ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、古典文学など好きなものについて語るところ。

講演『パンとサーカスの危ない時代に』メモ3

2018年10月23日(火)
京都大学未来フォーラム第72回『パンとサーカスの危ない時代に』
講師:宝塚歌劇団演出家上田久美子氏

www.kyoto-u.ac.jp

メモ1とメモ2はこちら。大変遅くなりましたが、今回が最後です。

yukiko221b.hatenablog.com

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これが『霧深きエルベのほとり』の一部です。
すごいですよね、手切れ金の札束で叩くって。
あれは本当にすばらしいから、今回もぜひ取り入れたいです。
なかなか今の私たちには思いつかないような世界観だなと思います。
最初にあった歌の目力すごくないですか。あんな目どうやったらできるのだろう。
今の時代の人ってできるのかな。できたらすばらしいと思う。
あれは一人ひとりの人間のエネルギーが高まらないとできないんだろうな。

昔のおばあちゃんたちの時代って鶏の毛をむしって食べていたりするじゃないですか。
この間も、海に近い九州の祖母のところに行ってきたのですが、「おばあちゃん、年取ったから何にもしてあげられない」と言いながら、ご近所からもらってきたはまちをがってもちあげて、すぱって頭を切り落として、さばいていて、解体ショーしていた。すごい! 95歳何もできなくて、このレベルか、と。
一人ひとりのポテンシャルが高かった時代の人間なんだな。
現代は、私は脚本だけをやります、僕はこれの開発だけをやります、という形で分業されている。
昔はそうではなかった。
おじいさんとおばあさんが一緒に麦刈りをしていると、前方に雉がいたことがあって。
雉にむかっておじいちゃんが鎌を投げて、それがちょうど雉に刺さってそのまますき焼きにして食べたという話もあります。
人間のスケール感が全然違う。
肉体的な大変さが人を強くしていくんだな、と常に思っていて、『エルベ』もそういう視点で観ていました。

これからの人々が、物語から何を得ていくことができるのか。
分業制の世界観で、物語は人々に何を提供できるのだろうと考えています。
『エルベ』もその答えの一つになるのではないかと思って、劇団に再演を掛け合いました。

今、私が思っている物語の働きは次の3つです。
「1 共感の拡張」「2 痛みの肯定」「3 悪の可視化」

1つ目の「共感の拡張」について。
共感しやすい身近な題材・立場、同じような時代ではなく、違う立場・価値に触れることで、自分の中に「人類の心」をつくっていくことではないかな、と。
自分の心に新しい場所を作っていく。これが物語を通してできることだと思います。
宝塚の往年の名作って、言ってみれば不倫が多いのですが、最近では「不倫は悪いことだ」「主人公が不倫することには共感できない」という感想が寄せられるようなんですね。
『あかねさす紫の花』は、二人の男の間で一人の女が揺れる動く、そういう人間の業を描いた作品で、定番の物語の構造だと思うのですが、「結局どっちが好きだったの?」みたいな感想になってしまう若者がいる。
ピュアワールドで生きていると、そうなってしまうのだろう。
自分と似ている人を見つける、同じ価値観の行動をする人を愛するというのは狭い意味での共感ではないだろうか。
本当は自分とは異なる他者の価値観にまで心を広げていくことが共感なのではないか。それがかつての共感だったように思う。
自分と似たような登場人物の人のことしかわからないというのはどうなんだろう。
それはインターネットの普及で自分と似た価値観の人とだけ交流したり、社会で許される幅が狭まりすぎたことが原因だろう。

