ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、古典文学など好きなものについて語るところ。

『サパ』と『金色の砂漠』

今回は、『FLYING SAPA -フライング サパ-』(以下『サパ』)と同じく上田久美子先生が作・演出を担当された『金色の砂漠』とを比較してみる。

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東京公演の幕が無事に開きますように!

ちなみに『サパ』単独の感想はこちら。

yukiko221b.hatenablog.com

『金色の砂漠』についてはこちらにつれづれなるまま記してあります。

yukiko221b.hatenablog.com

1 ここではないどこか

『サパ』において、オバク(真風涼帆)は最後に水星を旅立つ。まさにタイトル通りの結末となった。
「ここではないどこか」に自分の理想を探して旅立つというエンディングは、たとえば『CASANOVA』でも同じなのだが、男たちはなぜか旅に出たがる。「ここではないどこか」に行きたがる。
冒険家といえば聞こえはいいかもしれないが、愛する人をおいて旅立とうとするのはいかがなものか。
『サパ』では最終的にミレナ(星風まどか)も艦に乗るが、『CASANOVA』ではベアトリーチェヴェネチアに残るだろう。
宝塚歌劇団なんだから、トップとトップ娘役は最後にラブで結ばれるのが当然!とは思っていないけれども、愛し合っているのに分かれなければならない理由を観客に納得いく形で届けるのは難しい。

一方で『金色の砂漠』において、「ここではないどこか」に旅立ちたがっているのは、ギィ(明日海りお)ではなく、タルハーミネ(花乃まりあ)である。
回想シーンで幼少のタルハーミネが王妃の部屋を訪れ、帰り道からピピに「金色の砂漠の歌」を教えてもらい、翌日タルハーミネは「金色の砂漠」を目指して城を出る。
城の者には当然伝えておらず、共はギィ一人だけである。
王女としてはあまりにも軽率な振る舞いだが、「ここではないどこか」――父であるジャハンギール(鳳月ちなつ)の支配の及ばないところに行きたがっている。
そして最後には二人ともその場所にたどり着いてエンドとなる。

理想を追い求めて「ここではないどこか」に行きたがる人物がいることは共通しているが、それが男役が担うのではなく、娘役が担っているというところに『金色の砂漠』は新しさがあるのではないだろうか。

2 よくある結末

『金色の砂漠』の新しさといえばそれは結末にもいえるだろう。

『サパ』では、とてもざっくり言うと、人類の幸せのためにあらゆる「違い」を無くし、みんなが一つになることが最善の策であると考えるブコビッチと「違い」があるからわかり合おうとするし、傷つくこともあるけれども、「違う」ことが当たり前であると考えるオバクとの対立が描かれている。
古典的なSFものではよくある対立であるが、こういう対立が起こったとき、結末は後者にならざるを得ないだろう。
エヴァンゲリオン』でも人類補完計画を実行してみんなハッピーになりました、とはならない。
ガンダム』においても、ニュータイプは他人の気持ちを相手の許可なく知ることは辛いという描写もある(『UC』において主人公が相手の隠しておきたい男娼をしていたときの過去を知ってしまって、相手が狂っちゃうとか悲惨)。
「違い」があることを認め、たとえわかり合えなくても、存在を否定してはいけない。
私たちは「違い」があるまま生きていくより他に仕方が無い。
観客側に合わせたラストとはよくある結末といわれるかもしれないが、現実世界を生きる私たちにとっては説得力がある。

一方で『金色の砂漠』のラストは新しい。
「誇りなんてさ、お腹膨れないし、一緒に生きてさえいればいいじゃない。捨てちゃおうよ」というラストにはならない。
タルハーミネは最後まで自分の「誇り」を大切にするし、ギィもまたそんなタルハーミネを受け入れる。
「え、ちょっと待って? そんなのってアリ?」と思った観客もいるだろう。
おそらく多くの観客が「自分の誇りのためには死ねない」。けれどもタルハーミネはそれができる。
そういうキャラクターがいてもいいが、そのキャラクターをヒロインとして説得力をもって描くことは難しいだろう。
けれども『金色の砂漠』は、タルハーミネにはその道しかなかったことを観客は思い知らざるをえない。
たとえ共感はできなくても。
観客側に合わせたラストではないかもしれないが、それが充分な説得力をもって描かれているところは新しい。

3 娘役は聖母ではない

では『サパ』と『金色の砂漠』の共通点とは何だろうか。

『サパ』において、イエレナ(夢白あや)はオバクの婚約者であった。
しかしオバクは記憶を漂白され、再びイエレナの前に姿を現したときは「はじめまして」という形になる。
自分のことを知るためにオバクはイエレナに近づき、一晩をともに過ごす。
「君は俺を隅々まで知りすぎている。俺たちは初めて寝たんじゃない」とオバクは言う。
その一方で、イエレナは物語のエンディングでノアとの子供をおなかに宿している。
つまり、イエレナに処女性を求めていないのだ。

これはミレナにも同じことが言える。
ミレナは水星にむかう艦にいるときからずっとサーシャ(オバク)が好きだったかもしれないが、違法ホテルでは「娼婦のまねごと」をし、あらゆる男と寝る。
オバクには「ホテル代が滞っている。これから男と寝るときは金をとれ」とまで言われる。
もっとも娼婦のような振る舞いを繰り返していながら、グリープに襲われ、正当防衛で殺してしまったとき、ミレナを「ブコビッチの娘」として憎む声はあったが、「日頃の行いが悪い」「襲われて当然だ」という(我が国の中で残念ながらよく聞く)声はなかった。これは救いである。
ともかく、ミレナにも処女性など到底求められるはずがない。
つまり、『サパ』において主人公の恋人たちは、聖母マリア様などではなく、「生きた人間」として描かれているといえるだろう。

