外部『田舎騎士道』『道化師』感想
外部公演
2022年度 全国共同制作オペラ
マスカーニ/歌劇「田舎騎士道(カヴァレリア・ルスティカーナ)」
レオンカヴァッロ/歌劇「道化師」
演出/上田久美子
行ってきました、うえくみオペラ。
ポスターの「みんなさみしいねん」という落書きが斬新でしたが、オペラを見た後に再度この言葉を噛みしめるとなんともいえない気持ちになります。『田舎騎士道』と『道化師』も予習せずに観劇しました。映像でオペラを見てもわかる自信がなかったともいいますが。
上演順が当初と反対になったのは、両作品に出演するアントネッロ・パロンビが『道化師』の途中から白塗りになるからでしょうか。この白塗り、顔の半分だけというのが結構肝だと思っていて、オペラ座の怪人のような印象も受けました。あの狂気っぷりも合わせて、エリックだよな、と。
文楽スタイルと言われるように歌を担当するオペラ歌手とダンスを担当する役者の二人で一人のキャラクターを表現するという、オペラとしては新しい形ですが、思っていたよりも違和感なく見ることができました。これはひとえに演者のみなさまのおかげでしょう。ありがたや。
オペラ歌手の歌を初めて生で聴いたわけではないと思うのですが(オペラという芝居の形は初めてだと思うのですが、コンサートのようなところで、歌だけなら聞いたことがあったはず)、どこから声を出しているのだろうといつも不思議に思っています。今回、とても良い席で見ることができてわかったのは、歌うとき、身体全身を使っているということです。口とか喉とかから声を出しているのではなく、身体全体を振動させて歌う。そりゃ1日の稽古時間も限られてくるだろうな、と思いました。あれはすごかった。
『田舎騎士道』はもうとにかく聖子役の三東瑠璃の身体の使い方がとてもすごかった!という一言に尽きます。関節という概念がさっぱり見えてこない。軟体動物のように身体が動く。まさに「くらげのななり」。同じ人間とはとても思えない。おかしい、同じ位置に頭も手足もついているはずなのに……。
脱いだときの腹筋もすごかった。あれは……なに……私のおなかにはないものがついている。ついでにいうなら私のおなかにはあるものがついていない。
その他のダンサーさんたちももちろんとても真似できないような動きの連続だったけれども、彼女の動きのインパクトが強すぎて、圧倒的すぎて忘れられません。
聖子が護男(柳本雅寛)を、その動きで誘惑する場面の振付もなかなか忘れられないものがありますね……聖子の細くて長い足が護男の手に伸びる。護男の手を足でつかんだ聖子は自分の股に引き寄せる。護男は慌てて手を引き戻す、というこのコンボ。すごかったな、ああいう振付を考える人はすごいわね。もう語彙力が消滅するかと思ったよ。
あとは日野(宮河愛一郎)のテーマソングがおもしろかったです。
日本語字幕では「日野さんさすがです!」「知らなかった!」「すごいです!」「センスいい!」「そうなんですね!」という、いわゆる「魔法のことばさしすせそ」が並ぶ。カラフルなライトを浴びて、軽快にバカにされている。うわ、こういう人、おるで!となる。いっそ哀れか。
合コン言葉のさしすせそに乗せられてしまうような愚かな男っているよね。ちょろい男とでもいうべきか。そしてそういう男の妻がよりにもよって他の男と逢い引きしている、というのは本当に物語でもよくありそうな筋立てですが、でもつまりそれって現実でもよくあるってことだよね、と思ってしまいました。怖い。
日野にも「だから葉子(髙原伸子)は他の男のところに行っちゃうんでしょ!」と心底思えましたね。この演出はすごくよかった。日野のキャラがよくわかる曲でした。トラックの運転手という設定も絶妙でした。ちょっとガラが悪い感じ、あるある~!