人が物語を見るときって、きわめて個人的な個人が「私もそうする! わかるわかる!」「私だったらこうするのに~!」という登場人物と一体化するような見方ではなく、自分の中にある「人類としての心」で人間の愚かなところだったり汚いところだったりを見て、でも人間って愛しいな、おもしろいなと思うことが共鳴だったり共感だったりするのでは。
「人類の心」というのは、心の集合体で、今まで出会ってきた人、家族だったり、好きな人、嫌いな人、あるいは物語の中で出会った人なんかもたくさん入っている。
『エルベ』という作品は、愛想尽かしの話で、歌舞伎でよくある構造である。
いいところの武士の子息が芸者である自分に入れあげていて、でも彼は家に帰って立派に仇をとらなければならない、こんなことをしている場合ではない!というときに、わざとみんなの前で恥をかかせて、自分の好きな人を失望させて、自分のことを嫌わせて、身を引く、という構造です。
これから作品見る人には申し訳ないのですが、こちらの『エルベ』は男女が逆転している。
札束で殴っているのは、本当に怒っているのではない。
自分は彼女のことが好きで好きでしょうがないけれども、彼女に自分を嫌わせなければならない。
心で泣いて殴っている。いい場面。
ヒロインはお金持ちの令嬢で、自分は船乗り。彼女に苦労させたくないからあえて縁を切る。
高度経済成長期の日本人ってみんなそういう我慢をしていただろうから、価値観を共有して観客も泣いていた。
けれども、今のヒューマニズムでは「愛があればお金なんて」という考えになってしまう。
あの登場人物の心理の動きと今の時代の人の心の動きは違う。
じゃあこの物語を楽しめないかと言うと、そうではない。
なんとなく自分の祖父母たち、親の世代の人生と重ねたり、今も世界にいる貧しい人たちと姿を重ね合わせたりして、何かを感じることがあると思う。
そういうふうにしか生きられない世界もあるってわからせてくれる。

このように、人がなるべく共感しやすいだけではなく、多様な物語に触れて違った文化・価値観に触れる機会がたくさんあって欲しい。それがそのまま心を広げる機会にもつながる。
なぜそういうふうに思うのか。
地球上にはいろいろなたくさんの価値観・状況の人がたくさんいる。
本当に解決しなければならないグローバルな問題、根本の問題は、日本だけでは解決できない。
それに対して、いろいろな価値観に対して共感や理解ができないと、解決の方向むかわないのではないのか。
これはちょっと共感できないとかいうのは、むしろ逆の方向に行ってしまう。
共感を自分と似た種別を判別するという役割に使ってはいけない。
これが1つ目の「共感の拡張」の役割だと思っています。

物語の役割の2つ目は「痛みの肯定」です。
物語の中の痛みには、それが生きていたら誰にでも起こる痛みだよと教えてくれる。
もし、社会が無痛化しているのだとしているなら、「心が痛い」というのはタブー視されてしまう。
でも「心が痛い」というのは誰にでもあること。
それがあると人生の失敗だ、社会があってはならない、と考えてしまうと、痛みそのものよりも、その挫折のほうにダメージを受けてしまうのではないだろうか。
やはり物語などで描かれた痛みというものを知っておいて、それが現実に自分に降りかかったときに、自分を客観視できるようにならなくてはいけない。
「あの話よりも、自分はつらくない」と思えるように。私は結構こういうことがあって、だから精神的に強くみられる。
物語の中で痛みとか悲しみはすごく大切に描かれるような、人間たちがずっと昔から味わい続けてきた感情なんだとい価値を認めて、痛がっている自分を否定せずに、受け入れることができたら、傷は癒えると思います。
例えば、痛みを与えてくるような悪い人に出会ったとしても、本とかお話に出てくるような人が本当にいたんだなと思えるように。
ナチスの収容所体験を描いたフランクルの『夜と霧』の中でも、苦しみというものを客体化することがいかに人間の心を支えるかということがとてもよくわかる。
フランクルという人は、収容所にいても、自分が体験している極限的な状況は人間が体験する中でももっとも過酷な極限状態で、普通の状況ではないから、これをあとで本に書きたい。
だから、収容所の中でも、自分や他人の心理を観察を続けて、もし生きて帰ったら、これをどんなふうに分析して、どんなふうに名付けて、ということをずっと収容所で考えていた、といいます。
そうやって客体化していたことで、彼は生き残ることができた。これは強い。
やっぱり収容所の中なんかだと、精神的にやられてしまうと、物理的な命も早くに奪われてしまう。
いかに人間の感情というものを客観視できるか、それを慈しむことができるかということは心の支えになる。
宝塚でも、別のカンパニーの話ですが、ナチスに抑圧されたユダヤ人がたくさん出てくる芝居がありまして(雪組凱旋門』のことか。新人公演の演出を担当されていた)。
「私、あの亡命者の役、やってみたい」と言っていた生徒がいる。
役者たちは辛いことを舞台で表現しなければならない、自分もある程度辛くならなければならない。
自分を追い詰めなければならないから、そのため、進んではやりたがらないような役であるにもかかわらず、やってみたいという人いて。
「え、あれ毎日上演するの大変だよ?」
「そういう感情がどういう感情なのかわかりたい」
その体験は自分が生きている範囲ではできないから、その人たちの苦しみにたどり着けなくても、知りたいと言っていた生徒がいた。やっぱりそういう生徒は芝居がうまい。

