ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

講演会『指揮者・西野淳が語る楽しいミュージカル!』メモ1

朝日カルチャーセンターの「指揮者・西野淳が語る楽しいミュージカル!」の講演会に行って参りました。
とてもおもしろかったです。勉強になりました。
以下、講演会の感想というよりは内容振り返りメモです。

●本格的なミュージカルに出会うきっかけ
生まれも育ちも名古屋。大学を卒業するまでミュージカルには興味が無かった。
大学在学中にテレビかなにかで「ロックオペラオペラ座の怪人』ロンドンで開幕!」というニュースを聞いたときも、クラッシックやオペラの勉強をしている人間としては「オペラとロックを一緒にしてくれるでない。なんてことをしてくれたんだ、アンドリュー!」と思っていたくらいだった。
その自分がまさか10年後劇団四季で『オペラ座の怪人』の指揮をすることになるとは……笑。
竹本泰蔵さんにずっと「弟子にしてください!」と言っていたのに、「友達でいいしゃーん、仲良くしていこう。わからないことは教えるよー」とゆるい感じで、弟子にはしてもらえず、しかしいろいろなことを教わった。
大学を卒業したら、クラッシックやオペラの指揮の勉強をするために、神奈川へ。
そこで竹本さんに「宮本亜門と一緒にミュージカルやるけけれども、一緒にやらない?」と誘われた。
心の中では「クラッシックやオペラの勉強をするために関東に行くのに、ミュージカル?」とも思ったけれども、足を向けてはねれない恩人からのお誘いなので、話を聞くことに。
そのときの作品が大地真央主演の『サウンド・オブ・ミュージック』であり、出演者として竹本さんの口から出てきた五人目の「酒井法子」という言葉を聞いて、心の中ではめちゃめちゃやる気になったとか。
当時のトップアイドルですな、のりピー。そんなわけでミーハー発揮して、たったそれだけのことで受諾。
のりピーがいなかったらミュージカル指揮者になっていなかったかもしれない、というほど。

サウンド・オブ・ミュージック』といえば「エーデルワイス」や「ドレミの歌」なんかが有名。
オペラの曲と比べるとそれらの曲は音が少なくて単純で誰でも覚えやすくてキャッチーでわかりやすい曲。
オペラの指揮がふれるなら、ミュージカルの指揮もふれるだろうと思っていた。
だから、指揮をするのは楽勝だろうって思っていたところがある。
けれども、自分が思っていたのと全然実際は違った。
このあたりはおそらくクラッシックとジャズの表拍と裏拍の違いもあるのでしょうね。
宝塚だと「ラテン(表)→ジャズ(裏)→タンゴ(表)」みたいな曲の並びはレビューやショーのときにしょっちゅうあるのですが、この切り替えがミュージカルでも求められるので、結構難しいのだと思われます。

そもそも違いオペラとミュージカルの違いはなんだろう。
役者がいて、音楽があって、小道具があって、ダンスがあって、観客がいて、というところは同じ。
こうしてみるとほとんど同じ。
『スイニートッド』という作品はいまだにオペラかミュージカルかという論争が繰り広げられている。
しかし音楽で分類しようとするのは難しい。
あえていうなら、ミュージカルは演劇のカテゴリでオペラは音楽のカテゴリなのではないか、と。
例えば「トニー賞」は演劇の賞であるから、オペラの作品がノミネートされたことはない。
もう一つ理由を挙げるとスタッフの序列が違うことが挙げられる。
ミュージカルは「演出家」「指揮者」の順番で、オペラは「指揮者」「演出家」の順番である。
オペラになくてミュージカルにあるものとしてはBGM。
ボールを投げる音の「ヒュー」とかボールをキャッチするときの「ポン」とかいう音はオペラにはない。

ミュージカルの場合、稽古中に音を合わせる。
何小節目にはどんな台詞か?というようなことを2小節とか4小節とか毎、楽譜をメモしていく。
本番では楽譜に書いてあるキーワードよりも早いな、と思ったらテンポを速めるし、遅いなと思ったら遅くするということをする。
役者の芝居に合わせて指揮をふるのが仕事である。
けれども、事はそう簡単なことではない。
例えば「お前○やめろよ、それは!」の○のための部分が日によって異なる。
さらにその後の台詞の後の台詞でまかれるときもある。
ある一つの台詞だけでは指揮のスピードを決めることはできない。
その日の芝居が始まってからの芝居の流れであればこうなるだろう、冒頭の感じからするとこうなるのかな、ここまでの雰囲気だとこういう流れになるかな、といろいろ考えてやっているけれども、正直なところメカニズムはない。
そういう流れを汲み取る能力をもっていないといけない。ざくっといえば「山勘」。
東京芸術大学の人がミュージカルの指揮をふりにきて、一回クビになって戻ってくるということはよくある。
だからちょっとばりかり特殊な才能が必要なのかもしれない。
そういう才能が自分にあったことに感謝している。

●『サウンド・オブ・ミュージック』について
これがミュージカルの指揮者として初の仕事。
座長である大事真央さんに78回公演中77回楽屋に呼び出しされた。
そこで「今日のあのナンバーは遅かった」とか「あのナンバーはもう少しまきで」とか「ちょっと速いのよね」とか、とにかくいろいろ言われて、こちらとしても初の仕事だから、こちらも謝りまくって。
毎回呼び出しされると、さすがに「えーまたー」という気持ちにはなるけれども、言われたことは全部聞いてきたつもり。
千秋楽だけ呼び出しされなかった。毎日ではなく毎公演。2回公演の日は2回呼び出された。

さて3年後、再演があり、初演のときのビデオを見直したところ、「これ、呼び出されても仕方がない」と思った。
初日あけて10日くらいのビデオだと思われる。
つつがなく、ちゃんとやっているように見えるけれども、確かに呼び出されるレベルだと感じた。
けれども、そのビデオをそういう風に反省して見ることができたのは77回呼び出しをされたからである。
再演は名古屋公演の3日目くらいに1回ダメだしの呼び出されたけれども、その後大阪公演の千秋楽まで呼び出しはなかった。
そのときに本当の意味で感謝した。
普通40回くらい呼び出ししたら諦めそうなものなのに、座長としての意気込みもあったのだろうと思われる。
77回の叱咤激励に感謝である。

再演の大阪公演のとき、一回すごい頭が痛くなった日があった。まだ30歳前だったから気合いで無理して指揮をふった。
そのとき、オケのメンバーは誰も気がつかなかった。
けれども1回目の公演が終わったあと、楽屋に真央さんからスポーツドリンクがおいてあった。
楽屋にお礼にいったところ「上から見ていてちょっと体調悪そうだったから」という。
もうそのときから大ファンになってしまった。
今でも会うと緊張する。10何年ぶりかにたまたま宝塚の舞台のが区や裏ですれ違ったときに知らないうちに「きをつけ」の姿勢をしていた。
真央さんは「良かったわよ~」と一言。そこでダメだしされたらどうしようと思ったけれども、そんなことはなかった。

劇団四季美女と野獣
サウンド・オブ・ミュージック』を通じて知り合った人が、塩田明弘さんにつないでくれたらしく、劇団四季の『美女と野獣』の四季をすることになった。
稽古中からいろいろなことを教えてもらって、足を向けて寝られない恩人二人目となる。
ここで今井清隆さん、石丸幹二さんらと始めて仕事をすることになる。
指揮者にとってロングランというのはしんどい。
美女と野獣』も3人くらいで回してした。一人抜けては一人入って……そういうことを繰り返していた。
その中で当時一番年下で、他の仕事がなかったため、一番時間のある自分が2年半の中でもっとも『美女と野獣』の指揮をふった。
おそらく300回とか400回とか。おそらくこの作品で指揮をした数は空前絶後のものになるだろう。

塩田先生からは「毎回新鮮な気持ちで指揮をしなければならない」と教えてもらったが、これがなかなか難しい。
スランプに陥ることもあるし、思うようにオケが動かないこともあるし、自分がうまくふれないときもある。
けれども、自分にとってこれが千秋楽だ!という日になったとき、この演目の指揮をもうしないかもしれない、と思ったら開始からうるうるしてしまった。
これが新鮮という本当の意味なんだなと感じた。
今までもいい加減な気持ちでふっていたわけではないけれども、いかに義務感から「新鮮」をつくっていたのかと思った。
実際は毎回「新鮮な気持ち」になるのは無理ではあるけれども、「新鮮な気持ち」の間違った作り方はわかった。
だから今は違うアプローチをしている。

劇団四季オペラ座の怪人
そして『オペラ座の怪人』の指揮をふることになる。
ここでお世話になったのが上垣聡さん。ここでもいろいろ教えてもらい、恩人三人目。
塩田さんと上垣さんは指揮者の中で東西の両横綱というイメージ。
この人達に追いつけ追い越せで若手の指揮者たちは頑張っているが、なかなか追いつけない……。

オペラ座の怪人』は1年半~2年くらい指揮をふった。
そこでは自分よりも年下の指揮者がいて、お正月は久しぶりに10日も休みがもらえた!のだが。
音楽チーフからお正月に電話があって「東京で指揮ふって」となる。
なぜそんなことが起きたのかといえば、ダブルキャスト、トリプルキャストが当たり前の四季では、新しいキャストが本番を迎えるときに本番前に打ち合わせをするのだが、今回の沢木順さんは一癖も二癖もある。
ものすごく歌をゆらす人で、感情の赴くまま歌う。
若手の指揮者では難しいよ~ということで自分がふることになり、東京に行く。
沢木さんとの打ち合わせは思いのほかスムーズに進んで、これならいけるなと思ったけれども、楽屋に戻ったときオケの人たちが寄ってきて口をそろえて「気をつけた方がいいよ~!打ち合わせと違うことをやるよ~」と言われる。
え~!と思っていて、打ち合わせと違うことをされたらどうしよう、と1幕はめちゃめちゃ集中してやったらどっと疲れた。
けれども2幕では、怪人が顔を黒いマントで隠しながら歌い始める場面がある。ここが肝。
そういうときは動きをつけて音と合わせることが多く、打ち合わせでも確認したけれども、打ち合わせ通りやらない人と聞いているので、その場面が近づいてくると緊張する。
こればかりは指揮者だけではどうしようもない。
そして2幕の例の場面で沢木さんがフリーズした。これでもう合図はないな、と思った。
ずれてもいいや、とええいや!と指揮をふったら偶然ピタリと合った。あのときは良かったー!と心底思った。
それから沢木さんが主演のときはすごく集中して四季をふったけれども、これがまたどっと疲れる。
けれども音楽チーフもオケのみんなも「打ち合わせと違うことをやる人」というので、おそらく指揮者が何を言っても無駄なのだろうと思った。

しかしこれが最後の方では快感になってくる。
ここで芝居の勉強をとてもさせてもらった。演者を見るということについて鍛えられた。
今日はこのテンションで楽屋入りしたから芝居ではこうなるだろう、とかここはちょっと速くなるだろうとか、舞台にたっていないときも、ものすごく観察した。そういうのが勉強になった。

この後四季では指揮をすることがあまりなくなる。
というのもこの後控えている『ライオンキング』の塩田さんにも誘われたのだが、自分が『ライオンキング』に入ると、『オペラ座の怪人』を仕切る人がいなくなってしまう、ということで残念ながら見送ることに。

東宝エリザベート
ウィーンミュージカル、日本では宝塚が初演の『エリザベート』。
ここではタイトルロールのエリザベートを宝塚初演でトートを演じた一路真輝さんが演じた。
トートを演じた山口祐一郎さんとはここで始めて出会った。
祐一郎さんはとてもいい人で、祐一郎さんがメインキャストで演じている芝居を最多で指揮をふっている。
とにかく優しい人で、稽古後、汗をかいて着替えのアンダーシャツを忘れたときに、なぜか祐一郎さんがTシャツをくれた。
祐一郎さんは190センチ、自分は164センチ、サイズが合うはずがないのに、なぜか祐一郎さんはMサイズをくれた。
風邪をひくといけないから、といって。
「クリーニングしてお返しします!」といっても「いいよ、いいよ、あげるよー!」と。
また、風邪をひいたときに成城石井の蜂蜜生姜を冷蔵庫から出してくれたり、息子を連れて行ったら山ほどお菓子をくれる。
これは自分にだけではなくて、誰に対してもそうで、スタッフに対しても大変な気配りをしている。
そんなやさしい人が歌えばすごい! 踊っている姿は……あんまりみたことないけれども、演技ももちろんすごい。

