外部『舞台刀剣乱舞禺伝矛盾源氏物語』感想
外部公演
『舞台刀剣乱舞禺伝矛盾源氏物語』
脚本・演出/末満健一
出演/七海ひろき、彩凪翔、綾凰華、麻央侑希、澄輝さやと、汐月しゅう、皆本麻帆、梅田彩佳、橘二葉、井上怜愛、永田紗茅、山城沙羅、岡田六花、兵頭祐香、瀬戸かずや
配信を見ました。手元にプログラムもありません。
作品の感想というよりも、作品の解釈の感想に近いです。悪しからず。
本来、歴史改変をしようとする時間遡行軍を倒すのが刀剣男士たちの役目である。それに対して、今回刀剣男士たちが迷い込んだ世界はいわゆる「歴史」ではなく、「物語」であった。シェイクスピアが生み出す世界的名作よりもずっと以前にできた『源氏物語』、その作者である紫式部が刀剣男士たちを呼んでいる、助けを求めているという。そしてその紫式部の依頼は、願いは「自分の描いた物語の設定・内容を矛盾させること」であった。なぜならば、そもそも彼らが迷い込んだ世界は紫式部が描いた『源氏』の世界ではなく、『源氏』を愛した名もなき男性貴族によって作り出した『源氏供養』の世界、つまり『源氏物語』の二次創作の世界であり、彼は「物語」を「現実」にすることを目論んでいる。
なんのために?ーー紫式部を救うために。当時、仏教の教えによれば「嘘は大罪。地獄に落ちる」とあり、54帖にもわたる物語、いってしまえば「大嘘」をついた紫式部が地獄に落ちないために、『源氏』の一読者であった、むしろ一読者でしかなかった名もなき男は紫式部のために奔走する。それはもう『魔法少女まどか⭐︎マギカ』の暁美ほむらが鹿目まどかをがむしゃらになって救おうとしたのと同じように、彼は物語の中を自由に行き来し、光源氏や惟光といったらあらゆる人物の設定を取り込み、成り代わる。まさに目的のためなら手段を選ばない男である。
実に見事な仕掛けのある脚本、演出ですばらしかった。
『源氏』のファンを名乗る平安の男性貴族という設定、モデルは藤原道長か、あるいは藤原公任か。
今回の作品の業ともいうべきポイントはまさにここにあり、物語は決して無から有を生み出しているわけではないというところだろう。
必ず、とは言わないが、現実にモデルを求めることができるという点である。それは作者が意識しているものもあるだろうが、意識してないと言っても、当時の事情を鑑みれば、当然そこに行き着くよね、みたいなものもある。
『源氏』でよく言われるのは、桐壺帝は醍醐天皇、村上天皇あたり、桐壺更衣は藤原定子、藤壺女御は藤原彰子がモデルになっている、とか。六条御息所とその娘秋好中宮は、徽子女王とその娘規子内親王で、紫式部は自身を「中の品」(中流の女)とし、空蝉に投影したという話もある。何より主人公の光源氏は在原業平、藤原伊周、藤原道長とたくさんの貴公子たちがモデルになったと言われている(ちなみにこの手のモデル論を準拠論という)。
『源氏』が「物語の出で来はじめの祖」という『竹取物語』に出てくる五人の貴公子たちにもモデルがいる。
研究としてモデルの特定をすることが有意義か否かは議論が分かれるだろうし、事実と事実という点同士を妄想という線で結びつける楽しさがフィクションを作る上ではあるのだろうが、おそらく「現実」と「物語」はそう簡単に分けることはできないだろうことは確かである。
その上厄介なのは、元来刀剣男士が守ってきた「歴史」も、「語り継がれてきた現実」にすぎないのであって、「語り継がれなかった現実」もあったはずであり、しかしそれは「歴史」には残らず、「なかったこと」にされてしまうという点だ。
平安時代の同じ頃の歴史書、『栄花物語』と『大鏡』は同じ時代を描いているはずだが、同じ人物、出来事でもおそろしく違うことが描かれていることもある。
一文字たちの刀がどういう刀の集まりなのか、特に調べたわけではないのだけれども(ネットだと刀剣男士の話ばかりが出てきて、肝心の元ネタに全然辿りつかなかった・笑)、作中では「古美術商が商品の価値を釣り上げるために偽の物語を付与された刀」であるらしいことがうかがえる。ねこちゃんの呪いもその一つなのでしょうか。
と、するならばもちろん彼らは二次創作の担い手である名もなき平安貴族を一概に否定することはできない。歴史と物語の境が曖昧である以上、事実あったことが物語として付与されている刀剣男士たちにとってもそれは同じことである。森鷗外がいうところの「歴史其儘」と「歴史離れ」みたいだな、と。
歴史と物語を完全な対立概念として描くのではなく、歴史もまた物語であることを認めた脚本であったのが良かった。
私たちが「現実」だと思って過ごしているこの世界も、AIに見せられている夢かもしれない。『マトリックス』のように。今回は未来ではなく、過去に目が向けられていたというだけの話だ。
そして現実を生きている私たちもまた「設定」から完全に自由であるわけではない。役職がついた途端えらそうな態度を取る人がいるように(日本だけなのかな)、生身の私たちにもあらゆる設定が貼り付いてある。物語の設定との違いをあえてあげるなら、必然性があるかないかといったところだろう。
私たちの生きる世界を「美しい地獄」という、この気概よ! あっぱれ!
