ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

雪組『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』感想

雪組

ミュージカル『ONCE UPON A TIME IN AMERICA(ワンス アポン ア タイム イン アメリカ)』
脚本・演出/小池修一郎

原作の映画は未視聴。 

公式ホームページはこちら。

kageki.hankyu.co.jp

(フランキーについての訂正:2020年1月17日)

2回目の感想記事はこちら。

yukiko221b.hatenablog.com


●2つの鍵の謎

プロローグはあるにせよ、物語そのものはヌードルスが25年ぶりにファット・モーの店に姿を現すところから始まる。
ヌードルスはファットに「鍵を返しに来た」と言う。もちろん25年ぶりにイーストサイドの地を踏んだ理由はそれだけではないにしろ、その鍵は物語の鍵を握っている。
と、思われるのだが、そしてその鍵は確かに物語にとってとても重要なアイテムではあるのだが、そもそもなぜヌードルスは鍵を返しに来たのだろうか、というところがいまいち飲み込めない。
鍵はごくありふれた駅のロッカーの鍵。その鍵はマックス、コックアイ、パッツィー、そしてヌードルスがかつて儲けた金を入れておく場所であった。一定の金額になったら四人で山分けすることになっていた。
その鍵を四人はファットが所有している大時計の中に入れておくことを決めた。
ただし、ファットはその鍵が「何の鍵」か知らされていない。
「返しに来た」といわれて「ああ、そういえばマックスたちが時折持って出ていった鍵だね」といいながら、受け取ってまた大時計の中に戻してしまう。
当時の駅のロッカー事情に詳しいわけではないからよくわからないが、駅のロッカーの鍵は個人所有ができるものなのだろうか。
しかも少なくとも25年以上もヌードルスたちは鍵を自分たちのものにしていたわけだ。
そんなことが果たして可能なのだろうか。
可能であるならば、そういう現在とは違うことがそれとなくわかるように演出して欲しいなあと思ったり思わなかったり。

しかも、マックス、コックアイ、パッツィーがマックスの夢であった連邦準備銀行の強盗が失敗に終わったあと、ファットはなんとかヌードルスを逃がそうとする。これはわかる。幼なじみだからね。
けれども、そのときなぜかファットは「大時計の中の鍵」を持って行くようにヌードルスにアドバイスする。
ファットはその鍵が「何の鍵」であるか知らないにもかかわらず。
「マックスがいつも大切にしていたから、きっと大事なものが入っているんだろう。持って行け」くらいの台詞があるとわかりやすかったのかしら。

そして逃亡先はなぜかアヘン窟。
仲間の死(しかもその引き金を引いたのはおそらく自分である)によって精神を病み、治療のためにアヘン窟に逃げ、アヘンを吸うことになったのか。とにかくヌードルスはアヘンを吸う。
ここもなんでやねん、というツッコミが入ってしまったわけですが。
そこでヌードルスは幻覚を見る。救われない幻覚を。
まあ、なんといいますか、『ひかりふる路』の至高の祭典や『ファントム』の2幕のダンスシーンによく似た、死んでしまった者も含めて、ほぼ全員集合の形で、ヌードルスを追い込むというだいもん(望海風斗)がよく演じる場面です。
どうしてこういう場面が多いのでしょうね、彼女。でも演技はめちゃんこ上手い。
けれども、追っ手が来たということで、幻覚ふらふらのところを追い出される。一人で。いや、せめて誰かつけてやろうよ……。

これが一つ目の鍵の謎。
なぜファットが持って行けといった鍵をヌードルスは25年も経った後、わざわざ手渡しで返しに来たのだろう。
物語の最初の謎が解かれないもやもや感。

もう一つ鍵が出てくる。偽名を使って暮らすヌードルスのもとに送られてきた鍵だ。
その鍵もどうやら駅のロッカーの鍵のようで、その中には札束がたんまり入ったアタッシュケースが、入っていたといってファットの店にヌードルスが持ってくるのですが。
送られてきた鍵だけ見て、「お、これはあそこの駅のロッカーの鍵だな」ってわかるものなのかしら。
もしかしたらメッセージもついていたのかもしれないけれども、そういう演出あったかなあ。
こちらは見逃しただけかもしれませんが、こう鍵が都合良く出てくるとなかなか物語の世界に入り込めないのですよね……とほほ。


●華やかなお衣装

解けない謎の話ばかりしていても仕方がないので明るい話をば。
とにかく! お衣装が! 華やかで! たまりませんでしたー^^
オーシャンズ11』のスーツ祭りが好きな人はプロローグから最高ですよ!とお伝えしたいです。
咲ちゃん(彩風咲奈)のネイビーにストライプの三つ揃いは、元々長い彼女の手足をうんと長く見せてくれました。素敵。
翔くん(彩凪翔)とあーさ(朝美絢)の黒に白いストライプも素敵でした。
こりゃたまらんわーという感じ。目がいくつあっても足りない。
帽子をかぶっているので、なかなかお顔が見えないのが難ですが、その分ダンスのキレがよくわかります。
プロローグは必見。本当に目がいくつあっても足りない(2回目)。