ただちょっと困ったこともある。たまに歌詞を忘れてしまうことが。
エリザベート』でトートのソロ曲「愛と死のロンド」で、最初の歌い出しはよかったけれども、なんだか途中から知らない歌詞になっていき、最後はよく知った歌詞に戻っていくということがあった。
「奪いさるー♪」か「消えさるー♪」かは忘れてしまったけれども、歌詞を作ってしまった。
それを袖で聞いていた一路さんが「私は『さる』じゃないわよ」とおっしゃったとかなんとか。
祐一郎さんは歌詞を忘れても絶対に歌うことをやめない。そこから「作曲大王」みたいなあだなもついた。
ちなみにこの公演は昭和40年生まれの世代が多く、楽屋や稽古中もとても盛り上がった。


とりあえず長くなったので、これでいったん終わり!
ここからは『モーツァルト!』、シアタークリエで初のミュージカル、『三銃士』、宝塚の和物の話になります。

宙組『壮麗帝』感想

宙組公演
オリエンタル・テイル『壮麗帝』

kageki.hankyu.co.jp

作・演出/樫畑 亜依子

ライブ中継を拝見しました。毎度のことながら楽天TVさん、ありがとうございます。
ずんちゃん(桜木みなと)はクラシカルな男役として立派に育っていますね。
動作の終わりに逐一見栄をきっていて、こういうのが好きな人にはたまらんだろうなあ、とぼんやり思いました。
残念ながら私には刺さらないのですが。
ららちゃん(遥羽らら)、そらくん(和希そら)も安定したお芝居と歌でした。
ヒュッレムとイブラヒムとを好演しておりました。
これだけの実力派がそろっているのに、個人的には、これでよかったの……?と思っているのですが、思いのほかファンには好評のようで、良かったです。
私が印象に残っている場面といえばプロローグの白いお衣装でのダンスシーンとスレイマンがイブラヒムを処刑した後のスレイマンの空想のダンスシーンです。
いかんせん脚本に不満があるせいか、むしろ言葉によらない場面の方がずっとよく見えました。
というか、そらくんがもったいないよね、あんなにダンスシーンが少ないなんて……彼はやっぱりショースターなのだなとも思いました。
プログラムがないので詳しいことが全くわからないので、見逃している点もあるかもしれませんが、よくわからない場面が多くあったのは事実です。
以下、ツイッターにもあげましたが、少々辛口のコメントが続きますので、見たくない人は回れ右してね。最後にも書いていますが、偉そうですいません。


『壮麗帝』というタイトルであるならば、そもそもなぜなぜスレイマンが「壮麗帝」と呼ばれることになったのか。
それをちゃんと作品の中で描いてくれないと物足りなくなってしまうのです。
「後に壮麗帝と呼ばれることになったスレイマンについてここに記す」みたいな語りで始まるのだから、彼の治世のどのあたりが「壮麗」であったのかを語らなければいけません。
戦ばかりをしている王が当然「壮麗」と言われるはずがないのですから。
作中ではヒュッレムの希望によって内政を重視することが語られていますが、具体的にどうだったということは、ヒュッレムの口から「町に学校ができた」程度しか語られません。
市場の場面でもキリスト教(異教徒)がせっかく商売をしているのだから、「税金を下げた」ことだけでなく、「異教徒でもイスラム教圏内で商いをする許可がおりた」ことなどももう少し描き込むことができたのではないでしょうか。
ちなみに市場の場面で「一杯だけだぞ」とお酒を匂わすようなフレーズがありましたが、イスラム教徒はお酒はアウトなのでは……?
『クルン○ープ』のときも似たようなことを思った記憶があります。

皇帝のお衣装が豪華なのは大変に眼福で良かったのですが、あまり物語の進行との関わりが見えてこないのも残念でした。
例えばヒュッレムは「奴隷としての衣装」「ハレムでの衣装」「公の場での衣装」「年をとってからの衣装」とある程度区分された上でさまざまなお着替えをされていましたが、スレイマンの着替えにはそういうことが見えてこない。
豪華ならいいというわけではないでしょう。
衣装といえばもう一人、サファヴィー朝の新しい王様のお衣装もあれでよかったのでしょうか。
最初、上半身しか画面に映らなかったので、「えらいヤンキースタイルやな!?」と思ってしまいました。
レイマンの衣装、一着さしあげたらどうだろうと思うほどです。

音楽も好きだと言っている人が多くいましたが、イスラムの曲としていかがなものだろうか、というのは1ベルのあとに、アナウンスの前に流れた謎の音楽からもうかがえます。
開演アナウンスの前に入るのだから、当然物語世界へと誘う音楽でなければいけないと思うのですが、オスマンっぽいメロディーとは到底思われない(もっとも『金色の砂漠』のオープニング曲もオリエンタリズムとは違うかなと思ったけれども)。
作中で使われている音楽も同様ですし、せっかくソロ曲のあるアフメトはこってぃ(鷹翔千空)が歌うのだから、それは期待していたのに、なぜか突然ロックですし……音楽によって世界を構築する、世界観を統一するということはわりと初歩的なことだと思うのですが。
いや、こってぃの歌はすごく良かったんですよ?!
アフメトの人物像もあれでよかったのか?という謎は大変に残ります。
なんか、もうちょっと奥行きのある描き方ができなかったのでしょうか。

ヒュッレムを大変知性的な女性として描いたのは良かったのですが、見る人が見ればスレイマンを操って自分の思い通りの政治をさせている悪女にも見えてしまうのではないでしょうか。
もちろんヒュッレムにそういう意図がないのはわかるのですが、腹心の言葉よりも寵姫の言葉を優先して政治を行うという有様はそうもとられかねません。
そしてヒュッレムが知性的であるだけで、女性としてスレイマンのどこに惹かれたのか、というのがいまいちよくわからないのももやもやの原因でした。
別にヒュッレムは「自分が妃になりたい」とか「自分の子供を王位につけたい」とか考えているわけではないのだから、子供が5人もできるということはそれなりにヒュッレムもスレイマンを愛していたのだろうけれども、自分の言葉を聞き入れて政治をしてくれていること以外に惹かれるポイントは一体どこにあったのだろうか、と。
単なる顔が好みだっただけかもしれませんが、それならそれで初めて会ったときにもうちょっと恋に落ちるような演出があってもよさそうなものですし、何なんだ……と始終おいてけぼりでした。泣いちゃう。

ヒュッレムのいう「親兄弟で国を平和に治める」というのもとてもいいのですが、それならスレイマンの兄の描写をもっとしたらどうだろうとも思います。
最初に台詞でちょっと出てきただけで、次には処刑されていて、イブラヒムを処刑したあとのスレイマンの空想に出てきてはまた殺されるという役どころでしたが、仲が良かったことをもっと描き込めばよかったのではないでしょうか。
レイマンとイブラヒムの固い絆でさえ、ちょっと描き込みが足りないのでは?と思ったクチですから(『はばたけ黄金の翼よ』のヴィットリオとファルコよりはあったかもしれませんが)、スレイマンと兄とのエピソードはもっと欲しかったです。

マヒデブランがヒュッレムを毒殺しようとした場面は『源氏物語』の弘徽殿女御と桐壺更衣のようであったし、スレイマンとヒュッレムの最後の散策場面は源氏の君と臨終前の紫の上のようであったことは大変におもしろかったのですが、毒殺計画をしったハレムのお嬢さんが果物ナイフで同じく毒殺計画をしった女官を殺したことには本当に意味があったのか……あれで追放されて以来、全く音沙汰なかったじゃないですか……追放されるのはわかるのですが、その演出の意味を問いたい。
女官が無駄死にだったようにさえ感じてしまう。
ハレムのドロドロを描くのなら、もっとハレムの場面が必要でしょうし、そうでないなら、このお嬢さんの設定そのものに問題があるのではないかとさえ思ってしまいます。

語り部がいることもあり、ぶつぶつ場面が切れるのもね……集中も切れますよ。
近年だと『壬生義○伝』もそんな感じでしたが(あれほどひどくはないが)、『金色の砂漠』や『鎌足』みたいにもっとうまくやれないものですかね。
良い例が同じ劇団があるのだからもうちょっと学ぼうと思えば学べるような気もするのですが。

 

遠い地においやられたムスタファ(ところで彼の後見は誰だったのだろう……)は、ヒュッレムの長男が亡くなると王位継承権を求めて軍を動かしますが、中央にいない彼がなぜそれほどまでに人を集めることができたのか。
それはイブラヒムの軍隊が、出自を問わず、たとえ奴隷であったとしても力のあるものを集め、私兵の傭兵としたからであって、つまり大変に指示が通りやすい人間たちを使っていたために、成果も上げやすく、それに対して世襲貴族、世襲軍人たちが大変な反感を持っていたからなのでしょうけれども、スレイマンに対する不満の描き方も微妙……。

イブラヒムはヨーロッパ制圧に精を出していますが、彼がなぜそれほどまでにヨーロッパにこだわるのか、自分の出身地だからか、ハンガリーは言葉だけで制圧されたけれども、あのあとヨーロッパとの関わりの中でどうなったのか、ということがあまり見えてこないのも残念。
私の見逃しかも知れませんが。
イブラヒムがヒュッレムをスレイマンの指示通り「女官」ではなく、「ハレム」に入れたことにももっと意味があると思うのですよ。
それなのに「私の評価が高くなれば、後見のあなたも嬉しいでしょう」とヒュッレムに言わせておしまい。
後見としてイブラヒムがもっとヒュッレムに何かを言っても良かったと思うけれども、それだとイブラヒムとヒュッレムの決裂が描けないのか……?
それでいてサファヴィー朝の罠にはまったときには、スレイマンとイブラヒムが共闘してしまうし。
「おいおい」と思わず口に出てしまったよ。

ヒュッレムの最期にスレイマンは「私たちのモスクを建てている。そこで一緒に眠ろう」といいます。
モスクはイスラム教徒にとってお祈りの場所であり、そのほかに霊廟としての役割を担っているので、モスクで眠るのはわかるのですが、そもそも作中においてモスクってそんなに大切な場所、建物として描かれていたでしょうか。
市場のある町中で眠った方がヒュッレムは嬉しいのではないかと思ってしまうのは私の気のせいでしょうか。
もちろんキーワードである夕日はわかるのですが、それだって町で見たじゃないと思ってしまう。

全体的に偉そうで本当にすいません。繰り返し見たら溶ける解ける謎だといいのだけれども、そもそも繰り返し見るだけの気力があるかと聞かれればそれも難しくてなんだか出演者に申し訳ない気分になってしまったよ。

『壮麗帝』からの流れで1991年の大浦みずき主演の『ヴェネチアの紋章』を見たのですが、これがまたイイ!
いっそ、今回はこちらを手直しして再演でもよかったのでは?と思うくらい。
別にこの作品でなくてもいいのだけれども、樫畑先生は柴田先生や菊田先生といった既存の脚本の再演の演出を一度手掛けてみたらいいがだろうか。
キャラクターを作る能力はあると思うのですが、話を作ったり、それを演出したりするのが苦手なようなので。
そしてもう一回り大きくなったところで再度オリジナル作品にとりかかっていただければ幸いかと。

『サパ』と『金色の砂漠』

今回は、『FLYING SAPA -フライング サパ-』(以下『サパ』)と同じく上田久美子先生が作・演出を担当された『金色の砂漠』とを比較してみる。

kageki.hankyu.co.jp

東京公演の幕が無事に開きますように!

