ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

雪組『心中・恋の大和路』感想

雪組公演

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ミュージカル『心中・恋の大和路』
近松門左衛門「冥途の飛脚」より~
脚本/菅沼潤 演出/谷正純

行って参りました梅田シアター・ドラマシティ。
8月上旬は日本青年館ホールということで、これはだいぶ見え方が変わるのではないかしらん?
両方見る予定の人はそのあたりの違いのレポを待っていますね!
配信は梅田の千秋楽。仕事で見られないのが残念です。思えば、青年館は配信したことないかしら? そういうシステムが整っていないのかな。

再演ものですが、おそらく見たことがないのではないかと思います。少なくとも生では見ていないはず。
「おそらく」というのは、例によってお腹の中から宝塚を見ていたヅカオタにありがちな「主題歌は聴いたことがある」というタイプの作品ですね。ええ、全く知らないな楽しみだなと思って臨んだのに、幕が開いた瞬間知っている曲が流れるという盛大な矛盾。一昔前は年単位で主題歌集が出ていたから(いや、今も出ているけれども、型がだいぶ違うような気がする)それで聞いたのかな。冒頭のそらくん(和希そら)、美しかったですね。あれ、もうだいぶ前から雪組だった?というような着物の着こなしと体勢。あの腰の落とし方、すばらしいな。
近松門左衛門の「冥途の飛脚」も学生時代に読んだような気がしますが、きれいさっぱり忘れています。

1幕はわりとどうしようもねぇ話だな、どうしようもねぇ主人公だな、という感じだったのですが(八右衛門が書いてくれた偽の受取証文を音読して笑っていたけれども、笑っている場合ではないとツッコミを入れたかった)(しかし1幕ラストで忠兵衛が何かに取り憑かれたかのように小判を投げるところの狂気はすさまじかった。恐るべし、和希そら!と思いましたね)、2幕であくまで二人は内心はどうあれ「二人で生きるために、生き続けるために大和を目指す」と口にし続けるところあたりから、ぐっと引き込まれて、そのあとはちょろかったですね。
っていうかさ! 今更なんだけどさ! 忠兵衛の父・孫右衛門のなとりさん(汝鳥伶)がやっぱり抜群に上手いんだよね!!!
噂で聞いた息子の話、キセルよりも重たいものをもったことのなさそうな遊女との出会い(でも梅川は酒は飲んでいたけれども、キセルは持っていたかな?)、最初はもちろん目の前の女が息子を騙した遊女とは思わないけれども、次第に確信に変わっていく様子、そして極めつけは「一言相談してくれれば先祖の田畑売ってでも金を用立てたのに」という台詞ですよ。
当時、京の問屋に養子に出ることは、おそらく大和みたいな田舎では大出世だったのでしょう。子供のことを思えばこそ、縁を切って養子に出したのでしょう。そういう気持ちがとても伝わってくる。とにかく出で立ちや台詞の言い方から観客が得られる情報量が人一倍多い。これが役者として、すばらしい。そして泣く。
そのあとかちゃさん(凪七瑠海)の八右衛門(これまたうまい)がようやく忠兵衛を見つけて、「雪山を越えることはできない」とわかりつつも、金子と何か(何だっけ……袋、2つ渡していたよね?)を持たせて二人を逃がすところが、もうもうもう……っ! ここで八右衛門が梅川のことを「御新造さん」と呼んでいるのもいい。正式な祝儀はあげていないけど、せめて自分だけは二人を認めてやろうという気持ちがたまらない。
そして二人は、八右衛門が想像したとおり、厳しい雪が降る山を越えることができず、折り重なるように果てる壮絶なラスト。
梅川が言っていた通り「長く生きなくても良いんです。ただ生きている限り、あの人と一緒にいたいんです」という言葉と通りになりました。めでたくもなんともないけれども、二人はああなるしかなかった、恋を諦めきれないなら。
忠兵衛は八右衛門のことを「唯一の友達」というけれども、そりゃ友達もなかなかできないでしょう。忠三郎のことも「大和の幼友達」といいますが、おそらく郷里では彼しか友人がいないのではないかと思うくらいです。
別に誰かに共感して見るような作品ではないと思いますが、残っていくべき作品でしょう。

