ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

成人になる君達に告げる

今週のお題「二十歳」

 

はてなさんが成人の日にちなんで、お題をくれたので、ちょっと真面目に考えてみようかと思います。

そんな需要があるのかどうかはわかりませんが、せっかく作ったブログもサボり気味だったので。

 

以前、高校三年生を送り出すのときに「大人になるということ」という内容の文章を書いたのですが、今回、それを見直すきっかけをつくってくれたのは以下の記事です。

sheishere.jp

すごく長くなったので、結論だけ先に書いておきますと、「自分の幸せを望むのと同じくらい他人の幸せ、しかも会ったこともなければ見たこともない、さらには未来の世代の幸せまで考えて行動できるようになること」が「大人になること」の一つだと考えます。

 

●社会運動は違法ではない
なんていうか、当たり前の話なのですが、デモや署名といった社会運動は、当然違法ではない。
それにもかかわらず、違法だと思っている人がこの国にはたくさんいる。
浅間山荘事件によって「社会運動は危険」と刷り込んだメディアの責任は大きい。
わたしはリアルタイムで知っている世代ではないけれども「社会運動=浅間山荘事件=凶悪犯罪」とはならなくてよかったと思っている。

それでも最近はその浅間山荘事件さえ知らない人が増えている。
去年観に行った『流れ星』という舞台で、「内ゲバでリンチされた」という台詞が聞き取れなかった人がいたことに驚いたくらいだが、そういうものなのかもしれない。
でも風化してはいけない歴史ではないだろうか。歴史は繰り返すというが、繰り返して欲しくない歴史ほどそうだから困る。

自分の主張が通った経験がないと、なかなか「自分は主張していいんだ」とは思えない。
でもこの国では、自分の主張を作り上げる環境もシステムもない。
人の顔色を伺いつつ暮らしている。
大げさに言えば、一神教であるキリスト教八百万の神を崇めてきた日本の違いともいえるだろう。
そういう意味で、この国の民主主義なるものは、ただ単に外国の真似をするだけではいけないのかもしれない。

●フィクションの中の革命家たち
どの部分も興味深いのだけれども、その中から今回は特に3つを取り上げて話をしたい。
1つ目はなんといってもここ。

「かん:漫画だと『ベルサイユのばら』(池田理代子著、集英社)とか、ミュージカルだと『1789-バスティーユの恋人たち-』や『スカーレット・ピンパーネル』だとか、革命を題材にした作品って日本でもすごい人気じゃないですか。かっこいいから私も大好きで。でも革命って、実際はわたしが怖がってるはずの「社会運動」なんですよね。フィクションだとこうも憧れるのに、自分ごとになると身近じゃなく、抵抗感があって不思議です。
あんな:オスカル様は、後世では英雄と語り継がれるかもしれないけど、その時その場所では世を騒がせるアンチ扱いされちゃうよね。貴族社会を裏切ったアンチ。
とみなが:まあ元来、革命家というのは社会に対して反旗をひるがえす存在ですからね。」

ヅカオタとしては外せないかな、と。
雪組の『ひかりふる路』も革命家の物語ですね。
「社会に対して反旗をひるがえす存在」は物語になりやすいのでしょう。
波瀾万丈でロマンの妄想も膨らみそう。
赤穂浪士事件を扱った『忠臣蔵』や新撰組の活躍を描いた作品も、革命といえば革命でしょう。
ロシア革命の時代を描いた『神々の土地』も忘れてはなりません。
宝塚は本当に色々な革命を扱っている。だからそろそろ内部にも革命を起こしてね(小声)。

一方でフィクションの革命にならされると、派手なことをしなければいけないと勘違いしてしまうのかもしれない。
軍たちを率いて前線に立つとか、君主の復讐のために命を捧げるとか、ちょっと今の自分にはできないなあも思うことは何も悪いことではないだろう。
もちろん、物語というのはそういうこところから生まれるのだろうが、私は物語を楽しむ側で充分だ。
だから自分が物語を楽しむためには、今自分が生きている現実世界で、自身がハラヘッタ状態にならないことが必須である。

ついでに言うなら自分と同じように、みんなが趣味を謳歌して欲しいと思うから、企業はたんまり給料を支払う必要があるし、労働時間は長くてはいけないし、世界は平和でなければならない。
だからその反対になりかけたとき、あるいはなったときは、私たち自身が革命家にならなければならない。
では、「現実の革命」って何だろう。

