ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、古典文学など好きなものについて語るところ。

『月の獣』脚本感想

『月の獣』
作/リチャード・カリノスキー
翻訳/浦辺千鶴
演出/栗山民也

公式ホームページはこちら。

www.tsukinokemono.com



原作未読。ついでに言えば舞台も未見。
『悲劇喜劇』に掲載されている脚本の感想です。
話の核心である「アルメニア人虐殺」についてもあまり詳しくない。不勉強で申し訳ない限り。

●穴の開いた写真
おもしろい。とにかくおもしろい脚本だった。
舞台を見られなかったのが本当に残念でならない。
ツイッターで『月の獣』おもしろいぞ!という話を聞いてから、「なんとかしてチケットを」と思ったのですが、地方住まいということもあり、手に入らず、ハンカチを握りしめていたところ、「脚本あるで!」と教えてもらい、すぐに買ったものの、読んだのは今日っていう……。
でもすごいおもしろかった。もっと早くに読みたかったし、なんなら再演してくれ!と思う。舞台見ていないのに図々しいかな。

顔の部分だけ穴の開いた家族写真。
主人公のアラムの家族の写真ですが、アラムは自ら家族の顔を切り取り、自分の顔を自分のところではなく、父親のところに貼り付ける。
冒頭で女の子を連れてくることで、ああなるほどこの女の子が切り取られた母親の顔のところに貼り付けられるのね、と。
やりたいことがわかるだけに、正直ちょっと怖い。
最近の映画『パラサイト』のポスターも家族写真の家族の目が棒線で消されていたけれども、それだけでも不気味なのに、首から上が丸ごと切り取られている。しかも別の首を貼り付けている。
猟奇的とでもいうべきか。
顔って名前と並ぶアイデンティティですからね。
そこに別の顔を貼り付けられた日には……。

アラムと結婚するのはセタという女の子。
アラムと同じくアメリカに亡命してきたアルメニア人。
家族を殺されたアラムは、自分で家族を作ることでその穴を埋めようとする。
しかしセタはまだ人形を小脇に抱える子供。
その人形にも意味があるのですが、ちょっと最初は強引でアラムに、こらこらと言いたくなるのですが、2年経っても子供はできない。
写真の穴は埋まらない。

●子供ができない2人
子供ができないことで苛立ちを隠せないアラム。
そんなに追い立てられたらできるものもできないだろうという感じがするけれども、あとから「不妊症」という言葉も出てくるし、20世紀前半の医学はそこまで進んでいるのか、と。
わたしにはよくわからないのですが。

セタがずっと喋っている中、アラムが無視し続ける場面、心が痛いわ。
いるよね、そういうモラハラ旦那、とか思いながら見てしまった。
セタが痛々しくてかわいそうで、もうなんだか見ていられなくて、でもきっとこのまま子供はできないだろうことが予測できて辛い。
聖書を使って説教するのも、ね。心が痛い。
もちろん家族を虐殺されたアラムが早く自分の家族が欲しいというのは、わからないではないのだけれども、それは前の家族の代わりにはならないということがいまいちわかっていないらしく、それがとにかく痛々しい。
セタの家族も虐殺された。
人形は母だった。その人形をイーゼル磔刑にしたときは驚いた。
ずっとイーゼルあるな、何に使うのかな、と思っていたけれども、あんな使い方をされるなんて思っていなかったわ。
磔刑はキリストと同じ処刑方法だけど、キリストな生き返ったのに対して、当然セタの母は生き返らない。
アラムにとってのコート、ヴィンセントにとってのコイン、セタにとっての人形、これらがそれぞれに印象的で、ある意味で美しい。
個人を動かすのはルールでも国でもなく、個人の思い出だということがよくわかる。
すごく大切なこと。

アラムが、自分には子供ができないのに、仕事でお偉い人たちの家族写真を撮影するのは、どれほど心苦しかっただろうか。
これはわたしもセタと同じように言われるまで気がつかなかったわ。
そりゃ辛いに決まっているだろう。
でもそれに気がつく余裕がないくらい、セタだって傷ついているのね。