亀屋の場面では番頭のまなはる(真那春人)が、鎚屋の場面では女将のあいみちゃん(愛すみれ)が、それぞれ場をしめているという印象が強くて雪組は安泰だなあと。キュッてしまるのよね、本当に場面が。安心して見ることができる。
これはすごいなあ、貴重な役者だわ。大切にしてあげてくださいね、劇団さん。頼むよ!
ただ、まなはるは忠兵衛の郷里の幼友達の忠三郎としても出てきますが、八右衛門と与平と一緒に出てくるものだから、うっかり番頭さんも一緒についてきたんかーい!と思ってしまいましたね。ちょっとすぐには忠三郎とは思えないかな、プログラムを見て知りました。これは演出の問題かな。

あとはなんといってもゆきの(妃華ゆきの)でしょう。かもん太夫、うまかったなあ。あれは経験を感じさせるものがありました。和物の雪組ということで、和服に慣れているというところはあるかもしれませんが、裾捌きもそつなくこなすし、堂々たる姿勢もすばらしいし、太夫としての出で立ちや佇まいが非常に美しかった。
はおりん(羽織夕夏)の歌手も美声ですし、りなくる(莉奈くるみ)の鳴渡瀬花魁も似合うし、千代歳花魁の愛陽みちちゃんはお写真がきぃちゃん(真彩希帆)に似ているかな、禿の華純沙那ちゃんもばっちり発見しました。さなちゃんは2幕で歌もあり、またその歌の場面がちょっと辛い場面なんだけど、少女の無邪気さで歌うという対比がたまらないんだよね!

娘役の話ばかりしていますが、男役の集う宿衆も良かったです。
宿衆は今から七夕祭りでもするのか?という葉っぱのついた枝をもって踊る場面があるのですが、あれはちょっと謎だったにしろ(あれ本当に一体何の場面だったのだろう、わかる人、教えてください)、まりんさん(悠真倫)がどっしりとしめてくれました。いや、すばらしかった。場の安定感が違う。
あとは個人的につい見てしまうのが一禾あお。飴屋も良かった。子供達と絡むシーンも可愛かった。
すわっち(諏訪さき)も良かった。個人的に好みとは違うので、ものすごく見ているわけではないのですが、今回はつい目が行ってしまうような役、演技でした。
そして蜆売りがじわじわくる。1幕の第2場にしか登場しないのですが、「しじみ~♪あさり~♪」という台詞だけで、時代の雰囲気がわかるし、場の奥行きも感じられる。あの腰の落とし方、すばらしかった。あの姿勢で、あれほどゆっくりと歩く琴を続けて、腰を痛めていないといいのだけれど。前から3列目という貴重なお席だったこともあり、ほぼ目の前をゆっくりと通っていく希翠那音くんがとても印象に残っています。顔が見えていたわけではないので、次のお芝居で見つけられるかわかりませんが、お芝居がぐんと上手になるだろうなと思いました。

反対に微妙だったのがおまん、庄介、三太の亀屋トリオの場面。なんだか私はいまいち笑えなかったのですよね。
コメディタッチにしたいのはわかるのですが、ちょっとドリフを見ているみたいになってしまって、冷めてしまいました。ここは演出の問題でしょう。もうちとなんとかならなかったかな、せっかく再演するのだから。
かれんさん(千風カレン)の妙閑も同じように笑わせ担当、コケティッシュな感じの役作りはむしろうまいと思ったので、やはり話の筋で笑わせる、文脈を組んでくすりとさせるような台詞劇が必要となってくるのでしょう。
そしてかれんさんも専科でないのが不思議なくらい演技がうまくて恐れおののくわ。なんでもできる人だな。

舞台装置もよかったです。初演からこんな感じなのでしょうか。
1幕の亀屋、それが左右にわかれると後ろから槌屋の2階が出てくる。スムーズな場面転換はストレスがなくて本当によい。
上手には「新町」「横堀川」といった文字も。パソコンで映し出しているのかと思いきや、スライドを入れ替えるアナログ仕様でした。ちょうど入れ替えるとこを見てしまったw 貴重な機会です。ありがたや。
気になったことといえば、槌屋の2階の扇形になっている窓がガタガタ揺れているのが心配だったくらいです。あれはああいう仕様なのでしょうか。いつ落ちてくるかと気が気ではなかったのですが。
2幕は門のセットが際立っていました。センター奥にある大門、下手に斜めに立つ西門。同じセットなのに全然雰囲気が異なる。照明の工夫もあるのでしょう。
そこからは忠兵衛と梅川がひたすら逃げる道のり。セットではなくて、上からいろいろなものをつるすことによって難儀な道のりであることが視覚的にも非常にわかりやすくてよかったです。舞台装置よりも吊るしの方が簡単とは思いませんが、他の舞台でも使い回しが吊るしの方が効くでしょうし、お金のないときのやり方の参考にはなると思いました。
最後の雪山も圧巻。布の敷かれた階段をゆっくり上る、雪山を一足一足踏みしめて登っていく、そんな姿がひたすらに美しかったです。
忠兵衛も梅川も2幕はお着替えがたくさんあったのも良かったです。もっともだんだんぼろぼろになっていくのですが、雪山に倒れた二人の美しさは圧巻でしたね。
八右衛門の「歩き続け~♪」も涙を誘うよ、ああああああ!!!!

