触れられていなかった気がします。
気がするけれども、サラの子を思うリュヴィディーヌは、やはりサラを愛していたのだと思います。
このあたりは漫画『セーラームーン』のはるかさんとみちるさん、あるいはドラマ『ラスト・フレンズ』の岸本瑠可(上野樹里)、藍田美知留(長澤まさみ)の関係を思い出させました。
先に無料配布していた人物関係図を見ていたので、1幕でリュスが母親の名前を「リュヴィディーヌ」と言ったとき、おやそんな小難しい名前だったかな?とも思いましたし、リュスの回想で、サラに会う場面を見たときも、「こりゃこっちが母親だな」と思ったので(前田亜季の演技がすばらしかった)、どこかのタイミングでサラとリュヴィディーヌが入れ替わったことは想像がついたし、レジスタンスなんかやっていれば、そうせざるを得ないこともあるだろうとは思えましたので、3幕は涙涙でしたね。
想像できていなかったら、涙よりも前に驚きが先んじて、泣くことができなかったと思われる。
もっとも、飛行士に預けるときになぜ母親の名前を「サラ」ではなく「リュヴィディーヌ」にしたのかはよくわからなかったのですが。
収容所送りになったサミュエルの子供だから殺される可能性があるのはわかりますが、「サラ」という名前はごくありふれていて、それだけでは判断はできないのではないでしょうか。

リュヴィディーヌのサラの子への愛情をちっとは見習ったらどうだと思うのは諸悪の根源アレクサンドルでしょうか。
お前が! 炭鉱の女と! 子供を作ったのが! そもそもいかんかったのだろう!と。
オデットも最後までアルベールには双子の父は明かしませんでした。
このあたりは、オデットのアレクサンドルへの強い復讐心を感じさせます。好き。
でも復習心だけでは幸せにはなれない。
だからこそアルベールがちゃんとオデットを愛さなければいけなかったのだろうけれども、よりにもよってどうして娘のエレーヌとあんなことになってしまったの……。
あれだけ嫌っていた父親の上着を着たのがいけなかったのでしょう。父親の魂を受け継いでしまったように見えました。
オデットがごく普通にアルベールに愛されていたら、こんな悲劇はなかったでしょうに。
こうなってしまった最初の段階で、オデットが実の父親をアルベールに伝えていたら、また違う展開になっていたかもしれませんが、それはそれで地獄でしかないような気もします。
だからアレクサンドルが諸悪の根源に見えてしまう。

最後にダグラスはルーにプレゼントを渡す。
ダグラスは「僕がもっと若かったら」というし、ルーも「私がもっと年くっていたら」といって、現段階ではお互いが恋愛感情で向き合うことはなさそうですが、でもそれもいいですよね。
男と女だからってくっつく必要はない。もっともこの二人はのちのちくっついてもおかしくなさそうですが。
問題はそのプレゼントで。
赤い上着をプレゼントする。黒い衣装だったルーには映える。「君の好みの色ではないかもしれないけれど」と言って渡される。
でもなー赤は結局血の色で、ダグラスが血のつながりを求めているように見えたのが、ちょっと個人的には難でした。
結局ダグラスも男じゃん……と思ってしまったのです。約束や絆ではつながれないのね……すんすん。
最後に降り注ぐ紙吹雪の色が赤なのは仕方ないのかな……カラフルとかでもいい気がしますが、ダメかな。
作品の中には子供、女性、精神異常者、怪物、両性具有者、とマイノリティや弱者が時の権力者(創建な男性)に虐げられ、一方的に搾取される場面が多く出てくる。
でもそういう人たちにも幸せになる権利はあるわけで。そのメッセージも込めて、多様性でカラフルでもよかったのではないかと思ってしまう。
あまりにも赤が強烈で鮮烈で。産まない自分が責められているような気がしてしまった。
もっともスペイン・ハプスブルク家じゃあるまいし、そんなに近親婚を続けていたら、そりゃ怪物も生まれるだろうし、両性具有者も生まれてくるだろうよ、という感じです。

基本的に成河と瀧本美織以外の役者は何役も兼ねていて、けれども、ちゃんと違いがわかって、演技の上手い人たちの集まりなんだなと感動しました。
やっぱり演技ができる人、芝居が上手な人が好きだな、私。
前から6列目という非常にいい席で観劇できたのもラッキーでした。友人に感謝しかない。
この手の芝居は当て書き脚本ができる宝塚でもなかなかやりにくいだろうけれども、私はこういう話も好きなんだよな。
たった1日だけだったけれども、地元に来てくれてありがとう。できればもう1回見たいかな。

タイトルにある「フォレ」はフランス語で「森」という意味だそうですが、人間関係の入り組みを森と表すだけなら、1部の『炎 アンサンディ』にも言えそうなことです。
私はむしろシェイクスピアの『マクベス』を思い出しました。
マクベスは、「森」が動き、「女から生まれたものではない者」に殺されるという展開が意味深い。
とはいえ、原作者の頭はどうなっているのでしょう。どうやったらこんな物語が思いつくのだろう。心底感心いたします。
1部や2部はどこかでお目にかかれないものだろうか。見てみたい。
とりあえず1部の映画から探してみることにします。

【追記】ラストの赤い紙吹雪は「運命の赤い糸」ということでいかがでしょうか。「生きることが苦しみでも、俺はお前という運命を愛するよ」というところで個人的には落ち着きました。