ゆきこの部屋

宝塚やミュージカル、映画など好きなものについて語るところ。

映画『灼熱の魂』感想

映画『灼熱の魂』

albatros-film.com

原作/ワジディ・ムアワッド
監督・脚本/ドゥニ・ヴィルヌーヴ

『約束の血』四部作の第二部にあたる『火事』の映画化。
三部作にあたる『森』(邦題『森 フォレ』)の舞台版を観劇。
こういうとき、なぜか都合良くパートナーが関連作品の円盤を持っていることが多い我が家(『桜嵐記』のときも大河ドラマ太平記』の円盤が出てきた)。
ちなみに『森 フォレ』の感想はこちら。

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舞台の『森 フォレ』を観劇したときも思ったのですが、「どうやったらこんなひどい話を思いつくんだ……」と呆然としてしまうような話です。そして原作者が男性であることが本当にすばらしい。日本人の男にこれは書けない(きっぱり)。
けれども、恐ろしいのはおそらくこれが完全にフィクションだとも言い切れないだろうということです。
いや、もちろんフィクションはフィクションなのだろうけれども、原作者がレバノン出身で、内戦から逃れるために故国を離れた亡命生活をしたことを考えれば、身近な人に取材したことも多くあろうということは簡単に想像できるわけですよ。
ナワルの人生はあまりにも劇的で、スリリングで、いかにも物語っぽいと思うかもしれないけれども、その片鱗にものすごくリアルを感じる人がきっといるのではないだろうか。
映画の最後の「祖母たちに捧ぐ」という一文は、祖母と同じ時代に生きた全ての女性の人生に思いを馳せずにはいられないのである。
「祖母たち」の悲痛な叫び声を凝縮するとナワルができあがるのだろう。これは決してフィクションなどではない。私たちの世界と地続きの悲劇だと強く思った。

男はいいのかよ、という声も聞こえてきそうですが、決してそういうわけではないけれども、『森 フォレ』舞台でもそうでしたが、女が中心の世界観だなと思わずにはいられない。
『約束の血』だからね、血を間違いなく・誤解なく継承できるのは、産む性である女であることは明らかだろう。
ジャンヌとシモンの双子は、父親が誰であれ、母親は間違いなくナワルである。
双子でもまずは女であるジャンヌが動く。
まだ見ぬ「父」と「兄」を探し出しなさい、という母の遺言を聞き、馬鹿馬鹿しいと思ったシモンをカナダに置いて、ジャンヌは一人で中東にまで行ってしまう。そこで彼女はたった1枚の写真をもとに、母の軌跡を辿ることになる。
それは数学者の師匠が背中を押してくれたこともあるけれども(この師匠がまた変人ですばらしい!)、やっぱりジャンヌの中で「このままではいけない」という思いがあったのだろう。
なかったら、他人に何を言われても動かないだろうし、柔軟に物事に対応できる一方で、内には芯の通った、言ってみれば頑固の要素が含まれている。
相反すると思われるこの二つがジャンヌの中に、そしてそれはもちろんナワルの中にもある。

ある日、ジャンヌとプールに行き、そのまま意識が混沌とし、突然還らぬ人となってしまったナワルは、有り体な言い方しか思いつかないけれども、すごい女性だ。
狭い村社会の中で、キリスト教徒でありながら、難民のイスラム教徒と恋に落ち、子供ができたことで駆け落ちまで実行するけれども、道中で相手はよりにもよって自分の家族(兄弟?)に殺されてしまう。
連れ戻されたものの、ナワルの一家は村の中で肩身の狭い思いをせざるを得なくなる。
祖母は「なんてことをしてくれたんだ」「私にお前を殺させるつもりか」と、問答無用で愛した男を殺した男家族とは違い、複雑な心境でナワルを責める。
「子供を産んだら、大学に行き、知識を身につけなさい」と言ってナワルを励ます。
狭い村社会から出るためには勉学が必要で、そのためにはこんなところにいてはいけない、街に出なければ、という祖母の思いは、彼女自身もそうしたかったけれども、できなかったのかもしれない、と思わせる。
あるいは気がついたときには大学に行けるような環境ではなかったのかもしれない。
現状を打破するためにはとにかく学問だ。これは今も昔も変わらない。お金や宝石は盗まれても、知識や思考は盗めやしない。
無事に男の子を産み、かかとに三点リーダのような入れ墨を入れ、孤児院に送り出す。
街に出て、大学ではフランス語を学ぶ傍ら、イスラム教徒の難民を徹底的に排除しようとする政治家(当然キリスト教徒)に対する反対の声をあげる新聞を作る。
取材をしている中で「でも、あなたもキリスト教徒でしょう?」と言われるナワルは「望むのは平和です」と答える。
政治家には見えていない世界が彼女には見えている。
とうとう紛争が内戦、戦争となる。大義名分を得たと言わんばかりにイスラム教徒を攻撃し、イスラム教徒側もまた武装する。
戦争から子供を救い出すため、ナワルは一人孤児院のある南部に向かう。
孤児院を訪ねると「男の子は別の場所に行った」と言われ、そこを訪ねると、もはや瓦礫の山。
たらい回しをされた挙げ句、子供の行方はわからず終い。
この道中で起こったことも悲惨だ。
イスラム教徒が乗ったバスにためらいも泣く銃を向ける兵士たち。挙げ句、ガソリンをまかれる。
このままでは死ぬと思ったナワルは「自分はキリスト教徒である」といいながら十字架を見せる。
そのときに一緒にいた母子のうち、子供の娘を「自分の娘も!」と言って助けだそうとする。
母親はヒジャブを被っていたから言い逃れできないけれども、せめて子供だけは……ナワルには子供の大切さがよくわかっているからこそ、せめて娘だけは助けたかったのだろう。
娘もナワルとともにガソリンまみれのバスから降りることに成功するが、娘が燃えるバスにむかって「ママー!」と叫んでしまったことにより、嘘が判明。
娘は燃える盛るバスに向かって走っている途中で、後ろから兵士に撃ち殺される。
ああ、なんて無力。火だるまになったバスを背景に、砂漠に座り込むナワルの姿が忘れられない。

ナワルは決心する。もうキリスト教徒もイスラム教徒も関係ない。この内戦を指揮している政治家がとにかく憎い。
あいつさえいなければ、愛する人は殺されなかったかもしれない。
あいつさえいなければ、自分の手で子供を育てることができたかもしれない。
あいつさえいなければ……その思い一つで、大学で勉強したフランス語を生かし、子供の家庭教師として家に潜りこむことに成功。
たった一人で、ナワルはたった一人で、国のトップの頭をふっとばした。
たくさん人を殺してきただろう兵士ではなく、人を殺したことなどなかっただろう、ナワルが。
当然ナワルは政治犯として捕まり、その刑はあまりにも長い15年。どんな拷問にも屈しなかったナワルは刑務所で歌っていたことから囚人番号72番ではなく「歌う女」と呼ばれるようになる。
文化って人の心を救うんだ……と思った場面でした。
東日本大震災のときも被災地では「ドラえもんの歌」や「アンパンマンの歌」がひたすらに歌われた、人々の心を励ましたというエピソードがありますが、うう……なんてこった、歌は現実を忘れさせてくれる、というよりも現実を相対化・客体化させてくれるのでしょう。
どんな辛い拷問にも耐えるナワルの心の強さはどこから生まれるのだろう。
この期に及んでまだ息子に会えると思っていたのだろうか。私には信じられないほどの強さだった。
どうしたらそんなに強い気持ちでいられるのだろう。
そしてとうとう拷問の果てに子供が生まれる。しかも双子。それがカナダで平穏に暮らしていたジャンヌとシモンだった。
拷問人と囚人の間にできた子供は捨てられるのが掟なのか、助産に立ち会った看護師は秘密裏に双子を引き取り、育てる。
15年の刑期が終わってナワルを助けてくれたのはイスラム教徒のおえらいさんだった。
双子は生きている、亡命先に家と仕事を用意する、ここから離れて暮らしなさい、とナワルの平穏を願ったのはキリスト教徒ではなかった。
事実、ジャンヌがナワルの生まれ育った村を訪れたときも、ナワルの娘であるジャンヌは歓迎されなかった。
反対にシモンがイスラム教徒のキャンプに行くと、翌日にすぐに真相に辿り着くことができた。
ナワルはイスラム教徒にとっては英雄なのだ。

ジャンヌに「歌う女」について教えた学校の用務員のおじさん、いい味だしていたわ!と思う反面、母がまさかレイプされた経験があるなんて……と衝撃の収まらないジャンヌは、ここでようやく「シモンにも来て欲しい」と連絡を取る。
ジャンヌとシモンは母親が拷問人にレイプされて生まれた子供が、母の遺言にあたる「兄」だと考えていた。
まさか自分たちこそが拷問人を父親に持つ子供だとは夢にも思わなかった。
分娩に立ち会った看護師に出会うことで、双子は真実は知る。
ナワルは、かつて愛したイスラム教徒の男を、双子には父親と教えてきた。そしてすでに死んでいる、とも。
どんな思いで子供にそれを言い聞かせてきたのだろう。遠いカナダの地で。

印象に残るのは、「兄」の真実に辿り着いたシモンが「1+1=1なわけないよな?」とジャンヌに問う場面。
あまりにも残酷すぎる真実をありのまま伝えられないシモンが、数学者である姉に伝わるように考えた呪文の言葉は、誰もが想定し得ないものである。
けれどもジャンヌは、それだけでシモンの答えに辿り着く。「兄」と「父」は同一人物である、と。
そんな悲劇が、あるだろうか。

意識が混濁した日、プールでナワルはかかとに三点リーダの入れ墨をもつ男性を見つける。
半ば諦めていた息子の証だ。生きているという喜びと緊張。
ゆっくりと足下から顔を見上げる。その顔は、あのとき自分をレイプした、あの拷問人だった。絶望は深い。
そんな事実にぶち当たったら誰でも意識が混沌とするわな。そのまま還らぬ人になっちゃうわな。しんどい。
アブ・タレクはプールでナワルの顔を見ても気がつかない、彼女がナワルであることに。
遠い地で自分が拷問した人間の一人だとは夢にも思わない。
一人で国のトップを死に追い詰め、15年間の拷問を伴う刑期を終えた強さをもったナワルは、ここにはいない。
カナダで暮らすのに、その強さは要らないのだから当然だ。それでいい。人間の弱さを肯定することが平穏・平和の証や肯定になるはず。強くなくていい。
平和な世界で暮らす中、そんな強さ、もっていても仕方がない。だからガラガラと音を立てて何かが崩れる。
彼女の場合、生命がもろくも崩れ去って行ってしまった。ああ、舞台で見たかった。

宗教の問題は、教会で結婚式を挙げ、寺で葬儀を行う日本人には特にわかりにくい。見ている地平がそもそも違いすぎるから。
けれどもレバノンの情勢はいまだ安定しているとは言いがたく、これは本当に地続きの問題なのだと思い知らされる。
地球温暖化や新型感染症の問題がもはや一つの国だけでは解決できない今、こういう国とも協力する必要がある。
私たちには一体何ができるのだろう……と、書くと某ロックに参加したアーティストのように自分に酔っているみたいなんですが、まずは自分の国のトップをまともに決めるために選挙に行くことが何よりも大事に違いない。
グローバルな問題を解決するためにも、自分たちの国の代表がポンコツだと本当に恥をかくから。恥ずかしいから。
秋の衆議院議員選挙、覚えてろよ。

講演『パンとサーカスの危ない時代に』メモ3

2018年10月23日(火)
京都大学未来フォーラム第72回『パンとサーカスの危ない時代に』
講師:宝塚歌劇団演出家上田久美子氏

www.kyoto-u.ac.jp

メモ1とメモ2はこちら。大変遅くなりましたが、今回が最後です。

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これが『霧深きエルベのほとり』の一部です。
すごいですよね、手切れ金の札束で叩くって。
あれは本当にすばらしいから、今回もぜひ取り入れたいです。
なかなか今の私たちには思いつかないような世界観だなと思います。
最初にあった歌の目力すごくないですか。あんな目どうやったらできるのだろう。
今の時代の人ってできるのかな。できたらすばらしいと思う。
あれは一人ひとりの人間のエネルギーが高まらないとできないんだろうな。

