ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

講演『パンとサーカスの危ない時代に』メモ2

2018年10月23日(火)

京都大学未来フォーラム第72回『パンとサーカスの危ない時代に』

講師:宝塚歌劇団演出家上田久美子氏

www.kyoto-u.ac.jp

メモ1はこちら。

yukiko221b.hatenablog.com

口述筆記メモを見てみると、さすがに疲れてきたようで、ところどころ飛んでいるところがありましたので、文脈を損なわない程度に補った部分があります。

まだ終わりませんが(笑)、次で終われるかと。

 

ショーのテーマでもあった、「悪が排除されたクリーンな世界でエンターテイメントはどう変容してきたか、これからどうあるべきか、わたし個人がどう思っているのか」という話をしようと思っていたら長くなってしまった。
だから、それらは全てお手元の資料に書いた。このレジュメには今回お伝えしたことは全部書いた。
ちなみに、ここに書いたことはわたし個人の考えで、宝塚歌劇団とは関係ありません。
そう言えと劇団側から言われたわけでもありません。

レジュメに書いてある「ユデガエル」って知っていますか?
今回のテーマを考えるきっかけとなったエピソードです。
第一部の「ピュアエリアの成立と悪の行方」舞台とかエンターテイメントとはあんまり関係のない、その土台となっている社会に関する考察になっています。
でも今回は演出家として話を聞きに来てくれる人が多いと思うので、第二部の「アトラクションかする物語」について話していきます。

13年でだいぶ変わってきたと思う。
大衆娯楽といわれるものも変化している。
スピーディーでライト、浅いというとあれだけど、まあそういうものに変わってきた。
ラ・ラ・ランド』『グレイテストショーマン』『君の名は』『カメラを止めるな』『新ゴジラ』を勉強のためにと思ってみた。
けれども、全部に対して同じ感想、感覚を覚える。
ディズニーランドのスペースマウンテンみたいな、体感型アトラクションにのった後のような感じ。
映像があって、がたがたして、乗り終わった後もあー楽しかったと思って、余韻はそれ得終わる。
見る前と後で自分が変わったという感じがしない。
終わって冷静になってみたら「え? テーマは?」と思うものもあるけれども、見ているときは楽しいと思ってしまう。
体がリズムをとっているという音楽みたいな。
斜に構えている人間でも、見ている間は楽しいとだまされるのはそれはそれですごい。
でもそれでいいのか、とも疑問に思う。
主役に乗り越えるべき壁を提示するのが物語の作り方の基本だけれども、乗り越えられるかー乗り越えられないー今度こそ乗り越えられるかーやっぱり乗り越えられないー次はどうだーみたいなじわじわ感がかつての作品にはあった。
で、最終的に乗り越ええる。乗り越えられないものもあるけれども、何らかの形で答えを主人公が見つける。
先ほどあげた作品は、その主人公の壁が低くて、すぐ超えられてしまい、期待、達成、期待、達成の小さい細かい波のずっと繰り返しで、この話もういいよっていうストレスがない。その代わりやっと決着したかという爽快もない。
もったいつけず、壁を乗り越え、快感が与えられる。

以前は、大きな壁を最後にいっきにのりこえる感じだったが、今は、中くらいの快感レベルがずっと続く。
言い換えると、かつては娯楽であっても「文学的な物語構造」「ストーリーのテーマを追求する」みたいな観念的なものがあったが、今は断片的な萌え、リビドー刺激を全編にわたってコラージュして、体感的な作品になっている。
体で感じるために、映像や音楽で、観客を身体的に気持ちよくさせるという特徴がある。
従来型の物語性のあるストーリーを見るときは、自分なりに物語を咀嚼して再構築して能動的に考えるけれども、今のエンタメは「ここが気持ちいんだろう」と至れり尽くせり快感ポイントをついてくれて、楽だなーと受動的なものが主流になっている。
少なくとも売れるものは。

