ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、古典文学など好きなものについて語るところ。

月組『ダル・レークの恋』感想

月組公演

kageki.hankyu.co.jp


グランド・ミュージカル 『ダル・レークの恋』
作/菊田一夫
監修/酒井澄夫
潤色・演出/谷貴矢

とても良かった。本当に、これぞ宝塚!という作品を見たという気分でいっぱいだった。
作品の内容そのものは「あんまりだ! あんまりだわ!」とライブ配信のときは叫びながら見ていたのですが、それにしたってラッチマンを本物の男性に演じられた日には、叫ぶだけでなく枕を投げつけたくなる。
これは本物の男性が演じないからいいんだ……美しくみえるんだ……そしてれいこ(月城かなと)のその演技力と美貌と破壊力がとにかくすばらしかった。

ラッチマンは思うに、水の象徴のような人間ですね。
「水は低きに就くがごとし」と孟子が言うように、ラッチマンはインドの王族という頂点にありながら、パリでは無頼漢へ、インドに戻ったときも庶民へと人間のピラミッド階層の下へ流れていく。
だからこそこの作品の水の精は美しい。

ラッチマンが水ならば、クリスナは太陽のような存在でしょうか。
「貴族の女は、いや貴族は」とカマラに貴族の生き方を諭す彼も過去に何かあったのかもしれませんが、王族としての在り方がぶれない。彼は恐ろしいくらいに貴族である。義務であるかのように。
上記はカマラが助けを求めたときの台詞ですが、ここのクリスナはカマラに異様に冷たい。
人質として、生贄になることを後押ししているような感じさえする。デュエットソングがありますが、突き放しソングだと思いました。
ラッチマンがラジェンドラであると明かされたとき、インディラも態度はぶれないのですが、王族の内輪話のときは主軸になって話を回すのに対して、兵士たちが来たときはどこか一歩下がっていて、矢面に立って話をするのはクリスナである。
本物のラジェンドラが表れたときも「奴こそがラジェンドラだ、捕まえろー!」と驚くほど手のひらを返すのが早かった。
お前が言うか?とも思ったけれども、そういう変わり身の早さ、カラっとした感じがラッチマンとは対照的だなと思った。

ラッチマンをラジェンドラだと思っているクマール一族の対応を憲兵隊は訝しむけれども、残念ながら観客のほとんどは王家の人間の考えていることはわからないだろうし、憲兵隊の方がまっとうなこと言っているだろ!?となる。
インディラも「私たちは王族です。憲兵隊の力は借りません」みたいなこと言うし。
王族というのはやはりどこか歪んでいる。身分制度というのはそういう歪みを産んでしまう。
今は身分による差別はないものとされているけれども、こういう歪みは誰もが持ち得ているものだろうなあ。

それにしてもラッチマンはカマラとの関係をどうするつもりでいたのだろう。
カシミールでの一夏の恋で終わらせるつもりはなかっただろうことはわかるのですが、自分もインド生まれなのだから、身分がどれほど強固に人々を縛るかはわかっていたのではないだろうか。
「世間はアルマのような人ばかり」というのはラッチマンこそ身に染みてわかっていて、それが嫌でパリに行ったのではなかったのか。
カマラがデリーのゴヤール王家の女官長になることもわかっていたはずです。
だからこそ、ラッチマンはどうするつもりだったのだろうというのが気がかりで仕方がない。
まさかカマラが女官長の座を捨てて、自分と一緒にいることを選ぶと思ったのだろうか。
それではあまりにも夢を見すぎではないか。
カマラ自身がそうしたいと思ったとしても、当然クマール一族は反対するに決まっている。
それがわからないラッチマンだとは思わないのですが。

カマラは「ハイラダバードに行けばマハラジアである自分の祖父もいる」と言ったときに、ラッチマンは「私は貴女のおじいさまとも面識がある」というようなことを言おうとしていた。
つまり、ハイラダバードに行ってチャンドラに会えば、ラッチマンの素性はおのずと明らかになる。
ラッチマンはチャンドラの口添えで自らの経歴を明かすことによって、カマラとの結婚を許してもらおうとしたのだろうか。
「氏素性も知れぬ」と言いふらしているラッチマンがいきなり「実は王族の身分で」と言ったところで誰からも信じられない。
だからチャンドラを頼みの綱としたのだろうか。
それはわからないでもないのですが、ちょっと他力本願なところがあるかなという気もしなくはない。
もちろんあのチャンドラはラッチマンとカマラの結婚を喜んで祝福したと思うのですが。