昔のおばあちゃんたちの時代って鶏の毛をむしって食べていたりするじゃないですか。
この間も、海に近い九州の祖母のところに行ってきたのですが、「おばあちゃん、年取ったから何にもしてあげられない」と言いながら、ご近所からもらってきたはまちをがってもちあげて、すぱって頭を切り落として、さばいていて、解体ショーしていた。すごい! 95歳何もできなくて、このレベルか、と。
一人ひとりのポテンシャルが高かった時代の人間なんだな。
現代は、私は脚本だけをやります、僕はこれの開発だけをやります、という形で分業されている。
昔はそうではなかった。
おじいさんとおばあさんが一緒に麦刈りをしていると、前方に雉がいたことがあって。
雉にむかっておじいちゃんが鎌を投げて、それがちょうど雉に刺さってそのまますき焼きにして食べたという話もあります。
人間のスケール感が全然違う。
肉体的な大変さが人を強くしていくんだな、と常に思っていて、『エルベ』もそういう視点で観ていました。

これからの人々が、物語から何を得ていくことができるのか。
分業制の世界観で、物語は人々に何を提供できるのだろうと考えています。
『エルベ』もその答えの一つになるのではないかと思って、劇団に再演を掛け合いました。

今、私が思っている物語の働きは次の3つです。
「1 共感の拡張」「2 痛みの肯定」「3 悪の可視化」

1つ目の「共感の拡張」について。
共感しやすい身近な題材・立場、同じような時代ではなく、違う立場・価値に触れることで、自分の中に「人類の心」をつくっていくことではないかな、と。
自分の心に新しい場所を作っていく。これが物語を通してできることだと思います。
宝塚の往年の名作って、言ってみれば不倫が多いのですが、最近では「不倫は悪いことだ」「主人公が不倫することには共感できない」という感想が寄せられるようなんですね。
『あかねさす紫の花』は、二人の男の間で一人の女が揺れる動く、そういう人間の業を描いた作品で、定番の物語の構造だと思うのですが、「結局どっちが好きだったの?」みたいな感想になってしまう若者がいる。
ピュアワールドで生きていると、そうなってしまうのだろう。
自分と似ている人を見つける、同じ価値観の行動をする人を愛するというのは狭い意味での共感ではないだろうか。
本当は自分とは異なる他者の価値観にまで心を広げていくことが共感なのではないか。それがかつての共感だったように思う。
自分と似たような登場人物の人のことしかわからないというのはどうなんだろう。
それはインターネットの普及で自分と似た価値観の人とだけ交流したり、社会で許される幅が狭まりすぎたことが原因だろう。

人が物語を見るときって、きわめて個人的な個人が「私もそうする! わかるわかる!」「私だったらこうするのに~!」という登場人物と一体化するような見方ではなく、自分の中にある「人類としての心」で人間の愚かなところだったり汚いところだったりを見て、でも人間って愛しいな、おもしろいなと思うことが共鳴だったり共感だったりするのでは。
「人類の心」というのは、心の集合体で、今まで出会ってきた人、家族だったり、好きな人、嫌いな人、あるいは物語の中で出会った人なんかもたくさん入っている。
『エルベ』という作品は、愛想尽かしの話で、歌舞伎でよくある構造である。
いいところの武士の子息が芸者である自分に入れあげていて、でも彼は家に帰って立派に仇をとらなければならない、こんなことをしている場合ではない!というときに、わざとみんなの前で恥をかかせて、自分の好きな人を失望させて、自分のことを嫌わせて、身を引く、という構造です。
これから作品見る人には申し訳ないのですが、こちらの『エルベ』は男女が逆転している。
札束で殴っているのは、本当に怒っているのではない。
自分は彼女のことが好きで好きでしょうがないけれども、彼女に自分を嫌わせなければならない。
心で泣いて殴っている。いい場面。
ヒロインはお金持ちの令嬢で、自分は船乗り。彼女に苦労させたくないからあえて縁を切る。
高度経済成長期の日本人ってみんなそういう我慢をしていただろうから、価値観を共有して観客も泣いていた。
けれども、今のヒューマニズムでは「愛があればお金なんて」という考えになってしまう。
あの登場人物の心理の動きと今の時代の人の心の動きは違う。
じゃあこの物語を楽しめないかと言うと、そうではない。
なんとなく自分の祖父母たち、親の世代の人生と重ねたり、今も世界にいる貧しい人たちと姿を重ね合わせたりして、何かを感じることがあると思う。
そういうふうにしか生きられない世界もあるってわからせてくれる。

このように、人がなるべく共感しやすいだけではなく、多様な物語に触れて違った文化・価値観に触れる機会がたくさんあって欲しい。それがそのまま心を広げる機会にもつながる。
なぜそういうふうに思うのか。
地球上にはいろいろなたくさんの価値観・状況の人がたくさんいる。
本当に解決しなければならないグローバルな問題、根本の問題は、日本だけでは解決できない。
それに対して、いろいろな価値観に対して共感や理解ができないと、解決の方向むかわないのではないのか。
これはちょっと共感できないとかいうのは、むしろ逆の方向に行ってしまう。
共感を自分と似た種別を判別するという役割に使ってはいけない。
これが1つ目の「共感の拡張」の役割だと思っています。

物語の役割の2つ目は「痛みの肯定」です。
物語の中の痛みには、それが生きていたら誰にでも起こる痛みだよと教えてくれる。
もし、社会が無痛化しているのだとしているなら、「心が痛い」というのはタブー視されてしまう。
でも「心が痛い」というのは誰にでもあること。
それがあると人生の失敗だ、社会があってはならない、と考えてしまうと、痛みそのものよりも、その挫折のほうにダメージを受けてしまうのではないだろうか。
やはり物語などで描かれた痛みというものを知っておいて、それが現実に自分に降りかかったときに、自分を客観視できるようにならなくてはいけない。
「あの話よりも、自分はつらくない」と思えるように。私は結構こういうことがあって、だから精神的に強くみられる。
物語の中で痛みとか悲しみはすごく大切に描かれるような、人間たちがずっと昔から味わい続けてきた感情なんだとい価値を認めて、痛がっている自分を否定せずに、受け入れることができたら、傷は癒えると思います。
例えば、痛みを与えてくるような悪い人に出会ったとしても、本とかお話に出てくるような人が本当にいたんだなと思えるように。
ナチスの収容所体験を描いたフランクルの『夜と霧』の中でも、苦しみというものを客体化することがいかに人間の心を支えるかということがとてもよくわかる。
フランクルという人は、収容所にいても、自分が体験している極限的な状況は人間が体験する中でももっとも過酷な極限状態で、普通の状況ではないから、これをあとで本に書きたい。
だから、収容所の中でも、自分や他人の心理を観察を続けて、もし生きて帰ったら、これをどんなふうに分析して、どんなふうに名付けて、ということをずっと収容所で考えていた、といいます。
そうやって客体化していたことで、彼は生き残ることができた。これは強い。
やっぱり収容所の中なんかだと、精神的にやられてしまうと、物理的な命も早くに奪われてしまう。
いかに人間の感情というものを客観視できるか、それを慈しむことができるかということは心の支えになる。
宝塚でも、別のカンパニーの話ですが、ナチスに抑圧されたユダヤ人がたくさん出てくる芝居がありまして(雪組凱旋門』のことか。新人公演の演出を担当されていた)。
「私、あの亡命者の役、やってみたい」と言っていた生徒がいる。
役者たちは辛いことを舞台で表現しなければならない、自分もある程度辛くならなければならない。
自分を追い詰めなければならないから、そのため、進んではやりたがらないような役であるにもかかわらず、やってみたいという人いて。
「え、あれ毎日上演するの大変だよ?」
「そういう感情がどういう感情なのかわかりたい」
その体験は自分が生きている範囲ではできないから、その人たちの苦しみにたどり着けなくても、知りたいと言っていた生徒がいた。やっぱりそういう生徒は芝居がうまい。

3つ目は「悪の可視化」です。
人間は、悪というものを必ずもっている。どうしたって存在してしまうもの。
あってはならないといっても、いろいろな欲望や感情を飼い慣らしていかなければならない。
「悪はあってはならない」と目を逸らしていた方が独善的になってしまうのでは。
物語というものを通して、人間の中にある悪を表に掘り出して、みんなで触ってみて確認することが物語や演劇の役割。
人間の中の悪を結構ド派手に描いた歌舞伎の『女殺油地獄』や不倫や二股人間のどうしようもなさをえがたいたラブストーリーって結構あるじゃないですか。
デビルマン』(原作永井豪)ってお読みになったことありますか? 大学の授業ですすめられて私は読みました。
ベルイマンの『処女の泉』も、人間の醜い悪の部分をわざと描いて見せた。ある意味で、悪の告発と自戒物語です。
女殺油地獄』の男なんて、自分のことを思っている優しい奥さんをお金のために殺す。
ひどいことするなと思うんですけど、でもその男は最後にフェロモンを撒き散らしながら去っていく。
あれはなんなんだろうと思う。
本来、野生の生き物である私たちは心を抑えて生きている。
だから、時にはそういうものお日を当てて、埃を落としてあげなければならない。
ピュアになりすぎて、内なる悪の存在を自分にも他者にも許さないと、必要以上に傷つきやすくなる。
どうしたって存在しているものを、無視しようとすると、無理が生じる。
悪があることを認めて、観察して、その扱いをうまくなっていたったほうが賢明。
物語では悪の疑似体験できる。
世の中で実際に体験することがないぶん、物語や舞台で、具現化して目に見えるようにする。
心のバランスをとるために機能している。

以上が、私が物語に期待する3つの役割です。
娯楽や物語が目くらましのサーカスで終わらずに、何かの形で社会がバランスをとっていくための役割、ときにはブレーキを踏むための役割になっていってほしい。
本当にそんな役割があるかどうかはわからないけれども、私は、こういう仕事をする以上は、そういう志をもってやっていきたいと思う。

最後に原稿の終わりの部分を読みます。途中をすっとばしているので、ここだけ読んでもわからないかもしれませんが、これで締めくくりたいと思います。

<原稿の引用>
竜宮城にカエル前に
 今の社会の進む方向は、わかりやすい「悪」を排除したピュアワールドを目指す、という価値観だけを信じて他者にのそれを強要するという、客観性を欠いた状態に見える。ナチスのような歴史上での愚行は、それが善とかたく信じた者によってこそもたらされたことを忘れてはならない。自らを善だと信じるすぎる人間は危ない。
 私たちは、先の見えない時代に、本当の「悪」を見極め、自分たちの進むべき方向を懸命に考え続けるしかない。「悪」を目に触れない場所にしまい込んでピュア=無知に目先の快感だけを追い求めて、痛みもなければ真の情熱もないような、データの海に漂う「情報」のようになって一生を終えようとする衆愚に陥ってはならない。情報化によって私たち大衆が覇者となり国家も組織も私たちの顔色を伺う時代に、私たち大衆は、その力を間違って使わないために以前より賢明でなければならない。パンとサーカスに惑わされずに…(中略)
 都市で生きる我々は五感を使う機会が極端に減り、犯罪も肌で感じづらいものになった。
 人間という動物の心の健康のためには、強い痛みや悲しみを感じることと、強い愛情や感動を感じることが、バランスの良い食事のように、共に必要だろう。
 苦痛は辛く、時に生きる希望を失いそうになることもある。それでも、それらを「感じる」ということそのものがあってはならないことだと自分を責めずに、命の営みとして何とか受け入れてきちんと感じる過程を経たのちに、人間はいつかまた未来に向かって歩き出すのだろう。
<引用終わり>

ということで結びに変えたいと思います。
情報が中途半端ですので、インターネットで発信する場合は、原稿を確認していただいてツイートなりなんなりしていただけると嬉しいです。
あと来年の元旦より宝塚大劇場でお待ち申し上げておりますしています。
今月の29日のBSも忘れずにチェックいただきたいと思います。