ちなみに『サパ』単独の感想はこちら。

yukiko221b.hatenablog.com

『金色の砂漠』についてはこちらにつれづれなるまま記してあります。

yukiko221b.hatenablog.com

1 ここではないどこか

『サパ』において、オバク(真風涼帆)は最後に水星を旅立つ。まさにタイトル通りの結末となった。
「ここではないどこか」に自分の理想を探して旅立つというエンディングは、たとえば『CASANOVA』でも同じなのだが、男たちはなぜか旅に出たがる。「ここではないどこか」に行きたがる。
冒険家といえば聞こえはいいかもしれないが、愛する人をおいて旅立とうとするのはいかがなものか。
『サパ』では最終的にミレナ(星風まどか)も艦に乗るが、『CASANOVA』ではベアトリーチェヴェネチアに残るだろう。
宝塚歌劇団なんだから、トップとトップ娘役は最後にラブで結ばれるのが当然!とは思っていないけれども、愛し合っているのに分かれなければならない理由を観客に納得いく形で届けるのは難しい。

一方で『金色の砂漠』において、「ここではないどこか」に旅立ちたがっているのは、ギィ(明日海りお)ではなく、タルハーミネ(花乃まりあ)である。
回想シーンで幼少のタルハーミネが王妃の部屋を訪れ、帰り道からピピに「金色の砂漠の歌」を教えてもらい、翌日タルハーミネは「金色の砂漠」を目指して城を出る。
城の者には当然伝えておらず、共はギィ一人だけである。
王女としてはあまりにも軽率な振る舞いだが、「ここではないどこか」――父であるジャハンギール(鳳月ちなつ)の支配の及ばないところに行きたがっている。
そして最後には二人ともその場所にたどり着いてエンドとなる。

理想を追い求めて「ここではないどこか」に行きたがる人物がいることは共通しているが、それが男役が担うのではなく、娘役が担っているというところに『金色の砂漠』は新しさがあるのではないだろうか。

2 よくある結末

『金色の砂漠』の新しさといえばそれは結末にもいえるだろう。

『サパ』では、とてもざっくり言うと、人類の幸せのためにあらゆる「違い」を無くし、みんなが一つになることが最善の策であると考えるブコビッチと「違い」があるからわかり合おうとするし、傷つくこともあるけれども、「違う」ことが当たり前であると考えるオバクとの対立が描かれている。
古典的なSFものではよくある対立であるが、こういう対立が起こったとき、結末は後者にならざるを得ないだろう。
エヴァンゲリオン』でも人類補完計画を実行してみんなハッピーになりました、とはならない。
ガンダム』においても、ニュータイプは他人の気持ちを相手の許可なく知ることは辛いという描写もある(『UC』において主人公が相手の隠しておきたい男娼をしていたときの過去を知ってしまって、相手が狂っちゃうとか悲惨)。
「違い」があることを認め、たとえわかり合えなくても、存在を否定してはいけない。
私たちは「違い」があるまま生きていくより他に仕方が無い。
観客側に合わせたラストとはよくある結末といわれるかもしれないが、現実世界を生きる私たちにとっては説得力がある。

一方で『金色の砂漠』のラストは新しい。
「誇りなんてさ、お腹膨れないし、一緒に生きてさえいればいいじゃない。捨てちゃおうよ」というラストにはならない。
タルハーミネは最後まで自分の「誇り」を大切にするし、ギィもまたそんなタルハーミネを受け入れる。
「え、ちょっと待って? そんなのってアリ?」と思った観客もいるだろう。
おそらく多くの観客が「自分の誇りのためには死ねない」。けれどもタルハーミネはそれができる。
そういうキャラクターがいてもいいが、そのキャラクターをヒロインとして説得力をもって描くことは難しいだろう。
けれども『金色の砂漠』は、タルハーミネにはその道しかなかったことを観客は思い知らざるをえない。
たとえ共感はできなくても。
観客側に合わせたラストではないかもしれないが、それが充分な説得力をもって描かれているところは新しい。

3 娘役は聖母ではない

では『サパ』と『金色の砂漠』の共通点とは何だろうか。

『サパ』において、イエレナ(夢白あや)はオバクの婚約者であった。
しかしオバクは記憶を漂白され、再びイエレナの前に姿を現したときは「はじめまして」という形になる。
自分のことを知るためにオバクはイエレナに近づき、一晩をともに過ごす。
「君は俺を隅々まで知りすぎている。俺たちは初めて寝たんじゃない」とオバクは言う。
その一方で、イエレナは物語のエンディングでノアとの子供をおなかに宿している。
つまり、イエレナに処女性を求めていないのだ。

これはミレナにも同じことが言える。
ミレナは水星にむかう艦にいるときからずっとサーシャ(オバク)が好きだったかもしれないが、違法ホテルでは「娼婦のまねごと」をし、あらゆる男と寝る。
オバクには「ホテル代が滞っている。これから男と寝るときは金をとれ」とまで言われる。
もっとも娼婦のような振る舞いを繰り返していながら、グリープに襲われ、正当防衛で殺してしまったとき、ミレナを「ブコビッチの娘」として憎む声はあったが、「日頃の行いが悪い」「襲われて当然だ」という(我が国の中で残念ながらよく聞く)声はなかった。これは救いである。
ともかく、ミレナにも処女性など到底求められるはずがない。
つまり、『サパ』において主人公の恋人たちは、聖母マリア様などではなく、「生きた人間」として描かれているといえるだろう。

『金色の砂漠』でも同じことが言える。
タルハーミネはギィを一晩を共にし、一時は「奴隷の妻として生きる」とまで言っておきながら、自分の誇りのためにギィを裏切り、テオドロス(柚香光)と結婚し、子供をもうける。
タルハーミネの義理の母であるアムダリヤ(仙名彩世)も、かつての夫であるバフラムを愛し、彼がジャハンギールに殺されたときは「夫を超した、王族を皆殺しにしたあなたの妃になどなりません!」と激しい気性で語る。
けれども、時の流れと共にジャハンギールへの恨みは溶けていき、自分でも認めたくないが認めざるを得ないほどまでに彼を愛してしまう。
回想で幼少のタルハーミネがアムダリアの部屋にいたとき、ジャハンギールが訪れる場面は重く切ない。
この作品でも女性たちは「生きた人間」として扱われている。
女性の人物造形が継承されているのはとても嬉しい。

4 伝説の場所

ところで『サパ』にも『金色の砂漠』にも伝説の場所なるものが設定されている。

『サパ』では「願いを叶えてくれる場所」として「サパのへそ」が出てくる。
これはユダヤ教でいうところのシナゴーグみたいな場所とも語られる。
実際はホテルに客を滞在させるためのキュリー夫人の方便だったことが最後に明かされるが、ミレナは「サパのへそ」は「人の心だけにある」もので、オバクは「決してたどり着けない幻の場所」「遠く星のように憧れる」、古い地球の言葉で「希望」と言う。
物理的に存在する場所ではないけれども、それを目指して、時にはそれを頼って生きていくものとして「サパのへそ」は「生きる希望」と言い換えられている。

『金色の砂漠』ではタイトル通り「金色の砂漠」が伝説の美しい場所として出てくる。
タルハーミネはテオドロスに以下のように説明する。
「この地の砂漠の奥深くには金色をした砂漠があって、それはそれは恐ろしい美しさなのですって。金の砂は太陽の欠片のように熱して降り注ぎ、その輝く砂嵐の中で肉体は消え、人は魂だけになる。そこは美しくて苦しい、えも言われぬ場所で、金の砂漠から戻った者は誰もいない」
テオドロスは「戻った者がいないのに、なぜわかるんだい」とひやかす。
そんな彼は「金色の砂漠」にはいけないだろう。

ラスト、金色の砂漠を求めて城を飛び出し、砂漠で迷っているとこを、戴冠式を目の前に同じように城を飛び出してきたギィ(イスファンディヤール)に発見される。
イスファンディヤールは「焼け付くような憎しみの中で、俺はお前に恋したのだ!」と言い、タルハーミネも「私たちの、心のどこかにある場所」と言う。
金色の砂漠にたどり着いたと認めたタルハーミネはそのままその場で息絶え、重なるようにイスファンディヤールの体も崩れ落ちる。
「サパのへそ」と同じように「人間の心の中にある」と言われるが、「金色の砂漠」では「私たちの」つまりイスファンディヤールとタルハーミネの心の中にある場所として語られる。
「金の砂は太陽の欠片のように熱して降り注ぎ、その恐ろしい砂嵐の中で人は魂だけになる」と言われる「金色の砂漠」は換言すれば「美しい地獄」といったところだろう。
「生きる希望」である「サパのへそ」とは似ても似つかない、あるいは正反対のものでさえあるといえる。

5 まとめ

『サパ』も『金色の砂漠』も今この時代の話でもなければ、昔のこの場所の話でもない。
けれども、観客の胸を打つのは、そこに幾重にもの「新しさ」があるからだろう。

『サパ』は古典的なSFを宝塚歌劇団で舞台化するという新しさがあり、ショルダータイトルはない、主題歌はない、拍手する場所もないという「ないない尽くし」であった。
『金色の砂漠』には、観客がとても共感できないだろうと思われる娘役の激しい熱情を、説得力をもって描いたという新しさがある。
私は好みとしては後者の方が好きだけど、前者のような作品に出会えたことにはひたすら感謝です。
雪組のヴェートーベンも月組楠木正成にも期待大です。


※『サパ』の結末の懸案事項

私は『サパ』の結末に違和感があり、この違和感にどう決着をつけるかいまだにあぐねいております。
一見希望のあるラストのように見えるけれども、そもそもオバクが艦で旅立つことが不審ですし、ミレナはバリバリに水星で働いていたのに艦に乗ってしまうと「オバクの女」として扱われることになってしまうのではないか、「民主主義」と口にしながら民意で選ばれていないイエレナに水星を任せて大丈夫なのか、今後の可能性として、サパ艦内で内ゲバのようなことは起こらないのか、ブコビッチのような科学者がまた出てくる可能性もあるのではないか、オバクが何らかの形でミレナを失ったら、ブコビッチのようになってしまうのではないか、と考えると、本当に「どこが希望やねん!?」と思ってしまう。
けれども、「ラストの場面はミンナと融合したミレナがオバクに見せた夢」と解釈すると、なるほど、つじつまは合う。
以下のnoteが大変おもしろかったので、貼っておきます。

note.com

マトリックス』のようなラストだなあ、とSFに詳しくない私はざっくり思ったのですが、しかし! これでは! あまりにも! 救いが! ない!!!
ミレナがブコビッチを撃ったときに、ミレナが地球を出るときの衣装のままだったことを、私は「愛情から私の記憶を消したあなたを愛情で殺す」と解釈したのですが、上記のnoteでは「ミンナと融合が完了し、肉体を失ったミレナの魂」と解釈しているのが最高に痺れました。ありがとうございました。
もう少し『サパ』のラストは考えてみる必要がありそうです。

宙組『FLYING SAPA -フライング サパ-』感想

宙組公演
『FLYING SAPA -フライング サパ-』

kageki.hankyu.co.jp

作・演出/上田 久美子

今までに数々の話題作(問題作?w)を作り出してきたうえくみ先生による本格的なSF。
宝塚でここまで古典的な手法に則ったSFって今までになかったのではないかしら、という感じ。
2月末に御園座で『赤と黒』を観劇して以来、5か月以上ぶりの宝塚観劇がこれでよかったのかwという感想もあるが、花組が開幕しているのに、チケットをとらなかった私が悪いし、私はこれでよかった派です。
宝塚再開にはもっと明るい作品がよかった!と言っている人もちらほら見えますが、大劇場、東京、別箱、と全部同じように明るい話だったらつまらないじゃない。
そう、「違いは『おもしろい』」のである。
これは苦痛も悲しみも伴うかもしれないけれども、でも「違うこと」「多様であること」を私たちは受け入れていかなければならない。
そういうメッセージを受け取った作品でした。
『BADDY』もそういう傾向がありましたが、あちらがコミカルに「同一」「統一」の恐ろしさを描いているのに対して、こちらはまさにディストピア
裏表のような作品ですね。どちらが表なのかは怪しいですがw

作中はずっと夜。
水星の時点の関係で、地球時間でいうところの88日昼間が続き、同じように88日夜が続く。
そんなふうに暮らす世界が変わったとしても、人間の体内時間は相変わらず24時間で一サイクルになっているらしく(まだ15年しか経っていないしね)、24時間ごとに「『朝』のニュース」とやらが放送されている。
もっとも水星にはテレビチャンネルはこの一つしか存在せず、今の私たちが笑えないくらいの偏見番組を垂れ流しにしている始末。
バイス「へそのお」で88日を12時間に体感できる何かがあればいいのだけれども、そういうわけではないらしいのがSFなのか何なのか、SFに詳しくない私にはよくわからないけれども、そういうものなのかな。
オバク登場シーンは天才的に美しかった。あの長身であのフード。最高かよ。

政府の監視外である謎のクレーターサパでの住人は実にカラフルなお衣装を着ているけれども、「へそのお」によってばっちり政府に監視されている人たちのお衣装は、白、黒、グレー。
モノトーンの世界には「違い」がないわけですね。
無機質な感じが不思議な世界に連れてこられた気分になって舞台に集中できてよかった。
しどりゅーの白いお衣装がとても素敵でした。あのロイヤル感……たまらん……。
ひばりちゃんとの組み合わせも素敵でした。愛知県出身者、応援しています。
髪形が大変キュートでしたし、ラストはカップルとしてサパに乗っていましたね!

