ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、古典文学など好きなものについて語るところ。

『金色の砂漠』について

全体としてのまとまりはあまりなく、思ったことをつらつらと書いています。
 
■構成は「お能
演出の上田久美子先生はお能やお狂言の鑑賞が好きだと公言する通り、「金色の砂漠」は確かにお能、その中でも夢幻能とよばれるジャンルと構成がよく似ている。
夢幻能では、旅先で旅人(ワキ)が亡くなった人間(シテ)の魂と邂逅し、亡霊の生前の様子が語られる。
第1場Aで出てきた死体がギィとタルハーミネであることを考えれば、「シテ=ギィ」「ワキ=ジャー」であるといえるし、第1場Bの台詞では「この物語の語り部の、ジャー」と名乗っているので、やはりジャーはワキなのだろう。
 
その意味で序の砂漠の場面は見事である。すばらしい。
ジャーがギィを思い出し、ギィの魂が歌いながら舞台にせり上がってくる。
そしてそのまま場面は、かつて実際にあった宴会の場面へとつながるのだ。
 
ビルマーヤとジャー
第4場でビルマーヤは「狩りはあまり好きではないの」と言う。
この発言は貴重である。なぜならば、これによって物語が前に進むからだ。
 
まずはこの発言の真偽について問いたい。ビルマーヤはゴラーズがあまり弓が得意でない様子を受けて上記の発言をするが、果たしてこれは心のそこから真実といえる言葉だろうか。
もちろんプリーが言うように「優しい」ビルマーヤが動物を射る狩りが好きではないと考えることに無理はない。
ただし、ジャーが「昔から弓は得意だった」という設定を見逃してはならない。
 
自分に仕える奴隷が「弓が得意」というのを大人であるビルマーヤがそんなことを鼻高々に語るのは想像しにくい。
けれどもジャーは幼い頃から一緒にいる。
妄想をたくましくしてみれば、幼い頃、ビルマーヤは一度で獲物をしとめるジャーを「素敵だ」と思ったのではないだろうか。
同じ奴隷であるギィはともかく、プリーはあの性格から考えるに、弓はそれほど得意ではないだろう。
その他、「昔から弓は得意だった」というジャーの弓の腕にかなう者が果たしてどれだけいただろうか。
その中でジャーは狩りのとき常に優れた腕を発揮していた様子がうかがえるのだ。
つまり、この発言はジャーほどの弓の使い手はなかなかいないということを連想させるのである。
 
狩りはイスファンではそのまま「力の強さ」につながる。ビルマーヤがそれを欲したとは思わない。
しかし、ジャーが一度で獲物をしとめる姿を幼な心に「格好いい」と思ったとしても不思議ではあるまい。
奴隷にどれだけ狩りの機会が与えられたのかはわからないが、奴隷に「力の強さ」を示す必要がないことを考慮すれば、それほどたくさんの機会が与えられたとは思われない。
見世物としての意味はあったかもしれないが、貴族たちよりも多くやっていたとは考えにくい。
 
それほど狩りの機会が与えられていなかったのに、ビルマーヤが「昔から弓は得意だった」とジャーの性質を覚えていること自体がおそらく稀有なのだろう。
奴隷のことなど心にもかけないのが当時の習いである。
言葉通りに「狩りはあまり好きではな」くとも、「狩りをするジャーの姿」は魅力的に映っただろう。
 
しかしビルマーヤはゴラーズのために「狩りはあまり好きではない」と言う。
そしてその言葉をきっかけに思いもかけずゴラーズの優しさに触れることになる。
生き物を大切にするゴラーズの優しさは、ビルマーヤの心にも刺さる。
なぜならば、ゴラーズの優しさはジャーを傷つけないと確信できたからだ。
すなわちビルマーヤは愛しいジャーとの思い出に背を向けた言葉によって、結果的にゴラーズと結ばれることになるのだ。
 
■言葉を欲しがる人/言葉が要らない人
実利を重視するテオドロスと誇りを重視するイスファンディヤールは対照的な人物として描かれているが、タルハーミネに対しても二人の態度は対照的である。
そのことがもっともよく表れているのは言葉を欲しがるかどうかだろう。
 
第4場でテオドロスはタルハーミネに「あなたの愛の言葉が」欲しいという。
タイルハーミネは父の仲で決まっている結婚を自らの意思で覆したくても覆すことはできないと知っている。
極端に言えば、愛していなくてもテオドロスと結婚する未来を半ば諦めとともに受け入れている。
だから「愛の言葉」が必要だとは思えないし、テオドロスに対しても言わない。
けれども、テオドロスはそれを求める。
商いにおいて言った言わないは論点になるだろう。
そのために契約書などというものも存在するくらいだ。
なるほど、これは実利を求めるテオドロスらしい態度である。
 