●現実の革命
上記の疑問に答えてくれるところが、2つ目に印象に残ったところ。

「かん:デモで直接何かを変えるんじゃなくて、変わるきっかけを作るってことか。
とみなが:あくまで私の考えですが、声を上げるだけで、すぐに何かを変えられると期待し過ぎない方がいいですね。法律や制度が変わる、といった大きな変化がおきなかったとき、無力感につながって、燃え尽きてしまうこともあると思います。
これもやっぱり私の意見ですけれども、なぜ日本に住んでいる人が社会運動に参加しないかというと、自分の主張で社会を変えた経験・意識が希薄だから、有効性を感じられていないからじゃないでしょうか。その一方で、社会運動に期待をかけすぎてしまう面もある。だから、うまくいかないと「やっぱりだめか……」と感じてしまう。ただ、さっきも言ったとおり、デモにしろ、署名にしろ、あくまできっかけづくりで、そう捉えたら「意味がある」んです。
あんな:結果を求めすぎず、違和感や主張を無視されないための道具として、うまく使うということですね。」

なるほど。大きな結果を求めすぎてはいけないのか。
未来のために「一石投じた」と思えばいいというのは、リターンをすぐに望む人間には難しいだろうし、テイク&ギブの人にも無理だろう。
そう考えると、「まだ顔も見たことのない次世代のために自分ができることをする」というのは、大人になることの一つと言えそうだ。
次世代の人間は、生きている人間と違って絶対に拒否できない。拒否権はあるのに、声を上げることができない。もっとも弱者である。
その弱者のことを考えて行動できることは、立派な大人の証だろう。

最近の社会運動の成功例として、「大学受験記述式の見送り」「Kutoo」が含まれていたのは、どちらも無関係でないだけに嬉しい。
ついでにいえば自分も図々しいとは思いつつ、微力ながらそれに参加できたと思っているので(署名したり、拡散したり)、さらに嬉しい。

●買い物好きな人たちへ
「いちばん気楽な騒ぎ方を知りたい!」と一見聞きにくそうなことを、ズバッと聞いてくれるかんさんは毎回本当に素敵。そしてとみながさんの回答が続きます。

「お買い物関連はわかりやすいです。特定のブランドの商品を買う・買わない。例えば、LUSHは社会問題全般、パタゴニア環境保護へのメッセージ性が非常に強いですよね。逆のベクトルだと、デザイナーによる人種差別的発言があったドルチェ&ガッバーナに対する抗議行動もそうです。」

これなら私もやっているわ〜!と思った。
たとえばス◯バ。私は利用しない。
コーヒーを扱っている企業なのに、フェアトレードに反対ってどういうこと?と思うから。
コーヒー豆をフェアに取引せずに、浮いたお金が経営者のポケットに入るのは、コーヒー豆を作っている人の幸せにつながると、とても思えない。

他にもトップ◯リュー。
生産者や製造者の名前が書いていないことが多い。その人たちに正当な報酬が回っているのか心配でたまらない。
特に食品は自分の身体に入るもの、自分の身体をつくるもの。だから気を遣いたい。
ピアゴアピタはオススメだよ!

上記のLから始まる企業も黒い噂を耳にしたことがあるから、積極的に避けている。
今はもう変わったかな。調べてみようと思った。
遠征に行ってもア◯ホテルも使わない。絶対に。
マク◯ナルドも使わない。ファーストフードが食べたければ、毎日野菜の生産者の名前が黒板に書いてあるモスバーガーを使う。もっとも牛肉苦手なんだけど。
モスの売り上げが落ちていて、マックの売り上げが上がっているというのは、なるほど、不景気だなと思う。
さらに、外国人労働者の扱いがひどい企業も使いたくない。外国人も同じ人間のはずだよね。
そう考えると、この国で安心して利用できるものってどれくらいあるのだろう。
しかもこれらのことは大抵企業やブランドにとっては都合の悪い事実だから、調べてどれくらい出てくるのかは結構難しいかもしれない。


そういうわけで、はてなさんがくれた「大人になるのはどんなとき?」というお題の答えは、はじめにも書いたように

1、自分の幸せを願うこと
2、それと同じくらい他者の幸せを願うこと

の2つの側面が大きいのかと。

もちろんこれだけが全てではないだろうけれども。
観劇オタとしてのまとめは、転売屋ははやくいなくなれ!ってことでよろしいか?