『サパ』のプログラムには一企業が世の中の人間の個人情報をほとんどすべて掌握していくあいぽんに対する不気味さを抱えていながらも、結局それがないと「年金ももらえないのではないか」と思いいたり、結局それを手にすることになったと、うえくみ先生の言葉で語られていますが、これは作中で政府が個人の精神データを提供することに反発があった者が、生命を維持するために主張を折った姿と似ているような気がします。
そして、反発した人をポルンカでは「差別主義者」とまるっとまとめて呼ぶ。
これが大変恐ろしいと思いました。2回言っていたよ……。
ただ、思うのは、確かにアンカーウーマンが報道で伝えていたように「我が身可愛さに主張を曲げて生命時装置を得て水星で生きていく道を選んだ人」もいただろうけれども、そうではなくて「科学者のやり方に最後まで反発して、生命維持装置を手にしなかった人」もいたはず。
しかし彼女の報道ではそういう人たちについては全く触れられない。語られない。
「いなかったこと」にされている。
そしてそういう人たちは身体的懲罰が存在しない以上、記憶を漂白されて本当に「いなかったこと」になってしまったのだろう。
生命が保証されれば個人の尊厳はどうでもいいのだろうか。

いわゆる「夢を見る」形で、オバクは人の思考に入り込んで、不穏分子を見つけてはタルコフとともに適切な処理をする。
あるいは記憶を消されることもある。
身体的懲罰がない以上、これがもっとも重い罰になろう。
日本人として出てくるタオカが作中で2度も記憶を消される演出は重い。
うえくみが考える日本人像よ……まあ、わからんでもない。
記憶というのは個人の最たる尊厳の一つだろう。

記憶は、消そうと思って消せるものではないし、本人が望んだとしても消していいものではない。
私は劇場版の『ガンダムUC』でオードリーが「私のヴァイオリンをほめてくれたシャアはお前のような空っぽな人間でなかった」とフロンタルに言う場面が印象深いのですが、まさに記憶というのは、個人がその個人たる証であり、もっとも強い行動の理由になるのではないでしょうか。
アルベルトも敵であるけれどもマリーダに助けられる。そういう個人の思い出や記憶が個人を作る。
その「思い出」や「記憶」が決して、嬉しかったこと、楽しかったことでないのがつらいところですが、まあそういうものだと受け入れていくしかないのでしょう。
韓流がこれだけはやっている日本の若者の中で「嫌韓」のおじさまたちが受け入れられないのは、若者が韓流に救われた、元気をもらったというそういう記憶があるからではないか、と常々思っているわけです。
だから、文化の交流こそ世界平和のために必要なことだと個人的には思っているのですが、「同じ文化」を共有していたら、それもままならない……と、無理矢理『サパ』に話を戻しますね。
「ポルンカじゃ違いは罪だ」というオバクの冒頭の台詞は実に重い。

オバクが「02の自殺願望」に気が付いて、タルコフがルールを破って教えてくれた02の詳細、「俺たちなんか一生かかってもお目にかかれないすごいお嬢さん」ということを突き止めると、それまであまり乗り気でなかったのに、突然やる気になって、ベッドから立ち上がる場面がなんか好きです。
しかも「すごいお嬢さん」に自分だけは誘惑されない。
ノアに「あの小娘の誘惑に勝利した、その理性に」といって酒をおごりシーンがありますが、「あなたは負けたの?」「そもそも誘惑されていない」という場面は思わず吹き出してしまう。すねているのか。
何度見ても好きな場面です。

「総統府」が「パナプティコン」と呼ばれるのも実に皮肉が効いている。
訳すと「全展望監視システム」と出てきます。
倫理の授業で習った人が多いと思うのですが、功利主義者であるベンサムが考えた刑務所のシステムです。
犯罪者を常に見晴らせておけば、彼らは労働習慣を身に着けることができるだろう、ということで、円形になっているのが特徴です。
「監視システム」というのはまさにこの作品の一つのテーマであり、うえくみ先生が公演で話していた「相互監視社会」というのにもつながるでしょう。
ツイッター、インスタグラムといったSNSぐるなび食べログといった口コミが市民権を得た今の社会は悪く言えば確かに相互監視社会であり、とりあえず今は大きく悪用されていないように見えるだけ。
私たちもいつ、政府に監視されるようになるかわからないし、もうすでに監視されているかもしれない。
大逆事件のようなことが、この令和で、起こりうるかもしれない。
私はきっとポルンカでは何度も記憶を漂白される人間になるか、サパでレジスタンスの仲間入りするか、そういう生き方しかできないだろうなあ。

ところでうえくみ先生は銀髪のおかっぱおじいさんというキャラクターが好きなんでしょうかね。
『BADDY』のときも銀行の頭取がそうでしたし、今回もインタビューを受けていたおじさんはまさにそういう格好でした。
「お嬢さんには頑張ってもらいたいね」と答えていたおじさんは、地球での暮らしが長かっただろうに、水星での生活に満足しているのが少し不気味といえば不気味でした。

過去の自分を知るためにオバクはイエレナに近づきますが、近づき方が大人過ぎてびっくりするし、記憶がないのに「君は俺の身体のことを知り尽くしている」と気が付くオバクにもびっくりしちゃったよ。
イエレナはどんな気持ちだっただろう。かつて愛した人。しかし何もかも忘れている人。
もしかしたら対立するかもしれない人。
ノアがミレナを理解するために「1回寝てみたらよかったのに」というように、イエレナはちゃんと1回寝たんだね。大人だよ、あなたたち。そしてイエレナは華妃まいあちゃんに演じて欲しいなあと思いました。

総統は決して科学者が万能でないことを知っている。その証に「自分はいつか死ぬ」ということを受け入れている。
だからシステムを開発して娘であるミレナに、その子孫に受けつごうとする。
その総統でさえも「人間が一つになれば争いがなくなって幸せになる」と思ってしまう。
人類補完計画だな、と思う人は多かったと思うのですが、優秀な科学者でもそう考えるのは倫理観が欠けているからなのか、何なのか。

映像技術はとてもすばらしかったですね!
映画館にいるようでした。
宝塚でこういう映像にお目にかかる日がくるとは思わなかった。
1991年月組ベルサイユのばら』で映像が使われた時の批判を思うと成長に涙が出ます。

テウダはサパに来たミレナを気遣ってくれる数少ない人ですが、ミレナ自身もテウダにはわりと最初から心を開いているようにも見えるのは、ミレナに母親の記憶がないからでしょうか。
テウダは医者ではないけれども、男と寝ることで自分を傷つけているように見えているのは母親の勘なのか、人間の共感力を示すためなのか。
とにかくテウダがいい。息子の名前が一度も作中で呼ばれていないような気がするのが気がかりではあるのですが、最初から最後までテウダがとてもいい。
タルコフとのやりとりも素敵。タルコフはこの作品でもっとも観客が感情移入するキャラクターではないでしょうか。
オバクにもミレナにもちょっと感情移入しにくいからさ……w
タルコフは追いはぎに襲われたとき、「女だけ置いていけ」といわれて「どうぞ」と率先して言うにもかかわらず、ズーピンが「ついて来いよ!」といったときにはちょっと警戒して、ミレナを自分の後ろにしてかばう。
タルコフのこういうところが好きなんだよなあ。
貧乏くじを引く天才というか、本人はいたって真面目に生きているのだけれども、めちゃめちゃな周りに巻き込まれて貧乏くじを引くタイプというか、そんなキャラクターでしたね。
そういうキャラクターをユダヤ人と設定するところがまたニクイですね、うえくみ先生。
テウダの言う「シナゴーグ」はユダヤ教の会堂のことですが、宗教が一つにまとめられた以上、ポルンカには到底望めるはずのない建物ですね。

1泊200ポールというのがどれだけ高いのか、いまいちわからなかったですが、法外に高い違法ホテルにたまるのはサパへの巡礼者か犯罪者か。
どちらにせよ、まともに支払い能力もなさそうなのに、ホテルに滞在することを認めているキュリー夫人は口では激しいことをいうけれども、思いやりもあるのだろうなと思う。
そういう人は監視社会の中ではとても生きづらいのでしょう。
キュリー夫人は決してビジネスチャンスだけを求めて違法ホテルを経営しているのではないようにも思えました。

ミレナが男と次々と寝る場面はタンゴで表現されているのですが、このタンゴがまこれまたとてつもなくいい!
素敵!と思わず叫びたくなるような感じ。象徴しているものを考えるとアレですが、全く下品ではありません。
周りで踊っている人たちも素敵です。
特に娘役同士で組んでセンターで踊っているのがいい。
男役同士というのはあるけれども、娘役カップルというのは今まであまり見たことがないような気がします。

サパにたどり着いて、最初に追いはぎにあったとき、「女だけ置いていけ」と言われ、人が死に、血の匂いでミレナは頭痛を起こす。
この「女であるために無理矢理襲われそうになること」と「血の匂い」がミレナのトラウマを引き出すトリガーになっている。
ミレナがそれまでにどういう生活をしていたのかはわかりませんが、この2つはセットで彼女の身の回りはなかったことでしょう。
グリープのときもこの2つはセットでした。
戦争はかくも残酷である。戦争そのものを描かなくても戦争の醜さは描ける。
ミレナ(ニーナ)はギリギリ襲われそうになっただけかもしれませんが、ブコビッチの妻子は兵士に襲われていたでしょう。彼女たちを隠すセットと中から聞こえる悲鳴だけで描写としては十分です。
もっともレイプされそうになり、人を殺したことはともかく、その記憶を消されてもなお、それがトラウマになっていて次々と男と寝ていく女性をトップ娘役にやらせるうえくみの新しさよ……隣で見ていたお子さんは一体どういう気持ちであの場面を見ていたのだろう……と不安に思いますが、途中から飽きたのか、靴のマジックテープで遊んでいましたw

ミレナがトラウマを抱えているから、ノアが精神科医であることにも意味があるようい思います。
なんで精神科医なの? 外科医の方が役に立つのでは? と思うことは間違いないのですが、ミレナに対してオバクと違うアプローチができるのはやはり精神科医だからでしょう。
ところでデバイスへそのおは一体いくらくらいで売れるのでしょうかね。
ホテルの値段と比べてみたかった気もします。

1幕の終わりに「存在の寂しさ」とオバクはいいます。
それは素数ということにも関わってくるのでしょう。
1とそれ自身で割れない数、それが素数。だからとても「寂しい」数字、孤独な数字。
人間の孤独そのものだということだと思われます。
ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を思い出しました。

2幕。タマラは瀬戸花まりが演じますが、アンカーウーマンとダブルキャストというのが考えさせられます。
科学ジャーナリストであったタマラはブコビッチの「精神データを政府に提供する」という案に反対していたし、「このプロジェクトを強行するならあなたを告訴します」とまで言っている。
それが自分の務めであるというプライドもあっただろう。
それなのに、アンカーウーマンは総統万歳の偏見報道のキャスターを務める。
どんな思いで演じているのだろう。