顕現実験擬似本丸という実に闇の深いことをする主人は一体誰だろう……刀剣男士たちがあまりにも美貌なので、うっかりすると審神者・望海風斗の登場か?と思ってしまうのだが(笑)、これが藤原公任あたりであったらおもしろいと思うのだよね。
公任は父も祖父も摂政・関白の地位についた家柄であるにもかかわらず、自身はその手の官職には付かず(付けず)、漢詩・和歌・管楽といった文化方面で身を立てた人である。とはいえ、藤原北家小野宮流といつ看板は九条流の道長にとっては脅威であっただろうから、いつ毒を盛られてもおかしくなかったのではないかな。そういう文化に生きた人、生きざるを得なかった人が「物語を現実に!」と考えるのはあり得そうな気がします。
もっとも同じ時代で考えなくても、権力を不当に奪われた人が権力を取り戻すために、手始めに『源氏』を利用したというのはありそうな話ですが。だから菅原道真でもいいのですが、道真はあまり物語に興味がなさそうなんですよね。
なり様も2歳で臣籍降下しているから、文化の人・歌の名人とはいえ、思いつかなさそうかな。大体権力を持つとロクなことにならないのは父親を見ていればわかるだろうし。
女性でもおもしろいかもしれません。よしながふみの『大奥』を見ていると、それもあるかもと思います。
『禺伝』が発表されたときに私が一番心配したのは、「元タカラジェンヌばかりで既存のファンの反感を買わないだろうか」ではなく(これは二番目の心配だった)、「『源氏』が題材というけれども、『伊勢』でも置き換え可みたいな脚本だったら許さねえ」という極めて共感されにくいポイントであり、結果としてこれは『伊勢』の在原業平では大体不可の作品だったので良かったです。なり様なんか、いくつ墓があると思っているんだ!笑
でも同時期に大劇場で同じ平安時代が舞台の『応天の門』が上演されており(もっとも平安初期と平安中期ではちと趣が異なるが)、にわかに平安ブームみたいなのがきているのは嬉しいことです。日本の古典作品、おもしろいよ! みんな読もうよ!
