ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

宙組『FLYING SAPA -フライング サパ-』感想

宙組公演
『FLYING SAPA -フライング サパ-』

kageki.hankyu.co.jp

作・演出/上田 久美子

今までに数々の話題作(問題作?w)を作り出してきたうえくみ先生による本格的なSF。
宝塚でここまで古典的な手法に則ったSFって今までになかったのではないかしら、という感じ。
2月末に御園座で『赤と黒』を観劇して以来、5か月以上ぶりの宝塚観劇がこれでよかったのかwという感想もあるが、花組が開幕しているのに、チケットをとらなかった私が悪いし、私はこれでよかった派です。
宝塚再開にはもっと明るい作品がよかった!と言っている人もちらほら見えますが、大劇場、東京、別箱、と全部同じように明るい話だったらつまらないじゃない。
そう、「違いは『おもしろい』」のである。
これは苦痛も悲しみも伴うかもしれないけれども、でも「違うこと」「多様であること」を私たちは受け入れていかなければならない。
そういうメッセージを受け取った作品でした。
『BADDY』もそういう傾向がありましたが、あちらがコミカルに「同一」「統一」の恐ろしさを描いているのに対して、こちらはまさにディストピア
裏表のような作品ですね。どちらが表なのかは怪しいですがw

作中はずっと夜。
水星の時点の関係で、地球時間でいうところの88日昼間が続き、同じように88日夜が続く。
そんなふうに暮らす世界が変わったとしても、人間の体内時間は相変わらず24時間で一サイクルになっているらしく(まだ15年しか経っていないしね)、24時間ごとに「『朝』のニュース」とやらが放送されている。
もっとも水星にはテレビチャンネルはこの一つしか存在せず、今の私たちが笑えないくらいの偏見番組を垂れ流しにしている始末。
バイス「へそのお」で88日を12時間に体感できる何かがあればいいのだけれども、そういうわけではないらしいのがSFなのか何なのか、SFに詳しくない私にはよくわからないけれども、そういうものなのかな。
オバク登場シーンは天才的に美しかった。あの長身であのフード。最高かよ。

政府の監視外である謎のクレーターサパでの住人は実にカラフルなお衣装を着ているけれども、「へそのお」によってばっちり政府に監視されている人たちのお衣装は、白、黒、グレー。
モノトーンの世界には「違い」がないわけですね。
無機質な感じが不思議な世界に連れてこられた気分になって舞台に集中できてよかった。
しどりゅーの白いお衣装がとても素敵でした。あのロイヤル感……たまらん……。
ひばりちゃんとの組み合わせも素敵でした。愛知県出身者、応援しています。
髪形が大変キュートでしたし、ラストはカップルとしてサパに乗っていましたね!

『サパ』のプログラムには一企業が世の中の人間の個人情報をほとんどすべて掌握していくあいぽんに対する不気味さを抱えていながらも、結局それがないと「年金ももらえないのではないか」と思いいたり、結局それを手にすることになったと、うえくみ先生の言葉で語られていますが、これは作中で政府が個人の精神データを提供することに反発があった者が、生命を維持するために主張を折った姿と似ているような気がします。
そして、反発した人をポルンカでは「差別主義者」とまるっとまとめて呼ぶ。
これが大変恐ろしいと思いました。2回言っていたよ……。
ただ、思うのは、確かにアンカーウーマンが報道で伝えていたように「我が身可愛さに主張を曲げて生命時装置を得て水星で生きていく道を選んだ人」もいただろうけれども、そうではなくて「科学者のやり方に最後まで反発して、生命維持装置を手にしなかった人」もいたはず。
しかし彼女の報道ではそういう人たちについては全く触れられない。語られない。
「いなかったこと」にされている。
そしてそういう人たちは身体的懲罰が存在しない以上、記憶を漂白されて本当に「いなかったこと」になってしまったのだろう。
生命が保証されれば個人の尊厳はどうでもいいのだろうか。

いわゆる「夢を見る」形で、オバクは人の思考に入り込んで、不穏分子を見つけてはタルコフとともに適切な処理をする。
あるいは記憶を消されることもある。
身体的懲罰がない以上、これがもっとも重い罰になろう。
日本人として出てくるタオカが作中で2度も記憶を消される演出は重い。
うえくみが考える日本人像よ……まあ、わからんでもない。
記憶というのは個人の最たる尊厳の一つだろう。