一方でイスファンディヤールは第15場でタルハーミネに「お前を愛しているわ!」「お前を、お前なんかを愛するなんて…私が…!」とテオドロスが欲しかった「愛の言葉」を悲鳴のように叫ぶ。
それに対してイスファンディヤールは「なぜ砂漠へ出た」と全く答えになっていない言葉を返す。
無視しているといっても過言ではないくらいのデス・コミュニケーションである。
しかし、イスファンディヤールにとってタルハーミネの愛情などすでにわかりきったことであり、それをいまさら言語化されたところで舞い上がることなど決してないのだ。
 
■テオドロスの人物像
テオドロスは生粋の商人である。そろばん勘定が何よりも大事な人だ。
思えば算術が苦手な娘が商人と結婚するとは皮肉な話だ。
情熱的に生きているギィとタルハーミネに比べたら、確かにテオドロスは冷めているように見えるし、下手をすると人物像が薄っぺらいようにも見えてしまう。
 
しかし本当にそうだろうか。
城の守備隊まで砂漠に送り出してしまったことは確かに軽率だったかもしれないが、あの場面ではそうする他なかっただろう。
ましてや、内側から賊が入り込んでくることを想像するのは難しい。
常に地に足の着いた計算をし、自分に利益があるように動くーーつまりこれは私たち現代人の姿なのではないだろうか。
現在地と目的地を最短距離の手段で結びつける近代人は、そのままテオドロスの人物像にあてはまる。
裏を返せば、ギィやタルハーミネのような情熱に情熱を注ぎ込んだ恋愛ができないだろう。
作中にテオドロスは薄っぺらいかもしれない。情けないかもしれない。
けれども、それを私たちが批判するいわれはないのである。
笑うことはできないのである。私たちもまたテオドロスと同様の近代人なのだから。
それでもテオドロスの作中内における存在感はギィにもタルハーミネにも負けていない。
なぜか。テオドロスが最高に美しい姿で出てくるからである。
早い話がイケメンだからである。この説得力は宝塚でしか通用しない。
でもそれでいいのである。宝塚中華思想なのだから。ビバ☆宝塚の世界。
 
■理想の国とその後のイスファン
第12場で「ここにイスファンの新しい王が宣言する」とイスファンディヤールは言う。
タルハーミネとの結婚に免じ、王族は皆殺しが習いであるが、追放するに留める、と。
これは明らかな失策であるはずであった。
 
直前にジャハンギールが後悔したことを思い出せば、この先、テオドロスとタルハーミネの子供が何をするか、それはイスファンディヤール自身が一番わかっているはずだ。
それなのにイスファンディヤールは殺さない。いや、おそらく殺す必要がないのだろう。
 
少し話は変わるが、作中には国の権力を求める人がたくさん出てくる。
プリーはしきりに「理想の国」「俺たちの国」という。では「理想の国」とは何なのだろうか。
ジャハンギール王はテオドロスの説明によると「国を治められないその立場に飽き足らずイスファンを征服した」ということだが、ではジャハンギールはどのような国を作りたかったのだろうか。
イスファンは確かに豊かであるらしかったが、それは貴族たちの様子のみであり、民がどうであったかはいまいちよくわからない。
気性の荒いジャハンギールである。戦も多かったことが想像される。
ジャハンギールは国王にはなりたかったけれども、国の運営にはあまり興味があったとは思えない。
 
イスファンディヤールもまた国王の座を求めるが、理由は「復讐」である。
これまた国の運営には頓着がなさそうだ。
どのような国を作りたいのか、それが根幹になくても「力」のみで国王になれる時代であったことがうかがえる。
まして「イスファンを攻める日を夢見て砂漠に出た」というプリーは自分が国王になれるとは微塵も思っていない。
せいぜいイスファンディヤールの元で大臣になるくらいの夢しかもっていなかっただろう。
けれども、どういう国を作りたいのか、プリーの口からも語られない。
おそらくは考えていないのだろう。
自分が虐げられさえしなければいいと思っているかもしれない。
奴隷であった経験から奴隷を廃止しようなどという大それたことを考えている様子もない。
この作品には求める国の全体像があまり示されない。
辛うじてテオドロスが「力だけでなく商業でも国を富ませよう」としているのがわかるくらいだ。
国の権力に近い人たちがたくさん出てくるのに、国の運営に興味のある人が極端に少ない。
これではいい政治はできなかろう。
 
イスファンディヤールがタルハーミネを追いかけて砂漠に出たあと、イスファンはどうなるのか。
プリーでは国を治められないのは明白だし、テオドロスが戻ってくるのも思えない。
ゴラーズは亡くなり、ビルマーヤとジャーは城を出る。
シャラデハとソナイルが治めるだろうか。それもどうも考えにくい。
国の中が騒がしい間に、外国に攻め滅ぼされるのが一番現実的ではなかろうか。
 