おすすめは、『あさきゆめみし』(大和和紀)、『なんて素敵にジャパネスク』(氷室冴子)、『とりかえ・ばや』(さいとうちほ)、あとは平安より少し前だけど『日出処の天子』(山岸凉子)、もう少しがっつり行くなら『おちくぼ物語』(田辺聖子)、『むかし・あけぼの』(田辺聖子)、『はなとゆめ』(冲方丁)あたりです。あと、歴史と物語に興味をもったならば、同じ道長の時代を描いた『なまみこ物語』(円地文子)も! ぜひ、ぜひに……。
あとは今回の『源氏』の設定のあれやこれやなのですが、設定上仕方がなく、途中で読めたとはいえ、紫式部と藤壺女御が重ねられているのはおもしろかったです。名もなき平安貴族の『源氏』のファンでなければ、絶対に思いつかない設定です。
映画『源氏物語千年の謎』では中谷美紀扮する紫式部が、東山紀之扮する藤原道長と男女関係にあり、『源氏』の物語の進行に従って、紫式部が六条御息所さながらの生霊になっていくという設定で、これもこれですごいな、と思ったけれども(理由は後述)今回の設定も私は天地がひっくり返っても思いつかないだろうなと感じました。
そしてその六条御息所に投影されるのが彰子というね……っ! すげえよ、これ。
彰子自身は子供の頃はともかく、ある程度分別がつく頃になると父道長に反発、折り合いが悪くなっていったと言います。まあねー! そりゃそうだよねー! 自分のことを政治の駒としてしか見ていない父親、12歳という生理もきているかきていないかわからないような微妙な年頃の娘を、権力欲しさに帝のもとに入内させちゃうし、当時中宮であった定子を押し除けて、彰子を中宮、定子を皇后にするという前代未聞のことをやってのけちゃう父親なんてねー!!! いらねー!!! ついでに藤原高子も摂政となった兄基経とえらい仲が悪かったって話です。そりゃそうだ。
例えばその怨念を先取りして彰子に六条御息所が投影されたのなら納得がいく。生霊というのは「本来政治の中枢にあるべき人物がいないの場合」に発動するものと『源氏』の世界では少なくとも設定されているので、どれだけ物思いが深くても藤壺女御や彰子が生霊になることはないはずなのだけれども、ここでも「矛盾」が生じているというのがたまらなくおもしろいんだよねー! 物語の設定がすでに破綻している。
紫式部が生霊になる設定が私に思い付けないのはこのあたりに理由がある。別に紫式部は権力の中枢にいるべき人間ではないからね。
一方で、六条御息所はかつての皇太子の妃であり、いずれは国母となることを約束されていた人間である。それなのに皇太子が亡くなり、太政大臣一派は左大臣右大臣らによって潰されてしまった。しかも太政大臣派再興のために使えると思った男の正妻は左大臣家の娘だし、その娘の家と従者たちが祭りで揉め事を起こして恥をさらされるし……これで物思いに沈むな、生霊になるなという方が無理な話だよ。ちなみに六条御息所は「源氏との出会いが描かれなかった」ことに恨みを述べますが、『源氏』は全体的に源氏と高貴な身分の女性との馴れ初めは基本的に描かれない傾向にあるといわれています。
だから『源氏』は恋の物語と言われるけれども、私は徹頭徹尾、政治の話だと思っている。源氏が六条御息所の雰囲気を思い出した明石の君だって結局は父親の入道が旧太政大臣派の一人だったわけだし。
「女だから」という理由で差別されることは平安時代にもあったでしょうが、男が女のところに通う通い婚が普通だったこの時代、女の家の経済力は重要で、一概に差別ともいえないのではないか、さらに女房として働いている彼女たちにその感覚がどれほどあったのかはわかりません(着ているものもそもそも違うしな、できることが違うというのもあるから、区別という感覚の方が強かったかも)。なんなら現代の方が女は生きにくい可能性もあるのではないかとさえ思っているのですが、紫式部が父親から「お前が男だったら」と言われて育ったことは、そりゃ呪いだろうという気もします。
おかけで宮中では「漢字の一の文字さえ読めないんです」とかまととぶりながらも、彰子に頼まれて夜な夜な『史記』を教えることになる。アイデンティティ分裂しまくりだよな。つらいよな。根暗にはきついだろう。
この点、同じように漢籍を父から習った清少納言が救われるのは、元輔の晩年の子供であり、元助自身がもう出世を諦めていたから、よくできる娘を猫可愛がりしていたのだろうなあ、と。そりゃのびのびと育つわな。雪が降ったら御簾をあげちゃうよな。
ちなみに「清少納言も和泉式部も和歌を詠む」みたいな台詞がありましたが、和泉式部は和歌の名手だけど、清少納言は漢詩のパロディ和歌みたいなのはうまいけど(百人一首も「鶏鳴狗盗」が元ネタ)、それ以外はあんまり、というところもあるから(自分から定子に和歌を詠まなくてもいいにしてくれとお願いしている)微妙だったかな。