記憶は、消そうと思って消せるものではないし、本人が望んだとしても消していいものではない。
私は劇場版の『ガンダムUC』でオードリーが「私のヴァイオリンをほめてくれたシャアはお前のような空っぽな人間でなかった」とフロンタルに言う場面が印象深いのですが、まさに記憶というのは、個人がその個人たる証であり、もっとも強い行動の理由になるのではないでしょうか。
アルベルトも敵であるけれどもマリーダに助けられる。そういう個人の思い出や記憶が個人を作る。
その「思い出」や「記憶」が決して、嬉しかったこと、楽しかったことでないのがつらいところですが、まあそういうものだと受け入れていくしかないのでしょう。
韓流がこれだけはやっている日本の若者の中で「嫌韓」のおじさまたちが受け入れられないのは、若者が韓流に救われた、元気をもらったというそういう記憶があるからではないか、と常々思っているわけです。
だから、文化の交流こそ世界平和のために必要なことだと個人的には思っているのですが、「同じ文化」を共有していたら、それもままならない……と、無理矢理『サパ』に話を戻しますね。
「ポルンカじゃ違いは罪だ」というオバクの冒頭の台詞は実に重い。

オバクが「02の自殺願望」に気が付いて、タルコフがルールを破って教えてくれた02の詳細、「俺たちなんか一生かかってもお目にかかれないすごいお嬢さん」ということを突き止めると、それまであまり乗り気でなかったのに、突然やる気になって、ベッドから立ち上がる場面がなんか好きです。
しかも「すごいお嬢さん」に自分だけは誘惑されない。
ノアに「あの小娘の誘惑に勝利した、その理性に」といって酒をおごりシーンがありますが、「あなたは負けたの?」「そもそも誘惑されていない」という場面は思わず吹き出してしまう。すねているのか。
何度見ても好きな場面です。

「総統府」が「パナプティコン」と呼ばれるのも実に皮肉が効いている。
訳すと「全展望監視システム」と出てきます。
倫理の授業で習った人が多いと思うのですが、功利主義者であるベンサムが考えた刑務所のシステムです。
犯罪者を常に見晴らせておけば、彼らは労働習慣を身に着けることができるだろう、ということで、円形になっているのが特徴です。
「監視システム」というのはまさにこの作品の一つのテーマであり、うえくみ先生が公演で話していた「相互監視社会」というのにもつながるでしょう。
ツイッター、インスタグラムといったSNSぐるなび食べログといった口コミが市民権を得た今の社会は悪く言えば確かに相互監視社会であり、とりあえず今は大きく悪用されていないように見えるだけ。
私たちもいつ、政府に監視されるようになるかわからないし、もうすでに監視されているかもしれない。
大逆事件のようなことが、この令和で、起こりうるかもしれない。
私はきっとポルンカでは何度も記憶を漂白される人間になるか、サパでレジスタンスの仲間入りするか、そういう生き方しかできないだろうなあ。

ところでうえくみ先生は銀髪のおかっぱおじいさんというキャラクターが好きなんでしょうかね。
『BADDY』のときも銀行の頭取がそうでしたし、今回もインタビューを受けていたおじさんはまさにそういう格好でした。
「お嬢さんには頑張ってもらいたいね」と答えていたおじさんは、地球での暮らしが長かっただろうに、水星での生活に満足しているのが少し不気味といえば不気味でした。

過去の自分を知るためにオバクはイエレナに近づきますが、近づき方が大人過ぎてびっくりするし、記憶がないのに「君は俺の身体のことを知り尽くしている」と気が付くオバクにもびっくりしちゃったよ。
イエレナはどんな気持ちだっただろう。かつて愛した人。しかし何もかも忘れている人。
もしかしたら対立するかもしれない人。
ノアがミレナを理解するために「1回寝てみたらよかったのに」というように、イエレナはちゃんと1回寝たんだね。大人だよ、あなたたち。そしてイエレナは華妃まいあちゃんに演じて欲しいなあと思いました。

総統は決して科学者が万能でないことを知っている。その証に「自分はいつか死ぬ」ということを受け入れている。
だからシステムを開発して娘であるミレナに、その子孫に受けつごうとする。
その総統でさえも「人間が一つになれば争いがなくなって幸せになる」と思ってしまう。
人類補完計画だな、と思う人は多かったと思うのですが、優秀な科学者でもそう考えるのは倫理観が欠けているからなのか、何なのか。

映像技術はとてもすばらしかったですね!
映画館にいるようでした。
宝塚でこういう映像にお目にかかる日がくるとは思わなかった。
1991年月組ベルサイユのばら』で映像が使われた時の批判を思うと成長に涙が出ます。