最後に京都大学の学生へ。
私は学生時代は全く優秀ではなかったし、さきほど先生から「これあなたの卒論よ」と言われても「もういいです」って感じで、一生の汚辱……まず「メルロ・ポンティ」の表記が間違っている。
名前の書き方間違ってるよ、って卒業のときに言われるっていう。
どういしようもない学生で、講義にも出ていなくて、ヤマザキパン工場にばかりいて、いや、あれは本当に勉強になる。
あの当時「勝ち組」という言葉が流行っていて、自分が有利な人生を送りたいという利己心があった。
そういう気持ちで社会に出てしまって、ただ就職活動でも京大生って嫌煙されがちで。
正直なところ、京大に言った意味がわからなかった。
大学にもそれほど行っていなかったし、若干寝たきり生活に近いようなものだったし。
ただ、今になってみたら、こんな私であっても、物事を考える習慣は京大で教えてもらったんだなと思っています。
だからこそ、京大生を企業は嫌がったんだろうな、煙たかったんだろうな、となんとなく思う。
ごたごた考えたりて疑ったりする人ってちょっと扱いにくいから。
京大時代の友人は、みんな共通して当たり前とされていることを根本から考え直してみるという姿勢がある。
そういうことを日本で一番学べる場所なのではないか。感謝している。
こちらの大学に入学していなければ、脚本を書く仕事をしていなかったのではないかなとも思います。
社会についてごたごたと考える人は必要で、これからの社会だからこそ、そういう人が必要。
あんまりもうからないと思うんですけど、でも絶対に必要だと思う。
これからの京大生の活躍を期待します。
これで終わります。

Q 演出家を目指している人は何をしたらいいか?
A 帰宅部で、かつ寝たきり状態。大学の時はヤマザキパン工場のバイトしかしていないから答えにくい……。
とても役に立つのは海外のミュージカルや舞台など、言語がわかりずらいものを見ること。
言葉を聞いて理解できないから、物語の構造を楽しむしかなくなってくる。
おおまかにはたぶんこういう人間関係で、ここが切ないから、これは感動なんだなと自分で補完して、物語の構造に感動するしかなくなる。
能や狂言文楽とかも台詞で全部理解できないから、話が破綻していることもあるんだけど、お家の忠義のために子供を殺すってこいうこの構造にぐっとくるんだな、と。
構造に感動できるようになるというのが役に立つ。
そういう鍛錬をつむと、観光所の名所旧跡の立て看板の五行ぐらいでも、「ああ!」と武将に泣けてくる。
それで一本話ができる。

Q 演出家になろうときっかけを教えてください。
A 答えづらい質問で、そこまで夢をもっていたわけではないやりたかったというわけではない。
それまで就職して普通の会社の人事部にいたのが嫌すぎて、サラリーマン生活が向いていなさすぎて、違うことをしなければ!となったときに、いろいろな募集を探した。
伝統芸能はもともと好きで、当時、大阪国立文楽劇場とかお客さんがあんまり入っていなくて、もっと知ってもらって、保存をしていかなければならないと思っていて。事務からとかプロデュースとか裏方に応募した。
その一環で、宝塚の演出家もあり、一番受からないと思った宝塚だけが受かった。
すごく消極的な理由なんですけど……じゃあ、普通の会社で何が辛かったか。
バブル期ってすごいたくさんの人を募集してして、人が余っていた。実際に必要な事務職以上に人がいた。
その結果、必要のない仕事でもつくっておかないとその人たちが来て暇ってわけにはいかないから、手すさび的な「これをやっておけばお給料もらえるから」みたいな仕事の割合が多かった。
それこそ京大で「これはなんのためにあるのか」と深く考え込む習慣を京大で教えてもらってしまったせいで、「このテプラで背表紙をつくって貼る」という仕事になんの意味があるのか? なんで手書きじゃダメなのか?と思ってしまった。
だから転職したいと思った。

これで終わりです。ありがとうございました。

 

***

 

『fff』『桜嵐記』の観劇後に読むと、また味わい深いな……。

雪組『CITY HUNTER』『Fire Fever!』感想

雪組公演

kageki.hankyu.co.jp

ミュージカル『CITY HUNTER』-盗まれたXYZ-
原作/北条 司「シティーハンター」(C)北条司コアミックス 1985
脚本・演出/齋藤吉正

ショー オルケスタ『Fire Fever!』
作・演出/稲葉太地

初日、2日目とわりと好感をもった感想がツイッターのTLに流れてきたので、ちょっと油断していた。
そうだよ、初日はファンが見るものだから甘くなるんだよ……。いや、別に自分もファンですが。
役者が好きな人が見ると、ああいう感想になるのか。私は脚本重視の頭固いファンだからな。すいません。
そんなわけで絶賛ベースではないです。新しい咲ちゃん(彩風咲奈)、きわちゃん(朝月希和)のコンビが嫌いなのではなく、むしろとても期待している大型コンビなのですが、そのコンビのトップコンビお披露目公演がこれでええんかいって感じでモヤモヤが止まりません。
ヨシマサ……やってくれたな……。マジ修行してきて欲しい。
もっとも、ソワレ公演では、前の席の人の座高が高く、銀橋のセンター付近と舞台のセンターはほぼ全く見えなかったので、集中できなかったことも関係しているかもしれません。
まさか子供用のクッション借りるわけにもいかなかったからな……しかし、ああいうことがあると本当に入り込めない。

CITY HUNTER』はアニメの記憶はなく、原作の漫画を途中まで読んだくらいです。
行きつけの喫茶店に並んでいたから、というとお前いくつだよと思われるかもしれませんが、実家が駅前だったので、まあそういうこともあります。
途中もどこまで読んだかは記憶になく、とにかく最後まで読んではいないという程度の朧気なアレなのですが。
それにしたって品がないじゃないですか。
咲ちゃんの冴羽獠が娘役のお尻をタッチする演技をするたびに眉をひそめてしまったよ。
これで笑いはとれないだろう。おもしろくはないだろう。
それがなければ主人公を描けない、この作品を描けないというのなら、やはりこの作品は宝塚向きではなかったということなのではないでしょうか。
五輪の閉会式で宝塚が国に搾取された姿を見た翌日に観劇したこともあって、そりゃ辛かった(後述)。
香が100tハンマーで成敗してくれるからよい、というわけにはいけない。
冴子自身が自分の色気を武器にしているからよい、というわけにはいかない。
それって令和になってやる芝居かよ?って話です。

みちるちゃん(彩みちる)の冴子、とても冴子だったと思う、思うよ。
でもフェアリーであるはずのタカラジェンヌに、あんな身体のはらせかた、ある?
原作に寄せようと、一生懸命谷間作って、太ももに武器をつけて、それはとても涙ぐましい努力なんだけど、それって夢を見る場所でやることか?
これが終わったら月組に行ってしまうのに。大事な雪組の娘役なのに。そんなこと、させないでよ……と思ってしまった。
2階席からうっかり谷間が見えたときはラッキースケベとはとても思えなかったし、なんなら、その細い身体のどこからそんな肉をもってきているの……と別の心配をしてしまった。今回はいつになく男の観客も多かったしな……。
獠との関係は、この2人だから成り立つ関係なのは、充分にわかっている。
これがなければこの作品は描けないだろう。少年漫画なら『GS美神』あたりもそうだけど。
だからこそ、なんで宝塚でやったの?という気しかしない。
あー楽しかった^^で、私は終われなかった。コメディだからいいじゃんとはなれなかった。

ミック・エンジェルも、原作では相当助平野郎ですが、だいぶその影は薄くなっていました。
あーさ(朝美絢)のファンは救われたか?とも思いましたが、ショーではそんなことなかったね……(後述)。
チラシにあるブルーに黒のストライプのダブル、朱色のハンカチとネクタイ、柄付きのド派手なシャツという派手な出で立ちとグレーのチェックでベストも含めた三つ揃えに深緑のシャツの二種類の衣装。
ミックのシンボルである白スーツはなかったけれどもコートはロングで白でした。
スーツ大好きマンとしては今回、あーさのスーツをずっと見ていた感じがする。
特にグレーのチェックがお気に入り。早く舞台写真出ないかな。
「香と会うの、初めてじゃないの?」とか「飛行機、爆発しなくて良かったね!」とかいろいろありますが、「エンジェル・ダスト打たれなくて、本当によかった」につきます。
あとは獠と香のコンビが好き、という雰囲気がよく出ていたと思います。
ミックが出てくると、娘役ちゃんたちがたくさん出てくるので、本当に目が足りない。
足りないけれども、空港のクルーの娘役ちゃんズは初見で全員わかったから、私、やっぱり娘役が大好きなんだなと思いました。
あそこのともか(希良々うみ)ちゃん、ありすちゃん(有栖妃華)、くるみちゃん(莉奈くるみ)、はばまい(音彩唯)、とても可愛いです。大好きです。

ミックは登場の電話の場面も相当で好きです。
なにあの上着脱いだベスト姿。私、自分の夫にもベストを着させるくらいベスト大好きマンだから、ありゃぶったまげた。
しかも煙草持ってるし、かったるそうに電話してるし、最高。あれだけで元とったわ、って感じだった。あの場面だけ、ずっと見ていたい。
あとミックは、もう一つ、海原と獠の対峙場面で「僕は獠と取引したんだ~!」というところで声色が変わるのが超いい。
細かすぎて全然伝わらないと思うんだけど、これがめっちゃいい。
かつてのマクシムを励ますサンジュストを思い出す。
他にもいろいろアドリブをぶっ込んできていて、芝居に余裕があるなwという感じですね、あーさ。
カラコンもよかった。華ちゃんのメリーベルを思い出して泣きそうになったのは内緒です。

これは脚本に文句を言っても仕方がない芝居だと思うのですが、肝心の獠が海原を裏切る理由があんなことでいいのか……?と疑問には思う。
プログラムにはアルマ王女を「人質にして革命を成功させようとする海原に逆らって王女を逃した」とあるけれども、それだけで果たして育ての親の海原を、生きる術を教えてくれた海原を、獠は裏切るだろうか、というのはいまいちインパクトに欠けてしまうような気がいたしまする。
原作漫画では海原が獠にエンジェル・ダストを打ち、獠は人間兵器にされてしまう。
打っても死なないサイボーグと化した獠を救ったのが、たっちー(橘幸)が演じた教授なのですが、舞台だけだと教授がなんの専門分野の医者なのかはよくわからないですよね。麻薬も癌も診るのですか? ここはサパですか?
上記でちらりと書きましたが、漫画ではミックもこれを打たれて、ゾンビ化します。助かるけれども。
このあたりは原作を読んでいない方が話が通じるかもしれません。

一方で、最後に獠が香に渡した指輪の意味は、原作を知らないとわからない人が多いのではないでしょうか。
少なくとも原作では、香はあやな(綾凰華)が演じる槇村の本当の妹ではない。
槇村兄、最初で死んでしまうから出番の多さが心配だったけれども、幽霊&解説役としてたくさん出てきてくれてよかった……っ!
槇村父が追っていた事故死した犯人の娘が香で、父は彼女を引き取って娘として育てた。
20歳の誕生日に、香の本当の母親が残したという指輪とともに真実を打ち明ける予定だったけれども、その誕生日に槇村は将軍に殺されてしまう。
代わりにその役目を獠が追うことになった……のですが。
舞台だけ見ていたらわからないよなあ、と。渡すタイミングもまどろっこしいし。
そもそも上記の設定を舞台で本当に踏襲していたのかどうかも怪しい。
原作では、香自身も薄々「自分は本当の妹じゃないな」ということに気がついていて、それゆえの葛藤もあるはずなんだけど、舞台ではバッサリカット。
全部説明するイケコの『ポーの一族』もどうかと思ったけれども、こちらはあまりにも観客に丸投げすぎるだろうという感じ。
それがヨシマサだろう!と言われればそうだろうけれども、じゃあ原作ものやるなよ!とは思っちゃいますよね。
ブーケちゃん(花束ゆめ)演じる竜神さやかがなぜシティーハンターの手伝いもどきみたいなことをしているのか、舞台では全くわからないしな……原作の初めの方に出てくるので、気になる人は読んでもいいかもしれません。
獠がミックと香が乗っている(実は香は乗っていない?)飛行機を見ていたことも、おお?と思った。
飛行機事故で両親を亡くし、奇跡的に助かった設定は踏襲しているけれども、だから飛行機が苦手という設定は踏襲していない、のね……?

