ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

私と『王家』とヅカと

タイトルはご存じ金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」より。
「みんな違ってみんないい」が未だに古くならない、まだそんなこと言ってんの?当たり前じゃん、という雰囲気にならないのがとても悲しい。
人と異なることを素直に受け入れることができる世の中でないから、『王家に捧ぐ歌』は観客に響くのかもしれません。

さて、星組御園座で絶賛公演中の『王家に捧ぐ歌』。
公演中止をうけて一度はチケットが流れてしまったものの、なんとか観劇できる見通しが立ちました。
宝塚の世界はあたたかいね、ありがとう。
私はせっかく御園座に来るならお芝居とショー(レヴュー)の2幕ものがいいと考えているような人間なので(地方巡業だからオリジナル作品にはこだわらない)、あまりいい観客にはならないかもしれませんが、とにかく地元で公演するのに見られないのはあまりにも悲しすぎるから嬉しい限り。ほくほく。なこ姫に会える!
とはいえ、ツイッターで流れてくる感想の9割がラダメスの服装のことなので、一体何がどう変わったのか、あるいは変わらなかったのかは、いまいち把握できていません。

私は初演の星組大劇場公演、再演の宙組大劇場公演は見ましたが、中日星組博多座宙組は見ていないのです。
彩花まりのアムネリス様、超見たいんだけど。
もとになったというオペラも見たことがないですし、劇団四季も見たことがないです。
ただし、とうこ(安蘭けい)が宝塚を卒業してからの『アイーダ』は見ました。
とりあえず見たことのある3つのバージョンから、作品について、振り返ってみたいと思います。

初演の星組は2003年。まだ中学生でした。計算があっていれば。改めて文字にするとすごい破壊力。ちゅうがくせい……。
わたる(湖月わたる)が大好きな母親ととうこが大好きな私とで、見に行きました。
今でこそ脚本にうるさい私ですが、当時はひたすらとうこを見ていました。トップコンビをしのぐあの圧倒的な歌唱力たるや……っ!
「戦いは新たな戦いを生むだけ~♪」って本当にその通りじゃないですか。素敵な歌詞ですよね。
愛と平和を高らかに歌い上げるとうこの、なんたるすばらしさや……っ!
現代でも通じる普遍的なテーマであるので、耳に残りやすかったのは良かったです。
楽曲全体の完成度はもしかしたら『レミゼ』『エリザ』よりも劣るのかも知れませんが、とにかくこのメインテーマ曲ば抜群にいい。
アイーダが最初に訴えるのはラダメスへの愛ではなく、平和への希求なんですよ、これが最高なんですよ。
平和でなくても愛は生まれるかもしれないけれど、平和でないと愛は育たない、花を咲かせない。
『神々の土地』でもそうだったじゃない。ドミトリーとイレーネ、そしてドミトリーとユスポフ(あ)。
よく考えれば2003年は2年前に9.11があったばかりでしょう。
今回だってウクライナのことを思えば、アイーダの願いはいまだに世界では達成されていない。
愛を育てるためには平和であることが絶対条件なのです。それはコロナ禍で今生きる私たちにも刺さるメッセージのはずです。

普段男役であるとうこは、あまり足も見えない衣装が多かった中、スリットから足がちらりと見えるのは中学生ながらドキドキしたし、ちらりと見える足にまでドーランを塗っていることに感動し、歌唱力もあいまってとうこ万歳!という感じでした。
一方で母親は、多少歌唱が力技になったとしてもひたすらわたちゃんを愛でていました。愛とはかくなるものよ。
ポスターもわたちゃんの長身を生かすようなポーズでしたから、男性将軍の役は一定の説得力があったかと思われます。
宙組のポスターにはアムネリスは不在でしたが、ウバルドと一緒に4人で撮れば良かったのに。