ブコビッチは負けた側の人間で、水星へと向かう艦に乗っているのは金持ちか勝った人間。
同胞を置いてきたブコビッチの気持ちは計り知れない。それでも科学者としての務めを全うするし、最後には「人類を愛している」とまでいう。
ブコビッチは水星についてからというものの、「全体にとって都合の悪い攻撃的な思考を持つ者」の記憶を消してきたけれども、おそらく実験をのぞいて最初に記憶を消したであろうミレナの記憶を消したのは、「彼女にとってそれがつらいこと」だと判断したからであり、「人類愛」につながっているといえば、なるほどと思わなくもない。
ただ結局ミレナはそれを思い出したかった。自分を取り戻したかった。オバクも同じように。
ミレナ自身は「彼にとって都合の悪い記憶を消したのかも」「私の家族にも何かしたのかも」と思っていましたが、ミンナと融合したことで、実はそうでなかったことを知る。
父娘のすれ違いというやつですな。

どうでもいいですが、データを抜き去ろうとして、パソコンごと盗んでいこうとするのはなんだかアナログで、おもしろいですね。
パソコンが初代あいまっくに似ているのもウケルw
あっぷる社への憎しみを感じます。すばらしい。

オバクは「運命に飛び込んで望むものを獲れ」と言います。
そしてオバクとミレナは記憶を求めてサパのへそのおを目指す。
みんなで愉快に歩き続けるのは愉しかったですな。
曲はどこかで聞いたことがあるような気がしますが、思い出せず。
「君らの活動はこういう雰囲気で良かったのか」「ほっといて」のやりとりは何度見てもクスリと笑えます。

偏見満載報道が伝えるサパに遭難者がいる、というニュースもなんとなく居心地が悪いのは、スポークスマンが「サパで遭難している人は科学がなくて可哀想、心細いだろう」というひたすら上から目線だからんですよね。
いや、しどりゅーは良かったんですよ、本当に。
演技がうまいから背筋が凍るというか。

一時はイエレナと決裂して、別の方向に分かれるノアですが、結局イエレナを助けに来る。
もうちょっと時間が空いても良かったかなと思うけれども、限られているのでしかたがないですね。
「一緒にいてやろう、どんな地獄までも」「僕はどんな君であろうが、ともかく君を愛したんだから」とか熱烈な愛の告白ですよね。
とても宝塚を見ている気分になりました。

ミンナと一時は完全に融合したミレナが、一体どうやって接続を断ち切って総統を殺しに来たのだろう、という謎はあるのですが、総統を殺したミレナが、地球を出る直前に記憶を消されたときのミレナの服装であることが重いなと思いました。
着替えが間に合わない、とかそういう物理的なこともあるのかもしれませんが、やはり記憶を消さないでほしかった、あのとき記憶を消したあなたを殺す、というメッセージがあるのかな、と。
もちろん台詞の中に「倒産の寂しさはこれで終わる」「この星の憎しみを一人で引き受けてきた」とありますから、ミンナとの接続を断ち切ってやってきた「現在のミレナ」なのでしょうけれども、「過去のミレナ」の衣装で引き金を引いたのはとてもいい演出だなと。
そして「人は憎しみだけで殺すのではない」というのはいつでもどこでも使える台詞ではありませんが、例えば森鴎外の「高瀬舟」なんかを連想させます。

ミレナが総統を撃ったとき、オバクはまだ自分の過去の記憶やブコビッチの地球の記憶に苦しんでいたけれども、ミレナはミンナになったことで、自分のトラウマを克服して、総統の寂しさを知り、総統を撃つことを決意したのでしょう。
ミレナがとても立派でした。

私はどうやらラストが納得いかないようで。
ツイッターにも書きましたが、「カビの生えた民主主義」にテコ入れをして、新しい時代を「カビ」と共存しながらつくっていくトップスターを見たかった、今の時代だからこそ!と言ったら、トップコンビのファンには怒られてしないそうだなと思いつつ、どうしてもその想いが捨てられない。
旅立つことなんていつでもできる。ゼロスタートよりも「やり直す」ことのほうがずっと難しい。
だからポルンカにおいて、「やり直し」ができないと見なされた人たちの記憶は消される。
新しい人間として「旅立つ」ことを強制されるのだ。
新しい場所に行けばここにない何かがある、理想が実現できる、というのはまやかし以外の何物でもない。
そこに行っても、今いるところと同じように絶望があり、悲しみもある。
けれどもそれを見ようとせずに、旅たちに対してどこか楽観的なのが気になります。
それが記憶を漂白されてゼロからやり直す人と重なってなんとなくつらい。

ラストにはその「楽観さ」というか明るさのようなものが必要なのかもしれません。
古い地球の言葉でいえば「希望」ともいえるかもしれません。
けれども小学校だけで3つ通い、転校を余儀なくし続けた私が思うのは、理想郷なんてどこにもなくて、前の記憶を抱えたまま、どうにか修正していくよりほかに仕方がない。
憎しみや悲しみを抱えて生きていくしいかない、ということだ。
だから、ポルンカに残るのはトップ二人ではダメだったのかな、と思ってしまう。
別にミレナにオバクとの子供を作ってほしいわけではない。
子どもによって女を地上につなぎとめる演出はいかがなものかと思うから。
でもミレナは新しい水星でバリバリ働くキャリアウーマンだった。
それなのに、そこでの仕事を切り上げて、サパに乗る。
艦長としてではなく、おそらく副館長として。オバクの女として。
サパに乗ったミレナは、キュリー夫人のいう「恋とビジネスチャンス」の「恋」しか手に入れられないような気がする。それがとても寂しい。ミレナはオバクとくっつかなくても良かったのかなとも思う。歳の差は10歳くらいあるだろうし。でもノアがイエレナとくっつくのに、トップコンビがくっつかないのは宝塚としてはナシなのかな。

「困難が人々を結びつけることを願って」というのは、それはそうなんだけど、ちょっと都合よすぎない?と思っちゃうわけですね。
それは決して「違いと向き合っていること」にはならないと思うから。
しかしミレナとイエレナの「女同士の誓い」を宝塚で見ることができてよかった。
『愛聖女』でもこういうのをもっと全面に押し出してくれればよかったと思ったよ。

そもそも男はどうして旅に出たがるのだろう。
『CASANOVA』のときも思ったのですが、「ここではないどこか」に男は行きたがる。
作品のラストとしてはありがちなのですが、本当にそのラストでいいのかというのは多くのクリエイターに考えて欲しいところ。
日常生活では旅立てないことも多いだろうから。
最後、ノアは艦に乗らない。イエレナがいるから当然だとも思いますが、「ノアの方舟」から名前が来ているだろうことを考えると、新しい「ノア」像なのかな、とも。
中の人の「とあ」の音からとっているのかもしれませんが。

「サパのへそ」は決して「金色の砂漠」ではない。生きる希望と美しい地獄。
けれども両方生きたままではたどり着けない場所かもしれないけれども、心の宝箱にある大切なもの。
そういう軸がないと生きていくのは辛いでしょう。

ラストでは「ボンボヤージュ」「ハブアナイストリップ」などいわゆる地球のあらゆる言葉が飛び交っていたのが幸せでした。そこは本当に良かった。
テウダが息子だけを艦に乗せる演出も素敵だった。ズーピンと仲良くなっていたわ。

いわゆるミュージカルソングがなくて、主題歌もなくて、ショルダータイトルもなくて、ないない尽くしでしたが、新しい宝塚を見せてもらった気がします。
小劇場のノリですよね。宝塚の方が装置や舞台が華やかですが。
一昔前なら筧利夫羽野晶紀で上演されていたかもしれません。この2人ならラストはくっついていなさそう。

音楽はいわゆる宝塚っぽくないと思う人がいるのも納得で、ちょっと君が悪いという人もいますが、私は好きでした。世界観に合っていますし、あの不気味な感じが「人間は愚かな歴史を繰り返すぞ」という暗示にもなっているような気がします。
歌がないのは「歌劇団」としていいのかという人もいるでしょうが、これはこれで別箱の楽しみ方としてアリだなと思っています。歌、ひいては音楽は兵士が持たない「個人の思想」を持ちやすい、個の文化を形成しやすい、それはポルンカでは危険なのでしょう。
友人は歌がなくて寂しがっていましたがw

とにかく『サパ』は本日が梅田での千秋楽。
本当におめでとうございました。
水星は地球で蔓延しているウイルスとは無縁だと信じたいところです。
キャスト、スタッフのみなさま、本当にありがとうございました。
無事に完走できて良かったです。東京でも何事もないことを心から祈ります。

花組『はいからさんが通る』ライブ中継・第二幕感想

花組公演
はいからさんが通る

kageki.hankyu.co.jp

原作/大和 和紀「はいからさんが通る」(講談社KCDXデザート)
(c)大和 和紀/講談社
 脚本・演出/小柳 奈穂子


お前、いつの話しているんだよ……って感じですよね。
私もそう思います。
ちなみに一幕の振返はこちら。

yukiko221b.hatenablog.com

みなさんが安全に再び舞台に立てることを祈って、二幕の振返、行ってみよう。
前回同様、主な視点としては別箱との比較です。

幕開きモダンガールズ。超超超かわいかった。初演のときも代々大好きな場面だったから残ってくれてうれしいし、初演の環はしろきみちゃん(城妃美玲)だったからダンスガールが楽しめるし、今回の環はおとくりちゃん(音くり寿)だからソングガールが楽しめるし、本当においしい役だな、環!? 最高すぎます。
「自由とプライドを小脇に抱え~♪」って好きすぎる。
「亭主関白がいいなら他所へどうぞ~♪」の歌詞も好き。
お衣装は大正モダンで、下級生のモガがたくさん交ざっていて可愛かったよ^^
曲のラストでは環と高屋敷のやりとりもあり、にぎやかい。千秋楽は手をとってもらえるかな。

そしてその曲ので就職先を探している紅緒。
2幕のお衣装がゴールドのサテンブラウス、赤白ストライプの大きめの胸元リボン、ショート丈のグレーチェックのサロペットに赤いベレー帽という出で立ちで個人的には???という感じでした。
これはグレーのジャケット、臙脂のロングスカート、赤いベレー帽の初演のときの方が可愛かったような気がする……個人的な好みという話もあろうが、そもそもゴールドとグレーを合わせるだろうかという疑問もある。
思わず初演のときの舞台写真を買ってしまいそうだよ、ちなつ(鳳月杏)の編集長に抱き着いている紅緒さん。

紅緒が冗談社に向かうと明らかに怪しい毛布の塊から出てくる編集長。
というか、あの音で気が付かないの、すごいな。紅緒もすごい音を立てるな。
やっぱり一幕の「牛さん、あの人ヘンタイだよ」という蘭丸の台詞が削られたのはイタイなー(くどい)。
ここで編集長に「俺は徹底した男尊女卑だ。したがって女は雇わん。帰れ」と言われた紅緒は「ふぅん。要するに恐れているのね。女に仕事ができると男の権威が失墜すると思って。男尊女卑?!ちゃんちゃらおかしいわ。仕事の出来ない男だっているし、優秀な女性だっているわ。そういうことがわからない人に男尊女卑なんて言われたくないわよ!」という紅緒さんが力いっぱい反論して、編集長が「な、なんだと!?」とうろたえる場面がまるっとカットされてしまっていたのが……もう……残念で……涙が出る。しんどい。
この台詞、いるでしょう!?
こんなことを言ってのけてしまう紅緒は後から追加された台詞の「ノンポリ」ではいわゆるないかもしれない。
けれども、この言葉は紅緒の人と為りをよく示した言葉であって、削ってはいけない台詞だったと心の底から思うよ、私は……復活してくれないかな。
今回は、編集長の台詞のあと「さっきから聞いてれば…っ!」みたいなところで編集部員3人がやって来てしまい、紅緒の怒りが吸収されてしまう。この演出は本当に無理だ、私。ごめんなさい……だってあの台詞、そらでも言えるくらい大好きなんだもの。
もっとも逮捕されたときに「紅緒が反政府主義の思想なんてもってない」とは言いにくくなってしまうだろうし、ここに出てくる環の「そんな! 紅緒はノンポリよ?」という台詞ともいまいち整合性が取れなくなるような気もするのだけれども、そことの整合性よりも紅緒のキャラクターを優先させてほしかったなあ、なんてわがまま。
だってさ、あんまりでしょ、あの台詞のカットは……。あんまりだよ~!