主題歌になっている「CITY HUNTER」はわかりやすく歌詞に「おまえはCITY HUNTER おまえこそ 俺こそ CITY HUNTER」とあります。
テニミュ』の「お前はまさしく テニスの王子様 ユー・アー・ザ・プリンス・オブ・テニス」と同じ匂いを感じます。
それでいいのか……アニメ原作だとそうなるのか……そんなわけで二次元ミュージカル好きな人には入りやすい入り口かもしれませんが、宝塚の初観劇はこの作品でいいのかと聞かれたら私は目を背けてしまう……。
だいきほのお披露目公演の方がよっぽどよかったよ><

まさかのキャッツ・アイの3人が出てくる場面もあったのですが。いや、オマージュっていうの? パロディ?
なんかあれも出したかっただけで、物語の筋には全然関係なくて、その並びがやりたかっただけだろ!って感じだから、しらけちゃって……いや、とても可愛かった。とても可愛かったことは間違いない。
なんなら、初スチールのともか、とてもよかったし、はおりん(羽織夕夏)もスチールだしてやれよ!と思ったくらいよかったよ。この3人の並びの舞台写真があるなら、欲しいよ。それくらいよかった。
でも話の筋とは全然関係なかった。関係ないならあの大事な場面で出す必要はあったのか……頭固くてすいません……。

あとヨシマサだし、台詞のあれやこれやは覚悟していたけれども、どうしても許せないのが「ブス」ってやつね、冒頭の。
タカラジェンヌに何、言わせているの? なんなの?
今すぐに変えて欲しい。円盤収録までには変えて欲しい。男役に言わせているからいいってもんじゃないからね。
なんで誰も気がつかないかな、ああいうこと。あと、あいみちゃん(愛すみれ)が自分から尻タッチさせられるのも耐えられん。
手直しして、何が悪かったか、根本的に考えるために修行の旅に出てきて欲しい。
そういうところが理系男子のノリなんだよな、と思ってしまう。理系のみなさん、すいません。

じゅんこさん(英真なおき)から急に変わったとは思えないはっちさん(夏美よう)の海原もよかったし、組長(奏乃はると)の警視総監も娘に甘いところがサイコーでしたね!
あすくん(久城あす)とまなはる(真那春人)は配役は逆かなー?と発表のときに思ったけれども、まなはるの将軍もよかった!
体格がいい方が、腕の武器が映えるのでしょうね。
どちらにしても悪役に変わりはなく、あすくんも嫌な悪い人でした(褒めてます)。
あとははいちゃん(眞ノ宮るい)も良かったですねー! これからまだまだ良くなっていくでしょう。
ああ、彼女に新人公演主演をやってもらうという方法はなかったのですか、劇団……っ!
あみちゃん(彩海せら)もよかった。副組長(千風カレン)とよく話し合って練り上げたんだろうな。
新人公演ではミックを演じるということで、チケットはないですが、こちらもまた楽しみ。
あみちゃんの「ジャパ~ン!」も聞きたいなあ……。
ひまりちゃん(野々花ひまり)は可愛かったけれども、ああいうキャラも宝塚ではあんまりみたくなかったかな……こちらも身体をはっていたことは認めますが。
野上次女・麗香を演じたともかは、役をせっかくもらったのに、登場はアレだけかい!というツッコミが入るし、何を生業にしている人なのか、初見ではわかりにくいでしょうね。もったいない。
新人公演は冴子ということで、これはこれで楽しみ……チケットないけど。
冴子とコンビを組んでいる織田のかりあん(星加梨杏)の情けなさ具合もよかったし、あがち(縣千)の海坊主もよくやっていたし、りさ(星南のぞみ)とのコンビもよかった。
りさ、これで退団で本当にいいのか?
ありすちゃんの高校生の制服にうさ耳は可愛かったな……可愛かったけれども、麗香と同じでせっかく役をもらったのに、あの出番の少なさでよかったのか?と疑問は残る。

お次はショー。
「コメディのノリは楽しいけれども、品のなさは絶望的だな!」と思いながら公演ランチを食べた後のファイヤーでフィーバーでした。熱い!
個人的にはオープニングの赤い衣装が全然ときめかなくて、「お、おう?」という入り口だったのですが(そもそもああいう体育会系のノリの人間ではないんですよね、私)、トップコンビの鳳凰はよかったです! ね!!!
きわちゃんのお衣装があまりにもゴツいので、「娘役さんらしくなくて可愛そう!」「もっと可愛いの着せてあげて!」という声もあるようですが、トップコンビと対等に渡り合っている感じが個人的にはよかったかな、と。
全部ああいうお衣装だったら私もそう思っただろうけれども、プロローグだけだし。
写真だけ見ると本当にきわちゃんが二番手にも見える。
娘役トップが二番手の役割をもこなせるってものすごーく強みだと思います。
他にも中詰のエスパニョーラの最初の場面を任されるのも彼女だし、デュエットダンスでトップさんと一緒に階段を降りてくるという演出もとてもよい。対等に渡り合っている。娘役が一歩後ろとかそういうことがない。
デュエットダンスで、咲ちゃんが歌った後、きわちゃんのソロもちゃんとある。本当にいいわ。
こういうのをガンガンやっていきましょう。格好いい娘役や。最高や。ともかも続くんやで!

ドン・ジョバンニはすでに物議を醸しておりますが、私もアレはまずいだろうと思っています。
もっとも『歌劇』の「座談会」を読んだ時点で嫌な予感はしていたんですよ。
でもさ、あれはね……『NZM』や『VERDAD』のコントもそうですが、どうしてこうマイノリティへの配慮が叫ばれている時代にああいうことが平気でできますかね。
稲葉先生にそういうイメージがなかったのも辛かった。
あーさのジョバンニは美しかったし、ドンナの娘役ちゃんもフィリアの娘役ちゃんもとても可愛かったけれども、夢夢しい白い輪っかのドレスを着たひげをつけた組長をオチに使ってはいけないでしょう。
タカラジェンヌをなんだと思っていやがる、とも思いました。
改案として、私が思いついたのは3つ。
1つ目は「お、おとこ~!?」という台詞を「ひ、ひげが濃~い!」にすること。
これでもまだグレーゾーンだと思いますが、ド直球よりはマシかな。
2つ目は組長の役を上級生娘役に変えて、圧倒的美女を手に入れて浮かれているジョバンニを彼女が成敗するというもの。
女性は女性の味方である。きたれ、シスターフッド
しかしこれは配役の問題もあるので、大劇場公演中は難しいかな……。
3つ目は、もはやジョバンニが成敗されないパターン。
銀橋から下手袖にジョバンニが入ったことに気がつかず、娘役ちゃんたちは花道へジョバンニを追いかけているつもりではけていく。
最後に袖から顔を出して、スポットあびて、ジョバンニあーさがてへぺろ!して終わる。
成敗されないからもやもやするけれどもね。
でもド素人の私がちょっと考えただけでも3つ浮かぶのだから、プロの方達にはもっと案をたくさん出してもらって、修正案を練りに練っていただきたい。
なんで芝居に引き続き、こういうので嫌な思いをしなければならないのか。
同じあーさがセンターの場面なら、『MRNS』のブエノスアイレスの場面が恋しいよ。ああいうのが良かったよ。

『デリシュー』にも男役がドレスを着る場面がありますが、あれはまた別だと思うのです。
男役がドレスを着ることで笑いが起こっているわけではなく、あれはキキちゃんの話術によるものが大きいと考えるからです。
というか、当然なんですけれども、ごく普通にきれいだったじゃないですか。
平均的な娘役さんよりもちょっと大きいかな?くらいで、高い声もお見事だったじゃないですか。
周りの貴婦人たちも滑稽ではあったけれども、でもあの巨大な王妃様をそばで支えられるのはやっぱり男役でしょう。
フォロワーさんが「そこだけ娘役だとコードがバグる」とおっしゃっていましたが、まさにその通り。
男役がドレスを着る、コメディの場面である、共通点はいくらもあるけれども、笑いのポイントが全然違う。
こちらも収録までにはなんとかならないかな……。

とはいえ、あーさは立派な2番手で、次のスーツにハットの場面も出てきます。
いや、本当に2番手って感じですね。出番の数もさることながら、立ち位置がすごくセンターよりになりましたわ。
パレードでは白い羽根も背負っておりましたし、めでたい限りです。
もっとも、2番手の白い羽根を背負ったからといって、油断できないのが今のご時世ですかね……。
ちょっと痩けたような気がするのが気になります。ご飯、食べて~! 痩せるにはまだ早い。トップスターになってからだ。

中詰のエスパニョーラで、ようやく気分が高まってきました。
きわちゃんセンターで始まるっていいわ。
娘役がセンターの場面なんて、他にもいくらもあるでしょう?と思うかもしれないけれども、今回は中詰という大きな場面の冒頭にあることがとても大事なのです。
お衣装も格好よかった。すごくよかった。
ただ、このショーは全体的に帽子の場面が多くて、2階席後方からだとあんまり顔が見えないかな……と。
エスパニョーラは途中でとってくれますが、続く71人ロケットでは、かぶり直してきますし。
もちろん男役さんの髪型とダルマとの相性だと思うんですけれども。
ただ男役さんも娘役さんも同じ帽子、同じ衣装だから、本当にオペラで個人を特定するのが大変でした。
いや、私は思っていたよりもあの71人ロケットにときめかなかったんですよ、本当にすいません。
むしろ、あとに出てくるあがちがセンターで下級生だけ(新人公演世代?)の場面の方がよほどたぎりましたね。
少人数で踊ったり歌ったりすることで下級生を認知したい私としては、人海戦術!みたいな場面はあんまりときめかないんでしょうね……それも宝塚の魅力ではあるのですが。

雪の場面は、きわちゃんが超キュートで、あやなちゃんが超スマートで、最高だった。
槇村兄妹よ……という感じでしたね。ここでは恋人の設定でしたが。マッチ売りの少女か?とか思ってすみません。
燃え尽きた少女の命を火の鳥が炎で包み込み、そこから宗教場面へと移り変わる。
火の鳥の場面もやっぱり衣装に魅力をいまいち見いだせず、男役さんと娘役さんがほとんど同じで(娘役は肩を出していましたね)、ひらひらも踊っているのに邪魔そうだな、くらいにしか思いませんでした。あ、石投げないで。すいません。

下級生ズの超楽しい場面は、あがちもはいちゃんもあみちゃんもかせきょー(華世京)も、ともかもはおりんもあやねちゃん(愛羽あやね)もみんなみんなよかったよ!
階段で咲ちゃんと上級生娘役ちゃんが待機していて、このドレスも下級生娘役ちゃんたちにも着て欲しかった……と思ったら、ちゃんとあーさがセンターになる場面ではドレスも着て登場!
そうだよ! そうこなくっちゃね! あーさがセンターだと本当に娘役ちゃんたちがたくさん出てくるな! 目が足りないわ!と思いました。
お懐かし『クラシカルビジュー』のお衣装でしたね。

下級生がぐんぐん育っていっているのを感じて、なるほど、新生雪組!という感じですね。とはいえ、ともかの歌手起用はもっとあってもいいと思うし(副組長もあいみちゃんも素敵ですが!)、みちるひまりりさあたりももっとガンガン使って、衣装にもちょっとアクセントつけてあげてもいいのに~!とは思いました。
ここにそらくん(和希そら)が入ると思うと、ますます目が足りない~!
雪組の男役で誰かが組替えするのかな、発表が怖いな……。
次回の大劇場公演の星組も原作ありですが、今回が「宝塚にしては品がない」ならば、あちらは「宝塚にしてはグロテスク」という話を聞いて、いまいちテンションが上がらない。愛ちゃんのラストなのに。
もっともその次の花組は超楽しみにしているんですけどね、バロックロック! クロノスケ! 声に出して読みたい日本語。
当て書きオリジナル脚本ってそれだけで偉大。演出家の先生たち、頼むよ!
『桜嵐記』のベクトルのような作品ばかりでなくて、もちろんいいけど(いろいろあった方が楽しい)、作品のレベルはここに合わせてくれていいんだからね!