産業の変化もあろうが、消費者の変化も大きかろう。
スマホで脳の機能が変化させられている。
世の中、それに身を任せているけれども、それでいいのか?と思う。
ある一企業、あっぷるか何だかが作った機械に、脳の機能を変えられてしまっているような気がする。
つまり、情報摂取するスピード感が変わってしまったのだ。圧倒的に速くなり、そしてそれに人々が慣れてしまった。
自分が知りたいことだけを、短いセンテンスで、スピーディーに得ることができる。
それに慣らされた結果、画面の前でじっと長い話を追う、小説も最終的な知的興奮のために読む、長い時間の我慢が苦痛になってきつつある。

社会が「ピュアエリア」になっていて、痛みとか悪とかいうのに対して耐性がなくなっている。
主人公のシビアな障害をどう乗り越えていくか、というのが問題になり、その痛みの追体験するのが物語である。
だから、物語の中でも見る側の人間に合わせて、解決しやすい痛みや悩みにとってかわってきてしまっている。
人間の傷やどうしようもなさを理解されにくくなってきている。
物語の深い痛みは理解されづらくなってきている。

世の中の語り手になりたいという欲望により、SNSによる口コミを絶対視するような風潮が強くなってきている。
最大公約数に快感を与えるためには、ジャンクフードのような誰にでもわかりやすいものをつくるようになっている。
エンタメ界におけるジャンクフードは、ネガティブ度数が低い、テーマがライト、快感が強く刺激してくる、の3つにまとめることができる。
そしてこの3つを抑えると、最大公約数としては受ける。
口コミで高い評価を受ける。さらにたくさんの人が見るというサイクルになっている。

SNSがなかったときには有識者の言葉が頼られていた。むしろ、それしかなかった。
だから大衆娯楽でもあっても、高尚さを求めている面もあった。
けれども今は大衆が声を持つようになって、人数の都合で声が大きくなって、有識者と大衆の立場が逆になってしまった。
有識者が「娯楽すぎる」と言うと、大衆が「上から目線w」って忌避する。嫌がるようになってしまった。
気取らずに本能に従う本能にしたがうほうがいいという思考が強まっている。
その結果、比較的それらの人間の欲望とか快楽が取り出されるようなものが勝つ時代になってきているのか。

大衆娯楽の位置づけが「パンとさサーカス」の「サーカス」に近いものになっている。
ここでの「サーカス」とは、為政者が民衆の不満や不安を解消させるものという意味で使われている。
サーカスは具民化政策の一つだった。
今は政府がやっているわけではないけれども、視点を変えてよく考えてみると、私たちはとても一世代では解決できそうにない大きな問題を抱えている。
その不安から逃れるために、その問題から目をそらすために、そういうエンタメを求めたり、小さい悪を求めたりいているのではないか。
芸能人への不思議なバッシングはまさに「小さな悪」の位置づけにあるように思う。
災害がこんなに多く、温暖化がどうなるのだろう、長期的な地球の存続のための見通しが知りたいと思ってテレビをつけても、マクロな情報がなくて、経済政策もこの国は大変なことになっているけれども、芸能人のスキャンダルばかり。
そして、それを擁護した人がさらにバッシングされている。謎すぎる。
もしかしたらもう温暖化や経済対策については語り尽くされていて、みんなもう飽きちゃったのかもしれないけれども、これから先の人類のことを誰も本気で心配しているようにはちょっと思えない。
ブログの笑顔とかたたいている場合ではなかろう。
とるにたらないような小さい悪に気を取られている隙に大きな悪を見過ごしている。
あるいは見過ごすように仕向けられている。