テオドロスとタルハーミネの間に生まれた男皇子は復讐するべき相手と取り戻すべき国を失う。
もっとも砂漠の旅の中で生き延びることができるかどうかもあやしい。
ギィとタルハーミネの子供だったらなんとしても生き延びそうな感じはあるが、ビルマーヤが抱いていた七年前に出ていったイスファンディヤールの子供とは考えられないだろう。
 
本当は失策だったイスファンディヤールの国王としての初めてのーーそして最後のーー判断は、このように正当化されるのである。
 
■アムダリアは二度死ぬ
アムダリアは「金色の砂漠」の歌を作る。
イスファンディヤールとタルハーミネが最後に見た景色が「金色の砂漠」であるならば、アムダリアは一度死んでいなければならない。
とすれば、作った詳細な時期は描かれていないが、バフラムが亡くなり、ジャハンギールがイスファンの国を治め始めた頃だと推察される。
 
アムダリアが過去死ぬタイミングがあるとするならば、それはやはりバフラムが亡くなったときだろう。
身も心も死のうとした、そんなアムダリアの、とりあえず肉体の生を救ったのはジャハンギールだった。そして皮肉なことに精神の生を救ったのもジャハンギールだった。
だからアムダリアはジャハンギールが死んだとき、今度こそ本当に死ぬのである。
奇跡的に一度よみがえったアムダリアが作った歌、それが「金色の砂漠」なのである。アムダリアもまた敵の腕に抱かれるという「罪」をおかし、「許し」を乞う一人であった。
 
■奴隷とは
○「特別な奴隷」という設定
ギィが出て行ったあと、タルハーミネの身の回りの世話をする「特別な奴隷」は補充されたのだろうか。
プリーが出て行った後、シャラデハに新しい「特別な奴隷」はできたのだろうか。
少なくとも二人とも新しい「特別な奴隷」を得た様子は描かれていなかった。
「特別な奴隷」が「特別」であるのは、生まれたときから一緒にいるというニュアンスがあるのではないか。
つまり、あとから補充することがもともと不可能な存在なのである。
 
○お手つき奴隷はいたのか
タルハーミネがギィと結ばれたことを知ったジャハンギールは「奴隷などと結びつくとは」と怒りを露にする。
つまり、王女が奴隷と結びつくことなどあってはならないということだ。
ましてやそこに愛が芽生えるなどとは、考えられないのだろう。
では王が奴隷と結びつくことはあったのだろうか。たとえばジャハンギールとルババはどうだったのだろうか。
ルババはジャハンギールのお手つきになったことはなかったのだろうか。
 
少し話は変わるが、ジャハンギールの娘は自動的に王女である。
そういう世界観としては、奴隷の子は奴隷だろう。
しかし王族同士の結びつきが描かれているのに対して、奴隷同士が結びついている様子は描かれていないのである。
プリーが歓待の催しの際に同じ奴隷の女の子をくどいているくらいだ。
 
奴隷はどこから補充されるのだろう。
貴族なのにある日突然奴隷になったナルギスのような例は珍しかったのではなかろうか。
奴隷がいなかったら困るのは王族。なくそうとは夢にも考えていないだろう。
一方で奴隷同士の婚姻を奨励しているようにも思えない。
もしかしたら奴隷には婚礼の儀など必要なく、なんとなくできちゃったというパターンが多かったのかもしれない。
 
そういうことを考えると、奴隷の腹から生まれたら奴隷、となる。
父親など関係ない。と、なればルババはジャハンギールのお手つきにはなっていないかもしれないけれども、王族のお手つきになった女性の奴隷は多かったことだろうと想像できる。
 
○奴隷としての幸せ
ルババはジャハンギールをかばって死ぬ。
主人をかばって死ぬことは、奴隷としては本望だろう。
反対にピピはアムダリアが階段を登る姿を見ていながら止めなかった。
主人に先立たれてしまうのだ。
しかし、おそらくこのあとすぐにピピもアムダリアのあとを追うだろう。
 
○奴隷はよくないというありきたりな結論にならない
新しい国のあり方として「奴隷廃止」は掲げられていない。と、いうかどんな国つくりをしたいのか、誰もはっきりと名言しない。
しかしギィは解放王と呼ばれるアルスラーンみたいになるつもりは毛頭なかっただろう。
作品そのものもそういうありきたりな結論にならないところに魅力を覚える。
 
○奴隷をかばって死ぬ人
ゴラーズはジャーをかばって死ぬ。
言い換えれば、王族の仲間入りをした貴族が奴隷をかばって死ぬ、ということだ。
これがどれだけありえないことなのか、それは「愚かな、奴隷を庇うなど」というイスファンディヤールの台詞からもうかがえる。
それこそがゴラーズのやさしさであり、ビルマーヤが彼に惚れた理由でもある。