***

さて、観劇前日に起こった、「まさか本当だったとは、五輪閉会式にタカラジェンヌ登場事件」ですが。
怒りで夜は眠れなくなりましたね。
公式からの発表もないし、タカラヅカニュースでも取り上げられていないので、劇団側もかなり慎重になっているのはわかりますが、あれはあんまりだった。
たかだた数分のために感染のリスクの高い東京に呼び寄せて、リハーサルのためにワクチンをキャンセルさせられたらしい生徒もいて、多様性を謳った五輪のくせに全員黒髪にさせられて、よりにもよってナショナリズムと一番関係の深い国家を歌わされて。
その国家が補助金を出さないから、こんな状況でも公演するしかなくて、生徒は外食もできず、家族とも会えないまま修行僧みたいな生活を強いられて。
去年の2月、演劇界の中でもまず宝塚を最初に叩いたくせに(おそらく女の集団だと思って見下している)。
戦中はレヴューの看板を下げさせて、その国家とやらのために慰問までさせられて。
言葉を選ばないで言うなら「くっそ腹立つ」。
無観客の閉会式。あきら(瀬戸かずや)が「この景色(観客のいない客席)をもう二度とタカラジェンヌが見ませんように」と言ってからまだ3ヶ月も経っていませんけど?
なんなら、中継でよくなかったですかね?
そしたら早着替えで、フランス国家でラインダンスも拝めたかもしれないで? なんなら怒りのロケットやろか?
宝塚にリスペクトがないから、公式の情報でも「宝塚のトップスターは袴姿での登場です」とわけのわからんこと書いているし。
トップスターは娘役含めたって6人しかおらんわ! 訂正もしないし。
あれだけのメンバー集めておいて、全然顔を写さなかったと言うし、名前のテロップもなかったようだし。
もっとも名前のテロップは聖火ランナーでさえなかったというから、やっぱり最低だよ、この五輪。
どうせ「未婚で」「従順な」「美しい女性」を並べたかっただけだろ、おっさんたちが自慢したかっただけだろ。
そういうのが透けて見えるんですよ。キショいんだよ。ばーか! ばーか!
ファンだったら喜べ!じゃねぇよ。こちとらファンだから怒っているんだよ。
これで感染者出たら、誰が責任とってくれるんだよ。
こちとら1人でも感染者が出たら公演中止してんだよ、どっかのガバガバな五輪と違ってよ!
都合のいいときだけかり出してくんじゃねえええええ!!!!! きえええええ!!!!
マジ、ホラ貝吹きたい。合戦始めたい。
これなら今年の『タカスペ』できるんじゃないの? ねえ! どうなの!?
宝塚独自の催しやセレモニーをあれだけ潰しておいて、これはやるの? 仕事だから? ちげーよ仕事だからリスク回避をしなきゃいけないの! てか、本業でさえないし! 本業休ませておいて、かり出すのかよ! 赤紙かよ!
劇団も阪急もタカラジェンヌを守ってはくれなかった。グロテスクなんだよ。早く自民党から補助金もらってこい。
これに関してOGが能天気な発信をしているのもつらい。おい、それでええんかいってなる。
出演させられた生徒が久しぶりに組の違う生徒と顔を合わせることができたことだけが救いだわ。
80年前のように政治利用されないでくれ……頼む……。

月組『桜嵐記』感想3

月組公演

kageki.hankyu.co.jp

ロマン・トラジック『桜嵐記(おうらんき)』
作・演出/上田久美子

感想1と2はこちら。

yukiko221b.hatenablog.com

yukiko221b.hatenablog.com

今回はBlu-rayが届いて、改めて考えた正行の言う「日の本の大きな流れ」について考えてみました。
感想というよりは考察に近いかもしれません。長いです。7000字超えています(白目)。

1、はじめに
月組公演『桜嵐記』において、物語の序盤で「己がなんのために戦うかを、知るために戦っております」と述べた主人公・楠木正行は、やがて「日の本の大きな流れ」のために戦うという答えを見つけ出す。
けれども、話の展開としてはいささか唐突に思えた人もいるのではないだろうか。
もっとも、トップスター・珠城りょうのサヨナラ公演であることを考慮すれば、この台詞は「宝塚の歴史」という「大きな流れ」に、トップスターとして名を刻むという事実につながるだろうことは、それほど想像するのは難しくない。
メタ要素満載の解釈だが、宝塚歌劇団はそれが許される場であるとも考える。
しかし、本当にメタ要素がなければこの「日の本の大きな流れ」は解釈できないのだろうか。

一方で、メタ要素なしで「日の本の大きな流れ」のために戦う、ということを考えると、ナショナリズムにつながってしまうことは容易に想像がつく。
実際に、後醍醐天皇のために命をかけて戦った楠木正成は、太平洋戦争中、天皇への忠義を示す理想の人物像として多くの人に共有された。
ただし、本作はその後醍醐天皇を殊更醜悪に描くことによって、作品全体がナショナリズムと結びつくことを見事に回避している。
『神々の土地』のラスプーチンに勝るとも劣らない怪演ぶりを披露した一樹千尋後醍醐天皇のために命を懸けて戦うことは、むしろ馬鹿らしくさえある。ナショナリズムもへったくれも、あったものではない。

だからこそ、メタ要素なしで「日の本の大きな流れ」を考えるときには、ナショナリズム以外の答えがあるのではないか。
作中には他にも、北畠親房が「帝のための働きはこの日の本に生かされし全ての者の勤め」と言う。
では、これは正行の考える「日の本」と同じなのだろうか。いや、違うものだろう。
ここには「帝がいるから国がある」という、ルイ14世の「朕は国家なり」ばりの思想が透けて見えるが、「誰も同じ人であろう」という正行が同じように考えているとは思えない。
さらに饗庭氏直は「今の日の本は、武士の力なしではたちゆかない」と言い、武士の優位性を語る。
しかしこれもまた、正行の見ている「日の本」ではなかろう。
そこで、今回は「日の本の大きな流れ」とは何なのか、改めて考える。


2、国の前に人がいる
大々的に問題提起しておきながらアレだが、正行の言う「日の本」は「人々の集まり」である、というのが私の考えだ。
「人々の集合体」「共同体」ともいえるだろう。ここで言う「大きな流れ」は「小さな流れ」の集合体なのだ。
正行は「一人では生きていけない人間が集まって暮らすことで共同体ができて、名も無き人が生きている時間の流れが国の礎になる」と考えているのではないだろうか。
「国ありき」ではなく、あくまで「人ありき」と考えていることに大きな特徴があり、親房との違いである。
以下にその理由を挙げる。

(A)演出
まず、正行が「日の本の大きな流れ」のために戦う、とずっと探していた戦う理由に気が付いたときの演出に着目したい。
作品の登場人物がほぼ全員出てきて、ぐるぐる上手側と下手側でそれぞれ円を描きながら、人によっては八の字に歩き回る。時代のうねりのようでもある。
これは、公家も武家も民も全部まとめて、こうした人々がいるからこそ国ができるという考えの反映ではなかろうか。
肝心の正行は、円から離れ、舞台の真ん中で苦悩し、煩悶する。
後醍醐天皇北畠親房後村上天皇、尊氏、師直といったあらゆる登場人物が彼に語りかけるが、それらは見事なまでに自分のことしか考えていない発言ばかりだ。
それに対して正行は「じゃあかしい!」と大きな声を出す。
続く台詞の中には「流れに飲まれ泣く民」「恨みに飲まれ死なんとする娘」に会ったことが語られるが、これはそれぞれジンベエと弁内侍のことだろう。
正行には国を形成する人間の「顔」が見えている。「個人」が特定できている。正成が助けた近在の百姓たちに正行たちは助けられる。個人の繋がりが信じられる作品になっているのだ。
その「個人」のために、もっといえば「個人」の幸福のために「国」が存在するはずだと信じているからこそ、正行は「大きな流れ」のために戦えるのだ。

(B)楠木の歌
作中に何度も登場する「楠木の歌」は、正成から連なる楠木一族を象徴するものである。
ここで注目する歌詞は「みんな木の下集まれば 地震 大雨 怖くない」の部分である。
「木」はもちろん楠木一族のメタファーであるが、この「みんな」というのがポイントだろう。
地震」「大雨」といった自然災害にも「みんな」で対処すれば「怖くない」と郎党たちは歌う。
人間は一人では生きていくことはできない。「みんな」で生きていくことが素朴に歌われている。
自然災害に対して「あいつは嫌いだから仲間外れにしよう」という発想はここにはない。
そもそもコンクリートのない時代、そんなことをしたら自分まで害を被るのは火を見るより明らかである。
ここでもやはり、人々がいるから国ができるという「人ありき」の意識が見え隠れしよう。
加えてこの歌は北朝軍を助けたときに初めて歌われ、敵軍でさえも「木の下」に集まる「みんな」の中に入っていることを示す。
ここで助けられた兵士たちが、物語りの終わりの方で、援軍に来たときにも歌われることから、敵軍であろうとも間違いなく兵士たちも「みんな」に入っているといえるだろう。
正行の回想の中で正成もこの歌を歌う。3人の子供を連れて賀名生に来たときのことだ。
ここで正成は「儂らは、あのように日がな野良で働かずとも、民の作った米を食う」「民がのう、この乾飯食わしてくれたんや」と言う。
人々がつながり合って生きていることを、正行は父親から身をもって教わっているのだ。
正成は「根っこ伸ばし 葉っぱ広げ」と歌う。何のためか。「みんな」を「木の下」に入れるため――つまり、より多くの人々を自然災害や戦の被害から守るためだ。
正儀は、父が「新しい世を作る夢持ったから」後醍醐天皇を助けたというが、それは必ずしも正成の考えと一致しているようではないし、自分が楠木の長になったことで、本人もそれを感じたことだろう。
以上のことから、正行の意識には、「人々が支え合って、助け合って、そのとき初めて共同体ができる。その共同体が国になる」という意識が間違いなくあるといえる。

(C)目の前の人間への思い
作品の中で正行の情けは常に具体的な目の前で苦しんでいる、悩んでいる人々に向けられる。
例えば、弁内侍に会ったときには「人を身分で分け、決めつけるあなたのお考え、某は肯いかねます」と言いながらも、彼女を吉野まで無事に送り届ける。
意見が違う相手を切り捨てず、助ける。
弁内侍が南朝の公家だから、という理由もあろうが、「誰も同じ人であろう」と言う正行は、たとえ相手が敵だったとしても、なんとか相手が無事にあるべきところに帰る手はずを整えたのではないだろうか。
さらに北朝の雑兵たちを助けるときも「食うに困り、刀を握ったこの百姓どもに、南朝北朝もない」と言い、人が生まれながらにして平等であることへの認識の深さを示す。
「血を怖がる」ジンベエが武士になりたいと言ったときも血を見ないで済まないように弁内侍の護衛役を任ずる。
「旦那のため働きたいから、武士になる!」というジンベエの言葉は、正行が「具体的な」「目の前の」「顔の分かる」「個人」のために戦っていることの写し鏡のようである。
正行は、南朝の勝利が村を焼くことや人々を死なせることにつながるなら、それを必ずしも望まないのだ。
人々が苦悩する、不幸になる、いがみ合う、そういう世界を正行は望まない。


3、他者を人扱いしない人たち
ここでは、正行とはうってかわって目の前の人間さえ横暴に扱う人々について見ていく。
あくまで自分が中心となり国や周囲の人間を動かそうとする人たちである。
作品にこういう人たちが出てくるからこそ、正行の思想・行動が引き立つ仕組みになっている。