一方でカマラ自身はどう考えていたのだろう。
自分は王族の一人として、ゴヤール王家の女官になるために育てられてきたという自覚があるだろうし、女官長になるときももうすぐに近づいてきている。
けれどもここが結構謎で、「女官長になる」ということはインディラやチャンドラ、アルマなど周りの人間が囃し立てているだけで、本人がそれを望んでいるのかどうかはいまいちよくわからない。
もしかしたら本人でさえも「本当に自分が女官長になりたいと思っているかどうか」はわからないのかもしれないですが。
いかんせん、そういう教育を受けてきてしまったことが、カマラの意志を封じてしまっている。

そんなカマラがラストの場面でターバンはしているもののサリーを脱ぎ、パリジェンヌのような装いで冬のパリの街を歩き回るシーンは秀逸だった。
ラッチマンを探しているこのときの彼女はすでにインドのヒエラルキーや価値観から完全に自由でなくても疑問を持って、近代人たろうとしている。もしかしたらもう女官長になっているかもしれない頃合いだが、階級社会への疑問をカマラはしっかりとその胸に刻んでいるし、近代人としての自覚が芽生えている。
冬だから当然だろ?サリーは寒いだろ?と思うかもしれないけれども、カマラの付き人の女性はサリーを着用していた。
あれはカマラの決意の表れなのである。

だから主題歌の「君の心を教えて欲しい」というのは、ラッチマンもカマラも自分の心を打ち明けてお互いがお互いを愛していることを告げているのだから、二人の将来についてもっと考えなければならなかったということなのだろうか、と。
私も教えて欲しい。彼らがどうするつもりだったのか。
「ボタンのかけ違い」と言われるように、これは本当に些細なすれ違いによって起こったどうしようもない悲劇と言わざるを得ません。
愛していた人、愛し合っていた者同士が、憎しみの炎の中で抱き合う。
いつかはこういう日が来るかもしれないと思っていた。けれどもそれは憎しみの中ではなく愛情の炎に身を焼かれながら、のはずだった。
その憎しみが偽りから生まれたものだったとしても、そしてまだ愛情が残っていたとしても、憎しみを抱く前には戻れない。戻れるはずがない。

風と共に去りぬ』の中でバトラーは「スカーレット、そういう風に君は子供なんだよ。君は『すいません』と謝りさえすれば、長い間の悩みや苦しみがたちどころに人の心から消え去り、心の傷が治ると思っている。僕はね、スカーレット、壊れた欠片を辛抱強く拾い集め、それをのりで繋ぎ合わせ、繋ぎ合わせさえすれば、新しいものと同じだと思うような人間ではないんだよ。壊れたものは壊れたものさ。僕はそれを繋ぎ合わせるよりも、むしろ新しかったときのことを追憶していたいんだ。そして一生、その壊れたところを眺めていたいんだ」といいます。
ラッチマンは「一生壊れたところを眺めていたい」かどうかまではわかりませんが(そこまで自分を苦しめなくてもいいと思う反面、でもカマラのことは一生忘れないんだろうな、とも思う)、「壊れた欠片を辛抱強く拾い集めてのりで繋ぎ合わせさえすれば新しいものと同じ」とはとても思えない人間なのでしょう。
弟に王位を譲ることを決心したラッチマンはパリに流れついたのでしょう。
そしてまたミシェルの店に出入りしているのでしょう。
ミシェルにも、カシミールで出会った女性のこと、そしてひどく振られたこと、自分が身分を隠し続けていたことなどを酒の勢いもあって洗いざらい話してしまうのでしょう、何度も。
ミシェルはそれを聞いて、励ましはするだろうけれども、カマラと思しき人間がパリまでラッチマンを探しにやってきたことは伝えるだろうか、伝えないだろうなあ、そこはほら、女だから(笑)。
舞踏会の最初の場面、お互いに好意をもつ男女のペアで舞踏会を楽しみましょう、とカマラにたくさんの男が寄って来る中、「まさか他の男を選びはしませんね」とドドン!と出てくるところは、さながら「金貨で150ドル」(ツイッターでご指摘いただき、訂正しました)と言ってスカーレットを買うバトラーのようでもありました。

「ダルの湖 夜長けて」「昼はひねもす 夜はよもすがら」という歌詞は本当に美しいし、当然ですが、菊田先生は受けてきた教育が違うなということをまざまざと思い知らされる。
この歌詞は文語教育を受けてきた人の心から出てきた言葉だなという気がしてならない。
台詞も美しい「恋をしている人はただの男と女です」とな。あっぱれである。
どうしたらこんな美しい台詞とこんなにあんまりな展開を同じ頭で考えられるのだろう。脳みそどうなっているの。
でもこの言葉遣い、好きですよ。この展開、悪くないですよ。好きですよ><
しかし「来るんですか、来ないんですか」のあとに連れていかれるのが船の上というのも怖い。
いくら数時間前まで本気で愛していた男だったとしても、そんな逃げ場のないところに、今や敵になった相手と二人きりにどうして簡単になれようか。
その中でカマラは後姿のラッチマンに走り寄って抱き着くのだから、もうそれで許してあげてよ、ラッチマン。
それ以上はやりすぎだよ、ラッチマン……と思いながら見ていました。つらい。