ただ、話としてはどうしてもアイーダに感情移入できなかったのはよく覚えています。
最近も「絶対別名イライザでしょ」と言われるような私は(知らない人は『キャンディキャンディ』で検索してね)どう考えてもアムネリス側の視点で物語を見てしまう。
檀れいがあまり得意ではなかったけれども、こちらも力技で歌い切った「それはファラオの娘だから♪」は私もよく家で歌うくらい好き。
そうすると、アイーダって言葉を選ばずに言うなら、とーっても鬱陶しいキャラクターなんですよね。
「は? なんで奴隷の分際で、ラダメスに恋してんの? 叶うわけないよね? バカなの?」ってなってしまう。
だいたいアイーダは一体どこで、どうしてラダメスに恋することになったのかも、わかりません。
敵の軍人を、そう簡単に好きになるでしょうか。ここに物語がない。
聞くところによると劇団四季版では、ラダメスとアイーダの出会いの場面があるそうですが、そういうのが必要なのではないでしょうか。
それがないと、敵同士のラダメスとアイーダがなぜ惹かれ合っているのか、全然わからない。
でも御園座星組にこういう場面が付け足されたという意見は聞きません。残念。

一方で、アムネリスはファラオの娘として、いずれはエジプトで一番強い男と結婚する、しなければならない立場の人間である。これは既存の脚本からわかる。
本人もそれをよくわかっていて、その上でラダメスに恋に落ちたのか、たまたま恋に落ちたラダメスがファラオの器にふさわしい人物だったのかは定かではないですが、女官たちが「アムネリス様はラダメス様と結婚する」と思い込んでいるように、ファラオも周りの武将も同じことを考えているでしょう。
あるいはだからラダメスについた、という部下もいてもおかしくないと思います。

けれども肝心のラダメスは、周囲のその視線を一切無視する。
ねえ、どうしたらそんなに周りに無関心でいられるの?と思うくらいに、アムネリスからどう思われているのか、ファラオや周りから何を期待されているのか、気にしない。
周囲の自分を次のファラオにしようとしている視線を、驚くほどバッサリ切り捨てて、見ていない。眼中に入っていない。
それでいて「次の将軍に選ばれたい」「エチオピアを解放したい」「アイーダを救いたい」と言われても、残念ながら自分勝手な人間にしか見えない。
役割を自覚していて、そのうえで自分の感情と揺らいで葛藤するならわかるけれども、ラダメスは周囲の視線にひたすら無関心である。葛藤がないとは言わなけれども、共感に足る主人公に必要なほどはないように見える。
なぜあれほど無邪気にアイーダへの愛をダダ漏れにするのだろう。周囲の視線に気がつけば、それによりアイーダがより不利な立場に追いやられることはわかりきっているではないか。

もっとも「ラダメスが将軍になったからアムネリスの伴侶としてふさわしい」となったのか「アムネリスの伴侶としてふさわしいからラダメスが将軍になる」という運びになったのか、それは定かではありません。あるいは両方という可能性もあるでしょう。
ファラオは当然娘のアムネリスがラダメスを愛していることに気が付いているでしょうし、ラダメスがファラオの器にふさわしいとも思っている。
ラダメスの戦友ケペルとメレルカもラダメスが将軍になったことを喜ぶのは、純粋にお祝いの気持ちもあるでしょうけれども、これで自分たちも安泰だ、立身出世できると思ったのではないでしょうか。
誰しも金と権力にありつきたいものです。でもそれだけでは虚しいし、あさましいと2幕の冒頭、神官と女官の場面ではでは語られている。

そもそもラダメスが「エチオピア進軍の将軍になりたい」というのが、実は全くわからないのです、私。
ラダメスの願いは「将軍になること」なのか「エチオピアに進軍すること」なのか、1幕最後に語られるように「エチオピアを解放すること」なのか。
でも最後が彼の本当の願いだとするならば「エチオピア進軍の将軍になりたい」というのは、実はとても矛盾していて、はちゃめちゃなのではないかとさえ思うのです。エチオピアを救いたいのに、エチオピアを攻めたいの? 論理が破綻しいているの。それじゃラダメスはサイコじゃん。
これが、たとえば「アイーダの父であるアモナロスを生きたまま捕えたい」という気持ちがあってからの将軍ならわからないでもないですが、このあたりは語られていなかったように思います。
ラダメスはたった1回の遠征の将軍で王族の仲間入りができるとは、もしかしたら思っていなかったかもしれない。けれども結果として、この遠征の勝利が王族の仲間入り、ひいてはアムネリスとの結婚の決定打になったのではないでしょうか。それで「エチオピアの解放」を願うのだから、願われた側はたまったものではないし、周囲はきっとアムネリスのと婚姻を願うものだと思っていたはずです。
それまでの将軍たちはどうしたのか、というのは気になるところではありますが。アムネリスが気に入らなかったのかなw

