ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

花組『はいからさんが通る』ラリサについて

最近、ブログを更新していなかったことから「ねぇねぇそろそろ記事書かない?」とハテナさんからお便りをもらって、早数週間。
気がつけば今年も半年が過ぎ、結局6月には一度も記事を書くことができませんでした。
月日が過ぎるのは早いですね。
今日は七夕です。あいにくの雨ですが。きぃちゃん、お誕生日、おめでとうございます。

そんなわけで今回は、めでたくも7月17日から公演されることが決まった花組はいからさんが通る』に関して書きたいと思います。
初演は残念ながら見ることができませんでしたが、円盤発売は非常にありがたいことでした。
その上、本来なら3月13日に初日を迎えるはずだった公演のプログラムまで販売していただけるとは、本当に福利厚生の手厚いジャンルですね。
プログラム? もちろん買いました!
星組東京公演のプログラムの中身も変わるのでしょうね。
担当する方々には頭が下がります。

 

●問題提起
はいからさんが通る』と私の出会いは小学五年生のとき。
BSのアニメで放映されていたものを1話から見ました。
というか今でもあの1話の感想を鮮明に覚えているくらい当時の私にとっては衝撃的でした。
紅緒も環も素敵だった。とにかく明るく元気よく自らの信条に従って生きている女の子に憧れた。
環が先生に反論するところなんて痺れたね。
紅緒の袴に竹刀という出で立ちも格好良かった。
最終話まで見たものの、ラストの記憶は特になく、すぐに原作漫画も読んだけれども、当時の漫画の記憶もあまりないというのが正直なところ。

しかし大人になって読み返すと色々気がつくものですね。
冬星さんの色っぽさとか吉次さんの艶っぽさとか紅緒の着物の柄がへんてこであることとか……。
そういう中にラリサの切なさも入っています。
ラリサって、いわゆる紅緒の敵役みたいだ感じで出てきて、読者の印象は軒並み悪いのですが、大人になってから読むと、それだけではないよな、とラリサの事情にも思いを馳せることができるようになりました。

そういうわけで、ここでは、ラリサについて原作と宝塚版の比較をしたい。
もちろん宝塚版の、特に第2部は原作が大幅にカットされており、ラリサについての挿話も短くなっているが、話はそれだけではない。
結論から先に言うと、ラリサが少尉をサーシャと思い込んでいた時間は、原作に比べて宝塚版はだいぶ短いのではないか、ということである。
原作でも宝塚版でもラリサがいつ少尉をサーシャではないと確信したのかははっきりしていない。
だから鍵を握るのはラリサとサーシャの関係の密度ではないかと考える。
今回はここに注目して考えていく。

 

●原作のラリサとサーシャ
原作で、ラリサはサーシャと自分の関係について次のように語る。

「わたしとサーシャ=ミハイロフ公爵は幼なじみでした」
「サーシャはとても女の子に人気があって……」
「わたしはひそかにサーシャを愛していたもののひっこみじあんでそれをいいだすこともできなかった」
「けれどある日なにもできずにただみんなのうしろからながめていただけのわたしを……うれしかった……あのときは……」
「でも女の子に人気のありすぎたサーシャは結婚後もおちつかず出あるいてばかりいて……」
「ほんとうはそのときサーシャはたいほされた皇帝のご一家を外国に亡命させようと策をねっていたのでした」
「家族にも内密にして……」
「愛されていないと思った」

そうこうしているうちに皇帝が銃殺され、サーシャも追われる身となり、ラリサと母と3人でシベリアへ逃げる。しかし追手がせまり、サーシャは自分がおとりになって2人を逃がそうとする。

「サーシャは自分の命とひきかえに……わたしを……ふぶきの中にみえなくなった夫と……やがて空に消えた数発の銃声……」
「夫を愛していると……愛されていると知ったのはほんとうにこのいっしゅんでした」

ラリサはサーシャが亡くなったことを「数発の銃声」で知る。遺体は見ていない。
だからこそ、倒れている少尉を見たときにサーシャだと見間違えたのだろう。
「愛されている」と思ったのは「このいっしゅん」だったというのがなんとも切ない。

ここでラリサの言葉を以下のようにまとめる。

1ラリサとサーシャは幼なじみだった。
2サーシャは女の子に人気だった。
3サーシャは取り巻きの後ろから見ているだけの引っ込み思案のラリサを結婚相手に選んだ。
4しかしサーシャは結婚後も家に落ち着く様子はなかった。
5ラリサは愛されていないと思った。
6サーシャは実は皇帝一家の逃亡を企てていた。
7追われる身となったサーシャは自分をおとりにラリサと母を逃がした。
8銃声でサーシャが亡くなっただろうと思いを馳せる。

ラリサが「愛されていない」と思ったのは実は勘違いで、サーシャはラリサを愛しているからこそ、危険なことに巻き込まないように皇帝一家の逃亡についてはラリサに話をしなかった。
ここに二人のすれ違いがあり、深い愛情がある。
そしてあまり家にいつかず、結婚したもののサーシャと過ごす時間の少なかったラリサは倒れている少尉をサーシャだと思い込み、人違いだとわかってもなお看病を続けた。