きぃちゃん(真彩希帆)のお衣装もたくさんあって眼福でした。
少女の頃の白いカーディガンとバレエのチュチュ。前髪があってこれがまた可愛い。ベリーキュート。
ブロードウェイに行くと決めたときのコートと帽子、ブロードウェイでのショーのお衣装、レストランでの白いドレス、ベティに会ってしまったときのコート、ハリウッドでの記者会見の赤いドレス、慰問のときのモノクロのお洋服、最後の黒いドレス……有村先生、本当にありがとうございましたという感じです。どれも素敵でした。
もちろんドレスが素敵なだけでなく、きぃちゃんがどれも着こなしているのがすばらしかった。
どれが舞台写真になるのだろうかと今からワクワクです。

あーさもプロローグとフィナーレは男役として登場しておりましたが、そこだけでも3着。フィナーレでは緑のお衣装と、男役の群舞のお衣装がありましたからね。
娘役としては、黒のステージ衣装、それに黒の羽織を着た姿、チラシの緑のドレス、青のワンピ0津、ハバナでの白のワンピース、紫のドレス、サナトリウムでの患者着、など実に豊富でした。
男役のときの彼女が非常にキラキラというかギラギラしていて、生き生きとしていて、「ああ、男役がやっぱり好きなんだなあ」と思いながら観劇しました。どれが舞台写真になるのか、楽しみです。
もっとも、なぜ男役として脂ののったこの時期に娘役を当てたのか、私にはあんまり理解できませんでしたが……。
最初の歌も、キーが高くて少し辛そうだった印象がありますので、これからより深まっていくことを願います。


●描く場面と描かない場面

もっと描いてくれよ!と思う場面と、いや、そこはもういいっていう場面の差があったようにも思えます。
もっと描いてくれよ!と思ったのは、何と言っても海辺のレストラン。
そこは! だいきほの! 大切な場面! なのですが、レストランに入って注文をするところ、食事が終わって歩いているところ、バラのしきつめた部屋の場面しかないのですよ……なんてもったいない……いや、彼女たちの演技力ならその前後をちゃんと連想できるんですけれども、私はその芝居が見たかったよ。
せめて、注文したシャンパンが来るまで、ダンスをしているシーンはフルで見たかったなあ。
バラのお部屋もすごく気合い入って大道具さんが作っているのがわかっただけで、エッもう終わっちゃったの?と思ってしまった。
ソファに片足つけて、タイを緩めるヌードルスというかだいもんの姿にうはうはなお嬢さんはまあ、確かにたくさんいたかと思いますが、あそこでデボラがちゃんと拒否できて、私は本当に良かったと思っているよ。

いや、もうそこはおなかいっぱいだって!と思った場面は、まずはマックスがキャロルをはたくシーン。
2回もありましたからね? しかも2回とも概ね理由は同じでマックスが自分に従わないキャロルをはたしているだけですからね。
いやいや、宝塚ではそういうのが見たいわけじゃないんですってば!という感じがしまして。
まあ1回まだわかるのですが、同じ理由で2回もはたくなよっていう……。
『IAFA』で「ババア」という台詞が同じ人に向かって2回、言った人は異なるものの、これも根本が同じ考えでなんで2回もそんな台詞を聞かされなければならないのだろう、宝塚に来てまで……と思ったものです。
しかも怖いのが、1回目にはたかれてから次にマックスと出てくるキャロルが「何事もなかったように笑顔」であること。
おいおい、ホラーかよってなる。
思えばヌードルスに対して「いつまでも振られた女のことを引きずって」とマックスが言った後も、この二人、何事もなかったかのように話をしていたから、そういう思考の途切れ具合がちょっと辛かったかなあ、と。
マックスは今でいうところの完璧なDV男ですな。
道ですれ違った犬を杖で攻撃しておきながら、帰宅してそのことについて震えているって、アンタ……。
なんだ「背が高くて」「ハンサム」で「えくぼ」があるとチャラ二なるのか?
キャロルよ、もっといい男を探しに行こう。

「さよなら禁酒法!♪」という歌も同じ場面で3回くらい出てきたと思うのですが、いや、わかったよ……2幕はもっと大切な場面があるでしょ……と思わなかったり思ったり。
いや、インフェルノのガールズたちはとっても可愛いのですけれどもね!
タチアナのひまりちゃん!(野々花ひまり)スチール写真おめでとう!
すごく可愛かったでえ!