3つ目は「悪の可視化」です。
人間は、悪というものを必ずもっている。どうしたって存在してしまうもの。
あってはならないといっても、いろいろな欲望や感情を飼い慣らしていかなければならない。
「悪はあってはならない」と目を逸らしていた方が独善的になってしまうのでは。
物語というものを通して、人間の中にある悪を表に掘り出して、みんなで触ってみて確認することが物語や演劇の役割。
人間の中の悪を結構ド派手に描いた歌舞伎の『女殺油地獄』や不倫や二股人間のどうしようもなさをえがたいたラブストーリーって結構あるじゃないですか。
デビルマン』(原作永井豪)ってお読みになったことありますか? 大学の授業ですすめられて私は読みました。
ベルイマンの『処女の泉』も、人間の醜い悪の部分をわざと描いて見せた。ある意味で、悪の告発と自戒物語です。
女殺油地獄』の男なんて、自分のことを思っている優しい奥さんをお金のために殺す。
ひどいことするなと思うんですけど、でもその男は最後にフェロモンを撒き散らしながら去っていく。
あれはなんなんだろうと思う。
本来、野生の生き物である私たちは心を抑えて生きている。
だから、時にはそういうものお日を当てて、埃を落としてあげなければならない。
ピュアになりすぎて、内なる悪の存在を自分にも他者にも許さないと、必要以上に傷つきやすくなる。
どうしたって存在しているものを、無視しようとすると、無理が生じる。
悪があることを認めて、観察して、その扱いをうまくなっていたったほうが賢明。
物語では悪の疑似体験できる。
世の中で実際に体験することがないぶん、物語や舞台で、具現化して目に見えるようにする。
心のバランスをとるために機能している。

以上が、私が物語に期待する3つの役割です。
娯楽や物語が目くらましのサーカスで終わらずに、何かの形で社会がバランスをとっていくための役割、ときにはブレーキを踏むための役割になっていってほしい。
本当にそんな役割があるかどうかはわからないけれども、私は、こういう仕事をする以上は、そういう志をもってやっていきたいと思う。

最後に原稿の終わりの部分を読みます。途中をすっとばしているので、ここだけ読んでもわからないかもしれませんが、これで締めくくりたいと思います。

<原稿の引用>
竜宮城にカエル前に
 今の社会の進む方向は、わかりやすい「悪」を排除したピュアワールドを目指す、という価値観だけを信じて他者にのそれを強要するという、客観性を欠いた状態に見える。ナチスのような歴史上での愚行は、それが善とかたく信じた者によってこそもたらされたことを忘れてはならない。自らを善だと信じるすぎる人間は危ない。
 私たちは、先の見えない時代に、本当の「悪」を見極め、自分たちの進むべき方向を懸命に考え続けるしかない。「悪」を目に触れない場所にしまい込んでピュア=無知に目先の快感だけを追い求めて、痛みもなければ真の情熱もないような、データの海に漂う「情報」のようになって一生を終えようとする衆愚に陥ってはならない。情報化によって私たち大衆が覇者となり国家も組織も私たちの顔色を伺う時代に、私たち大衆は、その力を間違って使わないために以前より賢明でなければならない。パンとサーカスに惑わされずに…(中略)
 都市で生きる我々は五感を使う機会が極端に減り、犯罪も肌で感じづらいものになった。
 人間という動物の心の健康のためには、強い痛みや悲しみを感じることと、強い愛情や感動を感じることが、バランスの良い食事のように、共に必要だろう。
 苦痛は辛く、時に生きる希望を失いそうになることもある。それでも、それらを「感じる」ということそのものがあってはならないことだと自分を責めずに、命の営みとして何とか受け入れてきちんと感じる過程を経たのちに、人間はいつかまた未来に向かって歩き出すのだろう。
<引用終わり>