1幕のラダメスはひたすらに脳筋マッチョ思想に思えてしまい、アイーダもアムネリスもラダメスの一体何がいいっていうのだろう……え、顔?とかそんなことを思ってしまう。
だから外部版で男性がラダメスを演じたのを見たときは「あーこりゃ、ダメだ、私」と思いましたね。
筋肉マッチョッチョの男性中心社会を億面もなく歌い上げるのを見て、私はつらかったのです。
演者に全く罪はありませんが、だからこそある意味、ラダメスという役は宝塚だから許容できたのかもしれません。
当時としては長身でダンサーのわたちゃんはともかく、まあ様(朝夏まなと)は最初に見たとき、実はちょっと辛かった。
彼女の持ち味はそういう筋肉マッチョとは別のところにある、もっと繊細でナイーブなものだと思っていたから。
だからサヨナラ公演の『神々の土地』は最高だった。こういう繊細な役こそ!と思いました。『神々』は最高だった(何度でも言う)。

ラダメスの真骨頂はなんといっても、アムネリスからの救いの手を退けた、2幕の最後の場面でしょう。
本当ならファラオがラダメスに与えるはずだった帝王学を、アムネリスは愛する、そして死にゆくラダメスから教わることになる。
アイーダにそそのかされた、と言いさえすればあなたを助ける」と言われ、ラダメスは静かに首を横に振る。
ファラオとして、人を束ねる人間として彼女が生きていくために、ラダメスは愛する人を胸に自ら死を選ぶ。
それはアムネリスが望んだ愛情の形ではなかったかもしれないけれども、ラダメスからアムネリスに捧げられた一つの愛の形なのではないでしょうか。精一杯の愛情というか。だからこの場面は泣いてしまう。
この場面がなかったら、ラダメスなんて本当に周りの気遣いや思いやりに気が付かない、今でいうなら発達障害などを疑われるような、そういう人間に見えてしまう(発達障害者をバカにする意図はありません、念のため)。
けれども、この場面があるから、救われる。
ラダメスはなぜアムネリスではダメだったのかは全くわからないけれども、ラダメスの生き方(死に方)がアムネリスに「今後一切戦わない」という決意をさせる。

アムネリスはファラオ暗殺のあと、自らをファラオと名乗り、再びエチオピア進軍を命じる。
そしてエチオピアは完敗する。もしかしたらこれはアムネリスが命じた以上の徹底抗戦だったのかもしれない。
2幕の冒頭でケペルやメレルカが言う「戦がなくなり、人びとは兵士を敬わなくなった」という事実の反動だったと考えることはできるでしょう。
ラダメスはこんなところもあまくて、「戦いがなくなれば、兵士は不要になる」ということさえ理解できない男なのである。本当に周りが見えていない、視野の狭い男なのだ。
兵士たちの鬱憤を晴らす形になってしまったエチオピア進軍は、アムネリスが想像していた以上に根も葉もないエチオピアを作り上げ、それに対して絶望とはまではいかなくても思うことのあったアムネリスが「今後一切戦わない」という宣言を出すのは、まあわかる気がします。私がアムネリスに甘いだけかもしれませんが。

外部版ではANZA大山アンザバンダイ版セラミュのファーストシーズンのセーラームーン)(まさかこんなところで再会するとは思わなかった)が私はとても好きです。
気高くて凛々しくて、ちょっと高慢で硬い気もするけれども、それも王女ゆえの気質だと思えば、美しさも歌唱力も問題ないかと思います。
ただ、外部版では、アムネリスが「今後一切戦わない」という決意の宣言した後、「女である私がファラオであったという忌まわしき歴史も消し去りましょう」みたいなことを言う。これ、結構意味不明だったし、今でもよくわからないなと思っている。
このアムネリスが一番好きなのに、ラダメスが実際の男性であることに抵抗のある私は円盤があるのに、見返せないという始末です。悲しきかな。
いや、ラダメスを演じた伊礼彼方はよかったんですよ。『エリザ』のルドルフとか。だから彼に罪はない。罪があるとしたらやはり脚本でしょう。