『金色の砂漠』でも同じことが言える。
タルハーミネはギィを一晩を共にし、一時は「奴隷の妻として生きる」とまで言っておきながら、自分の誇りのためにギィを裏切り、テオドロス(柚香光)と結婚し、子供をもうける。
タルハーミネの義理の母であるアムダリヤ(仙名彩世)も、かつての夫であるバフラムを愛し、彼がジャハンギールに殺されたときは「夫を超した、王族を皆殺しにしたあなたの妃になどなりません!」と激しい気性で語る。
けれども、時の流れと共にジャハンギールへの恨みは溶けていき、自分でも認めたくないが認めざるを得ないほどまでに彼を愛してしまう。
回想で幼少のタルハーミネがアムダリアの部屋にいたとき、ジャハンギールが訪れる場面は重く切ない。
この作品でも女性たちは「生きた人間」として扱われている。
女性の人物造形が継承されているのはとても嬉しい。

4 伝説の場所

ところで『サパ』にも『金色の砂漠』にも伝説の場所なるものが設定されている。

『サパ』では「願いを叶えてくれる場所」として「サパのへそ」が出てくる。
これはユダヤ教でいうところのシナゴーグみたいな場所とも語られる。
実際はホテルに客を滞在させるためのキュリー夫人の方便だったことが最後に明かされるが、ミレナは「サパのへそ」は「人の心だけにある」もので、オバクは「決してたどり着けない幻の場所」「遠く星のように憧れる」、古い地球の言葉で「希望」と言う。
物理的に存在する場所ではないけれども、それを目指して、時にはそれを頼って生きていくものとして「サパのへそ」は「生きる希望」と言い換えられている。

『金色の砂漠』ではタイトル通り「金色の砂漠」が伝説の美しい場所として出てくる。
タルハーミネはテオドロスに以下のように説明する。
「この地の砂漠の奥深くには金色をした砂漠があって、それはそれは恐ろしい美しさなのですって。金の砂は太陽の欠片のように熱して降り注ぎ、その輝く砂嵐の中で肉体は消え、人は魂だけになる。そこは美しくて苦しい、えも言われぬ場所で、金の砂漠から戻った者は誰もいない」
テオドロスは「戻った者がいないのに、なぜわかるんだい」とひやかす。
そんな彼は「金色の砂漠」にはいけないだろう。

ラスト、金色の砂漠を求めて城を飛び出し、砂漠で迷っているとこを、戴冠式を目の前に同じように城を飛び出してきたギィ(イスファンディヤール)に発見される。
イスファンディヤールは「焼け付くような憎しみの中で、俺はお前に恋したのだ!」と言い、タルハーミネも「私たちの、心のどこかにある場所」と言う。
金色の砂漠にたどり着いたと認めたタルハーミネはそのままその場で息絶え、重なるようにイスファンディヤールの体も崩れ落ちる。
「サパのへそ」と同じように「人間の心の中にある」と言われるが、「金色の砂漠」では「私たちの」つまりイスファンディヤールとタルハーミネの心の中にある場所として語られる。
「金の砂は太陽の欠片のように熱して降り注ぎ、その恐ろしい砂嵐の中で人は魂だけになる」と言われる「金色の砂漠」は換言すれば「美しい地獄」といったところだろう。
「生きる希望」である「サパのへそ」とは似ても似つかない、あるいは正反対のものでさえあるといえる。

5 まとめ

『サパ』も『金色の砂漠』も今この時代の話でもなければ、昔のこの場所の話でもない。
けれども、観客の胸を打つのは、そこに幾重にもの「新しさ」があるからだろう。

『サパ』は古典的なSFを宝塚歌劇団で舞台化するという新しさがあり、ショルダータイトルはない、主題歌はない、拍手する場所もないという「ないない尽くし」であった。
『金色の砂漠』には、観客がとても共感できないだろうと思われる娘役の激しい熱情を、説得力をもって描いたという新しさがある。
私は好みとしては後者の方が好きだけど、前者のような作品に出会えたことにはひたすら感謝です。
雪組のヴェートーベンも月組楠木正成にも期待大です。


※『サパ』の結末の懸案事項

私は『サパ』の結末に違和感があり、この違和感にどう決着をつけるかいまだにあぐねいております。
一見希望のあるラストのように見えるけれども、そもそもオバクが艦で旅立つことが不審ですし、ミレナはバリバリに水星で働いていたのに艦に乗ってしまうと「オバクの女」として扱われることになってしまうのではないか、「民主主義」と口にしながら民意で選ばれていないイエレナに水星を任せて大丈夫なのか、今後の可能性として、サパ艦内で内ゲバのようなことは起こらないのか、ブコビッチのような科学者がまた出てくる可能性もあるのではないか、オバクが何らかの形でミレナを失ったら、ブコビッチのようになってしまうのではないか、と考えると、本当に「どこが希望やねん!?」と思ってしまう。
けれども、「ラストの場面はミンナと融合したミレナがオバクに見せた夢」と解釈すると、なるほど、つじつまは合う。
以下のnoteが大変おもしろかったので、貼っておきます。

note.com

マトリックス』のようなラストだなあ、とSFに詳しくない私はざっくり思ったのですが、しかし! これでは! あまりにも! 救いが! ない!!!
ミレナがブコビッチを撃ったときに、ミレナが地球を出るときの衣装のままだったことを、私は「愛情から私の記憶を消したあなたを愛情で殺す」と解釈したのですが、上記のnoteでは「ミンナと融合が完了し、肉体を失ったミレナの魂」と解釈しているのが最高に痺れました。ありがとうございました。
もう少し『サパ』のラストは考えてみる必要がありそうです。