ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、古典文学など好きなものについて語るところ。

外部『ジュリアス・シーザー』感想

外部公演

stage.parco.jp

ジュリアス・シーザー
作/ウィリアム・シェイクスピア
訳/福田恆存
演出/森新太郎
出演/吉田羊 松井玲奈 松本紀保 シルビア・グラブ

全員女性でシェイクスピアの戯曲を上演するというからスパダリと共に勇んで出かけていきました。
スパダリは福田訳戯曲を学生時代に読んだ、と。
私としては最近上演された宝塚の『アウグストゥス』や古いですが『暁のローマ』を履修済みで、そもそも有名すぎるカエサル暗殺劇を知らない人なんかおるんか???と思っていたところ、隣の席の女性がプログラムを片手に「うわ、難しそう。途中でわからなくなるわ」と言っていたので、そういうものか、と。
どうでもいいけど、携帯電話の電源はオフにして欲しかった。幕間なしの2時間20分の間に、一体何度震えたことか。
そもそも開演前から「電源切らなくてもLINE送れないんだけどー」とか言っていたから、最初から怪しいと言えば怪しかった。
舞台機構に電波が影響を与えるってことを知らないのかね。知っていても具体的に説明されなければわからないのかね。説明されてもどうせわからないのだから、大人しくマナーモードではなく電源を切ってくれ。

幕間なしの2時間20分はなかなかの体力と集中力を要求され、演者に対してだけでなく、観客にもスパルタな森先生に「あ、はい……ガンバリマス」としか言えない。
新しい劇場でしたし、椅子も柔らかく、傾斜もしっかりあり、見やすくてとても良かったのですが(都内の新しい劇場は見習って欲しいくらい)、いかんせん私の足腰はそう強くないという。かつて運動部であったことや運動を継続的にしたことなどない人間なもので。
とはいえ、劇場に入ったときの興奮は忘れられません。石畳に見立てた錆びた鏡の詰め合わせた舞台装置はすばらしかった。
舞台正面奥の鏡に至っては扉のように開閉までする。
序盤でキャシアス(松本紀保)がブルータス(吉田羊)に対して「お前の鏡になりたい」と言うのは、舞台装置もあいまって、とても説得力がありました。
2時間20分をやり通す演者は天晴れです。もうそれだけで拍手を送る。
幕間を入れるところも大して思いつかないので、これでよいのでしょう。強いて言えばシーザー(シルビア・グラブ)がなくなった直後?
でもそこで集中を切らしたくないのもわかる。

ブルータスがシーザーへの敬愛と不信に揺れる様子は他の作品でもありますが、今回は特にアントニー松井玲奈)の演出が良かったなと思っています。
シーザー暗殺に加わる貴族たちからは歯牙にも掛けないような態度を取られているアントニーが、シーザー亡き後、民衆の前ですばらしくうさんくさい演説をし、オクテイヴィアスの協力を得て、巨大な権力を手にしていく様は鳥肌が立つようでした。
公演プログラムにもここの演説の訳に福田がこだわっていたことが坪内逍遙訳と比較して語られていますが、なるほど、うまく倒置法を使っているなと思わずにはいられません。あの手の比較、とても興味深くて好きです(学生時代『源氏物語』の現代語訳比較をして楽しんでいた人)。
演説をしているときの、あの大仰なアントニーの態度に隠された心の中では、舌ベラを出してアッカンベーと意地悪く笑うアントニーが見えるような気さえします。

アントニーの前にいる民衆たちは愚かである。愚衆政策としては「パンとサーカス」が有名だけれども、アントニーの演説はうっかりすると民衆たちにとってサーカスになりかねないものだった。危うい。
現実はこんなものかもしれませんが。
花組アウグストゥス』のときに、流されやすい民衆を殊に愚かに描かれていることが気になりましたが、今回はあまり気にならなかったのは宝塚歌劇団がやはり大衆演劇だからという意識があるからなのか、なんなのか。自分の中でもまだぐるぐるしています。

ブルータスも良かった。
特に後半、キャシアスに怒りとも文句ともつかぬ長い台詞がありました。
それが、淀みなくすばらしい発声でとても良かった。あれは緊張するだろうな、山場なのでしょう。練習を積み重ねたことを思わせます。
全体的に見ても圧倒的なセリフの量でした。そう、これで2時間20分……バケモノですね!(褒めています)(ただし、一見さんお断り感はすごい)

しかし一番肝であったはずの「演者がすべて女性」であることには本当に意味があったのでしょうか、というのがスパダリと私の共通見解です。
メイン4人は超有名で、もとが男性キャラクターであることがわかりきっているけれども、例えばブルータスの部下や小姓が男性である意味は本当にあったのでしょうか。
もちろん当時の政治に女は顔を出さないのが通例なのは、歴史としての事実として動かしようはないでしょう。しかしクライタス、ダーテニアス、ヴォラムニアス、ルーシアスはなんなら女性の役として描いてもよかったのでは?と。
名前を考慮したらきっと女であるはずがないのだろうけれども、気になる日本人はあんまりいないのではないかと想像される。私が無知なだけかな。

プログラムのキャストのコメントを見ると、演者たちは一人称を「おれ」にすることで確実に解放感を得ているようでしたが、芝居の中でそれを観客が感じるのは少し難しかったようにも思います。
なぜなら、いくら「おれ」という一人称を使っていたところで、演出家の先生の意向により女性の身体のラインを生かしたワンピースをまとい、ブルータスやアントニーは細い腕が見えているからです。
観客としては、女性からの解放よりもむしろ女性であることのバランスの悪さ、アンヴィバレントさが際立ってしまったように見えてしまいました。
有り体に言えば、なんだ、結局解放されないんじゃんみたいな諦観とでもいうのでしょうか。
その中でキャシアスの体格の良さ、肩幅の広さは安心して見ることができました。
ノースリーブワンピースでも安定感のある身体は見ていて安心しました。
シーザーは背が高く、身体全体をマントで覆っていることが功を奏したのでしょう。
ただやはり物語の核となるブルータスとアントニーがあれではなかなかオール・フィーメールの意味を感じてもらうのは難しいのではないかしら。

あとは好みの問題ですが、シェイクスピアのあのやたらと比喩の多い、遠回しな言い方は音楽に乗せてこそ映えるように思います。有り体に言えばミュージカルですね。
クサイ台詞、もってまわった台詞なんかはミュージカルになると違和感なく入り込めるのだけど、ストレートプレイだと、私は入り込むのにちょっと時間がかかるらしいことを身をもって痛感しました。