(A)高師直
作品の中でキング・オブ・外道をまっしぐらな高師直。正行ともっとも対照的といえる人物だ。
帝の姪である祝子が直々に、震えながら参上し、お願い事を述べるのに対して、「裸身をさらしてみよ」という師直は、もはや人を人と扱わない最低野郎である。
師泰の登場退場を挟み、話が目前で震えている祝子に戻るかと思えば、そうではない。
話題は弁内侍がさらっていく。
自分のせいで恐怖におののいている女性を目の前に、騙して呼び寄せる他の女性の話をする。
もはや罪深いというよりは、ただの下衆野郎である。
楠木一族を訪問したときも、彼の百合を見つめる目つきはひたすらにいやらしい。
ただでさえ百合は父親が南朝を裏切ったことで苦悩し、正時との将来について涙なしでは考えられない状態であるにもかかわらず、さらにセクハラ野郎に下心のある視線をむけられたらたまったものではない。
このように師直は徹頭徹尾、女性を人扱いしない。
そんな師直に見えている「国の在り方」が正行と同じであるはずがない。
師直は尊氏に恩賞方の長に任じられる。「褒美を保証してやることこそが、全国の武士を将軍に従わせる礎となります」と言う。
つまり、彼の考える国には武士(男性)しかいない。
だからそれ以外の人間に対してことごとくひどい扱いができるのだ。
そんな彼が四条畷の合戦で正行と対峙しないのは、作品の構造上、当然といえるだろう(この作品のもっともひどいところで、もっとも優れているところだと考えている)。
大将同士の一騎打ちはドラマをしては盛り上がるが、そもそも師直は正行と対等ではないのだ。

(B)足利尊氏
上記の師直を恩賞方の長に任じる尊氏はどうだろうか。
彼が周りに侍らせている花一揆について、高兄弟は言及しない。
ちなみに、足利尊氏が主人公である大河ドラマ太平記』でさえも、存在はちらりと出てくるけれども、「花一揆」という言葉さえ出てこない。
これは、尊氏の美点にとって花一揆の存在が瑕になるからではないだろうか。
その花一揆について、作中で正儀は「尊氏が美しい若武者ばかり集めた」とあてつけのように言う上に、「嫌な気ィが漂うとる」とまで言う。
楠木三兄弟に会ったときも「美しゅう長じたものよ」と言う。
これは、師直の百合に対する「可愛い女房じゃのう」と何も変わらないのではないか。
もちろん師直の女性に対する好色との対比もあろうが、対象が若武者であれ、女性であれ、「人を区別する」という点において、尊氏と師直は変わらない。
そして、これは「誰も同じ人」と考える正行とはやはり対照的な態度なのだ。

(C)後醍醐天皇
後醍醐天皇の描き方はナショナリズムと決別するために醜悪であったことは冒頭で述べたが、日野俊基、高畠顕家、楠木正成の死に方を見てもなお「そちらの死は無駄にはならぬ」と言う。
いや、みんな無駄死にだっただろう、とツッコミを入れたくなる。
天皇である自分のために武士が死ぬことを何とも思っていないばかりか、当たり前かのように考えている。
まさに「朕は国家なり」ゆえの暴挙である。そして、後醍醐天皇の考える国には公家しかいないのだ。
作品の冒頭でも「政はすべて天皇に連なる公家が行うべきだ」と考えていたことが、老年の男性によって、語られる。
後醍醐天皇ははっきりと公家と武家を区別し、公家一統の世界を望んでいる。
この世界の中で正行を含む武家は、虐げられるばかりだ。
「褒美もない、武士が公家のために武士が働くんは当たり前」という状況は、当然武家の不満しか呼ばない。
後醍醐天皇が「誰も同じ人」と考える正行と同じ国の在り方を見ていないのは、もはや自明のことである。


4、弁内侍の場合
最後にヒロインである弁内侍について考える。
弁内侍は家族を武士に殺された過去がある。
家族を殺した武士をさぞ恨み、憎み、仇を討ちたいと思ったことだろう。
しかし、その憎悪は年月とともに醸成され、やがて武士個人ではなく、武士全体を憎むようになり、「武士など信じませぬ!」というにまで至る。
そこに高師直からの誘いの手紙がやってくる。
偽の手紙だとわかっていてわざとおびき出されたのは、相手が武士である。
しかも、相手が高師直という力のある武士であったことは、弁内侍にとってはむしろ幸運であっただろう。
師直が公家の女に寝床で殺されたとなれば、武士全体に動揺が走るのは間違いない。
たとえ自分が殺されることになったとしても、弁内侍にとって、武士全体を揺るがすことができることは、そのまま武士への復讐となる。
彼女は牛車の中では武士への憎しみを煮詰め、師直に与える渾身の一撃を何度もシミュレーションしたことだろう。
このように、登場時の弁内侍には個人が見えていない。あるのはただひたすらに武士への恨みだけだ。

けれども、正行と過ごすうちに純度の100%の憎悪は次第に溶解されていく。
最終的には武士である正行との結婚まで夢見るようになり、帝や中宮の前で今までのとげとげしい態度が嘘のように「…は」と蚊の鳴くようなはかない声で返事をするにまで至る。
正行を「武士」というくくりでなく、「個人」として認識した証だろう。
正行が考えた「日の本の大きな流れ」の一人であった弁内侍は、自身もまた、正行を個人として認めたのである。
さらに、これは少しこじつけがすぎるような気もするが、妙意輪寺の庭で「こんな花は、無数の命が燃え立つように見えます」という弁内侍の台詞は、一人ひとりの命で世界が成り立っていることを意識しているようにも見える。
それに対して正行は「美しい春よのう」と答える。
「国」が「無数の命」によって成立しているのと同じように、「美しい春」は「無数の花」によって成立しているのだ。
これはどういうことか。つまり、弁内侍は正行と同じ世界を見ているということだろう。
ちなみに余談だが、Blu-rayのこの場面、弁内侍の最後の「はい」という返事の声の揺らぎ具合が、本当に見ている者の涙を誘います。あの返事、すごい。


5、おわりに
以上に見てきたように、「日の本の大きな流れ」はメタ要素だけで解釈できるものではないし、ナショナリズムや忠義、忠誠心と結びつくものではない。
人は一人では生きていけない。人として生きていくために他者と協働する必要がある。
人を区別せず、より多くの人と協力し、平和を目指そうとする正行にとって、「日の本」とは人間の集合体に他ならないのだ。楠木が南朝を見捨てたら、南朝北朝によって見るも無惨な形で惨殺、壊滅させられるだろう。「里を焼かず、民を死なせず」の語に集約されているように、正行にはそれができない。
目の前にいる、顔の分かる、具体的な、かけがえのない個人、その人たちが平穏に衣食住を全うすることが、正行の望む「日の本」である。
公家は公家として、武家武家として、民は民として、それぞれの違いはあるものの、争わず、無駄に死ぬことなく、慈しみ合って、支え合って生きる。「ジンベエ」のように文字の表記さえ歴史に残らないような民が、日の本を作っている意識が正行の中にはある。
自分が死ぬことでそれが実現できるなら、彼は喜んで自分の命を差し出すだろう。
もっとも、彼がいることによって慈しみを覚えた人間がいる以上、その選択肢は誤っているのだが、武士であるために正行はその運命を受け入れざるを得ない。なんという皮肉。

「顔の見えている具体的な個人」のかけがえのなさ、交換不可能性については『FLYING SAPA』でも上田先生は語っていたように思う。
辛く苦しい記憶を消すことで、その人は気持ちは一時は確かに楽になるかもしれない。
けれども、記憶というのは個人を形成する最たるものである。
それを消去するということは、思いやりなどではなく、はっきり言えば個人への破壊攻撃である。
自身の人格の形成に他者との思い出・経験は必須であり、それは他人が勝手に奪っていいものではないのだ。
ちなみに『FLYING SAPA』の感想はこちら。

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そもそも、この時代の一武将にとって、「世界」とはどれだけ広かったのだろう。
武士の教養がどこまで及んでいたかわからないが、『今昔物語集』にはインドの話がある。
鎌倉時代には元寇があり、武将の間でも中国やモンゴルの存在はすでに明らかになっていた。
しかし、四条畷の戦いは1348年、1492年にコロンブスが周知したアメリカ大陸の存在は、当然知らなかっただろう。
今のように、インターネットで検索すればすぐに世界地図が出てくるような時代ではない。
国は確かに「目に見える人間」で構成することができた時代なのだろう。
古語の「しる」には「領地を治める」という意味があるが、これは「領主が自分の足で見て回って知ることができる範囲=自分が収めている土地」だったからである。

とすると、世界の全貌が明らかになった現代こそ、「みんな」で、「みんな」が平穏に暮らすための共同体を作っていくことは、かなり難易度が高いのではないか。
自分が会ったこともなければ、行ったこともない土地にも、自分と同じように生きている人がいる。
そこに暮らす人々は自分とは違う価値観を有している可能性がある。
けれどもその違いを否定してしまうと「流れは暴れてし、多くの者を飲みこんでしまう」。
現代ならば世界規模の戦争が起こってしまう。
だから、世界中の人々の協力・協働が不可欠であるが、「具体的」で「顔を知っている個人」と同じように「抽象的」で「顔も知らない、有ったこともない他人」のことを考えるのは、途方もなく難しいことだ。
難しいから、アメリカの価値観だけで世界を断じるグローバリゼーションなどという最低の枠組みが世界を覆いつくそうとしている。
アメリカの価値観を共有する者だけが、あたかも方舟に乗るかのように、「木の下」に集まって助かろうとするこの状況への警鐘が聞こえてくるような気がする。
近代になり、コンクリートによって人々は分断されてしまったにもかかわらず、世界の広さはますます露わになってしまった。
いっそ初めからお互いの存在など知らなかった方が、平穏に暮らせたかもしれない。
とはいえ、知ってしまった以上、無視できるものではないし、していいものでもない。
顔も知らない抽象的な他人のために、私たちはどれだけのことができるだろうか。
物語は正行に感動するように作られているけれども、自分は本当に公家サイド、武家サイドとは違う人間なのだろうか。顔の見える人間にさえ序列をつけてしまう人間ではないのだろうか。
『桜嵐記』は広い世界で「みんな」で生きていくことの難しさを物語っている作品なのかもしれない。

ちなみに。
『桜嵐記』の予習で見た大河ドラマ太平記』では、武田鉄矢扮する楠木正成は次のように言います。
「戦は大事なもののために戦うものと存じおり候。大事なもののために死するは負けとは申さぬものと心得おり候。それゆえ、勝ち目負け目の見境なく、ただ一心不乱に戦いをいたすのみで御座候」と尊氏に矢文を使わす。
「大事なもの」は、近くにいる、家族、友人、仲間、村人のことを指すのでしょう。
この作品では、正成もまた目に見える個人のために戦ったように見える。

ただ「何のために戦ったのか」というのは近代の病ともいえるかもしれません。何にでも理由を求めたがる。
もちろん作品の中では理由付けが必要だろう。
けれども実際に当時の人々はどれだけそれを考えていたのだろう、とふと疑問に思う。
平安時代にも「身をえうなきものに思ひなして」京から東国に旅する男がいるくらいですから、いわゆる「近代的自我」を古代の人間はもっていなかったというつもりはありませんし、南北朝のような戦乱の世に生きていたら、自問自答する機会も増えたの可能性もあろう。
武士の子は武士、農民の子は農民、共同体の中で人生が決められていることがごく普通だった時代に、それでも「自分は何者か」「自分はなにゆえ戦うのか」と問うのは、今よりもずっと難しいことだったかもしれない。

星組『マノン』感想

星組公演

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ミュージカル・ロマン『マノン』
原作/アベ・プレヴォ
脚本・演出/中村暁