『道化師』の方では、「巴里劇団」という字面といい、好きな役者のことを「贔屓」と訳した字幕といい、旅芸人や歌う人の紹介振付といい、そこはかとなく宝塚の要素を感じましたが、そんなことよりも教会にいくはずの場面で、大阪に住む人々が野球のナイターを見に行くという設定変更が、これまたたまらなくツボにささりましてね! ええ、私は野球のことなんか1ミリも知らないわけですが、とても大阪っぽい!と思ってしまいましたよ。
「今期も最下位やったらファンやめたるで」みたいな字幕は、あるあるのことなのでしょう、クスリと笑いを誘いますし、そして実際に最下位になってもきっとこういう人たちはファンをやめないのだろうな、という気もしました。市井の人々の心理をよく捉えている歌詞でした。
イタリア人もきっと「神はどうしてかくも過酷な試練をお与えになるのか、もう神は信じない」という気持ちになることもあるのでしょうけれども、結局は神にすがってしまう、神に祈ってしまう、ということがあるのかもしれません。そういう教会の様子と野球場の様子とが二重写しになっていて、とても不思議な感覚でした。
『道化師』の方が『田舎騎士道』よりもさらにメタ構造が深くなっていたのもおもしろかったです。サントゥッツァ(テレサ・ロマーノ)と聖子は二人で一人のキャラクターを演じているけれども、寧々(蘭乃はな)はあくまで劇中劇の人形であり、それを操るのがネッダ(柴田紗貴子)という設定になっていて、劇中劇の寧々が愛する人がペーペー(村岡友憲)であるけれども、現実のネッダが愛するのはペッペ(中井亮一)ではなく、シルヴィオ(高橋洋介)であり、それは知男(森川次朗)とも異なるというところでしょう。
踊る人はあくまで歌う人にとっての操り人形であり、その人形が芝居をする。歌う人にとっての現実はその人形を使った芝居の世界とはまた違うところにある。
だから人形芝居が終わった後も、カニオ(アントネッロ・パロンビ)はネッダに「お前と一緒にいた男は誰だ」と追及を辞めない。ナイター帰りの客は「やけにリアルだな、この芝居」と口々に言う。舞台の上では芝居と現実が交錯し、ネッダはあわててペーペーを差し出して、「私と一緒にいたのはこの人ですよね、皆さん」と客に確認し、同意を求める。
しかし、カニオの耳には届かない。やがてカニオは観客の中に紛れていたシルヴィオを探し出し、ネッダとともに刺し殺してしまう。皮肉にも字幕には「喜劇は終わった」と大きな字で映し出されてオペラは終わる。一体これのどこが喜劇なんだ……と思ってしまったけれども、全体がオペラというフィクションだとわかっているから喜劇に見える、ということなのかな。
何重にも入れ子構造になっているという話は聞いていましたが、想像以上におもしろい演出でした。
どちらの作品も、ちょっと痴情のもつれをちょっと大袈裟に描いてみた、というような作品だったと思われるのですが、その中でも光っていたのは『田舎騎士道』の中の光江(ケイタケイ)と護男のやりとり、つまり家族愛の存在でした。
日野と決闘することになった護男は母に伝える。「おれ、あいつに言ってしまったんだ、結婚すると」「だから、もし俺がいなくなったら母さん、聖子を頼む」と。
護男が聖子の行く末を自らの母に頼むところに、護男の聖子への愛情が垣間見えたのも感動したけれども、死を覚悟した男が母親に必死に頼み事をして、その頼み事を母親が泣く泣く引き受けるというのは美しい構図でした。いや、死ななくてもいいことだとは思っているけどね、どうして男ってすぐに命を賭けたがるのよ!と、めちゃめちゃ思うけどね。
でもそこから血のつながりはないかもしれないけれども光江と聖子の間に絆が生まれるといいなと思ってしまうのです。むしろそれだけがこの作品の一縷の望みとでもいいましょうか。
さらにはその家族愛なるものをおそらく与えられなかった、得られなかったであろう路上生活者の二人、やまだしげきと川村美紀子も相当インパクトを残していました。