この1~7の要素の中で宝塚版では削られた部分がある。
そのため、ラリサとサーシャの関係が少し原作とはおもむきが変わるのだ。

 

●宝塚版のラリサとサーシャ
宝塚版でラリサはサーシャについて次のように語る。

「私と夫は幼馴染でした。夫は貴族の息子で、私たちは一緒に育ちました。引っ込み思案な私にサーシャはいつも優しかった。サーシャの母親には昔別れた日本人の間に息子がいました。だから革命で赤軍に追われた私たちはその息子を頼って日本へ行こうとシベリアに逃げて、そこで我々はコサックに襲われて、母は……」

ここから、ラリサとサーシャは「幼馴染」で「一緒に育った」こと、加えてサーシャがラリサに「優しかった」ことがわかる。
つまり、ラリサとサーシャが相思相愛で、幸せな結婚生活を過ごしてきたらしいことが明かされるのだ。
もちろんこれはラリサが語るサーシャであって、紅緒たちの手前少し話を大きくしている可能性はあるが、ラリサの言葉を否定できる要素は作中にはない。
原作の1、3、7あたりはあるが、4、6の皇帝一家の逃亡を企てていたらしいくだりはない。
「優しかった」という言葉も加わって、5のようにラリサが「愛されていなかった」と思うこともどうやらなかったらしい。
時間短縮のための省略だったかもしれないが、ここで大きく解釈がわかれることになる。
ラリサとサーシャは幸せな生活を送っていたのだ。ここが決定的に原作と異なる点である。

もう一つ引用したいのはラリサと少尉が伊集院の家に移ってからの場面である。

「サーシャが赤軍に襲われてシベリアの大地で死んだとき、私の命も終わっていたんだわ」

母親がコサックに襲われたのに対して、サーシャは赤軍に襲われたという。
ロシア革命の歴史を踏まえると、ざっくり赤軍が革命軍(レーニン主導)、コサックは反革命軍(白軍)(貴族主導)とわけることができ、理由はわからないが、ラリサたちはどちらの組織からも襲われていることがわかる。
この中で生き延びて日本まで来たラリサは相当な強運の持ち主だが、注目したいのはラリサが「サーシャが死んだ」とはっきり述べている場面である。
いくら何でも目の前で殺されたということはないだろうが(ラリサがそれで逃げ切れるとは思わない)、ラリサにはサーシャがそこで「死んだ」と断言できる何かがあった。
だから、日本軍の制服を着て倒れている少尉を見て、「サーシャと似ている」と思うことはあっても、「本当はサーシャではない」と最初から知っていたのではなかったのではないか。

例えば原作同様に「銃声」の音だけでサーシャの死をラリサが悟っていたとしても、愛し愛されの関係であったラリサが、少尉をサーシャではないと気が付くのには、それほど時間はかからなかったのではないだろうか。
愛されていたからこそ、たくさんの時間を共有していたからこそ、別人であることにはおそらくすぐに気が付いたのではないだろうか。
少なくとも「愛されていなかった」と原作で思っているラリサよりはずっと早く別人であることに気が付いたと推測される。

皇帝一家逃亡の一件がなければサーシャが追われる身となる理由がないと思う人もあるかもしれないが、ロシア革命の当時は貴族であるというだけで襲われたことは『神々の土地』にも詳しいし、フランス革命でも似たようなものであったとヅカオタは知っている。
「貴族であるというだけで殺された」とマリーアンヌも語っている。

サーシャと仲良くしていたのに、そのうえ少尉までも奪うつもりかーー。
観客の多くは紅緒によりそい、そう思う。
こうして宝塚版のラリサは紅緒といっそう対立する位置にいるキャラクターになるのだ。
もっとも紅緒が対立するつもりがないのは、原作も宝塚版も同じである。

 

●結びに変えて
原作でのラリサは「赤軍からのあの逃亡生活が……わたしたちにとっていちばんしあわせなときだったのかもしれませんわね……」と少尉に言う。
それほどまでにサーシャは皇帝一家逃亡に真剣だったし、またラリサを巻き込むまいと心に決めていた。
原作のラリサは間違いなくサーシャに愛されていた。
しかしラリサはそれに気が付かなかった。気が付くのはむしろ難しかっただろうからラリサを責めることはできない。
だからこそ切ない。
この台詞は宝塚版にはなかったけれども、あったとしても言葉の重みが違っただろうことは想像に容易い。

原作のラリサは少尉をサーシャだと思い込んで看病する。
少尉が回復すれば夫人として隣に立つ。
今度こそ、やり直せる、やり直そうという決意がある。
たとえ、別人だったとしても……別人とわかっていても。
宝塚版では時間の関係やヒロインとの対立を際立たせるために描かれていなかった部分が、実はラリサという人物を知るための醍醐味ではなかろうかと思っている。
ぜひ、原作を読んで欲しい。