編集部員は個性豊かになりましたね。
しかし売り上げ低迷の部分はちょっとくどかったかな。蛇足のような気もしました。
飛行船がやってきて、そこでの取材が入社試験になる紅緒は記者となった環と再会。
再会の演出も変わっていました。大道具の都合でしょう。舞台の幕前での芝居でした。せまい……。
環の「正式な声明がないのはロシアの意向ですか?」という台詞がなくなっていたのは残念。しょんぼりーぬ。
紅緒と再会した後の「冗談社っていったら、編集長がルドルフ・ヴァレンティノ並みのイケメンだって言うじゃない。今度紹介してよ」という台詞もカット。なんでやねーん!!!
ルドルフ・ヴァレンティノといえば、新見南吉同様胸囲が不足して軍事学校に入れず、銀幕のスターとして活躍するものの31歳という若さでこの世を去った超伝説の映画俳優じゃないですかー!
本当にイケメンだからみなさんもぜひ検索してみてください。
まあ、旦那曰く「もうルドルフ・ヴァレンティノなんて誰も知らないんだよ」と言われた。まじかよ。
面食い設定の環も本当に大好きだったのに。

ここで登場するミハイロフ侯爵のお衣装はふっさあ!という感じに変わりましたね。豪華。
いかにもロシアというファーが素敵です。よく似合っていらっしゃいます。
そしてまいてぃ鬼島登場。茶色のお衣装からずいぶん明るい黄色のお衣装になりましたね。まぶしいぜ。
3人で冗談社に戻ると、まさかの編集長はお着替えをしておりました。ちょ、まっ……!
紅緒さんでさえニ幕はほとんどあの赤いベレー帽つきのお衣装なのに、編集長はもうお着替え!?早くない!?と思いましたが、なんのその。
私は2着目のネイビーストライプのお衣装の方が好きなので問題ないです。結局そこw
断然こちらのお衣装の方が好みなのですが(ちなつはお着替えなかったなーやはり本劇場は違う)、思いのほか早くてびっくりしました。
そういえばキセルという小道具も増えましたね。シャンシャンの都合でしょうが。原作では確か吸ってなかったような。

冗談社にやってきた環に対して「うわ、すっげー美人!」という編集部員の台詞がカットされていたのは涙ものでした。その台詞は環のアイデンティティにもかかわることですのに……「思う人には思われず、思わぬ人には思われて」って一幕でも言っているじゃない!
環のキャラクター設定として必須じゃない!
しかも「すっげー美人」なのに「冗談社ももう少しましな編集部に引っ越せるんじゃないかしら」という「意外と毒舌」だから、環は環なのだよ。
前者の台詞がカットされた以上、後者の台詞のおもしろさや価値は半減なのでは……?と勝手に思ってしまった。
ほら、紅子も言っていたじゃないのよ、見た目と中身のギャップが大事だって。
本当、環って私が目指すところだわ。

なんとか雇ってもらえることになった紅緒。鬼島、環、編集部員はそれぞれ情報を集めてくれるそう。
そして編集室は紅緒と編集長だけになる。
掃除もまともにできない紅緒。さすがである。
そして日替わり標語。こういうのが舞台の醍醐味である。
どうでもいいですが、最初のお茶は一体誰に出そうとしたのでしょうか。
編集長の前、通り過ぎましたよね?
お茶を運ぶのに一生懸命すぎて、運ぶ相手である編集長が見えていなかったとか?
すごい視野の狭さだなw 剣術のときのことを思い出してwww
そうこうしているうちに須磨子さん登場。相変わらず美しい。お見合い写真の提示の仕方が変わりましたね。
須磨子さんがそれとなく客席に見せる演出よりも、初演の編集長と紅緒が「ちょwこれはw」と見ている演出の方がウケていたような。
コミカルさが全体的に減ったのかしら。
はいからさんが通る』はもともとラブコメですから、もっと笑わせてくれてもいいのですよ。
あ、でも笑うと声が出るからアレなのかな……演出変えたのかな……。

「将来を誓った人がいます。それはここにいる、花村紅緒さんです!」と紹介された後、紅緒がお茶を落とし、編集長の足にかかり、思わず「あつ…っ!」と。どんなお茶を飲まそうとしていたんだ。
今回はパパも登場。
「相変わらず、わがままに振り回されていますね、トーサン」「まあ、そこが可愛いところでもある」そう、なの……か? 
パパは本当にそれでいいのか?
編集長の「トーサン」というのがいかにも棒読みっぽくていい。
しかしあの弱気な感じのパパだと本人が望んで「貴族のお姫様を金で買った」というよりは青江の家がそれをつよーく望んでいたから仕方なく……というふうにも見えてしまう。漫画だともう少し強そう。
ママもパパも出て行ったあと、紅緒も出ていき、最後に紅緒が入れたお茶を飲む編集長がまたいいw
ただお茶を入れるだけなのに、一体どれほどまずかったんだw
すごい吹き出し方だった。

ミハイロフ夫婦を歓迎するパーティーでは、オペラ歌手による余興も増えましたね。よき。
そのあと藤の精。吉次さん、蘭丸、紅緒。
蘭丸との掛け合い「紅緒さん、逆逆!」「付け焼刃なんだから勘弁してよ!」はまるっとカット。しょぼん。
コミカル画面がまた一つカットされえてしまった。
「どうして俺までこんな格好を!」「特ダネのためだ!」という編集長と鬼島の掛け合いは残っていたのに、なぜ……。
去っていくミハイロフ侯爵夫妻を追って行く紅緒。
ラリサの台詞がちょっと変わりましたね。「紅緒さん、といいましたか。あなたはわたくしの夫を別の誰かと勘違いなさっているようですね」圧倒的な勝者の余裕ですな。
このあとまいてぃが売り楚から切りかかったことがっていだとなり、ミハイロフは少尉としての記憶を完全に思い出すのですが、その演技に磨きがかかっていたのが印象的でした。素敵!
再演はやっぱりこういうのがなくっちゃね~!

編集長の、なぜか紅緒にだけ伝わらない愛の告白の場面を経て、高屋敷のところで反政府文書が見つかる。
この演技は下手側で行われていて、舞台の真ん中でやるよりも不穏な雰囲気でよかったです。
そして上手では「紅緒が逮捕!?」「なんでも持っていた文書の中に反政府主義者のものが混じっていて」みたいなやりとりを編集部員、鬼島、環で。
ここで例の環の「そんな! 紅緒はノンポリよ!?」という台詞が追加。何度も言うが、ノンポリであるかどうかは相当怪しい。
初演のときは「花村がそんな思想をもっているはずがない」という編集長の台詞がありましたが、今回はそもそもここに編集長がおらず、次の場面ではすでにミハイロフと対峙。
あれ、鬼島に聞かずして、気が付いたのか……?何かを見逃したのかもしれない。要チェック。
ただ、ここがなくなったのは鬼島の「俺も、あのはいからさんを泣かせたくないからな」とカットするためだったかなとも思う。
紅緒と編集長の結婚式の時点で、環は鬼島と腕を組んでいたからな……。
個人的にはこれは初演の演出のほうが好きで。
と、いうのも漫画では、紅緒と編集長の結婚式のとき、たまたま鬼島に会って、キツイことを言ってしまった環が「どうして素直になれないんだろう」と思う場面があって、あのしっとりさがたまらなく好きだからなんだよね~!
だからそんなに早くくっつかなくてもいいのよ!
ちょっと蛇足なような気がするのは、原作の環が好きだからなんだよ。
大人になって、学生時代に繰り返し言っていたであろう「私たちは誰かに選ばれるのではなく、私たちが殿方を選ぶ」という理想が、とても現実には遠いことを知ってしまう、大人の階段を上る、そういう描写が丁寧なんだよなあ。
本当に原作漫画、お勧めです。
そんなわけで鬼島といちゃつくのは(もっとも原作では最後までいちゃつかない、番外編がある)本当に最後の最後でいいのよ。
鬼島が紅緒さんにちょっと惹かれる描写があってもいいじゃない>< ヒロインだし!

編集長と少尉の対峙。しかし思えばなぜ編集長はミハイロフが少尉と気が付いたのか?「鬼島軍曹から聞きましたか」という少尉の台詞から察すると、やはり編集長と鬼島の場面はあった方がよかったのではないか。
それはともかく、まあちょっとひやっとするような、背筋が凍るような場面。
この場面のラスト「零れ落ちた記憶のむくい、今こそ、この身であがなう~♪」のワンフレーズの歌がなくなっていたかな?代わりに紅緒と最初に会ったときに追加されたソロのバージョン違いの曲をワンフレーズ歌う。

ちなみに原作では、紅緒さん、獄中の中でも結構楽しくやっています。
このあたりがコメディだわ、本当。相変わらず酒乱を発揮しています(笑)

組長が! 組長が! 本物のワルです! あの杖、絶対サーベルだと思ったよね、思ったよ。
さらにその中に麻薬とか入っていても全く驚かないよ。
怖すぎるぜ~! 悪い役が板についていますぜ~! こういうきれいなおじさんの悪い役、本当によく似合う。好き。

ラリサと侯爵、紅緒と編集長の結婚式の場面は、初演では左右に分かれていましたが、今回は高さを使った演出で、前と後ろになっていましたね。これはよかった。
「来たな、恋人」「来ました」最高だな。初演の願いを叶えてくれてありがとう、なほたん。

地震&火事の中、紅緒を見つけるなり、水筒の水を口に入れて、紅緒に直接飲ませる少尉。
水筒はすぐに後ろに捨てられるのですが、わたしはあの水筒になりたいと思ったよ。
炎の中で再会する二人を特等席で眺めながら灰になりたいと思ったよ。ヘンタイですまん。
この演出追加はよかったー! すごくよかったー! 大満足!
無事に助け出された後、蘭丸の「紅緒さん、ごめん、僕、反対から逃げて」という台詞の追加はおもしろかったw
ウケていたし、まあいいでしょう。
前後しますが、編集長が炎の中に戻ろうとするとき、父親が「息子をあんな炎の中に行かせられるか!」と止めますが、そこで編集長は言ってやればよかったんですよ、「あなたは父親ではない」って。
外部版の『ロミジュリ』もあそこがしびれるんだらさ!などと勝手なことを思っていた。

少尉と編集長の一騎打ちを経て、編集長が立ち直り、(高屋敷の「こんなときだからこそ、言論の灯火を消してはいけない」というのはいつの時代も同じよねぇ……)紅緒と少尉の場面。
なんだよもう~! 見ているこっちが恥ずかしいじゃないか~!
後ろで見ているあの女学生にまざりたかった(無理です)。

フィナーレ。
あきらから始まります。THE男役というスタンダートな歌唱指導、ありがとうございます。
お衣装もよく似合っていました。

そこからモダンガールズ。
ほぼ女の子だけで構成されたダンスシーンに感動。
ひらめちゃん、くりすちゃん、りりかちゃん、うららちゃん、圧巻でした。すばらしい。

ラインダンスは「そうきたか!」という感じ。
近年まれにみる露出の少ないお衣装。
三段スカートは踊りにくかろう、胸元の大きなリボンはちと余分な気もするが、みんなはいからさんでした。
あわちゃんが可愛い。見つけられてよかった。

群舞は軍服ヴァージョンでした。
少尉はあの後、軍に復帰して、近衛隊に配属されるから、そのお衣装かな?とも思ったけれども、いくらなんでも派手すぎるな。
きっとロシアの銀色の雪景色をイメージしたのでしょう。音楽もラフマニノフでした。

デュエットダンスは最高でしたね。結婚式でしたね。おそろいの指輪とか! もう! 幸せになりなさいよ!
紅緒がちょっと先を歩いて、それを少尉がひきとめて、くるって、なんだよ……可愛いじゃないか……。
真っ白なのも素敵だし、華ちゃんがブーツなのも最高だわ。帽子もかわいかった。
溢れだす多幸感。ホント、そのまま結婚してください。頼む。

エトワールのくり寿ちゃん。とても素敵でした。最高だな。
みんなが自分のキャラクターに合った小物をシャンシャンの代わりに持って出てくる演出が素敵でした。
大階段で竹刀を振り回すヒロイン、最高だな。
まいてぃファンが生きているかどうか心底心配になるくらい胸の襟が開いていましたが、いかがでしょうか。
私でさえ、危なかったわ。

そんなわけで楽しかったです。ありがとう、宝塚。ありがとう楽天TV。
みなさんの安全と健康を心からお祈りいたします。

花組『はいからさんが通る』ライブ中継・第一幕感想

花組公演
ミュージカル浪漫『はいからさんが通る

kageki.hankyu.co.jp

原作/大和 和紀「はいからさんが通る」(講談社KCDXデザート)
(c)大和 和紀/講談社
脚本・演出/小柳 奈穂子


楽天TVさん、そしてその楽天TVさんに配信をお願いしてくれた宝塚の親元である阪急さん、本当にありがとうございます。
7月18日(土)、たいへん楽しくお家でライブビューイングしました。
そんなわけでようやくその感想です。
基本的には初演との比較になります。
記憶違いもいくつかあるかもしれませんが、手元に初演のプログラムがないので、ご了承ください。

それでは第一幕の振り返り、行ってみよう!