社会のクリーン化に関して印象的だったことは美術品について。
ある公立の美術館で写真展をやっていて、男性の全裸などのヌード写真も飾られていた。
別にそれがいやらしいというわけではなく、見ればちゃんと芸術を志していることがわかる。
アートの世界では裸はあんまりタブー視されなかったし、そういう作品は今までもたくさんあった。
けれども、その展示をやったところ、パーテーションとかで仕切ってあって、警告文もあり、選んだ人だけが見られるようにしていたにもかかわらず、匿名の誰かが、警察に通報してしまった。
すると当然警察官がやってきて「すぐに撤去しないさい。猥褻物陳列罪で訴えられているぞ」と言う話になる。
学芸員の人たちは過去の事例を見せながら、猥褻物ではないと反論をしたが、それが猥褻物かどうかは極論すると、裁判にかけられないとわからない。
裁判になると、その学芸員の人たちは「猥褻物陳列罪の容疑者」として一生インターネットに名前が残ってしまう。
さすがにそれは勘弁と思ったらしく、結局、負けるが勝ちではないけれども、腰巻で隠さざるを得ない状況になってしまった。

なぜこういうことになってしまうのか、というと、やはり社会は悪を探しているからなのだろう。
人間は、相対的にしか社会を認識できず、自分が知っている全体のものの中からネガティブなものを悪しと把握している。
悪を認識することによって、善を認識できて、自分の居場所や進むべき道を決めている。
それがいい悪いではなく、そういう風にしか世界を認識できないのではないかと思っている。
例えば、アメリカという国は、かつては社会主義ソ連という大きな敵を相手にしていた。
少し前はテロリズム、そして今はトランプという悪を内部に作っている。
それらを攻撃することでアメリカという国は国として保っていられる、そういう風に見えてしまう。
本当の意味で、クリーンな社会というのはなくて、そう見えても「なんかちょっと嫌だなと思うもの」とか「いいなと思わないもの」を「悪」としないと、自分の居場所を確認できなくなってしまう。
何かを嫌だと思うことが自分が存在していることの証なのである。

宝塚のラインダンスもそのうち悪になる可能性があると思っている。
一分間に25回も足を上げさせるなんて肉体労働の搾取だといわれる日が来るかもしれない。
今言っても誰も相手にしないだろう。
けれども、肉体労働をAIが全部代行するようになって、世の中に悪が不足していたら、空席になっていた悪という場所をラインダンスが埋めなければならなくなるかもしれない。
誰かが通報して「どれどれ」と調査されて「なるほどこれはけしからん」と世論が動き始めるかもしれない。

社会にピュアエリアが形成されている中で、本当に悪いことはピュアエリアの外にあるはずなのに、ピュアエリアの中の悪を攻撃し続けるようになっている。
SNSを代表する大衆がお姑さんになっていて、企業とか芸能界とかがお嫁さんの立場になって、リビングルームを掃除しているようなイメージがある。
「あらここに埃が」といわれないために小さなところを一生懸命掃除している。
けれども、玄関が火事になっている。本当にそれでいいの?!と不安になってしまう。

ピュアエリアの中の悪が何で、外の悪が何なのか、それは人それぞれだし、今の段階でこれ!とはっきり言うことはできないけれども、今の問題は資本主義から派生しているものだと思っていて、テクノロジーの危険性やグローバルな環境問題に広がっていくのかな、と。
そしてそれらは人類に破滅をもたらすものであるが、人類が個人で解決するのは大変難しい。
だから目の前にある、手近なところのピュアエリアの中の重箱の隅をつついているような、問題に対して盲目になっているしまっているような気がする。
その中でエンターテイメントは、人々がさらに問題から目をそらすためのサーカスになるしかないのか、それともピュアエリアの外の悪に気が付かせる一助になるのかどうか。
人間たちに対して何か役割があるのではないか、と思っている。

ここからちょっと休憩に入るのですが、今から55年前に初演があった菊田一夫先生の作品で、このお正月から星組とともに再演する作品をご覧いただきたいと思います。
ご覧いただくのは35年前に花組が再演したものの映像です。
これを見たとき、感動のあまり大号泣してしまった。
映像からも時代が古いことがわかって、問題もたくさんある時代だけれども、人間の生きるエネルギーが感じられる作品です。
ぜひ、順みつきさんの目力にご注目ください。

(『霧深きエルベのほとり』プロローグ「鴎の歌」→酒場→丘の上→シュラック家で金を受け取った後のカールとマルギット)