ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

講演『パンとサーカスの危ない時代に』メモ1

2018年10月23日(火)

京都大学未来フォーラム第72回『パンとサーカスの危ない時代に』

講師:宝塚歌劇団演出家上田久美子氏

www.kyoto-u.ac.jp

 

大学時代に鍛えた口述筆記の能力を生かして、書き取ったうえくみ先生の講演会のまとめその1です。

一回で全部タイプするのも大変な量だったので、キリがいいところで、1回目ということにしたいと思います。

 

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宝塚の上田久美子です。
私は今、田口先生のご紹介にありましたように15年ほど前に京都大学の文学部を卒業し、13年前から宝塚歌劇団で演出家をしています。
ちなみに今この会場の中に京都大学の現役の学生さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか。(ちらほらいる)ありがとうございます。
宝塚の舞台を生で見たことがある方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。(すごくいる・会場笑い)
生では見たことないよという方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。(ちょっといる)はい、ありがとうございます。
たぶんすごくファンの方が多いような気がするのですが、今日は宝塚をご存知ない方もいらっしゃると思うので、自己紹介がてらごく最近の作品(『BADDY』)の一部の映像をご覧いただきたいと思っております。

特に宝塚に詳しくない方のためにご説明しますと、ご覧いただくのはショーと呼ばれるジャンルの作品で「BADDY」というタイトルの作品です。
宝塚の場合、多くの講演では2本立てで、最初の1幕目では1時間半くらいのお芝居とかミュージカルとかストーリーのある出し物をして、休憩をはさんで次の2幕目では全然関係のないショー作品と呼ばれる歌と踊りの出し物をする形式となっております。ショーの場合にはストーリーとか役はなく、芸名のスターを魅せる、一種コンサートのような状態でやるのが最近の主流になってきています。
でも昔はもうちょっと自由にコンセンプチュアリなものだったり、ストーリーのあるものだったり、トップの方がやることも違っていて、結構自由度が高いものをやっていたと思います。
でも、そういうところからだんだん宝塚のショーという形式が固定化されてきた中で、そういうものとはちょっと違うものをやってみたいなと思って作ったショーです。

昔、どれくらい自由な感じでショーをやっていたかというと、最近見てびっくりしたんですけど、「カマキリのダンス」ってご存知ですか。
「カマキリのダンス」ご存知の方。(客席、ちらほら手があがる)
生で見たことがあるという方はいらっしゃいますか。あ、さすがに…(客席、1人手があがる)あーすごい、すごいオールドファン。
わたしも映像でしか拝見したことがないんですけれど、『エコーズ』というショーで、全身タイツでオスカマキリの役の人とメスカマキリ役の人が愛し合うという、交尾のダンスがあります。
そして、そのうちメスがオスを食べてしまう。
説明を読むと「究極の愛の形」の場面と書いてあったんですけど、振付をよく見てみると、結構アーティスティックなんです。
ただちょっとアーティスティックすぎるから、今それをやった場合に、宝塚で見たいのはこれじゃないという批判があるかもしれない。
それが怖くて、もしかすると今だともうできないかもしれないなとも思います。
そういう傾向があって、やれることがだんだん固定化していくという流れになっています。
例えば、今からパレードとよばれる、最後にカーテンコール的な感じでスターがみなさんにご挨拶する、お辞儀をして、拍手をもらう場面を見てもらうのですけれど、それもかつてはない公演もかなりたくさんあったみたいなんですね。
けれども、それをやるのがだんだんルール化されてきています。
わたしが入団してから約13年になるんですけど、その間にもショーや芝居もよりいっそう「宝塚の枠」というものがだんだん狭くなってきているようにわたしは感じています。
つまり、世の中は多様性と言われているけれども、実際はその多様性が失われていっているのではないか、という思いがあります。
その決められた枠内にいれば、失敗とか批判はないけれども、文化としては活性化しなくて発展しにくいし、先細っていく可能性があると思って、できるだけ今回はコンセプチュアルだったり、クセが強いというものをやりたいなという気持ちがありました。
それからもう一つ。現在、多くの人がどこからも文句がでないように、ちょっと身を縮めて生きているなと思います。
けれども、本当はみんなそれが嫌なのではないかなと思って、企画したのが『BADDY』というショーです。
ちょっと短い映像ですけれども、ご覧ください。

(BADDY映像流れる。プロローグ:王族→グッディ登場→バッディ登場/パレード)