テウダはサパに来たミレナを気遣ってくれる数少ない人ですが、ミレナ自身もテウダにはわりと最初から心を開いているようにも見えるのは、ミレナに母親の記憶がないからでしょうか。
テウダは医者ではないけれども、男と寝ることで自分を傷つけているように見えているのは母親の勘なのか、人間の共感力を示すためなのか。
とにかくテウダがいい。息子の名前が一度も作中で呼ばれていないような気がするのが気がかりではあるのですが、最初から最後までテウダがとてもいい。
タルコフとのやりとりも素敵。タルコフはこの作品でもっとも観客が感情移入するキャラクターではないでしょうか。
オバクにもミレナにもちょっと感情移入しにくいからさ……w
タルコフは追いはぎに襲われたとき、「女だけ置いていけ」といわれて「どうぞ」と率先して言うにもかかわらず、ズーピンが「ついて来いよ!」といったときにはちょっと警戒して、ミレナを自分の後ろにしてかばう。
タルコフのこういうところが好きなんだよなあ。
貧乏くじを引く天才というか、本人はいたって真面目に生きているのだけれども、めちゃめちゃな周りに巻き込まれて貧乏くじを引くタイプというか、そんなキャラクターでしたね。
そういうキャラクターをユダヤ人と設定するところがまたニクイですね、うえくみ先生。
テウダの言う「シナゴーグ」はユダヤ教の会堂のことですが、宗教が一つにまとめられた以上、ポルンカには到底望めるはずのない建物ですね。

1泊200ポールというのがどれだけ高いのか、いまいちわからなかったですが、法外に高い違法ホテルにたまるのはサパへの巡礼者か犯罪者か。
どちらにせよ、まともに支払い能力もなさそうなのに、ホテルに滞在することを認めているキュリー夫人は口では激しいことをいうけれども、思いやりもあるのだろうなと思う。
そういう人は監視社会の中ではとても生きづらいのでしょう。
キュリー夫人は決してビジネスチャンスだけを求めて違法ホテルを経営しているのではないようにも思えました。

ミレナが男と次々と寝る場面はタンゴで表現されているのですが、このタンゴがまこれまたとてつもなくいい!
素敵!と思わず叫びたくなるような感じ。象徴しているものを考えるとアレですが、全く下品ではありません。
周りで踊っている人たちも素敵です。
特に娘役同士で組んでセンターで踊っているのがいい。
男役同士というのはあるけれども、娘役カップルというのは今まであまり見たことがないような気がします。

サパにたどり着いて、最初に追いはぎにあったとき、「女だけ置いていけ」と言われ、人が死に、血の匂いでミレナは頭痛を起こす。
この「女であるために無理矢理襲われそうになること」と「血の匂い」がミレナのトラウマを引き出すトリガーになっている。
ミレナがそれまでにどういう生活をしていたのかはわかりませんが、この2つはセットで彼女の身の回りはなかったことでしょう。
グリープのときもこの2つはセットでした。
戦争はかくも残酷である。戦争そのものを描かなくても戦争の醜さは描ける。
ミレナ(ニーナ)はギリギリ襲われそうになっただけかもしれませんが、ブコビッチの妻子は兵士に襲われていたでしょう。彼女たちを隠すセットと中から聞こえる悲鳴だけで描写としては十分です。
もっともレイプされそうになり、人を殺したことはともかく、その記憶を消されてもなお、それがトラウマになっていて次々と男と寝ていく女性をトップ娘役にやらせるうえくみの新しさよ……隣で見ていたお子さんは一体どういう気持ちであの場面を見ていたのだろう……と不安に思いますが、途中から飽きたのか、靴のマジックテープで遊んでいましたw

ミレナがトラウマを抱えているから、ノアが精神科医であることにも意味があるようい思います。
なんで精神科医なの? 外科医の方が役に立つのでは? と思うことは間違いないのですが、ミレナに対してオバクと違うアプローチができるのはやはり精神科医だからでしょう。
ところでデバイスへそのおは一体いくらくらいで売れるのでしょうかね。
ホテルの値段と比べてみたかった気もします。

1幕の終わりに「存在の寂しさ」とオバクはいいます。
それは素数ということにも関わってくるのでしょう。
1とそれ自身で割れない数、それが素数。だからとても「寂しい」数字、孤独な数字。
人間の孤独そのものだということだと思われます。
ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を思い出しました。