自分の望む愛情に恵まれずみんなさみしい思いをしている。でも、それは彼らに責任があると一概には言い切れず、彼らを取り巻く環境が整っていない、つまり政治の問題だと痛切に感じました。
私はフィクションを「現実を忘れられる夢の世界」だとはあまり思っていません。むしろ「現実を考える一助となるべきもの」と考えているくらいなので、この路上生活者という設定はとても考えるべき存在だと思いました。
なにせ芝居からはみ出ている。開場したときにはすでに舞台でふらふら何かをしているし、幕間でもうろちょろしている。とにかく自由。話の本筋にもあまり絡んでは来ない。けれども、つねに舞台のどこかにはいる。芝居を立体的に見せてくれる役割がありました。あれは未来の私たちの姿かもしれない。そう考えると背筋がゾッとする。
どちらの作品でも最後は着ている服を脱ぎ捨てて持ち前の筋肉を使ってあばれまくるのですが、それは彼らの精一杯の抵抗というか、彼らにしかできない反発の形を表しているように見えました。本当、いい筋肉しているよ、ホームレスなんて絶対嘘やんっていう体つきでした(笑)。
どちらの作品もそれほどスピーディーに物語が展開していくわけではないけれども、とにかく1回に与えられる情報量が半端なく多い。イタリア語の音楽、英語の歌詞、日本語の歌詞、関西弁の歌詞、踊る人による身体表現、同じ出来事をこれだけの情報量を使って観客に提示している。視覚的にも聴覚的にもいっぱいいっぱいだ。訳やダンサーの動きに逐一驚いたりしみじみしたりしているから、とてもではないが、1回では追いかけきれない。
けれども、考えてみれば意外でもなんでもないのかもしれませんが、歌のフレーズはよく繰り返される。だから同じ歌詞が何度も出てくる。それはうえくみの言うところの「耐え難くゆっくりしていた」というところに起因するものなのでしょうか、1回で追いかけきれないから何度も出てきてちょうどいいくらいの情報量になる。
もっとも後ろの席の人は「もう私、関西弁しか見てない」と言ってしましたし、もちろんそれで話が通じるようにはできているので、それでもいいのでしょう。そういう楽しみ方がオペラでもできることを提供することに意味のある芝居ですから、むしろそれは普段オペラを見ない人たちにオペラが無事に届けられたと考えるべきかもしれません。
一人二役演じるという演出については、今更『バイオーム』の例を持ち出すまでもなく、うえくみ先生の演出を考えるときに必要な要素だと思っています。プログラムには高橋彩子が『翼ある人びと』と『fff』を取り上げていますが、私は『FLYING SAPA』のアンカーウーマン777とタマラの二役を瀬戸花まり一人が演じたこともかなり顕著だと考えています。
二人の女性は物語の中で正反対の態度をとります。
アンカーウーマン777はブコビッチ(総統01)よって管理されるをニュースキャスターとして人々に推進していき、多文化共存を訴える人をいとも簡単に「差別主義者」と呼ぶような人であり、一方のイエレナの母であるタマラはサイエンスジャーナリストとしてブコビッチが作ろうとした世界に反発し、告発までしようとしていた人物である。作中に出てくる「へそのお」がマイナンバーカードやスマートフォンにそのまま置き換えられるような世界に住んでいる私たちにとって、彼女たちは架空のキャラクターであるが、決して他人事とは思えない。誰の心の中にも二つの顔があるのではないかと思わせる。
せとぅーはどんな気持ちで二役を演じていたのだろう、どんなふうに二人のキャラクターを切り替えていたのだろう、今でも興味深い案件です。
文楽のなり手がいない、研修を受ける人がいないというニュースも見ました。悲しいことです。能、狂言、歌舞伎とともに、なんとかして残していきたい日本の文化です。
その意味でオペラやバレエは「なり手がいない」ということはないのでしょうか。しかしこちらも残していく努力をしないとなくなってしまうかもしれません。文化とはそういうものなのでしょう。