ベイリー長官の書斎の上手側の扉。
ジミーが「裏口から出て行く」といって、その立派すぎる大道具さんの気合いがめっちゃ入っている扉から出て行ったときには、アレと思いましたよ、私。そこは! 裏口! なのか!?
立派すぎるやろ!?
ちなみに執事に連れられたヌードルスは後ろから入ってきました。
あ、表側の扉は、扉を作っていないのね……そうなのね……。ちょっとあれだけ気合いが入った豪華な扉を裏口って、その演出どうなのよ!><


●脚本のあれこれ

1幕で何も起こらないというほどではないのですが、2幕にいろいろ詰め込みすぎて、ちょっと余韻に欠けたり、話についていけなかったりするところがありました。
例えば、2幕で連邦準備銀行を襲うところ。
マックスが「やるぞー!」と歌うのですが、ヌードルスは真っ向から大反対というよりも「そんなの危険すぎる」と歌う。
歌詞をよく聴けばヌードルスがマックスに反対していることはわかるし、だいもんの発声はもちろん何を言っているのか、歌詞がきちんと聞き取れる、のですが。
同じ曲調で続く上に、その後ヌードルスも参加する方向で話が続くものだから「あれ?ヌードルスって対立していたよね?」と一瞬おいていかれる。
曲そのものを変えなくても、1番と2番で曲の調を変えたり、アレンジをしたりすればいいのに。

その連邦準備銀行について、ヌードルスはキャロルに頼まれたように警察に密告する。
この密告をお願いする場面。「お願い、あの人のためにもう一度刑務所に入って」というキャロルの台詞。
最初に聞いたときも「なんか変だぞ?」と思ったのですが、2回目に観劇したときは客席から笑い声が。
ああ、これ覚えがあるぞ。『壬生義士伝』で新撰組が「おもさげながんすー」って言う場面のときと同じアレや、と。
今回も、あそこで笑いが入ったらいけないだろう。演技が拙かったとは思わないから、観客のリテラシーの問題か、はたまた脚本の問題か。
あの台詞はなーちょっとな……。

密告された警察は、自分たちで始末するよりもギャングたち同士が潰し合ってくれた方がいいから、と別のギャングに情報を垂れ流す。
これがフランキーという人たちのグループなのですが、そもそもアポカリプスとこのフランキーのグループが対立している場面があったように私には思えず……。
少なくともヌードスルたちが対立するギャンググループは少年期にヌードスルが刺し殺してしまったバグジーたちのグループしか描かれていなかったような。
フランキーたちはこのグループの後釜か何かだったのだろうか……。
私としては「突然フランキーをリーダーとするギャングたちが出てきて」「アポカリプスの邪魔をしようとした」というようにしか見えなかったのが残念。

※フランキーはちゃんと1幕から登場していたし、なんとなくアポカリプスと対立するような描写もありました。失礼しました。

わかりにくいといえば、ハリウッド記者(舞咲りん)がデボラに「契約を更改しないのですね?」と聞く場面があるのですが、「更新」の方がわかりやすいのではないかなあ、と思ってみたり。
「コウカイ」ってたくさん同音異義語があるからさ、とそんな細かいところまで気になってしまう。すまん。
台詞で他に気になったのはキャロルのサナトリウムにて。
「キャロルの前では火や煙は見せないこと。火事の話もやめてください」みたいな台詞がありましたが、もっとすっきり言えるだろうよ。
言うにしても火事の話が先なのでは? いや、煙草を考慮しているのかもしれませんが。
「キャロルの前では火事の話はやめてください。煙草もお控えください」と言った方が芝居の台詞としてはわかりやすいのかなあ。

 


●ニックが救い

もうね、悪い人ばっかり出てくるのよ、この話。
ギャングだし、そりゃわかりきっていたことではあるけれども、本当にロクな人が出てこないのよね。
ジミーも最初はお?まともな人か?と思ったけれども、これが大間違い。
大悪党だったわ。っていうか、大悪党になっちゃったわ。
このあたりの演技はさすが翔くん。すばらしかった。
一見普通の人なんだけど、だんだん悪くなっていく、そして最後は「もう一度俺のために死んでくれ」「俺は自分の手は汚さない主義」とかピカピカの悪党台詞を吐いても一切見劣りしない立派な悪い奴になっていました。すばらしい。

だからこそ、ニックのあやなちゃん(綾凰華)が救い。
デボラとずっと一緒にいて。それこそチュチュ着ていた頃から、ブロードウェイでも、ハリウッドでも、いつでもデボラの近くに彼がいてくれて、デボラが辛いときには支えてあげて。
お金のためにあくどいことをしたり、デボラに対して変な色気心を出して襲ったりすることもなく、自分の音楽の才能を信じて、音楽で食べていくぞ!頑張るぞ!って希望の見える役。本当に心の底から応援したい。
どうか彼の人生が転落しませんように。

 


イケコにしては娘1の出番が多かったようにも思えますが、いまいち何かがなり足りないなと思うのは、大人になってからのヌードルスとデボラのデュエット曲よりも幼少期から繰り返される「皇帝と皇后」の方がインパクトに残るからなのか。何なのか。
1幕終わりで「全員集合」にならなかったのも珍しいといえば珍しいですが、何を思ってそれに挑戦したのだろうかといまいち意図がわからず。
むしろ全員集合する場面があまりなかったから、やっても良かったのではないかと思うくらいで。
でもだいもん、死ななくて良かったね! 新年そうそうこりゃめでたい!と心底感じました。