2幕も緞帳が下りた後、最近よくある全員集合はせず、もちろんフィナーレもなく、忠兵衛を演じたそらくんと梅川を演じた夢白あやが心中をしたままの姿で前に出てきてセンターでお辞儀をするのみ。余韻に浸るには充分でした。ありがとう。思えば途中に拍手をするタイミングもありませんでしたが、そういうお芝居もいいですね。

前回の本作を見ている人は一様に「若いカンパニー」「トップ二人の役作りの幼さが際立つ」みたいなことをおっしゃっているのですが、カンパニー全体はともかく忠兵衛と梅川は若く幼い役作りというのはある意味での正解かなと思いました。
忠兵衛の父が忠兵衛のために田畑を売ってもいいと口にした通り、八右衛門だって忠兵衛と梅川のことを考えて、思って、いろいろ言ったり手を差し伸べたりもするけれども、忠兵衛や梅川には伝わらない。伝わらないから観客はもどかしいのですが、では伝わらないのはなぜかといえば、肝心の二人が幼稚だからでしょう。幼いから納得できない。周りの気遣いを台無しにしてしまう。観客は本当にじれったい。でもそういうこと、あるよね、現実世界でも。
自分が幼いゆえに気がつけなかった優しさとかさ。そう思うとじーんとしてしまう。

身の丈に合った恋愛をしないから二人は死んだ、商人が花魁に恋などしても、身請けするのは無理に決まっている、最初から夢を持つな、作中の人々はそう思うだろうし、近松門左衛門の時代もそういう受け取り方をした人はいたでしょう。でもそれだけではダメだと思いました。
そもそも「身の丈」って何さ。誰がそんなの決めるのさ。かもん太夫は、梅川は、好きで花魁になったわけではないでしょう。
忠兵衛だって、亀屋に養子に出たのではなく、出されたのでしょう。いくつのときかはわかりませんが、自分から親元を離れて問屋を継ごうと思うような年頃ではなかったように思います。
宿衆の人々はどうでしょう。自ら望んで問屋の亭主をしているのでしょうか。もしかしたら、そういう人もいるかもしれません。そういう人はそれはそれでいいんです。この寄り合いみたいなグループも商売敵のはずなのに、困ったときには助け合えるようにというシステムはとても近代的でよいと思う。
でも、やっぱり好きで借金をカタに吉原にくくりつけられる人なんていやしませんよ。このあたりは、この間の元舞子さんによる告発なんかも思い出しましたね。
だから万民には教育が必要だし(情報ではなく教育です。知の体系なるもの)、教育のためにはお金が必要になってくる。困窮している市民にお金をばらまかないでなにが政府だよ、税金という名の下お金をむしるだけむしって市民に再分配しなって何様なのよ、と腹が立ってくる。幕府がそれをできないのはわかる。でも今は違うでしょう。欲しいものは手に入れるだけではダメで、それを持ち続けるためにはお金もかかるし、一通りの世話や気遣いも必要。でもそういう心の余裕さえもお金がないとどうにもならんのですよ! 聞いてますか、えらい人!
この時代の話はこの時代の話として、それはそれで仕方がない。でもどうしてそこから何も学ばないのよ。だから先進国の中でもジェンダーギャップ指数は最下位だし、賃金も唯一下がり続けているんでしょうが。
この作品は、今後も再演して欲しい作品ではあります(もちろん手直しするところはしてね)。でもそのときにはもっと心穏やかな気持ちで、もっと作品に集中して見られるようになりたい、とそんなことを感じずにはいられません。