2幕。タマラは瀬戸花まりが演じますが、アンカーウーマンとダブルキャストというのが考えさせられます。
科学ジャーナリストであったタマラはブコビッチの「精神データを政府に提供する」という案に反対していたし、「このプロジェクトを強行するならあなたを告訴します」とまで言っている。
それが自分の務めであるというプライドもあっただろう。
それなのに、アンカーウーマンは総統万歳の偏見報道のキャスターを務める。
どんな思いで演じているのだろう。

ブコビッチは負けた側の人間で、水星へと向かう艦に乗っているのは金持ちか勝った人間。
同胞を置いてきたブコビッチの気持ちは計り知れない。それでも科学者としての務めを全うするし、最後には「人類を愛している」とまでいう。
ブコビッチは水星についてからというものの、「全体にとって都合の悪い攻撃的な思考を持つ者」の記憶を消してきたけれども、おそらく実験をのぞいて最初に記憶を消したであろうミレナの記憶を消したのは、「彼女にとってそれがつらいこと」だと判断したからであり、「人類愛」につながっているといえば、なるほどと思わなくもない。
ただ結局ミレナはそれを思い出したかった。自分を取り戻したかった。オバクも同じように。
ミレナ自身は「彼にとって都合の悪い記憶を消したのかも」「私の家族にも何かしたのかも」と思っていましたが、ミンナと融合したことで、実はそうでなかったことを知る。
父娘のすれ違いというやつですな。

どうでもいいですが、データを抜き去ろうとして、パソコンごと盗んでいこうとするのはなんだかアナログで、おもしろいですね。
パソコンが初代あいまっくに似ているのもウケルw
あっぷる社への憎しみを感じます。すばらしい。

オバクは「運命に飛び込んで望むものを獲れ」と言います。
そしてオバクとミレナは記憶を求めてサパのへそのおを目指す。
みんなで愉快に歩き続けるのは愉しかったですな。
曲はどこかで聞いたことがあるような気がしますが、思い出せず。
「君らの活動はこういう雰囲気で良かったのか」「ほっといて」のやりとりは何度見てもクスリと笑えます。

偏見満載報道が伝えるサパに遭難者がいる、というニュースもなんとなく居心地が悪いのは、スポークスマンが「サパで遭難している人は科学がなくて可哀想、心細いだろう」というひたすら上から目線だからんですよね。
いや、しどりゅーは良かったんですよ、本当に。
演技がうまいから背筋が凍るというか。

一時はイエレナと決裂して、別の方向に分かれるノアですが、結局イエレナを助けに来る。
もうちょっと時間が空いても良かったかなと思うけれども、限られているのでしかたがないですね。
「一緒にいてやろう、どんな地獄までも」「僕はどんな君であろうが、ともかく君を愛したんだから」とか熱烈な愛の告白ですよね。
とても宝塚を見ている気分になりました。

ミンナと一時は完全に融合したミレナが、一体どうやって接続を断ち切って総統を殺しに来たのだろう、という謎はあるのですが、総統を殺したミレナが、地球を出る直前に記憶を消されたときのミレナの服装であることが重いなと思いました。
着替えが間に合わない、とかそういう物理的なこともあるのかもしれませんが、やはり記憶を消さないでほしかった、あのとき記憶を消したあなたを殺す、というメッセージがあるのかな、と。
もちろん台詞の中に「倒産の寂しさはこれで終わる」「この星の憎しみを一人で引き受けてきた」とありますから、ミンナとの接続を断ち切ってやってきた「現在のミレナ」なのでしょうけれども、「過去のミレナ」の衣装で引き金を引いたのはとてもいい演出だなと。
そして「人は憎しみだけで殺すのではない」というのはいつでもどこでも使える台詞ではありませんが、例えば森鴎外の「高瀬舟」なんかを連想させます。

ミレナが総統を撃ったとき、オバクはまだ自分の過去の記憶やブコビッチの地球の記憶に苦しんでいたけれども、ミレナはミンナになったことで、自分のトラウマを克服して、総統の寂しさを知り、総統を撃つことを決意したのでしょう。
ミレナがとても立派でした。

私はどうやらラストが納得いかないようで。
ツイッターにも書きましたが、「カビの生えた民主主義」にテコ入れをして、新しい時代を「カビ」と共存しながらつくっていくトップスターを見たかった、今の時代だからこそ!と言ったら、トップコンビのファンには怒られてしないそうだなと思いつつ、どうしてもその想いが捨てられない。
旅立つことなんていつでもできる。ゼロスタートよりも「やり直す」ことのほうがずっと難しい。
だからポルンカにおいて、「やり直し」ができないと見なされた人たちの記憶は消される。
新しい人間として「旅立つ」ことを強制されるのだ。
新しい場所に行けばここにない何かがある、理想が実現できる、というのはまやかし以外の何物でもない。
そこに行っても、今いるところと同じように絶望があり、悲しみもある。
けれどもそれを見ようとせずに、旅たちに対してどこか楽観的なのが気になります。
それが記憶を漂白されてゼロからやり直す人と重なってなんとなくつらい。