ラダメスがなぜ敵の国の王女を恋しく思うようになったのか、アイーダがなぜ敵の国の軍人に恋するようになったのか、ラダメスはなぜあれほどまでに周囲の感情と無縁で生きていられるのか、この3つの謎がとけないと、輝いているのはアムネリスだけのように思えてしまうのです。特にファラオ暗殺の後の彼女は、溺れそうなところを必死で生きている。
もちろんアムネリスが魅力的であることはとても大切です。恋敵が魅力的でなければ、物語の構造をおもしろく思うことなどできないでしょう。『ガンダム』でも物語においては、シャア・アズナブルが大事なポジションだったんだよ。
でもそれだけでは、やはり不足でしょう。
主人公の二人に説得力がないと、共感できないと、物語の骨格は揺らいでしまうでしょう。観客は本来なら彼らにこそ感情移入したいのだから。彼らにこそ幸せになって欲しいのだから。
真ん中二人が魅力的な役でないと、愛と平和を高らかに歌い上げるのが絵空事になってしまう。役者のファンは通うかもしれませんが、でも、それじゃダメでしょう。少なくとも物語としては。
演じられている言語がわからない人が見ても感動できるようにするためには、構造がわからないといけないってうえくみ先生も言っていたよ。

その中で、意外とおいしい役だなと思ったのがアイーダの兄・ウバルドです。
星組公演ではとうこを追うのに必死だったので、あまり覚えていないのですが、宙組の真風涼帆のウバルドがものすごく印象に残っています。
星組から組替えしてきたばかりで、ちょっと宙組のメンツから浮いているように見えたのもよかったのかもしれませんが、とにかく長身で迫力があって「復讐する王子」という役割がぴったりに思えました。
ラダメスに対する不信感もとても信頼できた。
王族でもないラダメスが王族の圧倒的な信頼を勝ち得て、次期ファラオにと期待されていることは、捕虜であるウバルドにさえ明らかであるのに、ラダメス自身がそれに対して無頓着でイライラするの、とてもよくわかる。
なまじ自分が王族だっただけに憎々しさはひとしおではなかったでしょう。彼に王位継承権があったかどうかは語られていませんが、それでもね。
2番手としては、ちょっと登場回数が少ない気もしないではないですが、与えられた役割の大きさにきちんと答えていたと思うし、今回はかりんたん(極美慎)が演じるということで、まったく違うものになることが容易に想像できるじゃないですか。
そうすると、実はものすごく解釈多様性をはらんでいる役で、作品の骨格を担いながら、いろいろな色を出せるという意味ではとても「おいしい役」だと思います。
アイーダとの関係、アモナロスとの関係、ラダメスへの眼差し、これらはいろいろに解釈できるでしょう。
美貌の彼女がどれほど黒塗りしてくるのかはわかりませんが、明らかに真風とは異なるウバルドになるはずです。
と、いうかアイーダの兄というより、アイーダの弟という気さえしてくるなw

宙組で愛ちゃん(愛月ひかる)が演じたラダメスの戦友のケペルはぴーすけ(天華えま)。
ウバルドほど解釈多様性を出せるほどの出番がないのですが、登場回数以上の印象を与えてくれることを期待しています。
『ロミジュリ』で死を演じ切った彼女に期待大!
そういえば『ロミジュリ』ではフィナーレが初日から話題になりましたが(デュエダンだけで通える、など)今回のフィナーレはどうでしょう。
これもいまいち情報が流れてきていないので(私が未確認だけかのかも知れませんが)楽しみです。

役の数から言えば御園座のような別箱が正解なのでしょう。ショーがないのは寂しいけれども。
星組、楽しみにしています。