れいちゃん(柚香光)の開演アナウンス。
いつもとは異なり、「みなさまにお会いできる日を心待ちにしておりました」という一言が付け足され、もう涙が止まらない。
「えーい、やあ!という紅緒の大変意気のいい声から始まるところは同じ。
いいですね~この始まりは大好きだったので、変更なしでとても嬉しいです。
紅緒と蘭丸のやり取りはアニメでも好きだったなあ。
紅緒の衣装の矢絣は花の模様が以前よりも増えましたかね。前回は袖だけだったのが、身ごろの方にも。
自転車も出てきて、これでオープニング曲か!?と思いきや、高屋敷要登場。
この物語の語り手として新しく書き加えられている高屋敷の役割は園遊会のときも目立ちます。
園遊会ではその代わり環の位置が少し下がったかなと思われます。

そしてオープニング曲「大正浪漫恋歌」。
最高ですね。やっぱりこの主題歌、大好きやねん!と膝をうちながら見ました。
嘘です、号泣していました。タオルを1枚ダメにしました。
1番は変更なし。2番は蘭丸と共に環が登場、鬼島と共に高屋敷が登場、そして編集長が「哀しみの時にも~♪」と一人で登場。
さいっっっっっこうだな!!!!!
とにかくこのね、あすかとおとくりちゃんの100期コンビが可愛いので必見です。

そして少尉が花村家に向かう途中に紅緒と出会うのは同じですが、その前に少尉の美貌を強調するために、周りに女学生たちが周りでひそひそと。
ここの女学生のここちゃんがとても可愛いので必見です。
女学生たちはみんなかわいい。
もともとあった場面に台詞ややりとりが付け足されるというのは、なくても成立した場面ということもあり、ちょっと蛇足っぽくなってしまうのが難ですが、この場面は全く蛇足だと感じませんでした。
すばらしい。ぱちぱち。
「そこのけそこのけはいからさん♪」

そして紅緒が暴走自転車でやってきて、勝手に一人でこけるw
リボンが曲がっているのは同じですが、曲がっているリボンを直すために近づく距離が前よりぐっと近づいておりませんこと?
いやあ、この2年でれいちゃんと華ちゃん(華優希)の距離も近づいているのね~!
そのあと紅緒が去って、少尉のソロ「僕のはいからさん」が追加。これもよかった。

紅緒は学校で女学生にいじられているかと思いきや、真ん中ですでに首から「忘レ物」「遅刻」の木札を下げてバケツを持って立たされているという図。
他の女学生の前で先生にみっちりしぼられております。
ここの場面を舞台写真に選ぶ華ちゃんのセンスが大変好きです。
そうそう、紅緒はこうでなくっちゃね!
そこに環登場。「平塚らいてう先生もおっしゃっています。『原始、女性は太陽だった』と」
特に「私たちは殿方に選ばれるのではなく、私たちが殿方を選ぶ」という台詞は好きだったのカットされなくてよかったー!
おとくりちゃん(音くり寿)の環はいつか豹変するのでは? 裏切るのでは?と『蘭陵王』や『花より男子』で鍛えられたファンは疑惑をもってしまいますが、大丈夫です。
最後まで紅緒の味方です。ありがたや。頼もしい。

紅緒と少尉が再開。家の庭の大道具が豪華になりましたね。
竹刀で戦う紅緒が本格的になっていました。
なんせ華ちゃんはステイホーム中に自分で竹刀を買って(稽古よりもずっと重いらしい)自主稽古していたというのだからさすがです。
最後、少尉が紅緒から一本とるシーンではちょうどリボンをが落ちて、「あらあら」という感じが増して大変によろしうございました。
きっと偶然のできごとで、そういう演出ではないのだろうけれども、紅緒らしくてとても良かった。

紅緒と少尉の祖父母の話は別箱時とメンツが変わらなかったこともあり、磨きがかかっていました。
別箱のとき、この「瀬をはやみ~♪」は録音だったでしょうか。
うららちゃん(春妃うらら)の歌声が聴きたいなあ~。あ、フィナーレは最高でした。

家出先の浅草では芝居小屋のセットとお衣装が追加。
その隣で芝居の邪魔をするかのように牛五郎が自分の車の宣伝。
挙句、芝居の客に怒られてしまう。牛五郎の子分も追加された模様。
そこに紅緒と蘭丸が登場。
「私が結婚したくないって言ったら、それなら僕と駆け落ちしようって蘭丸が言ったんでしょ!」という台詞は「私が結婚したくないって言ったら、浅草のご贔屓がなんとかしてくれるって蘭丸が言ったんでしょ!」と変更。なるほど、御贔屓がなんとかしてくれるのか。
こちらもなんとかしてあげよう!という気持ちになりますね。
キャトルでいっぱい買い物をします。

紅緒と牛五郎の対決は真剣白刃取りめいた場面が追加され、そして失敗。
しかしこれはフラグに過ぎなかったことを、私たちはのちに知ることになる。
紅緒のオレンジのドレスが新調されましたが、水色のドレスの方が好みだったかなー。
紅緒と牛五郎がお酒を飲んでいるところに少尉と環が登場。
華ちゃんの酔っ払いの演技にグンと磨きがかかっていて、千鳥足は本当に千鳥だし、「目が据わっているよ!」という蘭丸の言葉通り、本当に目が据わっている。怖い。そこをアップで写すカメラワーク、最高かよ。
本来ならトップ娘役にさせる顔ではないのだろうけれども、紅緒さんはそういう人だよね!
そしてそれを体当たりで演じる華ちゃんが本当に素敵。
大暴れの紅緒の助っ人をそれとなくする少尉もきちんとカメラに収めていただき、恐悦至極。ありがたや。
ピピーと警官が来て、少尉にビンタされて、負われて逃げる紅緒。

伊集院家では執事とメイドがずらり。
執事とメイドの人数こそ増えて迫力が増したものの、社会的距離を考慮しているようで、空間があるような。
もっとも主役の二人はべったべたにくっついているけどね! そういう話だからね! しょうがねぇ!
紅緒の登場は自転車から人力車に変更。牛五郎の子分たちもついてくるよ。
選挙カーみたいに手を振っている紅緒さんが可愛い。
そして御前が登場。牛五郎の真剣白刃取り再び。そしてここでは成功する。
思えば『GOD OF STAR』でもあーちゃんが真剣白刃取りをやっているし、なほたん、好きなんだな。
伊集院伯爵夫人のあのかわいいおばあちゃん感がにじみ出ているのがさすが美穂圭子。すばらしい。

紅緒のソロ。「はいから極道」は別箱時よりもうんとうまくなっていて、みりおのところで花嫁修業した甲斐がありましたね……っ! さすがです! 発声から見直したと思われる。
しかもそこで銀橋を渡るのですね! もう最高じゃないですか。
もんぺのアンサンブルで少尉の壁ドンからそろーりそろりと逃げていく姿も可愛くて、そのもんぺのアンサンブルにも磨きがかかっています。しかしやはり歌声にかかっている磨きのほうがうんとすばらしいです。
本当に華ちゃんの成長が感じられるんだよね、特に一幕は。
ちなみに二幕は少尉(れいちゃん)の成長が感じられる。特に芝居で。

花嫁修業がしんどい紅緒。そりゃそうだ。
「先週も、先々週も、先々々週も浴衣の縫物」の宿題を忘れるくらいだからね、まあそうだよね。
「ごはん抜き!」と言われて、はらぺこ紅緒のところにサンドイッチを運ぶ少尉。
そして食べながら寝てしまって自分の肩に頭をもたれかけてくる紅緒にときめいてしまう少尉。
ちょっと肩がぴくんって動くんですよね。少尉の演技がすばらしい。
細かいからこういうのはきっと楽天TVでないと見られなかっただろうな。改めて感謝。

牛五郎が新聞を読みながら「米騒動」についてぶつぶつ。ちょっと台詞が増えましたね。
関東すみれ組再び。牛五郎の「さくら組」というボケは変わらなかったけれども、紅緒の「パンジー組」は「たんぽぽ組」というボケに変更。
頭にたんぽぽも咲いています。
より幼稚園児のクラス分けのようになりました。
ちなみにわたしは「さくら組」「すみれ組」だったことがあります。

園遊会では少尉と高屋敷のやりとりが圧倒的に増えて、環とのやりとりが減った。
「いつまで紅緒を引き留めておくつもり?」という台詞もなかったような。
高屋敷が環にメロメロなところはあったけれども。
新しく追加された高屋敷の台詞がちょっと説明みたいになっているのが残念かな。
まあひとこ(永久輝せあ)の出番を増やさざるを得なかったから仕方がないのでしょう。
そしてひとこが出ているのに、ハッピーエンドになる不思議。

園遊会のドレスも新しくなってしました。前回は水色でしたが、こちらはTHA娘役という感じのピンク。
階段を下りるときは、遠慮なくドレスの裾をあげて、周りからは小さい悲鳴が。そりゃそうだな。
ちなみに階段の大道具のセットも変わったのですが、前よりも段数が減ったのはちょっと残念だったかな。
でたらめに踊ろうとしているのか、でたらめにしか踊れないのか、とにかくでたらめな動きをする紅緒の手綱をとってきれいに踊る少尉がすばらしい。

紅緒がこける。「メイド風情がいいがかり?」「どうせ着馴れないドレスの裾でも踏んだんでしょ、お里が知れるわ」これは『花より男子』でも見たやつや。「静香さんのパーティーなのにカジュアルパーティーなわけないでしょ?」ってやつや。怖い。

蘭丸が皿を割って、さらに紅緒が9枚割って、御前に殺されかけたところ。
「見ていたならどうして止めてくれなかったの?」という台詞は「少尉、やっぱりここは私の居場所じゃないわ」と改変された。これはよかった。そのほうがしっくりくる。
「見ていたなら」ってそりゃ見ていたに決まっているだろwと思っていたから。
そうだよね、紅緒は伊集院家を自分の居場所だと感じられなかったんだよね、というのが伝わってきてよかった。

花村家に戻ってきた紅緒を母親の白い喪服と共に追い出す父親。
「そうだ、花之屋に行こう!」という場面はまるっとカット。これも賢明かと。芸者さんが出てくればわかるものね。
伊集院伯爵家でのやり取りもまるっとカットされていました。
紅緒が帰ってきた場面で台詞はちょっと合流していましたが。
芸者の数が増え、芸者の見せ場も増えましたね! これぞ宝塚って感じでした!
壬生義士伝』の銀橋ずらりといかないのは、やはりソーシャルディスタンスでしょうかね。
大道具が変わったために、動きも大分変わりましたね。

編集長が上手からこそこそと。芸者が増えたので、逃げ場がなくなっているw
吉次さんとのやりとりのあと紅緒にぶつかり「はっ!女!」蘭丸にぶつかり「また女!」からのべたっと触って「じゃない」までの流れはほとんど一緒でしたが、蘭丸の「牛さん、あの人変態だよ」って台詞はカットされていました。残念。

