ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、古典文学など好きなものについて語るところ。

雪組『ワンス』とエンタメの役割

雪組『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』が東京で無事に大千秋楽を迎えた。
白く染まった観客席の大千秋楽の喜びをこれほど噛み締めることになろうとは、1月に大劇場で幕が開いたときは誰も思わなかったろう。
私も正月早々、呑気に着物で観劇したクチだが、あのときにこのひどい状態を予想することは、とてもではないが無理だった。

映画館でのライブ中継がなくなり、その代わりスカイステージ での放送となった。
ありがたいことである。そして芝居の迫力はすごかった。
1月に見て以来だったからパワーアップしていることはもちろんだけれども、それだけれはなかった。
これで最後!という千秋楽はいつだって凄いけれども、今回はまたちょっと質が違って、生徒一人ひとりが「舞台に立てる喜び」を体一杯に漲らせていた。
特に退団者3人、そしてすでに退団を発表しているトップコンビ(望海風斗、真彩希帆)たちの気持ちを思うとやるせない。
にわ組長(奏乃はると)は東京公演のほとんどが中止になってしまったことについて終演後の挨拶で謝罪をしたけれども、「なに組長に謝らせとんねん!コロナ!お前か謝れや!」と誰もが思ったに違いない。
もしくは「コロナが千秋楽しろ!」と思った人もあるかもしれない。

新人公演最後の99期の学年にだいもんが触れてくれたのも嬉しかった。これには救われた。
しゅわっち(諏訪さき)、ひまりちゃん(野々花ひまり)、みちるちゃん(彩みちる)はどれだけ無念だろう。
特にしゅわっちは最後の新人公演でようやくつかんだ主演だったのに。
聞いた話では、衣装も音楽もなく、通し稽古という形で上級生に見ていただいた、ということだ。
こういう形での新人公演になってしまい、もらったアドバイスは下級生の胸にどれだけ響いたことだろう。
忘れられない新人公演になっただろうが、嬉しい意味ではないので喜ぶことはできない。

大劇場では、いつ初日を迎えるかわからない不安な日々を花組生が過ごしているだろうことを思うと胸が痛い。
一生に一度しかない大劇場トップお披露目公演の初日をれいちゃん(柚香光)に無事に迎えさせて欲しい。
ファンは祈ることとグッズを買うことしかできない。
どんなに学年が上がっても初日は緊張するという。
これまでお稽古を重ねてきた組子たちを思うと辛い。

だいもんの挨拶は秀逸だった。
退団者よりも泣いていた。ほろりというか号泣だった。これを書いている私もなぜか。
きゃびぃさん(早花まこ)が「望海さんが泣いてくれるから私たちは笑顔で退団できる」みたいなことを仰っていて、私も涙が止まらなかった。
だいもんが泣きながら「どうぞ、お泣きになって」と退団者に言うと、ヒメさん(舞咲りん)は「引っ込んだわ!」と答える。

「かすみそうが好き」という好みは、一見すると大輪のバラが似合いそうなヒメさんとは結びつきにくいかもしれないけれども、「娘役は三歩下がって」と胸に秘めていたことを考慮するとあながち納得できないわけではない。
ヒメさんの東京公演千秋楽のブーケはかすみそうでいっぱいだった。
「男役10年と言われるけれども、娘役だって10年かかる。軽い気持ちで娘役に臨んで欲しくない。可愛いだけでは役の幅は広がらない」
下級生の頃、同期が役をもらったり、自分より下の学年の子に抜かされたり、悔しい思いをしたヒメさんだからこその重い言葉。
「娘役10年」は劇団側にも拡声器向けて聞かせてやりたい。

 

例えば、こんなに私を救ってくれる宝塚は本当に「不要不急」なのだろうか。
心の問題だけでなく、肉体と精神をも鍛えることもできる宝塚は、もう少し広く言えば文化文芸エンターテインメントは本当に「生命を救わない」と言えるのだろうか。
スポーツは「心身を鍛える」なんていうけれども、じゃあ芸術は「心身を鍛えない」のか。
私の答えはもちろんどちらも「NO」である。

例えば、東日本大震災のとき、地震大国なのに、ロクにプライベートも確保できない避難所で人々の心をなごませたのは「アンパンマンマーチ」だという話を聞いたことがある。
私はこの話がとても好きで、ことある毎に出すのだが、それくらい印象深いエピソードである。
アンパンマンマーチ」に癒されたのは子供だけではない。大人もだ。
もっといえば、その曲を知っているすべての人の心に染みわたったのだろう。
想像するのはそれほど難しいことではない。
これは「歌に救われた」というエピソードだ。

災害のときでなくても「歌に救われた」経験をもつ人は多いのではないだろうか。
特に10代といった思春期の頃は、自分の思いを言葉にできず、代わりに「このアーティストが自分の気持ちを代弁してくれている」と思った人も多いだろう。
そこまでいかなくても「あ、この歌詞、共感できるな」「この気持ち、わかるな」と思った経験なら、ほとんど誰にでもあるといっても過言ではないのでは?とさえ思っている。
この曲を聞いて受験を乗り越えた、失恋を乗り越えた、おそらくそんな話を一人一つくらいもっているだろう。

