ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、古典文学など好きなものについて語るところ。

映画『灼熱の魂』感想

映画『灼熱の魂』

albatros-film.com

原作/ワジディ・ムアワッド
監督・脚本/ドゥニ・ヴィルヌーヴ

『約束の血』四部作の第二部にあたる『火事』の映画化。
三部作にあたる『森』(邦題『森 フォレ』)の舞台版を観劇。
こういうとき、なぜか都合良くパートナーが関連作品の円盤を持っていることが多い我が家(『桜嵐記』のときも大河ドラマ太平記』の円盤が出てきた)。
ちなみに『森 フォレ』の感想はこちら。

yukiko221b.hatenablog.com

舞台の『森 フォレ』を観劇したときも思ったのですが、「どうやったらこんなひどい話を思いつくんだ……」と呆然としてしまうような話です。そして原作者が男性であることが本当にすばらしい。日本人の男にこれは書けない(きっぱり)。
けれども、恐ろしいのはおそらくこれが完全にフィクションだとも言い切れないだろうということです。
いや、もちろんフィクションはフィクションなのだろうけれども、原作者がレバノン出身で、内戦から逃れるために故国を離れた亡命生活をしたことを考えれば、身近な人に取材したことも多くあろうということは簡単に想像できるわけですよ。
ナワルの人生はあまりにも劇的で、スリリングで、いかにも物語っぽいと思うかもしれないけれども、その片鱗にものすごくリアルを感じる人がきっといるのではないだろうか。
映画の最後の「祖母たちに捧ぐ」という一文は、祖母と同じ時代に生きた全ての女性の人生に思いを馳せずにはいられないのである。
「祖母たち」の悲痛な叫び声を凝縮するとナワルができあがるのだろう。これは決してフィクションなどではない。私たちの世界と地続きの悲劇だと強く思った。

男はいいのかよ、という声も聞こえてきそうですが、決してそういうわけではないけれども、『森 フォレ』舞台でもそうでしたが、女が中心の世界観だなと思わずにはいられない。
『約束の血』だからね、血を間違いなく・誤解なく継承できるのは、産む性である女であることは明らかだろう。
ジャンヌとシモンの双子は、父親が誰であれ、母親は間違いなくナワルである。
双子でもまずは女であるジャンヌが動く。
まだ見ぬ「父」と「兄」を探し出しなさい、という母の遺言を聞き、馬鹿馬鹿しいと思ったシモンをカナダに置いて、ジャンヌは一人で中東にまで行ってしまう。そこで彼女はたった1枚の写真をもとに、母の軌跡を辿ることになる。
それは数学者の師匠が背中を押してくれたこともあるけれども(この師匠がまた変人ですばらしい!)、やっぱりジャンヌの中で「このままではいけない」という思いがあったのだろう。
なかったら、他人に何を言われても動かないだろうし、柔軟に物事に対応できる一方で、内には芯の通った、言ってみれば頑固の要素が含まれている。
相反すると思われるこの二つがジャンヌの中に、そしてそれはもちろんナワルの中にもある。