ということで結びに変えたいと思います。
情報が中途半端ですので、インターネットで発信する場合は、原稿を確認していただいてツイートなりなんなりしていただけると嬉しいです。
あと来年の元旦より宝塚大劇場でお待ち申し上げておりますしています。
今月の29日のBSも忘れずにチェックいただきたいと思います。

最後に京都大学の学生へ。
私は学生時代は全く優秀ではなかったし、さきほど先生から「これあなたの卒論よ」と言われても「もういいです」って感じで、一生の汚辱……まず「メルロ・ポンティ」の表記が間違っている。
名前の書き方間違ってるよ、って卒業のときに言われるっていう。
どういしようもない学生で、講義にも出ていなくて、ヤマザキパン工場にばかりいて、いや、あれは本当に勉強になる。
あの当時「勝ち組」という言葉が流行っていて、自分が有利な人生を送りたいという利己心があった。
そういう気持ちで社会に出てしまって、ただ就職活動でも京大生って嫌煙されがちで。
正直なところ、京大に言った意味がわからなかった。
大学にもそれほど行っていなかったし、若干寝たきり生活に近いようなものだったし。
ただ、今になってみたら、こんな私であっても、物事を考える習慣は京大で教えてもらったんだなと思っています。
だからこそ、京大生を企業は嫌がったんだろうな、煙たかったんだろうな、となんとなく思う。
ごたごた考えたりて疑ったりする人ってちょっと扱いにくいから。
京大時代の友人は、みんな共通して当たり前とされていることを根本から考え直してみるという姿勢がある。
そういうことを日本で一番学べる場所なのではないか。感謝している。
こちらの大学に入学していなければ、脚本を書く仕事をしていなかったのではないかなとも思います。
社会についてごたごたと考える人は必要で、これからの社会だからこそ、そういう人が必要。
あんまりもうからないと思うんですけど、でも絶対に必要だと思う。
これからの京大生の活躍を期待します。
これで終わります。

Q 演出家を目指している人は何をしたらいいか?
A 帰宅部で、かつ寝たきり状態。大学の時はヤマザキパン工場のバイトしかしていないから答えにくい……。
とても役に立つのは海外のミュージカルや舞台など、言語がわかりずらいものを見ること。
言葉を聞いて理解できないから、物語の構造を楽しむしかなくなってくる。
おおまかにはたぶんこういう人間関係で、ここが切ないから、これは感動なんだなと自分で補完して、物語の構造に感動するしかなくなる。
能や狂言文楽とかも台詞で全部理解できないから、話が破綻していることもあるんだけど、お家の忠義のために子供を殺すってこいうこの構造にぐっとくるんだな、と。
構造に感動できるようになるというのが役に立つ。
そういう鍛錬をつむと、観光所の名所旧跡の立て看板の五行ぐらいでも、「ああ!」と武将に泣けてくる。
それで一本話ができる。

Q 演出家になろうときっかけを教えてください。
A 答えづらい質問で、そこまで夢をもっていたわけではないやりたかったというわけではない。
それまで就職して普通の会社の人事部にいたのが嫌すぎて、サラリーマン生活が向いていなさすぎて、違うことをしなければ!となったときに、いろいろな募集を探した。
伝統芸能はもともと好きで、当時、大阪国立文楽劇場とかお客さんがあんまり入っていなくて、もっと知ってもらって、保存をしていかなければならないと思っていて。事務からとかプロデュースとか裏方に応募した。
その一環で、宝塚の演出家もあり、一番受からないと思った宝塚だけが受かった。
すごく消極的な理由なんですけど……じゃあ、普通の会社で何が辛かったか。
バブル期ってすごいたくさんの人を募集してして、人が余っていた。実際に必要な事務職以上に人がいた。
その結果、必要のない仕事でもつくっておかないとその人たちが来て暇ってわけにはいかないから、手すさび的な「これをやっておけばお給料もらえるから」みたいな仕事の割合が多かった。
それこそ京大で「これはなんのためにあるのか」と深く考え込む習慣を京大で教えてもらってしまったせいで、「このテプラで背表紙をつくって貼る」という仕事になんの意味があるのか? なんで手書きじゃダメなのか?と思ってしまった。
だから転職したいと思った。

これで終わりです。ありがとうございました。

 

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『fff』『桜嵐記』の観劇後に読むと、また味わい深いな……。