特定のアーティストに救われた、という経験をもつ人もいるだろう。
よくある話では、学校という集団行動になじめない子供が、親や教員がどれだけ言葉をかけても頑なに動かなかったのに、その子供が好きな芸能人に言葉をかけてもらうことで、前向きになれた、というようなものだろうか。
正直、その芸能人がそれほど特別なことを言っているとは思わない。
内容は周りの大人がそれまでかけてきた言葉とそう大差ない。
けれどもその子供の心は間違いなく「動いた」。
言った内容ではなく、言う人に励まされる。
こういうことはおそらくAIにはありえないことだ。

私個人の話をすれば、大学時代いろいろ重なって落ち込んでいるときに恩師は『奈良絵本伊勢物語』を貸してくれた。
どれだけ慰められただろう。
ナリ様で励まそうという方もどうかと思うが、ナリ様で励まされる私もどうかしている。
ただ、私の好みを十分に理解して上での励ましだったことが伝わるからこそ、あのときの『奈良絵本伊勢物語』は美しく輝いて見えた。

人間は個人の思い出に突き動かされて生きていると個人的には思っている。
国全体を上げて五輪があった、万博があった、とかそういうことではなくて、五輪があって、そのときにはじめて中国人と話をして、とても親切にしてもらったとか、韓国コスメを使っているから、韓国に行ってみようとか、そういうことが人間を突き動かす。

 

話は少し飛ぶかもしれないけれども、『機動戦士ガンダムUC』のテレビ版よりも劇場版が優れていると思うのは、この「個人の思い出に突き動かされる人間」というリアルな人物像を描いているからだ。
たとえば父親殺しの罪に苛まれていたアルベルトは偶然出会ったマリーダに救いを求める。
しかし、マリーダはリディに殺されてしまう。
直後、マリーダは光となってアルベルトの前に現れ、アルベルトはそこからバナージを自分にしかできない方法で支援するようになる。
この場面がテレビ版ではカットされている。
なんでやねん!って思ったよね。マリーダは菩薩だ。

他にもミネバはフル・フロンタルに対して「私のヴァイオリンをほめてくれたシャアはお前のような空っぽな人間ではなかた」という。
ミネバはいくつからヴァイオリンを習い始めたのだろうとか、シャアにミネバのヴァイオリンを聞く時間があったのだろうかとも思うが、これもまた「個人の記憶」によって人間が動いていることを示した言葉だと思っている。
一番好きなところをカットしやがって、テレビ版……。

そもそも、主人公のバナージが繰り返し、幼少期になんとなく見たユニコーンと獅子のタペストリーを思い出し、そこから物語が始まるという構造が、「人間は個人の思い出によって生かされている」ことをテーマにしている証だろう。
テレビ版はそんな物語の柱をボキボキ折られた、残念な作りになってしまった。
というかテレビ版は一体何がしたかったんだよ、本当。

人間が生きる意味を「全体」が与えることはできない。上意下達では無理なのだ。
これをやってしまうと、「みんな一緒」であることに重点が置かれてしまう。
いわゆる「全体主義」というやつだ。
そしてそこから外れる人間を徹底的につぶしにかかろうとする未来を、私たちは歴史から知っているはずだ。
私は月組『BADDY』でもそれを学ぶことができると思っている。
選択肢のない世界はいずれ滅ぶ。

 

「個人の記憶」が人間の生きる意味を保証する。
それは衣食住とは別のところ、本だったり、音楽だったり、美術だったり、舞台だったり、ライブだったり、そういうところにあるのだ。
人間が生きる意味を保証してくれる「個人の記憶」を作るのに一役買うのが「芸術」ではないだろうか。
もちろん、本も読まない、映画も見ない、音楽も聴かない、絵画も見ない、芝居も見ない、見たいとも思わない、そういう一定の層の人はいるかもしれない。
でもバーベキューしたり、スキーしたり、山に登ったり、そういうことも「文化」の中に含まれているのではないだろうか。
一人でやっても大勢でやっても「個人の記憶」に違いはない。
中でも、音楽を聴きに行く、劇場で芝居を見る、山に登りに行く、そういう「身体を伴った記憶」は強い。

一人一台スマートフォンを持つことが当たり前になっているような時代。
海外旅行をしなくても、行った人のブログを読めば満足という人もいる。
本を読まなくても、そのレビューされ見れば読んだ気になれるという人もいる。
でもそれらは個人を動かすには足りない。身体が伴っていないから。

平田オリザはこれらを差別や偏見がないことと合わせて「身体的文化資本」という言葉でまとめている。
これが積み重なっている人は、学校の成績もいいという。
塾に行って世界地図を学ぶよりも、家のテレビの横に貼ってある世界地図を見ながら「今ニュースに出てきた国はここにあるね」という話をしたほうが記憶に残る、というのだ。
さもありなん、というところだろう。
よく言われる「生きる力」という薄っぺらい言葉の内実はこのあたりにあるのではないかと思っている。

エンターテイメントはその「身体的文化資本」を高めるのに一役買っているどころか百役も千役も買っているのではないだろうか。
衣食住が確保されているだけでは人間は「人間らしく」生きてはいけない。
私たちに「人間らしさ」を返して欲しい。
そして「人間らしさ」を創造するアーティストたちに手厚い待遇を頼む。
心の貧しい人間がこの国にはあまりにも多い。

最近家でも魂の抜けたような顔をしていることが多いらしく、旦那も「早く劇団が再開するといいね」と言ってくれる。
私の生きる活力は、エンタメ(と旦那)にある。そう実感した。