映像は、冒頭と最後だけになっています。
ちなみに今月の29日にBSプレミアムで全編放送があるそうなので、ご興味ある方はぜひそちらで全編見ていただいてください。よろしくお願いします。
最後に出てきた扇子みたいなものがタバコの形になっていることにお気づきになりましたでしょうか。
あれが宝塚の誇る小道具さんのアイディアでして、なんかタバコみたいになれたらいいなって言ったんですけど、あんなふうに本当に変身できるとは、本当に衝撃的で、わたし、とっても感動したんです。
1番気に入っているところなんですが、見に来た新聞記者の方たちには「よくあれ、阪急電鉄がOK出しましたね」って言われて、そこで初めて「あ、今はもうそういう時代なんだ」っていうのを認識しました。
お恥ずかしながら、わたし13年宝塚にいる間あまりに宝塚のことだけで忙しかったりだとか、わりと非現実的な仕事だから社会と自分がすごく離れていたんだなと感じて、それだけ13年前と今でも状況が違うんだろうなって感じた次第であります。

これだけ見るとタバコを擁護するショーに見えるかもしれませんが、そうではなくて、タバコはあくまで悪の比喩として使っているだけです。
そうやって記者の方が言うくらい世の中が変わってきているんだなというのを痛感しました。
13年前ならこういう演出をしてもそこまで注目されなかったと思うんですけれども、今では「悪」とか「悪い」という概念のわずかな欠片であっても、それを人が批難するという一種攻撃のターゲットになってしまう。
だから、やっぱり組織やすべてのものが、すごく言動とかに神経質になって気を付けて生きていかなきゃいけない時代になっている。
これはなんというか極端な言い方をするとわたしには「相互監視社会」のような感じがしてきている。
そういう変化が13年の間に起こったんだなと思います。

相互監視というのは簡単な害のない、たとえば災害のときに芸能人が笑顔の写真をインスタとかブログにアップしたり、ごちそうの写真をアップしたりしたら、それでもう炎上とかして、しかもそれで謝罪とかしているのを見て、「え、そんなことで謝罪することがあるのか」と思うことがいっぱいある。
SNSも今、一般の人たちの発言の機会が増えてきて、自由にできるようになった結果、いろんな人が「わたしはこれに傷つく」「わたしは被災者ではないけれども、きっとこの笑顔で被災者の人は傷つくと思う」ということでも批難してくる。
みなさんが「これはだめだ」ということを全部やめるということにすると、OKの範囲がすごく狭くなってしまうと思う。
批難するとかこれはダメだと規制するほうの自由とか多様性も確かにあるなと思うのですが、じゃあそれがすごくオリジナリティのあることで批難しているかといえば、そうではない。
わりと既成概念のどこか統一された、わたしたちがこの社会で生きる中で刷り込まれた一種の倫理観を援用しているという場合が多い。
だから、それは多様性ではないような気がするし、一つの価値観にはめようという動きのように感じるところがある。

今、批難された側が使うのが「負けるが勝ち」という考えだ。
批判されたときに変に騒ぎが大きくなるということのほうが害が大きいから謝罪して、とりあえず問題を忘れてもらうという形になってしまっている。
そのため疑わしきも罰すというような雰囲気になっている。
だから今の社会で自由とか多様性とかは抑圧されていて、みんなが許される範囲というのが狭くなって、狭いクリーンなスペースで生きてきているとわたしは感じている。

社会の中でみんなが活動している安全でクリーンな範囲というのをわたしは勝手に「ピュア・エリア」と名付けている。
ちょっと余談なんですが、最近食べログとかわたしも見たりするんですが、点数のいいお店に行って最近わかっていたのは「良くも悪くもこれは嫌だと言う人がいない、癖のない料理を出す店の方が点数が相対的に高くなる」ということ。
減点のない店が儲かっている、有名なお店に行っても口当たりはいいんだけど、最終的に何を食べたのか覚えていない、高い店ほどそういう感じがする。
誰もがドストライクというところを狙うと狭くなる。
そして、インターネットやSNS相互監視による不寛容の中で無個性化していくことは人々にも影響を与えていると考えている。

子供や学生たちは学校の中で気まずくなるというシチュエーションを嫌がると聞いたことがある。
タカラジェンンヌも均質な集団にならないといけないと思っている。
コミュニケーションを洗練させて、変わった発言をしないようにしている。
どちらかといえば舞台やる人なんかは本来、極端な人が多いはずなのに、それが少なくなっている。
常識的で均質的な穏やかな集団になってきていることを感じている。

これには情報化社会ということと別の原因もある。
勝手な持論では、経済発展で生活水準があがって、育っていく過程で痛みとか不便とか不愉快とか不快なことに出会いにくくなってきていることです。
人とぶつかるという心理的痛みにも過敏になり、気まずくなるのに耐えられない。
そおっと忍び足で生きている印象がある。