ある日、ジャンヌとプールに行き、そのまま意識が混沌とし、突然還らぬ人となってしまったナワルは、有り体な言い方しか思いつかないけれども、すごい女性だ。
狭い村社会の中で、キリスト教徒でありながら、難民のイスラム教徒と恋に落ち、子供ができたことで駆け落ちまで実行するけれども、道中で相手はよりにもよって自分の家族(兄弟?)に殺されてしまう。
連れ戻されたものの、ナワルの一家は村の中で肩身の狭い思いをせざるを得なくなる。
祖母は「なんてことをしてくれたんだ」「私にお前を殺させるつもりか」と、問答無用で愛した男を殺した男家族とは違い、複雑な心境でナワルを責める。
「子供を産んだら、大学に行き、知識を身につけなさい」と言ってナワルを励ます。
狭い村社会から出るためには勉学が必要で、そのためにはこんなところにいてはいけない、街に出なければ、という祖母の思いは、彼女自身もそうしたかったけれども、できなかったのかもしれない、と思わせる。
あるいは気がついたときには大学に行けるような環境ではなかったのかもしれない。
現状を打破するためにはとにかく学問だ。これは今も昔も変わらない。お金や宝石は盗まれても、知識や思考は盗めやしない。
無事に男の子を産み、かかとに三点リーダのような入れ墨を入れ、孤児院に送り出す。
街に出て、大学ではフランス語を学ぶ傍ら、イスラム教徒の難民を徹底的に排除しようとする政治家(当然キリスト教徒)に対する反対の声をあげる新聞を作る。
取材をしている中で「でも、あなたもキリスト教徒でしょう?」と言われるナワルは「望むのは平和です」と答える。
政治家には見えていない世界が彼女には見えている。
とうとう紛争が内戦、戦争となる。大義名分を得たと言わんばかりにイスラム教徒を攻撃し、イスラム教徒側もまた武装する。
戦争から子供を救い出すため、ナワルは一人孤児院のある南部に向かう。
孤児院を訪ねると「男の子は別の場所に行った」と言われ、そこを訪ねると、もはや瓦礫の山。
たらい回しをされた挙げ句、子供の行方はわからず終い。
この道中で起こったことも悲惨だ。
イスラム教徒が乗ったバスにためらいも泣く銃を向ける兵士たち。挙げ句、ガソリンをまかれる。
このままでは死ぬと思ったナワルは「自分はキリスト教徒である」といいながら十字架を見せる。
そのときに一緒にいた母子のうち、子供の娘を「自分の娘も!」と言って助けだそうとする。
母親はヒジャブを被っていたから言い逃れできないけれども、せめて子供だけは……ナワルには子供の大切さがよくわかっているからこそ、せめて娘だけは助けたかったのだろう。
娘もナワルとともにガソリンまみれのバスから降りることに成功するが、娘が燃えるバスにむかって「ママー!」と叫んでしまったことにより、嘘が判明。
娘は燃える盛るバスに向かって走っている途中で、後ろから兵士に撃ち殺される。
ああ、なんて無力。火だるまになったバスを背景に、砂漠に座り込むナワルの姿が忘れられない。

ナワルは決心する。もうキリスト教徒もイスラム教徒も関係ない。この内戦を指揮している政治家がとにかく憎い。
あいつさえいなければ、愛する人は殺されなかったかもしれない。
あいつさえいなければ、自分の手で子供を育てることができたかもしれない。
あいつさえいなければ……その思い一つで、大学で勉強したフランス語を生かし、子供の家庭教師として家に潜りこむことに成功。
たった一人で、ナワルはたった一人で、国のトップの頭をふっとばした。
たくさん人を殺してきただろう兵士ではなく、人を殺したことなどなかっただろう、ナワルが。
当然ナワルは政治犯として捕まり、その刑はあまりにも長い15年。どんな拷問にも屈しなかったナワルは刑務所で歌っていたことから囚人番号72番ではなく「歌う女」と呼ばれるようになる。
文化って人の心を救うんだ……と思った場面でした。
東日本大震災のときも被災地では「ドラえもんの歌」や「アンパンマンの歌」がひたすらに歌われた、人々の心を励ましたというエピソードがありますが、うう……なんてこった、歌は現実を忘れさせてくれる、というよりも現実を相対化・客体化させてくれるのでしょう。
どんな辛い拷問にも耐えるナワルの心の強さはどこから生まれるのだろう。
この期に及んでまだ息子に会えると思っていたのだろうか。私には信じられないほどの強さだった。
どうしたらそんなに強い気持ちでいられるのだろう。
そしてとうとう拷問の果てに子供が生まれる。しかも双子。それがカナダで平穏に暮らしていたジャンヌとシモンだった。
拷問人と囚人の間にできた子供は捨てられるのが掟なのか、助産に立ち会った看護師は秘密裏に双子を引き取り、育てる。
15年の刑期が終わってナワルを助けてくれたのはイスラム教徒のおえらいさんだった。
双子は生きている、亡命先に家と仕事を用意する、ここから離れて暮らしなさい、とナワルの平穏を願ったのはキリスト教徒ではなかった。
事実、ジャンヌがナワルの生まれ育った村を訪れたときも、ナワルの娘であるジャンヌは歓迎されなかった。
反対にシモンがイスラム教徒のキャンプに行くと、翌日にすぐに真相に辿り着くことができた。
ナワルはイスラム教徒にとっては英雄なのだ。