微妙といえば、葵上が祭りに出かけようと思った理由が「お腹にいるややこに父の晴れ姿を見せたい」というのはお茶を吹き出すかと思いましたね。もうここですでに矛盾が生じているじゃないか!と思ったけど、たぶんあれは矛盾としての演出ではないのだろうな……。主人公と正妻が不仲という設定はそんなに現代に受け入れがたいものなか。
葵上といえば、父桐壺帝が決めた光源氏の最初の妻で、いわゆる正妻なわけですが、いくら新枕は年上の女性になることが多いとはいえ、母とも姉とも慕った藤壺女御の面影を彼女に見出すのは難しかったでしょうし、葵上もやってらんねーなと思ったはずなんですよね。だから葵上は作中で一度も和歌を詠まない、冷たい女として描かれている。主要キャラクターで和歌を詠まないのは彼女と弘徽殿女御の二人。
葵上自身は光源氏の異母兄、のちの朱雀帝のもとに入内するための教育を受けてきた人だから、自分もそう思っていただろうし、そうでなければやっていられなかった面もあるだろう。それなのに突然臣籍降下した、どれだけ帝の愛息子とはいえ、もう絶対に帝になることのない人と結婚する羽目になったのだから、打ち解けられるはずがない。冗談じゃないわ!という感じでしょう。いずれ帝との間に男皇子を産み、その子がやがて帝になれば、自分は国母となり、左大臣家を繁栄に導くはずだったのに、その夢はあっさり潰える。
しかしまあ当時の平安貴族の男女なのでやることはやり、子供ができる。子供が産まれて、ようやく仲良くなれると思った矢先に彼女は死んでしまう。お産は今も昔も命懸けである。
芥川龍之介の『鼻』に出てくる禅智内供のような、えらい気合の入った鼻をつけて登場した末摘花は「なぜ作者は、私を貧しく荒れ果てた家に住む醜女として描いたのか」と言うけれども、これも結局は光源氏が「一度自分の側についたものは、どんな人間であれ最後まで面倒を見る」と世間に知らしめる広告塔だからなんですよね。家系的には高貴だけれども、まともな後見人もおらず、今後繁栄する見込みもなく、かといって女房として働きたくない彼女にとって、むしろ光源氏に生涯面倒を見てもらえたのはラッキーだったのではないだろうか。
藤壺の兄・兵部卿の宮との対比もありましょう。あいつは自分に都合が悪くなれば、かつて敵対していた人間のくつさえなめるような男である(比喩です)。
そして女たちの復讐。なぜ一時でも愛したのか、と。その後の苦しみがどれほどのものだったのか、わかっているのか、このやろう!と女たちは光源氏を殺そうとする。そうだ、そうだ!やっちまえ!!!なんなら手を貸すぞ!!!と私は全力で思っていたけれども、彼女たちにそれはできなかった。まあ物語の中とはいえ、平安貴族の女性たちが毒ならともかく、刀で男を殺そうとするのは無理がある……とも思うし、最終的にそれを受け入れた名もなき男性貴族の願いを叶えてやる義理もない。ましてや幼い若紫にやらせるわけにもいかず、歌仙に刺されて良かったと思うことにします。このとき歌仙は「物語」と同じくらい「歴史」「史実」を信じたということでしょう。
小少将の君だけが物語の中であると自認できるのも、光源氏に愛された女性ではない弘徽殿女御という設定を与えられているからでしょう。この意図もわかりやすくてよかったです。彼女もまた葵の上同様和歌を詠まない冷たい人間、さらには怨霊生霊の類も信じない極めて理性的な人(紫式部も怨霊生霊の類は人の心の闇が見せるもの、という和歌を『紫式部集』に残している)。平安時代には珍しいその感覚を持った人を、ほとんど唯一といっていい作者の友人が担うとは。反転とまではいかないかもしれませんが、このズレがいい。
歌仙と大倶利伽羅の自分探しの旅でもあったわけですが、元タカラジェンヌたちの殺陣は舞のように美しかったですし、光源氏が女たちを連れて階段に並んだときは「あれ?『恋の曼荼羅』歌う?」って思ったよね。私、宝塚の曲の中で5本の指に入るくらい好きなんだよね、「恋の曼荼羅」。
代わりに歌われたのは、「ポケモン言えるかな?」ならぬ、「54帖言えるかな?」です。
ご丁寧に54帖(ちなみに発音は「ごじゅうよじょう」にしてくれ!)巻の名前を並べた曲でございました。まさに能『源氏供養』の世界観。これは全国の高校生や文学部の大学生には聞いてもらいたい、なんなら覚えていただきたいところ。大丈夫、151匹覚えたでしょ(歳がバレる)。その三分の一だと思えば、楽勝でしょ。
『禺伝』のラストは、本丸に帰ってきたのか、帰る直前なのか。「雲隠」から一転、朝日が昇る様子が描かれる。
まさに『枕草子』の冒頭「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、『紫』だちたる雲の細くたなびきたる」である。お見事!