例えば、わたしが子供のころは歯医者に行ったときに麻酔はなかった。
でも虫歯が多くて、死ぬ思いで痛かった。
行くたびに死ぬ思いで痛い思いをするけれども、そういうものだと思っていた。
だから歯医者には行っていた。
他にも、冬に小学生の頃は休み時間ごとにマラソンをしなければならなかった。
体育の時間でもないのに、裸足に半そでで。
けれども、何周走ったのか、記録を提出しなければならないからみんな必死で走る。
小石を踏んで痛いし、真冬だから足しもやけにもなる。
でも、これも、そういうものだと思っていた。
めちゃめちゃ寒いこと、体感的に不愉快なことに慣らされた。
子供のころからたくさん慣らされる機会があった。

不便なこともあった。
今みたいにカメラ付きインターホンも、オートロックもなくて、玄関を出たら突然めちゃ怖い獅子舞が出てきたことがある。
でも獅子舞に頭をかまれると賢くなるといわれたから、怖いのを我慢して噛んでもらった。
めっちゃ怖い。
別の件では、人の声がして玄関を開けたら押し売り怖いおじさんが、ずかずか家の中に入ってきて乾物を売ろうとする。
母が断ろうとすると、家の三和土に乾物をたたきつけて、帰ってくれない。
母が必死に「いりません」といっていると、どこから取り出したのかちょっといやらしい下着とか出してきて「こんなもんも売ってまっせ」とか言ってくる。
かなり怪しすぎる商人の人が半年に1回くらい出てくる。
でも母親は警察に行ったりするわけではなく、また来たと思いながら半年に一回丁寧にお断りして帰ってもらっていた。
そういうものだと思っていた。

痛いとか寒いとか怪しげだ、怖いということを体感することが今の時代はあんまりない。
かつては、筋肉が硬直するようなネガティブなことがたくさんあったけれども、今はない。
とにかく、ネガティブ体感が若い世代にない。
だから、けんかといった人と争うのも消極的である。
公衆の面前で怒鳴りあっている人も最近ではあまり見かけなくなった。
けれども、昔は容易に人はぶつかっていた。
駐車場で知らないおじさんと父親が車をこすり合うと「出るとこ出よか」ってなる。
「お父さんやめて」と言うこともあったけれども、今はそういう風景もない。
みんなが人とぶつかりあうことに敏感になっている。
一生仲直りできない傷だと思っているのかもしれない。でもそんなことはない。

快適とか不愉快は相対的な感情であり、みんながそれぞれの自分の人生の経験の範囲内で考えるものである。
例えば、今は体罰禁止と言われている。
体罰があった頃は、体罰を受けているときが一番痛くて究極に屈辱的だった。
でも、それがなくなると、今度は言葉によって罵倒されているときが、痛い、辛いと思うようになる。
それこそ、体罰を受けている時と同じくらいに。
だから厳しい言葉をなくすという方向になるが、そもそも痛みは相対的なものであるから、自分の体験や経験の中で、もっとも不愉快なもの、それをなくしていこうとしていっても、いつまでたっても不愉快なものはなくならない。
経験の中で一番痛いもの、辛いことが不愉快なものなら、当然、それがなくなることはない。

宝塚でも昔は髪をつかみあって争っていることがあったと過去を知る先生たちは言う。
今はそういったことはないし、わたしも見たことがない。
つまり、ちょっと性格が悪い人やちょっと変な人というのが排除されてしまう世界になってしまった。
友人の精神科医でも、「これくらいの子は昔だったらクラスメイトに普通にいた」というような子供が来診してくると言う。
世の中で許される範囲が狭くなっている。

梅田の立ち飲み屋で、やたらと客をいじったり罵倒したりする店がある。
コミュニケーションがおもしろいといって年配のお客さんが多く、流行っている。
例えば、おじさんがきれいな女の人を連れてくる。

偏屈おやじは「酔っぱらってますな」
客のおじさん「飲んできてへんよ」
偏屈おじさん「隣の人によいしれとんねん」

あ、うまいな、と思うのだが、それで客が笑うと、偏屈おやじは食器とかカンカンと叩いて「静かに!」と笑っている客を黙らせようとする。
筋肉がぴりっとなるような感じで、すごく静かにすることを強制される。
だから、若い人は行こうとは思わないだろうな。
そういう人たちは連れてこられたら、食べログなんかで「ちょっとやだった」と書くだろう。

社会で許される幅が狭くなってきている。
世の中では、個性を大事に、と言う。
SMAPの「世界に一つだけの花」も流行した。多様性を大事にってうたう。
けれども、実際の世の中は、反対の方に向かっている。
人間の悪いところも含めて多様でおもしろいと思える混沌としている世界を拒否した結果、不寛容で均質な社会が生まれてしまった。
これは、相互監視社会とクリーン主義、無痛思考が原因の一つだろうか。