ジャンヌに「歌う女」について教えた学校の用務員のおじさん、いい味だしていたわ!と思う反面、母がまさかレイプされた経験があるなんて……と衝撃の収まらないジャンヌは、ここでようやく「シモンにも来て欲しい」と連絡を取る。
ジャンヌとシモンは母親が拷問人にレイプされて生まれた子供が、母の遺言にあたる「兄」だと考えていた。
まさか自分たちこそが拷問人を父親に持つ子供だとは夢にも思わなかった。
分娩に立ち会った看護師に出会うことで、双子は真実は知る。
ナワルは、かつて愛したイスラム教徒の男を、双子には父親と教えてきた。そしてすでに死んでいる、とも。
どんな思いで子供にそれを言い聞かせてきたのだろう。遠いカナダの地で。

印象に残るのは、「兄」の真実に辿り着いたシモンが「1+1=1なわけないよな?」とジャンヌに問う場面。
あまりにも残酷すぎる真実をありのまま伝えられないシモンが、数学者である姉に伝わるように考えた呪文の言葉は、誰もが想定し得ないものである。
けれどもジャンヌは、それだけでシモンの答えに辿り着く。「兄」と「父」は同一人物である、と。
そんな悲劇が、あるだろうか。

意識が混濁した日、プールでナワルはかかとに三点リーダの入れ墨をもつ男性を見つける。
半ば諦めていた息子の証だ。生きているという喜びと緊張。
ゆっくりと足下から顔を見上げる。その顔は、あのとき自分をレイプした、あの拷問人だった。絶望は深い。
そんな事実にぶち当たったら誰でも意識が混沌とするわな。そのまま還らぬ人になっちゃうわな。しんどい。
アブ・タレクはプールでナワルの顔を見ても気がつかない、彼女がナワルであることに。
遠い地で自分が拷問した人間の一人だとは夢にも思わない。
一人で国のトップを死に追い詰め、15年間の拷問を伴う刑期を終えた強さをもったナワルは、ここにはいない。
カナダで暮らすのに、その強さは要らないのだから当然だ。それでいい。人間の弱さを肯定することが平穏・平和の証や肯定になるはず。強くなくていい。
平和な世界で暮らす中、そんな強さ、もっていても仕方がない。だからガラガラと音を立てて何かが崩れる。
彼女の場合、生命がもろくも崩れ去って行ってしまった。ああ、舞台で見たかった。

宗教の問題は、教会で結婚式を挙げ、寺で葬儀を行う日本人には特にわかりにくい。見ている地平がそもそも違いすぎるから。
けれどもレバノンの情勢はいまだ安定しているとは言いがたく、これは本当に地続きの問題なのだと思い知らされる。
地球温暖化や新型感染症の問題がもはや一つの国だけでは解決できない今、こういう国とも協力する必要がある。
私たちには一体何ができるのだろう……と、書くと某ロックに参加したアーティストのように自分に酔っているみたいなんですが、まずは自分の国のトップをまともに決めるために選挙に行くことが何よりも大事に違いない。
グローバルな問題を解決するためにも、自分たちの国の代表がポンコツだと本当に恥をかくから。恥ずかしいから。
秋の衆議院議員選挙、覚えてろよ。