ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

私と平成と宝塚

「平成」と聞いたとき、わたしの脳裏には「平成のベルばら」という単語がひらめいて、そして消えなかった。
宝塚歌劇団の話である。
母が宝塚ファンであったこともあり、宝塚のビデオが常に流れている環境で育ったわたしにとって「平成のベルばら」はもっとも繰り返し見た作品群だ。

宝塚にとって『ベルサイユのばら』は特別な作品である。そのことに異論がある人はいないだろう。
一度も観劇をしたことがない人でも、それを知っている人は多い。確かに爆発的人気を誇った作品であり、フランス革命200周年記念として1989〜1991年に上演された「平成のベルばら」も、言ってみれば「昭和のベルばら」の再演であった。
かつての人気にあやかりたい、そんな劇団側の願望がおそらくあったのだろう。ここでは、一路真輝涼風真世天海祐希真矢みきなどが活躍した。
わたしは1991年月組公演涼風オスカル、天海アンドレの映像の中で育った。母親が涼風ファンだったのだ。少し大きくなると、CDをカセットテープに録音してもらい、ウォークマンで繰り返し聞いた。歌や台詞はほぼ諳んじている。三つ子の魂百までか。
その後も「21世紀のベルばら」「宝塚100周年のベルばら」と、何度も上演されている。
地方公演や台湾公演もあった。時には主人公を変えて、スピンオフのような形でも上演された。
大好きな瞳子安蘭けい)がベルナールを演じたときでさえも、その後ろにはみつえちゃん(若央りさ)の幻想を追っていたくらいだから、本当に三つ子の魂……って感じである。
その一方でファンの中ではマンネリ化してしまっている面も否めない。
もともと大長編である『ベルサイユのばら』をフィナーレやパレードを合わせて2時間30分ほどに収めるにはそもそも無理があるのだ。
現在、少なくともわたしの周りでは『ベルばら』の再演を望む声は聞かない。
それでも再演が決まったら文句を言いながらもチケット争奪戦に挑むのだろう。
有名な作品だから、新規さんも参戦してくるかもしれない。戦いはますます厳しくなる。

今わたしが劇団に望んでいることは、過去の栄光にすがることではない。
むしろ、良質な当て書きオリジナル作品が見たくてたまらない。
なんのために座付の演出家がいるのか。
チケット代には演出家に直接流れるお金も含まれているのだから、しっかり働いてもらわねば。最近は原作のある作品を舞台化することも多いが、著作権料のためにチケット代を払っているわけではない。
演出家の先生たちの研修や旅行に使って欲しいと思うのは、おかしいことだろうか。
よい演出家に恵まれなければ、舞台に立つ生徒たちがどれだけ頑張っても限界がある。
そのリミッターを解除してくれる演出家、今もっとも注目しているのが上田久美子先生。
ついでに観客の涙腺も破壊してくれる。ハンカチなしでは見られない。家で見るときはバスタオルが必須。
脚本家としても大変優れている。アシスタントをしたいくらいだ。
上田先生がプログラムやインタヴューで紹介していた本は買った。先生が紹介されている本を何冊も読んだ。
まさか大学を卒業してから再びレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を手にとる日が来ようとは。
しかし、好きな人の好きなものを見よ、それがわたしのモットーだ。
講演会を聞くために平日に京都まで足を運んだ。なるほど、「ヤマザキパンのバイトはいいぞ」。
そんな先生が最初に宝塚を観たのは、やはり『ベルばら』であるのだから、因果は巡る。
『ベルばら』を見て歌舞伎を連想したというのだから、温故知新の大切さも教えてくれる。すばらしい。

先生の作品でもっともお勧めしたいのは、甲乙つけがたいが、花組『金色の砂漠』である。架空の砂漠の国のお話。
トップスター明日海りおが奴隷役を演じ、トップ娘役の花乃まりあに踏まれる場面さえあるということで、当時はチケットが定額以下で転売されていたこともある。
まさに宝塚にとっては新しい風を呼び込む作品であった。
同時に燃えるような情熱、他者を傷つけるほどの愛情を美しく魅せてくれるのは宝塚だからこそだ。ぜひ観て欲しい。
先生によると「女性の5人に1人くらいは潜在的に宝塚が好きになる可能性がある」ということだ。さて、男性はどうなのだろう。

「平成」は終わって1年が経とうとしている。
ましてや「昭和」はとっくに終わっている。
新しい時代が来る。五輪や万博は過去の焼き直しでは成功しないだろう。
宝塚も同じである。
思わぬウイルスによる影響は計り知れないが、今できる方法で応援し、上演が再開したら全力でチケットをとって見に行くね。
その日を今はひたすら楽しみにしている。