いつの話しているの?という感じですよね。自分でもそう思います。
バウホールライブ配信しか見ていないのですが、いつの間にかKAAT公演まで終わっていて、自分でも驚いています。
手元にメモは残っていたものの、記事にするまでの情熱をあまり作品からもらえなかったということですかね。
そもそも再演するにしたって、なんでこの話を選んだの?というところからあんまりよくわかっていなくて。
愛ちゃん(愛月ひかる)の『不滅の棘』は再演だったけれども、映像でしか見たことがないけれども、とても感動したのに対して、こちらはなかなか感想記事を書くにまで至らなかったというのが本音でしょうか。
原作は有名ですが、未読。話の内容はなんとなく知っています。
まあ月組の『舞音』もあったからかな。あれも絶賛!という感じではないのですが、まあ景子先生の作品だと思ってみれば、なんとかというところですかね。
再演にしても、もっと他にいい脚本があったでしょうに。
もっとも最初はレスコーに振り回されていたロドリゴが、最終的にはレスコーを振り回す側に立場が逆転するのはおもしろいと思っています。しかしそれにしてももっと書きようがあるでしょう。

出会ってすぐにロドリゴとマノンは恋に落ちる。まあ、それはいい。
けれども、なんか薄っぺらいんですよね。情熱だけが先走りすぎていて、言葉が足りないというか。
脚本に台詞がなりないのはA先生の悪いくせだと思うのですが、今回はそれをとても感じてしまって、ライブ配信だったこともあり勢いにもっていかれる、ということもなく、ただ淡々と話が進んでいっただけのように思います。
愛ちゃんはよく似合う衣装が多かった一方(苦悩に満ちた顔も最高だったな、愛ちゃん)、くらっち(有沙瞳)のドレスが、ことごとく微妙だったのも残念でした。
一番似合っていたのはラストの囚人服だと思います。
私のツイッターのタイムラインでは、あの囚人服の場面について「一番似合っている」という意見はおおむね一致していたのですが、「とうとうマノンは改心したのね、清貧な美しさが際立つ……っ!」という意見と「言うて、またお金があったらどうせ贅沢はやめられないんだろう!」という意見にわかれていて、なるほどおもしろいと思いました。
個人的には後者です。贅沢は骨の髄までやってくる。そう簡単にやめられるわけがない。

プロローグのフラメンコはなかなかによかったのですが、例の「未来なんて君にやる。だから今を僕にくれ!」みたいな有名な台詞も私には全然刺さらなかったんですよね。
使われる場面も、ん?だったし、なんなら意味もちょっとよくわからないな、と。
なんならものすごく自分勝手な言葉に思えてしまって、ときめくどころではなかったな。

マノンの兄・レスコーのかのんちゃん(天飛華音)はよかったですが、『エルベ』のヨーニーや『食聖』の新人公演主演を務めたからにはこれくらいはできるでしょう、という感じでした。
良い意味でも悪い意味でも期待通りというところかな。華のあるスターさんなので、これからまだ貪欲に頑張って欲しいです。
ただ、思ったよりも出番があって、後半はあれだけ舞台に居続けているのに、テンションを落とさないのは新しい発見でした。
「カジノの女神」の曲が作品の中で1番好きだったかな。

レスコーの恋人・エレーナの水乃ゆりちゃんはそろそろ限界なのかな……と思ってしまいました。
今までたくさんお役をもらって、チャンスをもらっているのに、いかんせん、芝居がうまくならないなという印象です。
歌が多少アレでも(『食聖』の新人公演の配役は正しかったのか?)、芝居はできないと個人的にはツライ。まあ今回は役として居所がなかったのもあるでしょう。蓮っ葉な感じが中途半端なのは脚本の問題でしょうし。とはいえね。
久しぶりに『龍の宮物語』も見たのですが、あれだけ清彦にべたべたしていたのに、白川さんの前では「特定の書生一人と特別なんて、考えられません」と言うようなことを言う。
あれも最初に見たときは、なんやねん!と思ったけれども、今思えば、令嬢が書生ごときと恋なんて……という世間体もあったのかもしれません。ただゆりちゃんの演技からいまいち私がうけとれなかっただけで。
華があり、すらっと身長も高いスターさんで、踊りはすばらしいと思うのですが、これから星組には詩ちづるちゃんも来ますし、どうなることやら。

あかさん(綺城ひか理)のミゲルは2番手というわりには役不足と感じてしまいましたが、ロドリゴをとめられない歌は絶品でしたし、上手に演じていたと思います。フィナーレがあってよかった!と心底思いましたよ。
同じく良かったのはアルフォンゾ公爵。朝水りょう、すばらしかったな~!
なんなら一番肩入れしたくなるキャラクターですよね。
ロドリゴと兄妹をぎゃふんと言わせたい気持ちはとてもよくわかる。
公爵を慰めるモブ女になりたい気分です。

そんなわけで『マノン』に関して言えば、私はいい客ではなかったと思います。
だから感想記事を書くのもどうしようかなーと思ったのですが、いい客ではなかった作品として残しておくことにも意味があろうと思い、筆を執りました。
次の大劇場作品も楽しめるかどうか不安ですが、見には行きます。ショーは楽しめるといいなあ。

外部『森 フォレ』感想

外部公演

setagaya-pt.jp

『森 フォレ』
作/ワジディ・ムワワド
翻訳/藤井慎太郎
演出/上村聡史

きっかけは成河が好きな友人が「行きませんか?」と誘ってくれたことでした。
たまたま行ける日にちであったので、とくに公演解説も読まずに「行きます」と返事。
返事をしたあと、どんな話かと公式ホームページを見たのですが、「なるほど、全くわからん」という状態になり……。
しかも4部作の3作品目ということで、1部と2部を見ていなくても大丈夫だろうかと頭を悩ませていたところ、なんと実は夫が見たかった芝居ということが発覚。まさかすぎる。
夫はどうしても仕事の都合でその日は行けず、しかも地元公演は1回しかなく、泣く泣く諦めていたということです。
なんでそういう話をもっと早くにしないんだ、と思いつつ、夫は1部の『炎 アンサンディ』の映画を見たことがあったようです。
芝居でナワルを麻美れいが演じたことを知って、「そりゃ見たかった」と感慨深く煙草のけむりをふかしておりました。
長年一緒に暮らしていても、案外知らないことは多いものです。

一緒に暮らしていてもわからないこと、知らないことがたくさんある。
いわんや血がつながっているだけで、一緒に暮らしていない親子同士がどうして互いについて多くを知ることができようか。
そういうことを感じました。
親に愛されなかった子供たちの物語といったところでしょうか。
別に愛してくれるのは血のつながった本当の親でなくてもいいと思うけれども、それは私が令和の時代を生きているからそう思えるのであって、かつてはそう思うことが容易でなかったことも想像がつきます。
子供の頃に愛されなかったという欠陥は、大人になってから別の誰かに愛されたとしても、なかなか乗り越えきれないところがあるのもわかるような気がします。

ルー(瀧本美織)は20歳とは思えない幼さで、今までどうやって生活してきたの?!と驚きますが、ルーの祖母であるリュス(麻美れい)も驚くほど幼い。
母はもう死んだとずっと前に聞かされたはずなのに、まだ母親が迎えに来てくれることを信じているよう。
そう考えると、冒頭に出て来たルーの母・エメ(栗田桃子)もどこか幼かったような気がしてきます。
3人とも母親に愛された記憶のない娘たちなんですよね。だからこの物語は女でないと成立しない物語。
女の産む力ってすごいのね……と改めて思いました。『1789』のソレイユの楽曲「世界を我が手に」を思い出しました。
一緒に暮らすことが愛することと必ずしも一致するわけではないけれども、そもそも一緒にも暮らしていなかったんですよね。
私自身は母親に愛された記憶はあるけれども、ちょっと歪んでいたかな、いわゆる毒親に近いものを感じていますし、もちろんそうならざるを得なかったクソな父親の存在もわかるのですが、今はもう自分が愛する夫を見つけたので、わりと心は平穏です。
だからといって子供時代をなかったことにはできないのですけれどもね。

8代にわたる大叙事詩
3時間40分はさすがにお尻が痛くて……(笑)。あんまりいい椅子でもなかったのがよくなかったです。
クッション性もそうですし、あとは椅子自体が低いというのがつらかった。
劇場自体は寒くなかったので、羽織りをお尻にしいていたくらいですが、焼け石に水程度でした。
この年にしては足腰弱すぎるのが難です。ジム通いとかしないといけないかな、やっぱり……。
エレベーターもエスカレーターもない職場だから、日々鍛えている方だとは思っているのですが、ダメのようです。

私が一番印象に残ったのは「家族」というものの考え方が男女で違うということです。
アレクサンドル(大鷹明良)は血がつながっているからアルベール(岡本健一)を可愛がるし、アルベールは血がつながっていないからエレーヌ(岡本玲)を恋人のように扱う。
でもサラ(前田亜季)は自分とも血がつながってはいるけれども、何よりも愛するサミュエル(岡本健一)の子だからリュスを可愛がるし、リュディヴィーヌ(松岡依都美)はサラの子だからリュスのを可愛がるし、リュスも孫としてというよりは一人の人間としてルーと対峙する。
男たちが血縁関係や体のつながりを大事にしているのに対して、女たちは約束や絆を大切にしている。
女は他人を無条件で信じられるけれども、男は何かがないと他人を信じられない。
この違いは本当におもしろい。
男にとって、自分が愛する女が生んだ子が本当に自分の子であるかどうか、確かめる術はない。
検査をすることはできるけれども、基本的には、相手の女を信じるよりほかに仕方がない。
だから血のつながりをことさら意識するのでしょう。
一方女は、相手がだれであれ、生まれてくる子供は間違いなく自分の子であり、自分が苦しんで、命を懸けて産んだ子どもである。血のつながりをはじめから問題にしない。
円地文子の小説『女面』にも似たようなことが出てきます。
主人公の女性は、愛する男ではない、別の男のもとに嫁ぐことになる。
そして最初に生まれて来た子供は愛する男の子供であり、「結婚相手への最大の復讐は自分の子供でない子供を、自分の子供だと思い込ませて暮らすことである」というようなことが語られます。
漫画『はいからさんが通る』の冬星さんのお父さんは自分の子供でないと知ったうえで可愛がりましたが、それでは復讐にはならないということなんですね。
あな、おそろしや。おすすめです。ぜひ多くの人に読んで欲しい小説です。
全ての男は女から生まれてくる。そう思うと、もっと女を大切にしろよな?と石をぶつけたくなるような人間は現実世界にたくさんいますね。

有り体な言い方になってしまいますが、リュヴィディーヌはサラのことを愛していたのだろう、と思いました。
インターセクシャル、つまり両性具有であることは語られていますが、性的指向については触れられていなかった気がします。
気がするけれども、サラの子を思うリュヴィディーヌは、やはりサラを愛していたのだと思います。
このあたりは漫画『セーラームーン』のはるかさんとみちるさん、あるいはドラマ『ラスト・フレンズ』の岸本瑠可(上野樹里)、藍田美知留(長澤まさみ)の関係を思い出させました。
先に無料配布していた人物関係図を見ていたので、1幕でリュスが母親の名前を「リュヴィディーヌ」と言ったとき、おやそんな小難しい名前だったかな?とも思いましたし、リュスの回想で、サラに会う場面を見たときも、「こりゃこっちが母親だな」と思ったので(前田亜季の演技がすばらしかった)、どこかのタイミングでサラとリュヴィディーヌが入れ替わったことは想像がついたし、レジスタンスなんかやっていれば、そうせざるを得ないこともあるだろうとは思えましたので、3幕は涙涙でしたね。
想像できていなかったら、涙よりも前に驚きが先んじて、泣くことができなかったと思われる。
もっとも、飛行士に預けるときになぜ母親の名前を「サラ」ではなく「リュヴィディーヌ」にしたのかはよくわからなかったのですが。
収容所送りになったサミュエルの子供だから殺される可能性があるのはわかりますが、「サラ」という名前はごくありふれていて、それだけでは判断はできないのではないでしょうか。