子供ができなくてもセタには料理という特技がある。
誰にでもできることとできないことがある。
けれどもそもそもセタ自身は子供が欲しかったのだろうか。
そのあたりは脚本からはあんまり伝わってこなかったような気がするのですが、縁者の解釈次第ということでしょう。
どう演じたのか。気になるところです。

●ヴィンセント
子供ができないことがわかったセタは、路上暮らしの子供を家にあげては食事をさせ、風呂の世話をする。ただし、アラムに内緒で。
このあたりが痛々しい。内緒なのねーってなる。
でも当然ばれる。4人目でバレた。
それがヴィンセント。神父からまさかの性的虐待を受けそうになったところを逃げ出し、雪が降ってびしょ濡れのままセタの家に向かう。
外の気温はマイナス5度。セーターも着ていないヴィンセントに、アラムが一度も袖を通していない大きめのコートを貸す。
アラムはそれに対して烈火のごとく怒る。
アラムにとって、そのコートはただのコートではなかったから。
この場面は脚本を読んだだけでもかなり印象的だったから、舞台を見たら手に汗を握るかも。
だからこそ、ラスト、養子になったヴィンセントにアラムがコートを送るのが感動。
物語の構造として完璧やろ。

ずっと語り手であった老紳士が、このヴィンセントというのが最後に明かされる。
ヴィンセントはなぜ自分の父母について語ったのだろう。
おそらくこのタイミングではアラムとセタは亡くなっているはずだし。
ヴィンセントはアラムとセタから聞いた話を語る。
アルメニア人の虐殺を忘れないために?
それもあるだろう。詳しくないから偉そうなことを言えないけれども、忘れてはいけない歴史だろう。
けれども、本当にそれだけだろうか、と考えたときに思いつくのは、虐殺を繰り返さないため、という目的。
虐殺の場面を一切描くことなく、虐殺によって心に傷を負った人間を描くことで、虐殺よ恐ろしさを描く。
うまいなあ。そして、おそらくこういうのが、これから増えていくのではないだろうか、となんとなく思う。

少子化のこの国で
ヴィンセントがこれを語るのは、アルメニア人虐殺を忘れないため、繰り返さないためだとして、では「子供ができない2人が養子を引き取る」という筋は、現在この少子化がもっとも進んでいるこの国ではどう受け止められるのだろう。

去年生まれた子供は90万に達しなかった。
生まれた90万の命をまずは大切にしなければならないだろうが、全ての命がすくすくと元気に健全に育つわけではもちろんない。
虐待される子、両親を突然失う子、施設に入っている子供もたくさんいる。
そういう子供の面倒を誰が見るのか。

たとえばあさこさん(瀬奈じゅん)は特別養子縁組の制度を使った。
子供を一生かけて預かる制度だからハードルが高いのは仕方がないかもしれないが、もっとたくさんの人が使える制度にする必要はあるかもしれません。
アラムとセタのところのように子供が欲しいのに、子供を授かれない夫婦のためにも。

さらに言えば、同性婚が認められれば、その2人を親として、子供を育てることも可能であるはず。
血が繋がっているとかいないとか、もう21世紀だし関係ないと思う。
血の繋がった親の元で健全に育てないなら、大切に育ててくれる人の元で育ったほうが子供にとっても良いだろう。
一方で、もちろん子供が欲しくない異性の夫婦だっていていい。本当に去年の神田沙也加はかわいそうだと思ったよ。
子供が欲しい人のもとで育つのが、子供も一番うれしいはずだよ。
そして子供がいなくても、もっといえば、結婚しなくても幸せになれる時代だよ、今はもう21世紀だし、令和だよ。

もっといろいろな形の家族のあり方が受け入れられる社会になって欲しいなあ、というのが最終的な感想です。
本当にええ話やった。再演を希望する。