女の方が身分が高いこと、情事の後のお祭り、妹の悲恋、身分の低い者同士の恋人の様子、他人によって明かされる女性の本当の身分……など、私が大好きな『霧深きエルベのほとり』との共通点も多くありましたが、これまた私が大好きな『金色の砂漠』のような雰囲気もあり、紫の女官の衣装はまさに『金色』にも出てきたものでしょう、とにかく好みでした。

ここからはキャストの感想。
主演のれいこちゃんはそりゃもう麗しいですよ。男前とか美しいとかいうよりは断然麗しいですよ。
宝塚でなくても十二分に通用する麗しさですよ。整い方がすごい。
そのうえでラッチマンを色気たっぷりに演じてくれるのだから、こっちは思わず身をよじってしまうのですが、本当に器しいですよね……。
ちなみにターバンの色には何か意味があるのでしょうか。私にはよくわからなかったのですが……。

くらげちゃん(海乃美月)も大変に美しかったです。れいこちゃんとの並び、本当に性癖に刺さる……好き……。
アクセサリーがまた独特で、指輪と腕輪が合体しているような銀色のアクセサリーは何というのでしょうか。
考えた人は天才だなと思いますが、あれは誰にでも似合うものではなかろう。
劇団の扱いがひどくてプログラムのプロフィールにくらげちゃんは掲載されていないのに、すぐあとのページのメッセージには顔を出している。
どうしてこういう扱いに差をつけるのだろう。ヒロインやで? プロフも載せたれや!と思うのは何も私だけではあるまい。
娘役を、ヒロインを大事にしてください。頼む。頼むで。

ありちゃん(暁千星)はペペル役として芝居全体を軽妙に引き締めてくれました。
メリハリがすばらしかった。梅田でいないのが残念すぎる。
歌もよくのびるようになりましたね。白いスーツがよくお似合いでした。あれはいい。

からんちゃん(千海華蘭)、れんこん(蓮つかさ)、るねぴ(夢奈瑠音)、やす(佳城葵)も、さすがでした。
もうどこにいても何していてもわかる。
からんチャンドラはかわいいし、れんこんは村人としてもラッチマンパパとしても活躍だし、るねぴはよく踊るし、やすなんか喋っただけで場をまとめる安定感は抜群だし。
やす、ああいうまとめ役、本当にすばらしくよく似合うよね。拍手だよ。
月組は安泰だと思わせてくれる。
ゆの(風間柚乃)は噂に違わぬ研30ぶりを発揮。
あの男前ぶりは一体どういうことでしょうか。すごいな。
梅田では役が変わりますが、またこちらも楽しみですね。
どんなペペルになるのでしょう。

こありちゃん(菜々野あり)の水の精の優雅さ、可憐さ、恋のはかなさ、すばらしかったです。
そらちゃん(美海そら)もどこにいてもわかりました。祭りの女もフィナーレも。
別箱ライブ配信は下級生までちゃんと映り込んでいて、大変よろしいです。
らんくん(蘭尚樹)の恋人を演じたちづるちゃん(詩ちづる)も良かったです。
ラッチマンにカマラが連れまれた後、このラジオンとビーナのカップルが挟まるのが、とても良くて、とてもつらい。
この場面が終わったら衝撃のすみれコードギリギリの場面だし……真ん中にあるのが幸せほわほわカップルなのが微笑ましくもあり、ラッチマンとカマラとの対比が辛くもある。つらい。

でもその日の翌朝、船場の階段から降りるカマラにラッチマンは「さあ、降りてきたまえ」手を差し伸べるし、カマラもその手を取る。
やっぱり好きなんだよなあ、それがわかっただけでいいじゃないって思ってしまうのは私が女だからかなあ。
ターバンを何重に巻いているの?という疑問から、しどけない姿で出てくるラッチマンとカマラがまたいい。
全然だらしない感じがしない。いやらしい感じももちろんしない。
そして漁村の祭りにまざって庶民として楽しむの、最高にいいよね。
カマラもここでなら幸せになれるかもって一瞬思ったよね。だから自分は庶民だというのだから。
しかしそうはならぬ。菊田先生は悪魔か?

そうして東京公演の余韻に浸っている間に今週末には梅田公演が始まります。
ありがたいことに梅田公演、見られることになりましたので、役替わりの感想はまたそちらで。
1回しか観劇できないのでしっかり目に焼き付けてきます。