リュヴィディーヌのサラの子への愛情をちっとは見習ったらどうだと思うのは諸悪の根源アレクサンドルでしょうか。
お前が! 炭鉱の女と! 子供を作ったのが! そもそもいかんかったのだろう!と。
オデットも最後までアルベールには双子の父は明かしませんでした。
このあたりは、オデットのアレクサンドルへの強い復讐心を感じさせます。好き。
でも復習心だけでは幸せにはなれない。
だからこそアルベールがちゃんとオデットを愛さなければいけなかったのだろうけれども、よりにもよってどうして娘のエレーヌとあんなことになってしまったの……。
あれだけ嫌っていた父親の上着を着たのがいけなかったのでしょう。父親の魂を受け継いでしまったように見えました。
オデットがごく普通にアルベールに愛されていたら、こんな悲劇はなかったでしょうに。
こうなってしまった最初の段階で、オデットが実の父親をアルベールに伝えていたら、また違う展開になっていたかもしれませんが、それはそれで地獄でしかないような気もします。
だからアレクサンドルが諸悪の根源に見えてしまう。

最後にダグラスはルーにプレゼントを渡す。
ダグラスは「僕がもっと若かったら」というし、ルーも「私がもっと年くっていたら」といって、現段階ではお互いが恋愛感情で向き合うことはなさそうですが、でもそれもいいですよね。
男と女だからってくっつく必要はない。もっともこの二人はのちのちくっついてもおかしくなさそうですが。
問題はそのプレゼントで。
赤い上着をプレゼントする。黒い衣装だったルーには映える。「君の好みの色ではないかもしれないけれど」と言って渡される。
でもなー赤は結局血の色で、ダグラスが血のつながりを求めているように見えたのが、ちょっと個人的には難でした。
結局ダグラスも男じゃん……と思ってしまったのです。約束や絆ではつながれないのね……すんすん。
最後に降り注ぐ紙吹雪の色が赤なのは仕方ないのかな……カラフルとかでもいい気がしますが、ダメかな。
作品の中には子供、女性、精神異常者、怪物、両性具有者、とマイノリティや弱者が時の権力者(創建な男性)に虐げられ、一方的に搾取される場面が多く出てくる。
でもそういう人たちにも幸せになる権利はあるわけで。そのメッセージも込めて、多様性でカラフルでもよかったのではないかと思ってしまう。
あまりにも赤が強烈で鮮烈で。産まない自分が責められているような気がしてしまった。
もっともスペイン・ハプスブルク家じゃあるまいし、そんなに近親婚を続けていたら、そりゃ怪物も生まれるだろうし、両性具有者も生まれてくるだろうよ、という感じです。

基本的に成河と瀧本美織以外の役者は何役も兼ねていて、けれども、ちゃんと違いがわかって、演技の上手い人たちの集まりなんだなと感動しました。
やっぱり演技ができる人、芝居が上手な人が好きだな、私。
前から6列目という非常にいい席で観劇できたのもラッキーでした。友人に感謝しかない。
この手の芝居は当て書き脚本ができる宝塚でもなかなかやりにくいだろうけれども、私はこういう話も好きなんだよな。
たった1日だけだったけれども、地元に来てくれてありがとう。できればもう1回見たいかな。

タイトルにある「フォレ」はフランス語で「森」という意味だそうですが、人間関係の入り組みを森と表すだけなら、1部の『炎 アンサンディ』にも言えそうなことです。
私はむしろシェイクスピアの『マクベス』を思い出しました。
マクベスは、「森」が動き、「女から生まれたものではない者」に殺されるという展開が意味深い。
とはいえ、原作者の頭はどうなっているのでしょう。どうやったらこんな物語が思いつくのだろう。心底感心いたします。
1部や2部はどこかでお目にかかれないものだろうか。見てみたい。
とりあえず1部の映画から探してみることにします。

【追記】ラストの赤い紙吹雪は「運命の赤い糸」ということでいかがでしょうか。「生きることが苦しみでも、俺はお前という運命を愛するよ」というところで個人的には落ち着きました。

星組『VERDAD!!』感想

星組公演

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REY’S Special Show Time『VERDAD(ヴェルダッド)!!』—真実の音—
作・演出/藤井 大介

私はあんまりタカラジェンヌのコンサート形式の出し物は得意な方ではなくて、さらに言えば今回の会場のすぐ近くにあるらしい(こちらもまた興味がなさすぎて実際どれくらい近いのか、行ったこともなく、距離感がわからない)鼠の国も得意ではないので、ライブ配信とはいえ、あまりいい観客ではなかったかなと。
ただ、どうしてもなこ姫を見たくて、ひっとんに会いたくて配信を見たのですが、なんせひたすら目的が舞空瞳だったので「え、せおっちより紹介があとなの?」とか「え、1幕終わりでようやく紹介なの?」とか「え、人魚姫とアナ雪で同じ衣装なの?」とかとにかくそんなことばかりが気になってしまいました。すいません。白いドレスにティアラは最高に可愛かったです。
いや、大きな娘役のせおっち(瀬央ゆりや)もドレス姿が美しかったので、それはそれでよかったのですが、なんていうか、なこ姫が置いてけぼりすぎやしないか?と気になりました。娘役トップスターやで。
それでも琴ちゃん(礼真琴)に愛情ビーム送りまくりななこちゃんはすごいなあ……と、そんなところで感慨深くなってしまった。
どの目線なのか、もはや自分でもまるでわからない。

1幕は宝塚編。衣装はずっと白黒でした。
コンサート形式にしては珍しく、最初に黒燕尾。
円形の舞台にいきなり黒燕尾ってシュールだな、と。
新しくて良かったと思いますが、1幕の最初はやっぱり主題歌でも良かったかなとは思います。
2幕の冒頭で歌われる主題歌、どちらも良い曲でした。だからこそ、せめてどちらかだけでも1幕の冒頭でも良かったのではないかしらん、と思ってしまう。欲張りでごめんね、ダイスケ先生。
ただ、1幕にがっつり宝塚の曲を歌い繋いでくれるのはとても嬉しいのです。
星組88周年おめでとう!私の星組はとうあすが至高なので『アビヤント』はちょっと泣きそうになったし、懐かしい曲がいっぱいで嬉しかったなあ。
聞いていて、とても楽しかった。
みっきー(天寿光希)の『セマニフィーク』も聞けて良かった。やはりあの曲はテンション上がるわ。
なんなら、2幕もずっと宝塚の曲がよいと思っているくらいなのです。
JPOPも韓流も別に詳しくない私は、ずっとミュージカルソングとヅカソングでいいと思っているくらい。過激派だな。
というかヅカファンの皆さんはいつ宝塚以外の曲を聴いているのだろう。私は通勤も宝塚やミュージカルばかりだからな。
ミュージカルならドイツ語でもいいが、JPOPだと日本語でも全くわからんというていたらく。

話外れるけれども、こういう円形だったり、アリーナ形式だったりする箱で宝塚を折角やるなら、レヴュー2幕ものがいいなと常日頃から思っていて。
イメージとしては『パッションダムール』に近いのですが、ショーの1本物を見てみたいのです。
と、いうのも芝居をする劇団は日本にも世界にもたくさんあるけれども、レヴューを今、魅せられる劇団って少ないと思うのです。
宝塚もショー作家が枯渇しているイメージがあって心配なのですが(若手の先生、頑張れ〜!)、大劇場で公演されている『デリシュー』やみりゆきのお披露目公演の『サンテ』、だいきほサヨナラ公演の『シルクロード』は、2幕ものの潜在能力を勝手に感じています。
ヨシマサは軽率にJPOPを使う傾向があるからあまり信用できないとも思いますが、構成は悪くない。おっさん臭のする部分だけ剥ぎ取れば、『キラル』も可能性あるかな、と。何様だよって感じで申し訳ありません。
だから宝塚やミュージカル以外の曲をタカラジェンヌが楽しそうに歌って踊っていても「まあこの人たちにとっては朝飯前だよね」くらいにしか思えなくて。
実際、2幕の娘役ちゃんたちのNiziUという曲も、おちゃのこさいさい感が漂っていましたよね。超余裕。
なこちゃんセンターの曲がこれしかないのも違和感。もっと歌って踊ってよくないですかね?
いや、踊ってはいたけれども。

こういうコンサートにはつきものなのか、コントも相変わらずいらないなあ。
冷めた気持ちになる。
『NZM』のときはだいもんだからなんでもいい!と言っていた友人も、さすがに今回は「いらないわ……」と言っていた。
「セクハラです!」と注意される演出も、「あ、僕たちこれがイケナイコトってわかっていてあえてやっているんで、そこんとこヨロシク!」みたいな軽いノリが見え隠れするし、歌が上手い琴ちゃんに歌が下手な役をやらせる意味もわからないし、あかない5でグリーンが好きだったというのもゴマスリに見えてしまうし、ちょっといろいろ辛かったわけですよ。
私は本当に芸能界に無知で、せおっちのやっていたローラというのが何なのかも実はよくわかっていない。
女優でモデルのローラではないよね?あとはホストのローランドという人くらいしか浮かばない。
何にせよ元ネタがわからなくて、一生懸命演じてくれているのが逆に申し訳なくなるくらいでした。
とにかくせおっちが勢いよく歌い出してセットもはけたから、ようやくこのしょうもないコントが終わったかと思ったら、最後にまた出てくるじゃないですか。『スカピン』の曲で。
え、なにこれ、琴ちゃんが歌上手くなる旅でもしていたの? 全然そんな感じしなかったけれども。
『THE ENTERTAINER』みたいにタップはうまいけれども雰囲気が読めない少年が妖しい魔女からレッスンの先生を紹介されて、洗練されていく、みたいな物語性は、別に最初からなかったよ、ね……?
私が見逃していただけかな。それなら、その方がよっぽどいいんだけど。
なんせコントが始まった瞬間、脳がわかりやすく集中を切ったものだから……いや、寝てはないけれども。見ていたけれども。でもなんだかね。

2幕は夢の国の曲も多くて、さすがに歌詞を聞けば作品くらいはわかるのですが、『アナ雪』の「ありのままの〜♪」や『美女と野獣』のデュエットソングは今まで何度も歌われてきたから、思い入れのあるジェンヌが歌った過去がある人はそちらに意識をもっていかれてしまうし、なこちゃんは『人魚姫』と『アナ雪』の間で着替えてこないし(2回目)、『アナ雪』は何故か2回歌われるしで、何が何だかもうツッコミが追いつかなくて。
「Let It Be」に罪はありませんが、あの日本語歌詞も違和感あるなと思っていて。
「ありのままの姿見せるのよ」「これでいいの自分を好きになって」というのは、自分が恐れていたもう1人の自分、圧倒的な魔力をもった自分を恐れず、避けず、向かい合って受け入れたエルサだからこそいえる言葉であり、怠けの限りを尽くし、努力しない、気遣いしない人間に向けられた言葉ではない。
そこのところを履き違えている人が多いのではないかと疑念のある私にとって、日本語歌詞のこの曲は恐ろしいほど何も響かない。
タカラジェンヌはもちろん努力の人が多いのはわかっているから、そんなこと言うなよと思う人があるのもわかるけれども、なんだかね……。
『アナ雪2』のラストは秀逸だと思っているくらいなんですよ。
脱げた靴を自分で拾いに行くアナは、誰かが靴を履かせてくれることを期待するシンデレラとは違う。幸せは自分の手で掴む。そういうメッセージを受け取ったから。
そもそもみんなそんなありのままの自分でいたいの?
私、ありのままの自分になんぞなったら他者に気遣いできない暴君になる自信しかないから、ちゃんと理性を保っていたいとさえ思うよ。

とはいえ『レミゼ』のジャベールや『オペラ座の怪人』はさすがだと思ったし、基本的にカラオケに来たというコンセプトもいいとは思っているんだよ。
あーちゃん(綺咲愛里)のミュージックサロンはそういう構成だったものね。
だからあとは中身の問題で、コンテンツの流れかな……ダイスケ先生、頼むよ。
今回星組が3チームに分かれたこともあって、こちらのチームの下級生は驚くほどわからなかったのでプログラムを買っておくべきだったー!とは思いました。素敵な下級生ちゃんたちもありがとう。
なこちゃんは大好きでも、私は星担ではないんだなということ思い知った作品でした。
星担の方が楽しかったなら、それでのいいのです。
コンサート形式の作品は、配信より現場の方がやはり楽しいのだろうなあ。