印念中佐が入ってきてからはガラっと雰囲気が悪くなっている。
「こちとら女郎じゃないんだよ」という啖呵の切り方がすばらしかった吉次さんへの仕打ちがひどい。
やめたげてー! そしてひたすらちゃんばらをする。
しかし少尉の格好良い出番は変更なし。さすが~! なほたんはこれがやりたいんでしょ~!
「まさか民間人5人かかりで一般人にしてやられた(わけじゃないでしょうね)」という台詞は変更されてしまいましたが(そもそも5人ではなく増えたからね)、そのまま少尉がおんぶして紅緒を家に連れて帰ります。
上手袖です。注目。

あれよあれよという間に少尉の小倉行きが決まり、木登りする紅緒。
真ん中の階段に登っていた演出が銀橋の演出に変更。
これは木登りだし、高さのある階段を使った演出の方が好きだったかなーと思いつつ、そのあとのデュエット「風の誓い」が銀橋であったのはとても良かった。すばらしかった。
そしてこの曲で再び号泣。呼吸困難に陥るかと思いました。しんどかった。

シベリアに来てからの場面は大幅に増えましたね。
兵士たちとちゃんばらケンカして、力が有り余っているのでございます!と部下をかばい、営倉行きを避けた少尉は、隊全体でシベリア行きを命じられたことが鬼島軍曹の語りで明らかになりますが、これも少々説明っぽいといえば説明っぽいですが、時間的に小倉の場面をつくるわけにもいかないので仕方がないのでしょう。
しかし何度も思うけれども、この「営倉行きになる部下をかばってひどい目に合う上司」って完全にオスカルとアランなんだよなあ。
多くの人はれいまいでオスカルとアンドレを!と思っていたようですが、月組涼風オスカルで育った私にはオスカルとアランなんですよね……華ちゃんのディアンヌって超絶可愛くないですかね、ダメですかね。

シベリアでの戦いのダンスも完全にバスティーユを連想させるのはわかる。
軍人が増えたので、余計にそう思うよね。わかる。
鬼島が銀橋で歌うの最高だし、もうここは本当に男役の見せ場!って感じ。THE男役!
戦いの場面の時間も長くなり、いよいよ鬼島をかばったー!

遺体のないまま少尉の葬式。
宝石や遺産をせびりにきた親戚たちの台詞が増加。
吉次さんに「この日陰者!」とののしり続ける人たちに環が言うはずの「あなたがたっ!」という台詞はカット。
なんてもったいない。
白い喪服の紅緒登場。いつ見ても凛々しい。

そうこうしているうちにラリサが少尉を発見。
下手袖から倒れている少尉がせりあがって来るよ!

大体4分ほど押して一幕終了。

花組『はいからさんが通る』ラリサについて

最近、ブログを更新していなかったことから「ねぇねぇそろそろ記事書かない?」とハテナさんからお便りをもらって、早数週間。
気がつけば今年も半年が過ぎ、結局6月には一度も記事を書くことができませんでした。
月日が過ぎるのは早いですね。
今日は七夕です。あいにくの雨ですが。きぃちゃん、お誕生日、おめでとうございます。

そんなわけで今回は、めでたくも7月17日から公演されることが決まった花組はいからさんが通る』に関して書きたいと思います。
初演は残念ながら見ることができませんでしたが、円盤発売は非常にありがたいことでした。
その上、本来なら3月13日に初日を迎えるはずだった公演のプログラムまで販売していただけるとは、本当に福利厚生の手厚いジャンルですね。
プログラム? もちろん買いました!
星組東京公演のプログラムの中身も変わるのでしょうね。
担当する方々には頭が下がります。

 

●問題提起
はいからさんが通る』と私の出会いは小学五年生のとき。
BSのアニメで放映されていたものを1話から見ました。
というか今でもあの1話の感想を鮮明に覚えているくらい当時の私にとっては衝撃的でした。
紅緒も環も素敵だった。とにかく明るく元気よく自らの信条に従って生きている女の子に憧れた。
環が先生に反論するところなんて痺れたね。
紅緒の袴に竹刀という出で立ちも格好良かった。
最終話まで見たものの、ラストの記憶は特になく、すぐに原作漫画も読んだけれども、当時の漫画の記憶もあまりないというのが正直なところ。

しかし大人になって読み返すと色々気がつくものですね。
冬星さんの色っぽさとか吉次さんの艶っぽさとか紅緒の着物の柄がへんてこであることとか……。
そういう中にラリサの切なさも入っています。
ラリサって、いわゆる紅緒の敵役みたいだ感じで出てきて、読者の印象は軒並み悪いのですが、大人になってから読むと、それだけではないよな、とラリサの事情にも思いを馳せることができるようになりました。

そういうわけで、ここでは、ラリサについて原作と宝塚版の比較をしたい。
もちろん宝塚版の、特に第2部は原作が大幅にカットされており、ラリサについての挿話も短くなっているが、話はそれだけではない。
結論から先に言うと、ラリサが少尉をサーシャと思い込んでいた時間は、原作に比べて宝塚版はだいぶ短いのではないか、ということである。
原作でも宝塚版でもラリサがいつ少尉をサーシャではないと確信したのかははっきりしていない。
だから鍵を握るのはラリサとサーシャの関係の密度ではないかと考える。
今回はここに注目して考えていく。

 

●原作のラリサとサーシャ
原作で、ラリサはサーシャと自分の関係について次のように語る。

「わたしとサーシャ=ミハイロフ公爵は幼なじみでした」
「サーシャはとても女の子に人気があって……」
「わたしはひそかにサーシャを愛していたもののひっこみじあんでそれをいいだすこともできなかった」
「けれどある日なにもできずにただみんなのうしろからながめていただけのわたしを……うれしかった……あのときは……」
「でも女の子に人気のありすぎたサーシャは結婚後もおちつかず出あるいてばかりいて……」
「ほんとうはそのときサーシャはたいほされた皇帝のご一家を外国に亡命させようと策をねっていたのでした」
「家族にも内密にして……」
「愛されていないと思った」

そうこうしているうちに皇帝が銃殺され、サーシャも追われる身となり、ラリサと母と3人でシベリアへ逃げる。しかし追手がせまり、サーシャは自分がおとりになって2人を逃がそうとする。

「サーシャは自分の命とひきかえに……わたしを……ふぶきの中にみえなくなった夫と……やがて空に消えた数発の銃声……」
「夫を愛していると……愛されていると知ったのはほんとうにこのいっしゅんでした」

ラリサはサーシャが亡くなったことを「数発の銃声」で知る。遺体は見ていない。
だからこそ、倒れている少尉を見たときにサーシャだと見間違えたのだろう。
「愛されている」と思ったのは「このいっしゅん」だったというのがなんとも切ない。

ここでラリサの言葉を以下のようにまとめる。

1ラリサとサーシャは幼なじみだった。
2サーシャは女の子に人気だった。
3サーシャは取り巻きの後ろから見ているだけの引っ込み思案のラリサを結婚相手に選んだ。
4しかしサーシャは結婚後も家に落ち着く様子はなかった。
5ラリサは愛されていないと思った。
6サーシャは実は皇帝一家の逃亡を企てていた。
7追われる身となったサーシャは自分をおとりにラリサと母を逃がした。
8銃声でサーシャが亡くなっただろうと思いを馳せる。

ラリサが「愛されていない」と思ったのは実は勘違いで、サーシャはラリサを愛しているからこそ、危険なことに巻き込まないように皇帝一家の逃亡についてはラリサに話をしなかった。
ここに二人のすれ違いがあり、深い愛情がある。
そしてあまり家にいつかず、結婚したもののサーシャと過ごす時間の少なかったラリサは倒れている少尉をサーシャだと思い込み、人違いだとわかってもなお看病を続けた。

この1~7の要素の中で宝塚版では削られた部分がある。
そのため、ラリサとサーシャの関係が少し原作とはおもむきが変わるのだ。

 

●宝塚版のラリサとサーシャ
宝塚版でラリサはサーシャについて次のように語る。

「私と夫は幼馴染でした。夫は貴族の息子で、私たちは一緒に育ちました。引っ込み思案な私にサーシャはいつも優しかった。サーシャの母親には昔別れた日本人の間に息子がいました。だから革命で赤軍に追われた私たちはその息子を頼って日本へ行こうとシベリアに逃げて、そこで我々はコサックに襲われて、母は……」

ここから、ラリサとサーシャは「幼馴染」で「一緒に育った」こと、加えてサーシャがラリサに「優しかった」ことがわかる。
つまり、ラリサとサーシャが相思相愛で、幸せな結婚生活を過ごしてきたらしいことが明かされるのだ。
もちろんこれはラリサが語るサーシャであって、紅緒たちの手前少し話を大きくしている可能性はあるが、ラリサの言葉を否定できる要素は作中にはない。
原作の1、3、7あたりはあるが、4、6の皇帝一家の逃亡を企てていたらしいくだりはない。
「優しかった」という言葉も加わって、5のようにラリサが「愛されていなかった」と思うこともどうやらなかったらしい。
時間短縮のための省略だったかもしれないが、ここで大きく解釈がわかれることになる。
ラリサとサーシャは幸せな生活を送っていたのだ。ここが決定的に原作と異なる点である。

もう一つ引用したいのはラリサと少尉が伊集院の家に移ってからの場面である。

「サーシャが赤軍に襲われてシベリアの大地で死んだとき、私の命も終わっていたんだわ」

母親がコサックに襲われたのに対して、サーシャは赤軍に襲われたという。
ロシア革命の歴史を踏まえると、ざっくり赤軍が革命軍(レーニン主導)、コサックは反革命軍(白軍)(貴族主導)とわけることができ、理由はわからないが、ラリサたちはどちらの組織からも襲われていることがわかる。
この中で生き延びて日本まで来たラリサは相当な強運の持ち主だが、注目したいのはラリサが「サーシャが死んだ」とはっきり述べている場面である。
いくら何でも目の前で殺されたということはないだろうが(ラリサがそれで逃げ切れるとは思わない)、ラリサにはサーシャがそこで「死んだ」と断言できる何かがあった。
だから、日本軍の制服を着て倒れている少尉を見て、「サーシャと似ている」と思うことはあっても、「本当はサーシャではない」と最初から知っていたのではなかったのではないか。

例えば原作同様に「銃声」の音だけでサーシャの死をラリサが悟っていたとしても、愛し愛されの関係であったラリサが、少尉をサーシャではないと気が付くのには、それほど時間はかからなかったのではないだろうか。
愛されていたからこそ、たくさんの時間を共有していたからこそ、別人であることにはおそらくすぐに気が付いたのではないだろうか。
少なくとも「愛されていなかった」と原作で思っているラリサよりはずっと早く別人であることに気が付いたと推測される。

皇帝一家逃亡の一件がなければサーシャが追われる身となる理由がないと思う人もあるかもしれないが、ロシア革命の当時は貴族であるというだけで襲われたことは『神々の土地』にも詳しいし、フランス革命でも似たようなものであったとヅカオタは知っている。
「貴族であるというだけで殺された」とマリーアンヌも語っている。

サーシャと仲良くしていたのに、そのうえ少尉までも奪うつもりかーー。
観客の多くは紅緒によりそい、そう思う。
こうして宝塚版のラリサは紅緒といっそう対立する位置にいるキャラクターになるのだ。
もっとも紅緒が対立するつもりがないのは、原作も宝塚版も同じである。

 

●結びに変えて
原作でのラリサは「赤軍からのあの逃亡生活が……わたしたちにとっていちばんしあわせなときだったのかもしれませんわね……」と少尉に言う。
それほどまでにサーシャは皇帝一家逃亡に真剣だったし、またラリサを巻き込むまいと心に決めていた。
原作のラリサは間違いなくサーシャに愛されていた。
しかしラリサはそれに気が付かなかった。気が付くのはむしろ難しかっただろうからラリサを責めることはできない。
だからこそ切ない。
この台詞は宝塚版にはなかったけれども、あったとしても言葉の重みが違っただろうことは想像に容易い。

原作のラリサは少尉をサーシャだと思い込んで看病する。
少尉が回復すれば夫人として隣に立つ。
今度こそ、やり直せる、やり直そうという決意がある。
たとえ、別人だったとしても……別人とわかっていても。
宝塚版では時間の関係やヒロインとの対立を際立たせるために描かれていなかった部分が、実はラリサという人物を知るための醍醐味ではなかろうかと思っている。
ぜひ、原作を読んで欲しい。