ラストにはその「楽観さ」というか明るさのようなものが必要なのかもしれません。
古い地球の言葉でいえば「希望」ともいえるかもしれません。
けれども小学校だけで3つ通い、転校を余儀なくし続けた私が思うのは、理想郷なんてどこにもなくて、前の記憶を抱えたまま、どうにか修正していくよりほかに仕方がない。
憎しみや悲しみを抱えて生きていくしいかない、ということだ。
だから、ポルンカに残るのはトップ二人ではダメだったのかな、と思ってしまう。
別にミレナにオバクとの子供を作ってほしいわけではない。
子どもによって女を地上につなぎとめる演出はいかがなものかと思うから。
でもミレナは新しい水星でバリバリ働くキャリアウーマンだった。
それなのに、そこでの仕事を切り上げて、サパに乗る。
艦長としてではなく、おそらく副館長として。オバクの女として。
サパに乗ったミレナは、キュリー夫人のいう「恋とビジネスチャンス」の「恋」しか手に入れられないような気がする。それがとても寂しい。ミレナはオバクとくっつかなくても良かったのかなとも思う。歳の差は10歳くらいあるだろうし。でもノアがイエレナとくっつくのに、トップコンビがくっつかないのは宝塚としてはナシなのかな。

「困難が人々を結びつけることを願って」というのは、それはそうなんだけど、ちょっと都合よすぎない?と思っちゃうわけですね。
それは決して「違いと向き合っていること」にはならないと思うから。
しかしミレナとイエレナの「女同士の誓い」を宝塚で見ることができてよかった。
『愛聖女』でもこういうのをもっと全面に押し出してくれればよかったと思ったよ。

そもそも男はどうして旅に出たがるのだろう。
『CASANOVA』のときも思ったのですが、「ここではないどこか」に男は行きたがる。
作品のラストとしてはありがちなのですが、本当にそのラストでいいのかというのは多くのクリエイターに考えて欲しいところ。
日常生活では旅立てないことも多いだろうから。
最後、ノアは艦に乗らない。イエレナがいるから当然だとも思いますが、「ノアの方舟」から名前が来ているだろうことを考えると、新しい「ノア」像なのかな、とも。
中の人の「とあ」の音からとっているのかもしれませんが。

「サパのへそ」は決して「金色の砂漠」ではない。生きる希望と美しい地獄。
けれども両方生きたままではたどり着けない場所かもしれないけれども、心の宝箱にある大切なもの。
そういう軸がないと生きていくのは辛いでしょう。

ラストでは「ボンボヤージュ」「ハブアナイストリップ」などいわゆる地球のあらゆる言葉が飛び交っていたのが幸せでした。そこは本当に良かった。
テウダが息子だけを艦に乗せる演出も素敵だった。ズーピンと仲良くなっていたわ。

いわゆるミュージカルソングがなくて、主題歌もなくて、ショルダータイトルもなくて、ないない尽くしでしたが、新しい宝塚を見せてもらった気がします。
小劇場のノリですよね。宝塚の方が装置や舞台が華やかですが。
一昔前なら筧利夫羽野晶紀で上演されていたかもしれません。この2人ならラストはくっついていなさそう。

音楽はいわゆる宝塚っぽくないと思う人がいるのも納得で、ちょっと君が悪いという人もいますが、私は好きでした。世界観に合っていますし、あの不気味な感じが「人間は愚かな歴史を繰り返すぞ」という暗示にもなっているような気がします。
歌がないのは「歌劇団」としていいのかという人もいるでしょうが、これはこれで別箱の楽しみ方としてアリだなと思っています。歌、ひいては音楽は兵士が持たない「個人の思想」を持ちやすい、個の文化を形成しやすい、それはポルンカでは危険なのでしょう。
友人は歌がなくて寂しがっていましたがw

とにかく『サパ』は本日が梅田での千秋楽。
本当におめでとうございました。
水星は地球で蔓延しているウイルスとは無縁だと信じたいところです。
キャスト、スタッフのみなさま、本当にありがとうございました。
無事に完走できて良かったです。東京でも何事もないことを心から祈ります。